季節外れのファイヤーフライ
「蛍が見たいんだ」
美咲がそう言ったのは、例年よりも遅めの梅雨明けから、少し過ぎた7月下旬の事だった。BGM代わりにつけていたテレビは、昼下がりのワイドショーの中で人気芸能人のスキャンダルをこれでもかとスキャンダラスに報道していた。テーブルの上には美咲の好きなニルギリで淹れたアイスティーと、バニラ味のクッキーが並べられていて、穏やかな3時のおやつの様相を呈していた。カーテンレースの向こうに広がる真夏の強力な日差しと蝉の鳴き声が、本格的な夏の到来を告げていた。
永太はその時、ゴム手袋をつけてキッチンの流し台を掃除していた。昼食に冷製パスタを作ってくれた美咲から「なんか流し台が生臭いよ」と忌憚の無い意見を頂戴した為で、風呂掃除用に使っていたブラシを転用させて排水口のぬめり取りに取り掛かった所だった。
「何だってー?」
掃除に夢中になっていた永太は、美咲の発言を聴き流してしまうと、キッチンから部屋の方を見やって間延びした声で尋ねた。
「蛍を見てみたいんだよね」
美咲は視線をテレビに向けたままぼんやりと言った。何処か気の抜けた横顔だった。
「蛍は6月がシーズンだぞ」
永太はしれっと言った。
「え、そうなの? 夏のイメージあるじゃん」
「イメージって……」
呆けたように永太を見る美咲の顔に永太は苦笑せずにはいられなかった。
「全国的に蛍の一番の見頃は6月下旬で、二十四節気で言うとちょうど夏至の頃だからさ、旧暦では思いっきり夏なんだよ。蛍の夏のイメージはそこから来てるんじゃない?」
「へえー。詳しいね」
美咲は感心したように言った。
「地元が田舎だったからさ、校区内にある山裾の沢で毎年蛍が見れたんだ。生物の授業で先生が色々教えてくれて、二十四節気のくだりもその先生の受け売り」
永太は流し台のぬめりと格闘しながら得意気に言った。額を流れる汗をTシャツの袖で拭う。
「ふーん。そうだったんだ。でも残念だなあ。来年まで見られない訳でしょ?」
「そういう事になりますね……っと。うわ、こりゃまた酷いな」
永太は排水口の中の“大物”を捕らえたようだった。
「じゃあ、来年永太の地元に蛍を見に行こうよ……って何それヤバ……」
三枚目のクッキーに手を伸ばしながら、永太の方へ意識を向けた美咲は永太の手にする“大物”を見て思わず目を瞠った。
「隣でこんな事やってながら、よく美咲は飯が食えますね」
「クッキーは別腹なんだよ。いやでもちょっとドア閉めよ」
美咲は笑顔で言うと立ち上がった。
「何だよそれー! 俺をこの汚物と共に閉じ込めようってか!」
「臭いものには蓋をってね」
「別腹なんじゃないのかよ! っていうか色々日本語おかしいよ!」
永太の糾弾を意に介さず、躊躇うこと無く美咲はキッチンと部屋を隔てるドアを閉めた。永太にはドアの向こうで揚々とソファーに舞い戻る美咲の足音が聴こえた。
「理不尽だ……」
永太は片手に汚物を持ったままの情けない姿で呟いた。
「お疲れ様。はいクッキー」
大掃除を終えて軟禁状態から解放された永太の口に、美咲は最後の一枚を運んだ。
「さっきの状況と言い、なんだか餌付けされた野良犬の様な気持ちなんですが」
「気のせいだよ。ほらお座り」
美咲はソファーを見て言った。
「はいご主人様」
「よろしい。お座りよりステイの方が良かった? 洋モノっぽくない?」
美咲は軽く吹き出して言うと、横に座った永太の肩におもむろに身を預けた。
「絶対だ。絶対に美咲の友達に美咲がいかにサディスティックな性癖を持っているのか暴露してやるんだ……」
永太は力を込めて言った。
「それは結果的には自分がマゾヒストだって公言する事になるのよ? 長谷川くん」
「忘れてくださいご主人様」
永太は即答した。
