第16話『裏切り』
「杏奈!」
もちろん、俺は杏奈を追いかけようとする。しかし、
「もうこれであの子とは一切関係ないでしょ!」
由衣に右手を掴まれながらそう言われ、俺は走ることを止めてしまった。
由衣の手なんて簡単に振りほどくことはできたんだ。
でも、俺は思った。杏奈を追いかける権利なんて自分にはないことを。
そのようなやり場のないようなことを含めて、俺は怒りの矛先を由衣に向ける。
「杏奈になんてことしたんだよ!」
俺がそう罵声を浴びさせても、由衣は俺の方を一切向かなかった。その態度に俺の怒りのボルテージは上がっていく一方だ。
「明日香からも聞いていたなら、あいつの気持ちも少しは考えろよ! 杏奈は学校でいじめられて不登校になって。部屋から一歩も外に出なかったような子が、やっと笑顔になってお母さんと一緒に飯が食えるようになったんだぞ。これじゃ、また逆戻りだ……」
杏奈は元々精神的ダメージを受けている。大分元気を取り戻したけど、学校に行けるほどではない。どんな奴だって、今の由衣のしたことは非常にショックを受けることだ。杏奈がどれだけ心に傷を負ったことか。
ならば、由衣のすべきことは唯一つ。
「俺も一緒に行くから今すぐに杏奈のところに行こう。杏奈に謝るんだ。事実無根のことで、お前は杏奈の心に深い傷をつけたんだ。ほら、行くぞ」
由衣の体を離して、手を強く握って杏奈の家の方へ歩き出そうとするけれど、由衣は俺の手を力強く振り払った。
「事実無根なんかじゃない」
「どういうことだ?」
「……まだ分からないの? 私の気持ち……」
「分からねえよ。杏奈にあんなことをする奴の気持ちなんて分かるかよ!」
分かりたくもないさ、そんな奴の気持ちなんて。酷いことを言えば、さっきの由衣がしたことは白鳥女学院で杏奈をいじめた奴と同じようなことなんだぞ。
「……大輔のことが、好きだから」
由衣はそう言うと俺を家の塀に追いやり、再び胸の中に飛び込む。
彼女の温もりが嫌でも伝わってきた。それは何故か、さっきの口づけよりもずっと熱いものに思えた。
そして、酷くのしかかる重み。今の言葉を体現しているようだった。
「大輔のことが好きだから、ああいうことを言ったんだよ? 大輔だって自分のやりたいことをしていいんだよ? 美咲さんに頼まれたことなんてしなくても……」
「お前の言葉と行動は矛盾しているよ」
「えっ?」
「好きなら俺のことが束縛できると思っていたのか? 俺が好きで俺の好きなことをしてもいいなら、俺はお前に訊きたいよ! どうして杏奈に俺と二度と会うなって言ったんだよ! しかもあんな言い方しやがって!」
そもそも、さっきの言葉は単なる八つ当たりにしか見えなかった。
由衣は自分じゃなくて琴音と相談し、その上に家庭教師の件をずっと隠していた俺のことを怒っていたはずだろ? だったら、杏奈がああ言われたのは筋違いだろう。
「それでも……私がそうしないといけないの。だって、大輔は私の所為で……ウルフって呼ばれるようになったんだから」
「お前……まだ、あの時のことに責任を感じていたのか」
何を言うかと思ったらあの時のことか。馬鹿な奴だ。
俺がウルフになったきっかけはあくまでも俺自身が作ったことなのに。あの時、お前を守るにはああするしか思いつかなかった俺が悪いっていうのに。
中学を卒業するまでは何度も言っていたけれど、そういえば随分と久しぶりに聞いた。私の所為だ、って。
「……でも、本当は大輔にこんなことは言えないの」
「どういうことだ?」
「高校になってから……私、大輔のことが幼なじみじゃなくて、1人の男の人としてしか見ることができなくなったの。大輔が密かに女子から人気があるっていうのは本当だよ。それが分かったとき、ふと思った。大輔を他の誰にも取られたくないって」
「……ま、まさか……」
由衣の言わんとしていることが不思議と分かってしまう。でも、それは嘘であって欲しかった。
しかし、由衣は微笑みながら、
「桜沢高校でウルフのことを流したの、私なの。生徒数も多いし、大輔のことを知らない人が多かったから、このことが広まるかどうか不安だった。でも、同じ中学から進学した人もいたから、予想以上に広がった。これで私以外の人間は不用意に近づかなくなって、私だけの大輔になると思ってた」
「由衣……」
確かに不自然には思っていた。生徒数が大幅に増えたにしろ、高校に進学して更にウルフのことが更に広まって扱いも中学の時よりも酷くなっていたことが。
でも、由衣が流したのならそれも納得だ。おそらく、桜沢高校の生徒の中で俺のことを一番知っているのは彼女だし、色々と噂も流しやすい。もちろん、俺にばれるリスクはかなりあるわけだけど。
何というか、由衣がまさかウルフのことを流していたとはな……本当に1年以上経っても全く気づかなかった。
