第17話『友達』

 4月20日、金曜日。

 午前9時。もう1時間目の授業が始まっている時間である。俺は桜沢高校の屋上のベンチで仰向けになっていた。

 いわゆる、サボりということをしている。人生初の。その理由は遊びたいからというものではなく、単に……昨夜のことを未だに引きずっており、由衣と顔を合わせたくないだけだった。

 俺の気持ちとは裏腹に、空は晴れ晴れとしている。穏やかな春の日差しの温もりが、俺がここにいることを肯定してくれている気がした。

 今日も桜沢高校の生徒の大半が、俺のことを軽蔑の目で見ていた。こうなった原因が由衣にあったと思うとやはりショックでならない。前々から俺のことを嫌っている奴が、高校に進学しても不快な思いをさせるためにしていることならまだ諦めがつくけれど、俺のことを好く人間が、俺に近づくような人間を作りたくないからという理由で流すなんて。

「勝手すぎるだろ……本当に」

 俺はゆっくりと目を閉じる。

 昨日まともに寝ることができなかったせいなのか。もしくは日光の温もりのおかげなのか。はたまた、枕代わりのバッグがそこまで俺の体に合っているのか。すっと、意識がなくなった。


 夢は心に思っていることを反映したもの、というのは本当らしい。

 最後にユニホームを着た日のこと。

 試合に臨み、俺がボールを独占したことで見事に敗北を喫してしまったこと。

 そして、後日……俺は怪我を負い、部活の先輩達に大怪我を負わせたこと。

 周りの生徒から、俺を「人間」として見られなくなり「ウルフ」として見られてしまうようになったこと。



 全て、実際にあった嫌な思い出だった。



 意識が戻り、俺は少しずつ目を開けていく。

 もやもやとした視界には本来ならば青一色が広がっているはずなのに、見えるのは紺色と黒、そして肌色。どういうことなんだ?

 はっきりと開けるとそこには、

「琴音……?」

 どうして、仰向けになっている俺の視界に……琴音の顔が入っているんだ。しかも、何だかおかしいぞ。俺の顔を覗き込むような形になっている。しかも、顔の手前には大きな胸があるし。その胸のおかげで俺の顔にちょうどいい日陰を作っていた。

「起きましたか? 大輔君」

「あ、ああ……」

「寝顔もなかなか素敵でしたよ」

「……そうか。ところで、今は何時なんだ?」

「昼休みが始まって10分ぐらいです」

 ということは、3時間は寝ていたわけか。思っていた以上にここが快適だったんだな。琴音が俺の胸元を軽くさすってくれているし、枕代わりにしているバッグもなんとも言えない柔らかさだし。

 ――柔らかい?

 俺、バッグにそんな柔らかいものを入れたつもりはないんだけど。昼飯を買い忘れたから中に入っているのは教科書とノートだけだ。柔らかいどころか普通に固いはずだぞ。しかも、人肌程度に温かくなっているし。

 もしやと思い、頭を右に向けると紺色……そして、左に向けると……白に近い肌色。さらに、今動いたことで香る女子の匂い。ま、まさか……。

「膝枕、気持ち良かったですか?」

「……どうコメントするのが正解なんだろう」

 琴音に膝枕してもらっていたのか、俺。

「ひゃんっ!」

 無意識に手を琴音の太ももの上に置いてしまった。生温かくて柔らかい。

「ごめん。でも、全然気づかなかったぞ。だって、俺……バッグを枕代わりにして寝ていたんだ。今こうしているわけなんだから、一度バッグから頭を降ろして、そこから琴音の膝の上に乗せたってわけだろ?」

「ええ。ですけどそれは――」

「僕が手伝ったんだよ、荻原君」

「お前かよ!」

 視界の端の方に片岡の顔が入った。相変わらず、こいつは本場の英国紳士と張り合えるくらいの爽やかな笑顔を見せている。さすがは英国からの帰国子女。

「僕がここに来たら、柊さんがとまどっていてね。荻原君が寝ているから膝枕をしてあげたいんだけど、1人じゃどうもできないって」

「それでお前が手伝ったのか」

 一度、こいつをぶっ飛ばした方がいいんじゃないのか?

