第四章  咲いてこそ散ったる花も実も

 


『誠を以て身を修め 忠孝を重んじ 貧賤に己を曲げるなかれ』


 そのように誠を忘れまいとして生きて来た私だが、その実状はかくも困窮極まれり。貧賤に己を曲げたこともあれば、郷里の両親には頭が上がらないほどの不忠孝ぶりであった。

 とは言え、そんな陣中にあって私は大きな転機を迎えた。それは黒髪の乙女との出会いであり、乙女を取り巻く人間との出会いであった。とかく真人間である乙女に寄り添うようになってから私は誠のみを第一として生きるようになったのだ。

 学生の本分を思い出し、大學へ足繁く通うようにもなり、我が愛すべき居城では机に向かって教本を紐解く毎夜を送るようになったのである。

 黒髪の乙女と瑞穂さん、ひいては八重さんには多大ななる感謝をしなければなるまい。言葉では到底物足りない。ゆえに私はまた一言も口には出していない。このご恩はいつか千倍にしてお返しする所存である。

 不思議なもので、荒くれ荒涼としていた当時は古平を皮切りに西村など大凡私と似通った男しか寄りつかなかった。類は友を呼ぶとは本当らしい。だから、海神の加護を受け凪いだ海のように静謐とした私にごく最近の私には、それら餓鬼に近しい卑しい人間はよりつくことはなくなった。

 これで真人間側の男子の友人や婦女と友愛を結べれば、これ以上にでき過ぎたお話しはないだろう。もちろん、私には悪者三友も寄りつかなければ益者三友とて出来ることはなかった。万事何を言うも無し、つまりは凡庸たる日々を過ごしたわけだ。 

 そんな折、面白い噂を耳にした。『赤福女郎』なる奇怪な噂である。なんでも、それは貧乏な学生をばかりに声を掛けるのだと言う。真っ赤な洋服に真っ赤な洋靴、そして真っ赤な鍔広の帽子に口紅をさした奇抜な出で立ちであるという。赤福女郎は寂しい学生に甘美で幸せなな夢を見せてくれるのだと言うのがもっぱらの噂の内容であるが、私の耳にする限りではその容姿もどのような夢であるのか……全てが具体性に欠けていた。

 噂とは所詮噂であり、七十五日もすれば泡と消えてしまうのだろう。

 以前の私であればそんなたわいない誰かの妄言に一点の光明と希望を抱いていたことだろう。どうぞ赤福女郎と私の前に現れたたまえ!と……だが、今の私にはそのような妄言は妄言として捨て置く広大な余裕と言う名の分別があった。私には黒髪の乙女がいるのである、そのような奇怪な女郎に想いを馳せる必要がどこにあろうか。

 丁度、五日前になるだろうか、私はフロリアンにて乙女と瑞穂さんと共にテーブルを囲み、面白可笑しい一時を過ごした。本当に佳麗たる乙女を前にしての雑談とは至福の時間である。

 このように、妙齢たる婦女との交わりの疎薄に見える私であったが、実の所、私は幾度か見合いをしていた。怠惰なる大學生生活を千里眼で見越した母が春夏冬と三季節、召喚の電報を送り、それを受け取った私は講義などをそっちのけにしていそいそと帰郷していた。

 最後にお見合いをしたの去年の冬だった。まだ、私が黒髪の乙女を桜の幹に姿を隠し、遠のきから眺めていた頃の話しである。

 お逢いした女性は区長の娘であり、三女であった。何の偶然か母の粋なはからいか、その乙女の名字は『秋梨』と言った。誠にその通りである。

 都会の大學生ともあれば未来は明るし、と先見の明でもって縁談に応じたのだろうが、

私の本質と言えば授業にろくに出ず、大學へ赴くと言えば古平と備品を拝借しに行くときと、格安げぼマズ素うどんを胃袋に押し込みに行く時だけである。

 そんな私が化けの皮を剥がすでもなく、机を挟んで対峙した娘さんの全てはなんともがな私へ好意の眼差しを向け、私が目を合わせようものなら恥じらい視線を膝元へおとすのである。

 私の顔は父と母ゆずりの人相である。言うまでもないが格好などは良くない、まして日々の食生活に端を発する栄養失調にて贅肉もなければ筋肉とてない。中肉中背であった頃が懐かしい。

 そんな男とて伸ばし放題の髪を整え髭を剃り、後にポマードをつければそこそこ見れたものになるのである。もしや娘さんには私から漂う垢抜けた都会人たる風格が好印象を抱かせたのやもしれない。

 だが、それは欺瞞であり詐欺である。繰り返すが、私が大學に入学した後の二年間は

決して人に誇れるものではないのだ。社会的実益のあることなど何一つしていないのだ。

 だから、私は両家の親同士が気を使って日本庭園の石橋の上に秋梨令嬢と二人きりに

なった時、例外なくこう言うのである。

「私は大學生ですが、実に不埒でいい加減な男なのです。遅かれ早かれ大學を卒業してしまった暁にはろくな職につくこともなく、ですが家で飲んだくれることもなく、一年の半分以上を布団の上で過ごすことでしょう。悪いことは言わない、この縁談は忘れてください」

 そもそも私は縁談の声が掛かれば何を差し置いても必ず馳せ参じ、妙齢の乙女と二言三言会話をしたのち、この殺し文句で破談へ持ち込んでいたのであった。

 懇ろになりたいとは思わないながらも、我が愛すべき四畳間に戻れば異性から孤立した日々しか待ち受けていない。ゆえに、縁談に格好つけて乙女と甘美な一時を設けるのだ。

 この度の乙女は少しばかり背が低かったが、端正な顔立ちのうえに私好みの長髪であった。正直に言おう。私の心は大いに揺らいだ、なまず千匹が一斉に怒りの咆哮をあげたに等しく大揺れであった。

 だが、好みであるが故に、茶の一つにも誘うことなく破談への道を選んだ。

 この乙女の幸せを案じたのか。はたまた大學に残して来た意中の乙女を忘れられなかったのかは定かではない。

「はい?」

 私の文句の後は決まってお相手の婦女の顔が歪んだ。それは当然であろう。男子たるは見合いとは言え、茶の一つにでも誘うのが礼儀であり、女子は誘われるものとして心構えているものだ。しかし、秋梨さんは「それは私も助かりますと」と言った。今回拍子抜けしたのは、なんと私の方であったのだ。

 なんでも彼女には予てより想いを寄せる男がいるらしく、この見合いはいずれにせよ断るつもりでいたそうだ。

 自ら破談を申し込んでおいてなんだが腹が立った。私にむけた恥じらいの視線はなんだったのだ。

 腑で憤る私をよそに、彼女は次の見合い相手がその男性であると告白した。その時見せた恥じらいの姿は、私に向けたと思っていた視線でもあった。なんと言うことか、彼女には顔合わせの頃より私など眼中になかったのである。

「さようですか」と私は紳士を気取った。煮えくり返る腑は杳として知れない矛先をいずれに向けようかと思索中である。

 とは言え、こればかりはどうしようもなし。いまさら無様にすがったところで彼女の心はここにあらず。ここは両者の利害の一致をみたところで妥協せざるえまい。 

「それでは失礼いたします」と別れ際、やうやうしく会釈をした彼女を射止めた男とはいかような人間なのだろうか。私はとりあえず憤怒の矛先をまだ姿見ぬ男に向けることにした。彼女の容姿と器量から察するに、相手が器量望であったとてめでたく話しはまとまるであろう。秋梨家はこれで安泰である。

 去って行く彼女の背中に幸運でありますようにと祈る傍ら、些かの嫉妬に駆られた私は。「あの娘さんはどうかしら」と問うた母に「あの娘は駄目だ」と心にもない言動でもって、その日の内に親愛なる流々荘へ引き返すことにした。

 「あの子には遠いところで幸せになってもらおう」これは私がお見合いの後、早々に流々荘へ戻って来た時に吐いた台詞であった。

 あの時と同じ、万寝床の上に寝転がって白い息を吐きながらそう呟いて見た。すると、途端にに人恋しさに打ち拉がれてしまったのだから摩訶不思議である。

 私には乙女がいるではないか!と言い聞かせる時間が二日ほど経過した。相も変わらず崖っぷちにつま先立ちになって、絶望と希望のシーソーを繰り返していたのだったが、ようやっと希望側に着地することができる日が来たのである。

 私はインクと原稿用紙を買いに出た帰り、何気なく郵便受けを覗くと、封筒が入っていた。茶封筒には流れるような美しい文字で宛名が記されており、裏向けてみると封のところには林檎の絵が、そして下部には『鴻池 咲恵より』と書かれてあるのだ。

 私は一月の痺れるほどの寒さの中、白い息を吐きながら一人郵便受けの前に佇み、手紙を片手に人知れず

胸の辺りを暖かくしていたのであった。

 私は大安吉日。善は急げと早速筆を取ったのであった。瑞穂さんをまじえて、話しをした折、瑞穂さんの粋な計らいによってキネマの話題となった。王女と新聞記者の儚い恋物語を描いた良作の映画を今まさに上映しいると言うのである。

 桜子さんとそれを見に行ったと言う瑞穂さんは乙女に是非とも私と一緒に行くようにとしきりに薦めてくれたのであった。乙女は終始頬を赤らめて「お姉様が勝手に決めてしまっては勝太郎さんにご迷惑です」とはぐらかしてしたが、満更でもないと言った様子であったのだ。

 ゆえにこの度はお茶のお誘いではなく、キネマに御一緒しましょうと、便箋に認めたのであった。

 

      ◇


 お父様とは顔を合わせたくないです…………

 くりすますの折、私は占い師をしてみたり、勝太郎さんとお祭りを存分に楽しんだりしておりましたから、クリスマスパーティーをすっかりすっぽかしてしまいました。私はパーティーが嫌いでしたし、それに加えて親睦パーティの折、お姉様方は都合悪く今年は出席できないとの旨を聞いておりましたから、積もるところ私には楽しみが何一つとして無かったのです。そんな風に言い訳をしながら、食べかけの林檎飴を見つめておりましたけれど、次の瞬間には林檎飴をお皿の上に置くと慌ててその日のうちに風邪をひいて高熱に魘されていた旨を便箋に認めました。明けて次の日、郵便ポストの前で郵便屋さんを待って直接御手紙をお願い致しました。

 私はその日より、実家へ帰る日が億劫で億劫で仕方ありません。何せ、頭に角を生やしたお母様のお顔が容易に連想出来てしまうのですから…………それでも、年の瀬が迫りますと実家に帰らなければならないからのです。これは私が下宿をするにあたり『お盆とお正月にか必ず実家へ帰る』とお母様とお約束しました。ですから歳末には帰らなければなりません。

 私は溜息をついて、帰り支度をしました。そして、駅舎向けて歩いたのです。手にはお姉様から貸して頂いた手袋、首回りには勝太郎さんから頂いたマフラーを捲いて……確かにお母様に……いえお父様にも怒られるでしょうけれど、それは一時のこと、それが過ぎれば、瑞穂お姉様や新年の挨拶にやってくる親族の方々と面白愉快に六日前後まで過ごすのです。そして決まってお姉様やお母様とご一緒に私はお餅を食べ過ぎてしまい、少しお腹周りをぷっくりとさせて下宿に帰るのです。

 私は出来るだけ楽しいことだけを巡らせましたけれど……やはり溜息をついてしまいました。心苦しくも言い訳を練って練ったのですけれど……言い訳は心苦しいですから、しっかり怒られて素直に謝りましょうと木枯らしの吹く駅舎の中で大きな溜息をついたのでした。

 

      ◇


 実家に帰りますと、玄関に入ったところで駆けて来たお母様に一時間、叱られました。ですが、「どうして電報にしなかったの!魘されるような熱だなんて、風邪ではなかったらどうするのですか!」とお母様は終始私の身を案じて下さるのでした。

 私は「すみませんでした」と呟きながらただ俯いていました。お母様の言葉を聞いておりますと、私の胸はだんだんと締め付けられるようになるのです。お母様は私のお送りした手紙を信じて疑っておられません。

 でも、本当は高熱など出していなかったのです。呑気にオモチロイでしょうと思うがままに占い師をして、勝太郎さんとお祭りを楽しんでいたのですから……私は葛藤しました。ここでお母様に本当のことを打ち明けるべきか……このままことを荒立てないままいるべきか……

「お母様……」

「何」

 私はお母様の言葉を遮ってそう言いました。葛藤のしようがありません、私は真実を述べてもっと叱られるべきなのです。嘘のお手紙を出したことも謝らなければいけませんし。

自分勝手に振る舞ったことも叱られなければなりません……

 私はお母様になんと言われてしまうでしょうかと顔色を悪く、足元を震わしてなんとか次の言葉をと口をぱくぱくさせていました。

「どうしたの咲恵。何とか言いなさい」 

 お母様は首を傾げながら、まるで声が出なくなってしまったような私に言います。

 ついに私は大粒の涙をこぼしてしまいました。言いたいのに言えないのです……私がもし、嘘の手紙を受け取ったらならば……そう思うと私自身が保身のためとは言え安易になんと滑稽で酷いことをしてしまったのだろうと言うことが、ようやく理解できたからでした。

 私はなんて情けない人間なのでしょうか。お母様は私の母親ですから私が嘘をついたとしてもそれを信じて下さいます。それをわかっていて、嘘をついた私は人として失格です。

信じて下さるからこそ、その信用に答えなければなりません。なのに……なのに私はその信頼を真っ向から裏切ってしまったのです。

 私の涙は止まりません。そして、あまりに締め付けられていた胸はついに呼吸を乱れさせ、喘息患者のように喉から獣の鳴き声のような音を出し始めたのでした……

「咲恵!咲恵どうしたの!誰か!誰かいないの!」 

 お母様はそんな私を見て、血の気を引かせて私の両肩を押さえると、ひすてりっくを起こしたような声を出しました。

「お母様どうしたの…………咲恵。どうしたの!」

 そう言って廊下を駆けて来たのは瑞穂お姉様です。

「咲恵の様子がおかしいのよ、急に泣き出したかと思うと、変な声を出し始めたの」

「お母様!咲恵は病み上がりなのよ。なのに、こんな寒い玄関に長いこと立たせて、こんなに体が冷えてしまっているわ。きっと風邪がぶり返してしまったのね。咲恵、私の部屋へい行きましょう。暖炉に火が入っているから温かいわ」

 お姉様は狼狽するお母様に強い口調でそうおっしゃると、私の肩を抱いて階段を上ります。その頃私は、奇声こそ収まっておりましたが、その代わりしゃっくりをしたまま、やはり何も言えないでいたのでした。

「何も言わなくて良いから、深呼吸をしてなさいね」 

 お姉様は私は煌々と蜜柑色を讃える暖炉の前に座らせると、両肩に手を置いてそう声を掛けてから、静かに部屋を出て行かれました。

 私は全身がほわほわと温もってゆくのと同時に顔が火照り、なんだかぼぉっとしてくるのです。とにかく私はリュックサックを降ろして、一度として同じ形を見せない炎の形を

見つめて惚けておりました。

 感情極まると、涙も出れば呼吸もおかしくなってしまうのですね。私はしゃっくりの止まったのを今頃になって気が付き、そのように思いを巡らせていたのでした。

「少しは落ち着いたかしら。これでも飲んで、胸の内も温かくなさい」

 私がなんだか眠たくなってきてしまった頃合いでお姉様が、お盆に湯気のたつ飲み物を入れて持って来て下さいました。その飲み物は珈琲と同じ色合いなのですが、仄かに甘い香りが立ち上り、まるでチョコレートを溶かしたような……そんな飲み物だったのです。

「とっても温かいです。そしてチョコレートの味がします」

 私はコップを両手で包むようにして一口飲んでから、お姉様にそう感想を言いました。「それはココアと言う飲み物よ。ブラウンさんから頂いた英国のお土産なの」 

ブラウンさんとはお父様のご友人でらっしゃる英国人の方です。年に数回、日本に来られるそうで、その都度、この家に足を運んで下さり私たちに珍しい英国のお菓子やら玩具やらを下さるのです。

