第3話 何を感じ、何を思う?

 『杜和』と『黒』。

 お互いの名前を呼び慣れ、そして呼ばれ慣れるまでの歳月が過ぎた。

 相変わらず感情を表に出すのが下手な杜和ではあるが、黒のおかげでだいぶ人間らしくなってきていた。

 毎日ちゃんと食べているからか、痩せ細っていた体も少しずつ平均的体型に戻り、毎日ちゃんと入浴し洗濯しているからか、体や服も清潔に保たれている。森で拾ったコートを綺麗に洗濯し着用することで、寒さも多少凌げてはいた。

 こうして森での生活もだいぶ慣れてきたが、まだ『笑う』ことは出来なかった。


 頭から手足までも黒ずくめのずんぐりむっくりは、昼頃出掛けて行った小さな人間を捜していた。

 もう夕方近くになっているのに、帰ってくる気配が全くない。

 来た当初はいつも森で迷子になっていたが、最近は真っ直ぐ帰って来られるようになっていたはずだ。

 一体、どこで何をしている?

 痺れを切らし森を捜索していると、夕陽に照らされた人間の細長い影が見えた。

 呆れた溜息を吐き、影を辿って本体に近付く。

「そこで何をしている? 杜和」

「!」

 ビクリと震え、振り返った杜和の肩越しに、ポツポツと点き始めた民家の明かりが見えた。

 杜和の暮らしていた村の明かりだ。

「何だ。帰りたいのか?」

 別に咎めるつもりはなかった。

 杜和が村に帰りたいと言ったら帰らせるつもりでいたから。

 杜和と交わした取り引きを完了することは出来ないが、『笑い方』を教えられない以上、杜和を『喰う』ことも出来ない。

 それ以前に、黒に『生贄』はいらなかった。

「……いいえ」

 少しの間の後、首を横に振りながら答える。

「杜和」

 黒の詰め寄るような声音に、困ったように逡巡した杜和だったが、やがて蚊の鳴くような声で「すみません」と謝罪した。

「村が無事かどうかを確かめたくて……」

 どこか申し訳ないような杜和の表情に、黒は小さな溜息を洩らした。

 最初は杜和の他に3人の生贄がいた。しかし最終的に杜和1人になってしまったため、生贄をもらえなかった他の者が、村を襲ってやしないかと不安になったらしい。

 ほぅ、俺を疑ってきたか。

「約束を違えることはしないから安心しろ」

 疑われていたことを怒るつもりはない。逆にいい傾向だと黒は思った。

 そうだな。嘘をつくのも悪くない。

 正確には、杜和の小さな嘘を見破った黒が本心を白状させたのだが、人間らしくなってきた成果が表れていることに若干の嬉しさを感じる。

 この嬉しさを杜和が感じてくれれば、笑うのも時間の問題なんだがな。

「あ、いえ。黒を疑っているわけではなくて」

 ん? どういうことだ?

 黒は、杜和には分からない首を傾げた。

「わたしは黒以外の者を知らないので、少し、心配に……」

「……」

 なるほど。

 つまり、俺以外の奴が約束を破るのではないかと思ったということか。

「そこも安心しろ。贄の代わりはくれてやった。奴らが村を襲うことはない」

「贄の、代わり?」

 どこからか生贄を連れてきたのだろうか?

 不安気な眼差しを向ける杜和に、黒はどこから出したのかコロリと1つのまんじゅうを見せた。

「これだ」

「……お、まんじゅう、ですか?」

 意表を突かれ、杜和は呆気にとられる。

 人間の生贄じゃなくてもいいのだろうか?

