第三章  秋風立ちて 

 一夏の思い出を八月の一日に刻んだ私は、誠に華やかな真夏の滑り出しをしたわけだが、滑り出したそのまま流れのまにまに、結局はそれ以上もそれ以下もなかった。ただ、噎ぶほど暑い盆地の底で干からびた蛙の一歩手前にて視線を漂い続けていたことだけは、将来私的武勇伝の片隅に書き加えたいと思う。

 それと言うのも、夏には盆と言う文化があり、今夏、曾祖父の三十三回忌を迎える咲恵さんは、手紙のやりとりも出来ぬ間に実家へと帰ってしまった。ゆえに私は四畳間にて干からびているしかなかったのである。

 私は切実に思った。私から黒髪の乙女を取ってしまえば、かくも虚しくも悲しい身の上に落ちぶれてしまうのだと……乙女がいればこそ、私の無精髭面にも希望が滲み出てくれば、明日への活力も浮遊してくると言えるのである。だから、咲恵さんとに文通の途絶えた約二十日間は私の歴史から抹消された……もとい抜け落ちた断片となり果てた。

 そうして、ようやく秋の到来を肌身で感じるようになった仲秋の頃、ようやく咲恵さんからお手紙が私の郵便受けを潤をしたのであった。

 この度は趣向を変えて、涼しくなった時節、竜田川沿いでも散歩はいかがでしょう。と私はお誘いした。晩夏を憂い秋の到来を喜ぶ乙女はフロリアンに籠もるよりは季節の風に髪の毛を靡かせながら、時折、髪の毛を耳の上にかき揚げることだろう。きっとそうに違いない。そうでなければお誘いをした意味が無に帰すのだ。

 乙女の虜である私は、乙女の色々な素顔が見てみたいと思うようになってしまっていた。笑った顔や恥ずかしがる顔は沢山見てきた。不謹慎なことを言えば恐怖する乙女の表情すらも知っている。だが、まだ、憂いた表情や怒った顔は見ていない。後者は見たくないと思いつつも、恐いもの見たさが先立って、私の興味や好奇心と言った腑で蠢くならず者どもが擦り手で頬を染めていたりする。

 なんとも怪しからん話しである。

 大學の夏期休暇の折、私は週の真ん中を約束の日と記した。場所は竜田橋の上である。

 その日はなんとも夕焼けが美しい夕暮れであった。

「こんばんわ、勝太郎さん。お久しぶりです」

「これは咲恵さん。お祭り以来ですね」 

 私はと乙女はそのような挨拶を交わした後、どちらが言い出すでもなく、川沿いの道を生駒神社の方向へと歩き出した。

「あんなに賑やかでしたのにね」 

 乙女はすっかり出店のなくなってしまった道の先を見て寂しげに呟いた。

 それは私も感じ入るところである。あの夜は本当に賑やかであった、頭上には提灯が並び、生駒神社まで隙間無く軒を連ねた出店からは食欲をそそる音と香り、あるいは眼に映える遊戯の数々が目白押しだったのである。

 乙女も私もそれは大層にはしゃいだ。林檎飴を買い求め綿菓子を食べて、お揃いのお面を買って……思い出すと、思い出す限り哀愁がふつふつと湧き出てくる。

 夏の終わりとは厄介である。

「勝太郎さん、赤とんぼです。すっかり秋ですね」

 乙女は川の上を飛ぶ赤トンボの群れを指さして、口許を綻ばした。

「秋真っ盛りですね。そうだ、日本の呼称を〝秋津州【あきつしま】〟というそうです。トンボの国と言う意味なんだそうですよ」

 私も夕日を背に空を飛ぶ赤トンボを見上げながら、そう言った。

「そうなのですか。ですから、トンボがいっぱい飛んでいるのですね。勝太郎さんは物知りです。私はまた一つ賢くなりました」

 乙女は眼を丸めて私を見上げて、謙虚にもそう言うと、また違った趣で赤トンボを眺めていた。

 黒髪の乙女は嬉しそうにトンボに纏わる武勇伝を私に話してくれた。

 とても楽しそうに語る彼女の話し耳を傾けながら歩いていると、翠玉のような夜のとばりが沈み行く夕日の天辺から幕を下ろし始めてくる。そろそろ帰路を歩かねばと、急く心とは裏腹に、どうして物事とは、はじまりと終幕こそがもっとも美しいのだろうか、私と乙女は段階的に虹のように配色の違いを見せる宵の口の空を見上げて恍惚となっていた。

 感傷に浸っていた私はつい、

「秋になれば、空気が澄んで月が綺麗に見えますね」と呟いてしまったのであった。

「はい、仲秋の満月ですね。その折は勝太郎さんも御一緒にお月見をいたしましょう」

 乙女はそう言って、頬を淡く茜色に染めていた。てっきり口は災いしか生まぬと思っていたが、時々は功名に一役買うらしい。

 私は「それは楽しみです」と頭を掻いた。

 「そろそろ日が暮れますから帰りましょう」と私が引き返すと「この時節は一番綺麗ですが、すぐに終えてしまいますから、腹五分目です」と乙女は面白い表現で文句を呟いていた。そんな子どものような乙女もやはり可憐である。

「勝太郎さんは秋と言えば何を思い浮かべますか?」    

 少しの沈黙の後、彼女はそっと私にそう聞いた。

「私はサツマイモですね」

 月でも良い。ススキでも良い。むしろそう言った方が、乙女の心と通じたような錯覚に陥ったかもしれない。だが、悲しいことに月でもススキでも腹は膨れないのだ!そして、安価にて易々と腹の膨れるサツマイモが私にとっては『秋』なのだ。

「勝太郎さんも食べ物なのですか。お恥ずかしながら私も梨や栗などが大好物ですから、秋と言えば食べ物なのです」

 お月様やススキではお腹は膨れません。乙女は莞爾と笑いながら私を見上げた。

「そうです腹が膨れなければ秋ではありません」

 本当に乙女とは馬が合いそして話しが合う。私は下手な格好をつけなくて良かった、と胸を張ったのだった。


      ◇


 お盆を経て下宿先へ戻った私は、早速、勝太郎さんにお手紙を書きました。

 晩夏ですから夏はもう終わってしまいますし、季節の装いはすでに秋めいているのですから……

 今年は曾おじい様の三十三回忌とあって、仰々しくも、長々とそれはお別れを惜しみ、訪ねて下さるお客様が絶えることがありませんで、私もお姉様もお客様の接待に走り回っておりました。

 ですから、面持ちとしては不謹慎にもようやっと解放されたと言った趣です。御一緒に下宿先へ戻ったお姉様などは、荷物も紐解かずソファに横になられてしまっておりました。

 「風邪をひきますよ」と私が声を掛けると「ありがとう。でも、それよか顔がくたくたよ。微笑みを浮かべ続けるというのも辛いわ」とおっしゃりながら頬を指でもみほぐしておられました。

 私は『泣き虫の咲恵ちゃん』で通っておりますから、お姉様のように満面の笑みを浮かべずとも良かったのです。ですから、私はご挨拶の時のみに笑みを浮かべるようにしておりましたから、そんなに頬が疲れていませんでした。

 そう言えば、夏はもう終わってしまうと言うのに、私は今年の夏の思い出が勝太郎さんと御一緒した夏祭りしかありません。お祭りの後、数日と経たない内に実家に帰ってしまいましたし、帰ってからは、法要の準備とお供え物やお客様へのお土産などをお姉様と買いに走っておりましたから、やはり、思い出はお祭りだけなのでした。

 昨日、バスの中にて肩を落としてその旨をお姉様にお伝えすると「咲恵はまだいいわ。私なんて何一つ思い出などないのだから」と頬を抓られてしまいました。とても強く抓るのですよ。痛かったです。 

 お手紙を真っ先に出してから、荷物の整理や家のお掃除などをして、ようやく落ち着いた頃合いで勝太郎さんからお返事が来ました。

 お手紙には、『最近は夕焼けが美しく、非常に情緒深いものがありますから、夕暮れの散歩などいかがでしょうか。』と記されてありました。

 私は便箋を手に深く頷きました。確かにフロリアンにてお話をするのも悪くありません。ですが、夕日の茜色をその身に受けた入道雲とその造形美はまさに金殿玉楼のほかにありません。あれを人間が作ることなど不可能なのですから!

 それに私は散歩が大好きですから、勝太郎さんのお誘いには望むところだったのでした。

 お約束の日、待ち合わせ場所でした竜田橋へ行きますと、やはり勝太郎さんが先に到着されておりました。

「こんばんわ、勝太郎さん。お久しぶりです」

「これは咲恵さん。お祭り以来ですね」 

私と勝太郎さんは、そのように軽く挨拶を交わした後、無為自然と川沿いの道を生駒神社方面に向けて歩き出したのでした。

 私はふっと寂しくなりました。お祭りの日から数えて一ヶ月近く、この道を歩いておりません。ですが、私の脳裏には頭上に煌々と提灯の列、そして、出店からは情緒よろしい音や香ばしいソースの匂いが漂っておりました。私と勝太郎さんはそれぞれに林檎飴やら綿飴、お面を買ったのでした。お面などはお揃いでしたから、一段と嬉しく思えましたもの。

 さながら夏夜一夜の夢の後……と言った面持ちです。

「あんなに賑やかでしたのにね」

 私は不意にそう呟いてしまいました。

 本当に楽しかったのです。それはもう私も勝太郎さんも大はしゃぎでした。私もこのようにお子様のようにとはしゃいだのは、本当に幼少の頃以来かもしれません。

 私は哀愁の念に、茜空を見上げました。空は今日もなんとも言えない壮大で雄大なカンバスに人知の及ぶところを知らない造形美を描いております。

「勝太郎さん、赤とんぼです。すっかり秋ですね」 

 夕日を背景に真っ赤なトンボが群れて飛んでおりました。私はその情景に思わず指を指して微笑んでしまいました。

「秋真っ盛りですね。そうだ、日本の呼称を〝秋津州【あきつしま】〟というそうです。トンボの国と言う意味なんだそうですよ」

 勝太郎さんは、私の指さした空を見上げてそう言いました。

「そうなのですか。ですから、トンボがいっぱい飛んでいるのですね。勝太郎さんは物知りです。私はまた一つ賢くなりました」

 勝太郎さんのおっしゃることに私はいたく納得してしまいましたから、団栗眼で幼少の頃に思いを馳せました。

 何を隠しましょう。幼少の頃はお姉様より私の方がやんちゃっ子だったのですから。お姉様は虫が嫌いでしたけれど、私は夏と言えば毎日のように虫取りアミと虫籠を持って河川敷や里山を駆け回っておりました。ですから、膝小僧には擦り傷が絶えませんでしたがその折、色々な種類のトンボを捕まえたものです。特に馬大頭【おにやんま】を捕まえた時は、嬉しさあまって馬大頭を片手に泣きながら逃げるお姉様を追いかけたりもしました。

 そう考えてみますと困った妹だったわけです。

 私は少し躊躇したのですが、トンボを追いかけて田畑を走り回った私の武勇伝をお話することにしました。大した話しでもありません。ですが、勝太郎さんは楽しそうにこれを聞いて下さいました。そして、馬大頭を持ってお姉様を追いかけ、ついには泣かせてしまった、段になるとついに笑いだして下さったのです。

 お話をしていると、とても時間は早く流れるものですね。気が付いた時には山の裾野より順々に夜のカーテンが降りてきていました。濃くなった緑はまるで翠玉のようです。

 そろそろ、帰り時ですね。と内心で残念に思っておりますと「秋になれば、空気が澄んで月が綺麗に見えますね」まるで、名残惜しむかのように勝太郎さんが呟かれました。

「はい、仲秋の満月ですね。その折は勝太郎さんも御一緒にお月見をいたしましょう」

 私は言いました。少し恥ずかしかったのですけれど、何を隠しましょう、私は毎年一人でお月見をしていたのです。月見団子を拵え御神酒とススキを飾って、まん丸お月様を見上げていたのです。

 もちろん今年も、お月見をしましょうと思っております。けれど、今年は勝太郎さんもお誘いしましたし、お姉様もおられますから、去年よりはずっと賑やかになることでしょう。

 勝太郎さんは「それは楽しみです」と俯いて頭を掻いておりましたが「そろそろ日が暮れますから帰りましょう」と生駒神社の手前で引き返したのでした。

 「この時節は一番綺麗ですが、すぐに終えてしまいますから腹五分目です」私はそう呟いてから、「勝太郎さんは秋と言えば何を思い浮かべますか?」と傍らを歩く勝太郎さんにお聞きしてみました。

 さて、勝太郎さんはお月様やススキなどに秋を感じられる殿方なのかもしれません。もしかしたら、食べ物に秋を感じることを是としないやも……ですが、残念ながら私は梨や栗など、秋の味覚にこそ秋はあるものです。と思っていたのでした……

 ですから、

「私はサツマイモですね」と勝太郎さんがおっしゃった時、私は思わず手を叩いてしまい

そうになりました。けれど、手を叩くなど、少し大袈裟過ぎますから「勝太郎さんも食べ物なのですか。お恥ずかしながら私も梨や栗などが大好物ですから、秋と言えば食べ物なのです」と言い、そして、「お月様やススキではお腹が膨れません」と続けて言いながら満面の笑みを浮かべてみたのでした。

 婦女の嗜みにも、少しばかしお淑やかにお月様やススキと言ってもよかったのですが、とても不思議なのでした、勝太郎さんの前では私らしい私でいられるのです。いつもお父様のお知り合いの殿方やそのご子息様などとは、肩肘を張ってでも淑女たらんと猫を被るのですが、本当にどうしてでしょうか?お祭りの時のはしゃぎようと言い、蚊柱にしても、

気が付いてみれば私は猫を被るのも忘れてしまっているのです。

 だから、後々羞恥心が立って、俯いてしまっても、勝太郎さんはまるで動じることもなければ、私に淑女たらんこと強要しないのです。ですから、私は勝太郎さんとお別れした後、改めて今一度お会いしたいと思ってしまうのでしょうね。

 そのようなことを話しながら家まで送って頂いた後、私玄関にてドアに背を持たせて、

眼を閉じてみました。

 すると……やはり、またお会いしてお話をしたいと思ったのです。

「おかえり咲恵。ちょっと、何をにやにやしているの?気持ち悪いわ」

 出迎えに来て下さったお姉様は、眉を顰めてそうおっしゃいました。

「にやにやも笑顔ですから良いのです」

 私はそのように返事をすると、スキップをしながら居間へと向かったのでした。


      ◇

 

 私の黎明となるべく何度目の朝がやって来た。そうだ今日こそ、私の懐は焼き芋のごとくほかほかとなるのである。

 月初めの本日は内職の納入日であり、それは同時に私にとって、乙女との賛美されるべく時間への糧が手に入る日でもあった。

 私は早朝に一度支度をしてから再び昼前まで惰眠を貪り、残暑の厳しい中を本屋街へ向けて歩くことにした。近道を行くかどうか迷ったのだが、やはり竜田橋を越えて正規の道程を歩くことに決めた。近道もよい、機微として逸る気持ちからすれ、少しでも早く金銭を手中にしたいと思うのは誰とて同じであろう。だが、この季節、特に酷暑の後、秋口は熟成に熟成を重ねた肥溜めが悲痛な匂いを発するのである。我が居城である流々荘の便所とて、負けず劣らずなのだが、肥溜めはこれでもかと言うほどにふかく掘られている。ゆえにその臭さも自乗自乗と匂いの倍率だけで論じるならば、この匂いは遥か宇宙へも流出していることだろう。

 充血した眼のまま納入を済ませ、財布を温めた私は、その足で本屋街をぶらぶらすることにした。

 黒髪の乙女はたいへんな読書家らしく。以前、私がお勧めした海底二万里はすでに読み終えてしまったとのことであった。ならば、私も新たに面白い書籍を発掘してまた乙女にお勧めせねばなるまい……決してそのような使命感にのみかられて、本屋を覗いていたわけではない。言うなれば半分程度だろう。

 実を言うと私も読書が好きな性分であったのだ。

 私は学生であるから、本来ならば入学時に購入した浅学非才の辞典を買い直さなければならないのだが……これがどうしたことかべらぼうに高い。高価なのである。特に我ら貧乏学生の間では雲の上の辞書として名高い『エニグマ』という百科辞典は他の辞書とは一線を画しており、この辞書を手に入れた暁にはめでたく卒業が約束され他も同然と、噂される万能辞書なのであった。

 常々、購入意欲だけは潰えずとも、逆さまにぶら下がったあげくにブレイクダンスを踊ってみたとて、そんな金は畳みの上に転がり落ちることはない。

 だから、面白そうな娯楽小説でも購入して、四畳間にて現実逃避でもしてやろうと意気込んだ私の目の前に、まごうこと無き『ENGM』と表紙に大きく書かれた百科辞典を見つけた時、私は思わず眼をしばたかせて頬を二度も抓った。

 大學の購買にてガラスケースに仰々しくも飾られたエニグマを私は穴が開くほど見てきた男なのである。だからこそ、表紙を見間違えることなどがあるはずがない。

 そのエニグマはこともあろうに古本書籍の棚に乱暴に横倒しになっていたのである。私に聞こえた、そして見えた。エニグマが私を呼ぶ声を!栄光を餌に手招いている姿が!

 私は迷わず他の書籍には脇目も振らず、エニグマを小脇に抱えて狭い店内を走った。

古本にもかかわらず、私的一週間の食い扶持を吐き出させたのはさすがは天下のエニグマであろう。

 念願のエニグマを手に入れた私は、蝶々のようにふわふわとした足つきでふわふわと高揚した心中にて、久方ぶりにスキップ混じりに四畳間へと帰ったのであった。

 さて、天下のエニグマにはいかなる未曾有の知識が詰め込まれているのだろうか、それはもう大凡私などの想像が及ぶ範疇などは軽く超越した境地、それこそ私が石器時代の住人であるとするならば、このエニグマはアトランティス人の知識と栄華が詰められた産物に違いない。

 私には明瞭にエニグマが輝いているように見えた。錯覚でもかまうまい。どうだろう机の辺りに転がる私の蔵書と比べても、博識にてずっしり重くその堂々としたると姿見の良さと言ったら、その全てを凌駕していて当たり前である。

 私は早速、現在執筆中の論文に使えそうな項目を探ろうと索引を探した……がなかった。大体は末ページに記載されてあるはずなのだが。そこはエニグマである。きっと私の知る辞典と同じでなくとも別段不思議ではあるまい。きっと項目が多すぎて記載できなかったのだろう。

 次ぎに私は目次を探して、ページを捲った。

 すると、あるにはあった。確かに目次はあった……

 だが、それは私が望むべき目次ではなく、驚嘆のあまり次の瞬間に私は『エニグマ』を足元へ落としてしまった……


      ◇


 私はこの歳頃なりまして、再び児童文学を手に取りました。幼少の頃から家の本棚に並んでありましたが、その頃わたくしは大変、字が下手であり本は全て手書きで書かれてあると思っておりましたから、私はこのように字が汚いのに、どうしてこのように綺麗にかけるのでしょう。と本の文字に嫉妬していたことをしっかりと覚えております。

 それから幾星霜。書道教室へ通ったりお母様に手ほどきを受けて、ようやく人様にお見せする文字となり、本を手に取るようになったのです。

 童話と呼ばれるものはやはり、お子様が読む物でしょう。教訓や夢がとてもたくさん詰め込んでありますから。

 ですが、私も今それを大切に読んでいるのです。このように甘く夢のある物語を生粋の大人が書いていると想像すると、きっとその方の頭の中はお花畑や水のかわりにそれは甘い蜂蜜が流れる川などがあるのです。もちろん私は著者の方とお会いしたことがありません。けれど、殿方であれ婦女であれ、きっと眼鏡をかけていると思ったのです。

 本好きの定めだと思います。童話を片手に夜を明かしてしまう私とて近々眼鏡のお世話になるかもしれません。ただ、心配なのは私にはたして眼鏡が似合うかどうかと言うことです。あまりに醜い様子であるならば、眼鏡をはずして外を歩かねばなりませんもの。ですから、私は桜並木そばの芝生の上で本を読んでいる時などは、伊達眼鏡をかけておりました。

 まずは、外で眼鏡をかけることから慣れましょうと思ったのです。

 本日も私は伊達眼鏡をかけて、グリム童話を読んでおりました。すると「鴻池さん、少しばかし、こちらへ来てもらえないだろうか」と声を掛けられました。

「はい、鈴木先輩。すぐに参ります」

 私は本を閉じると、本を芝生の上に置いて、桜並木へと歩いて行きました。

「読書中にすまないね」

「いえ、倶楽部のことですか?」

 鈴木先輩は眼鏡をかけたおられる先輩でした。常々、よほど本を読まれているのでしょうね。と思っていました。ですが、鈴木先輩は細身の長身を思う存分に生かして、テニスも実に達者なのです。ですから、私は文武両道なのですね。と先輩を少しばかし尊敬しておりました。

「本日の倶楽部なのだが、私はどうにも行けそうにないんだ。部長から倶楽部室の鍵を預かっているのだが、君は今日倶楽部はどうするかな。できれば、倶楽部室の鍵を預けたいのだけれど」

 鈴木先輩は『ENGM』と表紙に書かれた分厚い図書を小脇に抱えておられました。そして、もう片方の腕の先には小さなテニスラケットを象った装飾がぶら下げられた鍵がぶら下がっていました。

「本日はご学友とのお約束がありまして、倶楽部に参りません。ですが、倶楽部室の鍵を開けるくらいでしたら承りますわ」

 本日は小春日さんとお買い物のお約束をしておりましたので、倶楽部には参加できないのでした。けれど、倶楽部室の鍵を開けるくらいでしたら。雑作もありませんし、同じテニス倶楽部に所属する小春日さんもそれくらいの間くらいはご容赦下さることでしょう。

「そうかい。それでは鍵を預けておくよ」

 そう言って、鈴木先輩から鍵を受け取った私は鈴木先輩の傍らに佇んでいる殿方に今更ながら気が付きました。

「そちらの方は鈴木先輩のお知り合いなのですか」

「ああ、演劇部の楠 良介君だ。なんだ鴻池さんはこのような男が好みなのかい?だったら、残念だね。良介君には桜子さんという想い人がすでにいるのだよ」

 私はそんなことまで言っておりません!と言いたかったのですが、声に出せず、楽しそうに笑う鈴木先輩を上目遣いで眼光を強くしました。

 先輩。婦女をからかうのよろしくないですよ。と良介さんはおっしゃって下さいました。

そして「お初にお目にかかります。楠 良介と申します」とお辞儀をして下さったのです。

「鴻池 咲恵と申します」

と私も自己紹介の後、お辞儀をお返ししました。

「鴻池……失礼ですが、鴻池 瑞穂さんとおっしゃる方をご存じありませんでしょうか」

「はい、存じ上げるもなにも、私の姉です」

どうして良介さんは私のお姉様のことを知っておられるのでしょう。私は驚いてしまいました。

「私の恋人の友人らしく、何度か三人で喫茶をしましたので」

「そうなのですか、お姉様は顔が広いですから、それにしても奇遇ですね」 

 どこか勝太郎さんに似ている雰囲気の良介さんに私は好感を抱いてしまいました。なにせ、物腰柔らかく、ぎこちなくもしっかり私の顔を見て下さるのですから。

 それに、それに……桜子さんでしたか……想い人のことを『私の恋人』だなんて、恋人だなんて!きっと、良介さんは桜子さんのことを大切に想っているに違いないのです。

 私もいつか、『私の恋人の咲恵さん』と呼んで頂ける日がくるのでしょうか……

 これこれ、鈴木先輩がそう言って、私と良介さんの間に咳払いをしながら割り込みました。

「良介君。君は先に図書館へ行っていたまえ。鴻池さんにはもう少し話しがあるのでね」 わかりました。と先輩の言葉に素直にそう言った良介さんは「それでは鴻池さん。折あらばまたどこかで」とお辞儀をして、図書館の方へ歩いて行ってしまいました。

 「はい、その折はお姉様と桜子さんと相席したいものです」と お辞儀をお返しした私は、さて、読書に戻りましょうと思ったのですが、

「鴻池さんはいつから、眼鏡をかけるようになったんだい?」と先輩に聞かれてしまいましたので、歩き出すことができませんでした。

「いえ、これは伊達眼鏡なのです」

 と正直に言いますと。

「はははは、君は面白い女性だな。私など眼鏡が煩わしくて仕方がないと言うのに、君は好きこのんで眼鏡をかけるのかい?それは健常者のエゴだな」

 そう言いながら先輩はまた笑うのでした。

 私はそんなに笑うことはないではないですか。と言いたい言葉飲み込んで拳を握り締めておりました。どうして、眼鏡を本の上に置いて来なかったのでしょうと後悔をしながら……

「それで、明日の日曜日は暇かな?私と喫茶でもどうだろう。この前は、忙しいと断られてしまったからね。今回はどうだろうか」

 先輩は細身で長身ですから、姿見もよろしく、もしかしたらお茶のお誘いをされている私を羨む婦女もいるやもしれませんが、私は鈴木先輩の人間性は嫌いなのです。先輩は学業優秀で運動も得意です。けれど、それを鼻に掛けるとこもあり、端的に言えば高慢ちきなのです。

 確かに文武両道である姿は尊敬に値すると思いますが、私の気持ちなどお構いなしに、傷つけておいて、誰が喜んで喫茶のお約束をするものですか!

