第100話 公爵令嬢の日記16
夕食を取り終え、俺は自室に篭り、本を読んでいた。今読んでいるのは、ノートの部屋から盗んで……借りてきた、魔法技術について書かれた本の第二巻だ。子供向けに書かれた本のようだが、これが意外に面白い。同じような背表紙の本が三冊並んでいたはずなので、後でもう一冊の本も盗みに……借りに行こうと、俺は心に決める。
「休日なんか、関係ないよなぁ」
俺は暗くなった窓の外を見て、一人呟く。
「行くか」
立ち上がり、読み終えた本をベッドに投げる。俺が部屋を出ると、廊下にはシルがいた。
「エンジ殿、どこかに行かれるのですか?」
「ああ。いつもの、夜の散歩だ」
「そうですか。では、いつもの時間くらいに、お風呂は沸かせておきますので。お気をつけて」
「サンキュ」
俺は、玄関まで見送りにきたシルに手を振ると、屋敷の外に出る。じめっとした風が頬を撫でるが、空は雲一つない快晴。星空が眼前一杯に広がっていた。
「いい夜だな」
俺は深呼吸を一つすると、歩きだす。
「ちょっとばかし、煩い虫さえいなければ」
俺が屋敷に帰ってくると、庭に置いてあるベンチに誰かが座っていた。
「こんな所で、何やってんだ? 風邪引くぞ?」
ベンチには、エリエルが座っていた。上品に足を閉じ、閉じた膝の上に両手を重ねているその姿は、まるで良い所のお嬢さんだ。まるで、というか王女なんだが。そのエリエルは、俺に気付くと、少し微笑んだ後、隣に座るよう促してきた。
「毎晩、ご苦労様。あなたを、待ってたんですの」
毎晩、ね。こいつは、やっぱり知ってるんだろうな。俺が探るような目で見ていると、エリエルはその俺の顔を見て、不敵な笑みを見せる。
「ええ、知っていますとも。確証を得られたのは、ついさっきの事ですけどね」
「ああ、あれはリンクだったのか」
俺がそう言うと、エリエルが頷いた。一人、腕の立つ奴が混ざってるとは思ったが、あれはリンクだったのか。何も仕掛けてくる様子がなかったので放っておいたのだが、そういう事なら安心か。
「待ってたってのは何だ? その事を、直接確かめたかったのか?」
「それもありますが、あなたに聞いておきたい事があって」
聞いておきたいこと、か。それなら丁度いい。俺も前々から気になっていた事がある。ついでに聞かせてもらおう。
「俺も、お前に聞きたい事がある」
「あら? 何かしら?」
「お前から言えよ。俺は後でいい」
「いえいえ。私のお話は、長くなるかもしれませんので、どうぞお先に」
ま、譲り合っていても仕方ない。
「んじゃ聞くが、お前が俺を護衛にしようと思ったのは何でだ? 確かに俺は、イケメンだし、頭もいい。上品な振る舞いは隠しきれないし、気もきいてる。それから……」
「ふふっ」
俺が自分の長所を挙げていると、エリエルが手で口を隠して笑っていた。何だ? 文句でもあんのかよ?