「言っておくが、最初に生贄を差し出してきたのはお前ら人間どもの方だぞ。俺たちが強要したわけじゃない」

 杜和の心の中の疑問を読み取ったかのように、黒が説明する。

「もとはこういうものを贄にしていたはずが、ある日突然人間の生贄をよこすようになった。最初は俺も驚いたが、それが人間どものよこした贄ならば俺たちは喰うだけだ。俺たちにとっては、まんじゅう1個も人間1人も変わらない」

「……」

 人間である杜和にとっては、人間を食べていたなどと背筋の凍るような恐ろしい話をされているのだが、杜和は不思議と怖さを感じていなかった。

 もともと生贄として黒に食べられるために来たからかもしれない。

 しかし、今はそれよりも。

「もしかして、黒は……お地蔵様とか仏様とか、何か、そういう方なのですか?」

 おまんじゅうが贄ということは―――もっと分かりやすく言い換えれば『供物』ということになる。

 あぁ、そうか。

 そこで杜和は思い出す。

 本来生贄とは、神仏や儀式などにお供えする供物のことをいうのだった。

 黒が異形の者過ぎて神仏の類から除外して考えてしまったから、このような誤解が生じてしまったのだ。

 そう思った途端、真っ青になった杜和はオロオロとうろたえてしまった。

 これまで黒のそばにいて失礼なことをしていないか、頭の中でグルグル思い出そうと必死になる。

「ちょっと落ち着け」

 杜和の心情が表情で見て取れ、黒は呆れながら杜和の頭に黒い手を置いた。

。今さら畏まる必要なんかないから安心しろ」

 黒はそう言うが、神仏と近いということが分かった杜和はなおさら落ち着かない。不安気な表情のまま、黒からじりじりと後退りで距離を取ろうとする。

「……」

 自分から少しずつ距離をとろうとする杜和に疲れたような溜息を洩らし項垂れた黒は、「仕方ない」とボソッと呟くと、ずんぐりむっくりの体をググッと曲げ、落ち葉が敷き詰められた地面に黒い手を突いた。

 その直後。

 ボフッ。

 黒ずくめのずんぐりむっくりで両目の部分しか分からなかった黒の体が、一瞬のうちに大きな黒い狼に変化していた。

「…………?」

 突然目の前で起こった出来事に杜和は頭がついていかない。あんぐりと口を開いたまま、驚きに目を見開く。

「杜和。おい。杜和?」

「……」

 放心状態の杜和にいくら声を掛けても反応がないため、黒は自身の顔を杜和の体に擦りつけた。

「!」

「戻ったか?」

「……は、い」

 黒の刺激で我に返ったが、四足歩行時でも杜和の身長より高い胴体を持つ狼姿の黒に、杜和は戸惑ってしまう。多分、二足で立ち上がったら5m近くはなるだろう。

 だが見慣れない黒の姿に戸惑いはするものの、恐怖感は一切ない。

 それは狼の纏う空気が、ずんぐりむっくりの時の黒と同じだからだろう。

「怖いか?」

 黒の問い掛けに、杜和はフルフルと首を振る。

「いいえ。驚きはしましたが、怖くはありません」

 夕陽に照らされた毛並みがキラキラと輝き、吹く風にサラサラと靡くのを見て、綺麗だとさえ思っている。誇り高い獅子のような貫禄を感じた。

 黒が我に返してくれたおかげで、杜和は平静さを取り戻す。

「あの、すみません。先程は動揺して話の腰を折ってしまいました。それで、あの、近いけど違うとはどういうことでしょうか?」

 話の続きを促す杜和を尻目に、黒はちらりと空を見やると「帰るぞ」と一言言い、杜和に背を向けのそりと歩き出した。

 機嫌を損ねてしまっただろうか? と思った杜和はそれ以上何も言わず、狼姿の黒の後を追うように歩く。

 気まずい雰囲気を感じつつ黒の後ろを歩いていると、ふいにピタッと黒が足を止めた。

 尻尾にぶつかりそうになり、杜和も慌てて足を止める。

「あそこに小さな祠があるだろう?」

 そう言って黒が口先でしゃくった先に確かに小さな祠があった。

 もちろん杜和も知っている祠だったが、最近気付いた祠だ。

 小さい上に今は落ち葉で半分くらいが埋もれている。気付かずに通り過ぎてもおかしくはないほど気付きづらい祠ではあった。

「人間が勝手に造った祠だ」

 そう言うと興味をなくしたように視線を逸らし、再び黒は歩き出した。

「勝手に、ですか?」

 杜和も歩きながら問う。

「お前が生まれるずっと前、村を大飢饉が襲った」

 何故か杜和の質問には答えず、黒は唐突に昔話を始めた。

「原因は蝗害こうがい。その年が例年にない異常気象で、普通ならこの地域で発生することのない蝗害が村を襲った。収穫前だった農作物は全滅。備蓄していた食物も虫に喰われ底を尽きた。体力のない女子供、年寄りは飢餓でガリガリに痩せこけて死んでいった」

