第96話 公爵令嬢の日記12
エリエルが屋敷に来た次の日、目を覚まし、いつもの執事服に着替えていると部屋の外から声が聞こえてきた。
「誰だ、朝から騒々しい」
「エンジ殿、おはようございます」
「あら、エンジさん。おはようございます」
扉を開け廊下に出ると、そこにはエリエルとシルが。
こいつら、こんな所で何を。見間違いでなければ、睨み合っていたような……。
「すみません、エンジ殿。エンジ殿のお部屋の前で、大きめのゴミを見つけたものですから。少しお掃除を」
「ふうん。ゴミ、ねぇ? 朝早くから仕事熱心だこと。昨日から私の周りを飛んでいる五月蝿い虫も、一緒に駆除してくださらないかしら?」
「残念ですがエリエル様、その虫はこの屋敷で飼っているペットの事だと思われます。駆除するなど、私にはとても」
「あら、そうでしたの。ではなぜ、昨日来たばかりの私にばかり懐いているのかしら?」
「さあ? 嫌い、だからじゃないでしょうか? あの子は天邪鬼ですから」
「――あ、うん。そういう事なら……シル、掃除ありがとう。エリエルも、また後でな」
俺はそれだけを言うと、二人を廊下に残し扉を閉める。
理由は分からないが、二人が放つ異常な雰囲気に、これ以上この場にいてはいけないと感じたのだ。
扉に背を向け歩き出そうとすると、その扉の先から何かが割れる大きな音が聞こえた。
ビクッと体を震わせたあと、しばらくの間扉を見つめていた。
「行ってらっしゃいませ。お嬢様」
「行ってくるわね、シル」
「お嬢様! その、頑張ってくださいね!」
「え? ええ」
「あら? 私には何もないのかしら?」
「これは失礼しました。逝ってらっしゃいませ、エリエル様」
「ふふ。行ってきます」
行きの馬車は一台。座席にいるのは四人で、ノート、エリエル、アル、そして俺だ。
エリエルの従者であるリンクは、馬車の御者を買って出ていた。
「エンジさん? 何だか、落ち着かないように見えますけど、どうかしましたの?」
「え? いや……エリエルとシルって仲が悪いのか?」
何となく、気になっていたことを聞いてみる。
朝の一件もそうだし、先程も馬車に乗り込んだのはエリエルが最後だったのだが、そのエリエルの背中にシルが小さく舌を出していた。
ノートとアルはシルの方を見ていなかったようだが、一人気付いた俺はそわそわとしていたのである。
「そんなことありませんわよ。どうして、そう思ったのかしら?」
「何となく、だな。本人がそう言うならいいんだ。忘れてくれ」
「ふふ」
見渡せば、う~んと何かを考え込んでいる様子のノートに、ニコリと笑顔を返してくるだけのアル。
どことなく異様な雰囲気に、まあいいかと真相を追うのは諦める。おそらく、これ以上つつけば藪蛇だ。
その後は他愛もない会話をしていた俺達だったが、学園に到着し、馬車から降りた時に気付く。
「エリエル、リンクはどうするんだ?」
「護衛は何人いてもいいでしょう……と言いたいところですが、授業に連れていけるのは一人だけだったかしら?」
「そうだな」
「リンクにはもう暫く私の側にいてもらう予定ですし、エンジさんのお好きなようにしてもらって構わないわよ?」
「じゃあ俺は、いざという時のために備えとくな。授業の方は任せたぞ、リンク」
「うん」
「いざという時のために、側にいるのが護衛だと思うのだけど……エリエル様? 本当によろしいのでしょうか?」
「いずれは側に付いて貰いたいけどね、今はいいのよ。エンジさんも、やりたい事があるみたいだしね?」
エリエルは意味深な笑みを見せると、俺に向かってウインクをする。
こいつは、さすがに気付いていそうだな。でも、それなら話は早いか。
存分に、一人の時間を楽しもう。
「ああ。俺にはやりたい事がある。いや、やらなければいけない事と言い換えてもいい」
「やらなければいけない事ってあなた、ただ仕事をサボって寝てるだけじゃないの……」
「英気を養っていると言え。ま、昼には一度戻ってくる。じゃあな」
「ふふ。行ってらっしゃい」
=====
じゃあなと手を上げ、男はどこかへと歩いて行く。
エリエル様には悪いけれど、私を護衛していた時と何一つ変わりない男の態度に少し安心してしまう。
しかし、エリエル様はそもそもエンジの自由行動を認めていらっしゃる様子。