 それにしても、片岡が協力をして俺の頭を琴音の膝の上に乗せる。考えてみると、かなり奇妙なことだと思う。

「でも、これで1つ勉強になったよ。日本人の女の子は時として、異性に対して膝枕をしてあげたくなるって」

「そんなことは覚えなくてもいいし、正しい知識でもねえから」

 でも、メモしちゃったんだろうな。ああ、また間違った知識が彼の頭に……。

「片岡君を怒らないであげてください。こ、これは……私の我が儘なので」

 琴音にそう言われてしまっては……怒るにも怒れない。俺の安眠を邪魔したわけでもないし。

 俺は勢いよく体を起こした。しかし、

 ――むにゅっ。

 顔の右半分がマシュマロのような柔らかいものに当たった。紛れもなくこれは琴音の胸だろう。制服の上からだけど。

「ひゃうっ、大輔君……大胆ですよ。片岡君がいる前でこんなことを……」

「そんなつもりは全然ない」

 琴音は頬を赤くして俺のことを見下ろしていた。

 何だか今のことで、体を起こす気力さえもなくなってしまった。俺は再び琴音の膝の上に頭を乗せる。

「……もう少しだけ、このままでいいか?」

「私は全然構いませんよ。むしろ、嬉しいくらいです」

「そうか」

 こんなところを由衣に見られたら……と、少し危惧するところだが、おそらく今日はあいつがここに来ることはできないだろう。

「そういえば、今日は椎名さんが来ないですね」

「そうだね。いつもなら、荻原君と一緒に昼食を食べているはずなんだけれど」

 俺がそう思っていたら、琴音と片岡はさっそく今日の異変に気づいていた。少なくとも2年になってからは、昼休みになるとすぐに俺はここに来て、そのすぐ後に由衣がここに来るという感じだったから。

「そういえば……今日の椎名さん、随分と顔色が悪かった感じがする。他の生徒は逆にいつになく顔色が良かったけどね」

 多分、それは俺がいなかったからだろう。無粋な態度で教室の端の席に居座っていたからなぁ。つうか、やっぱり俺はそんな立ち位置だったのか。分かっていたけれど、今の片岡の話を聞いて結構萎えたぞ。

「そうなんですか。大輔君は何か聞いていませんか?」

「え、ええと……」

 話すべきなのか? 友達である琴音と片岡に対して……。

 でも、何時かは2人にも知られてしまうだろうし……このまま俺が口を噤んでいても2人は1歩も引かない気がする。

「実は……」

 俺は琴音と片岡に全てを話した。

 杏奈の家庭教師をしていること。それを由衣に隠していたこと。それが理由で昨夜、由衣と口論になり、居合わせてしまった杏奈が泣きながら去ってしまったこと。由衣と関係を断ち切ったこと。どうすればいいか分からないこと。全てを2人に話した。

 琴音と片岡は何一つ口を挟まず、真剣に聞いてくれた。ただ、琴音の場合は精神的に来てしまったのか、終盤になって俯いてしまった。膝枕をしているので実際には俺と顔を合わせる形になっているのだけれど。

 何一つ関わっていない片岡は、俺の話が終わると苦笑いをして、

「確かにそれは悩ましい問題だね」

 と、一言だけ言った。

「昨日の今日で由衣には会えないから、ここにずっといたってわけだ」

「なるほどね、事情は把握したよ。まあ、荻原君がただサボっているわけじゃないとは思っていたけれど」

「ああ。由衣は泣いていたりしてたか?」

「特にそんなことはなかったかな。友達とも元気に話しているようだったけど、授業中にため息をついているのが印象強くてね。それを気にしている女子も多かったかな」

「そうか」

 由衣はあまり他人に弱さを見せようとしない奴だった。喜怒哀楽でいう「喜」か「楽」の部分しか見せることはしない。残りの「怒」や「哀」の部分は幼なじみである俺や姉さん、明日香にしか知らない顔である。クラスの友人が気にしているようだった、という片岡の話も頷ける。

