第3話 そんなバナナ

 4時限目が終わった。勉学に勤しむと決めたばかりだというのに、全く集中出来なかった。あのゴリラ女子、後藤梨央にどうやって話し掛ければいいのか、そればかり考えていたのだ。

 別に礼なんか言わなくてもいいんじゃないか。向こうも俺を助けた後に名乗り出る事はしていないんだし、誰が助けてくれたのか分からなかったという事にしてしまえば……。などと、途中そんな結論に至ろうとしていた。

 だが、そんな事は駄目だ。助けてもらったら礼を言う。幼稚園児でも知っている世界の常識だ。しかも命の恩人なんだぞ。このまま知らんぷりしていたら、一生後悔する気がする。余計なお世話だと思われるかもしれないが、やはり礼は言うべきだ。


「……それはいいんだけどよ。だから何で俺が一緒に行く必要があるんだよ」


 不満げに俺の後ろを付いてきている乾が言った。他の連中からサッカーに誘われていたところを、俺が無理矢理引っ張ってきたのだから無理もない。


「頼むよ……俺1人じゃ不安なんだ。俺が女子とまともに話した事ないの知ってるだろ? 隣で突っ立ってるだけでいいからさ」


「はあ……まあいいけど。さっさと済ませてくれよな」


 そんな事を言っているうちに、12組の教室の前に着いてしまった。教室内を覗くと、後藤梨央はまだランチの最中だった。他の数人の女子と机をくっつけて談笑している。


「!?」


 俺はまたしても度肝を抜かれた。彼女の弁当は……なんと1房のバナナだった。主食もおかずもない。バナナオンリー。オールバナナ。思わず「そんなバナナ」などとくだらない事を口に出してしまいそうになる。食生活までゴリラそのものだ。ゴリラじゃない要素を探す方が難しい。

 乾が早くしろと言わんばかりにジロリと俺を見てくる。さてどうしよう。物凄く入りづらい。入ったところで、いきなり話しかけていいものなのか。そもそも何て声をかければいいのだ。


「あっ、猿山君。退院してたんだ? うちの教室前で何してんの?」


 12組の生徒であり、俺と同じ元野球部員である雉田きじたが、俺に気付いて声をかけてきた。雉田とは1年の頃から乾と共によくつるんでいた。こいつに呼んできてもらおう。


「ああ、雉田か。ちょうど良かった。後藤さんを呼んできてほしいんだが」


「後藤さん? 君ら知り合いだったの?」


「いや、そういうわけじゃないんだが……。話があるだけだ」


「ふーん? 分かった」


 雉田が不思議そうな顔を浮かべながら教室内に引っ込み、後藤梨央の席へ歩いていく。そのまま彼女の前に立ち、俺の方を指差した。そして俺はその時初めて彼女と目が合った。

 俺は思わず息を飲んだ。数メートルの距離があるというのに、目が合っただけで物凄い威圧感を感じる。まるで肉食獣と向かい合っているようだ。

 一方、彼女は俺を見て少し驚いた表情を浮かべた後、困惑した様子を見せた。どうやら、向こうは俺の事を知っていたらしい。

 彼女はゆっくりと席を立ち、こちらに歩み寄ってきた。俺の隣に立っていた乾が1歩後ずさる。無理もない。身長2メートル近いゴリラが、二足歩行でのしのしと近付いてくるのだから、誰だって逃げたくもなる。

 しかし呼び出した張本人の俺がそんな事をするわけにはいかない。彼女は俺の目の前に立つと、見た目に反するつぶらな瞳で俺を見下ろした。


「えと……私に何かご用でしょうか?」


 俺はまたまた仰天させられた。アニメの美少女のような今の声は、本当にこのゴリラが出したのかと。当たり前のように野太い声を想像していた俺は完全に面食らい、暫し呆然と立ち尽くして言葉を忘れてしまっていた。


「あっ……その……。ちょっと、聞きたいんだけど、さ。に、2ヶ月前に、枯木の下敷きになっていた俺を、助けてくれたのって……」


「ご、ごめんなさい!」


 彼女はそう言って、腰を90度曲げて勢いよく頭を下げた。俺は咄嗟にのけぞって助かったが、危うく脳天に頭突きを食らうところだった。それにしても、何故いきなり謝られたのかが分からない。


「な、な、何? 何で謝るんだ?」


「あの……確かに木をどけて救急車を呼んだのは私です。でも、救急車が来る前にすぐに立ち去ってしまって……。本当は応急手当とか、救急車の案内とかした方が良かったのは分かってたんですけど、あの時はどうしてもすぐに帰らなければいけなくて……ごめんなさい」


 ああ、そういう事か。確かに倒れている人間がいたら、救急車が着くまで付き添っているのが普通だ。だが、彼女が俺の命の恩人である事に何ら変わりはない。


「いや、全然いいんだそんな事は。ただ礼を言いたかっただけだから。ありがとう、後藤さん」


「あ、いえ、その、ど……どういたしまして」


 彼女はしどろもどろに言った。どうやら、性格の方も見た目に反して内気で繊細のようだ。これ以上話すと逆に気を遣わせてしまうかもしれない。ランチの途中だったし、この辺で引き上げた方が良さそうだ。


「じ、じゃあ俺はこれで。食事中に悪かったね」


「いえ、そんな……お気遣いなく……」


 気まずい空気を残したまま、俺は背を向けて3組の教室へと足を向けた。乾が俺の横に並び歩き、深く溜め息をついた。


「はあ~。いやぁ、俺まで緊張しちゃったよ。間近で見るのも声を聞くのも初めてだったぜ。まさかあんなソプラノボイスだったなんてな。しかも話してみると意外と普通な感じだったな」


「ああ……俺もビックリした」


 そう。見た目と腕力以外はその辺にいる女子高生と何も変わらないのだ。むしろどちらかというと、クラスであまり目立たないタイプだ。あんな容姿なのに、12組の他の生徒と普通に打ち解けていた理由が分かった気がする。

 さて……本来ならこれでこの件は終わりだ。礼も言えたし、彼女もこれといって何か見返りを要求してきているわけでもない。これからは以前と何も変わらない、いつも通りの日常を過ごす事になるのだろう。

 でも、何故だろう。俺はあの後藤梨央という女子の事が、頭から離れなくなっている。彼女の事をもっと知りたい。彼女は本当に人間なのか、それともやはりゴリラなのか。バナナ以外に好きな食べ物はあるのか。どの辺りに住んでいるのか。部活はやっていたのか。趣味や特技などはあるのか。そして……。


「おい、聞いてんのか?」


「えっ。あ、すまん。全然聞いてなかった」


 さっきから乾が何か喋っていたようだ。脳を通らずに、耳の穴から反対の穴へと素通りしていたらしい。

 今度、雉田にいろいろ聞いてみるか。江手高は3年間クラス替えがないから、雉田なら彼女の事をよく知っているだろう。

 俺はとりあえず心の中でそう区切りを付けて、今日の昼飯は何にしようかという事だけを考え始めた。

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