 脈絡なく始まった黒の話に、杜和は静かに耳を傾けた。

「俺たちの本来の役目は『杜を守る』こと。この杜にとっても、蝗害は最大の天敵だ。掃滅するために俺たちも必死に手を尽くした。だが蝗害の被害は止まらなかった。木々も葉も虫に喰い尽くされ、この杜も壊滅状態になりかけた時……一陣の風が吹いた」

 その時、フワリと二人の間に風が吹き抜けた。

 杜和はブルッと身震いした。気付くと杜和の吐く息も白くなっている。

「寒いか?」

「少し。でも大丈夫です」

 話しながら家路を歩いているうちに陽も沈み、群青色の空には小さな星が控え目に瞬き始めていた。

 初冬の夜。夕方から一段と寒さを増すのも当然だ。

「俺の背中に乗れ」

「……え? で、でも」

「いいから乗れ。早く帰りたいから塒まで走る。話はそれからだ」

「……はい」

 杜和は躊躇いつつも、お座り状態の黒の背中によじ登る。

 前足付近までよじ登った時、黒が急に腰を上げた。

 体勢を崩しそうになり、思わずギュッと毛を掴む。

 「痛い」と怒られるかと思ったが、「しっかり掴まってろ」と怒られた。

「行くぞ」

 杜和が「はい」と返事をしたと同時に、ザッと走り出す。

 振り落とされないように毛を掴み、頬ずりするような体勢になって、杜和はあることに気付いた。

 お日様の匂いがする。

 手でポフポフする度にお日様の匂いが鼻をくすぐる。それに長い毛に全身が包まれているようでとても温かかった。

 あ、もしかして……そのために?

 ふと黒なりの優しさに気付き、杜和は胸がムズムズした。

 今まで黒と過ごしていて分かったことがある。

 とても分かりづらいが、行動や言葉の端々に黒の優しさが含まれているということだ。真っ直ぐなものではなく、こうしてさり気なくされるから、たまに見落としてしまう。

 そんな思いやりを持っている黒のことを、杜和はいつしか尊敬するようになった。

 自分にないものだから、羨ましいのかもしれない。

「着いたぞ」

 いろいろ考えているうちに、いつの間にか塒に着いていた。

 杜和が半日かけて歩いた場所から、あっという間である。

 毛に埋もれるようにしてしがみついていたので、風の抵抗もあまり感じなかった。

 あっという間の到着に少し驚きつつも、お座りをした黒の背中から滑るように下り立った杜和は、「あ、りがとうございました」と頭を下げて礼を言った。

「来た時よりは肉付きよくなってるが、お前はまだ軽過ぎるな。もう少し太れ」

 狼姿の黒に比べるとほとんどの者が軽いと思うのだが、それを口に出すことなく杜和は「はい」と答えた。

 それに太った方が自分を食べた時、満腹とまではいかないだろうが少しは黒の腹も満たされるはずだ。

「……」

 しかしその答えに不満があったのか、黒は眉間にしわを寄せ両目を微かに細めた。

 睨まれているような感じがする。

「火をおこすから奥に行ってろ」

「……」

 不機嫌な声だ。

 何か気に障ることを言っただろうか?

