第5話 その家には入れない
大黒の家は、市街地の中でも一等地にあった。石垣塀に囲まれた重厚感のある屋敷で、立派な瓦屋根が黒光りしている。家の近隣には大黒の名を冠した病院や保育園、地場産業の石材所や造園業者などが散在して一つの町を形成し、今も名家の隆盛を誇っていた。
広い間口の数寄屋門に向かうアプローチの途中で、大黒は急に足を止めた。止まるつもりはないのだが、足が動かない。突如体から力が抜け、立っていられなくなる。家人を呼ぼうとスマホを取り出したところで、彼は意識を失った。
光輝は商店街の古本屋にいた。日に焼けた少年漫画の背表紙を、棚の端から全てチェックするつもりでいたのだが、本のタイトルがいっこうに頭に入ってこない。目だけは動いているので、上の段から下の段へと移動はしているのだが、記憶が欠落していることに気づき、また上段から見始めるという繰り返しだった。
「やっぱり、まずかったかなあ」
小さな本屋で思わず声に出してしまい、周囲を見回す。
その時、携帯電話のバイブが胸を震わせた。
「うわぁ!」
滅多にかかってこない電話に驚いて、慌てて店の外に出る。だが古い液晶画面には、相手の名前も電話番号も表示されていなかった。嫌な予感がして通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは大黒の声だった。
「早く来い」
それはまさしくアイツの口調だった。
「来いってどこに?」
「この男の家だ。ここはダメだ、奴がいる」
「奴って誰?」
「いいから早く来い。来ないと、お前に一生憑いてやる」
大黒の苦しそうな声に、光輝は動揺した。
「大黒君は? 無事なんだろうな!」
その質問に答えることなく、電話は切れた。
大黒は、アプローチの途中に設えられた大きな御影石にもたれかかっていた。
慌てて駆け寄ると、光の塊が光輝めがけて突進してくる。その勢いに体が弾かれ、敷石の上に尻餅をついた。
「遅い! 早く来いと言っただろ!」
突如、頭の中にアイツの声が戻ってきた。
「だから、走ってきたよ」
「お前は足が遅すぎる! 鍛え方が足りんのだ! もう少しで消えるところだったではないか!」
「消えるって、何が?」
アイツの声が答えを躊躇っている。
「‥‥何でもない。もう疲れた! 帰るぞ!」
「ダメだよ。意識が戻るのを待って、家の中まで連れて行かないと。このまま放っておけるわけないだろ」
「あの男は大事無い。すぐに目覚める」
「何勝手なこと言って‥‥」と、体を起こして大黒に歩み寄ろうとするが、体が前に進まない。見えない壁にからだ全体が押し返されているようで、特に時計をはめた左腕は後ろの方へ引っ張られる。
「何、これ?」
声は答えない。
「なあ、どういうことだよ!」
光輝は思わず叫んだ。
「この家には、
声は忌々しげに言った。
「ヤモリって、爬虫類の? ええっ? もしかして、苦手なんだ、ヤモリ」
光輝の言い方に腹が立ったのか、脳を揺らすほどの大声が一喝した。
「たわけ! 家守というのは、江戸の昔、地主の土地を管理していた者のことだ。その者の意識が住みついておるのだ」
「意識が住みつくって‥‥この家にもオバケがいるってこと?」
「まったく。お前は、自分が理解できないことを何でも化け物のせいにしてしまうのだな。オバケではない。いわば、家を守る神だ」
「神って‥‥」
光輝は口ごもった。家には立派な神棚があるし、初詣には神社にも行く。だけどそれはただの行事であって、願い事が叶うなどと思ったことはない。信仰心の欠片もない光輝にとって、それは人間が都合よく作り出した概念にしか思えなかった。
だがそんなことを口にして、ヤモリとやらまでに憑かれてはたまったものではない。
「神様が他人を家に入れないようにしてるってこと?」
できるだけ機嫌を損ねないように、頭の中で聞いてみる。
「そうではない。邪気のあるものを、家の中に持ち込まないようにしているのだ」
「邪気って、もしかして‥‥」
