第2話 大事なあの子が餌食に

 心なしか時計をした左腕が重い。

 高校の制服に不釣り合いな金色の時計が悪目立ちして、光輝は左手首を隠すように教室へと向かった。

 「おはよっ!」と、後ろから追い抜いてきたクラスメイトが、教室の入り口で言う。中央で輪を作っていた男子たちが、「オスッ」「おはーッ」と口々に返した。その声を素通りして、光輝は窓際の席に着いた。

 自分に挨拶されたなどと間違っても勘違いはしない。小学生の頃からずっと経験してきたことで、『いじめ』というのとは少し違う。ただ少しコミュニケーション能力に欠けるという理由でクラスの中では下に見られ、同じように下に見られている者たちとも特に仲がいいわけではないというだけだ。

 やたらとグループを作らなければならない義務教育時代に比べれば、高校は自由がきく。現に二年生の今まで誰とも話さなくても、学校生活に何の支障もない。ただ授業以外に声を発しないと、用があって声をかけるのにも勇気を奮い起さなければならないのが情けなかった。

 男子の騒ぎ声に混じって、鈴を転がしたような可憐な声が入り口の近くで聞こえ、光輝は顔を上げた。倉田くらたみどりが長い髪をふわりと靡かせ、教壇の近くに集まっていた女子に挨拶していた。

 毎朝、緑を見るたびに「今日こそは!」と決意するのだが、昼休みが終わる頃には緊張感で疲れ、放課後には「明日でいいか」と気持ちが萎える。自分でも気づかずに目で追っているようで、近頃では目が合うと明らさまに背を向けられていた。

 「あの女に惚れているのか?」

 不意に頭の中で声がした。

 「はあ?」

 思わず声に出してしまい、近くにいた男子たちに怪訝な顔をされる。

 「情けない男だな。惚れた女に声もかけられぬとは」

 「違うから。そういうんじゃないから」

 光輝は頭の中で答えた。

 「私に任せろ。女ひとり手玉に取るなど容易いことだ」

 「手玉ってナニ? 何する気? これから授業だから。頼むから、学校で怪奇ショーなんてやめてよ」

 「心配するな。そこらへんの分別はある」

 「オバケにどんな分別があるんだよ」

 その言葉が余程気に障ったのか、「無礼なことを言うな」という声を最後に、頭の中の声は消えた。そして腕時計を押さえた右手の指の隙間から、蔵の中で見たのと同じ光の粒が飛び出したかと思うと、緑の頭の中に吸い込まれていった。

 「ダ‥‥メッ‥‥」

 おかしな声を発してくうを見つめる光輝に、男子たちがニヤケ顏で振り返る。

 「イケナイ妄想はトイレでねー」

 一人が揶揄うと、小さな笑いが起こった。どうやら光の帯は他の者には見えなかったらしい。光輝は反論する言葉をうまく組み立てられそうになく、「ごめん」と言って、その場をやり過ごした。

 その日はいつも以上に、緑から目が離せなかった。オヤジの声で「手玉に取る」と言われ、不愉快な想像だけが頭を支配する。「変なことしてみろ。一生、蔵に閉じ込めてやるからな」と怒ってはみるものの、相手の正体も分からず、何の手出しもできない。下手に手出しして蔵に閉じ込められるのは、自分の方かもしれないのだ。

 いつものように静かに授業を受けていた緑の態度が急変したのは、四限目の授業が終わった時だった。昼休みで生徒たちがバラバラと教室を出て行くと、緑はオヤジのように「アチーッ」と制服の上着を脱ぎ、シャツのボタンを外し始めた。そして「疲れたー!」と大きく伸びをすると、その場に倒れた。

 緑と仲の良い女子より先に駆けつけたのは、光輝だった。

 自分の上着を脱ぎ、シャツがはだけたままの緑の上半身に掛ける。「倉田さん、倉田さん」と声をかけて肩をゆするが、緑は意識を戻さない。光の粒が現れないということは、まだアイツは緑の中にいるのだろう。オヤジ状態の緑が意識を取り戻したら、これ以上何をしでかすか分からない。

