第93話 公爵令嬢の日記9

「失敗したな」


 ノートを午後の授業に送り届けた後、敷地内の庭を散歩する。

 午後も頑張れよ、また後でなと言い、極々自然に教室から離れた俺をノートが責める事はなかった。

 別の事で頭が一杯だったようにも見えたが、とにかく無駄でしかない授業参観は回避した。


「気付いてたよな、あいつ」


 ベンチに座り、右腕の袖を捲くる。そこには一本の深い切り傷。

 シャツに血が染み込まないようにと粗雑に巻いたハンカチは、血でべっとりと濡れていた。

 借り物のハンカチだというのに。シルには失くしたとでも言っておくか?

 傷口を眺める。ま、大騒ぎするほどでもないか……。

 保健室に行こうと思ったがやめる。

 血はほとんど止まっているし、確か護衛同士の争いは禁止されていたはず。

 あれ? でもあいつら、首になったんだっけ? いいや。ノートには何でもないと言ったしな。

 ハンカチを引っくり返し、ぐるぐると巻き始める。


「雑、ですわねぇ。見ているこっちが痛くなってきます」


 聞こえてきた声に反応し顔を上げると、エリエルが側に立っていた。

 こいつ……道に迷うとか関係なく、普通に授業サボってるな。隣にいるリンクも澄ました顔だが、お前らそれでいいのか?


「包帯、取ってきてあげましたわよ?」

「ああ、サンキュ」


 包帯を受け取ろうとした俺を制し、エリエルが前に屈む。


「巻いてあげる」

「おう」


 否定する事でもないので、腕を差し出す。――そういや、何でこいつ。

 俺とは違い、優しく丁寧に包帯を巻き始めたエリエルの後頭部を見ながら、口を開く。


「情報が早いな? さすがは姫さんだ。どっかで見てたのか?」

「何の事かしら?」

「いいって、今さら。包帯……ありがとな」


 包帯を巻き終えたエリエルは笑顔を見せると、俺の目を見つめる。


「どういたしまして。私は、一部始終を見ていたリンクに後から聞かされただけですわ。ですけど、これでますますあなたに興味が湧いたわね。いえ……見込み通り、と言った方が正しいかしら」

