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 祖父の危篤が伝えられた時、美咲は学校で古文の授業を受けていた。授業を進める教師の抑揚の無い平坦な声が、静かな教室に淡々と響く五限目の事だった。美咲は窓際の席に座って、頬杖をつきながら、運動場の向こうに広がる、隙の無い曇り空を見つめていた。

 廊下から、どこか落ち着きの無い足音が近づいて来ていたのに美咲が気づいたのは、その足音の主である担任教師が、教室のドアを開けた時だった。壮年に差し掛かった痩せた男性教師で、茶縁の丸眼鏡と毎月黒染めしているくせの強い頭髪が印象的だった。その担任教師は務めて静かにドアを開けたつもりだったのだろうが、ところどころ錆かけていた敷居を横滑りしたドアは、静寂に包まれていた教室にまるで不調和な低い金切り音を響かせた。

 授業を進めていた古文教師を含めて、教室中の視線が、廊下に佇立する担任教師に集中する。担任教師もそうなる事は事前に十分予想していた事だったろうが、実際に体験してみると息を呑んだ様で、自分に集まる多くの視線に心なしか顔が強張っていた。

 先に動いたのは授業を進めていた古文教師だった。中年を過ぎ、定年退職を控えた彼の頭髪は、側頭部に僅かに残った白髪を除けば余す所なく抜け落ちていて、腹部には中年時代に蓄えた余分な脂肪が垂れ下がっていた。彼はその脂肪を教卓にぶつけないように慎重に回転させると、担任教師の方を向き足早に近づいた。担任教師はそれを見て、こけた頬に今一度緊張の色を浮かべると、静かに廊下と教室との敷居をまたいだ。

 二人が教壇の脇で耳打ちをしている間、生徒たちは皆早くも、心の中で”誰が呼び出しをくらうのか”という推量ゲームを始めていた。中高生というのは、大人たちが思っている以上に聡く、またずる賢いものだった。時にそれは、一介の大人たちを凌駕するほどに。

 元サッカー部の下川大和だろうか。彼はその素行の悪さからサッカー部を退部に追い込まれた過去を持ち、一年の時から度々停学騒動を巻き起こしていた。年間職員室呼び出し回数の賞レースにおいても、ぶっちぎりでトップを独走中であったが、当の本人はいつもと変わらぬ様子で、乱暴に足を投げ出し、机を盾にしながら少年漫画を読みふけっていた。しかし、その切れ長の目が僅かに二人の教師の方へ動いた事を、数人の生徒は見逃さなかった。心当たりを探しているのだろう。

 それとも、学級委員の緒形佳苗だろうか。彼女はその強い責任感と学業成績の優秀さから、一年の秋学期から三期連続で学級委員を務めていた。今学期は決選投票の末に生徒会副会長に抜擢され、会長の陰に隠れつつも、全校規模での『校内5S運動』を推進した事は記憶に新しい。そういった運動は往々にしてテーマだけ大仰な割には中身も結果も無く、ただの慣れ合いで終わってしまうものだが、確かに彼女が運動を進めてからは校内から一定数ゴミが消え去り、教室後方のロッカーに散乱しているのが常だった学級文庫が整然とその居場所を取り戻した。その点においては生徒たちも一目置くところであった。そんな彼女は、その立場上、種々の要件で職員室に呼び出される事があった。そしてその都度、”緊急事態“の最前線に立てる事に誇らしげな様子で、長い黒髪を揺らしながら職員室へと赴くのだった。その実、今日も彼女は二人の教師を見据えては、お気に入りの赤縁眼鏡の向こうに誇らしげな表情を浮かべ、自分の名前が呼ばれるのを今か今かと待ち構えていた。

 そんな推量ゲームの結果は、誰もが予想だにしない結果に終わった。しかし、一番予想だにしていなかったのは名前の呼ばれた当の本人だったかもしれない。

「遠藤。荷物をまとめてちょっと来なさい」

 古文教師がその肉付きの良い顔を美咲の方へ向けて言った時、生徒の視線の向かう先は、半数が真剣な眼差しで美咲を見つめる古文教師の顔を、もう半数が呆けたように教師を見返す美咲の顔とでほぼ均等に分かれた。