 ここは大人しく言うことをきいた方がいいと思った杜和は、「はい」と肯くと素直に塒としている洞窟の奥へと歩いて行った。

 黒の機嫌を損ねないよう注意しているつもりなのだが、本人の虫の居所が悪ければそれも無意味のような気がする。

 多分、今がその時なのだろう。

 どうしようかと思案していると、仄かに温かな空気が入り込んできた。黒が火をおこし終えたのだろう。

 杜和が塒にいる時は常に火が焚かれている。

 冬の寒さを着衣で凌ぐことが出来ない杜和のために、焚火で暖をとっているのだ。寝ている時も、体温を自在に変えられる黒が隣にいて杜和を温めているため、布団もない吹き曝しの洞窟の中でも杜和は寒さを感じることなくぐっすりと眠れていた。

「杜和?」

 黒ずくめのずんぐりむっくりの姿に戻った黒が、杜和の名を呼びながら洞窟奥へと歩いてきた。

「あ、はい」

 考え込んでいたら、かなり奥まで歩いていたようだ。

 名前を呼ばれ我に返った杜和は、急いで黒のところに戻った。

「どこまで行ってる? あまり奥に行くな」

 焚火の意味がなくなるだろう、と杜和に軽く注意する。

 その声から不機嫌さが消えていることに、杜和はホッと安堵した。

 そして見慣れたずんぐりむっくりの黒の前で足を止める。

「……戻られたんですか?」

「こっちの方が見慣れてるだろう?」

「……」

 また黒の気遣いが見えた。

 狼の姿より、見慣れた姿の方が杜和にとっては楽だと思ったのだろう。

 そして「えっと、どこまで話した?」と先程の続きを思い出そうとしていた。

「壊滅状態になりかけた時、一陣の風が吹いた、と……」

 あぁ、そうだったと思い出した黒は、座布団のように落ち葉を敷き詰めたところに杜和を座らせると、その隣に腰を下ろし話の続きを始めた。

「その風は、この杜の奥にある双華山そうかざんから吹いてきた、いわゆる山嵐だったんだが、そのおかげで蝗害の被害は収まった。最悪の状態から脱した村人たちはその風を『神風』と名付けた。そしてもともとあった古びていた祠を壊し、あの祠を改めて建て、もう二度と蝗害が起きないよう祈り始めた。贄が人間になったのはその頃からだ」

 話を聴いていた杜和は、なるほどと納得する。

 おまんじゅうだけでは貢物としては物足りないと、人間側が勝手に思い込んでしまったのだろう。そして今の生贄を捧げる風習になった。

 蝗害で廃村になっていてもおかしくない大きな被害を受けたことを考えると、過剰な贄を用意してしまうのも分からなくはないが……。

「俺は杜を守る者だが神じゃない。でも祠が新たに建てられ、贄を貰うことで神のような祠持ちになり、ここに縛られることになった。かなり迷惑なことだ」

 黒の眼光が細められる。

 基本的に人間を好いてはいないのだろう。

「俺が他の奴らを諌めることが出来るのは祠持ちだからだ。それ以外の違いはない」

「……」

 杜和は黒を見つめたまま、瞬きを繰り返した。

 だから安心しろ、と言いたいのだろうか?

 俺と同じような奴らだから村に手を出すことはないと……?

 そう思った瞬間、先程のように胸がムズムズしてきた。そして次第にじんわりとする。

 何だろう。何だか心が温かい。

「ありがとうございます」

 杜和は不思議と礼を言っていた。

「……何の礼だ?」

 不可解そうに訊ねる黒に、杜和の表情が穏やかになる。

「黒が優しいから、わたしはお礼が言いたくなりました」

「…………」

 礼を言った杜和の顔を、黒がマジマジと見つめてきた。

 眼光だけなので、何を思って凝視しているのか杜和には分からない。

 ジッと十五秒くらい見つめられた後、徐々に顔を近づけられ、杜和は少し顔を後ろに引いた。

「今……『笑った』」

「!」

 黒の言葉に、杜和は目を見開いた。

 笑っ……た? わたしが? 今?