「それでよろしい。……掃除、ありがとうね」
「まあ俺の部屋だし」
「私もよく使わせて貰ってるからって事」
「どういたしまして。そろそろ宿代徴収する?」
永太は意地悪な笑みを浮かべて言った。ささやかな反撃だった。
「冷製パスタ一皿1980円ね。彼女の分も入れて3960円なり。気前良く奢る長谷川くんかっこいい」
美咲は平然と言った。
「どこの高級店だよ! イチキュッパで安く感じさせる常套手段が商魂逞しいわ!」
「バイトでなら雇ってあげてもいいよ。喜びなさい。時給もイチキュッパだから」
「0一つ消えてますオーナー! ……ねえ、なんか美咲、最近俺の扱い雑になってない?」
「気のせいだって。被害妄想は良くないよ」
「妄想で片付けられた……」
反撃のつもりが手酷く一蹴された永太は、テーブルに置かれた自分のアイスティーを手に取るとソファーに深く身を沈めた。永太の肩に身を寄せていた美咲の頭が膝上に落ちる。それは所謂膝枕の格好だった。
美咲と出会って一年が経った。こうして二人で過ごす時間を重ねるほどに、こんな飄々としたやり取りも、何気ない日常の風景となっていた。美咲は永太が思っていた通りに優しく穏やかな女性だったが、永太が思っていた以上に明るく悪戯好きな女性でもあった。惚れてしまった手前、それすら愛おしく感じてしまうのだが、恋は盲目とはよく言った物だと思う。
永太の膝の上で静かに休む美咲の横顔を見ながら、永太は先程の会話を思い出した。
蛍。信州の山間にある小さな門前町に生まれた永太にとっては、それはありふれた夏の風物詩だった。美咲に話した山裾の小川では、梅雨時に広く知られたゲンジボタルの飛翔が観察出来るが、もっと山の方まで入っていくと、少し小ぶりのヒメボタルも生息している。ヒメボタルの発光はゲンジボタルのそれより光量に欠けるが、発光間隔の短い鋭く明滅する光は、深い森の中で何処か異世界を感じさせる美しい光を放つ。永太とは違い、人工物で埋め尽くされた首都圏で育った美咲にとって、蛍は教科書の中だけの存在だったのだろう。蛍を間近にした時の美咲の感動に染まる笑顔が、永太の脳裏にはっきりと浮かんだ。
美咲にあの光を見せてやりたい。永太は強く思った。しかし、それが叶うのは一年後だ。蛍は十ヶ月以上もの時間をかけ卵から成虫へと成長するが、その一生の最後となる飛翔期間は僅かに十日ほどしかない。大量に飛翔する名の知られた場所でも、満足に観察出来るのは三週間ほどで、それを逃したら次のシーズンを待たなければならなかった。
『……続いて関東甲信越地方です。低気圧の影響で明け方から多くの地域で雨が降るでしょう。北関東の山間部では最高気温が20度を下回り5月下旬の涼しさとなりそうです』
無意識に聞き流していたテレビの天気予報が明日の雨模様を伝えた時、永太は目を瞠った。その瞬間にある考えが脳裏をよぎる。永太はテーブルに無造作に置かれていた携帯電話を手に取り、何やら調べ始めた。画面に表示された検索結果を見ると、その顔が満足そうに綻んだ。
「美咲、なあ美咲ってば」
永太は膝枕で心地良さそうに午睡する美咲の肩を揺らした。美咲は寝ぼけまなこで永太を仰ぎ見る。
「ん……どうしたの?」
気の抜けた返事をする美咲に、永太は満面の笑みを浮かべた。
「観に行こう、蛍」
二人を乗せたコンパクトカーは夜の峠道を軽快に登っていた。山の中という事を考えれば場違いなクラブミュージックを流すFMラジオが、聴取地域を外れたのか雑音へと変わる。助手席に座る美咲がカーナビを操作してそれを切った。液晶画面は目的地への到着時間がもう三十分を切っている事を示している。
「もうそろそろだな」
永太はぼそりと呟いた。その声にはどこか期待感が滲んでいた。