ですから私は「明日は、私の恋人と喫茶のお約束がありますから、無理です。それに、恋人がいる身の上は喫茶のお誘いを承諾をすることまかりなりません」と声を荒げてしまったのでした。

 一朝怒りにその身を忘れてしまうなんて、私はまだまだ淑女としても人としても修行が足りません。

 それに恋人と喫茶だなんて……恋人のいる身の上だなんて……嘘にも見栄にもまかりならないのは私自身です。眼鏡をはずしてポケットに仕舞い込んだ私は、グリム童話を抱き締めて溜息を何度もついておりました。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた先輩には生々とした面持ちでしたが……明日はどうしたものでしょう。もしも鈴木先輩と鉢合わせ などしてはいけませんから下手に家から出るわけにもいきません。明日は家の中に籠もるしかなさそうです。

 私は自分で捲いた災いに頭を垂れて、小春日さんとのお約束の後、多めに食糧を買いに行きましょうと明日の算段をしておりました。

「咲恵さん、今日も読書ですか」

「勝太郎さんっ!」 

 なんと、頃合いよろしく勝太郎さんが来て下さったのでした。勝太郎さんは今し方まで駆け回っていたと言わんばかりに額に汗を浮かべておりました。もしや……もしかして、私の姿を見つけて、わざわざ駆けて来て下さったのでしょうか。

 そんな風に恍惚とする傍ら、あまりにも私が黄色い声を出したものですから勝太郎さんは「そのように喜んで頂けると嬉しいですけれど、何かあったのですか?」と一歩後ずさってしまいました。

「いえ、少し声が大きくなってしまいました」

 私は見上げた頭をまた膝元に戻して言いました。

「別にそう言う意味で言ったのではありません。ただ、私も嬉しかったものですから」

 と頭を掻く勝太郎さんは、

「明日、お暇でしたら喫茶などいかがでしょうか」とこともあろうに、喫茶のお誘いまでして下さったのでした。

 私には勝太郎さんが、観音菩薩様のように見えました。怒りに我を忘れ、口走ってしまった見栄と嘘が本当になってしまったのですから!

 私は嬉しさ余って思わず眼を潤ませました。

「えっ、咲恵さん。私は何か気に障ることを言いましたでしょうか、そんな、すみません、ごめんなさい」

 私が涙を拭うと、勝太郎さんは酷く狼狽して小脇に抱えていた図書を落としてしまわれました。

「いえ、眼にゴミが入ってしまっただけですから」

 私は嘘をつきました。ですが、嬉し涙の理由を勝太郎さんにご説明差し上げても、はたして納得してもらえるとは思いませんし、このことについて私は、お墓まで持って行くつもりでおりますから、たとえお姉様であったとしてもお話することはないと思います。

「はい、喫茶のお誘い承知しました。それでは、お昼の一時に竜田橋でどうでしょうか」「はい。それで結構です」 

 勝太郎さんは、落とした図書を拾ってから、そう言って頷きました。

「それでは楽しみにしておりますね」

「私も、明日の楽しみできました」

 そう言って勝太郎さんは微笑むのです。

 私とお茶をするだけですのに、そのように喜んでいただけたら、婦女冥利に尽きると言うもの。やはり勝太郎さんは、愛情細やかな殿方なのです。「それでは、私は図書館の方で用事がありますので」と桜並木へ戻って行く勝太郎の背中をそのように思いながら、見つめておりました。

 そして、抱き締めていたグリム童話をさらにきつく抱き締めたのでした。


     ◇


 私は似非エニグマを小脇に抱えると、大學へ駆けた。この荒くれだった心中を癒せるのは、黒髪の乙女だけだろう。

 そして、私は決めた。誰がなんと言おうが決めてしまった。

 いつもの芝生の上に乙女がいたなれば、腰を降ろして読書などしていたなれば、明日の日曜日のお昼時に喫茶へお誘いしようと!

 そしてその後、図書館へ転がり込んで、この似非エニグマと高値で売れそうな書物を物物交換してやると!

 はたして、エニグマは似非であった。表示はまごうことなき『ENGM』であった。だが、それはエニグマではなかったのである。

 大學生垂涎の偉大なる百科事典に『ヘンゼルとグレーテル』や『赤ずきん』『白雪姫』などと、その他童話にのみ構成されているわけがあるまい。

 それはエニグマではなく、間違いなく『グリム童話』なのであった。さらに厳密に言うと『グリム童話集』だったのである。

 私は一週間の食い扶持を、全力でしかも満面の笑みと興奮をもって溝に投擲したのだった。ゆえに、大學の附属図書館にて金になりそうな蔵書とこのグリム童話集をすり替えてくれるのである。

 図書館からすれ、大學からすれば大切で貴重な知識の蓄積を、持ち出されたあげくしがない本屋に売り飛ばされるのだから、迷惑の以外の何ものでもあるまい。迷惑千万だろう。だが、なんと文句を並べようとも私の命が救われるのであるから、万事問題ないのである。

 万事は人命を最優先してしかるべきなのだ。

 私は仮初めの正義を振りかざし、堂々と大學の門をくぐった。

「よう筒串」

 元気だったか?、とにやにやしながら私に声を掛ける輩がいた。

 私は当然無視をした、見えていたが見えていない体を貫いて、そそくさと歩むのである。

古平をはじめ、にやにやと笑みを浮かべて近寄って来る人間は往々にしてろくな思考をしていないのだ。

「ちょっと待てって」

 すると、その男は食い下がって、私の面前に立ちふさがったのである。

「西村。お前とは遠い昔に縁を違えたはずだぞ」

 残念ながら、私はその男を知り置いていた。眼鏡に無造作な髪型は男のくせして肩まで伸び、いつもそれを一つ括りにしている。

 この男とは私が初々しくも松永信者であった頃、映画倶楽部に厄介になっていた折の知り合いであるが、もちろん、反松永に転じたその瞬間からこの男との縁断ち切ったはずなのだ。

「昔のよしみだ、ほら、飯だってさんざん奢ってやったろう。話しくらいは聞けって」

 そう言って、西村は汚らしい手を私の肩においたのだった。

「話しだけだぞ」

 私は掛けた恩は水に流し受けた恩は石に刻む男なのである。意思、無意思関係なくも、飯を恩を忘れるわけには行くまい。ただし、話しによっては今後もただ飯が食えるなどと言う損得勘定に流されたわけでもない。

 西村の話しでは映画倶楽部は文化祭に間に合うように映画を撮るらしい。題名は「あゝ青春の日々」だそうだ。だから、私に雑用兼役者として手伝えと言い出すのものと勘ぐったのだが……「最近お前、親しい女性がいるそうじゃないか。なかなかの上玉だと聞く、そこでだ、お前からその婦女に映画への主演をお願いしてくれないか」と言いだしたのである。

 私はもちろん「不可能だ」と即答した。電波の早さで即答してやった。

「そこを押して頼む。洋食三昧三日でどうだ」 

「だがしかし断る」 

 私はそう言うと、「そう言うなよ」とさらに食い下がらんとする西村に対し、脇に抱えたグリム童話集を振り上げて、脳天から二度ほど打ち据えてやった。

西村は舌を噛んだのか「ひにゃ」と木天蓼【またたび】に陶酔した猫のような声を出したかと思えば、更に振り上げる私の面前から脱兎して逃げ出したのであった。

 なんと忌々しい凡愚の輩なのだろうか。

 たかが昼飯三日分ごときとわが愛しの黒髪の乙女とを天秤かけようなど笑止千万!私はとかく食欲には事欠かき、常に腹を空かせている身の上なれども、それ以上に尊ぶべきは黒髪の乙女であり、それは不動にして天上にも天上もない唯一乙女独尊なのである。

 深くうなずいた私は、少し離れた場所から私を見ている西村を見つけると、やはり腹立ち、グリム童話集を振り上げ、夜叉のごとく追いかけたのであった。

 私は追いかけた、それはもう必要以上に追いかけた。廊下を駆け抜け、講義中の講堂を横切り、事務所の書類を散らかして、再び外に躍り出た。桜並木を食堂に向け駆ける西村を私は決して逃すまいと空腹の腹に鞭打った。

 だが、私は先行する西村が食堂脇の小道に逃げ込んだところで追随することをやめた。その先は旧講堂になっており、現在では倶楽部室や執行部の根城となっているのだ。だから、映画倶楽部の倶楽部室も旧校舎にある。ゆえに、倶楽部室へ逃げ込まれてしまっては手も足も出ない。そればかりか、旧講堂は異名を松永御殿と称すのである。言うまでもないが松永一派の根城でもあるのだ。

 そのような伏魔殿に反松永を掲げる私がグリム童話集のみを頼みの綱として、突撃を敢行したところで、即座に逆襲に尾を巻いて逃げねばなるまいは必定。白昼堂々と不毛な争いをするのも情緒に欠ける。それに私は乙女に会うために大學へやってきたのだ、それでは本末転倒の上に目的の逸脱もはなはだしい。

 私はすっかり汗ばんだ額を袖で拭うと、呼吸を整えてから桜の大樹の脇を通り過ぎた。

 乙女は果たしていつもの芝生の上にいるだろうか、もしも、乙女がいなければ、私は何をしに大學へ来たというのだろう。西村を追いかけにわざわざ出向いたわけではないことだけは確かである。

 そんな私の不安をよそに、

「咲恵さん、今日も読書ですか」乙女はいつもの芝生の上に乙女は座していた。

 だが、どうしたことだろう。今日は本を開くこともせずただ抱きしめ、どこか物寂しげに佇んでいるのであった。

「勝太郎さんっ!」 

 かと思えば私が声を掛けたとたんに、発条を巻たてのオートマトンのように顔を上げると喜色浮き立つ声を上げたのだった。

「そのように喜んで頂けると嬉しいですけれど、何かあったのですか?」

 私は背を仰け反らせると共に、草の根にかかとを引っかけて、一歩後ずさってしまった。

「いえ、すみません。少し声が大きくなってしまいました」

 折角黄色い花を咲かせた乙女だったと言うのに、私の何かがそうさせたのだろう、乙女はそう言うと再び頭を垂れてしまった。

 そんな乙女に私は「別に、そう言う意味で言ったのではありません。ただ、私も嬉しかったものですから」と照れ隠しに頭を掻きながら言った。

 乙女は私の言葉にゆっくりと顔を上げると、物言わぬ表情のまま私に視線をくべていた。

愁い含みの乙女の表情もこれまた……

「明日、お暇でしたら喫茶などいかがでしょうか」

 乙女が何も言う気配がなかったので、私は続けて言った。何を隠そう私は決めていたのである。乙女に相まみえられたならば喫茶にお誘いすると……

 乙女は私の顔を見上げたまま、瞳を潤ませたではないか、私は酷く驚きとてつもなく狼狽した。「えっ、咲恵さん。私は何か気に障ることを言いましたでしょうか、そんな、すみません、ごめんなさい」そして、なんとかそう言いつつも、脇に抱えていた似非エニグマを落としてしまったのであった。

「いえ、眼にゴミが入ってしまっただけですから」

 乙女はそう言うと目元を拭って見せ「はい。喫茶のお誘い承知しました。それでは、お昼の一時に竜田橋でどうでしょうか」と続けて言ったのだった。

 私はと言うと、安堵息を吐きながら落とした図書を拾い上げてから「はい。それで結構です」と言った。

「それでは楽しみにしておりますね」

 そう言う頃には乙女の表情にいつもの笑みが戻っていた。

「私も、明日の楽しみできました」

 私はさらに安心して安堵の息をつくかわりにそう言って笑ってみせた。

そして「それでは、私は図書館の方で用事がありますので」と乙女と別れ、一人図書館へと向かったのである。

 今更ながら、乙女と会う以外に私には崇高なる目的があっ。、西村を追いかける道程で忘れてしまう程の、用事であった。しかし、思い出してみれば私の食い扶持が生まれるか、一週間を無食で過ごすかと言う重要な案件ではないか。

 向かったまでは良かった。しかし、図書館の入り口には『演劇倶楽部貸し切り』と書かれてあるではないか。私はわかりやすく、首を捻った。どうして演劇倶楽部が図書館を貸し切る必要があるのだ。

 旧講堂には、歴とした舞台が備わっているはずであるからして、稽古しかり何しかり、旧講堂で行えばよい。どうして公たる知の収束地を一部の學生に占領されねばならんのか。

 私は何喰わぬ顔で図書館へ入ろうとした。入ろうとしたのだが……

「申し訳ありません。本日は図書館を貸し切って、舞台のお稽古をしておりますので、どうかご容赦くださいませ」

 と後ろから声を掛けられて、私は扉に掛けた手を引っ込めた。

 振り返れば、それはいつか瑞穂さんと共に歩いていた大和撫子こと桜子さんではないか。

「これは桜子さん。桜子さんも演劇倶楽部だったのですか」      

「これは確か筒串さんでしたわよね。こんにちわ」

 桜子さんは衣装なのだろうか、足元から頭の先まで、真っ白なドレスを身に纏っていた。

頭にはヴェールまで……

「はい。ああ、これは衣装でして、今度、文化祭にて演じますフィガロの結婚と言う演目のお衣装なのです」 

 と私の視線に気が付いたのか、慌ててそう説明してくれた。

 私は惚れ惚れとそのドレスに……いや、ドレスを身に纏った桜子さんに見入ってしまった。これが巷で噂。純白乙女の洋式花嫁衣装、『ウエディングドレス』と言うものに相違なかろう。

 初めてその衣装を眼にした私は、はしたなくもこのような可憐な女性の心の中にいる良介と言う同性に嫉妬した。紛うことなき嫉妬心を燃やした。

「それでは、本日は図書館を諦めます。お稽古がんばって下さい」

 そう言いながら、せめてもと私は扉を開けて差し上げた。

「すみません。それでは」

 やうやうしく、お辞儀を残して桜子さんは図書館の中へ入って行く。その後ろ姿を見送りながら、扉を閉めた私は改めて図書館への入館を諦めたのであった。

 この図書館の中に後何人純白の衣装に袖を通した婦女がいるのかは定かではないが、少なくとも桜子さんが入って行った限り、部外者である私が闖入することはできない。

 堂々と邪魔をしてやろうと目論んでいたわけだが、大和撫子の邪魔はしたくない。それに眉を顰められる所行もお断りだ。ゆえに己が誠に恥じぬように、私は踵を返し、流々荘がへ引き返すことにした。


      ◇


 帰り道、我が心の大和撫子である黒髪の乙女と一言二言、言葉を交わして帰ろうと思っていたのだが、丁度その手前で、忌まわしき西村の姿を発見してしまった私は猪突猛進とこれを追いかけ、私に気が付いた西村は塀を乗り越えてグラウンドへ逃げ出した。私ももちろんこれに追随したことは言うまでもない。

 野球部のダイヤモンドの中を通り過ぎ、一直線に襲い来る打球を私は華麗にかわし、陸上部員よりも早くゴールテープを切り、そして校門のところで足を絡ませて派手に転んだ西村の背中に馬乗りになると、本が破れるほど無造作に伸び放題の髪の毛を携えた脳天を打ち据えてやった。

 西村がすっかりのびた頃合いで、私は何喰わぬ顔で帰路についた。昔年の恨み辛みを全て解放した清々しい心中は空を雲をいつもよりまして青く白く見せてくれるようであった。

 流々荘へ帰った私は、炊事場へ行き、七輪に掛けられた小鰺の干物を一枚摘むと、それをはみながら四畳間へと入った。そして脳天へのみ打撃を加え少しばかし疲れてしまったグリム童話集を紐解いたのである。

 このように夢のある物語をいや空想をだいの大人が書きなぞらえたと言うのだからとんだお笑いぐさである。このような現実からかけ離れた『ふぁんたじぃ 』などと言うものかまけていて立派な人間なれるとは到底思わない。私は著者に対して侮蔑の言葉を並べ立て、ついでに皮肉を歌った。大人が夢物語の虜になってしまうなど唾棄すべき人間へのはじめの第一歩であろう。

 善行の見返りに金のなる木や金銀財宝が手にはいるのなら、四六時中善行に明け暮れよう。ご都合主義かくありきと邪推な真心、これこそが大人であるがゆえなのである。

 グリム童話集の序章を読んでいた私はとかく捻くれたいた。だが、本編が始まると、ヘンゼルとグレーテルのなんとも可哀想な兄妹に同情し悪辣な魔女に憤慨して、結びを読んで安心し、赤かいずきんを被った少女の真心に感銘し、畜生の風情が人間を欺くとは!と少女が大好きであった老婆を食い殺し、老婆になりすました狼に対して殺気をみなぎらせた。末期に猟師によって狼が撃ち殺された瞬間などは、「それ見たことか!」と一人拳を突き上げたのだった。

 宵の口を過ぎて、一呼吸おいた私は、本の間に挟んであった『李』と大きく赤色で印された古くさい栞を見つけ、それを挟んで本を閉じると、万年床にて玉響の仮眠を経て、再び『ふぁんたじぃ 』の世界の門をくぐった。

 次なるお話は白雪姫であった。

 私は夜通し手に汗を握りながらページを捲る。七人のこびとの人の良いこと、あくどい性悪女はよりにもよって、私と咲恵さんが愛してやまない丸くて小さく姿見の良い林檎に毒をもったのだ。私は再び怒髪天と腑を煮えたぎらせた。だが、結末において、白馬に跨った王子が白雪姫に口づけをする場面に到達すると、思わず顔を火照らせてしまった。そそれと言うのも誠に阿呆な話しなのだが、白雪姫が咲恵さんであり、王子の役を私が拝命した場面を思い浮かべてしまったからである。やはり私は阿呆だ。

 最後のお話しは締めくくりに相応しい物語であった。それは人魚の姫と人間の王子との淡く切ない恋愛話であった。

 壮絶にも己の愛を貫いた人魚姫はやがて、空気の精霊となって天へ昇っていった……王子よなぜだなぜなのだ!なぜ気が付かないのだ!私は号泣にて蒼白くなりつつある空に向かって、無言の叫びをあげた。

 そして、私は私自身に自問したのである。お前は咲恵のさんのことを命をかけて焦がれることができるのか、たとえこの思い伝わらず失意のうちにこの身が果てることとなったとて、何も言わず空気の精霊となって天へ昇ることができるのかと……

 二つ返事で「はい」と言えなかった自分がもどかしかったが……恋いこがれている婦女に想いを伝えられずに朽ち果てるなどしたくない。そんなことが出来るはずがない。私はやはり夢の世界に生きることはできない、人間らしい人間であった。

 万年床に横になって、想いを巡らせていた私。明確な意思は表すことができず、意識が失われる少し前に呟いた言葉は「そばに居てほしい」だった。

 

      ◇


 嘘から出た誠とはこのことを言うのですね。私は、お姉様に口紅の塗り方を教えて頂き、洗面所にて鏡に映る自分の顔と睨めっこをしながら、そのように思っておりました。

 勝太郎さんと喫茶の席を御一緒するのはもう何度目でしょうか。もう慣れたものと、胸の辺りが熱くなることもありませんでしたし、本日は伊達眼鏡をしていきましょうと、思うまでに心持ちに余裕がありました。 

 洗面所にて自分の小さな口唇を尖らせて見たり頬をあげてみたり、睨めっこをしておりましたが、やはり、紅をのせただけで随分と私の印象が明るくなるのですから不思議です。

「咲恵、お約束の時間に遅れるわよ」

 そのようなことをしておりますと、お姉様がそう言いながら腰に手をやって洗面所へ入って来たのでした。

「もうそのような時分ですか?」

 私が驚いた表情でそのように聞き返しますと、

「あなた、寝間着のままで勝太郎さんとお茶をするつもりなの?着て行く服をまだ決めていないでしょ」

「そうでした」 

 私は、はっとなって寝間着の裾を指で摘んで「お姉様どうしましょう」と顔を蒼くしたのでした。

「もう、咲恵は私がいないと本当にだらしがないのだから、お洋服を着る前に口紅を塗ってどうするの。お洋服についてしまうわ」

 お姉様は私と一緒に部屋へ行くと、クローゼットを開きながら、呆れ声を出します。

「だって」

 私も薄々は気が付いているのです。私はもうお子様ではありませんから、何でも一人でこなさなければなりません。ですが、幼少の頃よりお姉様やお母様を頼りと成長してきた私ですから、お姉様やお母様が傍らに居て下さるとついつい悪い癖が出てしまい甘えてしまうのでした。

「今は良いけれど、いつかは私もお母様もいなくなってしまうのだからね」

「それはわかっています……」

 そんなことはわかっているのです。ですけれど……私は黙って頬を膨らましました。

「それは、お母様が言うことです。お姉様には言われたくありません……」

「わかってるわ。だから言ったのよ」

 お姉様は何着かお洋服をベットの上に並べると、嬉しそうな表情をして私に向き直ったのです。

「突き放すのはお母様。可愛い可愛い妹を抱き締めるのが姉である私だもの」

 ちょっと意地悪。とお姉様はお茶目に舌を出して見せたのです。

「お姉様は本当に意地悪です。本気にしてしまいましたもの」

「甘えてもらえるのは姉の特権だもの、咲恵だって、甘えるのは妹の特権だって知ってるくせに」

「それは心得ておりますよ。私はお姉様の妹ですもの」

「文句を言いながらも、私は咲恵が可愛くてしかたないのだから、そこも察してくれると嬉しいわ」

 お姉様はそう言うと寝間着姿の私を優しく抱き締めて、頭を撫でて下さいました。

「そんなことはとっくの昔にわかっておりましたよ。私も意地悪をしたのです」

 私は膨れっ面をやめて、微笑んでお姉様の耳元でそう囁きました。本当のところは純粋な嘘だったのですが、人を苦しめたり陥れたり、罪悪の念が漂う嘘で無ければ、良いではありませんか。

 私は待ち合わせの竜田橋へ向かいました。お姉様が選んで下さった洋服と、口紅は自分で今一度差しました。

 さて、今日は何をお話ししましょうかと、考えてながら歩いておりますと、不思議なことに、道程短くもう竜田橋ではありませんか。このような不思議なこともあるのですねと、

欄干に手を置いて竜田川の流れを見下ろしていたのです。

 珍しく、勝太郎さんの姿はありませんでした。いつも私よりも先に到着されておられましたから、本日もてっきりと思っていたのですが……ですが、待ち合わせの時間にはまだ早い時分ですから遅刻ではありません。

 私は勝太郎さんを待つ間ポケットに忍ばせた伊達眼鏡を取り出すと、こっそりと掛けてみました。はたして、勝太郎さんは眼鏡を掛けた、伊達眼鏡を掛けた私の姿をなんとおっしゃるでしょう。

 鈴木先輩は『それは健常者のエゴ』だとおっしゃいました。言われてみれば、私は視力には自信があります。私の姉妹も両親も誰一人眼鏡を掛けておりませんもの。お酒が強いと言うのも同じです。

 勝太郎さんは今まで、私を褒めてばかりして下さいました。本日こそは、本日こそは、鈴木先輩のように言われるのかもしれません……

 でもでも、勝太郎さんなら、「似合っておりますよ」と言っていただけるやもしれません。こう見えて私はの心は傷ついていたのです。エゴだなんてエゴだなんて……似合っていないと言われるのであれば、別段気にも致しません。けれど、エゴだなんて……それではまるで私が眼鏡を必要とされる人々に対して、『私は眼が良いのですよ』と嫌みを言いふらして楽しんでいるようではありませんか。

 私はそのようなことを思ったことはありません。眼鏡を掛けていると言うだけで世界が少し違って見えるのが面白可笑しかったのです。ただ、それだけだったのです。

「すみません。お待たせしました」

 私が到着してから、少しして、勝太郎さんが息せき切って駆けてきました。

「いえ、私も今し方到着したばかりですよ」

と勝太郎に言いました。

「一目では誰かわかりませんでした。眼鏡をかけられたのですね」

 勝太郎さんは少し驚かれた様子でした。

 私としたことが、眼鏡を掛けたまま振り返ってしまったのです。私一生の不覚です。

「いえ、お恥ずかしながらこれは伊達眼鏡なのです」

 私は慌てて眼鏡をはずすとスカートのポケットへ伊達眼鏡を押し込みました。

 すると、

「どうしてとってしまうのですか?折角よく似合っていたのに」勝太郎はたしかにそうおっしゃって下さったのです。

 ですが、私はその言葉がどこか鵜呑みにできなかったのです。疑心暗鬼になりかけていたのでしょう。これまで愛情細やかに接して下さっている勝太郎さんのことですから、お世辞などを言うはずもないと言うのに……

