第7話 新たな救世主

 「倉田さん‥‥」

 放課後、光輝は帰り際の緑に消え入るような声で話しかけた。

 朝からずっと緑の行動を目で追っていたが、いざチャンスが巡ってきてもいつものように気持ちが萎えてしまう。そんな自分を大黒が見ているかと思うと、自己嫌悪はいつにも増した。

 そのチャンスが、靴箱の前で再び巡ってきた。大黒が近くにいてくれたら心強いのだが、担任に呼ばれて職員室に行っている。職員室へと続く廊下をチラチラ見るが、戻ってくる気配はない。珍しく一人でいる緑は、もうローファーに履き替えていた。

 今しかない。

 光輝は勇気を出して、緑の名を呼んだ。

 緑は躊躇うように振り向き、俯いた。だが、光輝が黙ってしまうと、「急いでるから」と目も見ずに言って、小走りに帰って行った。

 「あっ‥‥のっ‥‥」

 やっと奮い起こした勇気が、その反動で空気が抜けた風船のように萎んでしまう。

 その場にへたり込んだ光輝に、職員室から戻ってきた大黒が「どうかした?」と尋ねた。惚けたように大黒を見上げた光輝は、タイミングの悪い救世主の登場に泣きつきたくなったが、「なんでもない」と、力なく立ち上がった。

 初めて大黒の家に行って以来、光輝は大黒と行動を共にすることが増えた。帰りも途中までのわずかな距離を一緒に帰ったり、大黒が塾に行くまでの時間、彼の家で過ごしたりすることも多かった。女子の視線は相変わらず痛かったが、大黒の大らかさが、それを忘れさせてくれた。そして、いつ大黒の家に誘われてもいいように、時計を学校に置いて帰るのが習慣になっていた。

 いつにも増して元気のない光輝を、大黒は家に呼んだ。そして暫く使ってないゲーム機を取り出そうと押入れの奥を探していると、突然、部屋の襖が開いた。

 「あおいー、いるー?」

 同じ高校の制服を着た大柄な女子が仁王立ちで立っている。

 光輝は呆気にとられ、体を仰け反らせた。

 「入って来る時は、先に声をかけろって、いつも言ってるだろ」

 部屋の奥から、大黒が小言を言った。

 だがその女子の視線は、足元で縮こまっている光輝に向いていた。

 「アンタ、藤澤光輝だよね」

 頭の上から凄まれ、光輝は小さく頷いた。すると、目鼻立ちのはっきりした顔がぬうっと近づき、右手で肩を掴んだ。

 「最近、緑をストーキングしてるらしいじゃない」

 迫力のある言い方に、光輝はブルブルと首を横に振る。

 「一度くらい保健室に運んだからって、調子にのってんじゃないわよ」

 「ご、誤解です‥‥」

 「何が誤解よ。朝から晩までずーっと緑のこと追っかけて」

 「追っかけては、いないけど‥‥」

 「はあ?」

 殴りかかりそうな勢いの女子の二の腕を、様子をうかがっていた大黒が掴んだ。

 「落ち着いて、玲子れいこ。そんな怖い顔で迫ったら、まともに話もできないよ」

 「怖い顔にもなるよ。緑、怯えてるんだよ」

 大黒に止められて、玲子という名の女子は、漸く光輝の肩から手を離した。

 「怯えてる?」

 光輝の頭に、靴箱の前で声をかけた時の緑の姿が浮かぶ。様子がおかしかったのは、自分をストーカーだと思ったからか。やっぱり、緑には挙動不審に映ったのだ。

 最悪だ! 

 光輝にとって、唯一の甘酸っぱい思い出が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

 放心状態の光輝に代わって、大黒は玲子に説明した。

 「藤澤君は倉田さんに確認したいことがあったんだよ。だけど話しかけづらくて、タイミングを計ってたんだと思うよ。そうだよね、藤澤君」

 光輝はコックリと頷いた。

 「何よ、確認したいことって」

 なおも玲子は食いさがる。正義感が強くて頑固な玲子の性格を知っている大黒は、光輝に言った。

 「藤澤君、彼女は遠野とおの玲子れいこ。僕のいとこで、転入組。玲子がそんな風に言うってことは、倉田さんと仲いいってことだろ?」

 玲子が「うん」と、頷く。

 「よかったら、玲子に話してみたら? 彼女はこう見えて口が固いよ」

 「こう見えてって、何よ」

 「ガサツに見られるって、自分で言ってただろ。だいたい初対面の人間に掴みかかって脅すなんて、普通の女の子ならしないと思うけどな」

 「だって、卑劣な男には先手必勝でいかなきゃ、女子に勝ち目はないもん」

 「玲子なら大丈夫。それに藤澤君はそんな人じゃないよ」

 玲子がブスッと頬を膨らませる。

 光輝は二人の様子に、漸く顔を上げた。

 「仲いいんだね」

 「同じ学校だったし、女子が少ないから、自然と仲良くなっちゃうんだよね」

 あれだけ怒っていたのが嘘のように、玲子は答えた。

 「いや、そうじゃなくて、二人‥‥」

 大黒と玲子を交互に指差す光輝に、大黒は笑いながら言った。

 「兄妹同然に育ったからね。生まれながらの腐れ縁、かな」

 「腐れ縁なんて、よく言うわよ。ひ弱なお坊っちゃまの面倒をみてあげてたんじゃない」

 「分かったよ。僕たちの事はもういいだろ。で、どうする、藤澤君。僕はもう塾の時間だから出かけるけど、玲子に話してみる?」

 光輝は躊躇いがちに頷いた。

 玲子は最初の印象と全く違い、途中で口を挟むことなく真剣に話を聞いてくれた。光輝が言葉に詰まれば代わりに言葉を探し、不安になって目を見れば相槌を打ってくれる。そういう時の雰囲気が大黒とそっくりで、二人の関係が羨ましくなった。