「偶然だ」

「しらばっくれるのね」

「ただ運が良かっただけだ。一人、毛色の違う阿呆も混ざってたしな」

「運や偶然だけで、あの三人に勝てるとは思わないけどね。私はむしろ、あの三人とやりあって、こんな包帯一つで済んだ事に驚いているわ」

「馬鹿言え、体中傷だらけだぞ。今にも倒れてしまいそうなところを必死に耐えているだけだ。俺は強い子だからな」

「ふうん」


 信じてないな、こいつ。まあ傷だらけってのは嘘なのだが、筋肉痛にはなっている。

 闘技大会でのルーツ戦以来だ。あんな初っ端から全力を出したのは。

 しかしそうでもしなければ、こんな傷だけでは済まなかったと思う。あいつら、かなり強そうだったし。


「ねえ? エンジさん。やっぱりすぐにでも、私の護衛になってくださらないかしら?」

「突然何だ。一週間は待つんじゃなかったのか?」

「何でかしらね……。何だか、このままただ待っているだけでは、私にとって悪い方向に向かいそうな気がしたの」


 エリエルはそう言って、背を向ける。エリエルが何を思ってそんな事を言ったのかは分からないが……。


「俺が、お前の護衛をするかどうかはまた別の話だが、ノートは俺を嫌っているし、首にしたがっている。そんなに、焦らなくてもいいと思うがな?」

「……どうかしら?」


 後ろで手を組んだエリエルが、顔だけをこちらに向けポツリと言う。

 その表情は、どこか頼りない笑顔だった。





 =====





 午後の授業が全て終わり廊下を覗いてみると、案の定エンジはいなかった。


「ま、そうよね」


 最初からいなかったことには気づいていたが、終わり頃には迎えに来てくれるのではないかと、少し期待していた自分がいた事に驚きだ。


「庭、かなぁ」


 エンジとはまだ短い付き合いだが、なぜかあの男は太陽の光を浴びたがる。

 最初に会った時も泥まみれだったし、土の中にでも住んでいたのかな。――なんてね。

 あいつがいそうな場所を考えながら廊下を歩いていると、少し気になる話をしている男女がいた。


「聞いたか? 今日の昼頃、学園の関係者とは違う不審な奴らがいたらしいぜ?」

「え、誰かの護衛じゃあなくて?」

「そうらしいよ。主人も連れてはいなかったようだし、多分外部の奴らだろうって話さ。しかもうちの生徒に絡んでいたって噂もある」

「え~、こわーい」


 立ち止まり、聞き耳を立てる。


「その人達、まだいるのかな?」

「いや、それがさ。そいつら皆、もう病院に運ばれて行ったんだって」

「え?」

「先生か警備に見つかったって事だと思うのだけど……皆は、誰かの護衛にやられたんじゃないかって言ってる」

「別に、誰がやったとしても私的にはありがたい事だけど、何で?」

「そいつらは三人いたらしくてさ、二人は再起不能の重傷。一人は軽傷だったのだけど、心にひどい傷を負っていたらしい」

「先生や警備の人がやったにしては、やりすぎだって事? 分かんないわよ? 先生もストレスを抱えてる人が多そうだし」

「まあ、それはね……」

「ふ~ん、そんな事が。その、心にひどい傷って具体的には何なの?」

「僕もよく知らないけど、意識はないはずなのにうわ言で、私はもうあの人しか愛せないだとか言って、お尻を振り続けているらしい」

「何それ、こわ……」


 間違いない。今の話はエンジの……。あんな事を言っていたけど、やっぱり何かあったのだ。

 階段を駆け下り、エンジがいるはずであろう庭へと向かう。黙っていた事には少し怒りが湧いてくるが、それよりも。

 庭に到着し周囲をキョロキョロと見渡すと、大きな噴水の近くすぐ横にあるベンチに、エンジが座っているのを見つける。


「エン――」


 私は走るのをやめ、その場に立ち止まってしまった。

 噴水で隠れていたエンジの正面にはエリエル様が。話の内容は聞こえてこないが、楽しそうにお話しているのが分かる。

 エンジの右手には、包帯が巻かれているのが見えた。

 どうして立ち止まってしまったのか分からない。何もやましい事はない。私もあの場に加わり、一緒にお話すればいいだけのこと。

 悩んでいたのは数瞬で、私は歩き出した。ほんの少しのもやもやとした何かを感じた気がしたが、それも歩き出す頃には忘れていた。


「じゃあ、考えといてね。エンジさん」

「だから、それはノートに言えって。ん?」


 近くまで歩いていくと、エリエル様はすでにお帰りのようだった。

 私に気付いたエリエル様は、笑顔を見せると小さく手を振り、そのまま従者のリンクと共に歩いて行く。

 それを見送った後、エンジを睨みつける。


「ノートか、お勤めご苦労さん。もう帰るのか?」

「エンジ、その包帯」

「ああ、さっき階段から転がり落ちてな。ま、大した事はない」


 エンジはそう言って、捲っていた袖を下ろし包帯を隠す。

 やっぱり、私には何も言ってくれないのね。もういいわ。分かったわよ。何も聞かない。

 でも……。エリエル様には、お話したのかな? どうでもいいと思ったばかりなのに、なぜだかそんな事を考えてしまう。

 一人で巻いたとは思えない結び目が逆の綺麗な包帯を見て、私は少々の苛立ちを覚えた。


「はぁ。お前は会った時からいつも怒ってんな」


 この男は……誰のせいだと思っているの。


「あ、そういやよ」

「何?」


 エンジが突然思い出したかのように、話を振ってくる。


「お前が授業に出ている間、学園から出て少し行った所に美味そうなもんを売ってる屋台を見つけたんだが、今から行かないか?」

「はぁ?」


 授業に出ている間にというのが、護衛としてすでにおかしい。それに屋台ですって?


「屋敷でお夕飯が準備されているのよ? 迎えの馬車も、待たせているでしょうし」

「問題ない。馬車には先に帰ってもらった。俺達は歩いて帰るぞ。歩いて帰れば、多少は腹も減るだろ」

「何ですって!?」


 何を言っているのでしょうか、この男。何から何まで勝手すぎる。何から何まで意味が分からない。

 行かないか? と聞いてきたくせに、すでにこの男の中では行く事が決まっていた。

 先程までのちくちくとした怒りが消え去り、今は男に対する純粋な怒りが沸々と湧いてくる。


「あなたね……」

「まあ待て、これには理由がある。実はシルからの討伐依頼を受けてたんだ」

「シル? 何であの娘が。討伐依頼?」

「ああ。なんか最近、お前の足に出来たという肉の魔物の討伐依頼を……イテ」


 男が全てを言い切る前に、男の頭を引っ叩いた。


「手が早いお嬢様だ。さ、行くぞ。ちなみにだが、俺は金を持ってない。そこんとこ、よろしくな」


 あー! もう! こいつの仕事って何!? 私を怒らせる事が仕事なのかしら!?

 だったら満点をあげるわ! 花丸よ、花丸! でも、そうじゃないでしょう!?

 帰ってしまった馬車はどうしようもなく、この日私はエンジと歩いて帰ることになった。

 屋台で食べた正体不明のお肉が、意外と美味しかった事には驚いた。


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