第26話『3年間の決着-前編-』
「……久しぶりだな、荻原」
俺は3年前に引き戻されるような感覚に陥る。何故なら、今の声は3年前のあの日からずっと聞いていなかったからだ。
ゆっくりと俺は声の主の方に向く。
「成瀬先輩……ですか。お久しぶりです」
俺と変わらないくらい背丈で髪が金色の男性が立っていた。黒いジーパンに上は英字がプリントされた七分袖の白いTシャツというシンプルな格好だった。そう、彼こそが3年前の事件にかかった張本人である成瀬航平だ。
「大輔さん、この方は?」
「成瀬航平先輩。ほら、昨日の午後……三年前のことについて話しただろ。そのときに登場した成瀬先輩のことだよ」
「えええっ! と、ということは……この方は成瀬さんのお兄さん……」
「そういうことだな」
そう言うと、杏奈は一歩引いてしまった。三年前の話をしたこともあってか、自然と先輩に関しては悪印象を抱いてしまっているかもしれない。
しかし、先輩はそんな杏奈のことは眼中にないようで、俺に向かって不機嫌なオーラを全開にしている。
「荻原、こんなところで何をやっているんだ?」
「今日は……妹の授業参観に来たんですけど。それが何か?」
「とぼけるなよ。さっき、瑠花のことを泣かせたじゃないか。俺ははっきりと見たぞ。お前が瑠花に罵倒を浴びさせて挙げ句に瑠花が泣いているところを」
誰もいないと思ったのに、よりによって先輩があの一部始終を見ていたとは。最悪の展開だ、これは。
「荻原さんはわざとそういうことをしたの! あたしが間宮さんに対してどんなに悪いことをしたのかを分からせるために! 荻原さんは何も悪いことはしてないわっ!」
瑠花さんは俺の前に出て、俺のことを必死に弁護してくれている。
「瑠花、荻原にそう言われているように強要されているなら、正直にそうだと言ってくれていいんだぞ」
「そんなことない!」
「……なあ、荻原。妹にこんなことを言わせることがみっともないってことぐらいはお前なら分かるだろ?」
「確かに俺は行きすぎた行動をしたと思っています。しかし、その目的は妹さんが言ったとおり、彼女の犯した過ちの重さを分からせるためです」
「関係あるかっ! やっぱりお前は……狼のままだったんだな。3年前のあの日からずっと変わっていないのか」
「……あれは誰かが勝手に名付けた俺の二つ名みたいなものです。俺自身が本当に狼というわけじゃありません」
「狼だろうが。瑠花にあんなことをしやがって。自分の独断で他の人間を振り回して、その結果……誰かを苦しませる羽目になる。それが全く分かっていないようだからな」
先輩のその言葉に俺は3年前の夏、市大会の決勝戦のことを思い出す。
あの時、前半を通して3年生に異変を感じ、3年以外の生徒に下した俺の命令が間違っていたとでも言うのだろうか? その結果、試合には負けたけれど……俺や命令に従ってくれたチームメイトは誰も後悔はしていなかった。
――じゃあ、誰が苦しんだというのか?
由衣のことか? いや……成瀬先輩の方から人質に取った人間のことに対してそんなことを言うか? それなら、一体誰なのか?
唯一つ考えられることは、俺がずっと3年間抱えていたある疑問についてだ。一度、俺がそれを訊いたらはっきりと答えを言われたけれど、それでもまだ俺の頭の中でうやむやになって残っていること。それが答えに結びついているに違いない。
「先輩、訊きたいことがあります」
「なんだ?」
「あの後も……先輩はサッカーをされているんですか?」
「……やってるよ。荻原の所為でスポーツ推薦がなくなったけれど、あれから必死に勉強して桜沢東高校に入学して部活にも所属している」
「そうですか」
桜沢東高校。桜沢市にある公立の高校で、サッカー部が全国大会に出場したことから急に倍率が上がった人気株の高校である。
そうか、先輩が希望の高校に進学できたのは喜ばしいことだ。
ただ、今はそれどころではない。俺の訊きたいことはそんなことではない。
「先輩はあの時から上手でしたからね。今もきっと部活の後輩に対して、サッカーを教えているんでしょうね。先輩が思っているサッカーというものを」
「そ、そうだけど」