 ただ少女の姿について話した時、「金魚の柄ねえ‥‥」と、何かを思い出すように空を見つめたのが少々気になった。

 光輝は、翌日から緑を目で追うのをやめた。玲子が緑に確かめてくれると約束してくれたからだが、これ以上、緑の心証を悪くしたくなかった。子供の頃のことが事実だったとしても、光輝の今の印象が悪ければ、彼女にとって最悪な思い出になってしまう。せっかく玲子という強力な助っ人を得たのだから、あとは彼女に任せておいたほうが良い結果になるに決まってる。


 週明けの放課後、緑が帰った頃を見計らって、玲子が教室にやって来た。

 「残念だけど、人違いじゃないかなあ。緑、覚えてないって言うのよ。着物の柄にも記憶がないし、髪型も違うみたい」

 「俺のこと、気味悪がってるから‥‥とか、かなあ」

 光輝は最大の不安を口にした。

 「それはないよ。誤解は解いておいたから」

 「あ、ありがとう‥‥」

 何より力強い言葉に、玲子の手を握りしめそうになり、それを隠すために慌てて礼を言った。

 「だけど、その着物ってさあ‥‥」と玲子が何かを口にしようとした時、「その子の名前を聞いておけば良かったね」と、大黒が光輝の肩を叩いた。

 やっぱり自分の勘違いだったのか‥‥。

 あの幼い子が緑だったという確証は初めからなかったのだから、それが明らかになっただけでも良かったのだと思い込もうとしたが、長い間抱いていた期待が脆くも崩れ去ったショックは大きかった。

 落ち込む光輝を慰めようと、大黒と玲子は学校の裏のバッティングセンターに連れて行った。だが球の速さに腰が引けて、元気になるどころではない。光輝が打席から出てくると、大黒も打つのをやめた。

 「ゲーセンの方が良かったかな」

 大黒の問いかけに、光輝は「ううん」と首を振った。

 「嬉しいよ。俺のために、ここまでしてくれて」

 「玲子は自分がやりたくて連れてきたんじゃないかな」

 大黒は打席から離れようとしない玲子を指差して微笑んだ。

 玲子は高速のボールをバンバン打つ度に、ガラス戸の向こうでまったりとしている男子たちに向かって力拳を握って見せた。

 「その女の子のことだけどね‥‥」

 大黒が珍しく歯切れの悪い言い方をする。

 「うん?」

 「藤澤君、その子について‥‥」

 大黒が言いかけた時、玲子が打席から戻ってきた。大黒が口を閉ざす。

 「何、大黒君?」

 それきり話すのをやめた大黒に、光輝は尋ねた。

 「いや。‥‥そのうち見つかるさ」

 大黒ののんびりした言い方に、光輝も「そうだね」と答えた。

 帰り道の途中で二人と別れると、光輝は急に頭の中が空っぽになった気がした。誰かといることに慣れてしまって、一人でいる時にどんなことを考えていたのか思い出せない。自分の気持ちの在り処を見失い、思考する言葉もなくしてしまったような気がして、頭の中に響くアイツの声を最近聞いていないことに気づいた。

 そう思うと、時計を外した左手首が物寂しい。

 光輝は学校へと引き返すと、ロッカーから金の腕時計を入れた缶ケースを取り出した。

 ケースの蓋を開け、ハンドタオルに丁寧に包まれた時計を、夕暮れの薄明かりの中に翳してみる。昼間つけている時は派手に輝きすぎる金色が、教室の暗さに同調する。その存在感を消した鈍い質感が、アイツが取り憑く前のただの古時計ように見えた。

 「なあ」

 光輝が声をかけても、アイツは答えない。

 「今日は家に持って帰るからさ、久しぶりに何か話してよ」

 そう話しかけても、時計はただ正確に時を刻んでいるだけだった。

 光輝は急いで学校から帰ると、時計を持って蔵にこもった。

 「なあ。いなくなっちゃったのか? もしかして、消えちゃった? それなら、ここに置いていこうかなあ。もう出てこないなら、持っていっても仕方ないし」

 揶揄うように言っても、何の反応も返ってこない。

 「まっ、俺はいいけどさ」

 そう呟いて、元々入っていた桐の箱を手に取る。

 「本当に、置いてっちゃうよー!」

 すでに時計から飛び出して蔵のどこかにいるのではないかと、大きな声で叫ぶが、光輝の声が反響するだけだった。

 「何だよ。振り回すだけ振り回して。ほんと、勝手だよな」

 文句を言いながら桐の箱に納めると、時計は本来の価値を取り戻したように立派に見えた。

 「大事な形見なんだからな」と、絹の布で包む。

 「祖父ちゃんが、父さんに譲ったんだってさ」と、蓋をする。

 「もう二度と出てくるなよ」と、元あった場所に置こうとして、光輝はその手を止めた。

 「ああ、もう、俺、何考えてんだろ」

 桐の箱に入れたまま、光輝は時計を持って蔵を出た。

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