第102話 公爵令嬢の日記18
俺はエリエルを探して屋敷の中を歩いていた。気を失ってしまったノートも心配だったのだが、医者が言うには、心労がたたったのだろう、との事で、変な病気ではないようだった。ひとまず、それを聞いて安心した俺は、ノートの事はシルに任せ、部屋を出た。
「あ、エンジさん……」
エリエルは庭のベンチに座っていた。いくつか設置してある内の、木の下で木陰になっているベンチだ。俺が、前を見てぼーっとしているエリエルに近づくと、エリエルは俺の顔を見て、一瞬だけ嬉しそうな表情を見せたかと思うと、また前を向いた。
「何だ。落ち込んでんのか? お前らしくない」
「いえ、そんな事は。なぜ、そう思ったのかしら?」
「何となく、かな」
「主人の心情を読み取れないなんて、護衛としてはまだまだね。お前らしくないっていうのも、失礼だし」
「まだ日が浅いもんでな。俺がその気になれば、お前がその日履きたいパンツの色も分かるようになると思うぞ」
「ふふ。何それ。……それは、これからも私の護衛を続けてくれるって事なのかしら?」
「どうだろうな」
「もう……あまり、期待させるのはよくないと思うけど?」
「期待が最高に高まった所で裏切るのが、俺は好きなんだ」
「悪い男」
そう言うと、エリエルは少しだけ相好を崩し、笑った。俺達の間をさらさらと風が流れ、エリエルの前髪を揺らす。
「私、少し強引だったのかしらね」
それは、自分に言っているのか。俺に聞いているのか。エリエルの心の中までは分からないが、今ここにいるのは俺だけだ。俺は自分が思う事だけを言う事にした。
「そんな事はないと思うぞ? 俺からすれば、お前はいつも通りだった。どちらかと言えば、ノートの様子がおかしかったが、それも熱があったせいだろ。お前が出て行った後、凄く後悔してたようだし、さっきの事は許してやってくれないか?」
エリエルは俺の言葉を聞いて、悲し気な表情を見せる。口角は上がってはいるが、どこか悲しい、そんな表情だ。
「私は、自分が間違った事をやったとは思っていないわ。後悔もしていないし、言葉も取り消す気はない。でも……」
「でも?」
「……ううん。何でもないわ。エンジさん? ノートさんが起きたら伝えてくださる? 私は何も気にしていないって」
「ああ。それは分かったが」
「私は、もう少しの間、ここでこうしています。エンジさんは、ノートさんの様子を見に行ってあげてください」
「……分かった」
俺がエリエルとの話を終え、立ち去ろうとした時、小さくだが、エリエルが何かを呟いた気がした。それは風に消え、俺の耳には届かなかったが、エリエルが啜り泣くような声が聞こえた気がして、俺は振り返らずに屋敷へと歩いて行った。
「……独占欲が強かったのは、私の方だったのかしら」
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次の日、私は憂鬱な気分で目を覚ましました。熱は下がっているみたいだけど、頭が重い。あの後、目を覚ました私に、エリエル様は何も気にしていない、とエンジから聞いて、少しは気持ちが楽になったのだけど、そんなに簡単に割り切れるものではない。それは多分、エリエル様も。
朝食を終え、学園に向かうために同じ馬車に乗ったのですが、私達の間に会話はありませんでした。今日の朝も、エリエル様は笑顔で挨拶してくれたのですが、私は、どこかぎこちない挨拶を返してしまいました。エリエル様は、なかった事のように接してくれているのに、私ときたら。本当に情けない。
「アル、お前ってどんな女の子が好みなんだ?」
「僕ですか? 僕は、エンジさんかなぁ」
「え? ちょっとお前、それは……」
「ち、違いますよ!? 性格がって事です!」
「ああ、そういう事なら安心した。お前との付き合い方を考え直す所だったわ」
ただ、エンジだけはいつも通りで、馬車の中でも煩く騒いでいました。私とエリエル様の事を気遣って、そうしているのかは定かではありませんが、エンジがアルを弄って遊んでいるのを、私はどこか夢心地で聞いていました。
「ノート様、熱下がったんですね!」
「心配しました~。本当に良かったです」
「ごめんなさい、心配かけたわね。二人共、ありがとう」
友人と話している間だけは、少しは忘れられるものの、それ以外の間は、ずっと私の心に重いものがのしかかり、心を締め付けてきます。今日に限っては、授業なんて聞いてはいられませんでした。