「お世辞は好きではありません」

 私は俯いてぶっきらぼうに言いました。私は可愛くない婦女です。

「お世辞ではありませんよ。私は新しい咲恵さんを見たようで、つい嬉しくなってしまいました。もし、お世辞と千歩譲るのであったら……眼鏡をかけていない咲恵さんの方が可愛らしいです」

 頭を掻きながら勝太郎さんはそうおっしゃって下さいました。

 もしかしたら、もしかしたら私は勝太郎さんにこのように言って頂きたくて、私はわがままを言ったのかも知れません。

「私、嬉しいです」

 私は勝太郎さんの顔を見つめてそう言いました。感謝の言葉も込めて……

 このように清々しい気持ちで鈴木先輩とお茶などどうしてできましょうか。私は知らずのうちに勝太郎に、殿方に甘えてしまったのです。だから、困らせるようなことが口から出てしまったのだと思います。お姉様やお母様にわがままを言うのと同じように。


      ◇


 私は無夢にて、鉛のように重くぼおっとした体をようやく持ち上げ、万年床から起きあがった。今朝方までの感動はどこへやら宵っ張りの後遺症に私は文字通り腑抜けであった。

本日は乙女と喫茶をする約束をしているのだ、眠気にかまけて、身だしなみに手を抜いては男子の名折れであろう。

 私は嗚咽ににも似た息を吐いてから、便所へ入り、すでに有毒物の域へと到達しつつある便所内の悪臭を鼻から肺一杯に吸い込んで。次の瞬間には毒を呷った哀れな男のように喉元を押さえながら炊事場へ駆け込んだ。

 眼はさっぱり覚めたが、貴重な健康を害した気分である。

 残念なことに炊事場には食べ物と思しき物が何一つなかった。そのかわり、調理台の下にに懐中時計が落ちているのに気が付いた。

 金色の体に、ご丁寧に名前が彫り込まれてあった。それも二人分、私は質屋にでも持って行こうかと手に取ったが、その長身と短針を見て、この時計が狂っていることを心の底から願った。八百万の神々に祈った。

 そして、私は懐中時計を握ったまま自室へ逃げ帰ると、急いで出掛ける支度をした。支度と言ってもマントを羽織り雑草のようになった髪の毛を手櫛にてすいて、布団の上に放り投げておいた、懐中時計を再び握ると風のように流々荘を飛び出した。

 郵便受けを過ぎたところで、私の真上に住まう新妻と出会した。私があまりにも勢いよく飛び出してきたので、身を仰け反らせていたが手に携えた買い物籠から覗く長ネギやら、白菜やら、竹皮の包みからして今夜はすき焼きでもするのだろうか。

 私は挨拶もせずに、通り過ぎようとした……通り過ぎようとして、次の一歩を思いとどまり「炊事場に落ちてましたよ」と懐中時計を新妻に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 新妻はポケットの辺りを押さえてから、よそよそしくも珍しい者を見るかのように私を見ながら、懐中時計を受け取ったのであった。

 私は二言なくして、再び駆けだした。あの懐中時計が示す時間が真であれば、乙女を待たせることになってしまう。懐中時計は待ち合わせの時間半時前を指していたのであった。


      ◇


 そもそも、私が悪いのである。私が流々荘へ越してきてから一年ほど経って、あの新婚夫婦は越してきた。隣だけに持って行けばよいと言うのに、わざわ下の階の私のもとへも引っ越し蕎麦を持って来てくれた。

 その当時はまだ、私にも余裕があった、金銭的余裕精神的余裕。その他諸々の余裕が。だから、共同の炊事場で炊事が一緒になれば、譲り合いもしたし調味料の貸し借りもした。そして、祭りの夜などはわざわざ林檎飴を買って来てくれた。

 そんな仲の良いご近所さんであった時分に、一度、あの懐中時計を見せてくれたことがあった。

 結婚をすると結婚指輪を言うものを買い、新郎新婦双方が左手の薬指にはめるのだと言う。だが、この若夫婦は指輪を買うことができなかった。

 ゆえに、夫が想いを込めて懐中時計を贈ってくれたのだと、恥ずかしそうにはにかんでいた彼女の笑顔はどうしても鮮明に甦ってくる。

 それも、私の心が荒み全てに余裕が無くなってから、仲の良いご近所さんと言う関係も砂上の城と崩れさり、今では挨拶も交わさなくなってしまった。

 全ては身から出た錆びというものである。悔やむまいと決めていたが、悔やまれるは仕方なし……万事は積み上げるは難し、崩すは易しなのである。

 それを知っている私は、同じ過ちを犯すまいと必死に乙女と接している。いつ元の木阿弥と私の精神が荒んでしまうかわからないが、少なくとも、底辺を這って生きて来た私であるからして、これ以上荒むことはなかろう。

 だから、約束の時間に遅刻することはできない。そして、なんとしても乙女よりも早く竜田橋の上に到着しておかなければならないのである。

「すみません。お待たせしました」

 息せき切って駆けたが願望叶わず。竜田橋には乙女の姿があった。

「いえ、私も今し方到着したばかりですよ」

 そう言って振り返った乙女の顔には違和感があった。後ろ姿からして、黒髪の乙女に相違なしと迷わず声を掛けたのだが、もしや別人では……と眼を疑ってしまうほどの様変わりである。そうなのである、乙女は眼鏡をかけていたのだった。

「一目では誰かわかりませんでした。眼鏡をかけられたのですね」

 私は思いのまま、驚いたまま弁を吐いた。すると「いえ、お恥ずかしながらこれは伊達眼鏡なのです」と顔色をかえて急いで眼鏡をはずすとそのままポケットの中へしまった。

「どうしてとってしまうのですか?折角よく似合っていたのに」

 私はこれまた、想いのまま弁を吐いた。荒い呼吸を正しながらだったがゆえに、褒め言葉の頃合いを見誤ってしまったが、乙女は可愛らしい女性であるからして、身に着けた全てが全て似合ってしまう不思議な婦女である。だから、眼鏡とて少し幼い本好きな少女のような趣でこれはこれで可愛らしかった。そばかすでもあれば若草物語の登場人物のような趣であろう。

「お世辞は好きではありません」

 だが、私の言葉が気に気に入らなかったのか、乙女は俯くとぶっきらぼうにそう言うにとどまったのである。

 だから、私は困った。世辞であったなれば『本当は……』と良くも悪くも本心を述べれば良いのであって、まだ言いようがある。だが、本心を世辞と言われてしまえば、言葉を選ばなければならなくなる。私にそのような才覚が備わっていれば、今頃、恋人の一人や二人はできているはずである。

「お世辞ではありませんよ。私は新しい咲恵さんを見たようで、つい嬉しくなってしまいました。もし、お世辞と千歩譲るのであったら……眼鏡をかけていない咲恵さんの方が可愛らしいです」

 私は本心の上に本心を重ね塗りをするしかなかった。口に出すには恥ずかしかった。けれど、これ以上の飾り言葉を持ち合わせていなければ、瞬時にて気の利いた文言を作り上げる文才とて持ち合わせていない。

 ゆえに、恥ずかしながらも本心の上塗りなのである。

「私、嬉しいです」

 彼女は頭を掻く私を一直線に見つめてそう言った。

 私はその一言を聞いて、ほっと胸をなで下ろした。ここでさらに「本当ですか?」と再度問われたならばどうしたものだろう。と懸案したからであることは言うまでもないだろう。

 私と乙女はすっかりお馴染みとなったフロリアンへ行き、顔なじみとなりつつあるウエイトレスは私たちの姿を見ると、何を聞くでもなく窓際の席へ案内してくれた。

 やはり窓際は日光燦々と明るく気持が良い。

 そして、席についた私と乙女はそれぞれにウインナ珈琲を注文したのだった。

「咲恵さんはグリム童話と言うのをご存知でしょうか?」 

「はい、存じておりますよ。実は昨日、芝生の上で読んでおりましたのはグリム童話なのです」 

 この年になって童話と言いだした私にいかような好奇な眼差しを向けるだろうか、と思ったのだが、意外や意外。乙女もグリム童話の愛読者だったのである。

「咲恵さんがご存知でよかったです。私は昨日丸一日をかけてすっかり読破してしまいました」

 本当である。暇つぶしに紐解いたが最後、しっかりグリムの世界に引き寄せられ、人魚姫を読み終え涙するまで読み耽ってしまった。

 まあ、と乙女は口元に手をやって驚いて見せてから、

「勝太郎さんは、たいへんな読書家なのですね。私などなどまだ半分程度しか読んでおりませんもの」と嬉々としてそう言った。

「半分……でしたら、丁度、白雪姫のあたりですね」

「はい。七人のこびとに白雪姫が助けられたところです」

 乙女は興奮気味にうなずきながらそう答える。よもや同じ書籍を同じ頃合いで読み合わせていようとは、微塵も思わなかった。蓼【たで】食う虫も好き好きと言う乙女が童話をも好んで読むとはやはり、咲恵さんの中には純粋なモノのみが詰まっているようだ。いや、そうであってほしい。

 でなければ、汚れきった私などを海容とご一緒してもらえるはずがないのだから。

 本日の喫茶の話題はグリム童話に終始し、それは愉快な一時となった。年頃のよい男女が童話を肴に珈琲を飲むのである。端から見ればそんな私たちの方が可笑しく見えるかも知れないが、私と乙女が、ひいては乙女が楽しそうに笑うのであるからして、誰に後ろ指を指される言われもなかろう。

 そうして、いつものように、夕暮れを前に咲恵さんを家までお送りして、庭に出ていた瑞穂さんと一言二言ことばを交わしてから、私は流々荘へ帰ったのだった。

 

      ◇


 嫌な予感などするはずもない。「また大學でお会いしましょう」と乙女と別れ、「あら、今度は三人でお茶をしましょうよ」と後ろから姉妹の話し声が聞こえて来た。そのかぎりは私にとってはまたいずれ至福の時がおとずれる予告のようにしか聞こえないのは私が生粋のご都合主義者だからであろう。

 足取り軽く流々荘へ帰った私は、自室のドアの前で足を止めた。

 ドアに何か挟んであったからである。抜き取って開いて見ると、それは便箋であり、端正な文字で『時計ありがとうございました』と書かれてあった。

 私は部屋に入りながら、今一度その文面を読んで、頭を掻いた。事もあろうに持ち主がわかっていて、質屋へ持って行こうと目論んだのは誰あろう私なのだから……そして、同時に安堵もした。質屋に行かず、新妻の手の中へ無事に帰って良かったと……

 便箋を机の上に置いた私は、そのままふやけた昆布のように万年床へ寝転がった。誠に快哉である。喰うに困るこの私が質屋に行かず、時計を返すような真似をするとは!これも一重に黒髪の乙女と時間を共にするようになった効能だろう。これほど我が身から灰汁が抜け落ちているのだと確信したときはない。

 感謝をしよう。感謝の弁を述べよう。必ず感謝の弁を述べよう!私は黒髪の乙女に何の前触れもなく感謝の言葉を述べようを決めた。

 そして、「どうされたのですか。勝太郎さん」と首を傾げる乙女の姿を思い描いて、身こそばいゆくなってしまった。全身がこそばい。だから、万年床にて溺れる犬のように手足をじたばたとさせた。

 疲労感をおぼえるころ、舞い上がった埃がふよふよと電球に映し出されて、粉雪のように綺麗だった。体には悪いが眼には映える、困った趣である。

 このまま、私は安眠に落ちるのだろう。私は心安らかに惰眠を貪ることができると、静かに眼を閉じたのだったが……

「たのもお!」

 聞くからに汗臭い男の声が私の部屋のドアを叩いたのである。

 私は無視を決め込もうと思ったのだが、今にも壊しそうな勢いでドアを殴る阿呆漢に、仕方がなく相手をしてやることにした。

「なんだ、私はもう寝るところなんだ、帰れ」 

 ドアを少し開けると、そこには西村が立っていた。性懲りもなくぬけぬけとよくも来れたものである。

 私がグリム童話集を取り机へ向かったその瞬間、ドアは蹴開けられ西村をはじめとして、ぞろぞろとそれはもう秋口に桜の木の上で蠢く毛虫のように男どもが私の部屋へ入って来た。

 西村一人だと油断した私が迂闊だった。しかし、時既に遅し……たちまち我が聖域たる四畳間はむさ苦しい男どもですし詰めの様相となったのである。ただでさえ男汁が染みこんだどんよりとした空間であるというのに、何が悲しくて汗臭い男どもと残暑厳しいこの季節に押しくらまんじゅうなどに興じねばならんのだ!

「映画倶楽部部員全員でお願いしにきたのだ」

 西村は確信した笑みを浮かべながら、私に誠意の有無を伝えたが、

「部員を全て女性に代えて出直してこい」私は、瞬く間に『嫌がらせ』と言う名の邪たる誠意を足蹴にしてやった。

 うら若き婦女と押しくらまんじゅう、もといすし詰めに遭うのであれば、胸の柔らかい部分や腰元などが仕方が無く触れるや良し。柔らかい吐息などが耳の後ろに当たるもやむなし。全ては不可抗力という合法に守られる。これまさに桃色天国と称す。

「女子部員がいればお前にこんな頼みごとをするか。桜目先輩がやめてから、女優探しには苦労しているんだ」

「知ったことか。お前たちが下心を隠さずに身だしなみも改めずに婦女に声を掛けるから、引き受けてくれんのだ」

 私の言うことは当たらずも遠からず、自信があった。私ですら、乙女に相見える時だけは最低限の身だしなみに気を使い、鏡があれば鼻の下が伸びていないか確認する念の入れようだと言うのに、こいつらと来たら、力押しで押し込めば婦女が振り向くと勘違いをし散らかしている。恥を知れ!

「お前が首を縦に振るまで一歩も外には出さんぞ」 

 歪んだ情熱を瞳に色濃くしつつ、西村は微笑んだ。

 私はまずます、佳麗かつ清楚な黒髪の乙女をこのような奴らの掃き溜めに送り込むような真似がどうしてできるかと、長期戦の臍【ほぞ】を固めた。

「言っておくが、私は乙女のためならば、火の中でも水の中でも恐ろしくないのだ」

 吠え面並べさらせ。と付け加えてやった。

 私は勇ましくも勝利を我が手に掴む自信があった。明瞭たる自信があったのである!咲恵さんを渡してたまるか、私はこの一身を持ってしても、首を縦に振るまいと胸を張った。

私の最後の砦である乙女をやすやすと破らせてたまるか、極まればこのグリム童話集にて

一騎当千と花と散ってくれる。

 私が腑で豪華を燃やす一方で、映画部員たちはたがいに肩を組んで人間バリケードを完成させ、臨戦体勢を整えた。

 このすし詰め状態において肩を組む好行為になんら意味を見出せなかったが、西村とて予期していたのか不明だが、すぐに誰とも知れぬ腋臭が漂いはじめた。なんと不快な悪臭だろうか……

 汗臭さならば慣れたものだが、これは私にも免疫のない臭攻めにて……便所の悪臭とも異なるこの激臭はどうしたものか。 

 私は苦肉の策と窓を開けようとした。

 しかし、私の行く手を見計らったように映画部員が遮った。そして悟った、こいつらは私と心中する覚悟なのだと。

 

      ◇


 さて、すでに数名が脱落し数人分の余裕ができた四畳間では、不毛な戦いが永遠と続いていた。

 徒党を組むは好きにすればよい。だが、我が根城は勘弁してほしい、白線菌の巣窟であ黄ばんだ靴下に蹂躙される我が万年床の哀れな姿と言ったら。目頭が熱くなる。

 それはさておいても、この四畳間にこれほどの人間が入ったのはこの部屋に腰を置いてから最初であり、最後であろう。

 激臭に眩暈を覚えて来た頃合いで軋む床が抜けまいかと少し心配となってしまった。

「筒串、もう勘弁してくれ。鴻池さんの相手役はお前でかまわん。だから、鴻池さんに話しだけでもしてもらえないだろうか……」

 外で野犬が遠吠えが聞こえた頃合いで、ついに西村が浸からなく膝をついて、そう言った。

「よし、それなら話しだけはしてやる。ただし、相手役は私だぞ。二言ないな」 

「ない」

 最大の妥協を経ての合意だったが、西村は私の返答を聞いて、部員の前で情けなくも尺取虫のように顎を畳みの上に投げ出した。

 その後、早々に西村を残し他のむさ苦しい輩どもを追い出して、窓をから顔を出した私はようやっと生きた心地と極楽を噛み締めた。

 そして、今だ尺取虫のように伸びている西村に契状を二枚書かせ、拇印まで押させた。

「約束だぞ」と船酔いした漁師のような足取りで出ていた西村。

 こうして、私の不毛なる『映画倶楽部の乱』はただの虚しさのみを残して終焉したのであった。

 後日譚のように語ろう。その夜、私は激臭の染みついた部屋の中で魘されて一睡もすることができなかった……忌々しい奴らである。 

 至福の中で贅沢な惰眠を貪ろうとしていたあの瞬間を返せ!


      ◇


 私はその日を迎えるにあたって、朝から緊張をしておりました。

 昼下がり、いつもの芝生の上でグリム童話を読んでおりますと、疲れた様子の勝太郎さんが来られて「咲恵さん、私の相手役になって頂けませんか」と藪から棒におっしゃったのです。

「相手役とは……」

 私が聞き返しますと、勝太郎さんは映画倶楽部の依頼で『あゝ青春の日々』の主演をなさることになり、その相手役に私をご推薦くださったと言うのです。

「私は演技をしたことがありませんから、荷が重すぎると思います」

 そう言ってみた私ですが、勝太郎さんも初めてとおっしゃいますかぎり、私のお気持ちも理解できるでしょう。

 それでも私をお誘い下さるのですからと、

「面白そうですね、やってみます」とお返事をしました。

 本当はお断りしたかったのです。ですが、何ごとも挑戦して経験してみなければ人生を損していることになりますし、一度きりの人生ですから楽しむべきなのです絶対に!と思ったのです。それに映画の撮影だなんてオモチロイに決まっているのですから。

 言い過ぎました……

 確かに、お姉様も何ごとにも挑戦してみると、人生の彩りの幅が広がるとおっしゃっておられましたが……私が女優だなんて映画に出るなんて……恥ずかしいやら恥ずかしいやらで、どれだけお断りしようかと思いました。けれど、ほんのちょっぴりだけは好奇心からやってみたいと思っていたのです。オモチロイだろうと思ったのは本当です。

 それに相手役が見知らぬ殿方ならまだしも、勝太郎さんであるならば少しは心持ちも明るいと言うものですし……ですから、ようやっとお引き受けできたのです。

 家に帰って夕餉の折、お姉様にそれとなくお話ししてみました。すると「あら、咲恵も銀幕デビュウするのね」と喜色満面と言うのです。

「お相手役が勝太郎さんですから、安心ですけれど、私はお芝居など自信がありません」「誰だって初めての時はそのようなものよ。今や銀幕の星となった桜目 清花だって初めての映画撮影の時は緊張していたもの」 

「桜目 清花……私は知りません」 

「まあ、まだ女優一年目ですから咲恵が知らなくても仕方ないわね」

 今度は苦笑してそう言うお姉様ですが、お話しを聞いてゆきますと、桜目 清花さんとはお姉様のご学友であり、私の通う大學の先輩でもあると言うではありませんか。私は驚いてお箸を落としてしまいました。

 映画倶楽部から銀幕の、本物の女優さんになってしまう婦女がいたなんて!

「映画が……いいえ、演技をするのがとても好きな女性だったわ」

 思い出すようにお姉様が天井を見上げてお話しします。

 私も同じように天井を見上げて「好きこそものの上手なれ。ですね」と呟いたのでした。

「それはそうと、映画倶楽部には女性部員がいるのかしら?」

「知りません」

「もし、いないのであれば、誰がご学友に身の回りのお世話を頼まないといけないわよ。私でも良いけれど……」

「どうしてですか?」

「衣装やお化粧とか、一人ではできないでしょう」

「そのとおりです」

 いかんせん初めてのことですので、私は勝手がわかりませんで、そのようなこと細かなことがまったくわかりませんでした。

 お着替えのお手伝いなど、殿方に手伝って頂くわけにはいきませんから、誰か婦女の方にお願いしなければならないのです。

「小春日さんにお願いしてみましょう」

 私の第一のお友達である小春日さんが思い浮かびました。まだお願いもしておりませんし、突然の申し出に小春日さんがお受けして下さるかもわかりませんけれど。

「思い当たる人がいるならばいいわ。もしも、その人の都合がつかなかったら、私が引き受けるから」

 少し困った顔をして私にお姉様はそう言って下さいました。私は嬉しくなって「その折はよろしくお願いします」と大袈裟にお辞儀をしたのでした。


      ◇


 気が付けば十月を跨いでいた。そんな週初め、かくして撮影は開始された。渡された台本を見るに、主体は純情な青年と純粋な乙女との恋模様であり、それを取り巻きの人々が時に盛り上げ、時に面白可笑しく着色すると言う、まるでフィガロの結婚のような戯曲の仕様であった。

「勝太郎さんの足を引っ張ってしまうと思いますけれど、どうぞよろしくお願いします」 と袴を着込んだ咲恵さんが私の元へぺたぺたと駆けて来て、そのようにお辞儀をした。私も「いえいえ、私こそ咲恵さんの足を引っ張らぬように気を引き締めて望みますよ」とお辞儀を返した。

 女学生の間でも見かけなくなりつつある袴である、とかく乙女の袴姿は初めて見るのだ、私の胸は大いに高鳴ったことは言うまでもなく。いつもの癖で頭を掻いていると「筒串さん、そんなに頭を掻くと折角の髪型が崩れてしまいますよ」と櫛を持った小春日さんに怒られてしまった。 

 小春日さんは咲恵さんの衣装や化粧の手伝いをしてくれるのだと言う。「お願い致しましたら、快くお引き受けして下さいました」と乙女がそのように話していたのだから間違いはあるまい。

 本日の撮影は、序幕で流される始まりの部分であった。私と乙女が並んで桜並木を歩いたり、大學内の食堂にて慎ましげにお茶をしたりするのである。すると、そこに主人公に捩れた愛情を抱いた男女に扮した西村が押しかけて来て、一悶着あるという場面だった。

 前者の撮影は刹那に終了した。何せ二人並んで歩いているだけなのである。たとえ前を向いた二人の表情が緊張に強張っていようともそれは何ら問題ではない。

 だが、後者の撮影が困難を極めた。何せ女装した西村が「私という者がありながら!」とハンカチの端を噛みながら駆け寄って来るのだ。

 私と乙女が抱腹絶倒とならぬわけがない。「フィルムがぎりぎりなんだから、真面目にやってくれよ」と西村に釘を刺され、彼女は「すみません」と殊勝な面持ちであったが「笑わすお前が悪い」私はふんぞり返った。

 その後、台詞の無い序幕分の撮影は夕暮れまで続けられ、烏が山に帰って行く頃、ようやく終了したのであった。

「台詞もありませんでしたのに、本日はもの凄く疲れました」

 帰り道、乙女は肩を落とし腕をぶらんと空を弄びながら、そう息を吐いた。

「衣装のせいもあるのですよ。着慣れない服を着ると疲れるものですから」

 私も多少の疲労感が双肩を重くしたものの、これほど長く乙女と時間を共にしたのは初めてであり、今後も撮影の度に乙女とこうして長時間を共に出来ると思うと、それはもう悦楽と言う他に表しようがない。

「そうですね。袴など着たことがありませんもの」

 お互いに初めての撮影であったかぎりは、感じるところも似通っていたようで、そのほとんどは互いの演技を称賛し、今後の展望などを話して帰った。

 乙女の家に到着する頃には山裾に夕日が、空にはうっすらと月が見える時分であった。「あらあら、勝太郎さんこんばんわ」

 私と乙女が門柱の前で話題の途切れる間を模索していると、買い物籠を携えた瑞穂さんさんが帰ってきたところに出くわした。

「こんばんわ瑞穂さん。お買い物ですか」

 ええ、お夕飯のね。と瑞穂さんは言い、

「そうだ、勝太郎さん今晩ご一緒に夕餉などいかがかしら」と手を叩き合わせて、嬉しそうにそう提案したのであった。

 その際、「お姉様」と少しばかし狼狽した乙女がなんとも可愛らしかった。

「お姉様。いきなりなにをおっしゃるのですか。勝太郎さんにご迷惑です」

 乙女は顔を赤くしながら両手に拳を作って瑞穂さんに抗議するのである。そんな乙女とは対照的に調子に乗っていた私の口は喉元まで「いえ、この後永遠と暇を持て余しております」と口走ろうとしていた。急いで飲み込んでことなきを得たのだが……

