第10話 禁足地に入った子

 玲子が大黒家のアプローチから通りの左右を見回していると、光輝がフラフラになりながら走ってきた。

 「藤澤君、ごめんね」

 「運動不足だな」

 両膝に手をついて、肩で息をする光輝に、玲子は状況を説明した。

 「史花さんはアパートに戻る道を探してて、碧は本家の周りを探してる。私はこれから商店街の辺りを探しに行くつもり。だから、藤澤君は‥‥」

 玲子の言葉を無視して門の方を指差すと、光輝は言った。

 「あれを持って来い」

 「あれって、自転車のこと?」

 「そうだ」

 光輝の態度がいつもと違って横柄になったように感じたが、玲子は光輝に従った。

 光輝は自転車に足をかけると、「お前は、もう行け」と、玲子に命令した。玲子は戸惑いつつも、「じゃ、じゃあ、お願い」と、商店街へ向かった。

 玲子の姿が見えなくなると、光輝は自転車に足をかけたまま、バタンと倒れた。

 「痛ってぇ」

 光輝が意識を取り戻すと、大黒の家の前にいる。体がぐったりと疲れていて、何故か自転車のハンドルを握っていた。

 「それに乗って、早く追いかけんか。気配が消えてしまうだろう!」

 頭の中で声がして、少年が自分に憑いていたのだと理解した。

 「自転車なんて、俺、乗ったことないよ」

 「お前は足が遅すぎる。それでは間に合わんぞ」

 「そんなこと言ったって‥‥」

 「ほんに、お前というやつは!」

 苛立った声で一喝すると、腕時計に納まった光は再び光輝の体に入っていった。

 憑かれた光輝は、よろけながらペダルを漕いだ。

 勇希の気配は、大黒家が有する近隣の土地を抜け、郊外の住宅地の方へと向かっていた。

 「どこまで行ったのだ」

 不安定な上半身をハンドルで支えながら、光輝の足は何とかペダルを漕ぐ。

 住宅地に入っても気配は薄く漂い続けた。強い気配が感じられないのは、もっと遠くに行ってしまったからだろう。いつ途切れてもおかしくない気配を、まともに自転車に乗れない光輝の体で追うのは、パワーを要する行為だった。

 それでも何キロか走り、光輝の体自体がどうにも邪魔で仕方なくなった頃、勇希の気配が住宅地の先の小高い山の中に向かっているのを感じた。

 自転車に腰掛けていた光輝の体が、またしてもバタンと倒れる。

 「痛ってー。もう、俺の体から抜けるなら、そう言ってよ。ああ、肩打ったぁ。肘も擦りむいてるよぉ」

 「お前は運動神経が悪すぎる。おかげで、私は精も根も尽き果てたわ」

 頭の中の声が息を荒くしている。

 「俺の体使ったのに、どうしてアンタが疲れるんだよ」

 「体はお前のでも、動かしたのは私だ。女々しいことを言ってないで、早く山に入れ」

 「山って、ここにいるの?」

 「おそらくな」

 光輝は辺りを見回した。道路の向こうに新興住宅地の家並みが続く。

 「二歳の子が、こんなところまで来られるかなぁ。家守が取り憑いたにしても、ここまで歩いて来られるもんなの?」

 「家守は家から離れることはない。大方、外に弾き出されたところを、雑多な物の怪に捕まったのだろう。大人には見えぬものが、まだ見える年頃だからな」

 「それでも、こんなところまで来るかなぁ」

 山の入り口から登山道と思われる細い道がひとすじ山中に伸びていて、その手前に二本の杭が打たれ、注連縄のようなものが張られている。片方の杭には看板が針金で巻き付けられており、そこには、『何者も入るべからず』という文字と、何枚もの札が重ねて貼られていた。下の方の札は周りが擦れて原形をとどめず、茶褐色に焼けて、かなり古いもののように見受けられる。

 さほど勘が良くない光輝でも、近寄らないほうがいい場所であることは察しがついた。

 「ここ、アンタみたいなのがいそうな気がする」

 「お前は本当に失礼な奴だな。私を有象無象の物の怪と一緒にするな」

 「っていうことは、やっぱり、何かいるんだ」

 「禁足地だからな。何かしらいるかもしれんが、人間が勝手に定めたものだ。いつから人間が入ってないか知らんが、良きものにとっても悪しきものにとっても住みよい場所になっているだろうな」