こんな事なら、あんなに強引にエンジを取り上げなくてもいいのに……。
違う違う。何を考えているのだろうか。
アルも戻って来てくれたのだし、あの男はもう必要ないじゃない。あいつがどのような行動を取ろうと、私には関係のないこと。
「ふふ。行ってらっしゃい――」
でも……何でかな。
全てを分かっているかのような、エリエル様のエンジに対する表情を見て、ほんの少しの苛立ちが生まれたのを、私は感じていたのだ。
それからの私は、何だかずっと気が抜けていた。時間が過ぎるのを早く感じる。
娘を嫁に出した親の気分、とでも言うのだろうか。あの男はそういう存在ではないし、もちろん私自身にそのような経験はないのだけれど。
授業にも身が入らず、ぼーっとしてしまった。休憩の度に友人二人が話しかけにきてくれた時だけは、その限りではなかったが。
昼食時になっても、それは変わらないままだった。楽しそうにお喋りする友人のお話も、どこか上の空で聞く。
時折相槌をいれてはみるものの、内容はよく分かっていなかった。
「ノート様? 聞いてます?」
「ノート様?」
「あ! ごめんなさい! 何だったかしら?」
友人達が心配そうな表情を見せていることに気づき、やっと意識が鮮明になる。私は、何をやっているのだろう。せっかくの楽しい時間だというのに、このような……。
もしかして怒らせてしまったのではないか、と恐る恐るお二人の顔を伺うも、それは杞憂だった。
「ノート様、今日は少し元気がないように見えます」
「そうかしら? 別にいつも通りよ、私は」
「うーん。そうは言われましても……体調が悪いなら、遠慮せずに言ってくださいね」
怒るどころか、私の事を心配してくれているみたい。
ああ。こんなにもお優しい二人に、私はなんて事を。
しっかりしなさい、と自分で自分を叱る。
「ごめんなさい。私は本当に大丈夫だから。それで、何のお話だったかしら?」
「いえ、ノート様の護衛の方変わられたんだなって」
「あの変な人、どこかに行っちゃったのですか?」
「ああ……彼は元々、私の護衛ではなかったの。少しの間、代理でね。今私の横にいるアルが、本来の護衛で――」
そこでようやく気付いた。アルが私の横に立ち、席に座っていなかったことに。
「アル? 何で立っているの?」
「え? 僕はいつも、こうしていましたけど? お嬢様と同じ席につくなど、僕にはとても」
そうだった。これが本来の主従関係だ。
あの男はいつも勝手に座っていたので、少し感覚が麻痺してしまっていた。
「一緒に食べましょう? アル。皆さんも、いいですよね?」
「もちろんです!」
「というか、私達の護衛はもう座ってますしね……」
友人の護衛二人がハッとした表情をすると、居心地悪そうに下を向く。
この二人だって最初の頃は立っていたはずだが、エンジに影響されてしまったのだろう。
あの男が来てからは、誰も何も言うことなく、席に座るのが当たり前になっていたから。
「お嬢様がそう言うなら……失礼します」
そう言って、遠慮がちにアルが席につく。
「昨日までの人とは、正反対の人ですね。ノート様」
「うん。礼儀正しいし、言葉遣いもしっかりしてるし、さすがはノート様の護衛ですよね」
「そんな、僕なんかは」
「謙遜しなくていいのよ、アル。アルは私の自慢の護衛なんだから。あの男のような真似をしろとは言わないけど、もっと自分に自信を持ちなさい」
「そうですねぇ。真似は絶対に駄目です。あの人、ノート様が席を外す度に、ノート様のお皿からお料理を盗んでいたし」
「うんうん。私もこの前、レタスとからあげを交換されられたわ」
「……あいつったら!」
私だけならともかく、まさか友人にまで迷惑をかけていたなんて。帰ったら説教ね。
私がエンジに対して憤っていると、その迷惑をかけられた友人がとんでもない事を呟いた。
「でも、ノート様が捨てたのなら、私が拾っちゃおうかなぁ」
「え?」
「あなた、ああいう男がタイプだったの!?」
「え、あ! 違う違う。そういうのじゃないのだけれど、ちょっと面白いかも? って思っただけ。冗談だから」
何だ、びっくりした。まさかあんな奴を欲しがる人がいるなんて。
エリエル様は、何か理由があっての事だと思うけど。――というより、本当に冗談よね?