 どんな表情をしているのか気になり、自分の顔に手を当ててみる。

 だが顔の筋肉はすでに戻っており、笑っていたのかどうか自分で確認が出来なかった。鏡があればまた違ったかもしれないが。

 それでもまだ驚いたように(多分)凝視してくる黒を見つめ返していると、笑っていたのかもしれないと思えてくる。黒が嘘をつくとも思えないし。

「いや、どうなんだ? 一瞬だったし、微妙過ぎて笑った部類に入るかどうか……」

 悩んでいるのか、眼光が揺れている。

 しかし、その一瞬でも黒が『笑った』と認識したなら、笑ったことになるかもしれない。

 あ、そうか。

 そしてすぐに思い出す。

 黒は約束を果たしてくれた。次は、わたしの番か。

「……」

 途端に複雑な気持ちになった。

 食べられることに抵抗はない、と思うのだが、言葉では言い表せられないモヤモヤとしたものが胸中に渦巻いている。先程感じていた温かさもどこかへいってしまった。

「お前。さっきどんなこと思ってた?」

「……?」

 杜和は小首を傾げる。

 どこか落ち込んだ気持ちになっている時に突然聞かれ、杜和は慌てて気持ちを切り替えた。

「え……っと、黒が優しいから胸がムズムズして、温かくなって……」

 そこまで言って言葉を詰まらせた杜和は、歪みそうになる表情を黒に悟られないように顔を伏せた。

 唐突に理解してしまった。

 そうか。わたしは、黒とさよならするのが嫌なんだ。

 俯きながら、杜和は自分の唇を噛んだ。

 これまでの日々を思い返せば、黒が杜和のためにしてくれたことがたくさんある。

 その最たるものはもちろん衣食住になるだろう。

 祖母が亡くなってから天涯孤独で暮らしていた杜和は、村で暮らしていた時もやっとの生活を送っていた。故にこれに関してはかなり改善されている。

 その他にも、暖をとるための焚火や杜和が寒くないように寄り添って寝てくれていたこと、森の中で迷った杜和をいつも捜しに来てくれていたこと、こうして律儀に取り引きをしてくれたこと、それ以外にも杜和が気付いていないものもあるかもしれない。

 もっと、黒と一緒に、いたかった……な。

 でもわがままは言えない。黒が約束を守ってくれたなら、わたしも生贄としての役目を全うするのが筋だ。

「杜和?」

 言葉を切った杜和に、黒の不思議そうな声が響く。

「……」

 顔を上げることが出来ない。

 今、黒を見てしまったら、きっと……。

 必死に堪えていると、小刻みに肩が震えた。

「まだ寒いのか?」

 寒さに身震いしているのだと勘違いした黒が、焚火に薪をくべようと腰を上げる。そしてそのまま洞窟入り口へと歩いて行った。

 よかった。少し落ち着こう……。

 黒が自分から離れたことで安堵した杜和は、目を閉じ長嘆を洩らす。

 それから小さく「よし」と気合を入れ、目を開いた杜和がゆっくりと顔を上げた、のだが―――。

「!」

 ハッと息を呑んだ。驚きに瞠目する。

 焚火の方に歩いて行ったと思った黒が目の前にいて、杜和を見下ろしていたのだ。

「違うな。何だ?」

 そして決めつけで聞いてくる。

「……」

 杜和は迷った。

 どうすればいいか迷ったのは初めてだ。

 ずっと流れに身を任せて生きてきたから、こんな時、どうすれば正解なのか分からない。

 誤魔化すのがいいのだろうか?

 でも黒は絶対に見逃さないだろう。小さな嘘でさえも見破ってしまうのだから、多分意味がない。

 どうしよう……。

 困惑していると、頭上から溜息が聴こえた。

「杜和の考えていることは分からん」

 杜和を見下ろしていた黒は呆れたような口調でそう言うと、先程のように杜和の隣に腰を下ろした。

「お前にとって笑えたことは嬉しいことじゃないのか?」

 ジッと杜和を見つめてくる眼光が微かに細まる。

 どこか不服そうな色を帯びているその眼光を見つめ返していると、やはり胸がムズムズしてきた。

 杜和は困ったように表情を歪ませた。

「わたしは黒の優しいところに嬉しさを感じていました」

「……は?」

 意味が分からないとばかりに黒が短く聞き返す。

「確かに『笑う』ことはわたしの最期の望みですが、黒の優しさを感じる度、胸がムズムズしていました。今思うと、心からの笑顔を出す準備は、ずっと前から出来ていたのかもしれません」