 光輝は緑を背負った。だが、運動とは一切縁のない細い体が不安定によろける。それでも両足を踏ん張り、不安そうな女子に「家に電話して」と言い残すと、光輝は保健室へと急いだ。

 幸い保健室に先生はいなかった。光輝は緑の体をベッドに寝かせると、胸元にかけていた上着を取り上げた。はだけた白い胸元からピンクのブラジャーが覗く。シャツのボタンを留めた方がいいだろうかと手を伸ばしてみる。だが途中で目を覚ましたら弁解のしようがないと思い、再び自分の上着を掛けると、さらにその上から掛け布団をかけた。

 すると、緑の中から光の粒が飛び出し、光輝の腕時計の中に納まった。

 「何をしている。手篭めにするなら今だぞ」

 「しないよ。するわけないだろ。彼女は大事な人なんだよ。頼むから、もう彼女に取り憑いたりしないでください」

 光輝が必死で頼み込むと、「まあ、お前がそう言うなら」と、頭の中の声は案外あっさりと引き下がった。

 ひとまずホッとして保健室から出ようとしたところに、緑の友達が養護教諭を伴って入ってきた。先生が布団を捲ると、光輝の制服がそのまま掛かっている。

 「これって、君の?」

 彼女は光輝にそう聞いて、もったいぶるように上着を手渡した。

 「へえー、紳士なんだ。っていうか、絶食系? それともただの‥‥」

 「ヘタレ?」という言葉を彼女は飲み込んだ。

 「男子と二人っきりだって聞いたから、慌てて走ってきたのに、ちょっと損した気分」

 白衣の下の薄手のカットソーの胸元を揺らしながら、まだ二十代そこらの養護教諭は脈をとったり心音を聞いたりして、「貧血かしらねえ」と学校医に連絡した。


 翌日登校すると、緑の周りに女子が集まっていた。いつもと変わらぬ様子を確認した光輝は、不審がられる前に目を逸らした。だが女子たちの視線が自分の動きを追っているのを感じる。「おかしなことはしてなかったはずだ」と、昨日の行動を振り返るが、自信がない。緊張で足がもつれ、机につんのめりそうになった。情けなさに、思わず照れ笑いが浮かぶ。ああ、もう、不気味以外のなにものでもない。

 すると、女子に促された緑が、机の前に立った。

 「藤澤君、昨日はありがとう。私、何も覚えてないんだけど、助けてくれたって聞いて‥‥」

 「俺、いや、アイツのせいだから」と言いたい気持ちをこらえて、光輝は、「体‥‥大丈夫?」とだけ聞いた。

 「うん。一応、病院で検査してもらったけど、問題ないって」

 「そう、良かった」

 光輝は心から安堵した。緑の体調のことだけではない。教室の雰囲気からして、彼女の評判を落とさずに済んだようだった。それにアイツが取り憑いても、すぐに人格が変わったり、人命に関わったりしないことも分かった。

 「当たり前だ。私にも分別があると言っただろ」

 不意に頭の中に声が聞こえ、光輝は思わず左手首の腕時計を握った。緑のことがあったから、昨夜風呂上がりに付けるのをよそうかと思ったのだが、「外したらお前に憑く」という言葉を無視できずにいた。

 急に緊張した面持ちになった光輝に、緑もキョトンとする。

 この表情だ。あの時もこんな顔で俺を見つめた後、満面の笑顔を見せたのだ。

 話すなら、今しかない。

 「倉田さん、ちょっと、聞いてもいいかな」

 「なに?」

 「多分、十年以上、前のことなんだけど‥‥」

 そこまで言って、緑を取り囲んでいた女子たちが自分たちを注目している様子が見えた。

 「ごめん。また、‥‥今度」

 そうだ。こんなところで聞けるような話ではない。緑と話せた嬉しさに舞い上がってしまったが、もっと落ち着いて話すべきことだ。

 光輝の言葉に緑は小首を傾げると、用は済んだとでもいうように足早に女子の輪の中に戻っていった。

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