「僕は結構、エンジさん好きなんだけどなぁ……」
「駄目ですよ! アルさん!」
「アルさん! あなたは清いままでいて!」
「え? はい。すみません」
疑惑の目で友人を見つめていると、今度はアルが。しかしそのアルは、友人二人に諌められすぐに縮こまってしまう。
清いままでいてって……あいつは友人達の中ではどんな扱いなのだろう。本人のいないところで散々な事を言われているエンジの顔を思い出すと、おかしくなり笑みがこぼれる。
「あ! エンジさん! こっちですわ~」
「おーう」
私達が談笑していると、エンジがやってきた。エンジは当然ながら、私達の席から少し離れたところにいるエリエル様の方へと向かう。
「あれ? エンジさん?」
「あ、本当だ~」
「……エンジは今、エリエル様の護衛をしているの」
「そうなんですか! あのエリエル様の!? ちょっとびっくり」
「エリエル様が相手だと……残念」
残念? 残念って何!? 友人が漏らした言葉も気になったがそれよりも、なぜか私はエンジを目で追っていた。
昨日までは私の護衛だったのだし、知り合いがいればそのくらいは普通だろう。別にそれ自体は変ではない。変では、ないのだけれど。
「あら? 何で私のお皿からお料理を取りますの?」
「人が食べているものは美味しそうに見えるってやつかな?」
「何で疑問形なんですの? あなたが取ったのでしょう?」
「僕のこれも、食べていいですよ。とってもおいしいので」
「確かにそれは美味いかもしれないが、お前はただ自分の嫌いな物を食べてもらいたいだけだろ? 綺麗に隅の方へ寄せてんじゃねえよ! おら、食え!」
「あ、やめて、そんな強引に……むがもご」
「少々強引ですが、野菜嫌いで有名なリンクによくやってくれました。私のこれを食べる事を許します」
「お前もかよ!? この際だ、俺が好き嫌いをなくさせてやるぜ」
「ちょっと、やめなさい! 私は女の子なのよ! それも王女! ち、近寄らないで! ……むがもご」
あいつ、王女様になんて事を。あんな事をして、明日には処刑されてしまうのではないだろうか。
いや……ないか。その光景を見て思い直す。
怒ってはいるけれど、エリエル様は楽しそうだ。本人が実際にどう思っているのかは分からないが、少なくともこの時の私にはそう見えた。
「うわぁ。変わらないね、あの人」
「危なかったぁ。メインのお肉が美味しそうだったから頼んだけど、私もあの野菜、嫌いだったのよねぇ」
「確かに残ってるわね。よし、ちょっとエンジさん、呼んでくるわね?」
「何でよ!?」
何ともなしにエンジ達がいる方を見ていた私だが、楽しい気持ちで一杯だったはずの胸の中に、黒くて重い霧のようなものが薄っすらと広がるのを感じていた。
怒り、焦り、苛立ち、もどかしさ、そしてほんの少しの悲しさ。それらを混ぜて薄く伸ばしたような、気味の悪い感覚。
不意に友人二人が静かになっていたことに気づき、顔を向ける。
二人は、真剣な表情で私の顔をじっと眺めていた。
「ノート様! 私達は、ノート様の味方ですからね!」
「うんうん!」
何かを言いたそうにしていた友人の二人。その二人は突然私の手を取ると、昨日のシルと同じ言葉をかけてくる。
二人の後ろにいたアルも、うんうんと頷いているのが見えた。
「なにか私――」
何なの? と首を傾げる私に微笑む友人たち。口を開きかけたところで、聞こえてきたあいつの声にまた視線を移してしまう。
うるさい。そこそこ席は離れているというのに、あいつの声だけが煩く感じる。
首を小さく振り、心の中で一つため息。
友人たちやアルの言っていた事を思い出し、一人納得する。
多分これは、先程この娘がエンジを欲しいと言ったから。アルがエンジを褒めていたから。
誰かが欲しいと言えば、手放すのが惜しくなるものだもの……。
きっとこれは、そんな感情。
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