「そうなのですか……とても美味しいです」 

 私は紅茶を淹れるのはまだまだぎこちないのですけれど。この甘くて美味しい『ココア』

を是非、勝太郎さんに淹れて差し上げたいと思ってしまったのでした。

「それで、どうしてしまったと言うの」 

 お姉様は私に毛布を掛けてくださり、ご自分も私の隣にこしを降ろしてそうおっしゃいます。

「私はとても悪い人間です……お母様を欺いてしまいました」 

 私はココアを絨毯の上にそっと置くと、暖炉に向かってそう言ったのです。

「そうよね。高熱に魘されているはずの咲恵が三条通を勝太郎さんと一緒に歩けるはずがないものね」

 お姉様は団栗眼の私の顔を見やると、そう言いながら悪戯に微笑んだのでした。

「どっ、どうしてお姉様がご存じなのですか!」

 私は狼狽しました。私は急いでお姉様の方へ体を向けたのです。勢い余って寸でのところでココアをこぼしてしまいそうになりました。

 あら、とお姉様は片目を閉じると、

「私には咲恵のことなんて手に取るようにわかってしまうのよ」と私の鼻面を人差し指でこづいたのです。

「そんなのなしです。どうしてなのか教えて下さい」

 私はお姉様を抱き締めるように倒れ込みました。そんなはずは無いのです。お姉様は遠くこの家にて催されておりましたクリスマスパーティーに列席していたはずなのですから、千里眼でも持ち合わせていないかぎり、到底私のことを窺い知ることなどできるはずがないのです…………ですが、私がお姉様を押し倒した形となったところで、不意に思ったのです。もしや、お姉様は本当に千里眼をお持ちなのではないでしょうかと……お姉様は私が落ち込んでいる時や途方に暮れているときなどに、計らったように私の元へ参上して下さるのです。

 私は本当によもや……と思ってしまいました。

 本当はね、お姉様は体を起こしてそう言うと、

「桜目さんとおっしゃる私の友人が咲恵と勝太郎さんを三条通で見かけたと教えてくれたのよ」

「桜目……さんですか」

「元映画倶楽部のマドンナ。今では銀幕の新星女優。どこに行っても輝ける天狼星のような女性よ」

「お姉様は本当に顔が広いのですね。女優さんともお知り合いだなんて」

 私は驚いてしまいました。多方面の方々と親交があります瑞穂お姉様ですが、まさか煙幕の女優さんにもご友人がおられるとは思いもよりませんでした。

「クリスマスの深夜にひょっこり訪ねて来てくれたのよ。クリスマスの夜だと言うのに、失恋してしまったと言うのよ」 

 縁起が悪いでしょ。とお姉様は困った顔をなさいました。

 女優さんになられるほどの女性ですから、さぞかし美しいはずです。そんな佳麗な女性をからの告白をお断りするなんて……お相手はどのような男性だったのでしょう。その殿方にはきっと心に決めたお相手がおられるのです。ですから、女優さんからの愛の言葉とてお断りをして意中の乙女を一途に思うのです……なんて素晴らしい殿方なのでしょう!

私も恋をするならば、一生添い遂げるのであればそのような素敵な殿方と結ばれたいものです。それこそ婦女の幸せなのです。そうに違いありません。

「素敵ですね」 

 私は火照った顔を両手で押さえると、恍惚と暖炉の炎を見つめておりました。

「落ち着いたのなら、とりあえず、荷物を自分の部屋へ置いていらっしゃい」

 お姉様はすっかり空になってしまったコップを下げると、私にそう言いました。

「お姉様。やはり、私は本当のことをお母様にお話ししなければなりません。でも……でも、一人では話し出せる自信がありませんからお姉様。どうか隣に居て下さい」

 やはり嘘はいけません。暗い気持ちで新年を迎えることになるかもしれません。けれど、やはり嘘は許されないのです。親しき仲にも礼儀あり、親子であるからこそ徹底しなければならないのです。

「あら、私は別にお母様にお話ししなくても良いと思うわよ」

「え……」 

公明正大たるお姉様だと言うのに……私は耳を疑いました。

「去年までは、咲恵にはクリスマスの町を一緒に歩く殿方のご友人は居なかったでしょ?でも、今年は勝太郎さんがいるのだもの。義理合いで造り笑顔で殿方のお相手をするのなら、紛うことのない笑顔で楽しむ方が余程有意義と言うものだわ」

 お姉様はさもクリスマスパーティーを思い出すと吐き気がする。と言わんばかりに変な顔をして強くそうおっしゃいました。

「お姉様。パーティーで何かあったのですか?」

 あまりに疎ましく変な顔をしてお姉様がおっしゃいますものですから、私はついそう聞いてしまいました。

 別に。お姉様はそうおっしゃいましたけれど……

「そう言えば咲恵が居なくて住伴さんが大層がっかりしてらっしゃったわ」ベットに腰掛けながらそう言うお姉様。

 はてな?私は首を傾げました。

「住伴さんとはどのようか方でしょうか」

「ほら、親睦パーティのとき、お会いしたでしょう」

尽かさずお姉様にそう言われてしまったのですが…… 

「覚えておりません」

 そんな名前の方を私は思い出せなかったのでした。

「えっとね……フォークで頭をかいてらした殿方よ」

「……フォーク……ですか」

 フォークは食事に使うものですから、頭を掻くものではありません。そんなことをする人は珍しいですから……

「あっ、思い出しました。お料理を取り分けて差し上げた殿方です」

そう言えば、住伴と自己紹介の折、お名前をお聞きしておりました。今の今まですっかり忘れてしまっておりましたけれど。

「そうよその方よ。どうも、咲恵に会えることを楽しみにしていらした様子だったわ」

「どうして、私なのですか。私はすっかり忘れておりましたよ」

「住伴さんはきっと咲恵の事を気に入ってしまったのよ。もしかしたら一目惚れしてしまったのかもしれないわね」

 お姉様は眼を閉じると手を顎にやって、しみじみとおっしゃいます。

「一目惚れだなんて……そんなの困ります……」

私は火照った顔のままでお姉様に抗議をしました。何せ眼中にない殿方に唐突に一目惚れされても私が困ってしまうだけですもの。

「そうよね。咲恵には勝太郎さんがいるものね」

 今度は意地悪くおっしゃいます。

「それは……私と勝太郎さんは……その……ご学友で……その……」

「クリスマスの夜に大切なパーティをすっぽかしてデートをしていたくせに〝ご学友〟はないと思うのだけれど」

 ますますお姉様は楽しそうに意地悪く言うのです。

「お姉様!酷いです。言葉尻を捕まえてそんな風におっしゃるなんて!それに、勝太郎さんに失礼です」

 私は立ち上がってお姉様に毛布を投げつけて怒りました。

 私は占い師の真似事を、勝太郎さんはたまたま三条通に来られていただけなのです。デートだなんて……私たちは示し合わせた覚えもなければ、くりすますの夜に三条通へ向かうことすら、知り置いてなかったのです。デートだなんて……偶然にお会いしましたから、

ご一緒に三条通を彩る出店を巡っていただけなのですから。

「少しふざけ過ぎたわね。でもこれは、咲恵が少し羨ましいから意地悪したのよ、嫉妬の意地悪」

「そうなのですか?」

「まあね。それはさておいても、婦女は年頃になると人には言えない秘密ができるものよ。咲恵にだって、そろそろ秘密の一つや二つあってもおかしくないと思うのよ」

「でも……」

「咲恵は真面目過ぎるのよ。別にパーティーに出なかったことがそんなに悪いことだとは思わないもの…………」

 そこでお姉様は言葉を一度切って、額に指をやりました。何かを考えていらっしゃるのでしょうか。

「違うわね。咲恵が悩んでいるのは、パーティーに出なかったことではなくって、お母様やお父様を欺いてしまったと思うがゆえなのよね」

 眼を閉じて口許緩やかにお姉様はそうおっしゃりました。

 そうなのです。パーティーはこの際もうどうでも良いのです。過ぎたことですし、今更どうにもなりませんから……ですが、お母様やお父様を欺いてしまった罪悪の念は尽きません。

 そもそも『誤魔化してしまえ』と思った自分が許せないのです。

「確かに人を……いいえ、取り分け親を欺くなんて褒められたことではないわ。けれど、咲恵も人間なのだから、仕方がないと思うのよ」

「でも……」

「もしも、咲恵がパーティよりも……お父様とお母様を欺いて勝太郎さんとの時間を選んだとして、それを悪びれることもなく、私に話したのであれば私はきっと咲恵の頬を打ち据えて、お母様の元へ引きずってでも連れて行ったことでしょうね。けれど!咲恵は十分過ぎるくらい反省して後悔しているじゃない」

 お姉様は眼を開けると優しい眼差しでそうおっしゃって下さいました。

 それでも……「そうです!私も人間ですから仕方がないのです!」と割り切ってしまうのはいかがなものでしょうか。やはり嘘はいけませんし、反省していると言うのであれば、お母様とお父様に謝らなければいけないと思うのです。

「反省だけなら、猿でもできますよ」

 私は上目遣いにお姉様を見上げました。

「あら、猿が反省して後悔できたなら、きっとそれは人間にとっての脅威ね。私は生物の中で人間だけが唯一反省して後悔することができるのだと確信しているもの」

 お姉様は口をへの字にしてから、本当にへの字にしてから言うのでした。

「とにかく、私は謝る必要はないと思うわ」

 お姉様はそう言い切ると胸を反らして見せました。

 常時ブラウスを押し上げる大きな山が、これでもかとブラウスを撓らせます。ボタンなどは金切り声をあげていることでしょう。

 お姉様は同性である私でも羨むほど胸元がたわわとされております……けれど、その胸の中には海のように広いココロが広がっていることでしょう。私ならば、例え可愛い妹であったとしても、ここまで頑固に食い下がられたなれば、きっと、眉の一つも顰めて「それでは勝手にすれば良いです!」と口が裂けてしまうことでしょう。

 私は残り少なくなってしまったココアを飲み干すと、暖炉のように温かなお姉様の元へ歩み寄ると「私にも秘密が出来てしまいました」とお姉様に微笑みかけたのでした。

 

      ◇


『ですが、この手紙を投函してより、所用にて一度実家の方へ戻ることとなりました。

誠に残念です』


 もはや謹賀新年や遅しと一月も半ばになったころ。私は年末に届いた去年最後の御手紙を読み直して項垂れていた。それはもう激しく項垂れた。もう少し髪の毛が長ければそれが畳みに触れるくらいに頭を垂れたのであった。

 勇気を出してキネマにお誘いしたというのに……やんわり断られてしまった。

 大安吉日を選んでポストへ投函したはずであったと言うのに、どうやら回収されたのが明けて仏滅であったらしい……さて、私は何を呪いこのもどかしさをどれにぶつければよいだろうか……私は咲恵さんから頂いた手紙を恭しく机の引き出しに片づけると、意味もなく立ち上がりそのようなことを思案していた。

「明けてしまいました、残念です」

 丁度良いところに、丁度良い奴が現れた。何かと因縁をつけては人手に足らぬが膾に叩いてやろう。

「お前とは縁を切ったんだぞ」

「縁は異な物というじゃないですか、そんなつれない。夜な夜な密会をしてた仲じゃないですか」

 古平はくりすますの夜、奴らに捕まっておきながら事なきを得たらしい。心から残念である。

「気持ちの悪い。これ以上つきまとうと、ぶち殺すぞ」

「あなたは〝 ぶち殺す〟しか言葉を知らないんですか」

 薄学だな。と古平は続けた。

「とにかく、私に関わらないでくれ」

「僕も気を遣ってるんですよ。あなたの思い人、僕達の武勇伝を語らずにいるのですから」

「それは感謝する。しかし、それは墓まで持って行け」

 私は乱暴に古平に反論を投げつけると、机の上に立てておいたグリム童話集を手に取ると大きく振り上げた。

「それはなんの真似ですか?」

 好奇の眼差しにて首を傾げる古平。

「お前のことだ、去年の御礼に来たのであろう。わかっていてみすみすやられてたまるものか、差し違えてやる」

 体の芯から腐っている古平のことである。当然去年のお礼参りにやってきたに違いない。さあ、蛇が出るか生ゴミが出るか…… 

「別にそんなつもりじゃないですよ」

 心外な。と古平は口を尖らせた。

「新年早々、そんな律儀な僕でもないですよ。それに、あなたに御礼するんだったら、大いにあることないことを着色して僕とあなたの武勇伝を彼女に話して聞かせているでしょうね」

 口は剣より強し。古平は不快であると言いたげな表情でそう続けた。

 珍しく古代は、殊勝な心懸けと酒と肴を持参して来ていたのである。そこにどんな意図が含められているのだろうか?と勘ぐってみてもそれは所詮無駄な足掻きであり、湿っぽいあたりめをランプにてあぶり、香ばしい案配でこれを口の中へ放り込んだ。

 新年そうそう私の向かいに腰を降ろしているのが古平であると言うにもかかわらず、酒は進み、話しも弾んだのはまるで、松永一派にて我々が暗躍していた頃の名残を伺わせる情景でもあり、久しく部屋の中に充満したあたりめの匂いと男臭がやけに懐かしく、湯飲みに二杯ほど酒を呷った私はつい目頭が熱くなってしまう始末であった。

 あゝ輝かしきかな、我ら栄光の日々!

 しかし、かと言って過去の栄光に陶酔する私たちではなかった。話題らしき話題をひとすくいし終わると、エチルアルコールが回るによろしく議題は奔放不羈とあっちこっちに飛び火し、大學校内にてまことしやかに噂される『赤服女郎』にまで及んだ。彼女は寂しい独男の元へなんの前触れもなしに現れては、細々とした欲求に答えそして桃色の夢を見せてくれると言うまことに善意のみで構築された妄想の産物であった。そもそも、むさ苦しい男まみれの宴会にて反吐の不発弾を吐き散らかしながら、その上に寝転がって朝を迎えた連中が初の目撃者であることからして怪しいこと千万である。酸っぱい反吐にまみれて感覚と言う感覚が麻痺したに違いない。

 だが、それが判明してもなお赤服女郎の噂が大学内を……いいや寂しい男どもの内々でまことしやかに語り継がれているのは、もはや言うまでもあるまい。妄想の産物でもよい、妙齢たる婦女と交わりたいと心からいいや心髄から願って祈ってやまない、可哀想で醜い羊たちが数多といるからである。

 私はそのような落ちぶれた阿呆漢に陥るまいと、ひたすら桜の樹から黒髪の乙女を警護していた。スプーン一本も曲げられぬ眼力であったが、カネモチの優男の魔の手から乙女をただひたすら守り抜いていたのである。

 そうして、私は赤服女郎に想いを馳せることなく、彼女とお知り合いになり昨今では、お茶の席を共にする仲にとなったのだ。

 そうだ、心の底から哄笑したい面持ちである。新年であることも忘れただただ、独り身にて寂しくも儚く布団に潜り込んで婦女との甘美たる一時を三度の飯よりも優先して妄想に耽る全ての男子どもの前に立って、私は顎が外れるまで大笑いすることだろう。驕慢であると靴を投げられようとも、勝者を前にして敗者の弁ほど取るに足らないものはないのだ。


      ◇    


 下宿に帰って来た私は、早速、勝太郎さんに御手紙をお出ししようと思いました。お正月の折、面白可笑しかった出来事などを記そうと思ったのです。

 実を申しますと、実家を出発する際こっそりお餅もいくつか持って返ってきたのです。

お母様のこしらえて下さったお汁こは、これはもう絶品でした。艶々した小豆がたっぷり入った中に丸餅を入れて、しばらく待ちますともっちりとろり。あんなに固かったお餅が嘘のように。まるでマシュマロのようになるから摩訶不思議です。そして、決まって私は、柔らかくなったお餅をそのまま口へ運ぶと口にくわえて、うにょーっと伸ばすのです。

 去年はお姉様も私にならって『うにょー』をしてらっしゃいましたけれど、今年は微笑んでらっしゃるだけで、うにょーはなさりませんでした。

 「咲恵。御業が悪いですよ」私がそのようにしてお餅と戯れておりますと、お母様にそう叱られます。去年は「咲恵、瑞穂……」と二人して怒られておりましたのに、今年は瑞穂お姉様は静かに食べておられましたから、私だけが怒られるはめになってしまいました。 お姉様はずるいのです。 