「はい」

 取り敢えず反応しておいた。そういった類の生返事だった。美咲は返事をしてから思い出した様に机の用具をまとめると、教室後方のロッカーから革の通学鞄を取り出し、まとめた用具をしまった。終始、まるで自分以外の全員の時が止まったかの様に、教室中の視線が固まっていた。

 美咲にも全く心当たりが無い訳では無かった。昨日の夜、東北にある母方の実家から家に電話があり、祖父が肺を悪くして入院したとの連絡があったのだ。それでも祖母から連絡を受けた母の口振りからは、それは“ちょっと酷い風邪”程度の物で、一昼夜で深刻な転帰を辿るような様子では無かった。母も週に五日のパートの仕事に都合をつけて、来週に単身で帰省する手筈であり、火急ではなかったのである。美咲も祖父が心配ではあったが、大学受験を控えた身である以上、今回は見送らざるを得なかった。

 そんな経緯があったので、美咲は当初、全く別の用事で呼び出されたのだと思っていた。しかしそうなってくると心当たりは見つかりそうにも無かった。

 美咲は鞄を持って二人の教師の元に向かうと、真っ直ぐ二人を見た。

「一緒に職員室に来なさい」

 担任教師は難しい顔を崩さぬままにそう言うと、美咲を廊下へと誘った。教室の扉が、耳に障るあの金切り音を繰り返す。廊下には、残暑を感じさせる湿った空気が充満していて、それは美咲の肌に纏わりつくように生温かった。閉められたドアの向こう側で、古文教師がどこか冷静を装った声で「えー、授業を続けます」と宣言しているのが聴こえた。授業が終わった後の休憩時間に、教室が美咲の早退の話題で持ち切りになるのであろう事が、容易に想像出来た。

 先導する担任教師の数歩後ろを美咲は着いていく。二つクラスを過ぎて中央階段に差し掛かると、担任教師が真一文字に結んでいたその口を開いた。

「先程お母さんから連絡があってね。お祖父さんの容体が急変したそうなんだ」

 担任教師は階段を下りながらそう言うと、ちらと美咲を振り返った。その視線はどこか美咲の反応を探っている様だった。彼の短くない教師人生の中では、授業中の生徒に親族の危篤を伝えるという経験は、初めての事では無かったのだろう。そして、その後の生徒の反応が千差万別であり、それを受け入れてやる事も教師の役割だと理解していた、それはそれ故の観察だった。

 当の美咲は、そんな担任教師の心配とは裏腹に冷静だった。祖父が危篤だと言う事にも驚いたが、この携帯電話全盛の時代に危篤の報せが学校に直接入るという事にも驚いていた。無論、授業中の美咲は満足に携帯電話に出る事は出来ないし、その後の授業への欠席などの対応の事を考えれば先に学校へ連絡を入れておいた方が得策だと言う事は分かるが、美咲の頭の中にはそういった可能性というものが全く無く、どこか新鮮な気さえしていた。何より、特に大きな問題を起こす事無く学生生活を送っていた美咲にとって、母がこの様な用件で担任教師と連絡を取っている姿が想像出来なかった。

 仏頂面の担任教師に連れられて職員室へ向かうまでの間、美咲は終始そんな取り留めも無い事を考えていた。それは不謹慎な事ではあったのかもしれないが、少なくともその時の美咲には、祖父の危篤という報せに現実味を感じる事が出来なかった。

 職員室へ入ると、エアコンの冷気が美咲を包んだ。授業時間である今は、担当授業の無い教師が数名居るのみで、生徒と教師でごった返す休憩時間とは打って変わって閑散としていた。担任教師は入ってすぐ横の、ソファとテーブルが置かれた簡素な応接スペースに美咲を案内した。

