第六章 記憶喪失
第107話 老狼
あなた、死んだはずじゃ――。
目の前には、目を大きく見開き、口をポカンと開けている女がいた。まるで、死人を見ているかのようなその表情に、俺は眉をひそめる。危険な状況にも関わらず、手も足も止めてしまったその女は、少しだけ口角を上げると、何かを期待するような口調で、俺に話しかけてきた。
「エンジ? エンジなの?」
「……誰だお前?」
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俺は今、賊の討伐のため、ひたすら平原を走っていた。夕焼けで赤く染まった空を見ると、家に帰りたい衝動に駆られてしまうが、今の俺にはそれは出来ない。まず、帰る家がないというのもあるのだが、何とか今日中に、この件を片付けてしまわなくてはいけないのだ。
「こんな追い込まれ方をするなんてな。予想外だ」
そう。最後に、ノート達とあんな別れ方になってしまったせいで、少々戻りづらい。あれだけ余裕を見せておいて、出来ませんでした、と言うのも恥ずかしいのだが、それよりも、ノートがな……。やっぱり泊めて下さい、と言って、あいつがどんな反応をするのか、少し見てみたい気もするが、今回の場合、おそらく俺も無事では済まされない。あの屋敷を縄張りとしている悪いメイドに、敵味方関係なく荒らされるであろう事が、容易に想像出来るからだ。
「本も、借りそびれちゃったな」
せっかくノートが持ってきてくれたというのに、あの場に置いてきてしまった。気になる続きが読めないのは残念だが、仕方ない。その内、あのメイドの弱みを握った上で、また借りに行くとしよう。……まあ、あいつに弱みなんて、なさそうだけどな。
「おーい。エンジー」
平原を越え、岩石地帯が見えてきた辺りで、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「おーい。エンジー! おーい、おーい」
俺が声のする方に顔を向けると、4足歩行の異形の者がこちらへ向かってきていた。声だけを聞くと、俺がよく知っている馬鹿なのだが、あれは一体……。
「おーい! って言ってんだろ! エンジでーす、くらい言えや!」
「何してんの? お前」
その声の通り、やはりそれはフェニクスだったのだが、馬鹿でかい老狼に乗っていた。また、何か変な遊びでも始めたのか? というか、おーいに対して、エンジでーす、はおかしくないか?
「ちょいと、お前に報告をな。どっか行くのか?」
「賊の討伐だ。あ、そうだ。それが終わったら、魔法都市に行く予定だから」
「あぁ! お前だけずるいぞ! 俺様も、新しいメス漁りに行きたいんだが!?」
別に俺は、魔法都市がどうなったのか、様子を見に行きたかっただけで、女漁りをしに行く訳ではないのだが……。
「お前も来ればいいじゃん。あれ? ベルちゃんとはどうなったんだ?」
「ああ……そうなんだよ。ちょっと聞いてくれや」
フェニクスは眉を垂れ下げると、とうとうと語り出した。
お前、魔族だろ? 俺様がそう言うと、先程まではへらへらとしていた男の顔つきが変わった。眉を寄せ、何かを考えるような素振りを見せると、口元だけを歪め、またニヤリと笑った。
「よく分かったじゃん。やっぱ魔物だと、そういうのも分かんのか?」
「何となくな。なんたって、俺様だし」
「へ~。ま、魔物は普通喋れねえし、バレてもいいんだがよ。何か、聞きたい事でもあんのか?」
「いや? ただ、魔族には嫌な思い出があってよ。何をするか、聞いておきたかっただけだ。俺様の魔法の餌食になる前に、全部話せや」
「魔法も使えんのかよ……色々とすげえな、この鳥。んまぁ、魔物にだったらいいか。俺は、ある組織の幹部の一人さ。ある人間に興味があって、ここまで来たんだ」
「はぁん? そいつの名前は?」
「多分実名じゃねえが、好き好き大好き何とかって奴だ。お前、心当たりあるか?」
それってよぉ。俺様は直接見ていないが、闘技大会でエンジが使ってた名前じゃなかったか? 前に、そんな話を聞いた気がする。
「さぁ? だが、そいつを探して、どうするつもりだ?」
「殺すんだよ。部下がそいつ相手にへまやらかしたみたいでさ? 俺は、舐められっぱなしじゃ我慢出来ないたちでね」
「はぁん」
なるほどなぁ。分かりやすくて助かる。それにしても、またあいつは変な事に巻き込まれているようだな。知らない奴なら放っておいただろうが、エンジを狙っているのなら、ベルも巻き込まれちまうかもしれないな……。
「心当たりがあるみたいだな? 焼き鳥にされる前に、言っといた方が身のためだぜ?」
「フェニクス君! 早く逃げよーよ! フェニクス君!」
「ベル、ちょっと離れとけ」
「フェニクス君!? 駄目だって! この人、凄い怖いよ! フェニクス君!」
ベルが必死に逃げようと叫ぶが、こいつをこのまま放っとくのもな。いやでも、ここは一旦引いて、エンジに知らせる方がいいか?