 ですが、まずはポストへ届いておりました年賀状をお返ししなければなりません。お正月は過ぎてしまいましたから、寒中お見舞いとして新年ご挨拶とお返事が遅れてしまった旨を書いて、お返ししなければなりません。

 これも毎年のことですから、小春日さんなどはすでに承知されていることでしょう。私は、届きました年賀状を見ながら眉を顰めました。その中に鈴木先輩からの葉書があったからです。

 先輩の葉書には『謹賀新年』と小さく書かれてある他は、初詣のお誘いに終始しております。私はお着物を着て家族で初詣に出掛けました。けれど、もしも下宿にいたのであれば、私は鈴木先輩ではなく、勝太郎さんと連れだって初詣に行くことでしょう。小春日さんをお誘いしても良いのですけれど、小春日さんには古平さんがおられますから、きっと古平さんと一緒にお出掛けになられるはずです。ですから私は勝太郎さんと御一緒するのです。

 私は筆を鼻と上唇に挟みながら、やはりお返事は書いた方が良いのでしょうね。と思いながら、できれば書きたくない。とそのまま目を閉じて首を左右に振っておりました。ですが、鈴木先輩とは今年も大學で倶楽部でと顔を合わせますから、このまま梨の礫で放っておきますと、何かと気まずいではありませんか。それでは大學も倶楽部へも行きづらくなりますから、ここはしっかりとお返事を認めるべきなのです。

 それに別段、故意にお返事しなかったのも、葉書に書かれてあります待ち合わせ場所に行かなかったわけではありません。私は実家に帰っておりましたので。年賀葉書の事を今日の今まで知りませんでした。言うところの不可抗力と言ったところでしょう。

 ですから、実家に帰っていた旨と少しばかりに謝罪の言葉を書いて筆を置きました。

 年賀葉書を見終えた私は、天井を仰ぎ見て、空虚な気持ちになります。それは鈴木先輩との懸案ではありません。行く行くは返事を出しますから、それなりに筋は通りますもの。

 新年そうそう、私の胸を空虚にしたのは……何を取り上げましょう勝太郎さんから年賀状が届いていなかったことなのでした。

   

      ◇       


 拘泥とするならば、乙女に年賀状を出し忘れてしまったことであろう。久方ぶりに、ただの友人として古平と相見えたわけだが、久方ぶりというのは誠に厄介であり、愉快に拍車をかけて痛快であると誤認させてしまうのである。そんな不抜けた私だからこそ、我が心のオアシスたる咲恵さんに新年ご挨拶状を出し忘れてしまうのだ。

 忘れていたのであるからして弁解のしようもあるまい。だからと言って、理由と言えば喪中くらいしか思い浮かばない。祖母しか存命していない私に祖母を亡きに言うはあまりにも忍びない。祖母には大恩もあれば幼少の頃よくしてもらった思い出もある。ご都合主義かくありきと言えども、それではあまりにも身勝手過ぎる。ご都合主義と身勝手は明確に異なるのである。

 ゆえに、私は寒中お見舞いを書き上げると、書き上がりほやほやの葉書を持ってポストへ走ったのであった。

 

      ◇


 大學が始まったと言うのに、どういう訳でしょう。実家より帰郷の文が何通も届くのです。それこそ、毎日ポストの中に入っているのですから、私は眉を顰めて、何がどうしたと言うのでしょう? 

 葉書には「すぐに帰ってきなさい」とだけ書かれてあるのです。

 私もはじめの何通かには「どうかしたのですか?」と返事を出したのですけど、これには一切梨の礫なのです。

 本日など、お手紙がポストに入っておりませんね、と思うと、電報が来ておりました。

それも『スグカエレ』とだけ書かれているのです。

「もう」

 私は机の上に散らばった封書と葉書、電報を見下げて溜息にも似た声を出して、しまいました。

 本日、ポストに封書は入っておりませんでしたけれど、葉書が入っておりました。そうなのです!勝太郎さんからの寒中お見舞いなのです。葉書には別段珍しいことは記されておらず、年始のご挨拶とご自愛の旨が記されてあるだけでした。

 年賀状ではなく、寒中お見舞いにて新年のご挨拶をされるのですから、昨年、ご不幸があったのですね。と私は納得いたしました。そうでなければ、筆まめな勝太郎さんが一年の始まりである年賀状を書き忘れるようなことがあるはずがありませんもの。

 それに、年賀状でも寒中お見舞いでも良いのです。とにかく、不可解な御手紙が私の心中を騒がせる昨今において、久方ぶりに胸の辺りがほっこりとしたのですから。

 一週間ほど、実家から帰郷の御手紙や電報が届き続けましたけれど、それ以後はぷっつりと静かなものでした。ですから、少し寂しくも思いましたけれど、それは間違った寂しさなのです。

 胸騒ぎも収まり、これでまた去年と同じ面白可笑しく大學生活をおくれますね。これで年始の慌ただしさも終息です。そう思っていたのですけれど……今年はそうも素直にいかなかったのでした。

「鴻池さん。事務の方が必死になって探しておられましたよ」

 本日は木枯らしも忙中暇有りとぽかぽか陽気でしたので、勝太郎さんから頂いたお気に入りのマフラーをして芝生の上に佇んでおりました。すると、教本を抱えた小春日さんが駆けて来てそう教えて下さったのでした。

「ありがとうございます。すぐに事務へ行って参ります」 

 何ごとでしょう。私はもしや単位のお話しだとどうしましょうかと内心はらはらさせながら、事務室へ向かうと。丁度出て来られた事務員さんに声を掛けました。

 すると、

「ああ、鴻池さん。探していたんですよ。ご実家から急ぎの報が届いています」

 そうおっしゃったかと思うと、矢のように電報の包みを私に手渡して下さったのでした。

「ありがとうございます」  

 包みを受け取った私は、お礼を申し上げてから、そっと後ろを向くと電報の包みを開けてみました。


 『ハハ キトク スグカエレ』


 電報にはそう書かれてあったのです。

 私は、はっとなりました。

 そんな、お母様が危篤だなんて……つい最近まで、元気でいらっしゃったお母様ですのに、そんな……危篤だなんて。もしかしたら、これまで連日と御手紙が来ていましたのは、本当にお母様が体調を崩されていたのを知らせるためだったのでしょうか……そして、私が無視をしている間に容態が悪くなってしまったのでしょうか……一週間も間がありましたから、容態が悪くなるには十分過ぎるではありませんか。

「どうしましょう」 

 私はなんと言う親不孝の娘なのでしょうか。母親の御手紙を無視しつづけて……何ということでしょう!!

 まだ講義が残っておりましたけれど、私は一目散に下宿に向けて駆け出しました。

「鴻池さん!どうかされたのですか」

 血相を変えて駆け出す私に「お荷物をお忘れです」続けてそうおっしゃりながら、小春日さんが駆け寄って下さいました。

「私どうしましょう」

 荷物の一切を忘れたまま家に帰ろうとしていた私です。まずはお礼を言わなければなりません。けれど、気が動転していた私はお礼の言葉も言えず、小春日さんの前でおろおろとして、何を思ったのか小春日さんの手提げを持ち帰ろうとしたのでした……

「鴻池さん。まずは落ち着いて、深呼吸をして下さい」

 そんな私の両手を握って小春日さんは、そうおっしゃって下さいました。

「母が……お母様が危篤なのです……」

 私は深呼吸をしてから、ようやくそう言えたのでした。

「まあ……それは急いで帰らなければ」

「はい」

「鴻池さん。気持ちを確かにお持ちなって、ご実家へ到着するまで気を抜いてはいけませんよ」

「わかりました。ありがとうございました」

 私は唇にきゅっと力を入れると、無言で頷いてから小春日さんにお礼を述べ、しっかりとした足取りで再び駆け出したのです。


      ◇


 取る物も取り敢えず、下宿を飛び出した私は、駅舎にて電車を一日千秋と待ち、車内では憂鬱と逼迫する面持ちに心中を慌ただしくし、実家の最寄り駅で下車しますと、矢継ぎ早。目に入ったタクシーに駆け込んで実家へまで向かいました。

「お母様!!」

 玄関のドアを開けるなり私は、誰よりも大きな声でそう叫びました。きっとお姉様が蒼い顔をして飛んで迎えて下さると思っていたのですけれど……

「あら、咲恵。お帰りなさい」

 とあっからかんとしたお母様が迎えて下さったのです。

「お母様……?お母様は危篤ではないのですか……?」

 私は変わりなくお元気そうなお母様の姿を拝見して、へなへなとその場に座り込んでしまいました。

 『ハハ キトク スグカエレ』と聞いたものですから、急ぎ馳せ参じたと言うのに。馳せ参じたと言うのに!

「おかしな子ね」

 とお母様は脱力した私を訝しみますものですから「お母様!どうしてそんな嘘をつくのですか!!私は!私は……お母様に万が一があっては……と心の底から心配したのですよ!!」と眼を潤ませながら再び大きな声を出しました。

 お母様と言えど……いいえ。お母様だからこそ、そんな嘘をつかれて憤る私の心中でした。けれど、私は激昂よりも安堵の怒りの方が勝っていたのでした。

「ああ……電報の事を言っているのね」

 お母様は今度こそ居心地が悪そうに私に向かってそうおっしゃいますと……「ここは冷えますから、こっちへおいでなさい」と私をサロンへ連れて行ったのでした。

 お母様はソファに腰掛けると熱い緑茶を淹れて下さいました。

「お姉様はいらっしゃらないのですか?」

 いつもは、お姉様がお母様のお相手をしてらっしゃいますのに、本日はお姉様のお姿が見当たりません。もしや、風邪などをめされたのでしょうか?と思ったのですけれど……

「瑞穂は一週間ほど、丹後の別荘へ出掛けているのよ」

「別荘ですか」

 当然ですが冬は凍えるほどに寒い季節ですから、温かく湯気の登る温泉が近くにあります別荘は居心地が良いのです。

「腰を痛めたお母さんをおいて、一人で行ってしまったのよ。瑞穂ったら白状なのだから」

 お母様は腰をさすりながらぼやくようにおっしゃいましたけれど……

「お母様、嘘は行けませんよ。お姉様は腰を痛めたお母様をおいてけぼりにするような、親不孝者ではありません」

「そうです。瑞穂が出掛けてから、痛めたのよ」 

「お母様。どうして、私にあのような電報を出したりしたのですか?」

「それは……その……」

 お母様は眼を閉じて何かを考えているような仕草をしております。私はそんなお母様を首を傾げながら見ておりました。

「お姉様がお出掛けになられて、お茶のお相手がいなくて寂しかったのですね」

 私は言いました。この家には今お母様と住み込みの家政婦さん二人と三人しかおりません。お父様は常に外で泊まってらっしゃいますし、上のお姉様方もすでに嫁いで家にはおられません。私が幼少の頃などは、随分と賑やかでしたのに……瑞穂お姉様がお出掛けでいなくなってしまったならば、お母様だけではこの家は広すぎます。ひょっとしたら……と思った私は、差し出がましくもそのように言ってみたのでした。

 すると、

「そうよ!実は、腰も痛くて身の回りに不便を感じていたの。こんな時に咲恵がいてくれればと思って」

 お母様は、思わず立ち上がってそのように言われました。

「それなら、そうと素直に言ってくださればすぐにでも帰ってきましたのに」

 私は少し寂しさあまって、私に電報や御手紙を送って下さったお母様が可愛く見えました。そして嬉しくなって、立ったまま私を見てらっしゃるお母様に「そのように勢いよく立ち上がられますと、腰に悪いですよ」と続けたのでした。

「あら、そうね。いたたた……」

 お母様はソファに腰を降ろされると、腰をさすりながらそうおっしゃいました。お母様はお茶目な婦女です。

 腰が痛いと言うのに、お着物の帯が邪魔で腰がさすれませんで、お尻の辺りをさすってらっしゃるのですから。お母様には悪いのですけれど、私は思わず微笑んでしまいました。


      ◇


「まあ」  

 私が自室へ戻ると、ベットの上に葡萄酒紅のお洋服が寝かされるように置かれてありました。生地を寄せてパフスリーブの袖口とアコーディオンプリーツ仕立てのスカートが特徴的なお洋服でした。

 しっとりと肌に吸い付くような、ですがそれでいてさらさらと肌触りの良い生地はきっと絹布でしょう。私は洋服を手に持つと、思わず頬擦りしてしまいました。

 きっとお母様が私に誂えて下さったのでしょう!! 

 私のお部屋には姿見がありませんでしたので、洋服を抱き締めるようにして持って私は部屋を出ると、急いでお姉様のお部屋へ向かいました。

 お姉様の部屋には大きな姿見がありますから、私はその前で身の丈に洋服を合わせて

色々と格好をつけて見ました。私には赤色が似合うと自他共に認めるところですから、心は弾むばかりです。それはもうゴムボールのように跳ね返っておりました。

 お洋服に皺がよってしまっては宜しくありませんから私は洋服を自室へ持ち帰るとその足でクローゼットへ収納しました。それからベットの上に寝転がると、是非あのお洋服を着て勝太郎さんとデートをしましょうと、あれこれと想像を膨らませる私なのでした。

 ドレスではありませんから、晴れ着にしても十分なのです。

 十分なのですけれど……十なのですけれど……

「私ったら……」

 私は思わず、頬に手をやっていやいやをしてしまいました。

 私と勝太郎さんは恋人同士でもありませんのに、デートだなんて……デートだなんて!

 デートとは恋人同士が仲睦まじくかつ面白愉快に一時を過ごすことを言うのです。私は勝太郎さんと御一緒の折はとても面白愉快な一時です。けれど、私と勝太郎さんは恋人ではありませんから…………やはりデートではないのでしょう……

 そう考え直すと、急に気持ちが沈んで行きます。そして、胸が締め付けられるように急に苦しくなるのです。

 私は勝太郎さんにとってどのような存在なのでしょうか。ご学友でしょうか。それとも友人でしょうか……もしも、勝太郎さんが私を好いて下さっているのであれば、きっと、愛ある言葉を告白下さるはずです。ですが、その言葉を頂けない限り私はやはりご学友なのでしょうね。

 婦女である私から勝太郎さんへ愛の告白をすることは憚らねばなりません。

「待たせても……待つ身になるな……」

 なんだかその意味がとても深い意味が理解できた気がしました…………

 天井を仰ぎ見るように仰向けになっておりますと、ふっと思い浮かんだのです。そう言えば、お母様はどうして私に新しい洋服など誂えて下さったのでしょうか?誕生日でもありませんし、クリスマスでもありません。大凡、洋服を頂く口実もなければ理由も思い浮かばないです。

 はてな?と思った私です。もしかして、お姉様が購入された品が間違えて私の部屋の中へ置かれてしまったのでしょうか。でもでも、それではおかしいのです。お姉様の洋服にして胸の辺りが厳しすぎます。ですから、どう考えても私用の洋服なのです。

 なんだか悔しい気持ちになりました。私用の洋服だと言うことはわかりましたけれど、胸の大きさでそれが明白となったことが、どうにもこうにも納得がいきません。いいえ、納得はいきますけれど。どうして、同じお母様から生まれた私とお姉様であると言うのに、こうも特徴深く違っているのでしょう。これは永遠の命題なのです!

