第89話 公爵令嬢の日記5

 たったったと、誰かの走る音で目が覚める。

 いくら広いとはいえ、敷地内で迷子になるようなアホと別れたあと、庭の隅にあった木陰下のベンチを丸々一つ陣取って寝ていた。

 ポカポカ陽気に、時折吹くそよ風が心地よく、まさに寝て下さいと言わんばかりだったのだ。

 その足音は一度ピタリと鳴り止むと、徐々に大きな音になっていった。

 どうやら、俺に用があるらしい。


「お前か、おはよう」

「馬鹿!」


 おはようってこと?

 近付いてきたのはノートだった。急ぎの用でもあったのか、随分と息を切らしている。

 覚醒していない頭でぼんやりとその様子を眺めていると、息を整えたノートは鋭い目を向けてきた。


「あなた、主人の手を煩わせるなんてどういうことかしら!?」

「ああ……悪い悪い。ちょっと寝ちまっててよ。じゃあ、そろそろ行くか」

「随分な言いぐさねぇ。あなた、自分の仕事が何をするものか分かっているのかしら? それに、そろそろって何よ!」

「ん? そろそろ昼食の時間なんだろ? 俺をメシに誘いにきたんじゃないのか?」

「違うわよ! 何であなたなんかを……。今は確かにお昼休憩だけど、それもあと五分で終わるわ!」

「え、嘘だろ?」

「嘘じゃないわよ! だから、早く来てちょうだい!」

「失敗したな。じゃあ俺、今からでも食堂行ってくるから、先に行っといてくれ」

「何を言ってるの? 駄目に決まってるでしょう。あなたの仕事はね、私の護衛なのよ? 護衛。常に私の近くにいるのが基本でしょう?」

「たまには息抜きも必要だ。お前にとっても、俺にとっても」

「あなたは息抜きしかしてないでしょうが! あ~、こうしている間にも時間が……早く行くわよ!」


 ノートに腕を掴まれ、引っ張られる。


「分かった、分かったから。午後の授業参観には、多少は行ってやるから。昼メシだけでも食わせてくれ」

「多少って何!? 授業参観って何!? もう~、つべこべ言わずついてきてよ! 遅刻しちゃうでしょ!」

「体に力が入らないんだ。というか、先に行けばいいじゃんお前」

「駄目なのよ、それじゃ! 午後からは体育なのよ!」

「体育?」

「そう、体育。新学期始めの今日は、体力テストがあるのよ!」

「え、ああ。そう……そうなんだ?」


 体育がどうしたというのか。もしかしてこいつ、その年になって一人で着替えられないとでも言うつもりではないだろうな。

 全く……手伝うのは構わないが、人の着替えを手伝った経験なんて今までに一度もない。

 また何か言われる前に釘を刺しておくか。


「胸や尻を少しくらい触っても、怒るなよ?」

「え? ほとんど男なんだけど、あなたって……。まあでも、絶対やめてよ? 私に恥を欠かせる気?」


 ほとんど男ってなんだ。ああ、お前の胸のこと? 俺はそこまで言うつもりはないが……。

 何となく会話が噛み合ってないような気がするまま、俺はノートに連行されていった――


「あなた、やる気はあるのかしら?」

「精一杯頑張りました」


 体育とは何なのか、体力テストとは何なのか、俺は問いたい。

 次の授業である体育が行われる場所は、敷地内にあったドームのような建物だった。

 さすがに東京ドームほどの広さはなかったが、俺の想像する体育が行われるには広すぎる建物。

 今回の体力測定は学年単位で一斉に行われ、集まった生徒の数は百五十人。そこに護衛が一人ずつ付いていたので、教師も合わせて三百人程がその場にいた。

 そしていよいよ授業開始の時間になり、教師が説明を始めたのだが。


「ではこれより、体力テストを始めようと思う。形式は前回と同じだが、質問のある者はいるか?」


 誰も、何も言わない。

 もちろん俺も何も知らなかったが、直接関係のないことなので黙って続きを待った。


「よし、ではさっそく始める。今から場所と時間を書いた紙を配るので、よく確認し行動するように。悪いがすぐに開始するので、第一試合の者は急いで各コートに向かってくれ。以上」


 第一試合ってなんだ? 何か競うのか?

 お~ほっほっほ。私のボールの方が、五メートルも向こうに飛んで行きましたわよ、であるとか、あなたの体、去年よりも固くなってしまったのではなくて? みたいなやり取りがあるのだろうか。

 何だかちょっと面白そうだなと思っていた俺の隣、配られた紙を受け取ったノートが呟いた。


「エンジの、最初の試合は十四時ね。場所はBコートよ」


 ん?


