雪鬼

鐘切 奇

雪鬼


銀色の世界で泣いている

夢を見ている自分を意識する

足跡は降る雪片に覆われ、溶けては何の痕も残さない

そのような白い景色の中で身を震わせ、無様に膝をついて立ち上がることすらできないでいるのだ

手をついた傍らの雪が、頬から落ちた雫によって溶けていくのを目にし、また余計に泣く

何がそんなに悲しいのか

己を虚しゅうしてさえ、解らなかった






乾いた涙が頬に跡を残していた。

吐く息が外気に触れては凍りつくように白く染まる日の朝である。きっぱりと目を覚ました私は、勢いよく自室のカーテンを引いた。

何くれと無く引っ込み思案であり、且つ人一倍他人の目を気にする自分が、その作業に迷いを見せなかったその理由なら目の前に広がっている。

『この調子なら明日には積もっているわね』

斯くして母の予見通り、窓の外には白一色の風景があった。昨夜から舞い降り続く灰雪の止む気配は未だにない。深々と積もった新雪は目に優しくないミー散乱の白色で、私の好奇心を刺激している。

黒々と茹だるアスファルトや、住宅街の赤い屋根たちはどこへ行ったのだろう。そういうことを一時真剣に悩ませてしまうくらいには見事な雪化粧なのである。

この日この時の私には朝食を食べる間、防寒着を着込む極僅かな間も惜しく感じられた。じっとしているのに焦れてどうしようもなくなるほど、雪に魅せられていた。

ここいらでは数年ぶりの大雪に年甲斐もなくはしゃぐ少女の心根を察した母は苦笑した。言葉少なく送り出されると、私は陽気に傘を振り振り、当てのない散歩へと踊り込んでいく。

荒ぶ風に舞う雪に傘など大して意味も無さず、あっという間に体中雪塗れになっていった。洒落た赤いピーコートは台無しになったが、そう気にならなかった。

雪の降り込める住宅街の小道はちっとも人気の無いうえに、色を欠いているから現実味も無く、自分のいるのがまるで物語の中の一風景であるかのような幻想を胸に抱かせてくれる。

やがていつも立ち寄る小さな公園に足を踏み入れると、裸になっていた筈の木々が春を待てずに新たな白い装いで訪う者を歓迎していた。

私は傘を閉じてその異世界感を堪能していた。誰も見ていないのをいいことに遠慮なく顔を綻ばせた。

このままここで、時が止まってしまえばよいと思うのだ。これまでとこれからの煩わしい何もかもを捨てて、消えていけたらと夢想した。こんなことは誰にでもある気の迷いの一つだ。

「ここへ何しに来た?」

突如、聞き覚えの無い声に叱責された。今までの静寂をふりほどくその音に私の心臓は凍りつく。

恐る恐る背後を振り返れば、ほんの六歩先に雪と同じ色の衣服を纏った白髪の少年の立っている。よくよく見ると、一体何時間この降雪の中にいるのかと心配になるぐらいに肌は青白く透けており、少年の存在そのものも風物に馴染みきってしまっていた。首巻きや外套などを重厚に着込んだ私とは違い、彼は手袋一つとして着用していなかった。彼の着ている白い衣服は、腰のところでゆったりと錫色の帯を巻いていて一見には和服のようではあるが、袖丈はなかった。その姿は時代錯誤に思えるが、状況が状況なだけにあまり違和感を感じなかった。

「君こそ」

然したる謂われなく、折角の良い気分に水をさされたように思ってしまったのだけれど、そんな些細な不快感よりずっと好奇心の方が勝っていた。

普段は知人にだって萎縮してしまう私が、赤の他人に言い返せることなど滅多にあることではない。今こそ人見知り脱却の好機だと考えているあたり、よっぽど高揚しているらしかった。