 一時は顔を熱くした私でした。けれど、お母様も大事に至らずお元気でしたし、気苦労とばかりにいつの間にか微睡んでしまいました。このように心中穏やかに眠れることは本当に幸せなことですね。

 夕食の時間よりも少し早めに部屋を出た私は眼を擦りながら、一階へ向かいます。すると、

「咲恵、丁度良いところに、さあ住友さんがお待ちよ」と喜色満面とするお母様に手をひかれて訳がわからないままにサロンへ入ったのでした。

「これは咲恵さん。こんばんは、本日もお綺麗ですね」

 上座に座られておられました住友さんは私を見るなり、立ち上がるとお辞儀をしながらそうおっしゃいしました。

「これは……住友さん。こんばんは」

 私もご挨拶を、と思ったのですけれど、寝起きですし、お名前がすぐにでてきませんで、玉響の間をあけてしまいました。

 私はお母様に促されて住友さんの斜め向かいのソファに腰を降ろしました。腰痛で苦しまれているはずのお母様の嬉しそうな姿と言ったら。本当に腰を悪くされているのでしょうか?と首を傾げてしまうほどでした。

 住友さんは落ち着いた紺色のベストにボタンダウンを着てらっしゃいます。髪の毛はポマードでしょうか。シャンデリアの明かりにてかてかと光を返しておりました。一目見て紳士とわかりましたけれど……とてもお話し好きな方のようでした。

 母様がお茶を淹れて下さる前から、開いた口を一度として閉じないのです。いいえ、発音の都合上何度も口は閉じるのです。けれど、言葉が途切れる間がありません。その様子はまさにのべつ幕無しと言うに相応しいと思います。 

 時折「馬の乗り方をご存じですか」「海はお好きですか」とお聞き下さるのですけれど、あまりにも不意打ちですので、私は「存じておりません」「はい。好きですよ」と一言お話しいたしましただけで、後は愛想笑いと時々頷くだけでした。

 何でも、住伴さんはヨットが大変お好きなようで、夏などは九十九里浜近くの別荘にて多くの時間を過ごされ、また、一日中海を満喫されるのだそうです。 

 住友さんは喜々として話されますから、悪い気はしないのです。ですが、私の経験したことのないお話しばかりをされますし、失礼ではありますけれど、面白くもない話しを永遠と愛想笑いを浮かべて聞いているのはとても疲れるのです。私は何度も微笑みを浮かべて私と住伴さんを交互に見ますお母様に助け船を目線にてお願いしてみたのですけれど、ついに救いの船を出して下さることはありませんでした。

「住友さん。お話しの腰をおって申し訳ないのですけれど、少し失礼いたします。すぐに戻って参ります」  

 私は住伴さんのお話しを無理矢理に割り言って、そう言うと、早々にサロンを出たのでした。

 どうにも耐えられなくなった私なのです……どこに行くも、部屋へ戻るわけにもいきませんから、当然の帰結とお手洗いへ向かうことにしたのでした。

お母様はどうしてあのように嬉しそうなのでしょうか。

 私は洗面所の鏡に前髪が反り返った様を見て、顔を赤くしてしまいました。寝癖のまま殿方の前に出るだなんて……お母様が悪いのです。お相手が住伴さんであるにせよ、殿方が来られるのであれば、前もってお話し頂かなければ婦女にはそれなりの準備があるのです。

 お化粧はしないながらも、髪を梳いて、お洋服を直して、全ては乙女の沽券にかかわるのですから!

 私は今更ながら、手を濡らして反り返った前髪を撫でると、そのまま手櫛にて髪を整え、何度か顔を洗った後に、洗面台にもたれかかると、どうにかこの間に住伴さんがお帰りにならにでしょうか、とあらぬ期待を抱いてみたり玉響も佇んでおりました。そして、ゆっくりと牛歩の歩みでサロンへと戻ることにしたのでした。

 もちろん溜息は忘れません。忘れませんでした。けれど心中をすぐに顔に出してしまうと言うのは宜しくありませんから、想いのまま安易に溜息をついてはいけないのです。ですが、私はそう思った次の瞬間には溜息をついておりました。廊下にの柱時計を見たかななのです……私からすれば、もう小一時間はゆうに経っているでしょうと思っていたのですけれど、実際には半時ほどしか経過しておりませんでした…………

 時間の経過とはとにかく不思議なものです。政治学や古典思想学など難しい講義やお父様にお説教をされている時などは、忌々しいほどに時間が過ぎるのが遅いくせに、勝太郎さんとお話ししている時やデパートへお買い物へ言った折などは驚くほど早く過ぎ去ってしまうのです。それはもう悔しいほどに!!

「あの子は幼い頃から内気な性分でして。殿方に声も掛けて頂けませんから、住伴さんのような方がぴったりですわ」 

 サロンのドアノブに手を掛けますと、そのようにおっしゃるお母様の声が聞こえてきました。

 どうして、住伴さんが私とお似合いなのでしょうか?会話とは言葉のキャッチボールと存じております。ですが、住友さんはご自身の事をひたすらにお話しになるだけで、私ののことなど一切お構いなしです。それを言ってしまえば、私とて勝太郎さんとお話しの折りは勝太郎さんよりも私が喋っている方が長いですけれど……けれど……勝太郎さんはそれでも微笑んで嬉しそうに聞いて下さいますもの。

 私は内気ではありません!!それに、殿方に声を掛けられたことだって数多ありますもの!!数多と言えば、少々仰々しいですけれど、鈴木先輩にも喫茶へお誘いを頂戴いたしましたし、勝太郎さんからも何度となく喫茶にお誘いされておりますもの。内気ではなく、私は慎みのある婦女なのです。淑女たるを目指す私ですから、無闇矢鱈と殿方のお誘いを受けるわけにもいきませんし、まして私の方からお誘いをするなど憚らねばならないのです。 

 それでも、莫逆と勝太郎を喫茶にお誘いしたことのある私ですから、胸を張って言いましょう。やはり内気ではないのです!!


      ◇


 住友さんは日が暮れてからもお帰りになられませんでした。そして、夕食を私とお母様と共にして、迎えの車が来たのは宵の口過ぎの8時頃でした。

 「ほら、咲恵。住伴さんを送りしなさい」お母様がそうおっしゃいましたので、私はぷりぷりした内心をひた隠しにして、住友さんを玄関までお送りいたしました。

 ようやっと頸木の一日が終わりますね。私が今にも気が抜けてしまいそうになっておりますと、

「それでは咲恵さん。お名残おしいですが、吉日の折にまた」と住友さんはなんだかとても嬉しそうにそう言い残して自動車に乗り込まれたのでした。

「ふう」

 私は車の明かりが見えなくなってからようやく、お腹の底から深く息を吐き出しました。

そして脱力して両腕をぶらりと垂れ下がらせると、まるで糸が切れてしまった操り人形のように首をだらりと下を向いたのでした。

「咲恵。本日はとても楽しそうだったじゃないの。住友さんは良い人でしょう?」

 腰痛のためでしょうか、お母様が遅れて来られました。

「悪い人ではなさそうですけれど、とても疲れました。それに、私は『内気な子』ではありません!」

 私は語尾に近づくにつれて口調を強くしてお母様にそう言ってから、呼び止める声にも振り向かず、頬を風船のように膨らませて大股で自室へと向かったのでした。

 半日ほど留守にしていただけですのに、随分と懐かしく感じられます。私はベットの上に飛び込むと、天幕を見上げながら、口許をもごもごしました。それはもうチューインガムを噛んでいるように……ずっと微笑みを浮かべていましたので、すっかり口周りが凝り固まってしまったようです。

 私は夕食の折を思い出して、浅い溜息をつきました。少々のお喋りでしたら、よろしいのですけれど……あそこまで矢継ぎ早に話しをされますと、お料理も口の中に入れられません。本日の献立は私の好きな、伊太利風オムレツにとうきびスープでしたのに……眼を見ずにお話しを聞くの失礼ですから終始味わって頂くことができませんでした…………お母様の腰痛を労って実家に止まっておりましたけれど、お母様の様子を見ますに別段、腰を労る仕草もなければ普段よりまして元気そうですから、私がお姉様の代わりに居る必要もなさそうです。

「帰りましょう」 

 私は明日。下宿へ帰ることを決めたのでした。


       ◇


 今日も晴れた。窓をかたかた言わす北風ぴいぷうなれど、空だけを見れば天気晴朗とかく温かそうであった。これにはうっかり薄着で鼻歌など歌いながら外に出たくなる。ところがどっこい、外に出た途端に冬将軍の猛攻にあって這々の体でもって部屋に逃げ帰らなければならない羽目になってしまうのだからこれは大自然による巧妙な罠であり、阿呆なる人類への挑戦であると私は言いたい。

 そんな本日も私はと言うと万年床に潜り込んで、蒼天を見上げながらがたがたと震えていた。照明用のランプを唯一の暖房器具とし、ここ数日をしのいできたのだが、油の残量からすれば、倹約を心懸け氷点下へ近づく深夜にこそ、これを用いるべきであると、昼間はひたすらに内燃力にて暖を守っているのである。

 真冬これ極まりと朝方は氷点下まで下がる昨今。私などはさながら冬将軍団の通り過ぎるのを地中にて願い祈る鼠のようだ。

 もちろん鼠などではない私だったが、春の女神の到来を一日千秋と切実に待ち侘びているのは実である。

 寒中見舞いを出してから数日が経ち、乙女からの返信は未だ無い。これ以後、桃や柿が実を付ける頃まで待っても返事はないだろう。

 しからば、再び喫茶へのお誘いの手紙を認めなければならない。きっと、乙女は今まで同様に二つ返事でこれを了承してくれることだろう。私には自信があった。阿呆漢であるがゆえの無実の自信ではない。去年のクリスマス、それはもう私は乙女とこのまま絶縁してしまうのだと信じて疑わなかった。その余地すらもなかったわけだが、運命かはたまた運命だろう、乙女と再会を果たすと、前にも増して乙女と親密になれたのだ。雨降って地固まるとはまさにこのことを言うのだろう。

 私は阿呆である。だが『分』は弁えているつもりだ。いかに親密になろうとも、咲恵さんは私の憧れの女性であり、友人であり……いいや学友であり……学友であり……学友なのだとおもう。

 私は咲恵さんのことが好きだ。心底惚れている。姿見に惚れた私はもしも、お近づきになれたならば、少々の高慢も傍若無人も我慢するつもりであった。恋の前に人を盲目なのであるからして、骨の髄まで差し出す所存でもあった。金持ちの婦女とは往々にしてそのような性格揃いであると思っていたからである。

 だが、鴻池 咲恵と言う婦女は真面目であり、慎み深く、それでいて溌剌と幼少期の武勇伝を語り、莞爾としてよく笑うのである。私は喫茶の席を御一緒した際、そんな奥ゆかしい咲恵さんに再び惚れ直してしまった。姿見の可憐さに、その真善美に、と二度も惚れてしまった私は、文字通り咲恵さんの虜なのである。

 なのにどうして私は乙女に愛の告白をできずにいるのだろうか。何を今更…………私は男子たる気概を持っている。持っているつもりでいた……男子たるは!男子たるは!慕う婦女に捨て身で愛の告白をしてその後、玉砕してを覚悟して然るべきなのだ。

 しかし、私にはそれが途轍もなく恐ろしい。この世に数多と蔓延る疫病や悪よりも余程恐ろしい……

 きっと、ここで玉砕してしまえば、咲恵さんのような良目な婦女に出会うことはないだろう。いいや、無い。これだけは絶対である。だから、こそ、仮初めの夢を楽しむかのように乙女と面白可笑しくお茶を飲みながら、散歩をしながらの語らいの一時を楽しむに終始し、その先に踏み出すことも踏み入ることもしないのだ。

 なんと意気地のない私だろう。

 愛の告白を成功させた男達よ私にその爪の垢を少しばかしわけてくれ。さすれば塵も積めればと山のようになった爪垢を私は丼に盛って食い散らかして、ようやっとめでたく玉砕するほぞを固められる。

 やはり情けない私である。

 せめても、乙女が私のことをどのように思っているのかがわかりさえすれば……私はそこまで考えて笑ってしまった。我ながら面白いことを言ったものである。そのようなことがわかるのであれば、誰しも恋の繊細微妙な駆け引きに煩悶とすることなく、百戦して危うからずであろう。

 そして、その方法を編み出した私は死してなお、世界中の男と言う男達に語り継がれ、文字通り伝説となって生き続けることだろう。

 私はどうしようもない阿呆である。

 私は今一度笑った。

 意気地がなく情けもなくとどめに生粋の阿呆とくれば、もはや笑うしか他にあるまい。

「待たせても待つ身になるな」

 これは婦女にこそ相応しい言葉である。男子たるが婦女からの告白を待つなどと、生涯の恥とせねばなるまい。とは言え、とても意味深い言葉であることは私にも理解出来た。

 煌々と照る太陽の傍らに虹色を宿す、幻日を見上げながら私は思った。咲恵さんにとって私はどのような存在なのだろうか……と。


       ◇


 次の日の朝食の折、私が下宿へ帰る算段をお伝えしますと「お母さん咲恵が居てくれるから安心していたのに……」とお母様はフォークを落とされました。

「でも、お母様は普段と変わらずお元気ですから、私が居なくても良いと思いますよ」

「そんなことを言わないで。あなたは下宿で一人きりですから、一人の生活に慣れているかもしれないけれど。私ここ30年と娘に囲まれて生活してきたのよ。なのに、突然誰もいなくなってしまうなんて、これほど寂しいことはありません」

 お母様はフォークを拾うこともなく、今度は着物の裾で目元を拭う仕草をなさります。

私は、お姉様方が家を出られたのは全てお母様とお父様のせいではありませんか。頭の片隅でそう想ってみましたけれど、「わかりました。お姉様がお帰りになられるまで私はおります」と言いながら、お母様の元へ駆け寄ると床に落ちたフォークを拾い上げながらそう言いました。

「咲恵は優しい子ね」 

 お母様はそうおっしゃいましたけれど……

 親孝行とは親が元気なうちにしてくべきですし、元気に存命している時にしかできませんから、やはり私は実家に残った方が良いのでしょうね。

「それはお母様の娘だからですよ」

 私はお母様の肩を抱いてそう言いました。するとお母様は私の腕に手を重ねて、「ありがとう」と優しく言うのでした。

 その日はサロンでお母様とお話をしながら、刺繍や読書をしておりました。それはまるで、瑞穂お姉様とお母様が過ごされている一時のようでした。私などはいつも思いついたようにサロンに入ってはお母様とお姉様を騒がしているだけでしたから、少し大人になった面持ちなのです。この日ばかりはお母様も時折微睡んだり、紅茶を頂いたりしております。なんともゆったりとした一日でした。

 ですが、次の日の朝です。私が刺すような寒さにかまけて、ベットから出られずに毛布と羽毛布団にくるまっていつ起き出しましょうかと思案しておりますと、何やらドアの外が騒がしいのです。

 私は何ごとでしょうか?と上着を羽織ると恐る恐るドアを開けてみました。すると、お母様とお姉様の声が聞こえるではありませんか!!私は裸足のまま廊下を走ると、階段を降りにかかりました。

「瑞穂、随分と帰りが早いじゃないの。帰りはまだ一週間先だったはずじゃない」

「あら、お母様。その口振りからすると私が家にいてはいけないようですわね。別荘は大変居心地がよろしかったけれど、やっぱり、実の家が一番落ち着きます」

 お姉様は大きな旅行鞄を床に置いて、口調を強めておっしゃっております。何か怒っているのでしょうか。

「お姉様、おかえりなさい」

 階段から下りがけに私がそう言いますと、

「咲恵……それに、咲恵もいるみたいだしね」

 慈しむように私をの顔を一瞥して、やはりお姉様は目元を鋭くしてお母様に言うのでした。

「お姉様ったら、怒ってらっしゃるのですか?」

 大股で廊下を歩くお姉様に遅れ気味に後を追いながら私がそう言いますと「さあ、入って」とお姉様は自室のドアを開けるのです。

 私は言われるままに、お姉様の部屋に入りました。お姉様はドアを後ろ手に閉めると、「大丈夫よ。大丈夫。咲恵には私がついているからね」 

 陽気な私の姿を見て、お姉様は安堵の息を吐きながら首を傾げる私を抱き締めたのでした。それはもう強く強く……

 まるでお姉様は私に言い聞かせるように言うのです。

 大丈夫と言って頂けるのは嬉しいのですけれど、やはり首を傾げてしまう私です。ですから「お姉様、私は大丈夫ですよ」と呑気にお答えするに止まりました。

 お姉様と一緒にサロンに行きますと。丁度、お母様が受話器を置いたところでした。

「お父様ですか?」と聞く私に「ええそうよ。今晩お帰りになるそうよ」お母様は取り繕うように慌てておっしゃいました。

 お父様はお忙しい身の上でして、月に一度家に帰って来るか来ないかですから、本日はとても珍しい夜となるでしょう。私は久々に家族揃っての夕餉になりますね。と喜んでいたのですけれど、私の傍らに腰を降ろすお姉様はどこか白けた表情でした。