 光輝は、図書館で読んだ地誌の記載を思い出した。そういえば、こんな場所の写真が小さく載っていたような気がする。

 「入られたとして、出てこられるかな」

 「入るのが怖ければ、あの男を呼べばいい」

 「そうか」と、光輝は携帯電話を取り出したが、大黒の名前を画面に表示して手を止めた。

 どう言って大黒を呼び出せばいい。いくら仲良くなったからって、声の主のことは説明できないし、第一、勇希君がここにいる確証もない。

 光輝が迷っていると、頭の中で声がした。

 「行くかどうかは、お前の自由だ。だが、私は約束を果たしたからな。お前が引き返したとしても、私との誓いは果たしてもらうぞ」

 そうだ。もう、ここまで来てしまったのだ。婚姻の約束はともかく、勇希君がいる可能性があるなら、何とか見つけ出してやりたい。兄さんのようなことにはさせたくない。

 光輝は腹を決めた。

 「注連縄って結界なんでしょ。アンタは一緒に入れるの? それとも腕時計外してったほうがいい?」

 「このままで構わん。それに、私がいなければ探せないだろう」

 「そうだね」

 光輝は注連縄に向かって柏手を打つと、杭の脇から山の中に入った。

 ところが一歩踏み出した途端、前日の雨でぬかるんだ土で足を滑らせた。

 「うわっ」

 思わず声を上げると辺りの枝葉が揺れ、全方向から不規則に風が吹いてくる。

 「声を出すな」

 頭の中で声が言う。

 「何か見えても目を合わせてはならん。お前は雑魚どもにもから揶揄われやすいのだ」

 「揶揄われやすいって、どういうことだよ」と、心の中で抗議しようとして、光輝はつい「からか‥‥」と口に出してしまった。

 すると四方八方から空を切り、薄ぼんやりとした雲のような塊が現れた。それぞれ明確な姿形はないが、二つの目が塊の中を自在に動き、光輝の体を舐めるように這い回る。

 光輝は頭が真っ白になり、体を強張らせた。

 「言わんこっちゃない。こいつらは遊び相手を探しておるのだ。無視して奴らの間を突っ切っていけば良い」

 「突っ切るって、この変な目ん玉にぶつかっちゃうよ」

 心の中で、光輝は言った。

 「避ければ見えていることの証になるぞ」

 「アンタの力で、払い除けてよ」

 「そんな力は、私にはない。それに一度払い除ければ、ずっと纏わりついてくる。無視するのが一番なのだ」

 少し立ち止まっただけなのに、雲のような塊は数を増し、その分、目玉の数も増えている。ぼんやりしていた輪郭も徐々にはっきりとしてきたように見える。このままでは状況は悪化するだけだろう。

 光輝は目をつぶり、棒のように固まった足を何とか前進させた。そして、躓きながら手探りで歩き続けると、「もういいぞ」と、頭の中で声がした。目を開けると、視界はクリアになっていた。

 「日が暮れると、タチが悪いものが増えてくるかもしれん。先を急げ」

 光輝はその声に従って、山の中に入っていった。

 長い間人が入っていない山は荒れ放題だった。登山道らしき道はすぐに消えて獣道になった。笹竹が縦横無尽に伸び、足に突き刺さる。傾斜も思いのほか急で、緩んだ地面を覆う草の層に何度も足を取られた。こんな場所を幼い子供が歩いたとしたら傷だらけになっているに違いない。焦るあまり大声で勇希の名を叫びたくなったが、何とか心の中だけに留め、頭の中に響く声の指示に従ってひたすら歩いた。

 「兄さんも、こんな風にいなくなったのかな」

 歩いても歩いても先が見えず、どこまでも続きそうな様相に疲れ、光輝は問い掛けた。

 「会いたいか?」

 「どうかなあ‥‥よく分からないや。たださ、さっきみたいな奴らについて来たとして、奴らだってずっと傍にいるわけじゃないだろ。何にも見えなくなったら、それはそれで寂しかったんじゃないかなって思ってさ」

 「それは、私が見えなくなった時のことを言っておるのか?」

 「違います。兄さんとか‥‥勇希君とか‥‥」

 「隠さずとも良い。だから婚姻すれば良いのだ。私なら、お前の命が尽きた後も共におるぞ」

 「だーかーらー」と声に出しそうになって、光輝はキュウッと口を結んだ。

 「その斜面を降りろ」

 声の調子が急に強くなる。

 木の幹を次々と掴みながら光輝が斜面を下ると、木々の茂みに隠れるように小川が流れていた。そして、奥の岩場で小石を投げて遊ぶ勇希の姿が見えた。

 駆け寄ろうとする光輝を、声が制する。

 「動くな。坊主の周りに何モノか漂っている。ここで手を振れ。坊主に何かついてきても、さっきのように無視しろよ」

 「分かった」

 光輝は言われた通りに、左腕を振った。左手は、初めて勇希と会った時のようにクマの人形になり、手を振る度にカラコロと鈴の音を響かせた。すると、勇希がこっちを見て危なっかしい足取りで駆け寄ってきた。途中までついて来た雲のような塊も、勇希が別のものに興味を持ったことを知ったかのように、すぅーっと離れていった。

 「良かった、無事で」

 勇希を両腕で優しく抱きしめると、光輝は心の中でそう言った。

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