「ふふ、ごめんなさい。続けて?」
「いや、もういい。これ以上は俺の心が砕けそうだ。で? どうなんだ?」
エリエルは、また少しの間笑い、俺を横目で見た後、前を向く。
「これは、私が聞いておきたかった事にも、関係する話なのだけど」
そして、そう前置きを一つ挟むと、とうとうと語りだした。
「始めは、お姉様への対抗心だった。美人で、頭も良くて、行動力もあって、さらには、胸の大きなお姉様。エンジさんは、ご存知ですよね?」
美人で行動力もあるというのは俺も認めるが、頭の方はどうなのだろう? 俺にとっては、下着をくれる変な女って印象なんだが……。胸はお前も大きいぞ、という言葉は飲み込み、俺は何も知らないぞ? と、首を傾げる。
「ふふ。とぼけても無駄。私も見てましたのよ? 愛の大魔術師さん?」
くそ。俺の消してしまいたい思い出の一つが、こんな所で出てくるとは。そりゃそうだよな。妹なら、あの場にいてもおかしくない。俺がその言葉を聞き、項垂れていると、エリエルが続きを語り始める。
「そんなお姉様がある日、気になる男性がいる、と私に言いました。今までは、どんなに格好良い男性の方が、愛の言葉を囁いても、歯牙にもかけなかったお姉様です。そのお姉様が、気になる男性がいる、というのです。私は驚くと同時に、その男性に興味が湧きました。それがエンジさん、あなた」
「今の話を読み解くと、俺が格好良くないって言ってるように聞こえるが? まあ、それはいいとして、気になるって、多分それ別の意味だぞ? 怒ってなかったか? あいつ?」
エリエルが顎に指を当て、上を向くと、そういえばそうだったわね、と言った。その後、何かを思い出したのか、一度笑った後、口を開いた。
「殺してやる、とも言ってましたわね。最初は」
「だろうな」
……最初?
「これ以上は、私の口からは言えないわね。でも、一つだけ言うなら、お姉様、朝は随分と下着選びに悩んでおられましたわよ」
ああ、それは、うん。正直悪かったとは思っている。
「……私はね、お姉様の事は嫌いじゃない。尊敬もしているし、姉として愛してもいます。でも、私はお姉様の陰から出たかった。いつまでも、日陰にいるのは嫌だった。そんな理由もあって、この学園に来たのだけど」
「そこには、俺がいた、と」
「ええ。見つけたのは本当に偶然。でも、チャンスだと思ったわ。お姉様が気にしている男を、どんな形であれ、私の手に入れる事で、お姉様に勝った気になっていたの」
「そういう事か。で? どうするんだ? お前の目的は達した訳だし、後は姉の前で俺を捨てでもするか?」
俺がそう言うと、エリエルは俯いた。
「最初は、そうしようと思ってたのだけどね。でも……」
「でも?」
そこでエリエルは一度俺の方を向き、目線を合わせてきた。
「その質問に答える前に、聞いておきたいのだけど。エンジさんは、私の事、どう思ってます? あと、ノートさんの事も」
「特には何も。あえて言うなら、胸の大きな性悪と、胸の小さな怒りん坊だな」
「ふふ。ノートさんが聞いたら怒りますわよ? でも、そっか……それなら、私にもまだ」
俺が頭に疑問符を浮かべていると、エリエルが言った。
「エンジさん? あなたを私の護衛として、本格的に雇いたくなりました。もちろん、お姉様の前で捨てる、といったこともしません。どうでしょうか?」
「突然どうしたんだ?」
「楽しかった……というのが、一番かしら。お姉さまへの対抗心がなくなった訳ではありませんが、それよりも、私はこの数日間、あなたと話して、あなたに振り回されて、楽しかったのです。これからも、あなたには私の側にいて欲しい。今はそう思っています」
それは出来ない、というのが本音ではあるのだが、真剣な顔をするエリエルに、俺は少し考える。特に何かをやらなければ、という目的もない俺だ。アンチェインの仕事も、こいつの護衛をしながらでも出来ない事はない。その他にも、様々な事を考えていた俺の頬に、柔らかくて暖かい、湿った何かがそっと触れた。
「お前……」
「これは、私の気持ち。考えて下さっているという事は、少しは期待しても良いのでしょう? 急かしたくはなかったのですが、数日後には、私の護衛予定の者が送られてきます。どうか、それまでに答えを頂けませんか?」
「分かった」
