第12話『間宮香織』

 放課後。

 俺は授業が終わるとすぐに家へ帰り、制服から私服へと着替えて右腕に付けているブレスレットは取り外す。

一応、家庭教師として杏奈の家に行くわけだから、あまりアクセサリーを付けるわけにはいかないし、服装だって黒いジーパンに少しフォーマルな印象を持たせる黒ジャケットだ。インナーは白いVネックのTシャツ。

 昨日で少しは打ち解け合えた気がするけれど、まだまだ杏奈の本音は聞けていない。話しかけやすい雰囲気を作るためにも、まずは身だしなみからちゃんとしなければならないと思った。

 そして、今日も誰にも気づかれないように伊達眼鏡をかけて杏奈の家へ向かう。昨日も同じ時間帯に歩き、誰にも気づかれなかったので、今日は心安らかに道を歩くことができる。これも、伊達眼鏡のおかげなのだろうか。

 今日も誰にも俺のことがばれることなく、杏奈の家の前まで辿り着いた。インターホンを押す。

『はい』

 スピーカーから香織さんの声が聞こえた。

「荻原です。今日も引き続き、娘さんの家庭教師として来ました」

『お待ちしていましたよ。少々お待ちください』

 と言いつつも、ものの数秒で香織さん登場。

 淡いピンクの長袖のTシャツは昨日と変わらないけれど、今日は膝丈くらいのホットピンクのスカートを穿いている。あと、少しフリルがついているクリーム色のエプロンを着ている。何度も言うが中学生の子持ちには見えない。

「こんにちは、香織さん」

「こんにちは、荻原さん。今日も杏奈ちゃんのことを宜しくお願いします」

 香織さんは笑顔で俺にお辞儀をした。俺もつられて頭を下げる。

「今日は娘さんとある約束をしていまして。それを果たすために」

「あらあらいつの間に。もうそこまで杏奈ちゃんと仲良くなっちゃったのかしら」

「いえいえ、昨日は何とかお話ができただけで。約束と言っても、俺の力不足で話せなかったことを今日改めて話すということで」

「へえ……ちなみに、どんな内容なんですか?」

「え、ええと……娘さんに口外しないよう言われているので、申し訳ないんですけど香織さんでも教えることはできません」

「それはちょっと残念ですね。後で杏奈ちゃんに訊いてみようかな」

「……そっちの方が絶対に良いと思います」

 あなたがなかなか子供の作り方を教えてくれないから代わりに教えてほしい、なんて言えるか。それこそ話したら今日の柊のようになるかもしれないし、大人である香織さんでもどう転がるか分からないぞ。

「さあ、上がってください」

「お邪魔します」

 俺は香織さんの後ろを歩いて間宮家の中に入った。

 昨日から思っていたことなのだけれど、家の中の空気がとても澄んでいる。俺も家の掃除に明け暮れる休日もあるけれど、ここまで綺麗にはできない。きっと、香織さんが毎日掃除をしている賜物であろう。

 そして、どこからか聞こえる鼻唄。おそらく女性によるものだと思うけれど、杏奈の声だとは思えない。きっと、俺の目の前にいる香織さんだろう。

「……何かいいことでもあったんですか、香織さん」

 靴を脱いでスリッパに履き替えたとき、香織さんにそう言ってみる。

 すると、香織さんは笑顔で振り返って、

「そうですか?」

「ええ、昨日と比べれば雲泥の差……と言っては大げさで失礼ですけど、本当に心から楽しそうだなと思って」

「……きっと、荻原さんに会ったからかもしれませんね」

「俺と、ですか?」

「だって、久しぶりに男子高校生と話したんですもん。気持ちだって自然と高揚してくるものじゃないですか?」

「ど、どうでしょうかね……」

 そんなことを言われても困るんだが。母と娘の2人暮らしだと、そこまで男性と接する機会がないのか?

「私が人妻でなければ、荻原さんを本気で狙っていたかもしれないのに」

「……ええと、どう反応すべきか全く見当がつかないんですが」

「素直に喜んでください」

「そう言われましても……」

 何だか香織さん……普段は1児の母親の目をしているんだけど、俺の目を見るときって途端に1人の若い女性の目をしてくる。変な意味はなく一応嬉しいと思っているので、これ以上冗談を言うのは止めていただけないでしょうか。

 そんなことを口に出せるわけもなく、苦笑いで香織さんを見ていると、香織さんはどうやら俺の気持ちを察してくれたようで、

「それもちょっとはあるんですけど、やっぱり男の人が来ると違うと思いまして」

「どういうことですか?」

「昨日、荻原さんが帰った後、杏奈ちゃんが部屋から出てきまして。中学生になってから初めて見せるくらいの笑顔をしていました」

「へえ、それは来た甲斐があった気がします」

「それでですね……うふふっ、久しぶりに張り切っちゃいました」

 と言って、香織さんは1人で有頂天になる。張り切ったというのはどういうことなのろう? 杏奈の好きな料理でも振舞ったとかそういうことかな。

 それはさておき、杏奈が部屋から出たというのは俺も嬉しい限りだ。かなり心を開き始めていると言えるだろう。杏奈に何があったのかを彼女の口から聞ける日もかなり近いようだ。

「今日も杏奈ちゃんのことを宜しくお願いします」

「はい」

「杏奈ちゃんの部屋の前まで一緒に行きましょうか?」

「いえいえ、場所は分かっていますのでお構いなく」

「そうですか。……でも、杏奈ちゃんにとっては、私がいるよりも荻原さんと2人きりの方がいいかもしれませんね」

 所々気になる箇所がありつつも、俺は香織さんに軽く頭を下げて杏奈の部屋がある2階へ向かったのだった。

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