「勝太郎さんすみません。それでは、また撮影の折に」

 乙女は表情を隠すようにうつむき加減で口早にそう言うと、門柱に手を掛けてしまった。

「そうだわ。これから二人して舞台のお稽古に行ってきたらどうかしら?咲恵は随分と不安がっていたじゃないの。それにお相手役は勝太郎さんなのでしょう?だったら、丁度良いじゃない」

 それでも食い下がるのが瑞穂さんである。悪戯な笑みを浮かべたその婦女は恥じらいの色を浮かべる妹を見て楽しんでいる様子は私が見ても一目瞭然であった。

 「お姉様、ですから勝太郎さんが……」乙女は、どうして良いのわからない困った表情で瑞穂さんの顔を見やってから、上目遣いで私に意見を求めた。

「いえ、私は今時分からですと暇を持て余すだけでしょうし、咲恵さんさえよろしければ是非」

 私は今度こそ、先程の雪辱とばかりにはっきりとそう言った。折角の瑞穂さんが私に機会を与えてくれていると言うのに、それを無碍に何も言えずできずいるのは、男子として情けないではないか。

 「へ」と言った乙女であったが、そんな妹を尻目に瑞穂さんは片眼を瞑って親指を立てて見せたのであった。


      ◇


「どこでお稽古をしましょうか」

「生駒神社にしましょう。今時分ですと人も居ませんでしょうし、静かですから」

 竜田橋を渡り終えたところで私は定案した。「そうですね。そうしましょう」咲恵さんはそう言って賛成してくれた。

 そう言えば、私がマドンナこと桜目 清花を初めて見たのも生駒神社の境内であった。たしか松永先輩主催の酒宴で昼から酒を飲んで酔っぱらったあげくに生駒神社の賽銭箱に背をもたせて眠りこけていた時だったと思う。

 宵の口を過ぎた頃だろうだろう、頼りない三日月と灯籠の明かりが朧気ながら境内を照らす中、純白のブラウスとスカートを纏った桜目 清花が台本を片手に演技の稽古をしていたのである。

 彼女はそれを知ってか知らずか……定かではなかったが、その後、何の因果が私は松永先輩の欲望のために映画倶楽部に潜入して桜目 清花の身の回りの世話をする役を勝手に拝命した。断固として拒否したかったろう当時の部長以下西村を含む映画倶楽部の面々はこれを断固として拒否したかったに違いない。まんまと私が、暗黙の了解を得ることが出来たのは松永先輩の圧力が物を言ったのだろう。

 無表情でいることが多かったマドンナであったが、雪女のように白い肌に芙蓉の顔だというのに笑うこともなければ、瞬きが彼女の表情であった。

 そんな桜目 清花には白がよく似合った、冷淡な性格と人嫌いな性格も相まって、何ものにも染まらない白色が彼女の印象であった。

 だが、彼女は誰よりも映画を愛し誰よりも自分を磨いていた。頑なに決して人前では努力の姿を見せないのである。ゆえにも周りは、天から付与された才覚を持った女優と彼女の演技を褒め、美貌に酔いしれたのだが……その影で彼女の精進する姿を知っている私は、どうにもそれが歯がゆく。皆が絶賛する裏で密かに、項を垂れたのであった。

 女優と賞賛されずとも、銀幕の星ではなくとも……彼女は女優魂を持った役者なのかもしれない。

 そんな彼女と最初で最後の共演をしたのが、これまたこの生駒神社であったわけだ。

「勝太郎さん?」

「すみません。ぼおっとしてました」 

 マドンナを初めて見たあの日に酷似している宵の口である。月までも同じ三日月なのだから。

開いた台本を片手に乙女に声を掛けられ私は豆砂利の感触を初めて感じた。

「第一幕はほとんど台詞がありませんから、第二幕から練習をいたしましょう」

「わかりました」 

 第二幕は劇的かつ重要な幕であった。恋に落ちた二人だが、なかなかそれを言い出せないでいる主人公が、舞台の練習と言う名目で、胸中を告白すると言う観客赤面の場面である。

「それでは勝太郎さんの台詞からです」 

「わかっています……はい」

 それはわかっていたのだが、台本に連なる台詞は大凡、私には恐れ多くも私の口が震えてしまうような台詞である。

 だが、練習に来たのであるからして、練習しない訳にはいかない。ゆえに、私から始まる台詞を読み上げることにしたのであった。

『桜さん。私はずっとあなたのことを愛おしいと思っておりました』

『勝さん。それは本当なのですか』

『やっ、どうして桜さんがここにいらっしゃるのですか』

『心太屋の女将さんから、勝さんから大切なお話しがあるとお伺いしました……』

『えっと……その……」

『勝さんは私のことを愛おしいと本当に思って下さっているのですね。でしたら、私も告白いたします……私も勝さんのことをお慕いしております』

「〝ここで桜は、勝の胸に顔を埋める〟と注意書きがありますけれど……」

「それは、本番一回で良いではありませんか」 

「そっ、そうですね。こんな薄暗い時分にそのようなことをしておりますところを見られてしまいますと、疑われてしまいますものね」

 私はもちろん、乙女をこの腕の中に抱き留めたかったのだが、それは乙女が嫌がるだろうと私は自ら身を引くことにした。

「つまらないことを言ってしまいました。続きをどうぞ」 

「いえ」 

 乙女は台本を握りしめると、豆砂利に視線を落として呟くようにして言うのだった。

それでは。と私は続きの読み始めた。

『そうです。私は桜さんのことを好いております。桜さんのことを想うと夜も眠れぬ身の上です』

『そんな、そんな嬉しいことをおっしゃらないで下さい。私たちには遠の昔に親同士が決めた許嫁がいるのですよ』

『桜さんも私に〝お慕いしております〟と告白してくれたではありませんか。そんなことを言わないで下さい……』

『それは、私が言ったのではありません。私の、私の中にいる女の部分が言わせたのです』

『桜さん』

 台本にはここで勝が桜を抱きしめると書かれてあったのだが、私は華麗に無視し、咲恵さんの台詞を待った。

『私たちはいずれ離別しなければならない運命……運命なのでしょうか』

『そのような運命であるならば、今この時に私と別れて下さい。その方が悲しみは……』

『それならば、別れるとおっしゃるならば……私に死ねとおっしゃって下さい!』

 その台詞の瞬間、乙女の瞳に炎がが灯ったように見えた。灯籠の蝋燭の火かと思ったのだが、今まで半ば棒読みのセリフ合わせであったにもかかわらず、この台詞にだけは心迫るものがあったのだ。私の心に響く……そのような、衝撃があった。

 だから私も、

『別れるだなんて、やめましょう。こんな話しをしたかったのではありません。私が桜さんに伝えたかったのは……伝えたかった言葉は。幾星霜と私は花よりも珠よりも美しいく愛らしいあなたのことをずっと想っておりました。これだけを伝えたかったのです!』と我ながら迫真の演技を乙女に披露したのだったが……言い終わった後に乙女の顔を見やると、とてつもなく恥ずかしくなってしまった。

 乙女は赤面して台本と私の顔を交互に見ている。

 その仕草に私も今一度、台本をみやると、出し抜けに大きな声がふわっと出そうになった。

「勝太郎さんたら、台詞を間違えておりますよ。〝私は花よりも珠よりも美しい桜さんのことを愛しております〟です」

 乙女は俯いて台本を両手で握りしめると、もじもじしながらそう言うのである。

「これは、灯籠の明かりだけでは暗くて文字が良く見えませんでした」 

平静を装ってあくまでも言い間違えたと言い訳をしてみたものの、乙女に負けまいと感情を込めたところ、紛うことなき私の本心が出てしまった。勝が桜へ思いを伝えたのではなく、私が咲恵さんへ想いを伝えてしまったである。

「そうですね。文字が見づらいですから、本日はこの辺に致しましょう」

「お家までお送りします」 

 はい。とうなずいた乙女と私は気まずいと言うか、互いが互いを異常に意識しているという状況だろうか……言うなれば、初めて喫茶の待ち合わせをしたあの頃にそっくりである。

「すみません。私が言い間違えたばかりに」

 何か言いたかった。この沈黙の間になんとか会話を挟みたかった。ただそれだけだった。

「いえ。あまりにも勝太郎さんが台詞に感情を込められるものですから……笑わないでくださいますか」

 乙女は、うつむき加減そう言った。

「笑うなんて、とんでもない」

 私が言うと、

「私が勝太郎さん告白された面持ちとなってしまいました」 

 とさらに俯いて言ったのであった。

「そのとおりですよ……」

「えっ」

声を上げて乙女は小さな口を少し開けたまま私の顔を見上げた。大きく見開かれた眼がその驚きの度合を私に伝え、少々潤んだ瞳に映る自分の顔を見て、誠に情けない顔であると罵った。 

「私は勝として桜役である咲恵さんに告白するつもりで言いましたから」と嘘をついたのである。

 微塵でも良い。私の気持ちに気が付いて欲しい。そんな、都合の良く想いが伝わるわけもないとわかっていたが、意気地のない私はそのまま勝のように『咲恵さんのことを愛おしく思っております』と言えなかった。

「そうです。そうですね。私は桜役で勝太郎さんは勝役ですものね」

 取り繕うように、慌ててそう言った咲恵さんは安堵したように、演技に少し自信が出て来た旨を私に話してくれた。

 ものの見事に沈黙の間は解消されたが、どうしてだろう。私の胸の中には冷たい恋風が吹き抜けているような、そんな気がした。


      ◇


「また、練習にお付き合い下さいませね」と家の前で勝太郎さんとお別れしてから、私はずっとほわほわとしておりました。

 居間のソファーに腰を降ろしたまま、座布団を抱きしめ天井をぼおっと見上げていたのです。

『幾星霜と私は花よりも珠よりも美しいく愛らしいあなたのことをずっと想っておりました』

 勝太郎さんの迫真の演技の際におっしゃられた言葉です。台本の台詞ではありませんから勝太郎さん独自の言葉のでしょう。

 ですから余計に私は驚いてしまったのです。

 私はこともあろうに勝太郎さんが私に告白をしたのではと一瞬、はっとしてしまったのです。きっと勝太郎さんのように愛情細やかで誠実な方は周りの女性が放っておかないでしょうから、きっと遍歴とて……

 私はしっかり、勝太郎さんの言葉に胸を射抜かれてしまいました。映画とはお芝居とは観覧に来て頂いたお客さんの心を射抜かなければならないのでしょう。

 私はさらに恍惚となって天井を見上げながら「幾星霜と私は花よりも珠よりも美しいく愛らしいあなたのことをずっと想っておりました。だって……」と座布団をこれでもかと抱きしめたのでした。

「もしかして、そのように勝太郎さんに告白されてしまったの?」

 お姉様が優しくそう言いながら、私の隣に腰を降ろしました。

「はい……」

 しっかり言っておかなければなりません。言われたのは桜さんなのです。そして言ったのは勝太郎さん扮する勝さんなのです。けれど、

「とうとう、咲恵も娘さんになったのね。おめでとう」

 お姉様は私の両手を取ると、「おめでとう」と繰り返してぶんぶん上下に振るのです。

「お姉様、私が頂いた言葉ではなくて、私が扮する桜さんが告白されたのですよ。映画の練習です」

 なんだ、とお姉様は唇を家鴨のように尖らせて、

「勝太郎さんは愛情細やかで誠実だけれど、いまいち意気地に欠けるのね」と言いながら台所へ歩いて行ってしまうのでした。

 私は机の上に投げ出していた台本を手に取ると、イーゼルに置いてある鉛筆で台本の表紙に可愛らしい林檎の絵を描きました。この台本はすっかり私のお気に入りなのです、何せ勝太郎さんとの思い出がこもってしまったのですから!

 私は即席にしてとても愛らしく描けた林檎の絵を見てから、深くうなずくと次の撮影が楽しみとなってしまい、思わず台本を抱きしめてしまったのでした。


      ◇


 今頃乙女は瑞穂さんと夕餉の最中だろうかと、そんなことを考えながら私は台本を顔に被せて万年床に寝転がっていた。

 西村が言うには本日撮影した序章をまず作り、数日後に試写会を開くのだと言う。それまでは撮影はないのだとも……大衆に見つめられつつも、毎日咲恵さんと一緒に居られると思い込んでいた私は少し肩を落とした。

 だが、男子たるもの自分でお誘いができずしてどういますか!成り行きにかまけていては成るものもまにまに流されて、いずれは別離してしまう運びになりかねん。

 それに、今まで何度となく喫茶にお誘いし、乙女はこれを快く引き受けてくれたのである。このままで良いのだこのままで……

 私は台本の目隠しの下、神社の境内を思い出した。もしも、あのまま愛の告白をしていたならば咲恵さんはなんと返事をくれただろうか。などと考えるのである。ばかばかしい。私は上体を起こすと、ぽとりと布団の上に落ちた台本を手に取り、台詞の練習を始めた。

 もしもなど、過去を悔やむ凡愚でしかないのだ。もしも、もしもと振り返ってばかりいてどうして前を見つめられようや。情けない自分を払拭するためにも私は何度も何度も台詞を読み上げたのである。

 だから、翌々日には第一幕の台詞全てと第二幕の前半部分の台詞を暗唱できるまでになっていた。本日は第三幕の台詞を読破の上、早々に鍛錬に励もうかと目論んでいた。もちろん、これは乙女に「勝太郎さん凄いです!」と感歎と称賛の声援を頂きたいがゆえの努力なのである。

 だが、私の下心にのみ突き動かされた、精進はその日の夕暮れに砂上の城と化すこととなってしまった。

 第三幕の中盤までなんとか暗記し終えた私は、久方ぶりに脳みそを急回転させたせいだろう、知恵熱を出してぼおっと落日の赤色を眺めていた。視線を掠る机の上には新妻からの感謝状が置いたままとなっていた。これとて、女性からのお手紙にかわりあるまい、それに感謝の意をしたためてあるとくれば、例え一文たろうとも無碍に扱うことなどできようはずもない。

 などと、しょうもないことを考えて、一人きりでにやにやしていると、「筒串。俺だ西村だ」と珍しい来客があった。

「なんだ」 

 ドアを開けると、手みやげを持った西村の姿があった。

「実家から送ってきたもんなんだが、喰いきれなくてな」  

 とりあえず風呂敷包みを受け取ると、中から匂い慣れた甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「忘れたのか。私も松永信者だったんだぞ」

 松永信者であった私は、松永先輩のやり口も熟知していた。何を隠そう、私はあと一歩で松永先輩の裏の側近に選ばれようとしていたのである。

「おいおい、今じゃ松永先輩の名を出す奴もいないんだぞ。やり口だなんて、考えすぎだ」

 飴と飴。これぞ松永流である。風呂敷の中はカステラであり松永先輩が相手の機嫌とりに好んで贈答に用いた品である。

 ゆえに古平などは皮肉の意味を込めて私に差し入れたりする。

「映画がどうかなるんじゃないだろうな」

「実はその通りなんだ」

 やはり。私は風呂敷を部屋の片隅へ放り投げると、西村の胸ぐらを握り逃亡を阻止を第一とした。

「子細詳しく話してもらおう」

 西村の鼻面に額をあてて私はうなり声を上げた。

 しかし、西村は猛獣を飼い慣らしたサーカスの飼育員のみたく冷静沈着であり、「最近こんなことはよくあることなんだ」と前おいてから、もっともらしい説明を始めたのであった。

 数年の間、學生会の執行部を牛耳っていた松永先輩は表だっては一学生であったが、裏では學生会の長であった。先輩はとかく影の暗躍者が好きだったのである。その目立ちすぎる影の暗躍者は學生会の権限の中でも最大にして絶対の『倶楽部活動費配分権』を明瞭に後ろ盾としていた。特質すべきは文化倶楽部への配分権を全て握っていた。

 ゆえに、文化倶楽部は松永先輩にいかに取り入るかが、倶楽部の繁栄を大きく左右していたのである。

 と、ここまで聞くと。まるで映画の序章のようであるが、実際にはそこまで、徹底はされておらず、若い婦女とその乳と酒を愛していた松永先輩はそれなりに人望もあり時に外道なれども、大凡は筋を通していた。だから私も一時は信者となったのだ。

 聞いた話では松永先輩が學生会を牛耳ってからと言うもの毎年怪我人を多数出してまで大揉めに揉めていた倶楽部活動費争奪戦がすっかり平定され円滑にかつ静謐に皆が笑顔で握手をするほどにまで改善されたらしい。

 だが、瑞穂さんとの婚約が破談となり、それも婦女側から三行半を送りつけられたあげく松永先輩側の不埒な行いが路程したことで、先輩は強制的に実家へ連れ戻されてしまったのである。今では出家させられたとかそうでないとか……今でも三条通を逃げ回っているのだとか……真しやかは噂や作り話だけが松永と言う人物の名を残しているにすぎない。

 そこで困ったのが求心力を失った學生会である。突然の松永先輩失踪のせいで倶楽部活動費の決定があやふやになり、争奪戦こそ勃発しなかったものの、そのかわりどの倶楽部も活動費らしい資金をもらえないまま今日いたるそうだ。だから、とにかく製作に金のかかる映画などは企画倒れが多く、今回、西村は文化祭の折、映画倶楽部ここにあり!と存在感を示すために様々な人間から金を借りて『あゝ青春の日々』を撮ることにしたのだが、

フィルムが確実に足りないことや、当面の資金難から撮影を中止せざる得なくなったと言うのである。

「そう言う訳なんだ。鴻池さんには俺から謝罪しておいたから……ケーキを手みやげにな」

 そう言って笑った西村の笑顔はどこか物寂しげであった。

 私は訝しんだ。松永一派にいた人間は特別に信用ならないからである。だが、私とて借金を背負う苦しさは痛いほどにわかる。だから、私に残された微塵の良心や人の良さと言う部分が西村の胸ぐらを握りしめていた手を解かせたのだった。

 私は「それでは仕方あるまい」と西村に背を向けた。

「悪いな筒串」 

 西村は最後にそう言って、ドアを静かに閉めた……

 下駄の音が遠のいて行く。

 私はやはり納得がいかず、いや悔しくて部屋を飛び出すと、便所のドアを開け誰かが新しく買い置いた便所下駄を片手に階段を望むと、それを力の限り西村の後ろ姿に投擲した。命中したのか否かは定かではない。便所下駄を放出した後、私はすぐに踵をかえして自室へ駆け込んだからである。

 ただ、ドア越しに断末魔の叫び声と何ものかが階段を転げ落ちるような音が聞こえたのは確かであった。 


      ◇


 私は夕暮れと共に万年床へ潜り込んでふて寝をしていた。今となって枕の横に捩れて転がっている台本が忌々しく見えて仕方がない。半分以上も暗記したと言うのに、時を超えて私が脳みそを活性化させたと言うのに!

 今や脳みその中で、回文のように巡る台詞の数々はもはや、本棚の端に回帰した卑猥図書の写真と同じくどうなろうとも後悔はしないだろう価値しかない。価値で言うなれば後者の方がまだ価値があると言うものである。

 理由が理由だけに、誰を恨む訳にも侮蔑弁をぶつけるわけにもいかない。唯一と言えるのは松永先輩の失脚だろう。だが、それは私の念願であり悲願でもあったわけで……これを後悔しようものならば、本末転倒以外の何物でもない。

 私は惰眠をむさぼった、正真正銘本物の惰眠を貪った。

 私は四畳間に立っていた。風呂敷を携えて持って立っていたのである。窓の外には暗幕のベールにほんわりと黄粉餅のように丸く美味しそうな満月が手に届きそうであった。

「撮影中止などとまかりとおるか!」 

 私は机の上に仁王立つと、遙か彼方へ向かって咆哮を上げ、そして、風呂敷の四方を両手両足の指に挟む机を思い切り蹴って暗黙の夜空へと飛翔したのであった。

 妙に生暖かい夜空に躍り出た私は、ムササビのように滑らかに微風を切って飛行した。

これぞ古の古式飛行術ではなかろうか。人間は翼がなくともプロペラがなくとも空を飛ぶことができるのである!

 万有引力だろうが相対性理論だろうが関係ない、今まさに私は風呂敷一枚で空を舞っているのだ。

 私は一頻り、空中遊泳を堪能した後、西村の頭でもこづいてやろうと思い立ち頭を大學の方向へ向けた。

 それにしても暗い。これではどこに西村がいるのかわからないではないか。私が鵜の目鷹の目と地上を浚っていると、突然むさ苦しい何かに突き当たった。それはうにょうにょとやはりなま暖かくまるで心太のようであり、私が噛みつくとつるんと面白いほど喉越しよく歯切れよかった。

 そしてその心太暗幕を突き破ると、そこは太陽光が燦々と降り注ぐ真昼の世界であった。世の中とは真は渾天説が正しかったのか。と納得しつつ、私は大學上空を猛禽類のごとく大きく輪を描いて旋回し、やがて桜並木へ向けて滑空をはじめた。

 私の眼はよく見えた。常人を卓越した眼力には桜並木を歩く袴姿の婦女が写った。

「なんと」

 それは見るからに咲恵さんではいか!かような映画の衣装を身に纏って何を……その刹那、桜の大樹にて死角から現れたのは、こともあろうに咲恵さんの傍らを寄り添うようにして歩き、しかも腰に腕を回した不埒漢の姿であった。

 この破廉恥漢め!幾度となく喫茶の席を共にした私でさえまだ指先しか触れるにしか至っていないと言うのに、何を藪から棒に腕を腰に回しているのだ。映画に格好つけてなんたる所行か!

 映画……桜並木を歩む二人の後ろには女装をした西村がおり、三脚にてキャメラを構えた映画倶楽部の部員がいるではないか。私は首を傾げた。滑空をしながら首を傾げた。映画は撮影中止になったのではなかったのか?それとも、西村の計略にて主役の私のみを入れ替え、撮影を続行しているのか……西村を問い詰める必要がありそうだ。

 とにもかくにも最優先すべきは乙女救出である。

 私は狙いを定めた川蝉のように急降下を始めた。手足が塞がっているからには、我が誇るべき石頭にて間髪入れず特攻を敢行してくれる。

 私は歯を食いしばると細身の長身たる男子へ向けてみるみる高度を下げて行った。

 翻筋斗打ちさらせ!私が眼を閉じようとしたその瞬間に、横殴りの突風が私の体を上空へ舞上げ、そのまま明後日の方向へ吹き飛ばしたのであった。

 我が愛しの乙女の姿が忌まわしき不埒漢の姿が、小さくなって行く。無論、私は抗った。全身をねじったり、波打たせたりと春一番のごとく強風に立ち向かってみたのだが、人間四肢を駆使できぬとはかくも情けない抵抗しかできないものである。 

 私は姿勢制御ままならず、深海へ沈んで行くノーチラス号のように夜闇の中を風に流されて行った。再び心太のベールの中へ吹き戻されてしまったのだ。

 夜の世界に戻ってくると、ベールに遮られてか強風は止み微風のみが私の飛行を可能としていた。 

 なんとかして、心太ベールを今一度突き破れないものか。私はただそれだけを考えていた。心なしか高度が下がってきていたが、流々荘の近辺に着陸するのだから良いと、気にせず思案し続けた。

 螺旋を描きながら私は降下している。これ以上の飛行は難しそうだったから、着陸の後陸路にて乙女を救出しよう。私はそう腹づもりをして月明かりにて朧気ながら見える地面を確認すると、地面の様子よりも先に酸味を伴ったただ一言『臭い』としか言えない悪臭が鼻についた。

 そのに追いは流々荘その便所の匂いであり、本屋街への近道の途中にも嗅いだことのある匂いであった。そう、それは肥だめの匂いだったのである。

 どういう風の吹き回しか、気まぐれで自分勝手な暴風に運ばれ、そしてたどり着く先が肥だめなどと、まるで夢か幻かはたまた漫画の世界であろう。

 今度こそ私は暴れた、手足をばたつかせてなんとか推進力を生み出そうと藻掻いた。肥だめになんぞと落ちてたまるか!その一心で……だが、体は一向に降下の一途を辿っており、致命的なことに、私は暴れ過ぎて足の指に挟んでいた風呂敷を離してしまったのである。

 描いていた螺旋は一直線となり、私は名実共に落下した。万有引力そのままにただ落ちた。

 そして着水したのであった。

 硬い地面に叩きつけられなかったのは不幸中の幸いと喜ぶべきか、死に物狂いで顔だけを出した私は、このままいっそ沈んでやろうかと絶望のまっただ中に……いや肥だめのまっただ中にいた。

 這い上がったところで、大學へは行けずはたまた流々荘へ帰ることもさすがにままなるまい……精々竜田川の流れのまにまに流されてどこどこへ行くくらいなものだろう。

 やはり絶望だ。

 それでも私は這い上がった。何度か悲惨な末路を思慮してみたことがあったが、そのどれも『肥だめで……』というのでは無かった。つまり同じ終焉であっても肥だめの中では死んでも死にきれなかったわけである。

 ゆえに私は這い上がった。

 だが、次の瞬間。私は再び頭から肥だめに落ちたのである。落とされたのであった。「うひゃー」と言う品のない声と共に飛んで来たリアカーが背中に直撃したからである。

 まるで、竜巻に飛ばされて来た家の下敷きになって息絶えた魔法使いのようである。

「うひゃー」の声の主がドロシーでないことだけは自信がある。

 一度ならずも二度までも肥だめに入った私は、一心不乱に這い上がろうと足掻いた。這い上がった暁には声の主に抱きついてやろうと思ったからである。私は無敵だ。肥だめから這い上がった私には何人たりとも近づけまい、近づきたくもないだろう!だから無敵なのである!