気付くと授業は全て終わり、皆帰り支度を始めています。私もアルを引き連れ、学園を出たのですが、門の近くにエリエル様とリンク、そして、エンジがいるのを見つけました。距離があったので、会話までは聞き取れないのですが、楽しそうにお話しているのだけは分かります。私が、ただ黙ってその光景を見ていると、エリエル様がエンジの腕に掴まり、街の方へ歩いて行かれました。きっと、今日も寄り道をされるのでしょう。
「何をやっているの? アル?」
「ああ……姉ちゃんに怒られる」
私の周囲をぐるぐると回ったり、突然踊ったりしていたアルが、今はなぜか落ち込んでいました。私の熱が、移ってしまったのかしら……。そんなおかしなアルと一緒に、私は歩き始めました。エリエル様やエンジが行った方向とは、逆の方向へ。
歩き出した私の頭の中は、先程見たエンジ達の事で一杯になっていました。
「そっか。今日帰ったら、もうエンジは……」
私は朝のお父様とエンジの会話を思い出します。
「旦那様、お世話になりました」
「今日は……そうか。こちらこそ、随分と助けて貰ったね。ありがとう。私としては、一週間と言わず、ここで働いてくれると嬉しいのだが」
「ん? ああ、あの件については心配するな。フェニクスの話と、ここ最近の調査で目星はついた。今夜にでも、仕掛けようと思ってる」
「おお! それはありがたい。では、お願いするよ。ま、私が君を引き止めたい理由は、それだけではないのだけどね」
お父様が私の方を見た気がしましたが、私はこの時、顔を上げる事が出来ず、俯いて朝食を食べていました。あの件、というのも気にはなりましたけど、どちらにせよ、今日からエンジはいなくなる。私には、関係のない話。
関係ない、か……。
「お嬢様? どうされたのですか! お嬢様!?」
「……あれ?」
驚いたアルの顔を見て、気付きます。いつの間にか、私の頬には涙が伝っていました。ボロボロと流すでもなく、ただ一滴の涙が流れ落ちました。私はそれを拭い、アルに笑顔を向けます。
「ごめんなさい。大丈夫だから」
「お嬢様……」
あーあ。今更、こんな事に気付くなんて。私、何やってたんだろう……。いなくなってから気付きました。エリエル様の護衛になろうとも、屋敷に住んでいる間はまだ良かった。一週間が終わった後は、どうなるかなんて分からなかったけど、それでも、今はここにいるという安心感のようなものがあった。でも、今日からは。
「アル? 私達も、どこか寄って帰ろうか?」
「お嬢様。申し訳ございません。それは駄目です。……今は、まだ。僕がエンジさんのように自信を持てるような強さを身につければ。いえ、それも違いますね。お嬢様は、エンジさんと……」
「もう、アル? そんなに思い詰めないで。あなたは、十分に働いてくれているのだから……っと、ごめんなさい。私、おトレイに行きたくなっちゃったから、学園の方に戻るわね。馬車には先に乗ってていいから」
「はい。あ、でも……」
「学園の門から馬車を待たせている所なんてすぐじゃない。大丈夫よ。最近は、ずっと平和だったし、あの男なんてしょっちゅういなかったわよ?」
「そうですか。じゃあ僕は、馬車の近くで待ってますね」
「うん」
私がアルから離れて、一人歩き出すと、また少し、目に涙が溜まり始めました。
「今日の朝、熱が出てれば良かったのになぁ」
私が熱を出していた時は、エンジは構ってくれたし、普段よりも優しかった気がします。それにもしかしたら、今日はどこにも行かないでいてくれたかもしれない。もう終わってしまった事だというのに、そんな弱い心が出てくるのを止められません。
それでも、何とか自分に言い聞かせます。そうよ、別にエンジが死んでしまった訳でもない。会おうと思えば会える。……今は、それでいいじゃない。
「あいつだ、間違いない」
「学園から、もう少し離れた所の方がよくないか?」
「いや、護衛も近くにはいないようだし、見られたとしても、追いつかれなければそれでいい。こんな機会はもうない。行くぞ」
私が頭の整理をしながら、学園の門近くまで来た時。男の人の声が聞こえてきました。俯いていた私が、顔を上げると、一瞬で逃げ場をなくすように取り囲まれていました。
「え? 誰か……アっ」
アルを呼ぼうとした私の口を押さえられ、何かの魔法をかけられると、急に眠くなったように、意識が遠ざかっていきます。薄れ行く意識の中、私は一人の男の顔を思い浮かべていました。
エンジ……。
私は、攫われてしまったのです。
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