第9話 少年はコンインを迫る

 噂話が事実であったことを、光輝は受け止めきれずにいた。

 行方不明の兄がいたことも、そのことについて誰も口にしないことも、自分が何も知らずに生きてきたことも、全てが釈然としなかった。

 だが、思い当たる節がないわけではない。小学校に上がる頃まで、クラスメイトや近所の人たちが遠巻きにして自分を見る視線を常に感じていた。家の敷居を跨ぐのは全て女性で、母や姉とは普通に話をするが、自分には好奇の目が向けられていたような気がする。知紗の言う「縁起の悪い家」で、二番目に生まれた男の子がどんな風に成長するのか、いや成長できるのかを、この土地の人々はある種の興味を持って見ていたのではないだろうか。

 あの頃の心許ない感情が、ひたひたと胸に迫ってくる。

 光輝はかすかな期待を抱いて蔵に入った。

 蔵の内扉を閉めると、腕時計から光の帯が溢れ出し、少年が姿を現した。

 「どうして、ずっと返事してくれなかったんだよ」

 光輝が尋ねると、少年はいつもの口調で言った。

 「お前が望まなかったからだ」

 「何度も声をかけただろ。急に静かになるんだから勝手すぎるよ」

 「お前には話し相手がいただろう。お前が必要としなければ、私は姿を現すことができない」

 少年は静かに言った。

 「私のことが見えるのは、言葉をもたない者たちだ。生まれたばかりの者たちは、己の気持ちを伝える術がない。お前の母も姉も、幼い頃は私が見えたのだ。だが自在に言葉を操れるようになって、私のことも忘れていく。もう必要ないからな」

 蔵の中に、寂しそうな声が響く。

 「兄さんも、ここに来たのかなぁ」

 「ああ、確か、ハルキと言ったかな。一度だけ、チカコに連れられてきた。だがこれがいたずら坊主で、少しもじっとしていない。大事な茶器を壊されそうになって、チカコがすぐに連れ出した。私にはさして興味も示さなかった」

 「どうしていなくなったのか、知ってる?」

 「いや、知らん。私に分かるのは、この蔵の中のことと憑いたものの周りで起こる事だけだ。だがシノやチカコが来るたびに、あの者たちが抱えている苦渋の思いは感じていた」

 「兄さん、今どうしてるのかな。みんなもう、諦めちゃってるって事なのかな。姉貴は、兄さんがいたら俺は生まれてなかったって言うんだよね。ねえ、どう思う?」

 「お前は、生まれない方が良かったとでも思ってるのか」

 「そうじゃないけど‥‥。兄さんの代わりに生まれた、みたいなさ‥‥」

 幼稚で、取るに足らない悩みだと、光輝にも分かっている。だが、誰かに拗ねてみたかった。

 少年は、フッと笑って言った。

 「人間は不思議だな。生まれてきた意味を問い、何かを成し遂げられなければ死んだほうがマシだと嘆く。そのくせ死を恐れ、長生きしようともがく。命を得てから死ぬまで、一生悩み続けるのだからな。悩んだところで高々百年の人生ではないか。まあ、その儚さが、私には羨ましいがね」

