第99話 公爵令嬢の日記15
「突然、押しかけて悪かったな。今日は助かったよ」
「いえいえ。私達こそ、ノート様の事を教えてくださり、ありがとうございました」
「うんうん。ノート様の事、よろしくお願いしますね」
「ああ、サンキュ」
ノートの友人を家の近くまで送り届けた後、俺は屋敷へと帰ってきた。時刻は夕方。昼と夜の移り変わる時間帯。太陽は沈み始め、空は真っ赤に染まっていた。よく、逢魔が時、なんていう呼び方をする事があるが、屋敷に帰った俺が見たのは、顔を真っ赤にした化物、いや、尻を腫らしたアルだった。洗濯物はすでに取り込まれ、今はただ、アルだけが干されていた。俺はそれを横目に見つつ、玄関を開けると、そこにはシルが立っていた。
「おかえりなさいませ。エンジ殿」
「ただいま。なあシル、何があったか知らないが、そろそろ許してやったらどうだ?」
何の事でしょう? と、シルは一度首を傾げ、俺がアルのいる方へ目線で誘導してやると、その事でしたか! と、手を一つ叩いた。おいおい。
「そうですねぇ。エンジ殿がそう言うのであれば、暗くなる前には回収しておきますね」
「そんな、洗濯物みたいに……まあ、お前ら姉弟がそれでいいなら、俺は何も言わないが」
「はい。アルはあれでいいのです。それよりエンジ殿、本日はお嬢様のご友人をお呼び頂き、ありがとうございました」
「暇だったからな」
「またそんな、ご謙遜を。お嬢様、とっても嬉しそうでした」
「そっか、それなら良かった」
「はい! 私の案に勝るとも劣らない、素敵な案でした!」
いや、お前の案と同列に語るのはやめて欲しい。お前の案は素敵でも何でもない、ただの鬼畜だ。ま、ただの思いつきだったので、俺も偉そうには言えないが、それでも、お前の案とは違うカテゴリーに入れて欲しい。
「エンジ殿も、様子を見に行ってあげてくださいね」
「そんなワイワイ押しかけていいのかよ? 怪我とかじゃなく、風邪なんだろ?」
「エンジ殿なら構いません。そんな事はない、と言い切れますが、もし仮に、エンジ殿がお嬢様に失礼だと思われたとしても、エンジ殿の印象は変わりませんから」
「実はお前も、結構失礼だよな。よく言われない?」
「いえ? そんな事、今まで一度も言われた事はありません。私の初、をエンジ殿が奪ってしまった事になりますね。ささ、エンジ殿、夕食までにはまだお時間がございます。一発決めてきてください」
「……」
多分、お前が笑顔で脅すから、皆怖くて何も言えないだけだと思う。あと、一発決めるって何だよ。大丈夫かこいつ……。やっぱり変なメイドだな、と思いつつも、俺はノートの部屋に向かう事にした。
「ノート、俺だ。入るぞ?」
俺は一声かけ、ノートの部屋に入る。シルに一発決めろ、と言われていたのを思い出し、入室してすぐに、俺はイケメンスマイルを決める。普段も決まってはいるのだが、これはまた特別。当社比ニ倍のイケメン具合だ。以前、これをノートに見せた時は、なぜか気持ち悪そうな顔をしていたが。
「何だ、寝てたのか」
俺はドアの前に立ち、とびっきりの笑顔を振りまいていたのだが、残念ながらノートは眠っていた。一人で阿呆みたいな事をしていた俺は、一度首を振ると、ベッド横に置いてある椅子に座った。
「ずっと寝てんな、こいつ」
汗で額にへばり付いた髪を解いてやり、布団のずれを直す。朝見た時に比べれば、随分とよくはなっているようだが。
「戻るか」
俺が立ち上がり、後ろを向いた瞬間。手首をノートに掴まれた。
「何だ、起きてたのかよ。歩くワクチン、エンジ君が来てやったぞ」
ノートの反応はない。どうやらまだ眠っているようだ。俺がノートの顔を見ていると、少しうなされている事が分かった。
「エン……エン……」
エン? 俺はノートのつぶやきに合わせ、思いついた事を言ってみる。
「ミン……ミン……」
「エン……エン……」
「ミン……ミン……」
「エン……ミン……?」
「ミン……ミン……」
「ミン……ミン……」
ノートは蝉になった。俺は満足し一つ頷くと、ノートの手を放す。が、すぐにまた手を握りしめられてしまった。
「……はあ」
俺は仕方なく椅子に座り直し、片手で本を読み始める。俺が手を握ってやると、ノートは少し安らかな顔をしたように見えた。
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暖かい。私は夢の中で、お父様と手を繋いでいました。あれはそう、私がまだ小さかった時、今と同じように高熱でうなされた事がありました。そんな時、ベッドで苦しむ私の手をお父様がずっと握っていて下さったのです。その横には、今はお亡くなりになったお母様がいて……。苦しいのだけど、幸せな記憶。
でも、そんな幸せな夢も、終わりを迎えます。お母様の姿が見えなくなり、お父様も少しずつ消えていきます。握っていた手の暖かみも消えていき、私は何とかその手を掴もうとしますが、触れることが出来ません。必死に手を伸ばすのですが景色はどんどん暗くなっていきます。
徐々に徐々に薄れていく世界の中で、光が見えました。私はその光に向かって歩いていき、手を伸ばします。そして、ようやくその光に手が届いた時、世界に色がつきました。気付くと、私の前には人がいて、私はその人の手を握りしめていました。ふわふわと浮くような、とても心地の良い気分です。お父様との暖かさに似た、それでも少し違う暖かさ。私がその何とも言えない安心感を感じた瞬間、夢から覚めました。
「……エン、ジ?」
目を覚ました私は、部屋の中をキョロキョロと見渡します。誰もいません。
「今、何時なんだろう?」
窓の外は真っ暗で、静けさに満ちています。聞こえてくるのは、虫の声だけ。私が窓を少しだけ開けると、柔らかな風が部屋に入り、熱っぽい私の体を撫でていきます。
「気持ちいい……」
ふと、ベッドの側にある椅子の上を見ると、そこには一冊の本が置いてありました。小さい時に買ったはいいが、すでに興味をなくしてしまった魔法技術が書かれた本です。
「誰か、来てたのかしら?」
お父様やシル、私の部屋に入ってきそうな人で、このような本を読む人はいません。私はその本を見つめながら、自然と手を撫でていました。撫でている方の手とは違い、少しぎこちない感触のする、誰かの暖かさが残る手を。
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