 けれど、お姉様は普段通りお茶目で優しいお姉様に戻っておりまして、私の紅茶に砂糖を多めに入れたり、私のクッキーを取ったりと悪戯な微笑みを浮かべながら私に意地悪をするのです。その度に私はお姉様に抱きついて「私のです!」とじゃれるのでした。なんて楽しいのでしょう!やはりお姉様がいなくては楽しくありませんね。昨日のように静寂と落ち着いた一時を過ごすのもたまには良いです。ですが、私は子供のように愉快にお姉様とじゃれあって居る方が好きなのでした。

 淑女への道は遠いです。

 お母様のおっしゃった通り、お父様は夕餉前の夕暮れに帰ってらっしゃいました。私とお母様とお姉様でお出迎えします。どうやらお父様はご機嫌が宜しいご様子で「ただいま」と言いながら、お姉様と私と順に頭を撫で、そして最後にお母様の頬に唇を触れさせるのです。

 微笑ましい光景です。お帰りなさいのチューというものですね。私も密かに憧れておりますから、婚姻の後は殿方に行ってらっしゃいとお帰りのチューをして差し上げたいと思うのです。

 本日はお父様もお母様も上機嫌でした。お父様は夕食の前にどこかに電話をかけていらっしゃいましたけれど、時折笑い声を聞きましたから、やはり機嫌がよろしいのですね。と私まで嬉しくなってしまいました。

「咲恵。住友さんは好青年だろう。性格もお前に合ってる」 

 夕食折、お父様は急にそのようなことをおっしゃいました。

「悪い人ではないと思いますけれど……」

 住友さんは悪い人ではありませんけれど……けれど、私とは相性が良いとは思いませんでした。まだ片手の指の数もお会いしておりません。ですから、断言するのは早すぎます。ですが……第一印象でなんとなく感じてしまうのです。住友さんは私の嫌いなカネモチの香りがするのです……そうです。私と同じ世界に生きる方なのです。

 決して貧乏が好きと言うわけではありません。ただ、世の中にはお金ではどうにもならない、決して手に入ることのない、また、金剛石よりも美しい一期一会が沢山あります。例えば四季の移ろいに際して、命燃やして萌ゆる草花。空と太陽と雲が織りなす造形美。これらは毎年として、その瞬間としてまったく同じ姿をしておりませんから、まさに一期一会。私はそのすばらしさを語り合える。共有できる方が良いのです。

 どこへでも自動車に乗って……何でもお金で買えば良いと言う発想は嫌いです……それに、別荘に行かなくても、素敵な場所は幾らでもありますもの。夏祭りの生駒神社や、昼下がりのフロリアン。小春日和の柴の上。

 それに、私は乗馬もヨットにも乗ったこともありませんし、興味はないのです。笑われてしまうかも知れませんけれど、グリム童話集を読んだり、大好きな林檎のデッサンをしたり、お祭りへ出掛けて林檎飴を買ったり、はたまた、三条通へ出掛けては葡萄酒を頂いたり…………幼少の頃より何不自由なく、育てて頂き、まして欲しいと思えば大凡の物は手には入ってしまいます。

 私はそんな幸せが嫌なのです。

 それなら、勘違いからすれ違いもう笑ってお会いすることはないかも知れません。そう諦めていたにも関わらず、クリスマスに勝太郎さんと出会うことができた。そんな偶然の幸せが……欲しいのです!わがままに欲張りだと言われてしまうでしょう。でも、それでも!私はその幸せが欲しいと思ってしまうのです……

 嫁いで行かれたお姉様方も、きっとそう望んでいたに違いありません…………

 その後、毎日のようにお父様はお帰りになられ、一家団欒と夕食や茶を楽しみました。

ですが、お母様もお父様もどことなく忙しなく、それをお姉様は怪訝そうに見つめられるのです。いいえ。はっきりとそのようにされているわけではありません。見ている私がどことなくそう感じているだけなのです。

 そんな日が数日続いてたとある夕餉。お母様は確信の笑みを浮かべながら「咲恵。明日住伴さんがいらっしゃるから、粗相の無いようにしてね。そうそう、貴女の部屋に用意しておいた赤い洋服を着なさいね。咲恵には赤色がよく似合いますから」

「わかりました」

 私はそれだけお答えいたしました。本当は勝太郎さんとの喫茶の折に着てみましょう。と思っていたのですけれど、お父様もおりますから勝太郎さんの話しをするわけにはいきません。

 ですが、どうしてでしょうか。私がそのようにお返事をしましてから、すぐにお姉様が「私はもう失礼します。ごちそうさまでした」そう言うと、まだ半分もお料理が残っておりますのに、席を立って出て行ってしまわれたのです。

 「瑞穂、お父様の前でお行儀が悪いですよ!」お母様のそんな声すらも完全に無視をしたのです。

 次の瞬間にお父様の怒号がお姉様に向けられるでしょう。と私は思わず耳を塞ぎましたけれど、恐る恐るお顔を見ますに眉を顰められているだけでした。

 私はほっと胸をなで下ろしましたけれど…………お姉様は一体どうしてしまったのでしょうか…………その日の夜は、お風呂の後にお姉様のお部屋へ入れてもらおうと思ったのですけれど、ドアには鍵がかかっておりましたし、何度ノックをしてもお返事がありませんでした。 

 

      ◇


「咲恵。何をゆっくりしているの早く支度をなさい」 

 翌朝。私の朝はそんなお母様の一声で始まりました。眼を擦りながらベットの上で伸びをした私はお母様の出で立ちを見て驚きました。どうしてでしょうか?お母様は山茶花をあしらった西陣織の晴れ着を纏ってらっしゃるのです。萌葱色の帯締めは季節の移ろいをお着物にて表現しているようでした。

「お母様。どうして、晴れ着なのですか?何かおめでたいこともあるのですか」

 私がそうお聞きいたしますと。

「今日は住友さんが来られるのよ」

「それは存じておりますよ。昨日聞いておりますから」

 ですが、少しばかし仰々しいのではないでしょうか?以前はお母様も普段着でらっしゃったと言うのに……

「本日は住友さんのご両親も来られるの。だから、早く準備を整えてお出迎えなさい。住友さんのご両親に悪く思われでもしたらどうするのですか」 「どうして、私が悪く思われたら、いけないのですか?最近お母様はそわそわとしておいでですけれど、私に何かを隠しておいでではないのですか」

 私はベットから降りると、そう言いながらお母様の元へ歩み寄りました。ここ一週間ほど胸の内では首を傾げ続けて来たのです。ですが、確信もありませんでしたり変にお母様を疑うのはしたくありませんでしたから、別段口に出すこともしませんでした。

 けれど、今朝ばかりはそうは行きません。思い返せば、去年のクリスマス前に開催された懇親パーティの頃から、お母様は住伴さんの名前を事ある事に出しますし、特に用事もありませんのに住伴さんを招待したり…………お母様が何を考えているのかはわかりかねましたけれど、私などお姉様もお帰りになられたことですし、今日明日にでも下宿へ帰ろうと算段していたのです。

「あら、お母様ったらまだ咲恵に話していなかったの?」

そう言うと、同じく晴れ着を着たお姉様が部屋に入って来ました。桃色のスカートに胸元にプリーツのブラウス。そしてそれを意識させる上着を羽織ってらっしゃいます。ブラウスのプリーツですのに、まるで宝石飾りのように煌びやかに見えてしまうから不思議でした。私から見ても大変お綺麗で優美な着こなしをなさいますお姉様は本当に淑女なのです。

「瑞穂」 

「お姉様どういうお話なのですか」

 私はお姉様の元へ駆け寄ってそうお聞きしました。

 すると、

「今日は咲恵と住友さんのお見合いの日なのよ。もう、お父様とお母様は咲恵と住伴さんの縁談を了承されているようだけど」お姉様はお母様を横目で見ながらそう言うではありませんか…………私も無言でお母様の顔に首を向けます。

「瑞穂、後はあなたに任せます。急いで着替えて支度をさせて」

 眼を見開いたままお母様の顔を見つめます私の視線を逸らすように廊下の方へ向き直ったお母様はそれだけを言うと、部屋を出て行ってしまったのでした。

「そんな……そんな……」

 私はこれは夢ではないでしょうかと……いいえ白昼夢です。と真っ白になってしまった頭の片隅でそう思い込むと、何も言えず口をぱくぱくとさせてお姉様に懇願の眼差しを向けながら、その場に座り込んでしまったのです。

 それから何が何やらわけがわかりませんでした。実を申しますと意識もあれば、鏡の前の自分がお母様が誂えた赤い洋服に袖を通し、お姉様が髪に櫛をいれてして、口紅を塗っているをただじっと見つめていたのでした。

 さながら、物言わぬ人形のようになってしまった私は、現実を完全に受け止められずにいたのです。私がお見合いだなんて……その上、お父様とお母様がすでに了承しているんどえあれば、それはもう私が住伴さんと婚約を交わすも同意味ではありませんか。お姉様は言いました。『私よりも咲恵の方が危ないわよ』と……そして、いずれのお姉様方も今の私と同じ頃合いで婚約をしたと…………私はそんなことが私の身に降りかかるなど思いもしておりませんで、私は毎日大學にて小春日さんや倶楽部の方々と語らい汗を流し、時には勝太郎さんと面白愉快な一時を過ごしていたのです。そうです、ささやかで平凡ですけれど、私は幸せでした。ああ、楽しい。愉快です。と胸の辺りがほっこりと温かくなる、そんな穏やかな幸せの日々だったのです。

 なのに……なのに……本日住伴さんとお会いしてしまいますと。そんな幸せの日々が音を立てて崩れ去ってしまいます。きっと何もかも崩れ去ってしまうのでしょう…………私はようやく、お姉様方の切なる心中をこの身を以て知りました。この気持ちはなんでしょう。何も無いのです、悲しみや後悔さえも何もありません。もしかしたら……この気持ちこそが絶望というのかもしれませんね。

 婚約をしてしまえば、もう勝太郎さんと御一緒に楽しい時間を過ごすことはままなりません。お別れを……お別れの御手紙を書かなければならなくなります……大學もやめます。

小春日さんや勝太郎さんと顔を合わせるのは辛すぎます。

 いつか、婚姻をして子供を授かりたいと思っておりました。夢でもありました……けれど……だけど……こんな婚姻を夢見いたわけではありません!恋をしてお互いをよくよく知り合って、そして、この人であれば全てを捧げられる。そう想えるほどに愛おしい殿方と結ばれたかった…………なのに……それなのに……

「咲恵。咲恵!」

 私は我に返ったようにはっとなりました。そして、無言のまま後ろに立つお姉様の方を向きました。

「泣いていてはお化粧ができないわ。全て流れてしまうもの」

 お姉様はそう言いながら。ハンカチで私の目元を拭って下さいました。

「私は泣いているのですか…………」

 私は涙に気が付いておりませんでした。胸ははち切れんばかりに苦しく、こんな苦しみに耐えるくらいなら、全て残らず吐き出してしまいたい面持ちでした。けれど、涙は流した覚えはなかったのです。

 お姉様に言われるがまま、手を目元へやってみますと、温かい滴があたるではありませんか……

 私は本当に知らぬ間に涙を流していたのでした…………


      ◇


 涙が枯れ果ててから、お化粧を施したお姉様は視線でのみ助けをこう私の姿を何度も振り返り身ながら部屋を後にされました。

 私はいち早くドアに鍵をかけると、ドアに背つけてそのまま座り込みました。頭の中がまるで強力な太陽の光に焼かれてしまったように真っ白です……本当に……何を考えようとしてもただどこまでも真っ白なだけだったのでした。

 膝を抱えて小さくなってみても全身に走る悪寒と足はずっと震えているようです。いいえ、もう感覚すらありません。もしかして、足が消えてしまったのでしょうか……などと、思たりもしましたけれど、もう、そのようなことはどうでもよいのです。

 ふいに手の平を見やると、全身に悪寒にのみ支配されていると言うのに、どうしてか汗をびっしょりとかいておりました。

「このままどこかに行ってしまいたい……どこでも良いから…………」

 お見合いをしなくて済むのであれば、たとえ地獄でも構いません。私は喜んで地獄へ行くことでしょう。これは悪い夢……できることなら、眠りについて目覚めたい。寒さに身を縮こませる朝でもいい。全てが夢であったと安堵したい……

 勝太郎さんなら……勝太郎さんなら、例え私が地獄に身を潜めていたとしても、わざわざお会いに来て下さると思います。勝太郎さんはそう言う殿方ですもの。

「勝太郎さん…………」

 私は膝に顔を埋めて呼びました。助けに来て下さい。と…………

 もうどれくらいの時間が経ったのでしょうか。柱時計の振り子が振れる度に私の震えの度合いは増してゆき、いつしか、歯が触れ合って下品にもかちかちと音を立てておりました。

 下品です。誰にも見られていなくとも、淑女を目指す私ですから、慎み深く憚り正さなければなりません。ですが……それさえも、もうどうでも良くなってしまいました。もう、誰に下品な婦女であると後ろ指を指されようとも構いません。もう、そんなはしたない姿を見られて恥じらい殿方との交流もありませんでしょうし…………どうせなら、婚約するまえに三行半を頂戴したいと思うのですから。

「咲恵。いるのでしょう。開けなさい、住友さんがご到着よ」 

「咲恵は何をしているんだ」

 ドアを叩く音と、ドアノブを回す音……そして、お母様とお父様の声。

 随分と前から聞こえていたような気もしますけれど、聞きたくもなければ聞こえないことが私の願いです。だから、今の今まで聞こえなかったのかもしれません。

「ドアを壊しても構わん!とにかく、早く連れ出せ!このままでは面目が立たん」

 遠のいて行くお父様の怒号。

 私ははっとなって埋めていた顔をもたげると、何ができるわけでもなくただ部屋の中を右往左往しておりました。このままでは、お見合いの席に強引に連れ出されてしまうではありませんか。

首を激しく左右に振っていますと、窓の外にハンチング帽を被った人影が眼に入りました。

 出で立ちからしますと、庭師の方でしょうか。

 その方はくりくりっとした瞳を輝かせ、悪戯な口許を私に向けながら窓を開けるようにと促します。私は驚きましたけれど、次の瞬間には窓へ駆け寄ると施錠をはずしてめいいっぱい開け広げたのでした。

「お姉様」

 そうなのです。庭師に扮していたのはなんと瑞穂お姉様だったのです。

「さあ、この梯子を使って外へ」

「でも……」

 私が窓から下を覗いて躊躇しますと、

「お見合いを受けたいのならこの部屋に残りなさい」眉を顰めてそう言うとお姉様は先に梯子を降り始めてしまいます。「待って下さい」私は迷っている場合ではありません!とドアの鍵がいつ壊されるとも知れない不安を抱きながら梯子に手を掛けたのでした。

 梯子はスカートで降りるものではありませんね。少し風が吹きますと、ふよふよとスカートが靡くものですから降りにくいことと言ったら。強風など吹きますと凧のように吹き飛ばされてしまいそうです。

「お姉様は、私のお見合いをご存じだったのですか?」 

お姉様が置いて下さいました靴を履きながらそうお聞きしますと、

「いいえ、急にお母様が気分転換に別荘へ遊びに行ったら?と進めてきたものだから、何かあるわね。と思っていたのだけれど……翌々思い出したら、上のお姉様がお見合いをさせられる前も同じことをお母様が言っていたことに気が付いたのよ」と腕を組んで口を『くの字』にさせました。