「さあ、座りなさい」

 いつも横目で見ているだけのソファの感触が、思っていた以上に柔らかくて美咲は驚いた。いつもと少し視点が違うだけなのに、何度も見てきた職員室が、全く知らない場所の様に思えた。

「遠藤は電車通学だったな。今、お母さんと連絡は取れるかい? さっきの電話では上野から東北新幹線で向うという様な事を話していたから、細かい時間などを決めなさい」

「分かりました」

 美咲は答えると、鞄の中にしまっていた携帯電話を取り出した。スリープ状態から復帰させると、母親へ電話を掛けた。本来であれば授業中は携帯電話の電源を切るという校則があるのだが、殆どの生徒は守っていなかった。しかし今は、担任教師が見守っている手前、美咲は携帯の呼出音を聴きながらばつの悪い気持ちになった。流石に状況が状況であったので、担任教師もそれを咎める様な事は無かったが。

 母は五回目の呼出音が切れる前に電話に出た。

「もしもし美咲? 先生から聴いた? お祖父ちゃんね、今日の昼前に突然容体が悪くなったみたいでね。今晩がヤマだろうから、急いで行かなきゃならないって」

 母は矢継ぎ早に言った。祖父はどうして悪くなったのか、今どれくらい悪いのか、例えば意識はあるのかとか、美咲には他にも知りたい情報がたくさんあったが、焦りの滲む母のその声色からすると、きっと何も聴いていない様な気がして聴くのを辞めた。

「うん、聴いたよ。上野から新幹線で行くの? 今から行けば良い?」

 美咲は職員室の壁掛け時計を見た。十四時を過ぎた頃だった。美咲は頭の中で、上野までの行程を簡単に組み立てた。今から向かえば十五時までには上野に着けるだろう。

「そうね。上野駅の改札口で待ち合わせしましょう。お母さんは一旦家に帰って必要な物とか取って、翔太郎を拾ってから行くから」

 母は四歳下の弟の名前を出した。弟は家から徒歩一〇分の中学校に通っている。

「そうね、十五時には着けると思うわ。お父さんはどうしても抜けられない仕事があるそうだから、仕事が終わってから別の便ですぐに向かうって」

「分かった」

「新幹線のチケットは、お母さん電話で予約しておくから、心配しないで」

「うん、気をつけてね」

 そう言って電話を切ると、十五時に上野で待ち合わせする事になった事を担任教師へ伝えた。

「そうか。分かった。明日以降の事はまだ分からないだろうれど、分かった時点で学校に連絡するようにしなさい」

「はい。そうします」

「くれぐれも気をつけて行きなさい」

「はい。ありがとうございます」

 担任教師は美咲が事態を冷静に受けて止めている事に、どこか安堵している様子だった。もし美咲が危篤の報せに取り乱す様な事があれば、丁寧に慰めなければならなかったが、そういった労力が必要では無さそうなので、敢えて淡々と美咲に話しかけた。美咲からしてみれば、普段二人きりで話す事などまず無い担任とこうして会話をしなくてはならないので、担任の淡白な声掛けはむしろありがたかった。もしこれが、必要以上に気を遣った腫れ物にでも触れるような調子であったなら、美咲はもしかしたら酷く辟易していたかもしれない。

 美咲は昇降口から外に出ると足早に校門を目指した。曇り空の下、くすんだ白い鉄筋コンクリート製の校舎が、まるでそびえ立つ廃墟の城の様に見えた。運動場にある掲揚塔には校旗と国旗が掲げられていて、秋の冷たい風にはためいていた。美咲は歩きながら三階にある自分のクラスを見上げた。美咲は校舎のすぐ脇を歩いていたので、クラスからは身を乗り出さなければ自分の姿は見えなかった。一人孤独に学校を後にする姿を見られるのは恥ずかしかったので、美咲は安心した。