「おいノート、今お前『エンジの』って言った? 『私の』ではなくて?」

「何で私がやるのよ。おかしいでしょう」

「何で俺がやるんだよ。おかしいだろうが」


 互いに顔を見合わせ、頭に疑問符を浮かべる。


「あれ? 言ってなかった? この体力テストは護衛のためのものよ。つまりエンジ、あなた」

「あん? 何で?」

「そりゃあ、大事な主人を守る護衛の力を確かめるためよ」

「いや、おかしいだろ」

「何が?」

「これは授業で、体力テストなんだよな?」

「そうよ」

「で、ここに通う生徒はお前」

「そうね」

「じゃあ、お前の体力を測らなきゃおかしいだろ?」


 何で? と、本当に意味のわかっていない顔をノートはしていた。これは……。

 体育とは何なのか、体力テストとは何なのか、俺は今一度問いたい。





 =====





 本当にもう! 本当にもう! 護衛が主人の元を離れてどこかに行っちゃうなんて、そんなことがあり得るの?

 私は今、どこかに行ってしまったという過去類に見ない護衛の男を探して、校内を駆けずり回っていた。

 先程までは、新しくできた二人のお友達に昼食を一緒にと誘われ、楽しく過ごしていたというのに。

 午後の授業が体育であることを思い出し、お喋りを切り上げ男を探し始めた。


「あり得ないわ。本当、あり得ない」


 一週間どころか初日に、しかも午前中から仕事を放棄するだなんて。帰ったら代わりの護衛を探すよう、お父様に伝えよう。

 でも、とにかく今は。


「はあ、はあ。どこにいるの?」


 温かい日差しに、爽やかな風が吹く気持ちの良い昼下がり。

 本来であれば楽しく優雅にお喋りを楽しんでいたはずなのに、私は息を切らして走っている。

 制服の下は汗ばみ始めていた。


「あ……」


 授業開始まであと五分となってしまった時、男を見つけた――


「――三勝七敗……最悪ではないけれど、ほとんど最悪に近い数字ね」

「三割バッターって風に考えると、悪くないだろ?」


 悪いわよ。男が何の話をしているのか今いち分からないが、悪いに決まっている。


「アルなら全勝、もしくは一回負けるくらいだったわよ?」

「化物だな、そいつ。全球団ドラフト一位間違いなしだ」


 男は悪びれもせずに、相変わらず意味の分からないことを言う。

 この体力テストは、無作為に選ばれた相手と十回戦闘を行うというもので、剣も魔法も使うことを許されている。が、相手を死に至らしめることだけは許されていない。

 運悪く強い相手とばかり戦ってしまうこともなくはないが、十回もやってこの戦績はひどい。

 仮にも公爵の娘につく護衛であることを考えれば、なおさらだ。


「首ね……。お父様も、この戦績を見れば納得するでしょう」


 賊からお父様を救ったというから、戦闘の方は少し期待していたのに、ちょっとがっかり。

 私は溜息を吐くと、男の戦績が書かれた紙を折りたたむ。


「あら? その男、首にするのかしら?」

「そうね。早ければ今日にでも……ん?」


 童顔の男を連れた、同級生と思われる女に話しかけられていた。

 その女からは威圧感と言うのか、気品と言うのか、そういったものを感じた。

 他の生徒達だって、それなりにいいところの出のはず。しかしその女から感じるそれは一回り上のもの。

 誰だったか。こんな娘、同じ学年にいただろうか。


「あら、私としたことが申し遅れました。グレイテラ帝国第二王女、エリエル・グレイテラですわ。どうぞよしなに」

「王女!?」


 私は立ち上がり、姿勢を正します。


「申し訳ございません。王女様とは知らず、失礼な口を。私はモンブラット王国公爵の娘、ノート・シュークライムです。こちらこそ宜しくお願い致します」

「ああ、いいのよいいのよ。王国の方は知らないけど、うちはそういったことにはゆるゆるでね。それより、さっきの話だけど……」


 そう言って、エリエル様は私の護衛であるエンジがいる方を見る。

 その時、すでに後ろを向いていたエンジは、この場から逃げるように歩き出していた。

 というより、今にも走り出しそう。走り出した。


「リンク」

「は」


 童顔の男がエリエル様の側から消えたかと思うと、ドシャァという音。エンジは床に組み伏せられていた。

 そしてそのリンクとかいう従者に引きずられ、エンジが戻ってくる。


「またお会いしましたわね? 不良教師さん?」

「俺は教師ではない。そこにいる女の護衛だ。誰かと間違えているんじゃないか?」

「いいえ。道を間違えても、あなたの顔は間違えません。ね? エンジさん?」


 エリエル様がニコリと微笑みかけると、エンジは作ったような渇いた笑顔をする。

 知り合いなのだろうか。王女様とこんな男が?

 私と同じ思いだったのか、リンクとかいう者も首を傾げていた。


「ど、どこか行きたい所はありますか? 案内しましょう。あ! それとも何かお飲み物でもお持ちしましょうか? 欲しいものがあれば、何なりと私めに」

「ふふ、そうねぇ」


 エンジの態度に不自然なものを感じる。いえ、王女相手にはそれが普通なのだが、私への態度を考えると、やはりどこかおかしい気がする。

 そんな不自然な態度をとるエンジに、唇に人差し指を当てたエリエル様が、妖しげな表情を向けました。

 ちらりと、私に目線を向けた後。


「案内も飲み物も必要ないわ。私はエンジさん、あなたが欲しいです」


 男がまた、厄介事を持って来たようだ。


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