 だから前触れなしに早く帰って来たの。と続けておっしゃいます。

「でも、今朝はお姉様も私の縁談を進めていたはずですよ。着付けやお化粧など……」 

 私は、ほっと胸をなで下ろす傍らでお姉様にそう言います。

「あんなのお芝居よ。どうせ真っ向から反対してもお父様にやり込められるだけですもの、だから嘘をついたのよ。敵を欺くにはまず味方からってね」

 お姉様はそうおっしゃいながら、鼻息を荒くして胸を張るのです。

「そうだったのですか……私はてっきり、お姉様も味方になってくださらないのだと、思いました」 

 胸を張ってそうおっしゃいますお姉様の言葉に、今度こそ深淵から胸をなで下ろした私は、思わず両手を胸のところへやりながら、深い息を吐いてしまいました。

「何を言っているの。私はいつだって咲恵の味方よ。私の可愛い妹ですもの。さあ咲恵、今はとにかく逃げるのよ」

 微笑みを浮かべてそう言い始めたお姉様でしたけれど、途中から目元を鋭く真剣な眼差しをもって、ご自身の御財布を私の手に握らせてたのです。

「お姉様は一緒に来ては下さらないのですか……」

「私まで一緒に逃げてしまったら、迎えに行く人間がいなくなってしまうもの」

 とお姉様は私の肩に手を乗せて、そう言ってから「折を見て必ず迎えに行くわ。どこにいてもね」とおっしゃって下さったのでした。

「はい。お姉様ありがとうございました」 

 今は使われていない裏口の前でお姉様にお礼をいいました。

「お礼なんて言っている場合ではないわ。それにそれじゃ、今生のお別れのようじゃない。さあ、早く行って」 

 辺りに気を配りながら、耳元でそう言うお姉様に私は無言で頷くと、

赤さびの浮いた重い鉄製の扉を少し開いて屋敷の外へ逃れたのでした。 

 私はまず、最寄りの駅を目指して歩きました。もちろん、実家以外に難を逃れられる場所と言えば、下宿しかありません。ですから、私は下宿へ向かったいたのです。

 ですが……駅舎の影が見えて来たころになって、少々不安に駆られてしまいました。もしも、すでに私の部屋の鍵が壊されたのであれば、私がいないことが知れてしまっていますから当然の帰結として、家の者が辺りを探して回っていることになります。でしたら、駅でのんびりと列車を待っていては、すぐに見つかってしまうではありませんか……

 私は足を止めると、駅舎を遠くに見ながら、佇む人々さえも疑心暗鬼を生ずと家の者ではないでしょうか。と疑ってしまいます。

 それに、私は逃亡の身の上だと言うのに紅く目立つ装いなのです。ですから、余計に人前で堂々としている訳にもいきません。私は駅に行くことをやめて、長屋通りを抜けて随分と遠回りしてから、線路に沿って設けられてある道を歩くことにしました。

 いつもは帰郷のおりに車窓から見ている景色です。いつかはのんびりとお散歩をしてみたいですね。と思っておりましたけれど、まさかこんな形で歩くことになろうとは想像すらできませんでした。

 見渡すが限りの田園。季節が違えばきっと萌ゆる緑に蝶々などが飛んで麗らかな日差しと相俟って、それはそれは和やかな一時を過ごせることでしょう。思わず足取りも軽やかにお気に入りのカノンの旋律を鼻歌にて奏でながらスキップなどをしていると思います。

 ですが、今は冬真っ盛りですから、それは遠く遠く。洋服しか着ておりません私は肌寒くて仕方がない有り様なのです。

 私はお散歩が好きですから、歩くことは好きなのです。けれど、駅にして三駅分も歩きますとさすがに疲れてしまいます。途中、何度も石の上に腰を降ろしたり、木材の上にて休憩をするのですけれど、動いていないと寒くて仕方ありません。そして、朝食を食べていないことも相俟って、余計に寒いのです。ですから、長く休んでもいられませんでした。

 それでも、私は歩かなければならないのです。歩かなければ、進まなければ下宿へ行くことはできません。

「いつの間に」

 農作業小屋でしょうか、漬け物石の上に腰を降ろしますと、いつの間にやら、足や洋服に土汚れが付いてしまっています。雨も降っておりませんのに、摩訶不思議なことですね。

 塗炭を貼り付けてある壁に背を保たせます。背中が途端に冷たくなりましたけれど、それでも少しは楽になることができました。脹ら脛をもみほぐしてまた歩き始めます。

 この分だと歩いていては今日中に下宿へ到着することは難しいでしょう。

「ふう」

 遥か山の麓まで続いている、真っ直ぐな道の先を見て私は溜息をつきました。でも、進まなければならないのです。

 お見合いをしなくて済んだのです。恋心を抱きもしない殿方と無理矢理契りを結ばされずに済んだのですから。私は後悔など微塵もせずにただ歩き続けるのです。

 そして!下宿のふかふかで温かいベットの上で明日一日中、眠り続けるのです!!


      ◇      


 今日は朝から珍しく私の部屋に来客が連続した。古平がいやらしい笑みを浮かべながら、なんと小春日さんを連れてやって来て、これからデートであると自慢をしたついでに田舎から送って来たと、乾燥昆布の束を置いて帰り、それから半時も経たないうちに西村がやって来たのである。  

 西村は定番のカステラと道すがら買ったと言う焼き芋を土産に持ってやって来て、間髪入れずに「筒串。俺はお前のように気高く長いものに捲かれない男として生きて行こうと思う!」と今年の抱負と土産のカステラと焼き芋を置いて帰って行った。

 呼びもしないのに……特に古平に至ってはこれ見よがしに可愛らしい小春日さんを私に

見せつけたあげく。私の貧乏臭の立ち込める部屋を嘲笑ったあげく、小春日さんの手をとって帰って行った。嘲笑ったことは乾燥昆布に免じて許してやろう。しかしだ、小春日さんが居る手前、質素な部屋と少しばかしの気を使い、言い替えられんのか。

「むう」

 自分で言っておいてなんだが、古平にそのようなことを望むだけ無駄であった。海にバケツで水をまいて、塩加減を薄めようとするに同義語である。

 しかし、乾燥昆布とカステラ、焼き芋を机の上に並べてみると。なんとも微笑ましい面持ちとなった。これで一週間は飢えずにすむばかりか、底冷える台所に張り込む必要もないのである。

 私はこの微笑ましい風景に久方ぶりに腹に力を入れ腕を組んで、笑みを携えて見つめて

いたのであった。

 とは言え、悠久は叶わず玉響至福をはんだ私は、足先が冷え込む前に我が愛すべき万年床の中へ潜り込んで暖を取ることとした。この部屋は木造住宅の一室でありながら、冬場は熱を抱き留めておかず、ただ季節に従順であり梅雨には黴の温床となり、夏は噎ぶような高温を宿すサウナとなる。そして冬将軍の到来時には、外気温と仲良く足並みを揃えるのである。

 その様相はまるで冷蔵庫の様子である。ゆえに、この季節においては、カステラや焼き芋が腐ることはないだろう。

 私は昼飯を三品を凝視することですますと体力の温存のために右腕の記事が欠損した半纏を羽織って布団を頭までかけて熊のように冬眠に入ったのであった。

 次ぎに私が警戒心の解放か好奇心か亀が首を出すように布団から顔を出すと、机の上に置いた三品がくまなく橙色に染まっていた。

 私は熟慮した。想像以上に眠ってしまったようである。本来の予定で言うなれば、二時間程の精神統一の後に、随分と余裕をもって完成させた内職を収めに行くつもりであったのだが……この時分から出発するとなると、帰ってきたならば体は芯から冷えているだろう。ならば、何かを食べずには生死に関わる。

 とは言え、昨日までとは違い食糧はある。そして、この、懐まで暖かくなればそれに越したこと言うまでもあるまい。

「よし」 

 私は意を決して、起きあがると急いで靴に足をねじ込んで廊下へ躍り出た。しかし、廊

下に出た私は、まるで別の世界へ迷い込んでしまったアリスのような面持ちとなった。

 いや、いつも通り5段の階段はあったのだが、その先にまるで塗り壁べのように、大きな何かが通ることまかり通らん!と言わんばかりに道を塞いでいるのである。

 無論、私は押したり蹴ってみたりしてみた。そして、押して駄目ならと引いても見たが、やはりうんともすんともいわなかった。

 だから私は仕方なく、自室の窓から梯子を伝って外に出ることにしたのであった。いつでも窓から望む景観を損なってくれていた、梯子であったが、まさかこの梯子が私にとって有益に機能することになろうとは思って見なかった。

 そいつは妖怪でも壁でもなければ冷蔵庫であった。。なぜこのような所に冷蔵庫なのだ。私は忌々しきを足に込めて今一度冷蔵庫を蹴ると宵の口の近づく町へ足を伸ばしたのであった。


      ◇


 さすがに歩き詰めは無理でした。ですから、私は途中にあったバス停からバスに乗車して最寄り駅から少し離れた普段利用しないバス停で下車しました。小一時間ほどバスに揺られておりましたので、少しばかり足の疲労も取れたかと思いました。実際に下車の際は両足共に軽くなっておりましたので、もしかしたら……と思ったのですが、空腹と同じくして、何歩も歩かないうちに疲労感を思い出してしまったのでした。

 それでも、ここまで来たのであれば、もう下宿までは眼と鼻の先ですから、なんとしても気力を振り絞って歩くのみなのです。

 もう夕方と夕日の橙色が影を薄く見せてくれます。バスに揺られている折は忘れておりました『ベットに倒れ込みたい』その一心にて私は棒のようになってしまっている足を前に進めていました。

だと言うのに……下宿沿いの道へ曲がり角を曲がると、大凡案配が私の下宿前であろう場所に自動車が停車していたのです…………

 私は顔を蒼くすると、疲れも忘れ山火事を逃れる野兎のようにその場を脱兎しました。

もしや、お父様が乗ってらっしゃったのかもしれません。私は紅い目立つ洋服を着ておりますからもしや……もしも、眼に止まっていたならば、今頃自動車は私をめがけて発進しているのです。

 棒のようになって痛む、足に鞭を打って駆けました。私は一生懸命走っているつもりでしたけれど、端見からすれば小走りが関の山でしょう……

 駅を避けて、小道を抜けるとまず最初に竜田橋が目に入ります。

 私は脇目も振らずに再び駆け出すと、そのまま転びそうになりながら橋桁の下へ逃げ込みました。まさか、私がこんな所にいるとはお父様も考えつかないでしょう。

 砂地に少し残った芝の上に腰を降ろすと私は、嵐が去るのを静かに待ち望む小鳥のように息を潜めました。きっと大丈夫です。そう自信はありましたけれど…………下宿へは帰れそうもありません。

 難を逃れてここまで帰ってきましたけれど、この先一体どうしましょう。私は途方に暮れてしまいました。もう歩くことはできません……ベットに寝込んでぐっすりと眠る。今頃はもう熟睡していたのかもしれません。今までそれだけを望とがんばって歩みを止めずに来たと言うのに……希望を一瞬にして奪われてしまった私は、心がぽっきりと折れてしまいました。それが大きな足枷となって、全ての気力を奪って行ったのです。

 ここならば雨露はしのげます。私は絶望の中でも意外にも冷静でした。思い出したのです、今私は辛いです。途方に暮れております…………ですが、家に残っていれば、気持ちのない殿方と婚姻をさせられ、一度話しがまとまってしまえば、もうそれは運命となって頸木となって私を生涯の受難へと導くことになるのです。

 ですから、これしきの事で絶望をしている場合ではないのです。気持ちを強く持って、前を向かねばなりません。

 お姉様が渡して下さった御財布には、大凡、数日は宿に宿泊できるだけの金額が収められてありました。ですから、このような場所で一夜を明かさずとも良いのです。

 でも、これからどうなるのか……一寸先は闇です。なので、このお金は極力使わないでいざと言う時のために残しておかなければいけないのです。

 先程まで横顔を照らしていた。西日が山に沈み薄暗くなってまいります。すると同でしょう、川のせせらぎさえも寒さを助長するかのように足元から冷気が濃く深まってゆくではありませんか。それはあっと言う間のできごとでした。

 吐く息は濃い白く、私は両肩を抱くと膝に顔を埋めてこれに備えようとしました。けれど、その分うなじから首が冷え、それはやがて背中へと降りて行くと、自然と体が小刻みに震え始めたのです。

 確かに雨露はしのげるでしょう。けれど、けれど、この刺すような冷気だけはまったくの別物でした……宵の口でこの冷たさです。これはやがてくる深夜ともなれば…………想像しただけで、明日の朝太陽を再び拝めるでしょうか。と涙が湧き上がる不安が心までも激しく震わしたのでした。


      ◇


 懐を温かくした私は、とりあえず本屋街をうろうろしてから、久方ぶりに肉やにてコロッケを買おうと思い立った。

 奈良の地へやって来た当時は、本屋街へ赴いたならばおやつ代わりにコロッケを買って食べながら帰ったものである。ここ数年はとんと眼もくれなかった。

 私が長きにわたり眼を離していたにも関わらず、コロッケは幾星霜の記憶を鮮明に甦らせるように、衣はさくさくと中にはほくほくの白い芋の塊。その中に紛れるように牛肉の粒が旨味を滴らせていた。

 そして、私は運が良いことに一個を所望したところ、なんと売れ残りだからとお値段据え置きのくせ、コロッケは三個に増えたのであった。私は確信した、私の運気は軒並み右肩上がり上昇中なのであろう。

 部屋にはまだ手つかずの乾燥昆布に焼き芋。そして。カステラが待っているのである。さらに、コロッケが二個追加されるとなれば、心持ちは頗る明るい。

 どうして、二個かと言うと、三個のうち一個は私が帰りの道すがら温かい間食べてしまうからである。 

 私は、今まさに私の胸をほこほこにしてくれるコロッケのようにほこほこにしてくる可愛らしい人の顔を思い浮かべると、コロッケと一緒にするとはなんたる凡愚か!と温かくなった財布と胸元をもって宵の口の前に、弾んだ足取りで竜田橋の上に立つと、毛皮のコートなどを着込んだカネモチ風の刺すような視線をもろともせず。

「咲恵さんっ!」

 と叫んだのだった。言葉を続けたかったのだが言葉が続かなかった。

 私のことである。同じ恥をかくのであればと「この世の成りよりも愛しています!」と蒙昧と告白を竜田川に向かって咆哮したことだろう。

 この気持ちを咲恵さん自身に伝えることができさえすれば、めでたく恋人になって頂けるかもしれない……だが、叶わずの場合が何よりも恐い。ゆえに私は未だ咲恵さんに決定的な告白を伝えられないでいるのであった。

 石橋を叩いていることにはすでに飽き飽きしている。だが、まだ一歩が踏み出せない。ただの一歩にして、その一歩とはとてもともて、それは私にとって前代未聞にして史上初の大きく偉大なる一歩となるだろう。

 今が幸せである。咲恵さんが傍らにいてくれて、そして言葉を交わす一時が……私にとっての幸せなのである。しかし、最近は……いいや、去年の終わり頃から、そんな咲恵さんと常に一緒に居たいと思うようになってしまっていた。咲恵さんが私の知らぬ男と話しをしているだけでも気になる。この瞬間にも、年頃を迎えた咲恵さんにもしかしたら、縁談などが持ち上がっているかも知れない。

 いいや。器量良しで可愛らしい咲恵さんのことである。見合いをしたならば、相手の男などは至宝を手に入れた面持ちとなって、即日にでも結納を申し込むことだろう。

 こんな私にでも縁談が持ち上がるほどなのだ、なんの違和感はありもしない。

 しからば、私は咲恵さんから何を知らされることもなく、気が付いたら時にはすでに咲恵さんは私の手の届かぬところにいる。そんなことも夢にあらず。

 私が告白にて咲恵さんの恋人になれたとあらば、咲恵さんは私に「私と一緒に逃げて下さい」と涙ながらに懇願してくれるだろうか。

「アホらしい」

 我ながら、寝言をぼやいたものである。そんな映画のような展開が私の凡庸たる人生活劇にあり得るはずがない。

 私のことである。意を決して乙女に告白した次の瞬間には「勝太郎さんは面白い方ですね」と笑って眼中から放り出されるのである。

 私などの貧乏人たる仕様もない男に、咲恵さんのように高貴たる乙女が恋人の対象、ひいては異性として眼中においてあるわけがあるまい。詰まるところはどこまでも行っても私は所詮、茶飲み友人と言ったところだろう。

 私は自虐的にかつ自虐的にのみ思慮して、はじめて冬の寒さを噛み締めた。誰に言われたわけでもあるまいに、涙の一筋も流したい面持ちとなったのはなんとも情けない。きっとこれが誰かに言われたものであったならば、私は明瞭に泣いたことだろう。それこそ手足をじたばたとさせて泣いたことだろう。