「……私の所為です」

「琴音は何も悪くない」

「でも! 椎名さんは大輔君が……私の方を選んだから。私が3日前じゃなくて、今日告白していたら。こんなことにはならなかったんだと思います」

 琴音の目から涙がこぼれ落ちそうになっていた。

 俺は左手を彼女の目までそっと伸ばして、優しく涙を拭った。

「自分自身を責める必要はない。由衣が俺のことを怒った本当の理由は、相談するのに琴音を選んだことじゃなくて、俺が故意にあいつから家庭教師の件を隠そうとしていたことなんだ」

「それでも……!」

「琴音は由衣の友達としてやるべきことをやったんだ」

「大輔君……」

「むしろ、俺が何一つ出来てなかった。それだけが事実だ」

 その上、由衣の事を裏切り者呼ばわりしてしまった。

 あの時、俺は由衣の事を3年間ずっと信じていたのにと言った。でも、それだったらどうして杏奈の質問のことを由衣にも真っ先に相談しなかったんだ。琴音も交えて3人で考えるという立派な選択肢もあったじゃないか。

 それを俺は、まるで由衣がまだまだ子供だって、勝手に馬鹿にしていて。これじゃ、裏切り者は由衣じゃなくて俺の方だ。由衣のしたことは確かに然るべき部分もある。でも、俺に対する気持ちは3年前から純粋なものだったじゃないか。

 幼なじみのはずなのに、一番の理解者であるべきなのに。俺は……由衣の気持ちを汲み取ろうとしなかったんだ。関心を向けることさえしなかったんだ。

「最低な人間だよ、俺は」

「大輔君……」

「俺がウルフって呼ばれている意味が分かるだろ。他人に暴力を振るって暴言を吐いて、その上他人の気持ちを一切考えようとしない」

「それは違いますっ!」

 琴音は唾を飛ばしながら、俺に向かってそう言い放つ。

 目が……怒っている。初めて見るぞ、彼女のこんな姿を。

「大輔君は……そんな酷い人ではありません。大輔君が狼ならどうして、昨日の昼休みに私に家庭教師のことで相談したんですか? どうして、間宮さんのことを悪く言われて椎名さんに怒ることができたんですか! それは、大輔君が……間宮さんのことを大切に想っているからじゃないんですか!」

「杏奈のことを、大切に……」

 琴音の言葉に、胸が激しく締め付けられるような感覚に陥る。

 大切に想っているなんてことを言わないで欲しかった。大切にしていた所為で、俺は……3年前に由衣を苦しめさせることになったんだ。怖い思いや寂しい思いを由衣にさせたんだぞ。

「……怖いんだ」

「えっ?」

「怖いんだよ、俺は。杏奈のことを大切に思って、あいつに……いじめのことを聞き出したら、杏奈は……心を閉ざしてしまうかもしれない。そうしたら、二度とあいつの笑った顔を見ることができなくなる気がしてさ」

 だからこそ、俺は期間限定の家庭教師という一線を杏奈との間に引いていたんだ。姉さんに頼まれたから。将来のための1つの良い経験を積むなどという理由を付けて。

 こんなことになるなら最初から断れば良かったんだ。俺だって高校生だ。強引にでも破談にしてしまうこともできたはずなのに。


「もう、杏奈とは二度と会わない方がいいんだろうな……」


 思わず気持ちが吐露してしまった。本当にその通りなのかもしれない。

 しかし、

「……そんなわけないじゃないですか」

 はっきりとした口調で琴音はそう言った。

「大輔君と会わなかったら、間宮さんは何一つ笑った顔を見せることをしなかったかもしれません。話を聞く限り、今の方が状態は悪いかもしれませんけど……」

「それならもう――」

「でも、何もしないよりもずっと良いはずです! 間宮さんのことを思う大輔君の気持ちも分かりますけど、彼女と会わない方が良いという大輔君の気持ちは理解できません。だって、それは本音じゃないんでしょう?」