「……覚えていますよね。あの日、先輩が由衣を人質に取ったとき……先輩のサッカーがどういうものなのかと俺が訊いたことを」
「どうだったか……覚えていないな」
「それは通じません。それなら今、どのようなサッカープレーを後輩に教えているのかを聞かせてください。先輩の思うサッカープレーが3年前と同じなら、ファールを取られないように上手く敵の選手に怪我を負わせるんでしょうね!」
「違う! 俺はそんなことを教えるつもりは全くない!」
「じゃあ、どうしてあの時、3年生が不正とも言えるようなプレーばかりをしていたんですか! 今でもあんなことをするなんて信じられないんです。だからあの時、俺は訊いたんです。あれが先輩の掲げているサッカーなのかどうかを! そうしたら先輩はあの試合こそが俺のサッカーだと断言したじゃないですか! あの時と考えが同じなら、今すぐに俺の体のどこでも良いので殴るなり蹴るなりしてみてください! 3年前と同じ状況なんですから!」
俺は先輩の前に立つ。
あまりに急すぎる展開で、杏奈も琴音も片岡も、妹の瑠花さんでさえ何も口を挟むことができなくなっていた。
今でも俺は、サッカーを始めた当初から胸に掲げていることがある。サッカーはどんな敵が相手でも、自分の今ある実力を見せつけるものだと。勝てる可能性が僅かにしかなくても、チーム一丸となって全力で立ち向かっていくものだと。
先輩はそんな俺と真逆の考えにあるんだ。決勝戦だってその気持ちの差異から負けという結果が生まれてしまったと先輩は思っているんだろう? それなら、俺のことを殴ったり蹴ったりことができるはずだ。
先輩の右手が拳になっていて震えているが、ただそれだけで俺の体に向かってくるといいうことはない。むしろ、先輩は何かに思い悩んでいるようにも見えた。
そして、一分ほどが経って、
「……荻原。すまなかった、本当に……」
気づけば、先輩は俺の前で土下座をして謝っていた。
そのことがあまりにも意外すぎたのか、瑠花さんは動揺を隠せない。
「お兄ちゃん、どうして……荻原さんにそんなことをする必要があるの?」
「……瑠花、覚えているだろう? 3年前の夏のことを。俺が……不良からお前のことを助けたことがあったよな」
「うん。覚えているけど……それが何か関係あるの?」
「ああ」
どういうことだ? 瑠花さんが関係しているっていうのか? それに、不良に絡まれたとか言っているけど。
「とりあえず顔を起こしてもらえますか?」
とにかく、先輩はあんなプレーが本心でないことが分かったし、先輩に何時までも土下座をさせるわけにもいかない。
先輩の様子を伺ってみると、怒っているというよりも、悔しがっているという方が正しいように思える。
「3年前、決勝戦の前日のことだ。夕方、桜沢駅の近くを歩いていたら、不良に絡まれている瑠花を見つけてさ。その時、急に血が頭に上ったんだろうな、不良全員と乱闘を起こして瑠花を助け出したんだよ」
「それは……良いことなのでは? 頭に血が上るというのは先輩らしくないですけど、妹さんが関わっていたなら仕方のないことですよ」
「……ああ、今覚えばな。でも、その時……俺が起こした乱闘事件をあいつが隠し撮りしていたんだよ」
「あいつ、というのは?」
「
「もちろん覚えていますよ」
菅波大雅。あの試合に出ていた、例のファールばかりしていた3年生の1人。しかも、菅波大雅はサッカー部の部長だった。
「……ちょっと待ってください。隠し撮り、って言いましたよね?」
「ああ。あいつ……わざと瑠花に対してあんなことをしたんだ。不良達は菅波が金で雇った当時高校生だった奴らだ。その時の写真を使って俺に脅迫してきたんだ。決勝戦ではファールとならないように上手く相手に怪我を負わせ、試合に出られる選手を1人ずつ減らしていこうじゃないかって。俺、その時から桜沢東からスポーツ推薦の話が来ていてさ。菅波は俺が言うことを聞かなければ、高校に直接写真を持って推薦の話を無しにしてくると言ってきたんだよ。菅波も決勝戦に勝てば俺とは別の高校のスポーツ推薦が取れる状況だったし。利害が一致してしまったということだ」
「でも、そこまでする必要が……あっ!」
まさか、そういうことだったのか!