 杜和の話すことがいまいち理解出来ず、黒は無言を返す。

「黒はわたしの望みを叶えてくれました」

 黒の方に体ごと向いた杜和は、ジッと黒を見つめた。そして寂しそうな表情で……笑った。

「どうぞ、わたしを食べて下さい」

 自分を見上げてくる杜和を、黒も無言でジッと見つめ返した。

「…………」

「…………」

 穴が開くのではないかと思うほどお互いに見つめ合う。

 眼光だけの黒を見つめていると、次第に黒に食べられるのは幸せなのかもしれないと杜和は思い始めてきた。

 杜和が生贄になることで村も救われるし、生贄を食べることで黒の腹も満たされる。杜和自身も、生贄になることで村の役に立つことが出来るし、まだまだ一緒にいたいと思わせてくれた黒に食べられることに、不思議と今は幸せを感じている。

 全てに納得が出来る状態だった。

 それは杜和にとって、多分、嬉しいことだった。

「……嬉しくないな」

 黒の不機嫌そうな声音に、我に返った杜和はきょとんとしたまま小首を傾げた。

「今のお前の顔は駄目だ」

 意味が分からない杜和は、黒を見つめたまま瞬きを繰り返す。

「さっきの笑った顔は、なんでか俺も嬉しくなったが、今のは駄目だ。お前、ちゃんと本心を言ってるか?」

 ずんぐりむっくりの体で詰め寄って聞いてくる黒に、なおさら分からなくなった杜和は頭の中で混乱した。

 杜和は嘘をついていない。黒に見破られることを分かった上で嘘をつくのは意味がないから。さっきのように誤魔化そうとも思っていない。それも黒には意味がないから。

 だから今回は本心を言っている。

 黒に食べられることに幸せを感じているのだから、嘘も誤魔化しも入っていない。

 それなのに、黒は杜和の言葉を本心とは受け取っていなかった。

「俺は杜和の小さな言動の1つ1つから、それが本心かそうでないかを見抜くことが出来る。だが、杜和の考えていることまでは分からない。だから訊く。杜和が何を思っているのか」

 揺れる黒の眼光を見つめながら、杜和は何かに気付かされたように目を見開いた。

「俺は、俺が見抜いたものと合致する答えじゃなきゃ納得出来ん」

 つまり寂しそうに笑う表情と、「わたしを食べて下さい」と言った杜和の言葉は、黒の中で不一致だったということだ。

「あの、でも、本心なんです。黒に食べられることに、今は幸せを感じています。それは嘘ではないですし、もともと生贄で来ているので本当に後悔はありません」

 慌てて嘘ではないと弁解する。

「……」

 しかし黒は納得していないようだ。まるで責めているように眼光が細まる。

 観念したように肩を落とした杜和は、仕方なく打ち明けることにした。

「ですが……もう1つ、思っていることがあります。黒と、もっと一緒にいたい、と……」

 最後の方は尻すぼみになっていた。

 あまりにも図々しいことを言っていると後悔した杜和は、黒の目を見られなくなりしょんぼりと俯いた。

「そっちだな」

 急に黒が断言する。

「あの顔なら、そっちが本心だ」

 どうやら黒の中で合致したようだ。

 ようやく納得出来る言葉が聞けた黒は、呆れたように溜息を吐いた。

「杜和がそうしたいならそうすればいい」

「……え?」

 その言葉はかなり意外なもので、杜和が思わず顔を上げる。

 黒は自分の真正面で驚いている杜和を面白気に見つめた後、おいでおいでと手招きして再び自分の隣に座らせた。

「もともと俺たちに生贄はいらない。今まで生贄としてこの杜に入った人間も、村の存在よりも自分可愛さと恐怖心の方が勝って、ここに辿り着く前にどっかに逃げてる。まぁ、逃げたところで村には帰れないだろうから、別のところで今は新たな生活を始めているはずだ。素直にここまで来たのはお前が初めてだ」