「でも、今年4月になって……それが崩れ始めた。正確には一昨日から。柊さんが大輔に告白して、大輔が断ったときには安心したけど……結果、友達になった。それでも私以外に大輔と話せる女子ができたことで不安になったの」
「だからって、お前から離れるわけじゃないだろ」
「大輔が優しいっていうのは私にも分かってる。でも、もう……私以外の女の子には誰にも優しくしないで。ただでさえ背が高くて、かっこよくて、勉強もスポーツもできて、おまけに私よりも料理ができて。これだけでも十分に魅力的なのに優しくされたら、誰だってきっと……惚れちゃうよ」
「そんなわけないだろ」
「そんなわけ……あるよ。現に柊さんだって、大輔が彼女を悪い人から助けたから……好きになったんでしょ」
「確かにそうだけど……」
「他の女子だってきっと同じだって」
「馬鹿なことを言うな。俺は完璧な人間でもなければ、強い人間でもない。見ていて分かるだろう? 誰にも関わりを持とうとしない俺を見て」
現にほとんどのクラスの女子は恐がっているじゃないか。人というのは優しい方よりも恐い方が印象に残りやすいと思うんだが。
「それでもいい。私は本当の大輔を知ってるから」
こいつ、俺を褒めちぎって自分の言うことを聞かせる気なのか? 残念だが、俺はそれには乗らないつもりだ。
「……あの子には関わる必要なんてないんだよ」
「何を根拠に言ってるんだ」
「だって、虐められて不登校になるのは……その子が悪いに決まってるでしょ。弱いから嫌だって言えない。その果てが不登校なんじゃないの?」
その瞬間、ブチッ、と鈍い音が俺の頭の中に響き渡った。
――何言ってんだ、こいつ。
そう、由衣の今の言葉に俺の堪忍袋の緒もついに切れたのだ。
「確かに、誰かが間宮さんを気にかけてあげるべきかもしれない。でも、それが大輔である必要はあるの?」
「俺じゃなくてもいいかもしれねえよ。それよりも、どうして不登校になる人間が悪いって決め付けるんだよ!」
俺は自分にべったりとくっつく由衣のことを突き飛ばした。
「やっぱりお前に俺のことを云々言う資格なんてない」
「どうしたの? 急に……」
「3年前のこと……忘れたのか。俺が問題を起こして不登校になっているとき、お前は毎日俺の家に来て、俺に対して言ってくれたじゃないか」
――大輔は何も間違ったことはしてない。むしろ良いことをしたんだよ。
今でも忘れない。由衣から言われたこの言葉だけは。
「その時は言わなかったけど、俺……救われたんだぞ、あの言葉に。だから俺はちゃんと毎日高校に通えているんだ。俺はあの時の言葉を信じていたのに、本当は全くそんなことを思ってなかったんだな」
「違うっ! 私、大輔のことは……」
由衣が必死に何かを伝えたいことは分かっていた。でも、さすがにそれを聞けるほど俺も冷静ではいられなくなっていた。
――不登校になる奴の方が悪い。
それは、まるで……3年前の俺に向けて言っていたような気がしてならなかった。杏奈に向けられていることも、それが本心でないことも分かっているけど、俺はもはや喉まで出かかっている言葉を抑えきることはできない。
「知るかよ! 俺がこの3年間どんな思いを抱えてきたか分かるのか! お前の自分勝手な理由でウルフのことを流しやがって! 高校生になったら友達は少なくても、普通の学校生活が送ろうって決めてたのに」
こんなに感情的になったのは久しぶりだ。由衣に自分の気持ちをぶつけたのも。
「仕方ないって諦めてたよ。同じ中学の奴もいたし、地元の高校だったし。何かあっても由衣がフォローしてくれるって甘えていたことも認めるよ」
「大輔……」
「……でも、お前には見事に裏切られた。俺のことが好きなら、俺の気持ちも少しは考えてくれたって良かったんじゃないのか?」
「待って、話を――」
と、由衣は涙目で俺の手を掴んでくる。
「今度は琴音に会うなって言うつもりなのか?」
「違うっ!」
「……だったら、もう話すことはないだろ。家族以外じゃ、俺と関わる女はもういないんだからさ」
「大輔……」
「もういい。暫くの間、俺と関わらないでくれ」
俺は由衣の手を振り払い、家の敷地に入った。
こうなることを恐れて、俺はなるべく人と関わりを持たないようにしていたのに。よりによって由衣とこうなるなんて。
由衣を突き放すことは非常に心苦しいけれど、今は由衣に裏切られたことに対する怒りの方が数段に勝っていた。由衣の泣き声も微かに聞こえるけれど、振り返ることは絶対にしない。
簡単には縮めることのできない隔たりを俺と由衣、そして杏奈の間に生じてしまった気がしたのであった。
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