 校門を出ると、美咲は徒歩で十五分の地下鉄を目指した。そこまでバスが出ていない訳ではなかったが、一時間に五本前後と本数が多くは無いし、美咲はいつも歩いていた。その時は急ぐ理由があったので時間によってはバスを利用しても良かったのだが、逡巡の後に、美咲は結局いつも通りに歩く事にした。昼下がりの閑静な住宅街を美咲は足早に進んでいく。一つ角を曲がると道の先を音も無く歩く野良猫と遭遇した。何度か見かけた事のある茶虎の雄猫だった。警戒心の強い猫で、美咲と目が合うと、歩き続ける美咲に対して完全に静止した。美咲が構わず歩き続けると、十メートルほどまで近づいた所で、目にも留まらぬ俊敏な動きで側溝の下へ逃げていった。また一つ角を曲がると、ツツジの生垣に囲まれた手狭な公園に差し掛かった。砂場のついた滑り台とブランコと鉄棒とベンチが四隅に等間隔に配置された何処にでもある普通の公園で、学校が下校時刻の時間帯になると男子を中心に下校中の生徒が遊んでいるのをよく見た。今は幼児が三人、きゃっきゃと高い声でじゃれ合う様に砂場で遊んでいるのが見えた。ベンチには子供たちの母親だろうか、三十代とおぼしき女性が三人座って世間話に興じていた。美咲は横目で公園を見ながら、駅へと急いだ。

 学校の最寄り駅は、住宅街を抜けた先の繁華街の交差点に昇降口があった。美咲は駆け足で昇降口を降りると、定期券で改札口を通り構内を目指した。普段美咲がよく帰る時間帯とは異なり、ホームの中は閑散としていて、朝夕のラッシュ時とは違い、これなら座席に座る事も出来るだろうと思った。

 ホームに滑り込んできた電車は案の定、乗客がまばらだった。美咲は乗り込むと、一人も座っていないロングシートの一番端に座った。向かいのシートには丁度美咲と反対の端に、リクルートスーツにコートを羽織った大学生くらいの男性が襟に顔を深く埋めながら、虚ろな視線を通路の床に投げかけていた。どこか悲壮感の漂う表情には生気が無かった。

 美咲ははっと思い出したように鞄の中から携帯電話を取り出した。美咲が考えていた通りに、通知ランプが緑色の光を点滅させている。画面を開くと、未読メッセージが三件受信されていた。全員が同じクラスの同級生からの物で、一件は同じ吹奏楽部の新見佳代からの物、もう一件は席が後ろの佐々木ゆりえからの物、最後の一件はバスケ部員で、事ある毎に美咲と関り合いを持とうとする早川伸吾からの物だった。三件とも内容は似たり寄ったりで、早退した美咲を心配するメッセージだった。まだ五限の終業までには五分ほど残されているので、全て教師の目を盗んで送ってきたのだろう。佳代には今日の部活を休まなければならない事を連絡しなくてはならないので、返信しようかとも思ったが、結局美咲は三人共に返事をしなかった。

 途中、一度乗り換えを挟んで上野駅に着いたのは予定通り一五時前の事だった。改札口傍の母が通るであろうポイントを予想して、美咲は待つ事にした。平日の昼過ぎとは言え、駅構内は人が多かった。スーツに身を包んだ男性が小走りで改札口を駆け抜ける。買い物袋を下げた女性が緩やかな足取りで駅を出て行く。何故か美咲と同年代の制服を着た中高生が複数人で美咲の前を横切って行った。試験中でもないのに、この時間帯に何をしているのだろう。そう考えて、自分もそんな中高生の一人である事に気づいた。けれどきっと彼らは、危篤の親戚に会う為に、ここに居る訳ではないだろう。根拠は無いがそんな気がした。

 改札口にほど近い駅の出入り口からは、相変わらず低く垂れ込める雲が見えた。均一な灰色では無く、ところどころに明暗のある分厚い雲だった。しばらく見ていると、思っていたよりも早く風に流れていく。美咲はそんな蠢くまだら模様の曇天に見入っていた。

