第8話『狼と猫』
さっそく、俺は杏奈さんの部屋の扉を軽くノックする。
「ええと、荻原大輔だ。今日は少しでも君と話がしたいと思って家に来た。俺と話してもいいって思えたら扉を開けて欲しい。何も変なことは訊かないから」
そう言って、杏奈さんの判断を待つことにする。ここで自分から開けてくれさえすれば本音を聞き出せるのも結構スムーズにできると思う。
俺は扉の前に立ち尽くす。無音の中で目の前の扉が開かれるのを待ち続ける。
しかし、数分ほど経っても扉が開くことはおろか、部屋の中から物音一つさえ聞こえなかった。
「そんな簡単にはいかねえか……」
何日も学校を休んで部屋に引き籠もっているんだ。そう簡単に自分から扉を開くことはできないか。俺の考えが甘かったみたいだ。
ならば、残る手段はただ1つ。
強引ではあるけれど、こっちから部屋に入ってやる。余計に杏奈さんの心を閉ざすというリスクもあるけれど、ここで何もしないよりかはいいだろう。
俺は杏奈さんが驚かないよう、静かに部屋の扉を開く。
「失礼します……っと」
そっと俺は杏奈さんの部屋に足を踏み入れた。
家が元々大きいため想定はしていたが、俺の部屋の2倍くらいの広さはあるぞ。10数畳から20畳くらいの広さだろうか。フローリングの床ではあるが、桃色の絨毯が敷かれている。杏奈さんは中学生なので勉強机はもちろんのこと、本や写真、クマのぬいぐるみなどが飾られている本棚や、杏奈さんが化粧好きなのかドレッサーまで置かれている。扉の正面にはバルコニーに出られる窓もついており、全体的に明るい印象を持たせる。
さて、そんな中で目についたのが、セミダブルほどの大きさの木製ベッド。その上には、桃色と白色のチェック柄の布団が膨らんでいるのが分かる。
「まさか、な……」
俺は容易く想像できてしまったことが事実であるかを確かめるため、バッグを近くのテーブルの上に置きベッドまで足音を立てずに近づく。
「それでは失礼して……」
静かに布団をめくっていくと――。
「すぅ……」
桃色のパジャマに身を包んだ赤い髪の女の子が、俺の方に体を向けて寝ていた。この子が杏奈さんか。
なるほどな、寝ているからさっきの俺の言葉にも何も反応せず、部屋の中から物音一つ聞こえなかったんだ。俺がこうして布団をめくっても起きる気配すら感じられないし。
しかし、この子……凄く可愛い女の子だ。明日香もけっこう可愛い部類に入るとは思うけれど、この子の場合は違う。普通の中学生には持っていない魅力があるというか。明日香の言う猫みたいな可愛さというのは的確かもしれない。年下の女の子だって分かっているから平常心でいられるけど、同い年だったら……どうなっていたんだろう、俺。つうか何を考えているんだ、俺。
「無理矢理起こすのも可哀想、かもな」
目を覚まして知らない男が立ってたら、それこそ俺の身が危うくなりそうだし。ここまで気持ちよさそうに寝ているんだ、少しだけ待ってみよう。
俺はテーブルの近くに座り、今一度部屋の中を見渡す。
見た限り、部屋のインテリアは可能な限り桃色が使われている。まあ、壁の色は白だし木造の物は何も装飾はされていないのでバランスは取れている。
そういえば、姉さんや明日香以外の部屋に入ったのはいつ以来だろう? 俺の記憶にある限りでは、中学1年の時に由衣の部屋に入ったとき以来かもしれない。中2以降は色々とあって他人と関わりを持たなくなったから、他の人の家に上がり込むことなんてことは一切しなかった。
つまり、約4年ぶりの家族以外の女子のお部屋訪問ってわけか。それが分かった途端、何か緊張してきたな。女に接することは姉さんと明日香、由衣のおかげで慣れているはずなのだが。初めての場所にいるからだ、きっと。
「しかし、起きてくれないと何もできねえんだよな……」
一応、俺は家庭教師としてここに来ているわけだから、杏奈さんが中学校でどんなことを学んでいるのか知るため、勉強机の上にある教科書を読むこともできるんだろうけど、初対面の女の子の部屋を物色するような無礼な男ではない。
