第7話 放課後のゴリラ

「乾。おい、乾起きろ」


 俺は机に突っ伏して気持ちよさそうに涎を垂らしながらイビキをかいている乾の頭を引っぱたいた。ようやく目を覚ました乾が身を起こし、両腕を大きく上に伸ばして身を反らした。


「う~ん、よく寝た。どうした? 猿山」


「どうしたじゃないだろ。とっくに6時限目終わって、皆帰っちゃったぞ」


 ガランとした教室内を、乾が寝ぼけ眼で見渡した。


「あれ? まだ5時限目じゃなかったっけ?」


「だから、2時間ぶっ続けで寝てたんだよお前は」


 まったく、高3のこの大事な時期に吞気な奴だ。とはいえ、乾は羨ましい事に大学進学はする必要が無い。なんでも、高校卒業後は実家の洋菓子屋を継ぐんだとか。一度だけこいつの作ったロールケーキを食べた事があるが、味も見た目も文句なしだった。人は見かけによらないものだ。


「ああそう。まあいいや。んじゃ帰ろうぜ」


「その前にさ……その、何だ。図書室に行かないか?」


「は? 図書室?」


 乾が俺に、何言ってんだコイツという目を向けてくる。


「漫画かエロ本があるなら付き合ってやってもいいぜ」


「いや、流石にそれはないと思うが……。あっても歴史漫画とか」


「じゃあ行かねえ。1人で行けばいいだろ」


 くっ……薄情な奴め。1人で後藤さんに会うのが不安だから誘ってるんだろうが。だが、理由を説明したところでますます来る気を無くすだけだろう。仕方ない……今回は俺1人で行くか。

 乾と別れて、俺の足は真っ直ぐ図書室に向かっていた。思えば入学以来、図書室なんて足を踏み入れた事もなかったな。乾同様、俺も漫画やエロ本ぐらいしか読んだ事がない。小説だとか自伝だとか参考書だとか、そんな物には全く興味がないのだ。

 4階まで階段で上がり、右に曲がって少し歩いたところに図書室はある。俺はそっと中を覗くと、受験前という事もあってか、自習中の3年生の姿が目立つ。そして何より目立っているのは……窓際の席で山積みの本を読書している後藤さんだ。縦も横も相変わらずでかい。何て見つけやすいんだろう。たとえ満員の東京ドームの中でも、ピッチャーマウンドから観客席のどこかにいる後藤さんを見つけ出す自信がある。

 俺は緊張をほぐすために軽く深呼吸してから図書室に入った。席は程よく埋まっていて、後藤さんの周りはある程度空いている。よし、絶好のシチュエーションだ。これなら近くに座っても何もおかしくない。近くまで行ったところで後藤さんが顔を上げ、俺に気付いた。


「あっ、猿山君。こんにちは」


 後藤さんはニコリと笑った。何気ない微笑みも、そのゴリラフェイスから放たれると凄いインパクトだ。


「やあ。最近よく会うね。ここ空いてる?」


「はい、どうぞ」


 俺は長デスクを挟んで、後藤さんの斜め前の席に座った。流石に隣に座るわけにはいかないし、真正面で向かい合って座るのも気まずい。俺は大してやる気のない問題集とノートを鞄から出して、デスク上に広げた。


「自習ですか?」


「まあね。一応受験生だから」


 とりあえずシャーペンを手に取り、問題に取りかかる。うん、さっぱり分からん。そもそも数学なんて社会に出て何かの役に立つのか? 足し算、引き算、掛け算、割り算。これだけ出来れば生きていくのに充分な気がしてならない。まあそんな事を言っても仕方ない。少なくとも、大学に入るためには必要なのだ。


「その計算式、間違ってますよ」


「えっ」


 いきなり後藤さんに指摘されて驚いた。後藤さんが立ち上がり、俺の横に並び立ってから、問題集を極太の指で差した。


「ここはほら、この公式を当てはめるんです」


「あっ、そうか。なるほど」


 俺は言われた通りに訂正する。答えを確認すると、確かに間違いない。


「後藤さん、数学得意なの?」


「まあ……そうですね。他の教科もそこそこは」


「じゃあ、結構いい大学狙ってたりするの?」


「一応、門木もんき大学志望です」


 も、門木大学!? 全国的に見ても名門大学じゃないか。しかもそんな大学を志望しているのに、図書室に入り浸って読書に励む余裕ぶり。後藤さんってもしかして、滅茶苦茶優等生なんじゃないのか? 更に球技大会で見せたような、超人的なパワーと運動神経。文武両道とは正に後藤さんのようなゴリラ……いや、人の事を言うのだろう。


