第15話『鉢合わせ』
午後8時。
間宮家を後にして、俺は家までの道のりを歩いていた。
「久しぶりに結構食った気がする……」
杏奈と香織さんが作った夕食は、俺が作っている食事とは比べ物にならないくらいに美味しかった。自信がなさそうだった杏奈だったけれど、それが嘘のように思えた。
そういえば、夜の道を歩くのは久しぶりだ。部活にも入っていないし、夕飯のための買い物も下校途中に済ませるから暗くなってからというのは滅多にない。4月になっても夜は結構肌寒いんだな。思わず身震いしてしまう。
「……おかえり、大輔」
その声に俺は必要以上に鳥肌が立った。
気づけば自宅はすぐそこにあり、後は門をくぐって中に入るだけなんだけれど……不意に、家に入るのは容易いことじゃないだろうな、と思った。何故なら、自宅の門の前に……制服姿の由衣が立っていたのだ。
「ただいま、由衣」
俺はそう言って由衣の目の前に立つ。
「どうしたんだ、こんなところで。早く家に帰らないと風邪引くぞ」
じゃあな、と俺は由衣の左肩を軽く叩いて家の敷地に入ろうとすると、
「待って」
由衣が両手で俺の左手を力強く掴んできた。
すぐに由衣の顔を見ると、表情が何時になく真剣なものになっている。
「それはこっちの台詞だよ」
「……どういうことだ?」
「どうして、そんな格好をして革のバッグを持って、こんな時間に帰ってくるわけ?」
「俺だってたまには出かけるし、この時間に帰ることだってあるよ」
「……じゃあ、どこに行ってたの?」
由衣は鋭い口調で俺に糾弾してくる。
どうやら、由衣は今の俺の姿を見て違和感を抱いているようだ。実際に普段と違うわけだし、そう思うのも不思議ではないけれど……杏奈の家に行っていたということは教えられない。
「明日香が俺に気を遣ってくれてさ。ゆっくりと過ごせるように、って言ってくれたんだよ。それで、図書館に行って勉強して……夕食も済ませてきたんだ。だから、今の時間に帰ってきた。何にもおかしくないだろう?」
あたかも本当のことであるように、俺は平然を装いながら言う。
「ふうん……」
由衣は目を少し鋭くしつつも俺の左手を離し、腕を組む。
今、この場で思いついた作り話だけれど……由衣にばれたか? 疑われないよう、筋の通る話にはしたけれども。
「そっか……」
そう言う由衣は少し笑っているように思えた。しかし、それはすぐに俺に対する怒りへと変わっているようにも。その証拠に、由衣の目つきが段々と鋭くなっていた。
「大輔って嘘を教えるんだね」
ドキッ、とした。そして、急に息が詰まったような気がした。
「どうしてそうだと思うんだ?」
「……大輔の服から、私の知らない女の子の匂いがしたから」
普段なら何言ってんだよ、と笑うところだけれど、今日は杏奈という女の子と一緒にいたのでどう反応すればいいのか分からない。
こいつ、嗅覚がずば抜けているからな。昔から匂いに関しては色々と言われたことはあるが、ここまでとは思わなかった。
嘘を「教える」と由衣が言ったところで、由衣は家庭教師の件を知っているんだと思った。
「中学生の女の子に、今みたいに嘘を教えているの?」
「……誰から聞いた?」
「認めるのね。中学生の女の子に家庭教師をしていること」
「ああ。それで、誰から教えてもらったんだ?」
「柊さんだよ」
「琴音か……」
「今日の昼休み、大輔がいつもの場所にいないからおかしいと思って、放課後……柊さんと会って何があったのか訊いてみたの」
「そこで昼休みに俺と話したことを知ったってことか」
琴音に口止めさせていたわけではないため、いずれは由衣にもばれる日が来るとは思っていたけれど……どうしてこいつはここまで怒っているんだ? 由衣を避けていたことは認めるけれど。
あれ、ちょっと待てよ。
琴音が今日の昼のことを話したってことは、杏奈からの質問の内容も知っていることになるよな。
由衣の表情を伺ってみると、少し恥ずかしそうにしていて……今日の昼休みの琴音を彷彿させる。こりゃ、知ってるみたいだ。
「私だって、分かるよ。その女の子の訊いたこと……私にだって分かるよ。どうして、私じゃなくて柊さんに訊いたの?」
「由衣にあんなこと訊いたら落ち着かなくなると思って。琴音は冷静だし、お前よりも良い答えが返ってくるんじゃないかなって思ったから」
実際には琴音も気が動転してしまっていたけれど。
「……そんなことで、柊さんを選んだの?」
「選んだとかじゃなくて、あいつの方が相談しやすいと思って……」
「それなら尚更、どうして私じゃないのよ!」
さすがの俺も今の由衣の剣幕には立ちすくんでしまう。こんなに怒った由衣の姿、今まで見たことがない。
それよりも、今のこの様子を誰かに見られたらどうする。今の由衣の声は誰かが飛んできてもおかしくないレベルだったぞ。
「……大輔さん?」
どうして、君がそこにいるんだ。俺はその声の主に驚いてしまう。