その日、二人は午前中にお互いの大学の講義を終えると、昼過ぎに家の近くのレンタカーショップで車を借りた。それから高速道路を三時間ほど北上しICを降りると、宵闇の薄明かりと田園風景の中を小一時間走り、この峠道に入った。永太が蛍狩りを計画してから一週間が経っていた。
「だいぶ涼しくなってきたね」
助手席の美咲が言った。インパネには外気温が21℃と表示されている。
「思った通りだ。これなら行けるかもしれない」
永太が笑みを浮かべる。この一週間インターネットで情報収集を続けていた永太は、窓から入り込む涼しい夏の夜風に満足気な表情を浮かべた。冷房はICを降りた頃から必要無くなっていた。
永太はあの天気予報を耳にした時、標高差とそれによる気温差によって蛍の飛翔時期が前後するのではないかという、よくよく考えてみれば当たり前の仮説に思い至ったのだった。すぐに調べてみるとその考えは正しく、例として北海道では八月の下旬でも蛍の飛翔が観測出来るとの事だった。それを知った永太はすぐさま今回の計画を立てた。
次第に道は九十九折になり、永太は連続するヘアピンカーブに対してリズミカルにハンドルを切っていく。青々と茂るカラマツが、車のフロントライトに煌々と照らし出されては後方へ流れ去っていった。しばらくの間似たような景色の中を走り続けていると、ふと車は開けた空き地の横を通りかかった。永太はハンドルを切って車を空き地へ乗り入れ、隅へと進めて停車した。エンジンを切ってフロントライトを消灯すると、途端に視界が闇に奪われた。
「うわっ、暗い」
美咲が思わず声を漏らす。想像以上の暗さで殆ど視界が利かなかった。日頃光の溢れた街中で過ごしていると、これ程までの暗闇を経験する事はまず無かった。
「大丈夫。フロントライトの明かりに目が慣れていただけだよ。今日は月も出てるし、じきに夜目が利いてくるから」
永太は運転席から後部座席へ手を伸ばし、ごそごそと降車の準備をしながら落ち着いた声で言った。楽しそうに言う永太の横顔が美咲の目には頼もしく映った。
「そうなんだ。ねえ、上着持って行った方が良いかな」
「んー。必要無いかもしれない。山道って思ってる以上に運動になるから歩いているだけでも暑くなってくるよ」
「わかった。そうする」
美咲は永太の忠告に素直に従った。山育ちの永太の、子供の頃の経験を垣間見ている気がして美咲には新鮮だった。
車外へ出ると湿気を含んだ山の夜気が身を包んだ。長時間同じ姿勢を取っていた体を伸ばすと、美咲は深呼吸して山の空気を味わった。瑞々しくて深みのある森の匂いが肺を満たす。
「美咲。空を見て見なよ」
車を隔てて向こう側にいる永太が夜空を見上げているのを見て、美咲もつられるように空を見上げた。
「……わあ、凄い」
それはあまりに単純で率直な感想だった。周囲に群生するカラマツの木々が空に向かって一直線に伸びている。その隙間からぽっかりと穴が空いたように夜空が見えた。海辺の白砂を黒い画用紙にぶちまけたかの様な満点の星空だった。
「今日は月も出てるし、ちょっと少ない気もするな」
「いやいや、十分だよ。こんな星見た事ない」
「都会で暮らしていればそりゃね。さ、行きましょうか」
「うん」
美咲が夜空を見上げている内に永太は美咲の傍に来ていた。そして、おもむろに美咲の手を取ると、森へ向かって歩きだした。
舗装されていない獣道を二人は前後して歩いていく。遠くで夜風が木々を揺らした。すぐ近くで小動物が草花の間を駆け抜けていった。土を踏みしめる二人の足音と虫の音が折り重なる様に響く。何処かで猛禽が高々と鳴いた。
懐中電灯の明かり以外には視界の制限された森の中で、聴覚はいつにも増して鋭敏だった。広がる暗闇の中で数え切れない程の生命が息づいているのを美咲は感じ取る事が出来た。いつもなら立ち竦んでしまう様な暗闇が、不思議と恐ろしくなかったのは、先導する永太の自分を引く手が、力強くて暖かったからかもしれない。
