第18話『本音』

 午後1時半。

 俺は目的地まで辿り着き、インターホンを押す。

『どちら様でしょうか?』

「荻原です。突然のことですみません。娘さん……杏奈さんに会わせてもらえませんか?」

 俺は荒い呼吸の中、インターホン越しに香織さんに言った。

 そう、俺の目的地は間宮家である。その理由はもちろん、杏奈に会うためだ。

 きっと、杏奈はとても複雑な精神状態の中にいると思う。そうさせた原因は紛れもなく俺だ。とにかく、彼女に会わなければ何もかも先へは進めない。香織さんに断られるかもしれないけど、それでも俺は杏奈と絶対に会ってみせる。

『そこでお待ちください』

 香織さんが返事をするとすぐ、インターホンの通話が切れる。

 1分ほど待つと、昨日とあまり変わらない服装をした香織さんが出てきた。顔色を窺ってみるが、どうやら怒ってはいないようだ。

「こんにちは、香織さん」

「荻原さん……どうしたんですか? その格好は桜沢高校の制服でしょう? まだ学校の授業は終わっていないのでは?」

「今日はどうも授業に出る気力もなくて。ずっとサボって寝ていました」

「そうですか」

 香織さんの口角が僅かに上がった。

「それに、今すぐに……娘さんに会いたいと思いまして。昨夜は多分、娘さんは相当なショックを抱えて家に帰ってきたと思います。その原因は俺なんです。本当に申し訳ありませんでした」

 俺は深く頭を下げる。

 きっと、香織さんもとまどったはずだ。クッキーを持たせ、家を出ていくときの杏奈はここ数日間の中では一番良い状態だったのに、ほんの20分足らずで悲しそうな表情をして家に帰ってくるなんて。

 今回のことは俺と由衣、そして杏奈だけの問題だと最初は思っていた。でも、実際には俺達3人と関わる周りの人達のことでもある。琴音や片岡、姉さんや明日香もそうだ。そして、杏奈の母親である香織さんも。琴音が時折見せた涙でそれに気づいた。

「顔を上げてください」

 香織さんは優しくそう言った。

「杏奈ちゃんの帰ってきた様子を見て、すぐに荻原さんと会ったときに何かあったんだと思いました。でも、だからと言って荻原さんを悪く思ったりしません。だって、まだあの子からは何も聞いていませんから。そっとしておいた方がいいですし、それに荻原さんがこうして来てくれると信じていたので」

「香織さん……」

「2日間、荻原さんを見て思いました。杏奈ちゃんをまた笑顔で学校に通うようにできるのは荻原さんしかいないと。ですから、是非……杏奈ちゃんに会ってあげてください。お願いします」