 「羨ましい?」

 「ああ、羨ましいねえ。お前には、終わりのない孤独が想像できるかい。誰にも求められなければ、姿さえ持たない。時間の流れもない闇の中で、意識だけが漂い続けるのさ」

 「いつから、ここにいるの?」

 「さあ、いつからかな。気が付いたらここにいて、どこにも行けなくなっていた」

 光輝には、超自然に関する知識がほとんどない。だが、幽霊についてよくいわれるように、何か叶えられない望みを少年が抱えているのではないかと思った。

 「成仏したいとか、そういうことかな? 何か未練を残して死んだとか、死んだことが受け入れられないとか‥‥霊的な?」

 「お前はまた、私を化け物にしようとしているのだな」

 「そうじゃなくてさ、アンタの正体が分れば、その『終わりのない孤独』ってやつを、何とかしてやれるんじゃないかと思ってさ」

 光輝がそう言うと、少年は目を見開いた。

 「してくれるのか」

 「できることならね」

 「そうかあ。コウキ君、君はなかなかの人格者だな。いやー、そうかそうか。それならそうと、なぜ早く言わんのだ」

 ついさっきまで臈たけた大人のような口調でいた少年が、嬉しそうに小躍りする。少年の話に不覚にも同情してしまったことを、光輝は若干後悔した。

 「ただね、ほら、アンタが何者か分からないと、どうしていいか‥‥」

 光輝の言葉を遮って、少年は言った。

 「私と婚姻すればいいのだ!」

 「はあ?」

 光輝は自分の耳を疑った。

 「コンイン、って?」

 「婚姻は婚姻だ。コウキ君、私と生涯を誓い給え!」

 少年が大きく一歩近づいてくる。実体はないはずなのに、光輝の体に風圧がかかった。

 「いやいやいや、無理です」

 「無理なことがあるものか」

 「いや、無理。絶対、無理。だって、人間じゃないじゃないですか」

 「かつては人間も、動物や物の怪と婚姻しておったのだぞ」

 「ウソ! それ、フィクションですよね。民話の世界とか、そういうやつでしょ」

 「うーん、真偽のほどは定かではないが」

 「ほらあ、自分で認めちゃってるじゃないですか。それにねえ、男同士の結婚は、今の時代だってそこそこハードルが高いんですよ。こんな田舎の町でなんて、ムリです、ムリ」

 「姿は何にでも変えられる。今のこの姿は、お前が望んだものだ。お前は、同い年くらいの男を望んでいたのであろう?」

 確かに、そんな友達がいたらいいなあと思ったことは否定しない。だが、決して結婚相手ではない。『男を望んでた』なんて妙な言い回しに、光輝はどぎまぎした。

 「女と夫婦〈めおと〉になりたいのなら、お前がただ望めば良いのだ。私にとっては姿などどうでもよい」

 「いや、だからね‥‥」

 光輝は少年を説得するのに躍起だった。だが少年は何かを考えるように眉間に皺を寄せると、光輝の唇に指をあて、その言葉を遮った。

 「お前は酷い奴だな。約束を交わした相手も覚えてないとは」

 光輝の唇から全身へと冷気が伝わる。

 「約束って‥‥まさか‥‥」

 「あれは、私だ。お前が、赤い着物を着た少女を望んだのだ。お前が探していたのは、私なのだよ」

 「そんなあ‥‥」

 体の力が一気に抜ける。

 「今こそ、あの時の約束を果たすのだ。さすれば、お前の望みを叶えてやろう」

 少年は、舞台俳優のように大きく両手を広げ、光輝の体を包み込んだ。


 室温が急激に下がったように感じられた蔵の中で、突然、携帯電話が鳴った。

 少年が、ピクンと弾かれたように飛び退いた。

 「助かったぁ」と、心の中でため息をついて、光輝は尻のポケットから携帯電話を取り出した。液晶画面には、玲子の名前が表示されている。ボタンを押すと、玲子は相手が光輝であることを確かめもせず、慌ただしい声で要件を切り出した。

 「勇希君がいなくなったの。お願い、探すの手伝って!」

 玲子につられて、光輝も声のトーンが高くなる。

 「いなくなったって、どういうこと?」

 「碧の家で遊んでて、気が付いたら姿が見えなくなってたって。今、碧と史花さんが近所を探してるけど、見つからないの。まだ二歳だから、そんなに遠くに行かないと思うんだけど、どこにもいないのよ」

 光輝の頭に、行方不明になったという兄らしき子供の姿が浮かぶ。

 「警察は? 警察には通報した?」

 玲子が返事を躊躇うのが分かった。

 「‥‥それがね、まだ、してないの」

 「そんな。誘拐かもしれないよ。大黒家のことだから」

 「そうだけど、誘拐を決定づける電話があったわけじゃないし、おおごとにしたくないって。‥‥ほんとは、藤澤君にも言うなって、碧に口止めされてるの。きっと、嫌な思いをするだろうからって」

 「それって、兄さんのこと?」

 玲子はしおらしく「ごめんね」と言った。

 「気にしないで。俺が生まれる前の話だから」

 自分が今まで知らなかったことを、大黒や玲子が知っていたことに、光輝は戸惑いを感じた。だが、知紗が言うように周知の事実なのだとすれば、自分だけが拘っていても仕方がないようにも思えた。

 勇希について何も知らない光輝が、どこを探せばいいか玲子に尋ねようとすると、目の前の少年が「家守の仕業だな」と呟いた。

 勇希と会った時に「禍をもたらす子」だと言った声を思い出す。

 通話口を手で覆うと、光輝は少年に「どこにいるか分かる?」と聞いた。少年は、一言「知らん」と返事をしたが、光輝の意識が電話に向くと、もったいぶるように言った。

 「だが、気配が残っていれば、辿ることはできるかもしれん」

 光輝は「大黒の家に行くから、必ず家の前で待っててくれ」と玲子に言って、電話を切った。

 「じゃあ、時計に戻ってくれる?」

 光輝は声を掛けたが、少年はじっとしている。

 口の利き方が悪かったかと思い、「すみませんが、時計に憑いて一緒に行ってくれませんか」と言い直すが、まだ、じっと考え込んでいた。

 「あのー、ちょっとだけ急いでもらってもいいでしょうか」

 すると漸く、少年が口を開いた。

 「探してやってもいいが、条件がある」

 嫌な予感がする。

 「条件、ですか‥‥」

 「ああ。さっきの話の続きだ。お前が夫婦の誓いを立てるというなら、行ってやろう」

 今ここで、その話は勘弁して欲しかった。だが、無視することもできない。

 「他の条件じゃダメですか?」

 「ダメだな」

 「ちゃんと成仏できるように、他の方法を探しますから」

 「断る。お前と夫婦になる。これはお前の宿命なのだ、観念しろ」

 「いやー、でも、マジでそれだけは‥‥」

 「ええーい、ぐずぐずしておると、あやつの気配が消えるわ!」

 少年は痺れを切らせ、腕時計ではなく光輝の体に憑いた。

 「優柔不断な男になりおって」

 光輝は蔵を飛び出すと、大黒の家に急いだ。

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