  

      ◇


 本日、私は朝から何一つとして口にしておりません。ですから、いつもはお腹の辺りからほこほことして、眠気をもよおすのですけれど…………今は寒さと不安に身を震わせているだけなのでした。

 ですが、よほど疲れていたのでしょうね。私はいつの間にか眠ってしまっていたようです。時計を持っておりませんから、時刻はわかりません。ですが、すっかり橙色は暗幕にかわっておりまして、竜田川の水面には外灯の明かりが揺れています。

 宵の口のようでした…………一層に冷える体はすでにもう二度と立ち上がることすらもできないのではないでしょうか……とこのまま眼を閉じてしまいたい衝動に駆られました…………そんな時です…………

『咲恵さんっ!』

 何もかもを諦めてしまおうと心の灯火が消えてしまいそうになっていた私の耳に確かにそう聞こえたのです。

 それは聞き覚えのある声でもありました。だからこそ、私は思わず項垂れていた首をもたげて、傾げたを仰ぎ見たのでした。

 小春日さんの家にお邪魔しましょうか……とも今更思います。でも、父の手が小春日さん宅に伸びればこの上ない迷惑でしょう。それに砂埃にまみれたこんな汚い身なりの私が突然お邪魔したならば、小春日さんのご両親になんとはしたない婦女であろうかと、見下げられた挙げ句に小春日さん自身にも拒絶されてしまうかもしれません。そう思う思ってみたのですけれど、小春日さんならば……親御さんに内密にてかくまってくださるかもしれません。小春日さんとはそのように心優しい人柄なのですから……

 そこまで考えて私は無性に泣きたくなってしまいました。どうして私がこんな橋の下で身を縮こましていなければならないのですか……私が何をしたというのだろうか……と……素直に縁談を受けていればこのような目に遭うことは…………同道巡りとまた同じことを考えてしまいました。

 けれど、けれど……

 今が居合わせだったのです。私には恋人はおりません。ですから、恋人との逢瀬のトキメキも男女の妙味もしりおきません。ですが、勝太郎さんとお茶をしたり、お話しをしたりするその一時が私は何よりも尊くも、安らぎのでした。きっと、勝太郎さんのことですから、まだ一度も殿方とお付き合いも手も繋いだこともない私など眼中にないのです。だから、私に恋人になってくれませんか。と一声告白もしてもらえないのでしょう。告白するのは男子の務め。婦女はそれをただ待つものだと思っておりました。ですが、婦女は殿方に告白してもらうために、自分を磨かなければならないのです。お腹がぽっこりしていればこれを引っ込め、お洋服は艶やかに。普段は質素なお顔でも、殿方と会うその時は華やかにお化粧をしなければなりません。

 ですのに、私と言えば、お洋服こそ気を遣いましたけれど、お化粧も口紅をのせるだけでしたし。香水もつけませんでした。そして、お話しすることと言えば、自分の事ばかりでしたもの……そんな婦女に……そんな身勝手な私に勝太郎さんが告白などして下さるわけがないのです。

 今まで。優しく誠実に接して下さっただけでも、有り難く思わなければいけません。

 私は無性に勝太郎さんに逢いたくなってしまいました。

「勝太郎さん…………勝太郎さん……」

 懐かしい声でした。もうこの世界には私を知り置く人などいるはずがありません。私は、この凍てつく寒さの中、この橋桁の下で果ててしまう運命なのかもしれない。そんな風に諦め風に吹かれていた私にとっては、そんな勝太郎さんの声だけでも光明と希望が生まれた気がしました。

 私は勝太郎さんの名前を呟きました。二度呟きながら、涙を流したのです。きっと、勝太郎さんなら私を助けてくださるはずです。こんな汚らしい身なりであろうとも、勝太郎さんなら平素と同じように接して下さるはずです。

 もう動かないと思い込んでいた体が無為自然と動き出しました。それはまるで林檎が坂道を転がって行くように……時々、躓きながらやっととぼとぼと歩いて行きます。もしかしたら、私を捜している眼がどこにあるか知れたものでも、警戒をしていなければならなかったのです。けれど、それはすでに頭の片隅に辛うじてあるだけで、私にはそれを考え行動に移すだけの余力は残っておりませんでした。

 ただ、一心に勝太郎さんの元へ向かっていたのです。勝太郎さんの元へ行きさえすればなんとかなる。なんとかして下さる。根拠などどこを見渡してもありえませんでしたけれど、私にとってはそれが……いいえ。それだけが唯一無二の希望であり活力だったのです。


      ◇


 竜田橋から流々荘への道程で私が至宝のように抱きかかえて保温に徹していたコロッケはすでに冷や飯のように固くなっていた。どうりで吐く息とて無条件で白いはずである。

 すっかり日が暮れた時分。いつもであれば階段を上ったところにある便所の入り口を照らす裸電球が郵便受けまで仄かに伸びているはずなのだが……やはりと言おうか当然と言おうか、入り口は未だに冷蔵庫で塞がれてあった。

 私は首を傾げながら、冷蔵庫を見つめていた。冷蔵庫とはこのような物なのか……何を隠そう、私は冷蔵庫と言うものを見たことがなかったのである。

「すみません。運び込むのに入り口が狭すぎてしまって……」

 私がこの冷蔵庫を乗り越えて入ってやろうかと考えはじめた頃、仄かの明かりをさらに遮って一つの人影が現れた。

「これは冷蔵庫……ですよね」

 私は冷蔵庫の上部から顔だけを覗かせて、申し訳なさそうに佇む新妻に向かって、そう言った。

「はい、冷蔵庫です。テレビか迷ったんですけど、やっぱり冷蔵庫にしました」

 すみませんが、乗り越えて下さい。と続けた新妻に、

「もしも、男手が足りないようでしたら、声を掛けて下さい。手伝いますから」と私は余計な言葉を削ぎ落としてそれだけを言うと、梯子のかかっている窓側へと歩みを進めた。

 私は明かりの灯っていない自室を見上げると、そのまま、思いを馳せるかのように夜空を仰ぎ見た。

 ここ最近、乙女の顔を見ていない。夢に妄想に浮かぶことはあるものの…………やはり、顔も見たければ声も聞きた。さらに言うならば、髪の毛から香る仄かな石鹸の香りで胸一杯にしたい。

 大學は遠の昔に始まっているかぎりは乙女も大學へ赴いて、勉学に励んでいることだろう。私など、ただ体力の温存とヤドカリのように部屋に籠もりっきりなのである。乙女に久しぶりに手紙でも書こうか……

 そう思った私であったが、冷蔵庫を思い出すとなんとも居たたまれない面持ちと陥ってしまった。瑞穂さんと八重さんに招き入れられ、乙女の下宿へあがった際、台所にちらりと見えた大きな箱。箪笥か何かかと別段気にも止めなかった。だが、それは冷蔵庫だったのである。

 想いながらもそれを避けていた。考え出すとどこまでも奈落を覗きこんで光を探さなければならないような切ない気持ちとなる。ゆえに考えないようにしていた。

 黒髪の乙女は美しくも可憐であり、可愛らしくもどこか気高い。そんな魅力ある婦女である。

 しかし……私が逆立ちをしてどんなに足掻いてみても咲恵さんとの格の違いは如何ともできまい。もはや笑いたくなるほどであろう。ただ……どんなに笑ったところで最後には泣きじゃくることになるだろう。

 嫌みな程に澄み渡った空気を抱き締めて、金剛石を散りばめたような星空に向かって消えて行く白煙を見ていると、無性に乙女に逢いたくなってしまった。いいや。猛烈に逢いたくなってしまった…………始めて明瞭に咲恵さんと言う一人の女性を抱き締めたいと、強く抱き締めたいと思ったのであった。

 梯子に手をかけると、これがまるで氷を触っているようである。手袋をしていない私の手は忽ち温度を奪われてかじかんできてしまった。なんと不甲斐ない。そう思いつつも、果たして部屋の窓まで登るには不自由はなく。さっさと部屋に入った私はまず赤く色づいた手の平に満遍無く息を吐きかけて、擦り合わせた。

 寂しい、机の上に加わったコロッケの紙袋を見やるに、侘びしくはなかったが、やはり人恋しい…………いいや、乙女恋しい。ひいては、咲恵さんと会いたい。

 火山の噴火のごとく、一度溢れ出た想いは止まることを知らず、私はこの夜をどうして過ごしたものかと思案した。乙女の下宿へ向かうわけにはいかない。その上、乙女との芳しい一時を夢中にてもんもんと妄想するだけなのだが……それはしたくない。

 だから私は、布団に入らず布団の上でわざわざ身を切る寒さに耐えていた。もしも、布団に入ろうものならば、たちどころに咲恵さんとのあらぬ妄想に取り憑かれて、それはもう夜通し耽ることだろう。そんな気がした。と言うよりはそれが確信へと変わるのは明白であったのだ。ゆえに私は布団には入らずに、半ば強制的に精神統一を行っていた。妄想であっても、例え露呈することのない私の頭中で巻き起こされる乙女との桃色の一時とて下劣であろう。卑猥図書婦女であればまだ許される。だがしかし、咲恵さんとは何が何でも是が非でも許すわけにはいかないのである!!

 人恋しきを懇願してやまない、我が下半身に宿りしジョンは金切り声をあげている。これを沈めるには往々にして赤福女郎に私のささやかなる願望を叶えてもらうしかなさそうである…… 

 願えば叶う。それが願いであるならば。と私はごろんと転がり窓の外を見やった。

 我ながら焼きが回ったものである。ここで今一度述べておきたいと思うが、『赤福女郎』とは酒に飲まれた阿呆漢どもが意識を失う刹那に生み出した虚像でしかないのである。もし、本当に出没しているのであれば、それは私同様に寂しい身の上に涙をのむ独男の願望と憎悪が固まった、言うなれば妖怪のそれに近い存在であろう。

 そんなものに会いたいなどと、我が願いを叶えてもらおうなどと、そんなことならば竜田橋の近くにある稲荷神社にてお百度参りを敢行した方がましだろう。

 そんなことを考えて、気でも触れた振りをしてやろうか……と投げやりになったその刹那、山の裾野から日が出るかのように、突如として擦り硝子の外に赤色が登って来たのである。

 私は驚天動地と飛び起きると首を右往左往させてから、無意識のうちにグリム童話集を手に取ると。「何ものか!」勇ましく声を張り上げた。

 誠に赤福女郎であったならばどうしたものだろうか。桃色の一時を願い出るも良いが、むさ苦しい男どもの妄想と憎悪にて存在する得体の知れないものに身を委ねるのはやはり恐ろしくも気色が悪い。逃げの一手でも良い。最悪、冷蔵庫を乗り越えなければなるまいな。

「勝太郎さん。鴻池です」

 弱々しい声でそう言う主を私は誰であるかわからなかった。その苗字の方は知り置いていたが、はたしてこのような萎れた花のような声であったろうか?

 恐る恐る、窓を開けてみると、そこには我が愛しの君である咲恵さんの顔があったのである。

「咲恵さん?」

 私は思わず大きな声を出してしまった。どうして、咲恵さんがこのような所に、そして、梯子などに手をかけているのだろう。声の主が判明するや、私の中では怒濤のごとく疑問ばかりが湧き立った。

 しかし、窶れたように白く乱れた髪の毛でいる乙女の姿を見ると、そんな仔細は遠くへ投擲することは当然と吝かではなかったのである。

「汚い身なりですが、入れて下さいませんか?」

「汚かろうが綺麗だろうが、そんなことは関係ありません。至極汚い部屋ですが、どうぞ」

 私は窓枠に掛ける足から乙女の靴を脱がせ、これを抱えると、机の上においてあった食材を津波のごとく一払いに畳みの上に散らかすと、やうやうしく乙女に手を差し伸べて、部屋の中へと招き入れたのだった。

 始めて明瞭に乙女の手に触れた。きっと柔らかくも温かくまるでマシュマロのようなのだろうと思っていた愛おしい手。現実にはまるでアイスケーキのように冷たくなっていた。

この分だと、体は芯まで冷えていることだろう……

 乙女が机の上に降り立った後、私は靴を玄関に置くと非礼極まりない卑猥図書を一目散に回収すると機関車への石炭投入よろしく、即座に押し入れへと投げ込んだ。自身でも驚くほどの早業であった。

 乙女の洋服は所々、砂塵に泥に蜘蛛の巣に汚れ、髪の毛には細かい埃がのっていた。大學で見かける清楚で清潔感を纏って、雰囲気とは真っ向から逆の姿である。

「洞窟探検でもされたのですか」 

 そんな私の冗談にも、

「お恥ずかしいかぎりです」畳みの上に膝を折って弱々しく、虚ろな瞳で呟くようにして言うのであった……

「気が付きませんで、今お茶を淹れてきます」

 玉響の沈黙の後、私はそう言うと振り返ることなく炊事場へと駆けた。


      ◇


 私は勝太郎さんのお住まいへ向かった歩いておりました。風が吹く度に、足元から吸い上げられるような冷気に私は全身を震わせ、寒いぼを拵えては歯をカチカチと言わせるのです。

今度は言い訳などいたしません。私は勝太郎さんのお住まいである流々荘へ向かっていたのです。

 阻喪としている私にとっての希望はいつの間にか勝太郎さんにお会いすることに変わっていたのでした。

 こんな薄汚い身なりの私が突然訪問などをして勝太郎さんは眉を顰めずにいつも通り優しく迎えて下さるでしょうか……こんな夜分にこのような身なりで……仮にも年頃を迎えた婦女である私が自分から殿方の住まいになんの前触れもなく赴くだなんて、きっと勝太郎さんに足蹴にされてしまうことでしょう。そして、二度と会うこと叶わず!と拒絶されてしまうのです。

 私はそのように考えては何度も何度も足を止めてしまいました。けれど、けれど進まざる得ないのです。ご実家に住まわれておられます小春日さんのお宅に伺うことはできません。下宿には帰れません……まして、実家に帰ることなどもっての他なのです。

 私には退路はありません。それにもう、踵を返す力も残っていないのです。

 日が暮れると景色は町並みは変わってしまいます。ですから、私は果たして勝太郎さんの元へさえも辿り着けるでしょうか。と心細くしましたけれど、それでも、なんとか流々荘へ到着できました時はほっと胸をなで下ろしました。

 郵便受けにて勝太郎さんの部屋を確認しました。ですが、入り口があった所にはまるで塗り壁のように大きな『物』が立ちふさがっていたのです。確かにこの場所に入り口があったはずなのですけれど……

 階段の上から伸びる仄かな明かりにてそれが『冷蔵庫』であることがわかりました。

 冷蔵庫下宿にもありますけれど……本来は台所にあるべきですから、どうして入り口を塞ぐようにして置いてあるのでしょうか?と白いを手に吐きかけながら思いました。

 そのように思っても考えてみても仕方がありません。これでは勝太郎さんのお部屋で行くことが叶わないのですから。郵便受けの前で凍えていたのでは本末転倒です。橋桁の下となんら変わらないではありませんか。

 私は窓側へ回ってみました。すると、勝太郎さんのお部屋と思しき窓に明かりが灯っていたのです。勝太郎さんはお部屋におられます。一声お名前をお呼びすればたちどころに窓を開けて下さるでしょう。

 ですが、私はあえてそれをしませんでした。

 唇を噛み締めて深く頷くと備え付けられた梯子に手を掛けたのです。梯子はまるで氷を握り締めているように冷たく。手袋を持ち合わせていない私の手は瞬く間に温度を奪われてしまいます。元々凍えていたのですから、それに拍車をかけられますと、もうかじかむしかありません。

 私は登りました。これは人生の岐路でだと思ったのです。嫌々な縁談をお姉様の助力にて梯子を降りて事なきを得たの私です、ですから、今度は梯子を登るのです。どうなるかは全て勝太郎さん次第。もしも、拒絶されたのであれば、大人しく実家へ帰り縁談を承諾するしかありません。

 いつかは結婚をして子供にも恵まれたいと思っております。ですが、私にはお姉様方のようにお慕いする殿方もおりませんし、吉と出ても凶と出ても……これはもう運命と諦めるしかありません。