 俺が頭を上げると、今度は香織さんが頭を下げていた。

 母親って凄いんだな。杏奈のこともそうだけど、俺のことまで見抜いていたし……俺なんかに自分の娘のことで頭を下げてまでお願いをしてくるし。

 香織さんは全く俺に対して怒っていなかったようだ。むしろ、俺が来るのを待っていたとは。非常に寛容な方とも言えるだろう。

「分かりました」

「ありがとうございます」

 香織さんは俺の顔を見て安堵の笑みを浮かべる。

「……今日も俺1人で娘さんの部屋に行ってもいいですか? 状況も状況ですし、俺と2人きりの方が娘さんも話しやすいんじゃないかなって思うんですが」

「もちろんです。荻原さんがそう言うのであれば」

「ありがとうございます」

「それでは、さっそく中へどうぞ」

「はい」

 俺は香織さんに連れられて家の中に入る。昨日と同じようにスリッパに履き替えるとすぐに1人で杏奈の部屋がある2階へ上がっていく。

 そして、杏奈の部屋の前に立つ。

 1つ呼吸を置いてから、俺は扉を軽くノックをした。

「……俺だ。杏奈、俺の声……聞いてくれているか?」

 できるだけ優しい口調で杏奈とコンタクトを取ってみる。杏奈の心に俺の声が届いてくれると良いんだけど。

『……はい』

 扉の向こうから微かな大きさだけど、確かに杏奈の声が聞こえる。俺はそれだけでひとまず安心できる。

『どうしてここにいるんですか。学校の授業はどうされたんですか』

「今日は……1秒でも早くお前と会いたくてここに来たんだ」

『……どこまで、大輔さんは私に優しくしてくれるんですか。大輔さんには深い関係の彼女さんだっている……のに……』

 後半部分は既に泣いてしまっているのか、もはやはっきりとした口調で言えていなかった。鼻をすする音も所々で混じっている。

「由衣は俺の幼なじみだ。彼女なんかじゃない」

『だったらどうして……あの時、あの方は大輔さんに口づけをしていたんですかっ! それって大輔さんの彼女さんである何よりの証拠じゃないですか』

「杏奈……」

『だから、私……あの方の言う通りもう大輔さんとは会えないんです! 会っちゃいけないんです! 弱い私と関わると大輔さんに迷惑がかかって、大輔さんの大切なお時間を奪ってしまうことになりますから。私にはもう優しい言葉をかけないでください。そのためにも、帰ってください』

「それは……本気で言っているのか?」

『人に迷惑を掛けることは……悪いことですから』

 杏奈は見事に言い切った。

 でも、だったらどうしてお前は泣いているんだよ。今のお前の言葉が全て本気とはどうしても思えなかった。憐憫な奴だよ、お前って。

 きっと、杏奈は俺と同じなんだ。口先で言う言葉と本音が異なっているんだ。このままでは杏奈に俺と同じような思いをさせてしまうことになる。

 俺は……出会って3日目の女の子に怒ってしまっていいのだろうか? そうすることで杏奈の心が閉ざされてしまうのではないだろうか?

 1人ならば今頃、不安と葛藤していたところだろう。でも、実際は違う。

 ――私達は大輔君の味方ですよ。

 俺のことを信じてくれている友人がいるんだ。今からしようとしていることは間違っていることかもしれないけど、その時には助けてくれる仲間がいるんだ。

 それに、杏奈のことを大切に思っているなら……時には厳しく接しないと本当に心が通い合えない気がする。

 俺は意を決し、右手を握り締め全力で杏奈の部屋の扉を叩いた。


「いい加減にしろよ!」


 体中をほとばしる痛みに耐えながら、俺は扉の向こうにいる杏奈に怒鳴りつけた。

「お前のいいところは優しい所だよ。でも、お前の悪いところも優しいところなんだよ! 我が儘になったっていいんだぞ!」

 杏奈のとても良いところを幾つも知っているので、彼女に叱ることが辛い。

 今、杏奈はどんな感情を抱いているのだろうか。

 驚きか?

 悲しみか?

 はたまた俺に対する怒りか?

 いずれにせよ、俺は彼女を叱ることを躊躇ってはならない。

『でも、それじゃ大輔さんに迷惑が……』

「どうして他人に迷惑がかかることが悪いことになるんだ! お前、今の状態で誰にも迷惑を掛けてないと思ってるのか!」

 こういう風には言いたくなかった。まるで、今の杏奈を否定しているように聞こえるから。

 でも、この際に正面から向き合わないと駄目みたいだ。

「杏奈は香織さんに迷惑をかけたくないと思って、ずっと1人で抱え込んで……結局こうなっちまったじゃねえかよ! 香織さん、杏奈が不登校になってから後悔していたぞ。でも、それは杏奈のことじゃなくて、自分がお前に言葉を掛けてやれなかったことだ。部屋に引き籠もってるだけで、母親のそんな気持ちは何一つ考えられなかったのか!」

『も、もちろんお母さんのことも考えましたっ! 考えたからこそ……大輔さんには迷惑を掛けたくないんですっ! もう、私なんかのことでこれ以上誰も巻き込ませたくないって! だから、もう帰ってください!』

