第55話 準決勝の朝

 目覚めた時から、俺は憂鬱だった。

 会社に行っては帰り、行っては帰りを繰り返していたときの、平日の気分に似ている。

 何とも言えない気分。これって何だろうな。

 おそらく誰しもが一度は感じたことがあるであろう、この朝の感じ。

 面白いのはさ、寝る前はそうでもないってこと。むしろ、やたらに前向きだったりする。

 この気持ちを感じるのが嫌で、出来る限り寝たくはないのだが、人間の体はそううまくできていない。

 この感情は人間にとって毒だと思うのだが、体や脳は寝ることを求めてくる。絶対おかしいよな。


 と、起きた瞬間からくだらないことを考えている俺であったが、実はこれが自分流の、言い方は悪いが現実逃避術。

 楽しいや嬉しい、プラスの感情にはそのまま身を任せておけばいいのだが、自身が嫌だと思うようなマイナスの感情を客観的に見てみる。

 何かしらのマイナス感情になった時に、それをもう一人の自分で考えてみる。

 俺って今こんなこと思っているんだな、感じているんだなって。

 するとふと気付く。

 おい待て、この感情はどこから出ているんだ? もちろん自分自身だ。

 脳か? やはりこういうのは脳なのか?

 脳ってお前、自分自身の体なのに何で制御できないんだよ? 何でこんな悪さをするんだよ? ちょっとやめてくれ。という具合に。

 そんな風に馬鹿みたいなことを考えていると、その感情が自分のものではないかのように思えてくる。なぜか段々楽になる。いや、有耶無耶になるような気がするのだ。

 あまり勧められるものではないが、何となく気持ちが分かるやつもいると思う。


「お前はどうだ?」

「あ……何だ? もう朝か? エンジ」

「いや、まだ早い。寝てていいぞ」

「ふあぁ。キリルのパンツに羽が生えて……必死に捕まえようとしたのだけど、魔王がそいつを捕まえて……やっと魔王を倒したと思ったら、また飛んで……早く捕まえないとキリルに怒られちまうのに、どこまでも飛んで……」

「早く捕まえてこい」

「ふぁ……おやすみ」


 このお気楽馬鹿は違うかな。次の休日までをとにかく生きる、という経験をしていないからな。

 そもそも、生きるためにその日を過ごすというのが基本の世界。そんなことを考える余裕なんてないのかもしれない。

 誤用だが、それサバンナでも同じこと言えんの? てやつだ。

 俺も、こっちに来てからはずっとそうだったしな。

 でもその方が、幸せなこともあるかもしれない。


 カイルをもう一度パンツワールドに送り出した俺は、寝る気も起きなかったので仕方なく準備を始めた。

 顔を洗って歯を磨く。

 次に髭は、大丈夫だな。髪も、寝癖はないし。服装だって、特に変なところはないな。よし。

 いつもの君が一番素敵だよ、と何もしない自分に言い訳のようなことを言い聞かせ早々に準備を整えると、読書をして時が過ぎるのを待った。


「エンジ君! おはよう! 今日もいい天気だね!」

「いい天気だなんて、ステファニー! 僕の心には、こんなにも雨が振っていると言うのに! ああ、なんて残酷な出会い方をしてしまったんだ! 僕たちは」

「ステファ……? ちょ、ちょっと誰それ! 浮気ね! 浮気したんだねエンジ君! 私みたいなカワユイ恋人がいるっていうのに!」

「違うんだステファニー! 僕は、気付いてしまったんだ! この世界の残酷さに! いや、それも違うな。雨が振っているのは、僕の心にだけだったんだね! ああ! 許しておくれ! ステファニー!」

「エンジ君。何があったか知らないけれど、あなたの心に雨が振っているというのなら、私はあなたの傘になる。その心にいつか、青空が戻るその日まで!」

「駄目なんだステファニー。駄目なんだよ。そんな小さな傘では、僕の心を蝕む雨風は防げない! 僕が必要としているのは厚い壁に厚い天井! そう、僕が必要としているのは君じゃない! 東京ドームだったんだ!」

「なる! なるよ! 私があなたの、とうきょうどうむ! なるから!」

「ホームラン!」

「やん! もう、どこ触ってるの! エンジ君!」

「……あのぉ、もうよろしいですかぁ? それ以上続けるようでしたら、相応の覚悟を持っていただきませんとねぇ」


 ストレの二の腕をツンツンとつついていた俺は、そこで正気に戻った。

 いかんいかん。いつの間にか、本の世界にのめり込み過ぎていたようだ。


「キリル、おはよう。今日もお前の唇、血の気のない色してんな」

「おはよう、エンジさん。やっぱり、分かる男には分かるみたいですねぇ」

「キリル? 絶対おかしいよ、それ」


 あれ~? と、凍てつくような目で見てきたので、俺はカイルを顎で示す。


「また、この男は」


 パァンと、室内に乾いた音が響く。

 起こされたカイルは、キリルに謝り続けていた。

 羽の生えたパンツを、逃してしまったことについて。


 ……。


「皆、昨日はよく眠れたか! 今日でついに、グレイテラ帝国闘技大会の優勝者が決まってしまうぜ! 準備はしっかりしておけ~。準備していなくても急いで来い! 歴史に残るであろう、凄まじい戦いが見られることは間違いなしだ! ちなみに俺は、興奮してあまり眠れなかったぜ! 朝方に寝て、起きた時にはなぜか全裸でカーテンに包まっていた! そんな事件が起こってしまうほどの今回の闘技大会! しっかり目に焼き付けろぉ!」