素直に答えない私を前に、少年はむっつりとした表情で口籠った。

「私は雪が好きだから、これほど寒い中を悠々歩き回っているんだ。君はどうしてここに?」

へそを曲げられても敵わないということで、正直に答えてやった。見知らぬ少年相手に続けて調子良く話しかけることができたことは嬉しかった。

「知らねえよ」

しかし、返ってきた言葉はにべもない拒絶だった。

そう呟いた彼は、相も変わらず不機嫌そうに暢気な雪景色を睨めつけている。

視界にすら入れてもらえなくなり、もう私のことなど完全に意識の外に追いやったのではないかと考えるにつれ、物悲しくなった。

調子に乗っていた私は見事に竹篦返しをくらって、いっそ普段より萎縮した。こうなった私の喉から、これ以上言葉を引っ張り出そうというのは無謀である。

しかし、何も言わずに場を離れることもできない私は、柔らかい氷の散るなかで途方に暮れるはずだった。

ちらりと控えめにそっぽを向く彼へ視線をやった。目鼻立ちの整然とした細面は薄い唇がなければ、遠目にはのっぺらぼうだ。寒さからか、ほんの少しだけ赤くなっている頬と鼻のあたまだけが人間味を残している。

ちょっと目を離した隙に白を溶かし込んだ景色に取り込まれてしまいそうに思え、私は彼に暫くの間、見惚れていた。彼と同じように鼻の頭や頬が赤くなるまでじっとその場を動かなかった。

「どうしてだ?」

こちらを向こうとしない彼の口が小さく開いた。

「……えっ?」

裏返った素っ頓狂な声が、自分のそれだと意識することにすら時間を要した。

「こんなものが好きだという理由だ」

彼がそう言いながら差し出し広げた手の平の上には雪が渦巻く。文字通り、小さな竜巻のようにぐるぐると回転するそれは、やがて大きな雪の結晶を形作った。透明ではなく白く濁ったそれを可愛らしいな、と思うと同時にふつふつと疑心が鎌首をもたげてきた。

『雪の鬼に気を付けるのよ』

やがて、常識で量れない現象に混乱する頭の中を母の言葉が右往左往し、疑心のやつはすぐに確信に取って代わられた。

先ほどまで純粋に綺麗だと思っていたその見て呉れに、背筋の凍るような魅力を感じた。私は怖気に身を震わせる。

そのような私の様子を見ながら、くすくすと笑う彼は、まるで“ほら逃げるといい”、と勧めているようにも見えた。そのおかげで、私はますます次の行動選択に窮する。

だが、どうすればいいかなど、何が正解であるかなどを考え、正しい答えが出た例は今まで一度たりとてない。

「冷たいから」

頭が結論を出すよりも先に、私は自然に声帯を働かせていた。私は心の中の母の期待を裏切り、どうにも人外らしい彼と関わり続けようとしているようである。

「は?」

惚けたように口を開けたままの彼は間違いなく呆れていた。その顔がとても子供っぽく、可愛らしいようなものだったので、私は笑いを堪えるのに必死だったりした。やはり、彼の機嫌を損ねたくはない。一歩間違えれば、食べられてしまうかもしれないのだから。

「私は白いことを綺麗であるとか、そういうふうには思わないけれど、静かに世界を覆うものは好みだから。何より暑くないのが良いと思うよ」

白装束の彼は目を見開いて、それから怒ったようにこちらを睨んだ。

人のようにころころと表情を変える彼が面白くて、私はとうとう声に出して笑ってしまった。

混乱だとか恐怖であるとか、そこらへんが上手く作用して、尻込みする空気をも蹴飛ばしていた。

「お前は頭の“でき”があまりよくないんだな」

彼は溜息を吐いて首を横に振った。

そんなことはない、という反論は胸の奥に仕舞っておく。愚かなことをしている自覚がないこともなかったからだ。

ただ、異能を奮う化生の者から、人間の中の平均よりもひどく鈍足な私が走って逃げれる訳もないのだとか、冷静に考えていたりもした。

毒を食らわば皿までの心意気で、まだ彼と話をしていたい私がまた問う。

「君は何のためにここへ?」

「俺が“雪のもの”だからだ」

今度の問いかけは拒絶されることなく、彼は落ち着きのあるその声で淀みなく答えるのだった。

それだけのことがやけに嬉しくて思わず安心していたら、視界に違和感が顕われた。みるみるうちに少年の黒かった髪が明るくなっていくのだ。とうとう雪に呑み込まれたのか、つい先程まで“雪と墨”であったのにこれでは“雪に白鷺”である。