「帰るかよ! むしろ、俺はお前に迷惑かけられたいんだよ!」

『えっ……』

「お前のことを……杏奈のことを大切に思っているから俺はここにいるんだ! 香織さんもきっと同じ気持ちだ」

 そうだ、俺は琴音の言う通り……杏奈のことを大切に想っている。いつの間にか、家族や友達や幼なじみと同じくらいに、杏奈は大切な存在になっていたんだ。


「俺はお前のことが助けたいんだよ」


 学校に行くかどうかはともかく、まずは杏奈に元気になってほしい。

『……大輔さんの気持ちは嬉しいです。それでも……やっぱり、大輔さんには迷惑は掛けられません。元はと言えば私が弱かったからいけないんです。それが原因で、私はこうなってしまったんですから』

 どこまで俺と似ているんだよ。無意味な意地を張って……今にも崩れてしまいそうな脆い強がりを見せて。自分と話しているようで凄く嫌な気分になってしまう。

 だからかもしれない。俺は杏奈に問うてみる。


「人が人を助けるときに、助けたい気持ち以外に何か必要なことがあるのか? あるんだったら今すぐ言ってみろよ!」


 そうだよ。杏奈の言っていることが正しいなら、今の問いに明確な答えがあるはずで、それを言うことだってできるはずだ。

 しかし、10秒待っても、1分待っても……いくら待っても、杏奈からの返事は何一つなかった。

 そう、何もないという答えが正しいんだ。そうであってほしい。

 俺は静かに扉を開ける。

 すると、そこには涙を流しながら、寝間着姿でしゃがみ込んでいる少女が1人。


「杏奈に嫌われてもいい。しつこく思われてもいい。俺は……何としてでも杏奈のことを守る。助けるよ。それが、俺の……今、1番にやりたいことなんだから」


 俺は杏奈の前で膝立ちになり、彼女の頭を優しく撫でる。

「……大輔さん」

「うん?」

 俺は杏奈と見つめ合う。

 杏奈の目元はかなり赤くなっていて、目も充血している。もしかしたら、杏奈は昨晩、俺の前から走り去ったときからずっと泣いていたのかもしれない。

「……寂しかったです。一緒にいたのはたった2日間だけなのに、大輔さんともう会えないと思うと胸が締め付けられるように苦しくなって。ただでさえ、学校で誰1人話せるような人がいなくて……これ以上、誰かがいなくなると胸が張り裂けそうで」

「そうか。あの後……すぐに杏奈を追いかけるべきだったな」

「今、大輔さんがここにいるのでそのことは気にしないでください。それよりも、大輔さん……私の我が儘を聞いてくれますか? 短い時間でも構いませんので、私の側にいてくれませんか? 頼れるのは大輔さんしかいないんです」

 俺はきっと、杏奈とこういう関係を持つために……まだ2日間だけど、彼女の家庭教師をしてきたんだ。姉さんはもしかして、こうなることを見越して俺に相談してきてくれたのだろうか。

「分かったよ。俺に任せろ」

 杏奈のことをそっと抱きしめる。

「……さっきは怒鳴ったりしてごめん」

「私こそ、変に意地を張ってしまって……ごめんなさい」

 抱きしめて分かる、杏奈の体の細さ。この華奢な体で……杏奈は色々な辛い経験をしてきたんだ。不登校になるほどだ、相当辛かったのだろう。

「大輔さんの胸の中……温かいです。いい匂いがします。どうしてなのか分からないのですが、不思議と安心できるんです」

「そう、か……」

「大輔さん。私、白鳥女学院に通う生徒さんから……虐めを受けているんです。そのことについて……聞いてくれませんか?」

「分かったよ。今日は十分に時間があるから、気分が落ち着いたらゆっくり話そう」

「ありがとうございます、大輔さん。私のことを……助けてください」

「ああ。もちろん」

 そう言うと、杏奈は突如、俺の胸の中で泣き始めた。大きな声を上げて。俺の制服を強く握り締めて。

 それは杏奈の心に溜まっていた悲しみの雨が降り出したこと。そして、俺に心を開いたことを示しているようだった。

「泣きたいだけ泣いていいぞ。泣くことは何にも恥ずかしいことじゃないから」

 杏奈の背中を優しくさする。

 俺のやりたいことはどうやら間違っていなかったようだ。衝突はあったものの、ちゃんとこうして大きな一歩を杏奈と踏み出すことができた気がしたのであった。

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