『お知らせします。十四時四十六分頃、JR中央総武線、新小岩・平井間にて、列車による人身事故が発生いたしました。事故の影響で現在中央総武線の新宿方面へ向かう列車が全て運行を停止しています。現在の所、運行再開の目処は立っていません。繰り返します。十四時四十六分頃……』

 淡々とした構内アナウンスが美咲の耳朶をうった。すぐに美咲の脳裏に一つの懸念がよぎる。美咲の自宅の最寄り駅は浅草橋より千葉側の本八幡だった。母親が上野に来る気配はまだ無かった。美咲はすぐさま携帯電話を開いた。メッセージの受信は無い。母からの連絡を待った方が良いだろうか。しかし、母はもう平井を過ぎているかもしれないし、だとしたら美咲の懸念は杞憂だと言う事になる。結局美咲は十五時の集合時間まで待つ事にした。

 母から連絡があったのは、十五時を過ぎてすぐの事だった。構内アナウンスはもう十回以上、繰り返し人身事故の情報をアナウンスしていた。内容に変化は無かった。

「美咲? 総武線で人身事故があってね。悪い事に丁度新小岩だったんだ」

 受話器の向こうの母の声はどこかうわずっていた。

「うそ。駅でアナウンスがあったからもしかしたらと思ったけど。翔太郎は?」

「今一緒に居るわ。別の最寄り駅とかバスとかも探してみたんだけれど、ちょっと良いのが無さそうでね、少し掛かりそうなの」

「待っていれば良い?」

「うーん。美咲に上野で待っていて貰おうかと思ったんだけれど、家を出る前にもう新幹線は予約しちゃってたのよ。だから美咲に先に新幹線に乗ってもらおうかと思って」

「えっ?! 私一人でおじいちゃんち行くの? 新幹線の予約変更出来るでしょ?」

「出来るけれど、お母さんがいつ上野に行けるか分からないからもう美咲だけでも先に行った方が良いわ。もう高校生なんだから」

 もう高校生なんだから。母の口から不意に出たその言葉は、美咲を憤慨させるのには十分だった。

「……分かったよ。もう。大体その時間に新小岩を過ぎてないって、事故が無くても十五時に上野に着けないじゃない」

「ごめんごめん。色々探していたら遅くなっちゃって」

 あなたはあなたで良い大人なんじゃないの。喉元を飛び出しそうになったその言葉を、美咲はぐっと飲み込んだ。

 列車の到着を告げる軽快な電子音が流れると、今度はホーム後方から高く太い警笛が鳴り響いた。線路を叩く車輪の音がゆっくりと近づいて来ると、次に、緑と白で塗装された列車がホームに入ってきた。流線型の車体は本来の停車位置を少し行き過ぎて止まった。

 美咲は列車に一人で乗り込んだ。空いている自由席を探す。地下鉄とは違い二人が並んで座るクロスシートだった。美咲は誰も座っていないシートの窓側に座った。しばらくすると列車はその鈍重な車体を遥か北へ向けて走りだした。

 美咲は母の実家へと向かう途中、ほとんどの時間を車窓から見える曇天を眺めて過ごした。曇天を眺めながら、容体の急変した祖父との思い出を反芻させていた。最後に会ったのは去年の夏休みで、お盆に帰省した時だった。その時点で三年ぶりに会った祖父は、美咲の記憶よりもずっと老け込んでいる様に見えた。けれど、細くなった首筋の皮を目一杯引っ張るようにして豪快に笑うその笑顔は、三年前の祖父のままだった。祖父は若いころから細身で、肥満とは程遠い体型であったが、不思議と腺病質な印象は受けなかった。むしろ野山を駆けずり回っている少年の様な活力を感じるほどだった。その祖父が入院し、危篤に陥っている。実の娘家族とは言え、五〇〇㎞離れた遠方の親類を急遽呼び出す程なのだ。それはきっともう、最悪の事態を覚悟しなければならないのだろう。