私は再び目を瞠って驚くしかない。

「雪鬼は人を喰らうぞ」

頭の天辺から足の爪先まで真っ白になってしまった彼の感情のこもらない低い声が耳に痛い。

けれど、最早余すところなく真っ白く染まった彼をどうしても恐れられない自分がいて。

「なら、君は私を食べるのか?」

それは自分でも信じられないくらい平坦な響きだった。生を諦められるほど生き飽きていることなど有り得ないのに。

「……どうだろうな」

このとき、目を伏せた彼が泣いているように見えたのは私の願望だったのか。

彼と私以外の生き物は、全て何処へか消えてしまったかのように影も形も見当たらない。町人も、小鳥も、野良猫も、みな息を殺してわざわざ姿を見せまいとしているのではないかというくだらない妄想が脳裏を掠めた。

「俺は生まれてそう間もない。お前はどれだけ生きてきた?」

「私は……」

雪風に煙る視界に目がまわってふらふらと立ち眩んだ。水玉模様の傘がこの手から離れた。沈み込む足跡を残して踏み留まるも、考えはまとまらない。馬鹿正直に答えるなら、私の人生はたった十五年ぽっちしかない。

「私は何十年か生きているような気はする。夢の中で繰り返し繰り返し……まあ、同じ経験値しか積めないなら成長できるはずもないのだけれど」

「夢に見るのは過去だけか?」

私はふるふると首を横に振ってみせた。このことを語るのは苦手だったから、詳細は彼の想像に任せたいと望む。

「そこに俺がいたのか?」

私は再度、同じ動作をしてみせる。

彼が夢に出てきていたなら、私はもっと今日この日を待ち望んでいたに違いない、と強く思っていた。

そのときだ、私が気付いてしまったのは。静かに今朝の夢を思い出していた。

「君はどうして生きていくんだ?」

非常に言い方が悪かったが、これは哲学を問いたかったのではなく、手段について尋ねる言葉だった。

「俺はこの雪に幾つもの思念が集まって生まれたもので、在り続けるには人喰いしかない」

そういうものなのだ、と諦めているような彼が恨めしく、憎らしい。

ありがたいことに真意は伝わっていて、その返答はまるきり予想通りのものだったのだ。

出会ってから初めて彼は笑っていた。その穏やかな笑顔も癪に触った。

「お前が泣くな」

これまでの短い人生の中で、これほど冷たくて優しい言葉は聴いたことがなかった。

寒さに喉が押し潰されたように、ひゅーひゅーという音しかでなかった。足元の雪に小さな穴が、幾つも穿たれていく。自分ではわからないうちに泣き出していたのだ。

「そういうものとして生まれた筈なのにそうしたいとは思わなかった。初めに会った人間からお前まで、喰ってやろうと思うような奴は一人もいなかったんだ」

彼に出会った私はこの日から、冷たいということは寂しいことであるとも知ってしまった。

勝手に定めを守ることを決めてしまっている。そのために想いを突き放し、こちらの事情なんて知ったこっちゃない。だが冷たいその感情は胸に突き立つほどに優しくもある。

「己の場合、集まった思念に恨みやら憎しみやら、そういった負の情念が極端に少なかったんだろうな」

悲しい話を語っているわけではないというのに、彼の言葉は私を一層悲哀の底に堕とし込んだ。

彼は知人ではない。ましてや家族や友人でもないし、同じ生き物でさえないのだが、そのようなことは全く関係のないことだった。どちらともなく、胸が張り裂けていく音を確かに聞いた。

「お前もあまりに無欲だと長生きできん。精々、沢山のものを目指していることだ」

乱暴に袖で涙を拭い、透けていく彼を目に焼き付ける。

その隙の無い白は、きっと禍々しい赤色など受けつけない。けれど、これしかなかったのだろうか。

どうかもう一度だけ、と干乾びた咽喉から無理矢理声を押し出す。

「これでいいのか?」

いいんだ、と言う声はもう聞こえなかった。彼の意思を伝えるのは、頷く素振りと、どこか満足そうな笑みだけだ。

本当に雪に紛れるように消えていった。雪が溶ければ跡形もなくなるように、その鬼はいなくなった。

きっともうこの世界のどこにもいない。



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