小さめのバッグは持ってきたが、中に入っているのは伊達メガネ入りのケースくらいしかない。唯一できることと言えば、杏奈さんの微かな寝息をBGMにしてただぼうっとしているだけだ。
俺はその唯一できることをすることに決め、30分待ち続けた。杏奈さんの寝ているベッドの方を見ながら。
何もすることができないことでさえ辛いというのに、ほぼ無音に近い環境の中で座り続けるのはかなり精神的に来るものがある。音楽プレーヤーでも持っていればいくらでも待ってやることはできるんだけど。
「仕方ない、起こすか」
杏奈さんがあまりにも気持ちよく寝ているので、このまま寝かしてやりたいけれど、用がある客人を待たせる上に、目の前で堂々と寝続けるのは御法度だろう、と無理矢理に納得させて彼女を起こそう。
俺は再び布団をめくり、寝ている杏奈さんとご対面。
「おい、起きろ」
杏奈さんを起こすために、俺が右手で杏奈さんの肩をそっと叩くけれど……少し体が動いただけで起きる気配は全くなし。可愛い顔して意外と手強い奴みたいだ。
「こら、起きろって」
今度は肩を掴んで杏奈さんの体を少し揺らしてみる。すると、
「ううんっ……」
と、杏奈さんは唸りつつ少し嫌そうな表情になる。
しかし、これ以上やり続けて杏奈さんに起きられると、確実に俺に対して警戒心を持ってしまうと思い断念。まあ、それよりも単純に罪悪感が生まれてしまったんだけど。
「起こそうっていう決断が間違いだったのか?」
そう独り言を言いつつ、揺らしたことで乱れてしまった杏奈さんの髪を俺は右手でゆっくりと直していく。
だが、その時だった。
――がっ!
きっと、俺の右手が杏奈さんの額に触れてしまったのだろう。異変に気づいた杏奈さんが急に両手で俺の右手を掴んできたのだ。
「ふにゅっ……」
まだ杏奈さんは起きていないらしく、可愛い唸り声を上げている。おそらく寝ぼけているのだと思う。
ここまでならまだ普通だと俺も思った。明日香で経験したことがある。しかし、
「あ、杏奈さん!」
思わず俺がそう声を上げてしまうのも無理はない。
杏奈さんは両手で掴んだ俺の右手を自分の口元まで持っていき、
――はむっ。
人差し指を甘噛みした。
「や、やめっ――」
ろ、とまで言うことが出来なかった。俺の人差し指を咥えている杏奈さんの表情がしあわせそうだったから。
まさか、俺の指を口の中に入れるなんて……想定外だった。明日香の場合は俺の手に頬をすり寄せてきたので、杏奈さんもその程度のことだと予想していたんだけど、いや……人は何をするのか分からないものですな。
「んっ、んっ、んっ……」
杏奈さんが声を出す度に、彼女の柔らかな唇が小さく動く。それに伴ってくちゅっ、と小さく音も立っているし。
どのような夢を見れば寝ぼけて俺の指を甘噛みするのか訊くことは止めておこう。とにかく、この状況を早く打破せねば。
「杏奈さん、いい加減に止めてくれないか」
俺がそう言ったところで状況はあまり変わらず。1分ほどして人差し指を口から話してくれたのだけれど、今度は中指に変更。
俺と杏奈さんはきっと、2人きりだから平和でいられるような状況を作ってしまっているのだろう。いや、確実にそう言える。香織さんに暫く2人きりにさせて欲しいと言っておいて本当に良かった。
「しかし、このまま起きるのを待つことも問題有りだしな」
他の人がいないからいいとかそういう問題ではない。とにかく、この状況のままでいることが問題だと思う。
だけど、そんな俺の切なる想いが通じたのか杏奈さんの目がゆっくりと開く。
「んっ……」
「杏奈さん、やっと――」
目が覚めたか、と言おうとしたところで杏奈さんは再び目を閉じてしまった。
一瞬、希望の光が射したと思ったんだが……それも潰えてしまったか。と、俺が落胆した次の瞬間、
「ふにゃあああっ!」
あまりにも驚いてしまった所為か、まるでギャグアニメのように杏奈さんは大声で叫びながら天井近くまで飛び跳ねた。
でも、これで……杏奈さんと話すことができそうだ。それだけで不思議と安心している自分がいた。
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