光輝が言い淀んでいると、意識を取り戻した大黒が体を起こした。光輝の姿を見つけて重い足取りで近づいてくる。光輝は敷地の中に入るのを諦め、大黒が来るのを待った。
「大黒君、大丈夫?」
「うん。何だろ。急に力が抜けて、意識を失ってたみたいだ。塾の勉強で疲れてたのかなあ」
「そ、そうかもね」
胸は痛むが、ここは流すしかない。左腕を背中に隠して、光輝は相槌を打った。
「藤澤君は、どうしてウチに?」
ぼーっとした表情で、大黒は尋ねた。
「ええっと、たまたま、かな。たまたま通りがかったら、大黒君が倒れてて。今、ちょうど今、声をかけようとしたところ」
光輝の声が上ずる。
「嘘が下手だな」と頭の中で響く声を無視して、大黒にどうかバレませんようにと願った。
「そうかあ。心配かけたね。お詫びにコーヒーでも入れるよ。上がっていって」
いつもの穏やかな微笑みで、大黒が誘う。
その言葉に、子供の頃からどれほど憧れただろう。
互いの家を行き来して、相手のお母さんに「お邪魔します」と声を掛ける。夢中で遊んでいると、「おやつになさい」などと言って、ケーキやクッキーを持ってきてくれる。
妄想の中でのシーンが、突然実現しそうになって、光輝は言葉に詰まった。だがここから一歩でも動いたら、家守が何をするか分からない。
「いや、今日はちょっと用があるから、また今度。ごめんね、ありがとう」と、慎重に後ずさりして立ち去ろうとする光輝の背後で、女性の声がした。
「
振り返ると、小さな子供を抱いた女性が立っていた。小柄な体に大きな荷物を肩にかけ、化粧っ気のない顔から汗が噴き出している。見たところ二十歳前後で、十代と言っても通るほど幼い顔立ちをしている。
「お友達?」
光輝の顔を見て、女性が尋ねる。左腕がピクンと動いた気がした。
「は、初めまして、藤澤光輝と、い、言います」と、つっかえながらも挨拶すると、「碧の姉の
「姉さん、どうしたの? 珍しいね」
「今日は、お祖父ちゃん達もお父さんも出かけてるっていうから」
そう言いながら史花がアプローチに踏み入った途端、抱いていた子供が泣き出した。
「もう、いつもこうなのよ。自分が嫌われてるって、分っちゃうのかしら。はいはい、泣かないの。今日はお祖母ちゃんしかいないから、大丈夫よ」
「姉さん。
大黒が嗜めると、史花は「そうね。悪いのはママだもんね」と子供にいじけてみせる。
二人の間の空気の居心地の悪さに、「それじゃあ」と、光輝は手を振って帰りかけた。すると子供が、突然、ケタケタケタと笑い声をあげた。どうやら振り上げた左腕に反応しているらしい。光輝がもう一度手を振ると、再び、ケタケタケタと可笑しそうに笑う。
何がそんなに可笑しいのだろうかと、振り上げた腕を見て驚いた。左手首から先がクマのキャラクターの人形になっている。「ええっ?!」と、大きな声を出しそうになって、光輝は慌てて口を押さえた。
大黒と史花は何も見えないらしく、急に機嫌を直した勇希に「どうしたのかしらねえ」と、顔をほころばせていた。
「お前か?」
頭の中で、光輝は質問した。
「お前とは何だ。早く中に入れてやれ」
声は不機嫌そうなのに、クマは愛嬌ある顔で笑っている。いったいコイツは何者なんだ。そう思ってしまうと、「コイツとは何だ」と臍を曲げられてしまいそうなので、光輝は「ここで手を振ってるから、中に入ってよ」と、大黒たちに笑顔で言った。
大黒は「今度来た時は上がってってくれよ」と言うと、史花の背中に手をあてて数寄屋門の奥へと消えていった。
「忌み嫌われた子だな」
頭の中で声がする。
「どういうこと?」
「禍をもたらす子だと、家守が判断したのだろう。その気を感じ取って泣き出したのだ」
「あんなに可愛い子なのに? 子供が災いをもたらすなんて、聞いたことないよ」
「あの家の存続を脅かすものなのだろう。生まれてはいけなかった子、なのではないかな」
「そんな‥‥。家守って、神様なんだろ? 子供にどんな罪があるっていうんだよ」