「フェニクス君!」
「ピー、ピー、ピー、ピーと煩えなぁ! お前から、殺してやるよ!」
「ピィ!」
男は魔族の力を開放し、その鋭利な爪でベルを引き裂こうとした。
「待てや、コラァ!」
俺様はベルと男の間に入り、鍛え抜かれた素晴らしき足で男の爪を弾いた。……俺様の女に手を出したな? もう許さねえぞ。
「まじかよ……こんな鳥に弾かれちまった」
「てめえは、一番やっちゃいけない事をしたんだ。俺様が直々に相手してやろう」
「どこまでも偉そうな鳥だ。お望み通り、殺してやるよ!」
……。
「はぁ、はぁ」
「ぬぅ。俺様が、これほど手こずるとはなぁ」
「それはこっちのセリフだっての……何でこんな魔物一匹に、俺が」
戦いは、壮絶を極めていた。だが、不愉快ではあるが、やや俺様が押されてしまっている。このままでは、ベルが。……エンジの事は別にどうでもいい。あいつだったら、放っといてもこんな奴倒せるだろ。どうする? ちと、まずいか?
「あんれ~? フェニクスさんじゃないすか! こんな所でどうしたんすか?」
「ん~? 本当だ。戦ってるんすか? フェニクスさんが手こずるなんて珍しっすね」
「な、何だこの魔物共は……」
いつの間にか、魔物の群れが俺様達を囲んでいた。今、見えているだけでも、百匹はいる。何してんだこいつら?
「フェニクス君……」
「大丈夫だ、ベル。悪そうな魔物は、大体友達。いや、手下だ。お前ら! そんな集まって何してんだ?」
「自分らは、これから取られた住処を取り返しに行くとこでしてね。ほら? 前に野蛮な人間がいっぱい来て、取られちまったじゃないすか?」
「あ、そうだ! フェニクスさんも手伝って頂けやせんか? フェニクスさんがいりゃあ、勝ちはもらったようなもんでしょ?」
はぁん。それは確か、エンジが探してる賊か。それなら。
「お前ら。あの人間共は、俺様の連れがそろそろやっちまうって言ってたから大丈夫だ。それより、ちょっとこっちを手伝ってくれ」
「フェニクスさんがすでに手打ってたんすか! パネエっす!」
「さすがはフェニクスさんだぁ。俺ら一生ついていきますよ」
「もちろん、いいっすよ? そこの小僧をやっちまうんですね? フェニクスさんが手こずる相手だと、俺らじゃ力になれねえかもしれやせんが」
「あ! そうだ。今日は先生にも来て頂いてるんス。先生ー! お願いします」
魔物の群れを掻き分けるように現れたのは、5mは超えるであろう老狼だった。
「ほう……主が、最近巷で話題になっておる、魔物の王フェニクスじゃな? ふむ、ふむ。なるほどのぉ。主、魔法を使う事が出来、人語を話せるというのは本当かのぅ?」
「ああ、爺さん。バッチリだぜ?」
俺様がそう言うと、老狼は何かを見定めるように、しばらくこちらを睨み、ニヤリと笑った。
「よかろう、気に入った。こんな男に苦戦するようじゃ、まだまだじゃと言いたいが、今はワシが手を貸してやろう」
「偉そうな爺さんだな。だが、ベルのためだ。頼む」
「フェニクス君……!」
俺様達が会話を終え、男を睨むと、唖然と状況を見守っていた男が後ずさりを始めていた。
「あれ? ガウガウ、グルグルと、何言ってるか分かんねーけど、ちょっと嫌な雰囲気じゃん。というか、そこの狼……でかすぎない?」
おそらく、ただ大きいだけではない。こいつは、もしかしたら今の俺様より……。
「あー! もういいよ! 全部まとめて魔法で吹き飛ばしてやるからさぁ! 死ねや……あ?」
「遅いのぉ。魔族の小僧」
男が何かの魔法を撃つ前に、老狼が男の腕を食いちぎっていた。
「あ、あああああぁあぁぁぁぁ! 俺の腕がぁぁ!」
老狼が腕を吐き出すと、魔物の群れがそれに食いついていた。この数じゃ、一瞬で骨だな。
「小童、後は主がやれい」
俺様は一つ頷くと、男を睨む。
「ちょ、ちょっと待て! 分かった、分かったから! 帰るから! だから許してくれ!」
「は! 傷が治ったら、どうせ後で出てくるのがお前らだ。ここでくたばれやぁ」
「や、やめ……!」
こうして、俺様はどこだかの魔族の幹部を撃破した。まあ、ここまでは良かった。ここまでは良かったのだが、事件はこの後起きた。
「フェニクス君! スキー!」
「おう、ベル。見てたか? 俺様の勇姿」
「うん! 格好良かった! ……それでね、あの、今夜、フェニクス君と、卵作りしたいなぁ~って」
「ベル、ありが……」
「フェニちゃ~ん!」
ん? あれは、まさか……!