 私は顔を上げた。せめても、どんな男か見ておいてやろうと思ったのだ。例え逃げようとも地獄の果てまで追随するつもりで……しかし、不思議なことにそこにはリアカーもなければ声の主と思える人物もおらず。

 かわりに、全身が真っ黒い人間のようなモノが立っていた。

 言うなれば人の影みたいであったが……その肩には木製の三脚。腕には、フィルムやらあげくにはキャメラまで抱えているではないか。ひょっとしてこいつは映画倶楽部の部員なのだろうか。私がそのような推測を巡らしたとたん、

 その男らしきモノは、腕に抱えたフィルムとキャメラを肥だめに放り投げ、三脚を投げつけたのである。三脚が私の首筋を掠めて刺さった時はあわやと、冷や汗が額を駆けた。

「それ見たことか」 

 男らしきモノはそう吐き捨てると、黒い体を夜闇の中へ消してしまったのであった。


      ◇


 それから数日の間をおいて、私は完成した序幕の映像を拝見いたしました。

 劇中の私は……桜役の私は着慣れない袴を身に纏い、勝役の勝太郎さんと櫻の並木道を歩き、食堂で談話したりとまるで恋人同士の一時を見ているようです。ですから、私は少し恥ずかしくなってしまいました。

 だから私は私自身に必死に言い聞かせるたのです。フィルムに収められた自分は咲恵ではないのですよ、桜と言う女学生なのですよと。

「やはり映画とは華々しいですね」 

 私の隣で恍惚となっていた小春日さんがおっしゃいました。

「はい、とても華々しいです」

 私は恥じらいながらお答えします。

「勝太郎さんと鴻池さんがとてもお似合いです。仲睦まじい感じが演技でなくてもありありと感じ取れますもの」

 さらに小春日さんは両手を頬に当てながら、いやいやと小さく首を振りながらそう言ったのです。

 そんな……。私は言葉に詰まってしまいます。お似合いだなんて……仲睦まじいだなんて……

「あ、あれは私と勝太郎さんではなくて、桜さんと勝さんですよ」

 私は顔を赤くしてしまいました。

「そうでしたわね。私ったら、そそっかしいのだから」

 何かに気づかれたように、眼を大きくした小春日さんはそう言って「ごめんなさい」と

可愛らしく舌を出して謝りましたので「実は私も、刹那勘違いをしてしまいましたから、小春日さんのことは言えません」と小春日さんに耳打ちしたのです。

「まあ」 

 小春日さんは呟きます。そして、私と小春日さんは二人して顔を向き合わせたまま、くすくすと密かに笑ったのでした。

 その日の午後から、撮影が始まりました。分厚くなった台本を新しく渡され、目を白黒させましたが捲ってみると、台詞は勝太郎さんと練習をしたままとなっておりましたのでそこは一安心でした。

 ですが、奇妙なことに勝太郎さんのお姿がありません。そう言えば、試写会の折もお姿を拝見していないのです。私のお相手役である勝太郎さんが居なければ、お話しは進みませから、

「あの勝太郎さんがおりませんけれど……」私は監督である西村さんに言いました。

「ああ、筒串なら序章で死んだことになったから、もう出番はないんですよ」

「……そうなのですか……」

 そんな……と私は突然不安になってしまいました。てっきり私のお相手役は勝太郎さんだと思っておりましたのに、まだ、序章で死んでしまうなんて。それでは、神社の境内にて練習しました第二幕のあの台詞は誰がお相手なのでしょう。確か、お相手の殿方の胸に寄り添わなければならないはずですから……

 諸々お聞きしたいことがありましたが、まずは頭に包帯を巻いた西村さんの身を心配差し上げなければなりません。

「西村さん。包帯を巻かれておりますけど、お怪我をなされたのですか?」

「これは、昨日転んだ拍子に電柱にぶつけただけです」

 西村さんは「大したことはないんです」包帯を何度か叩いて見せました。

「そうですか、それは何よりです。それで……映画のことなのですけれど、私のお相手役はどなたがなされるのですか?」

「ああ、それなら今紹介しようと思っていたところです」

 そう言って西村さんが腰低く案内してきたのは誰あろう鈴木先輩ではありませんか。

「いやあ、筒串君だったか、彼に自分よりも〝鈴木先輩の方が鴻池さんの相手役に相応しいです〟と代役を頼まれてね。私も忙しい身の上なんだが、お相手が鴻池さんとあっては断るわけにもいかんだろう」

 やけに白い歯を見せて完爾として笑った鈴木先輩はそのまま「よろしく」と私の手を取って甲に口づけをしたのでした。

「こちらこそよろしくお願いいたします」

 鈴木先輩は同じテニス倶楽部の先輩ですから勝太郎さんよりも長いお付き合いになります。お優しい殿方ではありましたが、少々わがままで高慢と鼻にかけるところがあるのが

私は嫌いなのです。

 太陽が真上から傾き始めた頃、キャメラは回り始めました。けれど、なぜか私の衣装は袴のまま……それに撮影場所も以前と同じ場所でした。

「鴻池さん。悪いんだけど鈴木先輩のたっての希望で、序章から取り直しになったんだ」

 三脚を抱えた映画倶楽部の方が椅子に腰掛ける私にそっと教えて下さいました。

「最初からなのですか」

 私は「わかりました」と言ってうなずきます。同じ場面を繰り返しでしたら、私は自信があります。何せ、試写会と同じように立ち回れば良いのですから。それに、一度経験しているかぎりは、以前の演技により磨きをかけられることでしょう!

「緊張しているのかい?」

 意気込む私の隣に腰を掛けた先輩がそう声を掛けて下さいました。けれど私は緊張などしておりませんでしたので「私は二度目ですから、緊張はしておりません」とお答えしました。なのに、

「強がらなくても良いんだ。僕は筒串君よりもずっと女性の扱いには慣れているから、心配はいらない。鴻池さんは安心して私に身を委ねればいい」そう言って先輩は私の髪の毛を触るのです。

「鈴木先輩。折角の髪型が崩れてしまいますから、髪の毛に触らない下さいませ。鴻池さん、今一度、髪を梳きますからこちらへおいで下さい」

 私の髪の毛を弄びながら、もう片方の手を私の手に重ねたところで、怒ったような形相の小春日さんがやって来て、私を無理矢理、控えし室へ引っ張って行きました。

 まったく、髪の毛は婦女の命なのに、と小春日さんは憤慨しています。

「どうされたのですか、小春日さん」

「鴻池さんも、もう少し抵抗しても良いのです。髪の毛は女性の命です、その髪の毛を弄ばせると言うことは、体を許しても良いという合図だと、お母様がおっしゃっておりました」

「そうなのですか!」

 私は鯉のように口をぱくぱくさせながら小春日さんに詰めよったのです。

「ええ、私のお母様はそのようにおっしゃっておりました。それに、鈴木先輩はテニス倶楽部の婦女を見境なく口説いておられますから……てっきり……」

「口説くだなんて……確かに髪の毛は触られましたけれど……口説くだなんて……」

「ごめんなさい。早とちりしてしまいました」

 櫛を両手で握りながら、小春日さんはなにやらもじもじとしております。もじもじとしたいのは私の方なのですけれど……

「また助けてくださいませね」

 私は思いきって小春日さんを抱きしめました。

 困っている私にお姉様がして下さるように、抱きしめてみたのです。

「鴻池さんったら、お茶目さんなんですから」

そう言うと小春日さんは笑顔になりました。ですから、私も笑顔になったのです。初めてお姉様の真似をしてみましたけれど、お姉様はいつもこのようなお気持ちで私を抱きしめて下さっていたのでしょうと、改めてお姉様の懐の深さを実感いたしました。

 そして、新規蒔き直しと序幕の撮影が始まります。

 桜並木を桜と勝が並んで歩く場面からなのですが……鈴木先輩は何を思ったのか私の腰に手を回して必要以上に傍らに接近するのです。

「先輩、近すぎます」

 私は小声で言いました。

「恋人同士なのだから仲睦まじくなくてどうするんだい」

 先輩は私の耳元に顔を寄せて、囁くように言うのです。私は顔を背けました。耳にかかる息のこそばゆいことと言ったら……それに、先輩は腰に回した腕の指先を時に波打たせるように動かし、時には私の横腹をさするのです。

 それはもう私は不愉快でした。台本にもそのようなことはかかれておりませんでしたし、もとより、一度目の撮影で勝太郎さんはそのようなことをしませんでしたもの!

「大丈夫ですか」 

 桜並木の場面が終わって食堂への移動の最中、鈴木先輩が私に声を掛けてくる前に小春日さんが駆けて来てくださいました。

「台本にあのようなことが書かれてありましたかしら」

「いいえ。私もおかしいと思いましたもの、先日と演出が全然違います」

 小春日さんは私の肩に手を置きながら、首を洗い立ての犬のようにぶんぶんと振ってそう言ってくださいました。

「私から西村さんにお伝えしましょうか?」

「いいえ、私は大丈夫です。引き受けたからには少しくらいの我慢はできます」

 勝太郎さんが折角お誘いして下さったのですから。少しくらい我慢しなくてどうしますか。映画が完成した折りは……文化祭で上映されるその時は、是非ともお姉様と勝太郎さんと三人で見たいのです。小春日さんも時間を許せばご一緒したいですし……

 食堂の窓際腰を降ろしました。前回の撮影では中央の座席に腰を降ろして、キャメラや他の機材も食堂内に入っておりましたのに……今回は私と鈴木先輩を残して、全員外が外に居るのでした。

 ガラス越しに小春日さんの心配そうな表情が見て取れました。ですから、私は小春日さんに微笑んで『大丈夫ですよ』とお伝えしたのでした。

「今週末にお茶でもどうだい?」 

「そのような台詞はありません」

 私は勝太郎さんの足を引っ張ってしまってはと台本をしっかりと暗記しておりましたから、自信を持って鈴木先輩に申しました。

「君は随分と融通が聞かない頑固な女性のようだが、そう言うところもまた可愛らしい」

「そんな台詞もありません」

「それでは、どういえば会話をしてくれるかな」

 そう言うと鈴木先輩は微笑みを浮かべながら視線をテーブルに固定していた私の顎に指をあてたのです。

「何をするのですか」

 私はとっさに右手で、先輩の手を弾いてしまいました。

 すみません。私がそう言うと「表情も愛らしいがこの手も可愛らしいね」と私の右手に両手を添えたのでした。 

「これでは、取り直しになってしまいます。フィルムに余裕がないと西村さんがおっしゃっておりましたもの」

 私は声をできるだけ絞ってそう申し上げます。取り直しになってはフィルムの無駄ですから、出来るだけそれとなく先輩の手から私の手を引き抜こうとしたのですが、先輩は私の手をしっかりと握っていて容易に引き抜くことがまかりならなかったのです。

「どうせ、何を話しているかなんてわかりはしないんだから」

 そう言って先輩は、慎重な私を笑うのです。私はお腹の中が熱くなるのがわかりました。

良い映画にするためにも素人たる私は一生懸命に精一杯の演技をしようと努力し、そして協力しようと思っていますのに、それを笑うとは何事ですか!

 私は頬を膨らまさずに眼に力を入れて先輩をにらみつけます。

 ですが先輩は「そんな恐い顔をするなよ、折角の美人が台無しだ」とさらにふざけるのです。

 私の堪忍袋がはち切れんばかりとなった頃合いでした。

「私というものがありながら、どうして、そんな女性と仲良くされるのです!」

 台本通り女装した西村さんが私たちの席の前に現れたのです。おかげで私は鈴木先輩に噛みつかずにすんだのですが……

「お前は何のつもりだ!私と鴻池さんの仲を邪魔だてするつもりか!」と大声を張り上げて激昂した先輩がこともあろうに、西村さんを蹴り倒したのでした。

「なんてことを!」

 私は蹴り飛ばされ、派手に床に顔を打ち付けた西村さんの元に駆け寄り「大丈夫ですか」

と介抱をしたのです。

「失礼ですが先輩は本当に台本を読んでらっしゃるのですか、西村さんは何も間違ってはおりません。それをどうして足蹴りになどするのです」

 私は西村さんを介抱しながら、眉を顰めて言いました。もう、キャメラを気にする必要はありません。西村さんが蹴り倒された時点でフィルムは無駄になってしまったのですから。

「もちろん読んでいるとも。いやだな、鴻池さん。これも演技だよ演技」

 平静を装っているつもりでしょうか余裕の笑みを浮かべて歩いてやって来た先輩は「立て」そう言って西村さんの腕を持って無理矢理西村さんを起きあがらせたのです。

 私はそんな鈴木先輩に歩みよると、むんと胸を張って言ったのです。

「台本を読んでいらっしゃるなら!今の私は桜です。〝鴻池〟と呼ばないでください!」

しっかりと先輩の眼を見てそう言いました。そして、大股で食堂を後にしたのでした。

「どこへ行くんだ」

 背中に先輩の声が投げ掛けられましたが、私はその声に答えることなく、控え室まで振り返ることすらもしませんでした。

「鴻池さん。お怪我はありませんか」

 私が控え室に戻ってすぐ小春日さんが入ってまいりました。お優しい小春日さんのことですから、私を心配して駆けつけて下さったのでしょう。

「はい。私は大丈夫です。私よりも西村さんが心配です」

「西村さんは鼻から血を流しておられましたけれど、平気なご様子でした。」

 よかった。それを聞いて私はほっと胸を撫で下ろしました。

「先輩も先輩ですし、この新しい台本は酷い有様です。鴻池さん。まだ序幕ですし、私はおやめになるべきだと思います」

「新しい台本……今朝頂いた分ですね」

「ひょっとしてまだ目を通してらっしゃらないのですか?」

「序幕は台詞がございませんし、第一幕の台詞は覚えておりましたから……」

 私がそのようにお答えすると、小春日さんは一度私の顔から視線をそらしてから、小春日さんの持っていた台本を見開いて私に見せて下さいました。

 私が台本に視線を落としている間も「初々しく若い青春を描いていると言うのに、女学生の腰に手を回すなんて、あってはなりません。あれでは、女学生に声を掛ける軟派な男子ではありませんか。鈴木先輩の振るまいは見ていて気分が悪くなりました」と小春日さんは興奮気味に話しておりました。

 私はその間、眼を徐々に見開き、口を大きく開けて台本の文字を追うのです……そして、しまいには台本を床に落として、両肩を抱くようにしてその場に座り込んでしまったのでした。

 そのページは第三幕の序盤でした。第三幕は駆け落ちを覚悟する桜と勝を描くのですが、その序盤になんと口にすれば良いのでしょう……口に出すのを憚りたいのですが、そうもいきません。

 それは、もしも、二人の駆け落ちが成功しなかった時、その時は次に二人が逢えることは無いだろうと、勝が言い。こともあろうに桜を押し倒すのです。桜は、恥じらうのですが「婚約の契りに……」と体を許してしまうのです。

 台本には注意書きにて、『しばらくベットにて情欲を交わす二人の描写』とも加えられていました。

 ですから、私は「(そんな!)」と台本を落として座り込んでしまったのです。

「大丈夫。今ならまだ間に合いますよ」

意気消沈する私の手を握って小春日さんは慰めて下さいました……それはわかっています。このような愛憎劇が相俟って何が青春ですか。私は、もうこの映画に出演する気はすっかり失せてしまっておりましたし、たとえどれだけ頼みこまれたとしても、私がフィルムに写ることはありません。

 映画はそれで済むのです……済むのですが……私が本当に悲しかったのはそのようなことではありませんでした。

「ありがとうございます小春日さん……なんとお礼を申し上げればよいか……」

ですが、それを小春日さんに申し上げても仕方ありませんから、私は手を握って下さる小春日さんに感謝の気持ちをお伝えしました。

「いいえ、鴻池にさんにはラケット盗難の折、すでに助けていただきましたもの。恩返しと言うわけではありませんけれど、同じ婦女として、見過ごすことはできませんもの」

 小春日さんはそう言うと、私の洋服を持って来てくださいます。私は迷うことなく袴を脱ぎにかかると、洋服に着替えたのでした……


      ◇


 実に愉快な夢であった。苦しさに喘いで再々度肥だめから這い出したと同時に、眼を覚ました私は寝汗でぐっしょりとなった体を万年床から引きずり出した。

 残暑厳しいと言っても季節はすっかり秋なのだ。夕暮れを過ぎれば風は涼しい。ゆえに

布団から這い出した私の体は秋風に晒されてひんやりと心地よく冷えた。

 実に奇怪な夢であった。

 夢のくせに一向に私の頭から離れようとしない。数日経って私は愉快な夢ではなくやはり奇妙奇天烈な夢であったと思い直した。映画は撮影中止になったのである。だから乙女が桜並木を細身の長身男と並んで睦まじく歩くこともありはしないのだ。

 しかし、夢でありながら……夢のくせして、どうして乙女の隣にいるのが私ではないのだ。私の夢であるならば、わたしの願望を第一と最優先すべきだろう。

 暇を持て余していた私は、もう必要のなくなった台本を便所紙にでもしようかと考える一方で、一度でも片手に宿して乙女と台詞合わせをした思い出が残っているのである。であるならば、すでにこれはモノにあらずと、愛着の念から再び手に取るに至らないのだった。

 ここ一時間。私は暇を持て余しすぎて、正座の我慢比べを自分自身としていた。先程までじんじんとしていた脹ら脛の感覚がなくなり、そのかわり冷たいような痛がゆいようなそんな感覚にのみ支配される段となっていたのである。

 さて、この不毛にも無意味な根比べは果たして、暇つぶしと言う目的にかなっているのだろうか。答えは否である。至極明快に否であった。修行僧などは滝に打たれて座禅を組んで悟りへと近づいて行くと言う。だが、私に至ってはただ額に脂汗が浮いただけではないか。

 無の境地へ近づくために瞑想をすれば良いものを私と来たら、今晩乙女に手紙を書こうか書くまいか……それしか考えていなかった。

 今から走ればまだ文房具店の閉店時間までに間に合うのだ。

 私は無謀にも立ち上がろうとして、地味に畳の上に倒れ込んだ。もう少しで足首を捻るところであった。困ったことに脹ら脛から下の感覚がまったくなく、それこそ抓ってみても差すってみても、ただ冷たいだけなのである。それでも私は、戦いに疲れた戦人のように、額に脂汗を浮かべ両足を引きずって、腕の力のみで畳の上を這って行った。

 そしてやって来たのである。両足に走る筆舌するに難解な激痛とも激痒みとも言えない。

復活前の苦しみ、しいては生きている証拠が……私は靴を力一杯握り締めて、もんどり打った。枝でつついた青虫が暴れるように歯を食いしばって転がっていたのだった。


      ◇


 私は着がえを終えると、小春日さんと共に西村さんの元へ向かいました。そして、映画の出演をお断りする旨をお伝えしたのです。

「それは困るんだけど……」

 と西村さんはおっしゃいましたが。「このような破廉恥な場面を撮影するなどと、聞いておりません」と私が言い。「男女が情を交わして何が青春なのよ」と小春日さんが声を荒げて言うのです。

 「それは……」西村さんは、顔を背けてそう呟きました。

 そんな風に私たちと西村さんとで一悶着起こしておりますと「どうしたんだ」鈴木先輩がハンカチで手を拭きながら歩いて来たのです。

 先輩は私たちの主張を聞くと小馬鹿にしたように笑って「それは映画なのだからしかたないだろう。映画のために川に飛び込むことだってあれば、泥まみれになることだってあるだろう」

「川に飛び込むのも泥にまみれるのも結構!けれど、」私は先輩に迫ってそう言いました。ですが、先輩は私の言葉を遮って「君たちだって、もう少女ではないんだ。大人の婦女であるからには、ベットの上にて男と添い寝をするくらいがどうしたと言うんだ。それとも何かね?君たちは一生独女として死ぬつもりか?」と私と小春日さんの顔を見下げて言うのです。

私は憤慨しました。そして、鈴木先輩とこれ以上お話しをするだけ無駄でしょうと悟ったのです。

 ですから、

「とにかく、私はこの映画にはこれ以上出演しません。何が何でも出演しません!」

 力強くそう言って、殿方に背を向けたのです。

 歩幅大きく肘を張って、全身で怒りを表して歩く私の後ろから、小春日さんが駆け寄って「婦女がそのように歩くとはしたないです」と諭して下さいました。

 丁度、それは校門を出たところでしたので、慎みに欠ける私の悪態を衆目に晒すことなく済んだのでした。

「お気を落とされてはいけませんよ」

「はい。大丈夫です。小春日さん本日は本当にありがとうございました」

 そう言って、私は大學を後にしました。小春日さんは大學に用事を残しておられるとのことでした。

 私は憤慨していたはずなのでしたが、いつの間にか、寂しさを身に纏っておりました。危うく辱めを受けるところでした。ですから、それを回避できたのです、少しは安堵しなければいけないのですが……

 映画撮影とは……もっとオモチロイものだと思っておりましたもの。それにお相手は勝太郎さんでしたから、また喫茶の折りにお話しもできますし、神社にてお稽古もしたことでしょう。

 撮影当日から今日に至るまで、私はしばらくはそのようなオモチロイ日々が続くことでしょうと、心躍らせていました。なのに……こんな結末が待っているなんて。

 私は空を見上げることができないまま、飄々と歩きました。どこをどのように歩いたかすら覚えておりません。この行き場のない寂しさはやがて行き場を、終着の場所を求めて私の頭の中を彷徨い歩き、やがて隅っこに残っていた鈴木先輩への憤りと出会い。出会うべくして出会った二つの感情は、あらぬ感情へ変貌を遂げてしまったのでした……

 それはいけません。私は自分に言い聞かせました。きっとそこへ行きさえすれば、例え私の中にある薄汚い感情を全て吐き出してしまっても、その『場所』はその全てを受け止めてくださることでしょう。しかしながら、そのようなことはしてはいけません。そこに男女の隔たりなど皆無です。ヒトとして人間として、してはいけないのです。

 私は必死に私に言い聞かせました。そして、少し落ち着いたと思えましたので、空を見上げました。秋空は雲高く空も高く、青い空を泳ぐ鰯雲が秋の情緒を私に感じさせてくれました。私はさらに少し落ち着きました。

 そして、台本を控え室に忘れて来てしまったことに気が付いたのです。改訂された台本こそいりませんし後悔もしませんでしたけれど、改訂前の台本に関しましてはオモチロイ日々が待ち受けていることでしょうと希望を抱いた日々や勝太郎さんと神社にてお稽古をした思い出がこもっておりますから、私の大切な物なのです。その証拠に私は台本の表紙に大きく林檎の絵を描いておきましたもの。だから、あの台本はすでに私にとってはモノではなくなってしまっていたのです……ですが……あれだけの啖呵を切って大學を出てしまったのですから、今更、台本を取りに帰ることもできません。

 本当に残念です。私は晴れ晴れとした秋空に憂鬱な溜息を一つ吐いたのでした。

 私は俯いておりましたから、地面ばかりを見つめておりました。ですから、せめて、視線くらいは秋晴を見上げましょうと空を見上げました。心持ちは晴れませんでしたけれど、

羨ましいほどに晴れ渡った青天はやはり清々しかったのです。

 空を見上げておりますと、電信柱に打ち付けてある番地が目に入りました。その番地は、見覚えがあったです。

 私は、はてなとどこで見たのでしょうかと、首を傾げてから再び歩き出しました。すると、生け垣を通り過ぎたところに『流々荘』と彫り込まれた木製の看板が見当たったのです。

「こんなに近くだったのですね」

 私は呟いてしまいました。そうなのです。ここは勝太郎さんがお住まいの流々荘なのです。

 あてもなくただ、呆然と歩いていたと言うのに……偶然とは、本当に偶然にやってくるのですね。もしも、ここで勝太郎さんがおいでになられでもしたならば、これは奇跡でしょうか……


      ◇


 私はようやく私の足に戻ってきた脹ら脛と足首をさすりながら、よろよろと立ち上がると、壁に手をつきながら、ようやく、外に出ることができた。柿も食べ頃の晩秋に何をしているのやら……自分自身を蔑んでみてもやはり虚しい。

 そんな私に立ち塞がるは、五段を数える階段である。上りならばいざ知らず、下りともなればこれどうしたものか……まさか転がり降りるわけにもいかない……だが、かと言ってこのまま立ち据えているわけにもいかない。

