そこに棲むモノ

成実 希

第1話 蔵の中の少年はおやじキャラ

 蔵の分厚い扉を開けると、冷んやりとした空気が外へと流れ出してくる。女の冷たい指先で頬を撫でられたような気配に、藤澤ふじさわ光輝こうきは身震いした。

 光輝の家には江戸時代に造られたという土蔵がある。一階部分のなまこ壁が独自の幾何学模様を描き、当時の左官職人の腕と藤原家の繁栄が偲ばれる。しかし内部は、年代物の家財道具から使わなくなった光輝のおもちゃまでが雑然と置かれ、ただの物置と化していた。

 光輝は急な階段を登り、二階の窓を押し開けた。蔵の中に溜まっていた埃がふわっと舞い上がり、外から射し込んだ光にキラキラと輝く。

 「たまには掃除しろよな」

 光輝はTシャツの襟ぐりを鼻の上まで持ち上げてマスク代わりにし、母の知香子ちかこが二階に仕舞ったという古い花器を探した。知香子は「母さんの力じゃ、重くてムリ」と同情を誘うような目で光輝に言ったが、ムリなのはきっとこの埃の方だろう。ちゃっかりしているところは、祖母の志乃しのにそっくりだ。

 何段にも積まれた桐の箱を一つ一つ丁重に開けていると、階下で内扉が開く音がした。手すりから覗くと、姉の知紗ちさだった。手伝ってもらおうと顔を出しかけると、知紗が誰かの手を引っ張っている。光輝は咄嗟に茶箱の陰に隠れた。

 蔵の扉が閉められ、窓からの光だけが階下を薄っすらと照らす。

 「ここなら誰も来ないし、声だって漏れないよ」

 「けど、ホコリっぽくない? 俺、アレルギーなんだよなぁ、ハウスダスト」

 「ユキオん家だって、掃除してないでしょ」

 知紗がそう言って拗ねてみせると、ユキオという男は少し躊躇ったものの、「まあ、いいっか」とTシャツを脱いで上半身裸になった。知紗もブラウスのボタンに手をかけている。

 「ウソだろ」

 姉の喘ぎ声など、聞きたくもない。

 「ニャー」と鳴いてみようかと思ったが、いつもは閉めっぱなしの蔵で猫の鳴き声というのは嘘くさい。ネズミならいるかとも思ったが、いざ鳴こうと思うと鳴き声を聞いたことがないことに気づいた。

 光輝は慌てて辺りを見回し、持ってきていたペットボトルのトマトジュースを手に取る。他に方法が思い浮かばず、ジュースを片手いっぱいにこぼすと、二人の頭の上を目掛けて振りまいた。

 「冷たっ!」

 ジュースの水滴が、ユキオの肌に的中したらしい。

 「雨漏りしてない?」

 外は雲ひとつない青空だった。

 「この期に及んでそんなこと言う? そんなに嫌なの、私とヤルの?」

 「いや、まあ、というかさあ‥‥」

 言葉を濁しながらも知紗のボタンに手をかけたユキオの顔色が変わった。

 「なあ、このシミ何? さっきまで無かったよなあ」

 知紗の白いブラウスに赤いシミが点々と付いている。

 「ほんとだ、何だろう?」

 「やっぱやばいわ。悪いけど、俺、帰る」

 ユキオは素早くTシャツを着ると、知紗を振り返ることなく出て行った。

 「あーあー、もう。何が、やっぱやばいだよ。勝手に決めつけんな」

 知紗は赤いシミの匂いを嗅ぐと、鼻を膨らませて大声を上げた。

 「コーキーっ! 出てこないと、後で酷いからねーっ!」

 知紗を本気で怒らせたら怖いことは、光輝もよく知っている。口が立つ上、手も早く、光輝は未だケンカで勝ったことがない。特に自分の身は自分で守ると、知紗が合気道を習い出してからは、極力怒らせないように気も遣ってきた。だけど‥‥。

 「仕方ないだろ。思春期の弟がいるのに、男を引っ張り込んだりしてさ」

 光輝の姿を見ると、知紗の怒りはさらに増大する。

 「居るなら居るって言いなさいよ!」

 「外の鍵、外れてただろ。それに、言うタイミングなんかなかったし。入ってくるなりさあ‥‥」

 弟に見られていたことに羞恥心を覚えたが、知紗はそれをも怒りに変えた。

 「このブラウス、どうしてくれるのよ。お気に入りだったのに。弁償してもらうからね。ジュースのシミなんて落ちないんだから。ああ、もう最悪。アンタのおかげで、全部台無し。ほんと、いろいろ、どうしてくれんのよ」