 美咲はふと、総武線での人身事故を思い出した。事故を起こした誰かは、名前も年齢も性別も、事故を起こした原因も現在の生死も定かではないが、十中八九それは自殺である様に思われた。網の目のように張り巡らされた鉄道網を持つ東京では、鉄道自殺は日常茶飯事だった。社会と人生に絶望して多くの人の迷惑をも顧みずに身を擲つ。その気持ちは美咲の与り知らぬ所ではあったが、そうやって一人孤独に亡くなっていく誰かがいる一方で、片や祖父の様に全国に散らばった親類縁者を片田舎に結集させて逝こうとしている人も居る。この二つの生命の違いは何なのだろう。何が二人の最期をこれほどまでに異なる装いにしたのだろう。美咲の脳裏に、環境保護を訴える活動家がテレビに向かって声高に”平等な生命”を叫ぶ映像が浮かんだ。でも美咲には生命が平等だなんてこれっぽっちも思えなかった。

 携帯電話が鞄の中で重く振動して、メッセージの受信を告げた。確認すると母親から連絡が入っていた。上野で母と連絡を取ってから一時間が経とうとしていた。

『電車は動き始めたけれど、お母さんと章太郎は駅でお父さんを待って三人で行く事にしました。美咲が一人で先に向かうのはお祖母ちゃんには連絡したから大丈夫。他の親戚の人も居るだろうから失礼の無いようにね』

 メッセージからは母のどこか間の抜けた顔が浮かぶ。美咲は腹の底から沸々とした感情が込み上げて来るのを感じた。最近美咲は何かにつけて苛立ちを覚える事が増えた。父も母も弟も、何故か美咲の反感を煽る様な事ばかりを口にする。

『分かった』

 美咲は僅かに眉を寄せると簡潔にそれだけ入力して返信した。おもむろに顔をあげて車内を見渡す、上野駅ではほとんどの座席が埋まっていたが、東京を出てから一時間以上が経過した車内は、乗客が半数ほどに減っていた。美咲は唐突に心細くなった。思えば東北の祖父母に一人で会いに行くのは初めてだった。父の実家は埼玉にあるので、章太郎を連れて二人で行く事はあったが、それでも一人では無かった。そもそもこれ程までの長距離を一人で移動する事が初めてだった。それを母親はもう高校生だからという理由で美咲に半ば強引に実行させた。高校生という年齢がもたらす印象は、社会や親の都合だけで、”まだ未成年”と”もう大人”の間を盛んに行き来する。管理したいときは前者を使い、面倒になって放任したければ後者を使う。それぞれの状況でもっともらしい理由をつけて使い分けるのだ。それが美咲には大人の勝手な責任逃れの方便の様な気がしてならなかった。

 上野を出てから時間が経過すればするほどに、車窓から見える風景は、都市から田舎へと変化していった。代わり映えのしない田園風景と住宅地の景色とが美咲の目の前を何度も何度も流れていく。今日は広い範囲で曇天の様で、東京から幾ら離れようとも、東京で見上げたあの分厚い雲が途切れる事は無かった。ある時、車窓から遠くに見える山の尾根に、深く霧が垂れ込めているのが見えた。

 美咲が母の実家に近いターミナル駅に到着したのは上野を出てから三時間が経っていた。太陽は既に暮れ落ちて久しく、頭上には夜空が広がっていた。そこから在来線に乗り換え更に小一時間移動し、実家の最寄り駅へと急ぐ。駅から実家方面ではなく、祖父の入院している病院行きのバスに乗った。近隣市町村の中では最も大きな中核病院で、最近建て替えられたのか、現代的で都会的なデザインの建物は、低層の木造住宅が立ち並ぶ田舎町の中で大きく浮いていた。病院と名がついていなければ、ホテルか何かと見間違えてしまいそうだった。