 日が暮れてしまえば、文房具屋の主人のさじ加減一つで店が閉まってしまうのだ。内心では風の早さにて駆けたいのだが。とかく足が言うことを聞かないからには如何ともしがたい。筋の何本かが千切れてしまったのではなかろうな。

 私はそんな一抹の不安を抱いた、階段を降りにかかった。

 ようやく、郵便受けまで辿り着いた私は、自身の眼を疑いそして眼を擦った。

 鉄筋の剥き出しとなり崩壊しかけつつある塀の向こう側には黒髪の乙女の姿があったからである。

「咲恵さん」

 私はコキコキとなる足首を引きずるようにして、塀まで歩むと乙女に声を掛けた。

「勝太郎さん……」

 乙女はたいへんに驚いた様子で口をぱくぱくさせながら、棺桶から蘇ったミイラでも見るような好奇の眼差しにて私を見ていた。

「このような所で出会すなんて、奇遇ですね」

 乙女が間違っても私の廃城と見間違うボロ住居へ訪ねて来るはずがないのである。

「はい。本当に奇遇です」

 よもやこのようなところで、我が愛しの乙女を会えるなどと思っても見なかった私の心持ちはさながら、飛び立たん鵠【くぐい】のごとく空を翼で打っていた。だが、一方の彼女は私とは一線を画して、表情を見る見る間に曇らせてしまっている。

 私は何か粗相をしただろうか、瞑想に耽っていた一刻前にまで私は遡った。

「映画は残念でしたね。よくあることだそうですから、どうぞ気を落とさないで下さい」

 西村はケーキを携えて、咲恵さんに映画撮影中止の事を伝えたと言った。確実に言った。

その上は、これを話題とせずに何を話題としよう。

 仮にも、私は乙女の相手役としてフィルムに収まっていれば、神社の境内にて練習を共にしたのである。彼女の心情を一番に理解できるのは私以外において誰もいない。

 誰もいないはずだったのだが……

「私は勝太郎さんを見損ないました!」

 乙女はみるみる間に顔を赤くして、大きな声でそう言い放ったのであった。小さな拳をわなわなと震わせ。激昂を宿して大きな一目は凛と劫火を宿していたのである。艶めく黒髪こそ何の変化も見せてはいなかったが、その他、感情を司るはその全てが怒りに狂っていた。

「待って下さい咲恵さん!何が、どうして私は見損なわれたのですか。わけがわかりません」

 言葉の通り訳がわからない。見損なわれる理由が明瞭であれば、申し開きの弁も立とうがその理由すら苦しむ現状では私は何を吐き散らせば良いと言うのだ。

「私は!私は勝太郎さんを信じておりました。愛情細やかに誠実に接して下さる勝太郎さんのことを信じていたのです。だから、喫茶のお誘いもお断りしませんでしたし、私からもお誘いしました。お祭りだって……この度の映画だって……勝太郎さんだったから、ご一緒してお引き受けしたんです。なのに……なのに!私を騙してあのような淫猥な目論見をしていたなんて、私は勝太郎さんがわからなくなりました!」

 乙女は眼に私がこの世で一番見たくない。水ではない透明なモノを宿して、嗚咽混じりにそう叫ぶと、太陽が沈み行く方向へと駆け去ってしまった。

 私はただ、呆然としていた。見事に呆然と立つ尽くしていたのである。

 一言として何も言えなかった。乙女を呼び止めることすらもできなかった……

 だが、とにもかくにも、乙女から話しをとだけ切実に思い、ひび割れ、鉄筋が剥き出しとなった塀を飛び越えようと、左足に体重をのせた。

 私は忘れていた。私の両足首は病み上がり……いや正座あがりなのである。ゆえに私の足は軟体動物のように足首を捻って飛び上がるに足らず、剥き出しとなった鉄筋にズボンのポケットを引っ掛け、一回転したのち無惨にも地面に果てることになったしまった。

 腹が立つほど日本晴れの空を見上げながら私は、すでに乙女の姿のない道の先を見て、深い溜息をついた。そして、渾身の憎しみを込めて、塀を蹴り飛ばしたのである。その力で、でんぐり返った私は、鈍い音を立てて崩れる塀を見てさらに唖然としたが、誰にも見られていないことを確認する前に、自室へとなんとか這い帰ったのであった。


      ◇


「咲恵さん」

 私はそのような偶然に偶然が重なるなど運命でもないかぎりあり得ません。と通り過ぎようとした時でした。大きな金槌で打ち据えたようにが欠けたところから、丁度、勝太郎さんの姿が見えたのです。

 これは……これは……運命なのでしょうか!私は先程までに自分自身でふっと思っておりました言葉を反芻して、驚愕してしまったのでした。

「勝太郎さん……」

 私が眼を大きく見開いて、口をぱくぱくさせておりますと、勝太郎さんは蹌踉けながら塀まで歩いて来て下さいます。その際、コキコキとまるで木槌で柱を叩くような鈍くも軽調な音が聞こえましたが、これは私の耳があまりの驚きようにおかしくなってしまったのでしょうか。

「このような所で出会すなんて、奇遇ですね」

「はい。本当に奇遇です」

 勝太郎さんは、紛うことなき笑顔を浮かべてらっしやいました。私にはまだ信じられません。勝太郎さんが……あのような映画へ私をお誘いするなんて……やはり私の眼は曇っていたのでしょうか……勝太郎さんは誠実で愛情細やかな殿方と思っておりました。いいえ。気が付いた時にはそう思えていたのです…… 

「映画は残念でしたね。よくあることだそうですから、どうぞ気を落とさないで下さい」

 私は迷っておりました。このむず痒く胸の中で言葉が蠢くのです。勝太郎さんに今、お聞きしてもかまいません。いいえ、いっそお聞きした方が楽になることでしょう……ですが、もしも、もしも、勝太郎さんが…………私は恐かったのです。私が問い掛けますと勝太郎さんから帰ってくる返事は極端な二つだけです。片方ですと、勝太郎さんは私以上に憤慨して下さることでしょう。けれど、最悪な片方であったなら……きっと私は勝太郎を嫌いになってしまいます。二度と顔も見たくないと思うでしょう……ですから、聞くにきけなかったのです。

 なのに……なのに……勝太郎さんは……勝太郎さんはご自分からそのようにおっしゃってしまったのです……


「私は勝太郎さんを見損ないました!」


 その瞬間は刻銘に覚えております。忘れることはないでしょう。私の胸の中で何かが大きな音を立てて崩壊したのですから……

 気が付いた時には、そう大声を上げておりました。

 私はこれでも自制を促したのです。せめて、大人らしく、淑女らしく、勝太郎さんのお話しをお聞きしなさいと……けれど駄目でした。私は目元から口もと腕から足にかけて力を込め、全身を強張らせていたのですから。

「待って下さい咲恵さん!何が、どうして私は見損なわれたのですか。わけがわかりません」

そんな私に勝太郎さんは、しどろもどろになりながら、やっと私に向けてそうおっしゃいました。

 勝太郎さんのおっしゃる通りです。藪から棒に怒声を吐かれれば誰でもしどろもどろとなってしまうことでしょう。そうなのです、勝太郎さんのおっしゃれる通りなのです。

 ですが……

「私は!私は勝太郎さんを信じておりました。愛情細やかに誠実に接して下さる勝太郎さんのことを信じていたのです。だから、喫茶のお誘いもお断りしませんでしたし、私からもお誘いしました。お祭りだって……この度の映画だって……勝太郎さんだったから、ご一緒してお引き受けしたんです。なのに……なのに!私を騙してあのような淫猥な目論見をしていたなんて、私は勝太郎さんがわからなくなりました!」

 私はさらに捲し立てるように増して怒声を張り上げると、歩いて来た道を駆け出しました。頭の中ではわかっていたのです。どうして、撮影に同行していない勝太郎さんに当たり散らすなんて、筋違いですし、勝太郎さんからすれば不条理以外の何ものでもありませんもの。

 ですから、私は胸が苦しくなるまで走った後、肩を上下させながら。なんだか泣きたい衝動にかられてしまいました。このような気持ちは生まれて初めてです。ですが、涙を流すのは我慢しました。

 今すぐにしゃがみ込んで泣きたい衝動にかられていましたけれど、涙は……悲しい涙は隠れて流さなければ、婦女の慎みに欠けます、ですから歯を食いしばって、家に帰るまではと必死に我慢をしたのでした。

「お帰りなさい咲恵。咲恵?帰ったのでしょう。お夕飯なのだけど…………」 

 家に帰りますと、お姉様の声が聞こえました。ですが、私は返事がしませんでした。できなかったのです……もし、お返事をしてしまったら、私は情けない声を出してお姉様に縋り付いてしまうでしょう……

 ですから私は黙って自分の部屋へ逃げ込みました。

 そして、ベットに倒れ込むと枕を顔に押し当てのです。

 私の足が勝太郎さんの元へ向かったのは運命でも偶然でもありません。純然に私がそう願っていたのです。上辺では平静を装っておりました。けれど、深淵では終着の場所を求めて……私のあらぬ感情を受け止めてくれるだろう場所へと誘っていたのです。

 私は愚かです。私は情けない婦女です。いいえ。どうしようもない人間です……

 出会うべくして出会った感情を私自身ではどうしようもありませんでした。ですから、吐き出すか飲み込んで精神を病むか……二つに一つだったのだろうと思います。

 そして、私はこともあろうに、この薄汚い感情を勝太郎さんにぶちまけてしまったのです。

 勝太郎さんはいつだって、愛情細やかに私を気遣って下さいました。とてもお優しいお方です。そして、紳士たらんと誠実でいらっしゃるのです。なのに、なのに、私は勝太郎さんに向かって、謂われのない濡れ衣を着せ、まるで全ての起因が勝太郎にあるかのように………………

 私は泣きました。声を上げて泣きました。

 枕に顔を埋めて泣きました。

 私は勝太郎さんを信じたいのです。ですが、映画にお誘い下さったのは勝太郎さんですし、先程の弁の意図するところも不明です。ですから、私は一生懸命、勝太郎さんを信じようと、疑い事なかれと自分に言い聞かせましたが、それを頑として疑い、欺瞞にて私を辱めようとした、不埒漢である。と譲らない自分がいるのです。

 だから、私は泣きました。どうしようもないこの相対する感情は今度こそ何処にも吐き出すことはできません。

「嫌です嫌です」

 私はついに、仰向けになって声を上げて泣き始めてしまいました。

 勝太郎さんに裏切られたと思うのが嫌です。勝太郎さんを信じることができない自分が嫌です。

 そして、勝太郎さんのことが嫌いになってしまうのが一番嫌です。

「咲恵、どうしたの?ドアを開けなさい。どうして泣いているの」

 そのうち、私の泣き声を聞きつけたのでしょうか、お姉様が何度も私の部屋のドアを叩きました。けれど私はドアを開けるどころか、返事すらもできないのでした。

 ただ、一言だけ「私は駄目です……裏切られて……もう駄目です」とまさに泣き言を譫言のように言うにとどまったのでした。

 

      ◇


 根無し草になってしまいたい気持ちである。私はじんじんと熱を宿した足首を投げ出して、まさに放心していた。

 付け焼き刃と言えばそうである。凪節であったと言えばそうであった……確かに私は乙女とお茶をするようになるまでは、見損なわれても致し方ない所行は星の数ほど思い当たる。

 それは乙女がいなかったからであり、私に失うモノがなかったからである。無論、現在に至っても乙女は私の所有物ではない。そのようなことは片隅に思考するだけで、私の脳髄はただれてしまうだろう。

 私の頭の中にはずっと、乙女の潤んだ瞳が焼き付いて離れなかった。私は一体何をしでかしてしまったのだろうか……

 私はいつ咲恵さんを欺いたのだろう。淫猥な目論見をいつ企んだだろう。

 私が深淵より、愛おしく想い恋いこがれている咲恵さんに対して淫猥な妄想を巡らせてしまうのは私が男子であるからであり、それがなかったかと言われれば真っ向から嘘になる。だがしかし!私は咲恵さんを謀りかつ陥れようなどと、毛程も考えたことなどない。どうして咲恵さんの虜である私が卑怯な手を使って愛してやまない咲恵さんを裏切らねばならんのか!

 私はせめて、乙女の前でだけはねじ曲がる前の私でいようと決めていたのだ。誠実と愛情を細やかに散りばめて、咲恵さんに嫌われまいと努力してきたのだ……

 裏切られたと言うなれば、私がその心境である。 

 いや、そのような些細なことはこの際どうでも良い……私は恐かった、恐怖以上に恐かった……


 咲恵さんを失ってしまうのが恐かった…………


 私はこれまでにない絶望の淵にいた。三途の川がこの世に出現したと言うなれば、一番先に対岸へ渡るのは私であろう。四半世紀近く生きてきて、この数ヶ月ほど私の心持ちが輝いたことはなかった。そして、これほど暗黙に包まれたこともまたしかり……なかった。

 私は考えた。私が咲恵さんに見損なわれる理由を必死になって考えた。すると、あまりの多さに頭を抱える結果となってしまったが、往々にしてその答えは導かれることになったのである。

 『わからない』それが答えである。

 その上は答えを探さなければならない。すでに見損なわれてしまった私である。再び、乙女と過去に面白可笑しく過ごした日々が戻ってくる可能性は、月と地球が正面衝突衝してしまう確率だろう。

 だが、諦めないかぎり道は開ける……開けると信じたい……

 志あればいつか成るのだ!

 私は空元気のみを携えて、部屋を飛び出した。すっかり闇に暮れた町中を大學へ向けて疾走する。どうやら、足首は捻りきっていなかったようであった。不幸中の幸いとはこれのことを言うのであろう。仮に、骨が破砕しておようとも私は這ってでも大學に向かっていただろうが。

 全ての起因は映画にあり。それが私の下した判断。ひいては、西村を吊し上げれば事の真相に近づけるやもしれない。ゆえに私は、映画倶楽部室へ乗り込む覚悟を決めたのであった。

 旧松永一派に袋殴りにされようとも、光明へ近づけるのであれば、それも名誉の負傷といえるだろう。私は臆病な男だ。厄難が追いかけて来たれば、尻尾を捲いて脱兎する男だ。

 だが!咲恵さんの為とあれば!私は鋼の魂にて矢が振り、槍が襲い来ようとも喜び勇んで矢面に立つ所存である!厄難とて一手に引き受けて前を向いて朽ち果ててくれよう!

 私はそんな男なのだ!

 校門を乗り越え、用務員室隣の掃除用具箱からシャベルを取り出すと、私はイの一番に突撃する足軽のように颯爽と食堂の隣を駆け抜け、ひっそりとした旧講堂の階段を上った。

人っ子一人いない旧講堂は静謐としていた。私の足跡のみが雑音であり、唯一の音であった。

 私は『活動写真倶楽部』と看板を掲げるドアの前に立つと、施錠の有無も確認せず、力の限りシャベルを振り下ろした。まるで、千年の怨恨を晴らすかのように、ドアノブが消し飛んでもなお何度もシャベルを振り下ろしたのである。施錠を壊してなお開こうとしないドアを蹴破り、私は伏魔殿へ闖入した。

 だが、その伏魔殿には西村の姿はおろか、その手下の姿が一人として見当たらなかったのだった。

 私の部屋と同等、いや、それ以上の広さはあるだろう倶楽部室の四方は木製の本棚が天井までを埋め尽くし、窓は暗幕にて目隠しがされてあった。

 随分と昔に見たことのある風景であったが、ここまで様変わりしていないとは思いもしなかった。これまでに撮られた映画が収められたフィルムとそれを編集したフィルムはケースに入れられて安置されてある。そしてすっかり色褪せた台本の並びとて懐かしい。

 そして……

 私は古びた台本の中から表紙が破り取られた台本を抜き出し、ページを流すと、中程のページにそれはあった。

 台本に挟んであったのは、現在では銀幕の女優である、桜目 清花その人が写った貴重な写真である。この台本とて彼女が使っていた物なのだ。西村が担当した表紙が『気色悪い』とマドンナが自ら破り捨てた。

 誰よりも映画を尊敬し誰よりも愛した女性。その写真に写る彼女はどこか憂鬱としていた。憂いを含んだ表情が佳麗に見えたあの頃と違い、今はどうしてか本当に哀愁を浮かべているようにしか見えなかった……


      ◇


 『あゝ青春の日々』それに、関連した機材や台本の類は中央の机の上に一式置いてあった。

「咲恵さんに淫猥を要求しておいて何が〝青春の日々〟だ」

 私は台本の全てとキャメラとフィルムの入ったリュックを背負い、そして三脚を肩に担ぐと蹴った反動で、再び閉まっていたドアを再び蹴り開けた。

 私は威風堂々と夜闇の中を歩いた。威厳も威風もなかったが堂々と歩いたのである。私が向かったのは、本屋街への近道の途中にある田畑の一角である。

 誰が通るでもないのに、電信柱に取り付けられた裸電球が見たくも無いモノを認識させない程度に周辺を明るくしている。私は眼下に大人が三人は入れるだろう五右衛門風呂のごとく口を開けたそれを見下ろして、満面の笑みを浮かべた。鼻が今にもひん曲がりそうになったが、それはこの際どうでもよい。

 私は抱えた台本を地面に置くと、一冊ずつその中へ放り込んでいった。だが、一冊だけ、どうしても捨てられない台本があったのである。その台本は表紙に、簡略された林檎と思しきラクガキが大きく書かれてあった。私も好物であり乙女も好いている林檎を……仮にラクガキであったとしても、これを足蹴に……肥溜めに埋めてしまうことは憚らねばならない。結局、その台本は捨てることができず、足元に取り置いて、次ぎにリュックの中身に着手した。

 まず私が手に持ったのは撮影に欠かすことのできないキャメラである。これが無くなりさえすれば、映画倶楽部など忽ち『暇を持て余し倶楽部』へ華麗なる転落をすることだろう。

 私は会心の笑みを浮かべ、ざまあ見ろ!と渾身の力を込めてキャメラを肥溜めに投げ込みたかったのだが、キャメラは私の手の平にレンズを残して、重力にのみ従って肥溜めの闇の中へ落ちてしまった……なんとも虚しい結末である。

 レンズも肥溜めに放り込んだ私は、フィルムに取り掛かった。

 しかし、これがまことに厄介なのである。フィルムとは言え乙女の姿が記録されているのだ。私の愛し恋しい咲恵さんを肥溜めに沈めるなどどうしてできようか!

 ゆえに私は、裸電球にフィルムを翳【かざ】して、一コマ一コマを確認の後、乙女の姿が映っている物は懐に置き、その他は肥溜めに捨てた。最後に三脚でもって大鍋を煮る魔女のように肥溜めをかき混ぜ、三脚を突き刺したままにして流々荘へ帰ることにしたのだった。

「それ見たことか!」私は本当に唾を吐きかけてやった。

 流々荘に帰る途中、足取り軽くリヤカーを引く男と出会した。

 裸電球に照らされたそいつは、久方ぶりに見たにしては、随分と見慣れた妖怪顔をしていた。

「聞いて下さいよ」

 古平は久しぶりに顔を合わす私に向かって挨拶を端折ると、思い出し笑いをしながら、そう言った。

「なんだ、藪から棒に」

「この前の話しなんですけどね……」

 古平は余程面白可笑しいらしく、わざわざ言葉を句切って笑いを殺していた。

「俺は帰るぞ」

「まあまあ、久しぶりに会ったんですから、そうつれないことを言わない言わない。この前、童話を拾ったんですよ。それで、まだ売れそうだったんで辞書のカバーをかけて、古本屋に置いてもらってたんですよ」

「辞書か」

「そうです。あの名高いエニグマのね」

「それで、売れたのか」

 古平は「駄目でもともと。売れなくても元ではただですからね」と前置き、

「売れたんですよ。店番のオヤジの話しだと若い男が買って行ったそうなんですよ。世の中には阿呆な奴がいるもんですねえ。エニグマだと思って喜び勇んで買って、中身を開けば、しょうのない童話なんですから。その間抜けが悔しがる顔を思い浮かべるだけで、飯が食えますよ」としまいには腹を抱えてゲラゲラと笑い声をあげたのだった。

「そのリヤカーはなんだ」  

 私にすれば面白くもなんともない。ただ古平が小銭を儲けただけの話しではないか。人の幸せは憎むべきもの。特に古平の幸せは恨んで然るべきなのである。

 愉快愉快。と古平は腹をさすりながら、

「野暮なことは聞きっこなしですよ。また今度、儲け話があったら誘ってやらないでもないですけど」

「二度と誘うな」

 私はそう明言して、私の背中に何やら吐き捨てている古平を残し、流々荘へ帰ったのである。

 これ以上、古平の儲け話などに関わっていると、ますます私は咲恵さんに見損なわれてしかねない。金は欲しい、金があれば身なりを整え、乙女を食事などへお誘いできるだろう。しかし、だからと言ってそれと引き替えに大切なモノを失ってしまっては泣くに泣けない。

 とにもかくにも、今は、はした金に目の色を変えている時にあらず、如何にして咲恵さんと仲直りをするかに終始すべきである。事が一旦進み始めればそれは転げ落ちる大岩のごとく何人もこれを止めることはできない。ならば、この大岩をなんとか吉日の方向へ誘う他に術はあるまい。

 私は映画倶楽部の陰謀を肥溜めに破棄したことにより、これ以上の映画撮影の阻止には成功したと言える。さて、後は、私がどうして乙女に見損なわれてしまったのか……これさえ解明できれば、「誤解です」と胸をはって弁解できる。

 明言してみせよう。誰になんと言われようと、私は私の知る限りにおいて紳士たらんと務めたのである。乙女の前でだけは、誠実な男子たらんと務めたのである。であるならば、見損なわれるはずがない……きっとない。

 私はそう半信半疑ながらも、砂上の城の自信を胸に、台本を紐解いたのであった。

 明かりが頼りなかったせいだろう。表紙に林檎が描かれてある、私が保有している物と同様の台本とは別に、題名は同じながらも分厚くなった台本を一冊持ち帰ってしまっていた。念のためにと、その分厚い台本を開いて見れば、第三幕の序盤である。そこには、官能小説を思わせる台詞と男女が情を交わす破廉恥な描写が刻銘に記されていたのだった。

 待て待て待て待て!私は危うく咲恵さんとの破廉恥な画を想像しそうになって、半歩手前でなんとか踏みとどまることができた。

 なんだこの限りない桃色世界は!このように淫猥な男女の交わりを描写してなお『あゝ青春の日々』と言えるのものか。これが青春映画であるなどと言語道断である、どう見ても桃色映画ではないか!