「大丈夫? 怖くない?」
永太が美咲を振り返って言った。
「少し。でも大丈夫だよ」
「この辺りは森と言っても人里に近いし、この時期だから獣に襲われる事は無いよ。でも美咲うまそうだからなあ」
「馬鹿なこと言わないで」
軽口を叩いた永太を美咲は睨みつけて言った。永太はその視線に怯む事なく、おどけた笑顔のままだった。
「でも安心して。もう着いたから」
永太は足を止めた。狭い獣道が少し開けていて、近くに沢を流れる柔らかな水の音が聞こえた。足下を照らす懐中電灯を持ち上げると、目の前にスギの群生する勾配の緩い斜面が、上方へと広がっているのが見えた。
「ここなの?」
「うん。明かりを消すよ」
懐中電灯を消灯させると、美咲は暗転した視界に目を凝らした。しかし、光の様な物は見えない。周囲を見渡しても、僅かに届く月明かりの中で、林立する木々のシルエットが見えるだけだった。
「うーん。やっぱり時期が遅かったかな。風も無いし。寒すぎる訳でもないし条件は良いんだけどな」
永太は肩を落とすように言った。
「蛍って夜中飛んでるの?」
「いや、日没から日付が変わるくらいまでかなあ。一番飛ぶのは10時くらいから。そう考えるとちょっと時間が早いのかもしれない」
「なら粘ろうよ。折り畳みの小さな椅子があったじゃん」
「お。怖いのかと思ったら、美咲さんやる気だね」
永太が感心したように言う。
「折角来たんだもん。見なくちゃ」
「そうだね」
永太はそう言うと背中のリュックサックを土の上に降ろし、中から小さな袋に入った折り畳みのパイプ椅子を二つ取り出した。慣れた手つきで組み立てると、そこに二人は腰を下ろした。
「永太の地元もこんな山奥にあるの?」
「場所によってはね。実家は街の方だから家の周りがこんな山奥な訳じゃないけど、自転車を走らせたらすぐに山ばっかりだよ。自然の遊び場には事欠かなかったね」
永太は懐かしむ様に言った。
「ふーん。同級生とかはまだ地元に?」
「どうだろう。色々かな。俺みたいに地元を出る奴もいれば、地元に残って就職したり進学する奴も居たよ。地元を出ると言っても関東に凄い近い訳でも無いから、大阪とか名古屋とか、東北の方に進学した奴も居たなあ。そんな感じで結構散らばるんだよね」
「そっか。でもどうして永太は地元を出たの?」
「はっきり言うと、大きな理由があった訳では無いんだよね。地元は地元で好きだったしさ」
永太は目の前に落ちていた小枝をおもむろに拾うと、暇を持て余したかの様に指先でくるくると回して遊び始めた。
「でも、強いて言うなら。地元が好きだったからかもしれないね」
「どういう事?」
美咲は怪訝そうに尋ねる。
「高校の時にさ、学校で一人だけ帰国子女の女の子が居たんだよ。俺とは同学年で、たまたま同じクラスになって、隣の席になってちょっと仲良くなってさ。まあ田舎だったし、やっぱり帰国子女なんて珍しい訳。目立つんだよね。その子は頭も良くて凄い良い子だったから、良い意味で目立ってたんだけどね」
永太は目を細めて遠くを見ながら言った。
「その子にさ、日本と外国どっちが好きなの?って聞いてみた事があったんだ。そしたら日本だって即答してさ、理由を聞いたら、治安も良いし、ご飯も美味しいしって、まあよくある理由が並んだんだよ。そして最後に、海外に行くと逆に日本の良さが分かるよって言ってたんだ」
永太は指先で弄っていた小枝を茂みの中へと投げた。葉擦れの音が辺りに響く。
「その一言がずっと印象に残ってて、俺も海外とは言わないけど、一度は地元を離れて、外から地元を見てみるのも良いかなって、そう思ったんだよ」