 ――本音じゃない。

その部分に胸が締め付けられるような感覚が再度、俺を襲う。

「そんなわけ……ないだろ」

「それなら私や片岡君の目を見て言ってみてください」

 琴音にそう言われて、俺は二人の方を見るが……駄目だ。言おうとするとどうしても目が泳いでしまう。琴音に気圧されているわけじゃない、俺は――。

「大輔君の本当の気持ちは分かっています。だから安心してください。私と片岡君は大輔君の味方です。だって、私達は……友達でしょう?」

 友達。

 どうして、簡単に言える存在なのに……ここまで大きいのだろう。友達なんていらないと心に決めていたのに、今はどうして心がすっと軽くなっているのだろう。

 俺はすぐに右手で両目を覆い隠した。

 ――泣いてるんだ、俺。

 確かに伝わっている、微かな雫。

 本当は凄く欲しかったんだな。両手の指で足りるくらいでいいから、気軽に何でも話せるような存在が必要だったんだ。一匹狼になるって決めて3年間一度も泣かなかったけれど、それは子供ながらの強がりだったんだ。

「女子の膝の上で泣くなんて、この上なく情けないな」

 女子を泣かせた上に、自分が女子の前で泣くなんて。ウルフなんて言われていることがお笑い種に思えてくる。

「……弱さを見せることができる人は強い方だと思いますよ。そうですよね? 片岡君」

「そうだね。挫けてもそこから這い上がることができるのは本当のヒーローだ。荻原君はまさにそのヒーローだと思うよ。もっと胸を張るべきだ! それに、荻原君が何か間違ったことをしたとしても柊さんや僕がフォローするつもりさ」

「そうですよ。大輔君のやりたいこと……それを片岡君と私は責めません。きっと、それは間違ってはいないと思いますから」

「現に間宮さんの家庭教師をしていることは間違っていないからね。もう、荻原君は自分のすべきこと、やりたいことが分かっているんじゃないかな」

 どうしてピンポイントで、心の芯を突くようなことを言えるのだろうか。2人の言葉に止まりかけていた涙が再び流れそうだ。

 それを必死に堪えて、俺は右手を両目から離す。そこには琴音の優しい笑顔が俺をお出迎えしていた。

「もっと早く、2人と出会いたかったよ」

「大輔君……」

 片岡の言う通り、俺には杏奈に対してやりたいことがある。俺1人だけでは不安なことだったけど、今はこいつらが……琴音と片岡がいる。それに、あいつも……本当は杏奈のことは悪く思っていないはずだ。

 俺はゆっくりと体を起こす。

「……ちょっと、今すぐに行かなきゃいけないところができた。片岡、明日か明後日に今日の授業のノートを貸してくれないか?」

「分かったよ。明日は休みの予定だからね、君の家に行くことにするよ」

「すまないな。あとは……琴音。由衣のことを頼む。と言っても、今は由衣のことを見守って欲しいだけなんだけど」

「分かりました」

「もしかしたら、2人には何か協力してもらうかもしれない。その時は宜しく頼む」

 俺は琴音と片岡に対して頭を下げる。

「僕らは端からそのつもりさ。僕らは友達であり仲間だ。うん、これが日本人によく見られる団結というものなんだね。僕も日本男児だから、このことはちゃんとメモをしておかないと」

「赤ペンで書いた方がよろしいのでは?」

「そうだね、柊さん」

 頭を上げると、片岡がブレザーの胸ポケットに刺さっている赤ペンでメモをしているのが見える。

 本当にお前はどんな状況でもマイペースな奴だ。でも、そういう奴が友達にいるというのは何だか心強い。もちろん、琴音の包容力にも救われている。

「ありがとう、2人とも」

 このまま、仰向けになって青空を眺めているだけじゃ始まらないか。

 今はゼロ。いや、マイナスかもしれない。でも、これ以上のマイナスは絶対にあり得ない。琴音と片岡がいる限り。そして、俺が……ここから動き出せば必ずプラスに向かう道に辿り着けるはずだ。

「……じゃあな。琴音。片岡」

「また学校で会いましょう。頑張ってくださいね」

「こっちは何時でも準備は整っているからさ!」

「ああ」

 何とも言えない懐かしい感覚を取り戻していた。どうなるか分からないけど、とりあえずやれることはやってみようという感じ。

 俺はバッグを持ち、直接とある場所へ足早く向かうのであった。

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