 杜和は唖然となりながらも、「でも、あの骨とか、は……」と、初めて黒と出会った時のことを思い出し訊ねる。

「あれは……杜で行き倒れになった人間を、この辺に棲息している野犬どもが喰い散らかした跡だ。俺たちじゃない」

 最初に脅されるように気付かされた骨や干乾びた肉片は、黒たちの仕業ではなかった。そして生贄で黒のところまで辿り着いたのが杜和だけだったのなら、贄として人間を食べたと言ったのも嘘ということになる。

 黒としては怖がらせてこの森から出ていくよう仕向けたかったのだろうが、杜和には通用しなかったということだろう。

 しかし杜和には腑に落ちないことがあった。

「でも黒はわたしの望みを叶えてくれたのに、わたしには何も返せるものがありません」

 もとは黒が杜和を食べる代わりに、杜和の最期の望みを叶えるという取り引きだった。生贄がいらないとなると、杜和だけが得をしていることになる。

「俺は俺なりに楽しめたからいい。ずっと退屈だったしな。杜和を笑わせるのもゲームみたいで面白かった」

 本当にそう思っているのか眼光だけでは分からないが、黒が言うならそうなのだろう。

「!」

 ふと気付くと、隣に座る黒の体が温かくなっている。杜和が寒くないよう、気温に合わせて自分の体温を調節しているのだ。また胸がムズムズする。

「ここにいたいならそうしろ。村に帰りたいなら帰れ。他の村で新たな生活を送りたいなら、自分が行きたい村へ行け。選ぶのは杜和だ」

 ここでも黒は杜和に選択肢を与えた。

 少し突き放されたのだろうかと思ったが、黒の眼光は揺れていた。

 実は、黒と四六時中一緒にいたことで分かったことがある。黒の眼光が揺れている時は、心が動揺している時だと。

 杜和は村に帰りたいとも、他の村に行きたいとも、ここにいたいとも思っていない。

 ただ―――。

「黒のそばにいることを選んでもいいですか?」

 どこであろうと、黒のいるところに杜和もいたかった。

 杜和は

「……好きにしろ」

 ぶっきらぼうな口調だったが、その言葉が杜和はすごく嬉しかった。胸のムズムズがじんわりと温かくなり、自然と顔も綻ぶ。

「!」

 ハッとした杜和は自分の顔に手を当てた。驚きに瞠目する。

 今度は杜和も自覚した。

 わたし、笑ってた―――。

「うん。『笑った』な」

 黒の手が杜和の頭を撫でる。そして「そうだな……」と考える素振りで言葉を続けた。

「杜和が俺のそばで笑ってるのも楽しいかもな」

 黒の眼光が微かに細まる。

 よかった、と杜和は安堵した。

 黒に迷惑が掛かるなら、ここから立ち去るしかないと思っていた。

 だが自分がそばにいることで黒が楽しいと思ってくれるなら、願いを叶えてくれた黒に少しは恩返し出来るのではないかと思った。

「杜和」

 ふいに違う口調で名前を呼ばれ、杜和は少し緊張しつつ「はい」と返した。

「お前は今、何を感じ、何を思う?」

「……」

 黒の言葉の意味を考えつつ、杜和はジッと黒の眼光を見つめた。

 出会った頃は、自分を見つめ返すこの眼光から黒の心情を読み取ることが出来ず不安な気持ちもあったが、今こうして心穏やかな気持ちでいられるのは黒がそばにいてくれたからだ。

 杜和に人間らしい感情を思い出させてくれたからこそ、杜和自身が望む心からの笑顔を出すことが出来た。

 黒に対しては感謝の気持ちしかない。

 杜和はその正直な胸の内を、黒の質問の答えとして返した。

「……そうか」

 その一言に照れのようなものを感じ、杜和が黒の眼光を覗き込むように体を前に倒したが、やはりどんな表情をしているのか分からない。

 すると頭に置かれている黒の手がピクリと動き、杜和の頭を自分とは反対の方向に向けた。

「……」

 心情を悟られないための照れ隠しなのだと思ったら、違う感覚のムズムズ感に胸が満たされる。

 反対側に向けた杜和の頭を力強く撫でる黒がどこか可愛く思え、杜和は黒に気付かれないよう小さく笑った。


『黒のそばにいられることに幸せを感じ、黒とともに生きたいと思っています』

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