「メ、メメ、メアリー!?」
「フェニちゃ~ん! 格好良かったよ~! ……ん? そこにいるのは、誰!」
飛んできたのは、魔法都市界隈のアイドル、メアリーだった。戦闘中は遠くで見ていたようだが、終わったのを感じ取り、飛んできたようだ。
「ちょっと! あなた、フェニちゃんとどういう関係よ!」
「私は、フェニクス君の妻です! あ、あなたこそ、どこの誰よ!」
「あわわわ!」
その後も、俺様が介入することの出来ない言い争いは続き、遂に、俺様に矛先が向けられてしまった。
「フェニちゃん!? 説明してよね!」
「フェニクス君、私を一番にしてくれるのなら、少しくらいなら許してあげるよ? 卵を産むのは、私だけだけど」
「はあ? あなた何言ってるの!? そんなの駄目に決まっているじゃない! フェニちゃん!」
「お、お前達二人が、俺様のツバ……」
「フェニちゃん!」
「フェニクス君!」
「あ、あああ……」
俺様が全てを諦めようとしたその時、老狼の大きな唸り声がした。
「落ち着け、小娘共。悪いが、小童はしばらくワシが預かる」
「何言ってんの! ジジイ!」
「そんな! 私とフェニクス君を引き離さないで!」
ツンツン、ツンツンと老狼はクチバシでつつかれていた。
「イテ、イテ。なーに。そこまで長い時間ではない。浮気性の小童は、すぐに返すわい」
「フェニクス君は私の事が大好きなの! 浮気なんかじゃない!」
「違う! フェニちゃんが好きなのは私よ!」
俺様は、この混乱を鎮めるため、いや、世界の平和のために決断した。
「メアリー、ベル。少し話を聞いてくれ。俺様は、今回痛感したんだ。今の俺様では、お前達を守ることが出来ない。答えを出すのは、もう暫く待っていてくれないか?」
「フェニちゃん……」
「フェニクス君……」
「俺様は、この爺さんについていくことにする。……それでは、達者でな」
こうして俺様は、この場から逃げるため……じゃなかった、世界平和のため、老狼についていくことを決めたのだった。
「と、いう事があったんだが!?」
「へぇ。そうなんだ?」
最後、強引すぎるだろ……。他にも、突っ込みたい点はたくさんあるが、面倒だからもういいや。俺がノートを助けに行っていた間に、こいつも色々とやっていたようだ。というか、その魔族が俺の事を探していたっていうのも気にはなるけど、魔族の幹部倒しちゃったの? こいつ。どこの派閥の幹部だか知らないが、勇者でもまだ出来てない事なんじゃないか?
「反応薄!」
俺にツッコミを入れたフェニクスは、老狼から一度落っこちた後、バタバタと足と翼を使って登っていた。いや、飛べよ。
「そんな訳でよぉ! 俺様、後で行くから! 先に行って、可愛いメス鳥でも、見繕っといてくれなぁ」
「へーいへい」
可愛いかどうかは俺には全く判別がつかないし、見繕う気もさらさらない。それに、さっそく浮気しようとしてるな、こいつ。もう駄目だわ。
「俺様からはそれだけだ。まあ、またお前の匂いでも追ってもらうからよ。んじゃなぁ~。ハイヤ!」
言うだけ言って、フェニクスは老狼に乗って、どこかに去っていった。いや、飛べよお前。
しかしこの後、俺とフェニクスは魔法都市に行くことは出来なかった。
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