「ふふ。楽しみに待っていますね。では、私はそろそろ、部屋に戻りますので」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
エリエルが屋敷に戻っていく。顔を隠すように、そそくさと帰って行ったエリエルの頬には、ほんのりと赤みが差していた。
「……」
俺はエリエルの後ろ姿を見送り、しばらく、ベンチにぼーっと座っていた。そのままの状態で、数分が立った頃。ふと、屋敷を見上げると、ノートの部屋の窓が開いているのが見えた。
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夜になり、また熱が出てきたので眠っていたのですが、真夜中に、私は一度目を覚ましました。
「綺麗な月」
起き上がる気にはなれず、横になったまま窓の外を見ると、そこには真ん丸の月と、星空が広がっていました。窓枠から見えるその景色は、まるで一つの絵のようです。
まるで詩人ね、と心の中で笑いながら、私がずっとその絵を見ていると、その絵の中に、突如として黒い影が飛び込んできました。私は、一度体をビクリとさせましたが、その黒い陰の正体が分かると、じんわりとした安心感が体を包み込みました。
「エンジ」
「お、起きてたか。体調はどうだ?」
どこからやってくるのよ、あなたは。私は文句を言いそうになりましたが、今はそんな事よりも、別の事が頭をぐるぐるとしていました。
「平気。ねえ、エンジ? 少し、私とお話しよっか?」
「俺は、窓が開いてたから気になっただけなんだが……」
仕方ねえな、と言いながらも、エンジは窓の縁に腰掛け私の方を見てきます。月の光に照らされ、青白く光るエンジが幻想的なものに見えます。これは、夢? 私はまだ夢を見ているのでしょうか。
「そういえば、お前の友人だがな……」
エンジが私に語りかけてきます。いつものように、いつもの口調で。私はそれを黙って聞いていました。時折、相槌を挟むものの、熱に浮かされた私の頭では、特に気の利いたことも言えません。お話しよう、と言ったのは私なのですが、私からは何も言えません。それでも、エンジは察してくれたのか、私に気を使い、物語のように話を聞かせてくれました。
「怪しげな小物店あっただろ? 前に、お前も何か買ってた。あそこの店主な……」
何だか、体がおかしいです。熱があるのは分かっていますが、それとはまた違います。苦しいと言うよりは、心地いいのです。ただベッドに横になっているだけなのに、体中がそわそわと震えます。
手を握りしめ、ぎゅっと体に力を入れてみますが、震えは止まりません。言葉では言い難いのですが、心が浮きます。
「どうだ? 笑えるだろ?」
「うん」
あれ? 今の面白くなかったか? と首を傾げるエンジの顔を見て、私はそんなことないよ、と言いたかったのですが、ふわふわと浮いたような体では、舌がもつれ、口に出す事が出来ませんでした。
「エンジ」
「ん?」
私は縁に置かれていた、エンジの手を握ります。そして、確信しました。ああ、やっぱりこの手だったんだ。エンジは、私が眠っている間、ずっと手を握ってくれてたのかな? そうだとすると、嬉しいのだけど。
「頭、撫でて?」
「あん? 何か今日のお前、変だな? 熱のせいか?」
私だって、もう何を言っているのか分からない。でも、なぜかそう、口に出してしまった。今からでも取り消そうとも思うのですが、その言葉よりも先に、エンジの手が伸びてきました。
「これでいいのか?」
「うん」
「実は甘えん坊だったのか? お前」
「そうかも」
「……はあ。明日になって怒るなよ?」
「多分、大丈夫」
「多分て……まあいいか。怒られるのも、仕事のうちだな」
「うん」
これは夢。夢なんだから、これくらいの事はいいよね? 私は、諌めようとする自分を強引に納得させ、今はただ、この不思議な気持ちに浸る事にしました。
「エンジ」
「何だ?」
「ありがとう」
どういたしまして、とエンジは笑いかけてくれました。私はその顔を最後に見つめ、また眠りにつきました。頭から手が離れる瞬間に、ほんの微かにただよってきた香りは、どこかで嗅いだことのある、香りのような気がしました。
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