美咲は永太の話に聴き入っていた。美咲の知らない、過去の永太の姿が脳裏に浮かぶ。人生が誰にとってもそうであるように、永太も生まれてから長い時間を掛けここまで辿り着いたのだ。その中で経験した多くの体験と人間関係とが今の永太を形作っているのだ。その時間の末端である今この時、永太が自分と共にあるという事実が美咲には不思議でならなかった。何が永太をここまで導いたのだろう。それは永太の内なる何かだろうか。それとも人智を超えた超越的な何かだろうか。いずれにせよ、人はその説明の出来ない何かを運命とか奇跡とか、そう言ったありきたりな名前で呼ぶのだろう。
だとするなら、私達は運命だろうか。この出会いは奇跡なのだろうか。その答えは美咲にはまだ分からなかった。確かなのは、永太を好きだという気持ちだけだった。そして、今はきっとそれ以外には必要ないのだ。
「やっぱり行こうよ。永太の地元。永太が見てきた景色を私も見てみたい」
「連れて行くよ。我が愛する地元へ。見せたい物が一杯有るから」
「絶対だよ。約束だからね」
美咲は穏やかな表情を浮かべて噛みしめるように言った。言いながら、おもむろに暗闇に目を向けた。その時、美咲の瞳に小さな光の点が映った。
「あっ……」
一瞬見間違いではないのかと思った。無意識に立ち上がって、もう一度、今度は凝視する。間違いない。茂みの中に、一定の周期で明滅する小さな光の点が見えた。
「お……来た来た! 良かった!」
永太も立ち上がって美咲の視線の先を見つめた。一匹だけだったが確かに飛んでいた。短い感覚で鋭く発光を繰り返す光。ヒメボタルだった。
「凄い凄い! 光ってるよ!」
美咲は子供の様にはしゃいで言った。視線の先のヒメボタルは右へ左へゆっくりと揺れるように飛びながら、少しずつ二人の方へ近づいてきた。
「ねえ、こっちに来るよ!」
永太の方を振り向いて美咲は弾けるような笑顔を浮かべた。そのヒメボタルは二人を警戒する素振りも見せずに飛翔し、遂にはヒメボタルそのものが見えるほどの距離にまで近づいた。目と鼻の先を飛ぶその光で二人の顔が仄かに照らし出される。
ヒメボタルは美咲が思っていたよりもずっと小さく、小粒の様な羽根を力強く羽ばたかせながら飛んでいた。そして、二人の眼前を横切ると、そのままの速度でゆっくりと斜面を登って行った。
二人は声もなく、遠ざかる一匹のヒメボタルを見つめていた。その光が森の奥に入り、ふっと消えた後も、しばらくの間、二人はその光の残像を瞳の奥に見続けていた。
「高校の時にね、お祖父ちゃんが亡くなったんだ」
美咲はふと、ヒメボタルの消えた森の奥をみつめたまま口を開いた。
「母方の祖父で、東北の、それこそ永太の地元と同じような田舎に住んでたの。元々は兼業農家でね。地元の工場を定年退職した後は、毎日の様に畑仕事をしてた。自然の事に凄く詳しくて物知りなお祖父ちゃんだった」
静かに話す美咲の横顔を永太は見た。暗がりの中で、僅かな月明かりに照らされた美咲の横顔は、打って変わって悲しげだった。
「小学校の頃までは毎年の様に会っていたんだけど、中学に上がってからは受験だ何だって中々帰れなくなって、しばらく会えていないなと思ってたら突然肺を悪くしてね。入院して、帰らなくちゃって言ってる間に今度は危篤になっちゃって」
「最期には……会えたのか?」
「うん。間に合った。でも、久しぶりに会ったお祖父ちゃんは、点滴とか酸素マスクとかモニターとかがたくさん繋がれていて、それが凄いショックでさ。私の知ってるお祖父ちゃんは元気に畑仕事ばかりしてたから。人間って最期はあんな風になっちゃうんだって初めて知ったよ。最期は本当に静かに穏やかに逝ったから、それだけが救いだった」
伏し目がちな美咲の表情からは大きな後悔の念が感じられた。