「猿山君は、どこの大学に行くんですか?」


「えっ……その……お、俺も門木大学……かな」


 おい。おいおいおいおい。待てコラ。何を言ってんだ俺は。大学なんて、入れればどこでもいいんじゃなかったのか。そんな意識低い俺が、よりにもよって門木大学だと? 寝ぼけるのもいい加減にしろ。そもそも何で後藤さんと一緒の大学に行こうとしてるんだ。


「あら。私と一緒なんですね」


「いや、ごめん噓噓。俺なんかがそんな所入れるわけないって。こんな問題集に手こずってるようじゃ絶対無理」


「……」


「はは……」


「……」


「……」


 な、何だこの沈黙は。もしかして怒ってるのか? 門木大学をナメんじゃねえって事なのか? いや、だから俺なんかには無理なのは分かってるって言ったじゃないか。

 重苦しい沈黙が続く。とにかく続きをやろう。俺は気まずい空気を振り払うようにペンを取った。しかし今の問題は理解できたが、次の問題がまた分からない。


「私で良かったら、教えましょうか?」


「えっ……?」


「あ、ごめんなさい。いきなり図々しいですよね」


「いやいや! 全然そんな事ないって!」


 周りの生徒から非難の眼差しが突き刺さる。しまった、ここは図書室なんだ。突然の事に、つい大声を出してしまった。


「じゃあその……お願いしようかな。でも、いいのか? 俺なんかに構ってる暇あるの?」


「大丈夫ですよ。門木の入試の過去問は一通り終わったし、この積んである本もいつでも読めますから」


 後藤さんはそう言って、俺の隣に座った。それと同時に、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。無意識に獣臭を想像していた俺は、そのギャップにドキリとした。ところで、どこかで嗅いだ事のある匂いだな。それも日常的に……。

 俺はそこまで考えてから、思わず苦笑いした。そうだ、バナナの匂いだ。そしてふと見ると、後藤さんの鞄にはバナナのストラップが付いていた。本当にバナナが好きなんだな。

 暫くマンツーマンで後藤さんから勉強を教わっていた俺だが、たった今大変な事に気付いた。あれだけいた他の生徒達が、いつの間にか全員いなくなっていた。時計を見ると、既に6時半を回っていた。皆帰って当然だ。外も暗くなっている。後藤さんもどうやらその事実に気付いたようだ。

 室内に、俺と後藤さんが2人きり……。そう考えると、とっくに解けていたはずの緊張が再びやってきた。どちらにしても、これ以上付き合わせるわけにはいかない。後藤さんの家族も心配してしまうだろう。


「そ、そろそろ終わろうか。もう遅いし」


「そうですね……」


 後藤さんが立ち上がって、自分が出した本を持って片付けを始めた。俺の後片付けの音と、後藤さんの足音だけが、静寂の図書室内に鳴り響く。

 片付けが終わり、電気を消して図書室を出た。俺達はそのまま並んで校舎を出て、校門まで来た。その間、俺達は一言も喋らなかった。どこか気恥ずかしかったのだ。しかしこのまま黙って別れるわけにはいかない。俺は校門をくぐると同時に、後藤さんに向き直って顔を見上げた。


「今日はありがとう。遅くまで付き合わせちゃって、ホントに申し訳ない」


「いえ、全然いいんです。また分からない所があったら聞きに来て下さい。私、大体放課後は毎日図書室にいますから」


「あ、ありがとう。でも、何でそこまでしてくれるんだ?」


 俺のその言葉に、後藤さんが答えを詰まらせる。視線をあちこちに移し、落ち着かない様子だ。数秒後、ようやく言葉を見つけたようで口を開いた。


「今年は門木大学に志望するの、私だけみたいなんです。知ってる人と一緒に同じ大学に行けたら、楽しいじゃないですか。それに私、一生懸命な人を見ると、つい応援したくなっちゃうんです」


 後藤さんがそう言って、はにかんで笑った。その笑顔に、俺は心臓を矢で射抜かれたような衝撃を覚える。何だ……何なんだこの気持ちは。まさか……まさか俺は……。


「そ……そうだね。じゃあ、また今度顔出すよ」


「はい。それじゃ、また。頑張って下さいね」


 後藤さんは軽く手を上げてから、俺に背を向けて歩き出した。俺は後藤さんの姿が見えなくなるまで、その大きな大きな背中をじっと見続けていた。そして、すっかり暗くなった空を見上げてフッと息をつく。

 後藤さんと初めて話をしたあの時以来、俺の心はまるでネジが1本外れたようにおかしくなっていった。後藤さんと関わる度に、そのネジはまた1本、また1本と抜けていく。

 俺はその原因がようやく理解できた。大抵の人は小学生ぐらいで経験する事が、俺は17歳にもなってようやく訪れたのだ。

 いつか誰かにこんな事を聞かれたとしよう。「初恋の相手はどんな子だったの?」と。そしたら、俺は迷わずこう答えるのだ。


「初恋の相手は、ゴリラでした」

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