声の発する方へ顔を向けると、そこには白鳥女学院の制服姿の杏奈が小包みたいなものを持って立っていた。
最悪のタイミングだ。ここは杏奈の用事を聞いてさっさと帰らせよう。
「どうしたんだよ、杏奈……」
「あっ、いえ……お母さんがお礼にクッキーを持っていきなさいと言ってきまして。ええと、制服で来たのは一度、大輔さんに制服姿を見せたかったとかそういう類ではなくてですね、ええと……」
「落ち着けよ、杏奈。それと、その制服姿……凄く似合ってるぞ」
「あ、ありがとうございます……」
落ち着かせるために言ったつもりが、逆に杏奈の気持ちを高揚させてしまったようだ。喜んでいるみたいだしまあいいか。
「大輔が年下の女の子を口説いてる……」
「馬鹿か。そんなわけないだろ。俺は思ったことを口にしただけだ」
でも、端から見たらそんな感じにも見えるんだろうな。顔が似ているわけでもないから兄妹に見えることもないし、高2と中1の男女というのは何とも言い難い関係だ。
今のやり取りを見ていた杏奈は苦笑いをして、
「ご、ごめんなさい。ええと……お取り込み中でしたらここで待ってます。私の用事はすぐに終わってしまいますし。み、耳も塞いだ方がいいですか? 人が話していることを部外者があまり聞いてはいけませんし」
と言って、俺達から一歩後退する。由衣が不機嫌な表情をして杏奈を見ているせいか、少し恐がっているようにも見える。
そして、杏奈が耳を塞ごうとしたとき、
「塞がなくていいよ」
『……えっ?』
思いもよらない由衣の言葉に俺と杏奈の声が重なる。
由衣は優しく微笑みながら、俺の前に出る。
「間宮さんだったよね。大輔の妹さんから話は聞いてるよ。大輔から……色々なことを教えてもらってるって」
「は、はい。大輔さんには色々とお世話になっています」
優しい口調で話す由衣に対して、杏奈も笑みを見せる。
「そっか。あと、ちょうど間宮さんに言いたいことがあったの」
「はい、何でしょう?」
由衣、お前は何を考えているんだ?
まさか、杏奈が知りたがっていたあのことについて答えるつもりじゃないだろうな。それでないにしろ、とにかくこの状況が非常にまずいものだと本能で感じ取っていた。
早く杏奈からクッキーを貰って家へ帰らせよう決めたその時、
「もう、大輔と会わないでくれるかな」
普段よりも低い声で、由衣は杏奈に向けてそう言った。
「えっ……?」
「私と大輔、こういう関係だから」
すると、由衣は突然両手で俺の顔を自分の方へ引き寄せて……強引に、俺と唇を重ねた。由衣の舌が俺の口の中に無理やり入り込んできて、音を立てながら俺の舌と絡ませる。同時に俺を包み込む由衣の少し汗ばんだ匂いが一瞬、俺を惑わせる。
それでも俺は由衣の方を見ず、真っ先に視線を杏奈の方に向けた。俺は自分のものだと言わんばかりに。
「えっ……」
目の前で起こったことに動揺しているからか、杏奈は手に持っていたクッキーの入っている包みを道路の上に落とした。
「え、ええと……」
杏奈は視線をちらつかせながらうろたえている。
ようやく、由衣の唇が離れた。その時の杏奈に向けられる由衣の視線は、先ほどと全く違い、今までが全てフェイクだったかと思わせるように、由衣の目つきは儚く見えそうで、実は力強いものだった。
「大輔が帰ってくるの、今までずっと待ってたんだよ。部活が終わって大輔の家に行けばいつもならいるのに、昨日と今日はいない。……寂しかったの、大輔がいなくて。大輔も家庭教師のこと全然教えてくれなかったし」
由衣は頭と両手を俺の胸に当てる。
「ねえ、間宮さん。私達の時間……奪わないでくれる? ただでさえ部活があって放課後に一緒にいられる時間があまりないのに、大輔が間宮さんにここまで真剣に家庭教師をさせられていると……私だって許せなくなるよ」
「お前、何言ってるんだよ。杏奈もこいつの言うことなんて――」
「ごめんなさい」
本心でない優しそうな笑顔を必死に見せながら、弱々しい声で杏奈は言った。
「そうですよね。大輔さんのこと、素敵な方だなと思っていたのでもしかしたらって思っていたんですけど、やっぱり彼女さん……いたんですね」
「杏奈、こいつの言っていることは全て嘘で……」
「いいんです、私なんかに気を遣ってくれなくても。大輔さんはとても優しいです。こんな深い関係の彼女さんがいるのに、私なんかのために貴重な時間をこんなに割いてくださって……」
杏奈はそう言うと、さっき落としたクッキーの入っている袋を拾って……それを俺の手の中へ強引に収めた。
「一度落としたもので申し訳ないです。これは、大輔さんへのせめてもののお礼です。短い間でしたけど、ありがとうございました」
目から涙が零れ落ち……杏奈は走り去ってしまったのであった。
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