「家の富を守り、その家の永劫の繁栄を叶える。そのためにはどんな邪気も寄せ付けないのだ」
さっき史花が言っていた、「嫌われている」という言葉が光輝の頭に浮かぶ。理由は分からないが、家族に嫌われる子供などいていいはずがない。
だが、「邪気」という言葉を聞いて、もう一つ思い出した。
「どんな邪気も寄せ付けないってことは、さっき大黒君が倒れたのは‥‥」
意味深に話す光輝に代わって、声が答えた。
「そうだ。私を邪気だと判断して、あの男から引き剥がそうとしたのだ。ええいっ、思い出しても腹が立つ。もう少しで私は‥‥」
じっと聞き入る光輝の中で、声が止む。
「それで、消えそうになったんだあ。憑いた人間から引き剥がされると、消えちゃうんだあ」
弱点を見つけて、光輝はニヤリと笑った。
「そんなことは、よほど力の強いやつでなければない。この家の家守は特別だ」
精一杯強がっているのが、声で分かる。
「大丈夫だよ。面白半分で人に憑いたりしなければいいんだから」
光輝の皮肉に無言を決め込んだようだった。静かになった頭の中に、光輝はふと尋ねてみた。
「アンタは、家守とは違うの? 家とか家族とか、守ってくれないのかなあ。大黒ん家みたいに金持ちじゃなくてもいいんだけどさ。母さんと祖母ちゃんが、もうちょっとだけ楽になるとかさ。そういう神様、ウチにはいないのかな」
「残念ながら、今のお前の家にはいないな。私はあの蔵に住んでいるが家守ではない。人か物にしか憑けないのだ」
光輝を哀れむように、その声は穏やかに響いた。その思いが伝わってきて、光輝の心に重石をつける。
「なーんだ。全然ダメじゃん」
わざと明るい声でそう言うと、「帰るぞ」と、優しい声が頭の中で言った。
光輝が玄関の扉を開けると、知紗が上がり框に腰を下ろし、編み上げのブーツに紐を通していた。季節外れのノースリーブのニットに、フェイクレザーのミニスカート。金メッキのチェーンのネックレスをつけて、髪をたて巻きにしている。
「いかにも、ナンパ待ちしてますって感じだね」
古い建物にそぐわない恰好に光輝が悪態をつくと、知紗は「デートよ、デート」と光輝を睨みつけた。
「このあいだの男? 気が小さくて、ハウスダストアレルギーって分かりやすい嘘ついて、姉貴から逃げた」
「逃げてないわよ。アンタねえ、母さんたちにチクらないでよ。バラしたら、ぶっ飛ばす!」
「ヤルことヤッてるくせに紹介できないんだ」
「ガキがあ、生意気なこと言ってんじゃないわよ。その時が来ればするわよ。やっとモノにできそうなんだから、邪魔しないでよ。地元出身じゃなくて、こっちの大学通ってる男なんて、そうそういないんだから。それにカッコイイし、モテるし」
「どんな条件だよ。地元に居たいの、居たくないの?」
それまで機関銃のように喋りまくっていた知紗が動きを止めて、「男のアンタには分からないわよ」と呟いた。
「夕食は、アンタ一人だからね」
紐を結んだブーツの具合を確かめるように両足を踏み鳴らすと、知紗は投げ捨てるように言った。
「二人とも仕事?」
「そう。お母さんは公民館、お祖母ちゃんは奥で教室」
「姉貴は気楽だな。こんな時間からデートなんて。せっかく東京の短大出たんだから、もっとバリバリ働けばいいのに」
「働きたいからって働けるもんじゃないのよ。それに、ちゃんと朝からバイトしてきたもん。学生のアンタに言われたくないわ。‥‥っていうか、今日は珍しく絡んでくるわね。私に絞められたいわけ?」
「いえ、行ってらっしゃいませ」
あえて丁寧な言葉で知紗を見送ると、光輝は鞄を持ったまま台所に行き、冷蔵庫の中を覗いた。
「肉も野菜もあるなぁ。二人とも帰ってきたら飯にするだろうし、カレーでもつくっとくか」
ドアを閉めながら、ふと気づく。この頃、独り言が多くなっている気がする。
「アンタのせいじゃないんですかね」
腕時計を見ながらそう呟いて、光輝は米を研ぎ始めた。
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