俺の反応を見た先輩は一瞬だけれど笑った。
「分かっただろ? 決勝戦の相手は県大会常連で、年によっては全国大会にも出場するような強豪校だ。菅波は端から部員のことを信用してなかったんだよ。俺達の実力で真っ向勝負しても勝てる見込みは全くないって」
「でも、試合に参加できる選手を1人ずつ減らせば勝てる可能性が出る。部長はそう考えていたというわけですね」
「ああ、その通りだよ。荻原」
何という酷い企みだ。自分のことしか考えていないじゃないか。そのために先輩をわざわざ脅迫してまで従わせるなんて。
「あとは試合で例の計画を実行するのみだった。でも、実際には2つのミスがあった」
「2つのミス、ですか?」
「ああ。1つはその計画が試合の前日に立てられたために、3年生にしか内容が知らされていなかったこと。そして、もう1つは……お前だよ、荻原」
「俺、ですか?」
「そうだ。俺達3年の異変に気づいたお前は後半、独断で2年生や1年生を引っ張る形となり、それどころか3年にボールを極力触らせないようにもした。そして、その結果……試合に負けてしまった。菅波は怒り狂っていた。最初は俺に対してだったけれど、時間が経つにつれて怒りの矛先は荻原に向けられるようになった」
「だから、あの時……俺に責任を取れと先輩は言ったんですね」
「ああ。全てはあいつの命令だ。椎名を人質に取ったのはあの日、お前を確実に部室へ呼び出すためだった。危害を加えるつもりは何一つなかったんだ」
「そうだったんですか……」
「あの時、お前が俺に言った1つ1つの言葉が痛いほどに身に染みたよ。お前と同じ言葉を菅波に言うことができたら、例え試合に負けても後悔せずに済んだだろうって。お前に俺の考えているサッカーを問われて、嘘を言わなければならないときが一番辛かった。あんなこと、サッカーをやってきた今までの自分を全否定しているだけじゃねえか。全くさ……」
情けねえよ、と先輩は呟いた。
「でも、あの時は推薦が取れなかった理由を荻原の所為にしていた。そう理由づけて俺は勝手にお前に恨みを抱いて、お前のことを殴っちまったんだ」
「しかし、先輩は――」
「その先は言わないでくれ。あの時、本当に許せなかった相手は……自分のことばかり考えて、本来のサッカーを見失った俺自身なんだよ。荻原、お前は何一つ間違ったことはしていない。むしろ、お前は俺を何度も正しい道に引き戻そうとしてくれたんだ」
「先輩……」
やっぱり、先輩は先輩だったんだ。いつも真っ向から向き合うサッカーを、俺の目指しているサッカーを第一に考えていた人だったんだ。
「荻原がウルフと揶揄され始めてから、俺は何時も罪悪感に苛まれていた。荻原が不登校なったということを聞いて、直接お前に会わない方がいいと思っていた。だから、俺が中学を卒業するまでにお前に謝れなかった。だったら、次はサッカーで俺の気持ちを示せれば良いと甘く思っていた。……でも、それができなくてここまで来ちまったんだ」
「先輩ほどの実力ならレギュラーになれるのでは?」
「ああ、なったさ。でも、全然楽しくないんだよ。あのサッカー部には荻原よりも上手い奴は誰一人として現れなかった。それに……何度も思い出すんだ。3年前、あの部室でお前から訊かれたことを」
「先輩の考えているサッカーは決勝戦の時のようなものなのか、ということですね」
「ああ。答えは分かっていた。お前と同じだということは。でも、それを認めると俺にはサッカーをする資格が無くなっちまうと思って。どうして、あの時……お前に嘘をついて、痛めつけたんだって」
きっと、俺についた嘘が先輩に柵を作ってしまったんだ。先輩はその柵を取り払うことができず、3年間ずっと苦しみ続けてきた。
「でも、どうして……今日、俺に会おうと思ったんですか? それに、どうして俺がここにいることが分かったんですか?」
「何度もお前の家の前まで行ったことがあったんだ。今年度になって、お前の家から瑠花と同じ制服を着る女の子がいたからな。荻原には妹がいると前に聞いたことがあった。それで、瑠花から今日の授業参観の話を聞いて、僅かな可能性を賭けてここに来たわけだ」
「……それなら、さっきは随分と俺のことを酷く言ってくれましたね」
「いざ、荻原を目の前にすると、なかなか本音が言えなくてさ……」
瑠花さんにそっくりだ。ここが成瀬兄妹の似ているところなのかな。
「荻原、本当にすまなかった。俺があんなことさえしなければ、荻原は今頃サッカーを続けられていただろうし、ウルフと揶揄されることなく、普通の高校生活を送ることができたはずなのに。本当に申し訳なかった」
先輩はそう言って頭を深く下げた。
確かに、先輩が俺にしたことは第三者から見れば決して許されるべきことではないのかもしれない。しかし、それは先輩のことをよく知らない人間が考えていることであって、俺は先輩のことをよく知っているつもりだ。
「……やっぱり、俺の思っていた通りでした」
「どういうことだ?」
「あの試合こそ自分のサッカーだと、先輩は本気で言っていないんじゃないか? 俺はずっとそう思っていました。あの時、俺が先輩のことを本気で殴ったのは、先輩に裏切られた感じがしたからです。苦渋の決断によるものであっても、口に出してしまった嘘は同じですからね」
「そうだったのか……」
「それに、今の先輩の話を聞けば……先輩が悪いと思っている人間は少なくともここにはいませんよ。だよな?」
俺と先輩だけの長い会話を杏奈、琴音、片岡、瑠花さんはずっと聞いていた。
俺の予想通り、4人は俺の問いに対して肯定するように頷く。
「それに、あの時のことについて謝るべき人間は――」
「俺だって言いたいのか?」
それは片岡でもなければ成瀬先輩でもない、第三者の男の声。
俺は声の主の方へ振り向くと、そこには俺の知らない高校の制服を大分崩して着ている菅波部長が、同級生らしき男子生徒を引き連れていた。そして、
「由衣!」
あの時と同じように、由衣が人質に取られていたのだ。
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