「来月丁度三回忌で、命日が近づくに連れて色んな事を思い出すの。お祖父ちゃんとの思い出は一杯あるんだけど、唯一二人だけで過ごした思い出があってね。小学三年生の時に二人だけで、お祖父ちゃんの家から少し遠くの沢まで自転車で蛍を見に行ったの」
その話は永太には意外だった。永太は美咲がこれまで一度も蛍を見た事が無いと思っていた。
「お祖父ちゃんと長い時間二人だけで過ごしたのも、自分が蛍を見に行ったのも、後にも先にもそれきりでね。それでも当時は本当に何気ない出来事で、こんなにも長く覚えてるなんて全然思って無かった。それでも覚えてたのは、その時に見た蛍の光がどうしても記憶に無くて思い出せなかったからなんだ」
「記憶に無かったの?」
「そう。笑っちゃうでしょ。蛍を見た事は確かなのに、それがどんな風に光ってたのかとか、どれくらいいたのかとか、そんな細かい記憶が全然無いの」
美咲は苦笑すると、ゆっくりと腰を下ろした。獣道を夏の湿った夜風が吹き抜けていく。
「でも、あのヒメボタルの光を見て思い出した。あの時も、あんな風にたった一匹だけ、まるで取り残されたみたいに一匹だけ、森の中を飛んでいた」
美咲の声が少しずつ小さく弱くなっていった。永太も腰を下ろすと、美咲の肩を静かに抱き寄せた。
「あの時、私は理科の教科書にたまたま見つけた蛍を、どうしても見たいって我儘を言ってお母さんたちを困らせた。その時は分からなかったけれど、蛍の時期はもうとっくに過ぎていたのに、言っても聴かない私に両親は怒ってしまって、見かねた優しいお祖父ちゃんが私をあの沢まで連れて行ってくれたんだ」
美咲は不意に流れ落ちる涙を拭いながら絞り出すように言った。それでも美咲は、自分の記憶を反芻するかの様に喋り続ける。
「蛍が見られるかどうかはお祖父ちゃんにも賭けだったんだと思う。それでも結果的にお祖父ちゃんは私に蛍を見せてくれた。それなのに、今度は私は一匹しか飛んでいない事に腹を立てて、感謝もせずに帰り道にずっと怒っていた」
一度溢れ出した涙は留まることを知らなかった。痛々しく晴れる美咲の目元に永太がそっとハンカチを差し出した。
「そんな風に怒る私にも、お祖父ちゃんは優しかった。『そんなに嫌なら美咲、大人になったら好きな男にたくさんの蛍を見せてもらえ。お祖父ちゃんとじゃロマンチックじゃないだろう?』って大声で豪快に笑ってた。どうしてあの優しさに感謝出来なかったんだろう。どうして今まで忘れてたんだろう。謝るチャンスもお礼を言うチャンスもきっと幾らでもあったのにね。亡くなってから思い出すなんて。本当に私は馬鹿だよ。大馬鹿者だよ」
美咲の一言一言には嗚咽が混じるようになっていた。呼吸を整えるように、大きく深呼吸をすると、ハンカチで涙を拭った。
「そんな事ない。きっとチャンスはあるよ。今度お祖父ちゃんのお墓の前できちんと言うんだ。そしたらきっと届くから」
永太は優しく慰めるように言った。美咲はしばらくの間、そのまま泣いていたが、やがて落ち着きを取り戻すと、永太に向かって優しく微笑んだ。
「ごめんね、永太。本当にありがとう」
帰り道、高速道路を走る車の中で、二人はずっと無言だった。それはお互いがお互いの気持ちを深く受け入れているからこその心地よい沈黙だった。
「来年は、絶対に、無数に飛び交う蛍を観に行こう」
ふと、永太は口を開いた。その声に美咲がゆっくりと振り向いた。その目はまだ少しだけ赤かった。
「ううん。気にしなくていいの」
美咲は穏やかな声で言った。
「私は、季節外れに一匹だけで孤独に飛ぶ、あんな蛍が好きだから」
そう言った美咲の笑顔は、どこまでも眩しく輝いていた。
―Fin―
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