「お前、私が手をくださなくても、その内勝手に死にそうだな。奇病の類で」

「シャープさんの毒舌からも、今回の闘技大会への期待が伝わってきます! いやほんと、楽しみで仕方がないぜ!」


 もう、駄目だなあいつは。自分が何を言っているのかも、分かっていないに違いない。

 溜息を吐いていると、そこで自分の失態に気付いた。――あれ? ストレはどこ行った? 確かさっきまでその辺に。

 すでにこの後、何が起きるのか分かってしまい、俺は肩を項垂れた。


「んじゃ、いってくる」

「おう、勝てよ」

「頑張ってくださいねぇ」


 いつものように場内まで続く道を一人で歩く。

 するといつもの場所で、これまたいつも通りに運営の人が立っているのが見えた。

 いつも通りというのが、心を落ち着かせてくれる。


「よお」

「おはようございます。疲れは取れましたか?」

「朝から変な演劇を強要されたが、それ以外はボチボチだ。それより、ほれ」


 そう言って、袋に目一杯詰め込んだ下着を見せる。

 会場に来る前に買っておいたものだ。俺は約束を忘れない。


「まさか、本当に? ああでも、それならよかった。私が準備する必要はありませんでしたね」


 準備? その言葉が気になり、運営の人を上から下までまじまじと見つめる。

 荷物は何も持っていないように見えるが……と、おや? そういえば、腰に比べて胸と尻が異様に膨れている気がする。


「気付きましたか? ふふ。あなたに強引に盗られてもいいように、何重にも体に巻き付けてきました。少々暑かったのですが、あのような思いをするくらいなら全然気になりません」


 なんてことだこの女。会う度に成長していやがる。

 どこか頭がおかしいのでは? と疑う気持ちも出てくるが、それはそれ。これはこれ。

 目にも留まらぬ速さで、素早く手を動かす。


「あ、や! もう!」


 剥ぐために仕方なく上着のボタンを外し、スカートをずり下げはしたが、何とか肌には触れず、数セットの下着を回収する。

 もはや魔法のような早業だが、それはこの際いい。俺は、驚愕に目を見開いた。


「体型が、変わらない? 一体何枚の――」

「ちょっと、もう! やめて下さい! 今さらですがこれ、犯罪ですよ! それにあなたはもう、自分で持ってきているではないですか!」


 今剥ぎ取った下着と、持ってきた下着を比べる。

 駄目だ。優しさ、ぬくもり、匂い。どれをとっても、勝てる要素がない。

 俺の持ってきた大量の下着より、今剥ぎ取った数枚の下着の方が何倍も価値がある。


「駄目だ……こんな絶望感を味わったままじゃ、あいつには勝てない。頼むから、俺のこれと、あんたが身につけているそれ全部とで交換しよう」

「ちょ、やだったら! 近づかないで! お願い! そんな、そんな目で私を見ないで!」

「ここ掘れワンワン」


 ……。


「さあ、まずは選手の紹介だ! 先に姿を見せましたのは、ルーカス選手! 魔導学園の期待の星! 本戦では錚々たる顔ぶれを打ち負かし、準決勝まで残っております! 対するは、今入場してきました! 好き好き大好きストレちゃんは俺の天使ちゃん(愛の大魔術師)選手! すでにこの名を呼ぶのに慣れてしまった俺だが! その奇行にはまだまだ慣れない! どこの組織か知らないが、ベスト四に三人も食い込んだうちの一人。戦いの方でも期待ができます! 三回戦では強大な魔族を打ち破り、駒を進めました。シャープさんはこの二人、どう見ますか?」

「文句なしの実力者だな。互いに魔術師のようなので、魔法戦になることは予想できるがあとは分からんな。個人的な意見で申し訳ないが、私は優男より、変な名前の奴の方が顔は好みだな」

「本当に個人的な意見を、ありがとうございます!」

「駄目だよ! エンジ君は、私のなんだからね!」

「おおっと、忘れていました。今回ももちろん、ストレちゃんに来ていただいております! もはや大会が進むごとに、本当に恋人なのかどうかが分からなくなってきておりますが、様式美なので最後まで頑張っていただきましょう」


 やはりそこにいたか。

 もうそれ自体は別に構わないが、余計なことはしないでくれ。頼むからさ。

 やれやれと首を振りつつも、俺は舞台の上に下着をばらまいていく。

 不思議そうな表情をするルーツにも何枚か投げてやった。恥ずかしそうに払っているのがちょっと面白い。


「な、何をしているんだこの男ー! 意味がわかりません! 私たちは、新たな伝説の始まりの目撃者になったのです! って、コラ! 神聖な闘技場に、そんなものをばらまくんじゃない!」

「これは、俺のファンがくれたものでな。神聖な魔力水に一年ほど漬けておき、よく日光に当て乾かす。食べることもできるがこうしてばらまくことで、その土地で起こる災厄を遠ざけてくれるのだ」

「これまた意味不明! もう私、この選手の戯言を信じたくなってきました! というか、どこの女だ! こんな男に毎回のように下着を渡しているのは! ……ストレちゃん?」

「ない……ない! ないよ! 私の下着が一枚もない! そんな、おかしいよ! だってエンジ君は、私の下着が一番好きなはずのに! 脱ぐから! 今すぐ脱ぐから持っていて! 神聖な力はないけど、きっとお守りになるから!」

「とんだ変態だな、お前」

「エンジ君には言われたくないよ!」

「お前ら二人共、どっちもどっちだから!」


 準備は終わった。くく……ルーツ。恥ずかしがっている場合か?

 試合はすでに始まっている。俺はどんな手でも使うのだ。これは学生のお前には、刺激が強すぎたようだな。

 準決勝第一試合、俺とルーツの戦いが始まった。


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