 外来診療はもう既に終了している時間で、外来受付は消灯していた。美咲は一瞬戸惑ったが、外来横に守衛室があって制服に身を包んだ男性が数人詰めているのに気づいた。窓が開いていたので、恐る恐る声をかけ見舞いに来た旨を伝えると、守衛とは思えないほどに愛想の良い声で丁寧に対応してくれた。この時間帯は守衛が受付の役割をも果たしているのだろう。

 祖父の入院している病棟は一般外科だった。自動扉を通って病棟内に入ると夕食に供されたであろう煮物の匂いが美咲の鼻腔をくすぐった。入ってすぐにナースステーションがあり、PCに向かって難しい顔で作業している若い看護師が居た。

「すみません。新山永二郎の親類の者ですが」

またもや美咲は恐る恐る声をかけると、黙々と仕事をしていた看護師は勢い良く美咲の方を振り向き、その険しい表情を驚くほど劇的に柔らかくした。

「新藤さんんのご家族の方ですね。少々お待ちください」

 看護師はそう言って、ナースステーションの奥へ向かうと、ちらりと見えた壮年の看護師に話しかけていた。すると今度は壮年の看護師が美咲の方へ来た。

「お部屋へご案内しますね。こちらになります」

 壮年の看護師は淡々と言って、美咲をナースステーションすぐ横の個室へと誘った。その部屋を前にして美咲は唐突に胸の鼓動が高鳴るのを感じた。扉の向こうに祖父はもちろん、多くの親類が居る事を考えると、急に現実感が湧いてきた。

 看護師が横開きの扉を静かに開くと、美咲は部屋へ入った。

「あら、美咲ちゃん。着いたのね」

 部屋の奥、祖父が横になっているベッドの向こう側にあるソファに腰掛けていた叔母が入ってきた美咲を認めて言った。そのまま部屋の中へ入っていくと、叔母の横に三歳下の従兄弟が座っており、その更に横に祖母が座っていた。祖母は美咲の顔を見ると立ち上がり、その皺の刻まれた丸顔を明るくさせた。

「遠い所をご苦労様。突然でごめんねえ。でも間に合ってよかった。ほら、美咲が着きましたよ」

 祖母はベッドの祖父に向かって優しく語りかけた。その穏やかな表情はどこか悲しげだった。

「ほら美咲も、声を掛けてやって頂戴」

 祖母がそう言うと、美咲はベッドへ近づいた。祖父は仰向けで、真っ白な布団が綺麗に掛けられ、静かに目を閉じていた。僅かに見える首筋は、去年会った時よりも更に痩せている様に見えた。顔には酸素マスクが当てられ、胸のあたりから伸びるコードの先にはモニターがあった、左腕の方からは点滴ルートが伸びていて、頭横の点滴スタンドには点滴が下げられている。酸素チューブを流れる気流の高く細い音だけが静かに聞こえていた。モニターには美咲のよく知らない英単語や数字が羅列されているが、唯一、医療ドラマなどを通して広くしられたあの特徴的な波形が、祖父の現在の心臓の拍動を投影している事だけは分かった。

 その光景は美咲の想像していた物と大きくは変わらなかったが、美咲が想像していたよりも遥かに痛々しく悲惨な光景だった。あの活き活きとした祖父が、細い体を使って全身で笑う祖父が、力なくそこに横たわっていた。

「お祖父ちゃん。美咲だよ。分かる?」

 美咲の声に、祖父は応えなかった。その瞼は閉じたままだった。その静かな表情が美咲には信じられなかった。

「昼前に突然意識を無くしてね。看護師さんたちが血相を変えて飛んできて、それは大変だったよ。先生も詳しい原因は分からないけれど、肺炎が体中に回ってしまったんじゃないかって」

 祖母が祖父の顔を見ながら言った。それは慈愛に満ちた優しいまなざしだった。

「出来ることは何も無いって?」

 美咲は尋ねた。

「ICUに入って治療すれば良くなるかもしれないって先生には言われたんだけどね。迷ったけれどお祖父ちゃん、いつもいつも延命だけはしないって強く言ってたから」

 そう言った祖母の顔が一段と曇ったのを美咲は見た。祖母は今、夫に先立たれようとしているのだ。口では延命を拒否したと言っても、そこに複雑な感情があるのは美咲にも明らかだった。