 私は憤慨した。そして、肥溜めに一切を投げ入れたことが誠であったと確信したのである。

『……私を騙してあのような淫猥な目論見を……』

そう言った咲恵さんの心中が透けて見えた気がした。つまり、咲恵さんは私がこのような卑猥な内容が盛り込まれていること知りながら、この映画に咲恵さんをお誘いした。そう思っているに違いない。ゆえに『……騙して……』と口にしたのだろう。

 だが!この事実は私は知らなかった!そもそも、西村からは映画は中止の旨を聞き、そして私の所持している台本にはこのように下品な描写は一切含まれていないのだ。

 私は新旧台本を腋に抱え、野鳥が眠る刻限に部屋を飛び出した。

 今回は紛うことなく乙女の勘違いだ。私は乙女を謀った覚えもなければ、陥れた覚えもない。これは純然たる『私以外の不埒漢による陰謀』なのである。このような刻限に、そして前もっての連絡もなしに、家に押しかけるの不躾のほかになく。『嫁入り前の娘の家にいきなり尋ねてくるような不躾は二度となさらないでね』と八重さんに刺された釘とてまだ私の胸に深く突き刺さったままである。しかし、事が事である。一刻も早くこの誤解は解かなければならない。

 八重さんに瑞穂さんに……ひいては乙女に鞭打たれようとも、本日中に誤解の旨を伝えなければならないのだ。

 私は駆けた、台本を持ってただ黙して走り続けた。

 荒い息のまま、私が乙女の家の前で手を膝にやっていると、門柱の段差に誰あろう、瑞穂さんが腰掛けて私を上目遣いにて見上げていたのである。

 膝に肘を、そこから伸びた先にある白く細い指を頬にやっている。無邪気を思わせる格好であったが、眼光は鋭く、物言わぬ威圧感を私に投擲していた。

「瑞穂さん……」

 私は呟くようにそう言うと、深呼吸の後に瑞穂さんの前まで歩み寄った。すると瑞穂さんは音もなく立ち上がると、私の胸ぐらを取って、もう片方の手を平手のまま振りかぶったのだった。

 私は覚悟した。

 次の瞬間には私の頬を、瑞穂さんの手が打ち据えていることだろうと……

「一言の間だけ待ちます」

 だが、瑞穂さんはそう言ったのである。眼を閉じて覚悟を決めた私は、その声と共に眼を開き、段差の上に立つ瑞穂さんを少しばかし見上げた。

 どうすれば一言で説明できようか。私は思慮深く言葉を探した。探したが……到底見当に及ばなかった……

 「すみません。全て私の責任です」私はそう言って眼を閉じた。頬を打たれるのはいたしかない。謝ってしまっては、根源は私ですと認めたも同然なのだ。それに、この際弁明や釈明は無用。咲恵さんが傷ついてしまったのは事実なのである。どんなご託を並び立てたところでそれは、やはり言い訳にしかならない。

「言い訳をしたらと思っておりました。けれど、そんな風に神妙にされては打ち据えることはできません」 

 ところが、瑞穂さんは私を打ち据えることなく、胸から手を離したのだった。

「咲恵さんは……」 

「部屋で泣いています。こんなことは初めてよ。私にも何も話してくれないし、ただ、〝裏切られて〟とだけ……」

「瑞穂さん。どうか、私の言い訳を聞いて下さい」

「本当は今すぐにでも帰って頂きたいところですけれど、今はお話を聞くことが先決だと私は思います」

 今回だけは瑞穂さんにも、仔細が想像もできない様子だった。これは私にとっては不幸中の幸いである。もしも、乙女が勘違いのままを瑞穂さんに話していたならば、私は今頃、瑞穂さんに平手打ちされたあげく何の弁明もできないまま追い返されてしまっていたことだろう。

 私は言葉を選んで事の真相を懇切丁寧に説明し身の潔白を弁明した。最後に最初にして唯一の証拠である二冊の台本を見せて、さらに弁明を加えたのであった。

「これは……それでは、勝太郎さんは咲恵を裏切っていないのですね」

「はい。天地神明に誓ってそのようなことはしてません。するはずがありません!」

「よかった」

 瑞穂さんは台本を私に返しながら深く溜息をついた。それが安堵の溜息であるのか、はたまた、混迷する謎に頭を抱えた溜息なのかは杳として知れなかったが……

「勝太郎にかぎってと思っておりましたから、本当に安心しました。ですけど、今の咲恵には何を言っても耳に届かないと思うわ。それに明日、実家に帰ることになっていますから、折を見て私から話しておくことにします」

「すみません。瑞穂さんにそのようなお手数をおかけしてしまって」

 溜息はどうやら前者であったらしい。私はそれに関しても安堵した。

「いいえ。それは言いっこなしですわ。私も勝太郎さんには酷いことをしましたもの。咲恵のことは私に任せて。今日のところはあの子をそっとしてあげて」

「わかりました。くれぐれも宜しくお願い致します」

 私は心からの想いを託して瑞穂さんに深々と頭を下げた。咲恵さんが信頼してやまない、瑞穂さんから仔細を説明してもらえれば、これは大きな光明になりえるだろう。瑞穂さんに理解してもらえたことは私にとっては、無敵の後ろ盾を手に入れたと同義語と言っても過言ではない。

「承知しましたわ。それから、咲恵にとって初めてのことですから、心持ちのを取り戻すまでに時間がかかると思うの、だから念のためにも心中を騒がさないためにも、御手紙などは差し控えてね」

「瑞穂さんの言う通りにします」

 この件に関して直接的に私の出来ることは大凡残っていまい。後は仏ならぬ瑞穂さんに全てをお任せするしか私には術が残されていない。

 であれば手紙を自粛し、咲恵さんとの接触を控えることくらい、我慢できずしてどうしようか……寂しくはあるが……絶望の一歩手前ではあるが……耐えてみせる。再び咲恵さんの隣に立てるその日まで。


      ◇


 翌日、私は湿った枕の上でぼおっとしておりました。涙は遠の昔に枯れてしまいましたし、私の頭の中は朝日の白い光のように空っぽでした。

 そう言えばお腹が空きました。昨日は夕ご飯を頂いておりませんし、いつ、どのようにして眠ってしまったのかさえもわからないのです。覚えているのは……ただ、泣きじゃくっていたことだけ……一片だけでも思い出したくありません。

 朝はやって来ます。今まで私は、このまま今日と言う日が終わらなければ良いのにと思ったことしかありませんでした。ですから、このように今日と言う日が来てくれたことに感謝したのは初めてなのです。

 私は毛布を頭から被ろうとしました。ですが、その前に、ドアをノックする音が聞こえたのです。

「咲恵。起きているの?開けてもいい?」

 お姉様でした。

「はい。今開けます」

 私は毛布を傍らにおろして、急いでベットから降りるとドアの施錠を解いてドアを開けました。

「おはようございますお姉様」

「おはよう。でももう、お昼前よ」 

「えっ、それは本当ですか!」

「嘘を言ってどうするの」

 私は慌てて机の上に置いてある時計を見ます。すると、どうでしょう、長身と短針がそれぞれⅩを指しているではありませんか。

 私は溜息をついてしまいました。てっきり早朝に目が覚めてしまったと思っていたのです、ですからとても損をした面持ちでした。

「溜息をつきたいのは私の方だわ。昨日の晩ご飯と今朝の朝ご飯、咲恵も分も拵えたのに、結局食べてもらえないのだから。それに、本日はお昼から実家に帰ることになっているのを忘れたとは言わせませんよ」

 お姉様は腕を組んで鼻息を荒くしてそうおっしゃいました。

「ごめんなさい。昨日はその……食欲がありませんで……ですけれど!朝食は今から頂きます。とても美味しくいただきます!」

 私はばつが悪くなって、そう言いながらお姉様の隣をすり抜けようとしました。けれど、

「元気になってくれて良かった」お姉様はそうおっしゃって、私を抱き留めたのでした。

「お姉様……」

「心配したのだからね。あんまり心配させないで頂戴、白髪が増えてしまうわ」

 肩に手をやったお姉様は、私に優しく言葉かけて下さいました。

「心配をおかけするつもりはなかったのですけれど……ごめんなさい……」

 心配をかけるつもりはございませんでした。ただ、私は涙を堪えることができなかったのです。そして、ベットの上で泣き続けていただけなのです……ですが、お姉様の表情を伺いますに、ご心配をおかけしてしまった様子です。ですから私は「もう大丈夫です」と

呟くように続けたのでした。     

 台所に降りますと、テーブルの上に朝食でしょう目玉焼きが置かれてありました。すっかり冷めてしまっていましたけれど、私は「いただきます」と美味しく頂くことにしたのです。

「急がなくてもいいけれど、食べ終わったらちゃんと着替えなさいね」  

 エプロンをして、食器を洗っているお姉様の背を見ながら私はウサギ林檎を一口囓りました。

 私は口答えをぐっと飲み込んで、黙っておソースを目玉焼きに垂らしました。お姉様のことですから婦女の嗜みとして着替えることは口酸っぱくおっしゃられることでしょう。 けれど……私は昨日、寝間着に着替えずに、普段着のままベットに横たわっていたのです。ですから私は着替えをしなくとも、すでにブラウスにスカートと言う出で立ちなのです……少々皺立っておりますけれど、これくらいでしたら……

「まさか、その皺だらけの洋服で実家に帰るつもりではないでしょうね?そんな身なりをみたら、お母様が嘆き悲しむわ。〝こんなだらしのない娘に育てた覚えはない〟とね」

「わっ、私はそのようなことを考えておりません。ちゃんと着替えはします。私だって、私だって淑女の端くれなのですから!」

 私は図星を隠すために、「心外です」と憤った振りをして、ソースの入っていた口細の容器の底をテーブルで強く叩いたのです。すると、不意に手の甲が冷たいではありませんか。見やると、そこには涙の滴程度の黒だまりがあるのです、お姉様が後ろを向いているのを確認してから、そっと手の甲を舐めてみますと、それは紛れもなくソースでした。

 どうやら、テーブルを打った際にソースが飛び出して、私の手の甲にかかってしまったようなのです。

 そして、甲を舐めておりますと、白い袖口に黒いお玉じゃくしがいるのが見えました。

「そんな……」 

 なんと、ソースは私の手の甲に止まらずブラウスの袖にまで跳ねていたのです。

「どうかしたの?」

「そでにソースがかかってしまいました」 

 がっかりと肩を落とす私でした。ですのに、お姉様は「お行儀が悪いからよ」と微笑むのです。

 そして、意地悪く口許を緩ませてから、

「これで絶対に着替えなければいけなくなったわね」してやったりと言うのです。

 ですから私は「着替えはすると言いました。ごちそうさまでした」頬を膨らませて、大股で二階の部屋へ上がって行ったのでした。

 昨日は勝太郎さんと顔を合わせるでしょうと、お気に入りの装いで出掛けましたから、洋服ダンスの中にはこれと言ってお気に入りの洋服はございません。

 ですが、それで良いのです。本日は実家に帰るだけですし、お姉様からお聞きしたお話ですとお車にて迎えに来て下さると言うではありませんか。でしたら、一目に触れる機会も少なくてすみますし、別段、お洒落に気を回さなくても良いのです。

 私は橙色のスカートに白のブラウス。そして上着代わりに桃色のスカーフを肩に回して、部屋を出たのでした。

 お姉様に先程考えていたことをお話ししようものなら、きっと眉を顰めて「乙女の嗜みです」と一喝されてしまうでしょう。

 昼食を食べず玄関にて車を佇んで待っておりますと、退屈ですからついそのようなことを考えてしまいました。隣には旅行鞄を携えたお姉様が、あまり浮かない表情で迎えの車を待っていました。

 やがて、迎えの車がやってまいりました。ここからは三時間ほどの道程を車での中で揺られることになります。

 三時間とは長時間ですから、窓の外を見ているだけでは飽きてしまいます。ですから、お姉様と何かお話しをしようと思いましたけれど、お姉様は表情を一段と沈ませて、哀愁の眼差しで窓の外を見ているのです。

 それは、妹の私ですらお声を掛けずらい雰囲気を醸していたのでした。

 

     ◇


「どうして昨日の内に帰らなかったです」

 実家の玄関に到着しますと、お母様が車から降りたばかりの私と頭から湯気を立ててお姉様と私にそう言いました。

「パーティーはまだ先ですから、そんなに急がなくても良いと思いますよ」

 そうなのです。毎年、お父様が主催されます、クリスマスパーティーはまだまだ先の話しなのです。本日、実家に帰ったのは、そのクリスマスパーティーの席に出るにあたって、ドレスを誂えるための採寸なのです。

「昨日、服屋さんがいらっしゃっていたの。昨日帰って来ていれば、私と一緒に一度で済んだのだかの」

「そんなに怒ることではありませんよ。お母様、先程も申しましたけれど、クリスマスパーティーまでにはまだ時間がありますもの、ですから、お母様のドレスが届いた折りに採寸してもよろしいではありませんか」

 どうしたのでしょう。このような些細なことでお母様が目くじらを立てるなんて……いつも穏やかに大らかに。それが淑女たる嗜みです、と自身から私たちのお手本となってくださっておりますお母様なのですなのですが……

「咲恵。外でそんな大きな声を出してはみっともないわよ」

 お姉様は小さな声でそう言うと「お母様ただいま戻りました」すれ違い様にお母様に言葉を残して、さっさと家の中へ入って行ってしまいました。

「瑞穂……」

「お母様、お姉様はどうかされたのですか?」

「いずれ咲恵にもわかると思うわ。私ったらつい感情的になってしまったわね。疲れてるのかしら……咲恵、瑞穂のこと頼んだわね」

 お母様は額に手をやって、何度も首を振ってみせるのです。私はついに要領を得ることができませんでした。ですが、珍しくお母様はお姉様に私をお願いするのではなく、私にお姉様をお願いしたのです。

「はい。しっかりと頼まれました」

 いつもお姉様やお母様に心配ばかりをかけている私ですから、お姉様とお母様には大変心苦しいのですけれど……胸の内では密かに嬉しいと思ってします私がいるのです。

 お母様が家の中へ入られた後、私は荒い鼻息を一つ吐き、気合いを入れてから家の中へと入りました。お姉様が元気がない時にこそ。私が、がんばらなければならないのです! 

      ◇


 池に小石を投げ入れてみれば、その虚しさが一段と際立つものである。水切りであるなら、私の細い腕からサブマリン投法にて放たれた平たい小石がトビウオのように水面から水面へと飛び舞うのだろう。

 だが、あえて私は上投げにて水面のみを打ち据えるのである。

 そして、賑わっては消えて行く波紋を見ながら、乙女のことを考えて溜息をつくのであった。

 私はまた大きな溜息をついた。乙女と音信不通になってどれくらいになるだろう。日捲りのない私は俗世間から孤立し、時間と言う概念を曖昧にしていた。それとて、どうでもよいお話しである。

 乙女と待ち合わせをしているわけでもなし、はたまた大學へ行ったとて乙女と会えるわけでもなし……後者は目的を大きく逸脱しているように思うわけが。それも仕方ないだろう。人は愛の前では盲目なのである。であるからして、私の人生が乙女を中心に回っていようともなんら不思議ではあるまい。

 私は乙女の前に盲目であり盲進するのである。

 そして、私が溜息をついたもう一つの理由は……今、まさに今し方、原稿用紙の上にインクが一滴落ちたのである。この一ぺージはまさに呪われている。これで五枚目なのである。論文は進まず用紙は減り、そして私の根気もすり鉢ですでに半分以上が削られているのだ。

 たまに気が向いたように、珍しくも勉学に励むがゆえに菅原道真が私に呪いを掛けたのやもしれない。ならば、幾ら私が足掻いたところ筆は進まないだろう。

 私は万年筆を原稿用紙の上に転がして、随分と澄んだ夜空を見上げた。風も清らかに冷たく、天狼星は煌々と輝いている。そろそろ毛布を出さなければ寝冷えをしてしまう。

「そうか……」

 私は押入を開けて思い出した。毛布は今年の春頃、窓枠に干しておいたら、どこかへ飛んで行ってしまったのだった。あの時は春一番をどれだけ恨んだことか……

 私は毛布を諦めて、代わりに雪崩のように押入からこぼれ落ちた、卑猥図書を手に取ると再び押入の中に放り込んだ。最後に手に取ったそれの表紙には、黒髪艶めかしい婦女があられもない姿でそこにいた。

 その瞳に呼び止められた私は、黙って畳みに尻を埋めると、迷い込んだ北風にくしゃみを一つしてから、桃色世界への扉を開いたのだった。

 いつも通りの桃色世界であったが、いつも通りであったればこそ、私は疲労をおぼえることもなければ、乱暴に押し入れと言う名の混沌の中へ卑猥図書を投げ込んだのである。虚しいことこの上ない。いずれはすり切れて色褪せてしまう紙に印刷された乙女よりも、いつまでも美しくそれこそ色褪せない黒髪の乙女の方が良いに決まっているからだ。

 だが、その乙女に私は何もできないでいる。理性や倫理観念からの暴走も視野に入れて、なお何をすることを自粛しなければならないのである。私は全てを瑞穂さんに任せる他に術を知らず、買い置いた便箋は未だ机の引き出しの中で封すらも切られていない。

 万年筆のインクとて同じである。ガラスの小瓶に並々と詰まったインクはその吐き出し処を便箋ではなく原稿用紙の上のみに徹している。だから、五枚目の呪いが発生するのやもしれない。

 私は押入の戸を足で閉めようと試み、そして、あまりの滑りの悪さに足の裏が腓返りを起こしてしまってから、ようやく立ち上がって両腕でもって戸を閉めた。

 それと同時に、私の部屋へ訪問者が訪れたのである。

「相変わらず、冴えない顔ですね」

「挨拶もできんのか。お前は」

「あなたに挨拶をしたら、挨拶に失礼だ」

 相変わらずの食えない物言いで、古平は部屋の中に主である私への伺いをも足蹴にして

万年床の上に胡座をかいた。

「なんのようだ。私は見ての通り勉学に忙しいんだ」

 実際には、五枚目の呪いにうんざりして、桃色世界に単独逃避行を敢行していたわけであるが、机の上には原稿用紙に万年筆が転がり、そしてごみ箱には丸まった原稿用紙が投げ込まれてあるのだ。

 疑う余地はあるまい。

「どうせ、押入の中の汚らしい本で欲情に耽っていたんでしょ。これだから寂しい男は嫌だ嫌だ」

 犬並の嗅覚はこいつに与えるのは勿体ないお話しであろう。

「言いたいことは聞いてやった。とっとと帰れ」

 私の鉄拳が火を噴いていないだけましと思え。だが、そんな私とは対照的に古平は「うひゃ、近寄るな近寄るな、独男病が写る」と大袈裟に恐怖してみせるのだ。

 私もようやく気が付いた。この妖怪男は近日、小春日さんと何か良いことがあったに違いない。デートでもしたのだろうか……

「ふざけるのもこれくらいにして、本題に入りましょう」

「私はふざけたつもりはないぞ」

「一二月に今年最大の大仕事があるんですが、どうです?」 

 私は勘違いをした。てっきりこの男は、私に小春日さんとの甘美たる時間をこれ見よがしに自慢しに来たとばかりに思ったのだが……

「昨日の言葉を忘れたのか」

「昨日は昨日、今日は今日ですよ」 

 古平の気色の悪い笑顔からすれ、まるで私と咲恵さんとの中がこじれてしまったことを知り置いているような……達観しているとでも言いたげな誠に薄気味悪い笑顔であった。

「はいかいいえか……今はそれだけにしておきます。どうします?」

 古平は笑みを絶やさずに、急に確信へと迫った。本題よりも戯れ言が多いことはなんたることかと思いつつも。私は別段、考える間もなかった。十二月と言えばまだ先の話しである。

 きっとその頃には私の心は今以上に荒んで行くことだろう。往々にして荒んでいることだろう。返事の来ない手紙を待っているのはとかく精神力を使い、そして負方向へ精神を蝕んで行くのである。

 考えて見れば、私のような粗忽者が咲恵さんに恋心を抱いてしまったことからして間違っていたのであろう。それに、幾度かお茶をしてお話しをして、一度祭りに行っただけなのだ。恋仲であるわけもなく、私の一方通行な感情が先走り続けているに過ぎない。

 古代は「そう言うと思ってましたよ」と私の返事を聞くと、締まりのない表情でもって部屋を出ていたのであった。

 所詮、私には黒髪の乙女は高嶺の花であり。そして私は一生独り身にて寂しく果てる運命にあるのだろう。

 だがしかし、両親も恨まねば神も仏をも恨んだりはしない。悔やむと言うのであればそれは私自身の情けなさである。

 

      ◇


 十一月を過ぎ、ますますと寒さをまして行きます。ドレスの採寸を終えました私は、今月の末日にございますパーティーまで下宿先に戻ることとなりました。本の十日ほどの間ですからとお姉様は実家に残られました。

 また一人の下宿先は、以前にも増して寒さが厳しいように思えてなりませんでした。初めから居なければ寂しくはありません。けれど、家に帰ればお姉様が待っていてくださり、そして温かい夕餉を拵えてもらえて……お話しをしながら頂く食事はとにかく前にも増して美味しいのです。

 ですから、一人きりの家は広く白く、温もりと言う名の彩りが失われてしまったように思えてなりません。

 嘘です。

 私は嘘をつきました。仕立屋さんのご都合で私は二十日ほど実家におりました。

 そして、ようやく下宿に戻れることになりました。私の心はどこか躍っていたように思います。もちろん不安の方が勝っていましたし一度は実家に引き返しましょうか……とも思いました。けれど、微かな光明を求めて私は下宿へ帰って来たのです。

 恐る恐る、郵便受けを見てみます。

 きっと、お手紙が入っていることでしょう。そう思っておりました、いいえ。入っていて欲しかったのです……

 郵便受けは空でした…………

 私は露骨に肩を落として、溜息をつきながら居間のソファーに体を預けました。勝太郎さんはどうしてお手紙を下さらなかったのでしょう……一番に脳裏を過ぎったのはそれでした。

 ですがその後、物音一つしない殺風景な部屋の中を見回してみて、はっと気が付きました。そうなのです、私は勝太郎さんからお手紙を頂けるはずがないのです。

 私はなんて身勝手な人間なのでしょうか。勝太郎さんに「見損ないました」と言いましたし……その他の暴言については思い出したくもありません。そんなことを言われては、いくら勝太郎さんと言えど、激昂とされていることでしょう。ですから、私はお手紙を頂けるはずがないのです……

 私はそのまま、ソファーの上に横になると、膝を抱えて猫のように丸まって動けなくなってしまいました。

 お腹は満腹ですし、疲れているわけでもありません。けれど、胸の奥が重いのです、冷や汗のような微風が体の中をざわざわと巡るのです。

 寒さに震えるならば、足先から順に冷えてまいります。でも私は体の中心から、心底から寒さに震えていたのです。

「お姉様…………勝太郎さん……」

 急に人寂しくなってしまったのでした。


      ◇


 咲恵さんと音信不通な日々が続いて約一ヶ月以上が過ぎ、ついに師走の足音までが聞こえて来るようになった。

 あの日以来、私は瑞穂さんの注意を忠実に遵守し、乙女との接触を尽く避けて来た。原稿用紙との格闘の合間、折りを見ては引き出しの便箋を手に取って手紙をしたためようとしてしまう。そんな毎日の繰り返し……そして昨今においては手紙を書きたい一心から『認めるだけならば良いだろう。出しさえしなければ良いのである』と辛抱たまらん妥協案

を提示し、これを可決しようとするまでに末期へと追い込まれていたのだった。

 私は瑞穂さんに賭けた一握りの可能性を思い出し、この妥協案を足蹴にして一時は新品の便箋を引き裂いてごみ箱へ押し込もうと考え、そして実行しようとした。

 だが、それをするには決意が足りなかった。なぜなら、この便箋は乙女にこの可愛らしい便箋にて手紙を差し上げたいと思う一心で選び購入した品なのだ。

 捨て去ることができかった私は、次ぎに混沌の中に安置しておこうと目論んだ。しかし、戸を開けるや、無造作に散らかった卑猥図書がまるで、住み着いた原生動物に見えてしかたがない。この中にこの翠玉色の便箋を安置しておいたなら、次ぎに日の目を見た暁には、焦げ茶色に変色しているやもしれない。それこそ由々しき事態であろう。

 考慮すればするほど、思慮すればするほどに、この四畳間に便箋がすいよすいよと心地よくも安全に日の目を見るまで安眠できる場所は見当たらなかった。枕の下と言うのも案ではあったが、私の涎が付着してはと即決でこれは棄却した。

 そして、便箋は巡り巡って再び机の引き出しの中に落ち着いたのであった。

 

      ◇


「それなら、本日お茶でもいかがですか」

 そうおっしゃって下さったのは、小春日さんでした。

 桜並木の芝生の上で本を読むのが日課の私が、ずっと講堂にいることを珍しく思い声をかけて下さったのです。

 私は芝生には行けませんでした。ここのところずっと行っておりません。いつ何時、勝太郎さんと顔を合わせてしまうかもしれませんもの……いいえ、顔を合わせるのは良いのです。けれど、もしも勝太郎さんが顔を背けてしまったら、私の挨拶を無視されてしまったら……と思いますと、どうしても行くことができませんでした。

 小春日さんは私のお話を親身になって聞いて下さいました。そして「映画の一件と筒串さんは、関係ないと私は思いますよ」とまで言ってくださったのです。

 私は内心わからないのです。ですから、信頼します小春日さんにそう言って頂けると、どこか安心できましたし、少し元気になれた気がしました。

「詳しくお話しを聞いて頂いてもかまいませんか?」 

 と私はお聞きしました。

 すると小春日さんは、快く講義が終わりましたら連れだってフロリアンへ参りましょうと言ってくださったのです。持つべきものはやはりご学友ですね。

 十一月も終盤となりますと、北風が骨身に染みます。首筋が冷えるのはどうにも我慢なりませんから、私の首にはお姉様から頂いた紅色いマフラーが捲かれてあります。

 小春日さんとお話しをしてから、帰る道すがら洋服店の窓にひよこ淡い黄色が目につきます。私が振り返ってみますと、それはそのような色のマフラーだったのです。私が好きな色は赤色ですから、今まで黄色に見惚れたことはただの一度もありませんでした。

 ですから、これは初恋なのです。

 私は額を窓に密着させて、そのマフラーに見入っておりました。窓ガラスは氷のように冷たかったのですがそのようなことすらも感じる間もありません。

「鴻池さん、はしたないです」 

「小春日さん、私はこのマフラーに一目惚れをしてしまいました」 

「鴻池さん、皆さんが見ておりますよ」

「へ」

 私はその一言で、窓から額を離して、振り返ります。すると、道を通る老若男女が私に視線を向けて微笑んでいたのです。

「小春日さん、まいりましょう」

 私は恥ずかしくなって、小春日さんの手をひいて足早にその場を離れたのでした。


      ◇       


 ついに師走に突入してしまった。原稿はなんとか書き終えることができた。後は、これを持って大學へ馳せ参じるだけである。

 ついに師走に突入してしまったのである。野生動物にも私にもとっても生死をかける季節なのだ。昨年は毛布があった。だが、今年はない。

 毛布があっても寒かった夜など、夏布団ではたして無事に夜明けを迎えられるのだろうか。

 布団の中で一人冷たくなっていた……故郷に負の遺産しか残さず、錦の切れ端も飾れぬまま朽ち果てるなど、死んでも断る。

 この薄い夏布団であっても、二人で身を寄せ合えば温かいやもしれない。

 私は狂うこともなく、はたまた精神を病むこともなく、冷たく澄んだ夜空に輝く三日月を見上げ、何度も何度も溜息をついたのであった。

 言うなればこの冷静さこそこが異常であると言いたい。

 達観した領域に私は立っているような面持ちだったのである。それはもう三ヶ月も梨の礫であったなれば、往々にして結果は明白であろう。何より、この静けさこそがこの虚無感が、そう私に知らせているのだ。