 「ジュースだって、よく分かったね」

 光輝が心の中でそう呟いた時、知紗が「えっ?」と、頭上を仰いだ。

 パラパラと赤い水滴が降ってくる。光輝は目の前にいて、しょぼくれた顔で黙って自分の文句を聞いている。トマトジュースが、知紗のブラウスに新たなシミを作った。

 「ウソっ。ナニ、やだ」

 知紗は突然取り乱し、光輝を置いて蔵を飛び出した。

 「何だよ、急に。ワケ分んねぇ」

 そう言って光輝が振り向いた時だった。

 トマトジュースが正面から顔にぶちまけられ、目を開けると自分と同じ年くらいの少年が、空のペットボトルを持っていた。

 「えっ?」

 光輝の思考が停止する。

 「えっ?」

 少年は、不思議そうに光輝の目を覗き込んだ。

 「誰?」

 反射的に言葉が口をついて出る。

 「見えるのか?」

 少年は驚いたようにそう聞いた。

 「いやいやいや、何言ってるの? っていうか、おたく誰?」

 「ほおー、見えるのか。コウキ君だよなあ。コウキ君かあ。次はチサちゃんの子供かと思っておったが、コウキ君だったとはなあ。久しぶりだな、コウキ君」

 興奮した少年は、中年のオヤジのような口調で捲し立てた。見た目と言葉遣いのギャップに戸惑いはあったが、根本的な疑問が光輝の頭を支配する。

 「だから、誰だよ。俺、アンタに会うの初めてなんだけど」

 「そうか。あの時はまだ子供だったからな。覚えてなくとも無理はない」

 妙に泰然とした態度に腹が立ち、光輝は思わず少年の肩を掴んだ‥‥はずだった。だが、その手は空を切り、勢い余って前につんのめった。

 「えっ?」

 腰が抜けるとはこういうことか。足腰に全く力が入らず、立ち上がれない。ほふく前進で蔵の扉まで行こうとするが、冷気が脚にまとわりついて前に進まない。下手な平泳ぎのように脚をかき続けるうちに、少年は光輝の顔の前に回り込んでいた。

 「待ってくれ。怪しいモノではない」

 「いやいや、充分怪しいだろ」

 光輝が体の向きを変えると、少年も瞬間移動する。

 「お前が恐れるようなモノではない。この蔵で、子供の頃に一緒に遊んだではないか。お前の勉強も見てやった」

 「人違いでしょ。俺、知りませんから。お願い、助けて。ここから出して」

 「助けるも何も‥‥」

 少年はそう言いかけて、蔵の中を見回した。そして思い立ったように、「その古い腕時計をお前の腕にはめてくれ」と言った。

 「はめたら逃がしてくれますか?」

 光輝はただこの場から立ち去りたかった。こんな理屈で考えられないこと、本来は信じないタチなのだ。なのにいざ自分の身に降りかかると、手も足も出ない。思考も停止して、言うなりになるしかなかった。

 ほふく前進で少年が指差す方へ向かうと、小さな桐の箱から金色のメタルバンドの腕時計が飛び出していた。自分の趣味ではなかったが、そんな文句を言っている場合ではない。寝そべったまま左の手首にはめると、止まっていた針がくるくると回り出し、六時十分を指して止まった。いつの間にか、扉の外から夕陽が射し込んでいる。

 「ウゲッ」

 光輝が泣きそうな声を上げる。もうこれ以上、不可解な体験など真っ平だ。

 「いいか。これからずっと付けていろよ。一日中、ずっとだ。外したら、お前に憑いてやるからな」

 少年は威圧的にそう言った。最初に姿を現した時より、何だか強気になっている気がする。だがここは、言うとおりにすべきだろう。それに扱いを誤って憑かれるより、分からないことは聞いておいたほうがいい。光輝はふと浮かんだ疑問を投げかけた。

 「風呂も、ですか?」

 光輝がおずおずと尋ねると、少年は答えた。

 「風呂は‥‥まあ、いい。濡れると良くないからな」

 至極まっとうな答えだった。

 「だが外していいのは、風呂とこの蔵の中だけだ。いいな」

 「はい‥‥。あのー、もう立てますか?」

 「ああ、もちろん立てる。お前が勝手に腰を抜かしたのだからな」

 「いや、だって、さっき脚を‥‥」

 言い訳がましい言葉を並べながら、光輝はゆっくりと立ち上がった。そして、「それじゃあ、戻りますね」と扉に向かって後ずさりした時、少年が強い口調で呼び止めた。

 「待て。まだ行ってはならん。私を連れて行け」

 そう言うと、少年の姿は一瞬で光の粒子の集合体に変化し、腕時計の中に吸い込まれていった。

 「ええーっ?!」

 光輝は気の抜けたような声を出し、再び腰を抜かした。

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