 祖父母は本当に仲が良かった。母がよく父の愚痴をこぼすのを見て育ってきた美咲は、物心ついた頃、祖父母が互いによく笑い、慕い合っているのを見て、何故両親はそうでないのだろうと残念がったものだった。祖母は活力溢れる祖父とは違って、静かで穏やかな人だったが、祖父はいつもそんな祖母の歩調に合わせて、祖母の手を優しく引く様に暮らしていた。美咲は子供ながらにその二人の姿が憧れだった。

 それから美咲は用意されていたパイプ椅子に座って、横たわる祖父を前にしてただただ時間が過ぎていくのを待った。結局両親と弟は、美咲が到着してから二時間ほど送れて病院に到着した。両親が着いてから美咲は、家族と病院の売店で簡単な夕食を済ませる為に、一度部屋を出たが、それが済んでからはまた、静かに祖父の横顔を見ながら時間を過ごす事になった。

 そして、夜も更け、日付が変わろうとしていた頃、祖父は目を覚ます事無く、静かに穏やかに逝った。

 それは、美咲にとって、目の前で誰かが亡くなったという初めての経験だった。高校生にとって死はあまりに漠然としていた。自分には未だ無限の様にさえ思える人生が広がっていて、それを目の前にしながら死を意識する事は難しかった。でもその日、美咲ははっきりと目の前で死を見た。自分の良く知った人が、自分をよく知っている人が、この世から居なくなったのだ。もう二度と言葉を交わす事が出来なくなったのだ。幾らでも取り返しの着く日常ばかりを生きていた美咲にとって、それは初めて感じる明確に取り返しの着かない事実だった。

 美咲はその後、矢継ぎ早に進んでいく通夜や葬儀の中に流されるままに身を置きながら、胸中にゆっくりと喪失感が充満していくのを感じていた。


「お祖父ちゃん。久しぶり。もう亡くなって三年が経つんだね。時間が経つのが早すぎてびくりするよね。私大学生になったんだよ。高校の制服姿を見せた時もお祖父ちゃん喜んでくれたから、スーツ姿も見て欲しかったな。

 そう言えば今日ね、どうしてもお祖父ちゃんに伝えたい事があるんだよ。

 お祖父ちゃん。私と蛍を見に行った時の事を覚えてる? 私を自転車の後ろに乗せてさ、遠くまで蛍を見に連れて行ってくれた事。私ね、ずっとその時の事忘れていたんだけど、この間、あの時以来久しぶりに蛍を見に行ったんだ。あ、安心して、お祖父ちゃんの言うとおり好きな男の人と行ったから。ロマンチックでしょ。

 お祖父ちゃんが亡くなってから、本当に色んな事を考えます。私の中でお祖父ちゃんが亡くなった事は、本当に大きな出来事だったんだって、最近になってよく思うんだ。あの時までは、色んな物事をどこか適当に考えてばかりいて、日々を呆然と過ごしていたけれど、お祖父ちゃんが亡くなってからは、以前よりずっと真剣に毎日を過ごすようになったんだよ。まるで雲が晴れたみたいに以前とは違うの。だから気づいたんだ、私お祖父ちゃんに謝らなきゃいけないって。わがままを言う私を連れて蛍を見せてくれたのに、ずっと私怒っていたから。本当にごめんなさい。そして、蛍を見せてくれて本当にありがとう。とっても綺麗だった。

 今度は、その人も連れてくるね。素敵な人だから、お祖父ちゃんにも会わせたいんだ。まだ付き合っているだけなのに馬鹿だと思うかもしれないけど、彼と、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんみたいな、可愛い二人になれたらなって、そう思うんだよ――」


―Fin―

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君と紫陽花の咲く頃に 六畳ヒトマ @rokujouhan

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