 この梯子の先に私の運命が掛かっているのです。

 私は一段一段ゆっくりと登りました。微風にスカートが揺れました。素足は身を切られるようでした……ようやく窓に差し掛かると、

「何ものかっ!」磨り硝子の向こうから、人が動く姿と懐かしいほっとする声が聞こえたのです。

 おっかな吃驚と言うに相違ない。そんな声でしたけれど、私はその声を聞いた時気が抜けて思わず手を離してしまいそうになり、慌てて肘を掛けてなんとか持ちこたえたのです。

「勝太郎さん。鴻池です」

 出来る限り大きな声でそう言いました。もう何度も大きな声さえも出せそうに思えなかったからです。

 「咲恵さん?」と大きな声が返ってまいります。そして、時を置かずして窓が開きました。

 そこには勝太郎さんのお顔があったのです。その表情は今にも首を捻りたいと言わんばかりでしたでしたけれど、私が「汚い身なりですが、入れて下さいませんか?」とお聞きしますと。「汚かろうが綺麗だろうが、そんなことは関係ありません。至極汚い部屋ですがどうぞ」と二つ返事で私を導き入れて下さったのです。

 私が窓枠に足を掛けますとその足から靴を脱がせて下さいます。そして私の靴を抱えたまま、机の上を浚ってから、丁寧に手を差し伸べて下さったのでした。

 勝太郎さんの手は温かく、冷たい私の手に触れさせるのが申し訳ないくらいでした。

 私が机の上に降りた後、勝太郎さんは足早にまず私の靴を玄関に置くと、次ぎに畳みの上に散らばっていた図書を押入の中に放り混まれるのです。大切な参考書などでしたら、そのように乱暴に扱われて良いのでしょうか……とさらに申し訳なく思ってしまいました。

 押入を後ろ手にしっかりと閉めると、やっと私に向き直ったのです。それはもうまじまじと…………

「洞窟探検でもされたのですか」

 やはり、私の身なりはそのように薄汚れてしまっているのですね。私は畳みの上に膝を行って弱々しく座すると、瞳に活力薄く呟くように「お恥ずかしいかぎりです」としか言えなかったのでした。

「気が付きませんで、今お茶を淹れてきます」 

 勝太郎さんは慌ててそうおっしゃいますと、靴も履かずに部屋を飛び出して行かれてしまいました。

「どうぞお構いなく……」と言えたのはドアが閉まった後です。きっと勝太郎さんには聞こえてはいないのでしょうね。そうですとも、私はわざと遅れてそう言ったのですから。

 私は胸も肩も撫で下ろして深く深く息を吐くと、徐に右手を顔の前まで持ち上げました。

もう温もりは去ってしまいました。けれど、勝太郎さんに握られたその感覚ははっきりと覚えておりました。私よりも大きくて、少しごつごつとした手でした……

 私は恍惚としていたのでしょうか……でしたらなんとはしたない婦女なのでしょう!交流があるとはいえ殿方の家に窓から上がり込んでおいて、そのような不埒なことにうつつを抜かしてしまうなんて!

 そんな風に思ってみた私でした……ですが、どうしてでしょうか先程まで氷のように冷たかった頬がほんのり温かくなっていたのでした

 本当に勝太郎さんの手は温かかったのです。

 そうです。私はその温もりに触れた瞬間、全てから救われた。そんな面持ちとなったのでした。


      ◇


 典型的な緊急事態に私はしどろもどろであった。咲恵さんを部屋に残して台所へ駆けて来た私は、至極平静を装っていた。だが、その内情はやはりしどろもどろであったのだ。 

 何を語るにもまずは『どうして』が私の脳髄を埋め尽くし、動悸に似た、鈍的に大きい鼓動が胸を高鳴らせた。

 私は、水道の蛇口を全開にして、大層水を飲んだ後、何度も何度も水しぶきを上げて顔を洗った。それでも火照った顔面は冷やされることなどはなかったが、濡れたシャツと、ズボンが浸みるように冷たくなった。

 前髪から滴り落ちる水滴がセメントの床に跳ね散る様を見ていて、ようやく落ち着いた私は、薬缶を火にかけてから決定的な事柄に思い当り、その場に崩れ落ちた。


「茶っ葉がない……」


 万年水道水で喉を潤す私であるからして、お茶の葉などという趣向品は持ち合わせているはずがなく、加えて来客と言えば、西村や古平くらいなものであるから、 余計に水に色と香りをつける必要がなかった。

 それ故に茶っ葉を必要ともしてこなかったのである。

それにしても、困った。咲恵さんに白湯を出すなどと、天と地がひっくり返ってもできるわけがない。できるわけがないのだが、それしか仕様がない……茶の一つも出せないなんてふがいない私はとにかく、藁にも縋る思いで、狭い炊事場の中を鵜の目鷹の目で、白湯を、飲み物へ昇華できる材料を探した。だが、見つかったのは、調理台の下に転がっていた、菜箸と思しき竹棒一本だけだった……ほぼ毎日、新妻が掃除をしている様子だったので、妙に整理整頓が施された棚は一目で私の細やかな期待と希望を打ち砕いてくれた。

 私は残酷で救いのない現実を目の前に、恨み節の一説も吐けず、ただ、如実に突きつけられた事実にただただ呆然と、殺風景なコンクリートの床に乗った自分の素足を見さげているしかできなかった。

 私は、私の割り当てられた以外の収納棚を見上げて。拳を固く握り閉めた。いいや、鬩ぎ合うどうしようもない呵責に全身が震えていたのだろう。

 

「こんばんは、あの…」


不意に背中が騒がしくなったかと思うと、聞き慣れた声がした。振り向いてみると、夕餉のだろう洗い物を抱えた新妻だった。

 私は、私の様を見て驚いているのか、炊事場の入り口で足を止めている新妻を穴が開くほど凝視をしていた。それはもう無我の境地で見つめていたのだった。

 新妻の目には、気が触れたように映っていたのかもしれない。手に一本だけの菜箸を携え、この真冬に薄着に裸足でコンクリート打ちっぱなしの炊事場に佇んでいるのだからして、私自身も到底正気の沙汰とは思えない。ただ、唯一、行動の正当性を頼るのであれば、火にかけた薬缶だけであろう。

 だが、今の私にはそんなことを鑑みている余裕などはなかった。偶然にこの場に現れた、新妻は新妻にあらず。激流に翻弄されるがままに絶望していた私にとっては、水面を漂う一本の藁にしかみえなかったのだった……新妻と書いて希望と読むわけである。


「恥を忍んでお願いしたいことがあります。どうか、お茶の葉を少し分けてもらえませんでしょうか。ご迷惑なのは百も承知です。ですが、どうしてもお茶の葉が必要なのです」


 私は恥も外聞も打ち捨て、深々と頭を垂れてそうお願いをした。

 新妻が割り当てられた収納棚の中に、茶筒を収めていることは知っていた。ゆえに、困窮これ極まれば、その茶筒を拝借することもできた。できたのだが、それを私は是としかなったのである。と言うよりも、出来なかった。

 咲恵さんに盗品のお茶を振る舞うことなど、できようはずがない。


私は……私は……咲恵さんの前では、最後の最後まで誠実漢でいたかったのだ。


「お茶の葉ですか?そんな大層な。良いですよ、お好きなだけ持って行って下さい」


 新妻は、強張った表情を柔らかくして、そう言うと、洗い物を調理台の上に置いてから、収納棚から茶筒を取り出して。私に手渡してくれた。


「あっ、少しこのまま待っていて下さい」


 私が、手渡された茶筒を恭しく見つめていると、何かを思い出したように、その言葉と洗い物を残して、部屋へと駆けて行ってしまった。


 束の間の静寂があり、再び姿を現した新妻の両手には、御櫃と小ぶりな鍋、そして、急須と湯呑が積み重ねられてあった。


「よいしょっと」


 新妻は、仄かな期待に淡く胸の内を温かくする私の目の前の机の上に、それらを乗せると、「ふぅ」と浅く息を整えてから、


「これ、夕餉の残り物なんですけど、宜しければ召し上がって下さい。洗い物は、明日しますから、その辺に置いといてくだされば結構ですので」と言い、私の部屋へと続く廊下を一瞥しながら微笑んでそう言ったのだった。


 掃き溜めに鶴とはよく言ったものである。私は、新妻の心意気に遠慮の言葉の一つさえ言えないまま、その場で、体を二つ折りにして、感謝の意を伝えた。

 人間とは、真に感謝感激極まれば、口先八丁にさえ膠も無い。


「そんな大袈裟な。残り物ですから。さぁ、冷めないうちにどうぞ」


 私がいつまでも頭を上げないでいると、新妻は困惑したような声色が耳に入った。


「なんとお礼を言ったらいいか。本当にありがとうございます。この御恩は忘れません」


 私は、これ以上は慇懃無礼であろう思い、再度、素直に感謝の意を伝えてから、急須のみを薬缶の前に残し、まだ温かい、御櫃と鍋を抱え早々に部屋へと引き返したのであった。

 部屋に戻った私は、四畳半の真ん中に、堂々と敷いてある万年床の隣に正座し、小さくなっている咲恵さんを未だに直視できないまま、布団の上に御櫃と鍋を置くと、

 

「お湯が沸くまで、もう少し待っていて下さい」と言い残す早さで言いながら、再び炊事場へと踵を返した。

 咲恵さんは何か言いたげであったが、それを慮る余裕がない私故に、暇もありもせず、それは誠に不徳の極みと言って過言ではない。

 だが、薬缶の口から立ち上る湯気を見つめながら、私は、そんな私を許すことにした。茶の一つも出せないと言う如実に胸襟を絶望させ、それでも、篤実たる新妻の情のおかげで、温かい食事まで用意することができたのだ。この幸いに満足せずして、更に己を悔いるのであれば、それはもはや傲慢というものであろう。

 私は、薬缶の水が沸騰するまでの間に、二人分の茶碗と木椀を棚から取り出し、肌を切るように冷たい蛇口から注がれる流水でこれを丹念に洗い、時折、あまりの冷たさに、螻蛄のように両手を振ってみたりしながら、歯を食いしばって何度も洗った。

 食器を洗い終えてから箸が一善足りないことに気が付き、先ほど拾った菜箸を折って私が使うことにした。  

 そろりそろりと部屋へ戻ると、我が根城である万年床が折り畳まれ、妙に色濃い畳の上に、先ほど持ち込んだ、御櫃と鍋、コロッケが一つ乗った小皿が並べられてあった。


「勝手に、触ってしまってはと思ったのですが、お布団が汚れてしまいますから」


咲恵さんは何とも言い得ぬ笑みを浮かべながら「お茶が入りました」と湯気の立った湯呑を足元へ差し出してくれた。


「ありがとうございます」


 私は、咲恵さんと御櫃を挟ん向い側に腰を下ろすと、久しぶりに潤す、緑茶を一口飲んだ。すると、渋味を帯びた温かいものが、喉を滑り降り、五郎六腑に染みわたるように私の体を温めてまわった。

 咲恵さんの御手にて、もたらされたお茶であるのだから、違った意味で私は胸中を麗らかしたことは言うまでもない。

 人心地ついた私は、不意に可笑しくなった。

 幾星霜と敷きっぱなしの文字通りの万年床のその下がこの部屋のどこよりも、新鮮味を帯びた聖域であったとは……私は私による男汁と不潔臭にて、害虫の巣窟かはたまた黴の温床なっていると思って疑いもしなかった。故に、その顛末が恐ろしく、万年床を動かすに動かせないで居たというのに……

 知らぬとは如何様にも恐ろしいものである。


「勝太郎さんも、お夕飯はまだだったのですか?」


 咲恵さんはそう言いながら、徐に膝を立てると、私が持って入った茶碗と木椀を手に、御櫃の中に入っていた、しゃもじで白飯を、鍋からは肉じゃがをよそってくれた。

 

「はい、いつも今時分か、それよりも遅い夕食なもので」と私は頭を掻きながら、嘘をついて、咲恵さんから茶碗と木椀を受け取った。

 そもそも、今夜も食う物などありはしなかったから、何とか空腹をだましてさっさと万年床に退避するつもりだったのだから、遅い夕食もへったくれもありはしない。


「随分と遅い夕餉なのですね」


 咲恵さんは、そう言いながら自分の分をよそい、丁度、御櫃と鍋の間に、ちょこんとおかれた小皿に視線を落した。

 そこには、見慣れていながら、久しく間地で見ていない、狐色の宝玉ことコロッケが一つ見受けられた。


「このコロッケは………?」私は、指を顎の所にやって、呟く様に言った。


 このコロッケはどこから降って湧いたのだろうか?新妻からは御櫃と鍋しか受け取っていない。

 咲恵さんがポケットにでも入れてきたのだろうか?そんな、阿保なことを玉響巡らせて咲恵さんが洋服のポケットにコロッケなどを入れるはずがない!と結論付けた。過去に握り飯をポケットに入れたまま龍田川を遡上した武勇伝を持つ私でもあるまいし。


「コロッケですか?御櫃の中に入っていました。ご飯を、こう、半分に分けて、空いた隙間に」


 しょうもない思慮に耽る私に、呆れたのか、咲恵さんが端的且つ明快に、コロッケの謎を教えてくれた。


「あぁ。コロッケは咲恵さんが召し上がって下さい。私は、それほど空腹と言うわけではないので」


「いえ、それはいけません。突然、お部屋に押しかけて、お夕飯まで頂いてしまって、その上、コロッケまで譲って頂いたのでは、申し訳がありませんもの……」


 咲恵さんは、そう言いながら、コロッケの乗った小皿を私の元へ陽の手で押した。


私は束の間、コロッケを見つめてから「それではこうしましょう」と箸で、コロッケを半分に割った。


「半分こですね」


 なぜか、咲恵さんは口元で指を組みながら、嬉しそうにそう言った。

 私は、てっきり貧乏くさいと嫌がられるだろうと思っていたから、咲恵さんの風を見て驚いた反面、心持が幾ばくか救われた面持となった。


「あぁ、皿が足りませんね」


 私はコロッケを取り分ける団になって、皿が足りないことに気が付き、慌てて炊事場に取って返そうとしたのだが、


「ご飯の上に乗せれば、大丈夫です」立ち上がった私はそんな咲恵さんの優しい言葉に、一歩も動かないまま、再び腰を畳の上に落ちつけた。

 

私が腰を落ち着けると、咲恵さんは、コロッケの片割れをひょいと箸でつまみ上げると、白飯の上にちょこんと乗せた。

 どうしてだろうか、ただ、コロッケを抓んで白飯の上に置いただけだと言うのに、咲恵さんがそれをすると、とても可愛らしく見えてしまうのは……私は、御櫃に蓋を被せたり、鍋の蓋を閉めたりしている咲恵さんの愛らしい姿に見とれていたが、やがて思い出したように、コロッケの半身は白飯の上にひょいと乗せたのだった。


「柔らか頭脳ですね。あぁ、ソースも醤油も生憎切らしてしまっていて、なんとも味気ない」


 いよいよ、夢にまで見た、咲恵さんと二人きりでの食事を目前にして、私は調味料の一つもないことに気がついて、加えて情けなくなった。言い訳臭く、「切らしている」と言ったが、本当のところは、醬油もソースもここ数年と、手元にあったことなどない。

 ソースや醤油の一つもないなどと……

 咲恵さんは、こんな赤貧な私に落胆しただろうか……軽蔑するだろうか……

 今日ほど、常日頃の体たらくを呪ったことはない。上辺だけいくら、うまく取り繕えたとしても、その実までは隠すことなどできない。そんな明白な事柄を絶対に露呈したくない相手に包み隠すこともできず、始終を知られてしまった……

 我が意中の咲恵さんを目前に、愛おしい乙女と二人きりでの食事ともなれば、本来であれば、終始雑談に興じてそれはそれは、楽しい食事になったはずだろう。いいや、そうでなければならない。

 だが、私はと言うと、情けないやら悔しいやら……久しく食す白飯を頬張りながら、必死に涙が出そうな衝動を耐え忍んでいたのであった。







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黒髪の乙女 畑々 端子 @hasiko

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