 晩春から晩夏にかけて、誠に華やいだものだ、私の人生において一番華やいだのではなかろうか。いや断言して然るべきである。明日が待ち遠しいと思えた唯一の期間であった。

 十二月にはクリスマスと言う西洋の祭りがある。その折りは、男女が夜な夜な肩を並べ歩いても是とされる数少ない聖なる夜と聞いていた。夏祭りの次こそこの聖夜にと思っていたのだが……世の中、綿飴のように甘く美味くゆくはずがない。

 今年の師走も、不名誉ながら古平と臭い一日を過ごすことになるのだろう。あの日、古平の誘いに乗ったのは私自身なのだ。思い起こせば、あの日の時点で私には薄々、仔細を静かに了承し、そして感受していたのだろう。

 私も随分と大人になってしまったものだ。


      ◇


 師走に入ってもやはり浮かない面持ちの私でした。勝太郎さんからのお手紙は諦めておりましたけれど、私からお手紙をお出しすることもできないでいたのです。それも憂鬱でした。けれど、憂鬱と言えば、数日後に控えております、クリスマスパーティの前に行われます懇親パーティーです。私はあまり、パーティーと言うものが好きではありませんで、出来ることなら出席したくありません。ですが、この日にはすでに嫁いでいかれたお姉様方もいらっしゃいますから、私は日頃なかなかお会いできないお姉様方にお会いできるのを唯一の楽しみとしておりました。

 ですから、嫌々ながらも出席するのです。

 お母様からドレスが仕上がった旨のお手紙も届きました。本来ですと、試着などをして手直しをしてもらわなければならないのですが、実家へ帰るのはできるだけギリギリにしましょうと思う私は、本日、少し愉快な気持なのでした。

「鴻池さん。本日はお邪魔いたします」 

「いいえ、小春日さん。お誘いしたのは私の方なのですから、どうぞご自分の家だと思ってくつろいで下さいませね」

 映画の一件は私にとって、とても辛い経験でした。すぐにでも抹消したい記憶です。ですが、あの忌まわしき一件以降、小春日さんと一層仲良くなれました。小春日さんはお名前そのままに、肩を落とす私に春の日よりのように優しく親身になって下さるのです。私はご相談もしましたし、たわいもないお話しもたくさんしました。

 そして、以前からは考えられないほど小春日さんと同じ時間を過ごすことが多くなっていたのです。

 私も小春日さんのことをよく知ることができましたし、小春日さんも私のことをよくご存知になられました。そして、本日は小春日さんが私の下宿へお泊まりに来られたのです。

 もちろん、お誘いしたのは私です。やはり一人と言うのはとかく寂しいものですから、慣れてしまいたくさえありません。ですから実家に帰る前に、私は小春日さんに声をお掛けしたのでした。

 すると、小春日さんは「本当によろしいのですか」と一度はそう言われましたけれど、「はい。私は下宿に一人ですから、小春日さんが来て下さったらなんて素敵なことでしょう」と私が言い寄りますと「それでは、お泊まりに窺わせてもらいます」と口許を緩めてそうおっしゃったのです。

 その日は誠に充実した痛快な一日となりました。お姉様がいらした時を彷彿とさせるのです。お喋りをしてお喋りをしても話題は尽きることはありませんでしたし、小春日さんとご一緒にお夕飯のお買い物に行って、ご一緒に台所に立つのです。小春日さんはエプロンを持って来ておりませんでしたから、お姉様が置いて帰られたエプロンをお貸ししました。肩から胸元にかけて、ヒラヒラのついた可愛らしいエプロンなのです。

「とても可愛らしいエプロンですけれど、なんだか恥ずかしいです」

 殿方に見られているわけでもありませんのに、小春日さんはそう言って頬を赤くしています。

 私は「よく似合っておりますよ」と微笑み混じりに言って差し上げました。じゃれ言でしたけれど、細身の小春日さんにそのエプロンは本当に似合っておりました。

 お夕飯の後、居間にてお茶を頂きながら、また話し込んでおりますと、いつの間にか時計は深夜を示しております。婦女たるもの、どんなにオモチロイお話しをしていたとしても慎みと早く寝屋に入らなければなりません。ですから、私と小春日さんは寝間着に着替えて私の部屋のベットの中でお話しを続けたのです。

 こんなにお腹の痛い夜は初めてでした。

翌朝、私と小春日さんが朝食を食べておりますと「ドアは鍵をかけておかないと物騒よ」と言いながらお姉様がいらっしゃいました。

「あら、お客様?」

 お姉様は胸の所で白い紙袋を抱えておられました。

「はい、私のご学友で小春日さんとおっしゃいます。大學で一番のお友達なのです」

「初めまして小春日と申します」

 突然現れたお姉様に、小春日さんは慌てて挨拶をしました。

 けれど……

「まあ、なんて可愛らしいお嬢さんなのかしら」とお姉様はいつも私にするように、小春日さんを抱き締めたのです。「妹がもう一人出来たみたいね」と呟きながら……

「お姉様。小春日さんが驚いてしまいます。それにお姉様の妹は私ですよ」

 私はお姉様の両腕の中で固まっている小春日さんを気遣ってそう言います。

「だってこんなに可愛らしいのですもの」

「お姉様!」

 私は口調を強めて言いました。

 私たちは今お食事中なのです。ですから……ですから……その……お行儀が悪いです。

「もう、咲恵ったら、大丈夫よ。咲恵もぎゅってしてあげるから」

 お姉様は悪戯な笑みを浮かべそう言うのです。

 私は「もう!知りません」と席について、クロワッサンを大口で囓ったのでした。

「私も朝ご飯まだなのだけれど、何かあるかしら?」

「知りません」

「あらあら、小春日さん何か余っていないかしら?」

「あの、このクロワッサンを食べて下さい。私はもうお腹一杯ですから」

「まあ、ありがとう。でも本当に良いのかしら。これは小春日さんの分なのでしょう?」「お気になさらないで下さい。本当に私はお腹が膨れていますから」 

「ありがとう。小春日さんは優しいのね。私の妹とは大違いね」

 白々しく頬を膨らませてクロワッサンを頬張る私に目配せをしながら、お姉様はそう言うと、小春日さんのクロワッサンを口に運びました。

 私がそれを見ていますと、「咲恵ったら拗ねちゃって可愛いわ」と微笑むのです。

「拗ねてなんかいません」

 私はこれでもかと頬を膨らませてお姉様に言ったのでした。

 朝食を終えてから、お姉様を交えた三人で色々とお話しを致しました。お話し上手のお姉様が巧妙な語り口で、大學の九不思議などをお話し下さるのです。在學生である私と小春日さんはすっかり興味津々と、手に汗を握ってしまいました。

 閑話の頃、私はお姉様は大切そうに抱えていらっしゃる紙袋が気になりました。他に荷物があるわけでもありませんし、お姉様はきっとその紙袋の中に入っているものをわざわざ買い求めにいらしたに違いないのです。

「お姉様。その紙袋には何が入っているのですか?」

 私は気軽に聞きました。

「これ?えっと。秘密」

「秘密なのですか……それでは仕方ありません」

 『秘密』これは鴻池家の暗号なのです。婦女たるもの人にはお話できない秘密が幾つかあって然るべきです。それは例え身内であってもです。ですから、お聞きして『秘密』とお返事を頂きましたら、これすなわち『これ以上追求するべからず』と言う暗黙の了解をしなければいけないのです。

「お姉様は、それを買い求めに帰ってらっしゃったのですか」 

「いいえ、エプロンを取りに帰ってきたのよ。お母様にお料理を習うのに必要だもの」

「お姉様はエプロンを二着お持ちのはずですよ」

「ええ。でもあのエプロンがお気に入りだもの。どうせ着るのならお気に入りのエプロンを着てお料理したいじゃない。咲恵はお料理しないからわからないのよ」 

 本日のお姉様は、いやに私に意地悪をしてくれます。それに私に意地悪を言うと、決まって小春日さんに目配せするのです。小春日さんは困ったような可笑しいような不思議な表情でおりましたけれど、

「いいえ。鴻池さんも……えっと咲恵さんもお料理はお上手ですよ。昨晩、御一緒にお料理をいたしましたから私は知っております」と私を擁護して下さったのです。

「まあ」

 これにはお姉様も、想定外の所から飛び出した伏兵に驚いた司馬仲達のように目を丸くして、苦笑いをするのでした。

 私は死せる孔明、生ける仲達を走らす。の趣で胸を張ったのでした。

 私はお姉様や小春日さんといつまでもお話しをしていたかったのです。けれど、お姉様が昼前にお帰りになられるとおっしゃいますと、小春日さんも「それでは私もお暇いたしますね」と二人して、帰って行ってしまいました。なにも二人同時に帰らなくても良いではありませんか。一人ずつであれば寂しさも幾らかましでしょうに……二人同時に帰らなくても良いではありませんか!

 私は誰もいなくなった玄関を見つめながら一人むくれていたのでした。


      ◇

 

 到頭その日がやってきてしまいました。懸案しておりましても、その時はいずれやってきてしまうのです。下宿に戻る時も「何があっても帰ってくるのですよ」とお母様に口酸っぱく言われておりましたり「前日に帰らなければ迎えをよこします」とも言われておりましたから、帰らないわけにもいきません。

 私は帰省する道すがら、あのマフラーを購入して帰りましょうと、リュックを背負って商店街へ向かって歩きました。そして実家に到着した折、一番にお姉様に自慢するのです。

お姉様は明るい色合いが大好きですから、きっとヒヨコの黄色を見れば羨ましがるに違いないのです。

 私はこれでお姉様とまた楽しくお話しができますね。と心内をワクワクとさせながら、洋服店のショーウインドーを覗き込みますと、なんとあのマフラーがなくなっているではありませんか。

 私は驚きから人目も気にせずに、ガラスに顔を密着させたのです。そこにガラスさえ無ければ手が届くところにあったはずのマフラーが今では赤くスマートな手袋が飾ってあるのです。

「ちょっと!あんた何してるんだ」

 私が肩を落としておりますと、店のドアが勢いよく開いて中から中年の小太りな男性がそう言って私に詰め寄って来られました。

「その赤い手袋のところに置かれてあったマフラーはもう売れてしまったのですか」

 私は店の方でしょう、男性に今にも泣きそうな声でそうお聞きしました。

「黄色いマフラーなら、十日前くらいに売れたよ。一点物の良いマフラーで、結構な値段だったんだがね」 

「売れてしまったのですか」

 私はそう言い残すと、小さく溜息をついて駅へとぼとぼ歩き出したのでした。

 十日前と言いますと、丁度小春日さんがお泊まりに来られていた頃です。でしたら、諦めなければなりません。小春日さんがお帰りになられてから、売れてしまったのあれば、その間、本日の懸案にかまけて買いに行かなかった私が悪いのですから……

 憂鬱を顔に写して実家に帰りますと、早速、お母様に「お財布でも落としたの」と心配されてしまいました。

 私は「お財布はありますよ」と言いながら林檎の刺繍が施されたお財布をお母様にお見せしてから、自室へ戻ったのでした。

 その日の夜。私はすでに届いているドレスの試着をお姉様のお部屋でしました。お姉様は藍色のドレスでした。しっとりと大人の艶容さを醸すお姉様に私も思わず息を飲んでしまいます。清楚で物静かなさまはどこかの王女様ではないでしょうかと妹である私ですら溜息が出てしまうのです。

「やはり絹のお洋服は肌触りはよろしいですね」

 お姉様のドレスのスカートを撫でながら私は言いました。

「そうね、肌触りもそうだけれど、光沢が美しいわ」

 そうなのです。絹のドレスは肌触りもさることながらその光沢も可憐なのです。動くたびに蝶の羽のように色が映える。そんなドレスはやはり婦女の憧れでしょう。ですから、私も早くドレスに袖を通したくなってしまいました。

「え……」

 パーティーは、嫌でしたけれどドレスは楽しみにしておりました。ですのに……ですのに、私のドレスは萌葱色のドレスなのです。淡い緑色は私には似合いません。それに私の好きな色は赤色なのです。

「がっかりしないの」

「でもお姉様。私に緑色は似合いません。それはお姉様もご存じでしょう」

「ええ。だから緑色にお願いしたの」

 私は驚いてしまいました。緑色に注文をしたのはなんとお姉様だったのです。

「どうして緑色にしたのですか」

「咲恵のためよ」

「私のため……ですか?」

「そう。今回のパーティーはあなたにとって大きな意味が隠されているの。だから、咲恵。あなたに似合わない緑色のドレスを褒める殿方は信用をしてはいけないわよ」

「はい。わかりました」 

 いつにない真剣な眼差しでお姉様は私にそう言いました。ですから私は言及しないながらも、お姉様の助言をしっかり胸においてパーティーに望もうと臍を固めたのでした。 


      ◇ 


 パーティー当日は朝から家中が慌ただしくしております。ですが私とお姉様はいつも通りの時刻に起床して、何ら変わらず朝食を頂きました。その後は借用のテーブルや調度品の運び込みがありますから、邪魔になってはいけませんとそれぞれの部屋にてゆっくりとしておりました。

 内心はざわざわとしますけれど、別段何もすることはないのですから、とても変な気持ちです。私はベットに寝転がったり、ハンガーにかけられたドレスを見ては、やはり緑色は私に似合いませんと仏頂面をつくって見たりしておりました。

 本日は顔合わせの、立食パーティーですから夕暮れ前にはドレスに着替えて本日いらっしゃるお客様をお迎えする準備をしなければなりません。

 私はドレスを抱えると、お姉様のお部屋へお邪魔して着替えを手伝って頂きました。私もお姉様のファスナーをあげて差し上げましたし、私はお化粧をして頂きました。

「お姉様。また顔色がすぐれませんよ。ドレスがきついのですか」

「何でもないわ。さあ、お出迎えにいかないと」

 お姉様は窓から玄関の前に停車した自動車を見て、そう言うと、私の肩に手を回して「行きましょう」と微笑みをつくられました。

 私の嫌いな時間の到来です。

 私はお姉様の隣で大きな溜息をつきます。そして、いらっしゃるお客様に「ようこそいらっしゃいました」とお辞儀をするのです。

 老若男女が語らいながら、時には私やお姉様に声を掛けて下さいながら、大ホールへと向かわれます。

 私は再び大きな溜息をつきました。「咲恵。そんなに溜息をつくものではないわ」と去年の今日、お姉様は私にそうおっしゃいました。けれど、今年は溜息をつく私にお姉様は何もおっしゃりません。

 そればかりか、お姉様は笑顔を絶やして、俯いていらっしゃるのです。よくよく観察してみると、いらっしゃったお客様方、お姉様を一瞥しては微笑み、あるいは同行の方に耳打ちをするのです。

 そして、私には微笑みのみを向けるのです。

 私は気持ちが悪くなりました。そもそも私は『内緒話』は嫌いなのです。それに私の尊敬するお姉様に対して好奇の眼差しをくべるのも許し難い所行です。醜い眼差しに健気に耐えるお姉様を見ていると私は胸が締め付けられる思いでした。 

「お姉様、私たちも大ホールへ行きましょう」

 私はお客様が途切れた頃合いを見計らってそう言うと、間髪を容れずお姉様の手を取って強引に歩き出しました。

「何をするの咲恵。お客様に失礼でしょう」

 お姉様は廊下の途中にある応接間のドアを開けると、無理矢理手を引っ張っていた私を引き込んで、ドアを閉め。静かにそうおっしゃるのでした。

 私は一言目には何も言わずに、お姉様の顔をじっと見つめてます。

「なんとか言って。どうしたと言うの」

 口では今すぐにお客様をお迎えに戻らなければ。と伝えたげなお姉様でしたが、私にはわかりました。お姉様の表情には安堵の色が浮き上がっているのが……

「どうして私たちがお迎えをしなければいけないのですか」

「咲恵。今更なにをわからないことを言い出すの。毎年のことでしょう」

「……」

「折角、遠路を遥々いらしてくれたお客様への礼節です。私たちがしっかりしなければ、お母様とお父様が笑われてしまうのよ」

 お姉様は私の肩を持って、諭すようにおっしゃいました。それはわかっております。まだ物心もつかないうちから毎年として繰り返して来たのですから、それくらいは私にだった理解できています。

 けれど、けれど……今年は納得できませんでした。

「私は納得できません!」 

「咲恵!私を困らせて楽しい。それなら、私だけ戻ります」 

「駄目です」

 お姉様がドアノブに手を掛けたところで、私は小さくそう言いながらお姉様の前に立ちふさがります。私は頑固です。こんな不条理をまかり通してお姉様を苦しめるなんてどうして私ができますか。お姉様は私の大切なお姉様なのです!

「そこをどいて頂戴、私はこれ以上お父様にご迷惑をおかけするわけにはいかないの」

 お姉様は強い口調でそうおっしゃいました。けれど、瞳に宿っていたのは激昂にあらず、それは純然なまでの焦りだったのです。

 お父様やお母様の顔に泥を塗るようなことはしてはいけません。けれど……そのために、お姉様が大切なモノを傷つける必要もないではありませんか……

「私は……人に好奇の目を向けたり、内緒話をする無礼者に礼節を尽くす必要はないと思います。礼には礼をもって接するのが本来です。みなさんよい大人だと言うのに!私は、私は、お姉様が見せ物のように見られるのが耐えられないのです」

 私は声を大きくしてそう言いました。過去に私が膨れていますと、「大人の世界は曲がったことばかりなの、白でも黒と言わなければならない時があるのよ」とお姉様の言葉を覚えております。その折は、そのようなものなのですね。と頷いておりました。けれど!

白は白です。大凡のことは白を黒と申しましょう。お相手のご気分を害せぬようにとお気遣い致しましょう。ですが、黒を認めてはいけない時があります。譲れない……譲ってはいけない時があるのです!

「ありがとう。そう、咲恵は私のことを気にして……本当に思い遣りのある妹ね」

 お姉様はそう言うと、いつも通り私を抱き締めて下さいました。

 そして「困らせて楽しい。なんて言ってごめんなさい。でもね、私はもう覚悟を決めてあるのよ、だから大丈夫」私の頭を撫でながらそう言うのです。

 お姉様にそのように言われてしまいますと、私は帰す言葉がございません。お姉様がお化粧の折、吹きかけておられました香水の香りのみを残して、廊下に出た後、私は自身の無力さにその場に座り込んでしまいました。お母様に、お姉様のことを頼まれていました。なのに、今の今まで気が付くことができなかったのです。

 お姉様は私以上に本日のパーティーを懸案されていたのでしょう。ですから、実家へ帰る車内で浮かない表情を浮かべてらっしゃったのです。

 私はまだまだ、人としての器が小さすぎます。

 何だか無性に泣きたくなってしまいましたけれど、涙を流しては折角お姉様にしてもらいましたお化粧が崩れてしまいますから、涙は気持ちだけに止めて、溜息だけをついて、膝を抱えていたのです。

 このままずっと、応接室でやりすごすのも悪くないです。一時はそうも思ってみたのですが、やはりそれはお子様の所行ですから、年頃の私がそのようなことをしても可愛くもありませんし、それこそ、お母様やお姉様に呆れられてしまいます。

 それに、嫌なことだらけではないのです。本日は嫁いで行ってしまったお姉様方も来られるのですから。

 私はそこっと応接室を出て、何ごともなかった顔でホールへと向かいました。まだホールには瑞穂お姉様のお姿はありませんでした。

「咲恵。あなたお出迎えはどうしたの」 

 かわりにご挨拶に回っているお母様に小突かれてしまいました。

「えっと、そのお手洗いに行って来たのです」

 私は嘘をつきました。

「まあいいわ。あなたはここで、お客様のお相手頼むわね」

「はい」

 私は深々と頷きました。お母様はそれだけを言うと新しくホールに入って来られましたお客様の元へ行ってしまいました。

 お母様の背中を見送ってから私はご挨拶に回ることなく、小腹が空いておりましたので、

お料理を頂くことにします。お姉様を小馬鹿にした無礼者の面々にかける挨拶のなど私は持ち合わせておりませんもの。

 この上は、上の姉様方がおこしになられるまで無手勝流に食べて飲んでやるのです。

 そう思って、銘々皿を手に取ったところで、「咲恵、ちょっと」とお母様に呼ばれましたので、美味しそうなお料理を前にして、銘々皿を元に戻してお母様の元へ向かったのでした。

「こちらは住伴さんとおっしゃるのよ」

 お母様の元へ行きますと、お母様の隣には長身の男性が立っておりました。ほっそりとした顔立ちに細い眉とほどよい目の大きさからしますと、とてもハンサムな殿方でした。

「どうも初めまして住伴 義昭【よしあき】と申します」

「初めまして、鴻池 咲恵と申します」

 私がお辞儀をしますと、住伴さんは顔を赤くして頭を掻いたのです。

「住伴さんは、弁護士でらっしゃるのよ」

 お母様はとても嬉しそうにおっしゃいました。

「そうなのですか……」

 そうなのですか……とだけ思った私は、お母様がどうしてそのように喜色満面としてらっしゃるのかがわかりません。ですから、首を傾げてのみおりました。

「ほら、咲恵。住伴さんにお料理を取り分けて差し上げなさい。住友さん、すみません。気が付きません娘でして」

 理不尽です。私は頬を膨らましかけましたけれど、殿方が居る手前、寸でのところで我慢しました。そして「いいえ、そんな」とまだ頬を赤らめて頭を掻いていらっしゃる住伴さんに「こちらへどうぞ」とお料理が並んでいるテーブルへとご案内したのでした。

 住友さんは、私がお料理を取り分けて差し上げると「ありがとうございます。そのドレスは咲恵さんに大変似合ってますね」と言いながら手に持ったフォークで頭を掻かれるのです。痛くないのでしょうか。と私が住友さんを見つめておりますと、住伴さんは石膏像のようにぼーっと、ただ私の顔をじっと見つめるのです。

「私の顔に何かついていますでしょうか」

 私がお尋ねしますと、

「いいえ、ははは」と再びフォークで頭を掻いてらっしゃいました。

 私は変な殿方ですね。と思ったのですけれど「変な方ですね」とは言えませんから、愛想笑いを浮かべておりました。ですが……確か勝太郎さんもそうやって頭をよく掻かれておりました。私はそれを思い出すと、少し沈んだ面持ちとなってしまったのですけれど、

横目に見えたのです。桃色のドレスを身に纏った佳麗な婦女の姿が……長い黒髪を結い上げ、気品に満ちた口もとにはさり気なく口紅がのせられてあります。

「それでは、私はこれで失礼させていただきます。楽しんでく下さいませ」

 私は住伴さんに、お辞儀をしますと、逸る気持ちを抑え、精一杯の平静を装って歩きました。

「あら、咲恵じゃないこと、すっかり大人の婦女になったわね」

「お姉様お久しぶりです。はい、咲恵は大人の婦女になりました」 

 一番上のお姉様です。私とは十ほど年が離れておりますから、私が物心つく頃にはすでに、婚約されておられました、ですから、思い起こすだけの思い出もございませんでしたけれど、瑞穂お姉様のお話では瑞穂お姉様と私をとても可愛がって下さったそうなのです。

「あら、咲恵。住伴さんはどうしたの」

 折角、お姉様と久しぶりにお会いできたと言うのに、お母様はそのように言って出鼻をくじくのでした。お母様は本当に意地悪です。

 

      ◇


 久しぶりに姉妹四人が揃いまして、私は嬉しくて仕方がありませんでした。私は妹らしく、お姉様方に甘えっぱなしです。瑞穂お姉様も今日ばかりは妹ですから、上のお姉様方に少しばかし甘えてらっしゃいました。

 何よりも私は瑞穂お姉様が、笑顔になられたことが嬉しかったのです。

 お酒も頂きました。ですから、火照った体を少しばかし夜風に当てましょうとベランダに出たのでした。

すると「咲恵も酔いさましかしら」そこに瑞穂お姉様がおられたのでした。

「〝咲恵も〟とおっしゃるのは瑞穂お姉様もそうなのですね」

「酔いは酔いでも私は人の方ね」

「そうですか、それでは私も人酔いです」

 そう言ってから私は頬を膨らませました。

「どうして頬を膨らませるの」 

「お姉様は悪くないのです。それに私はあからさまな陰口は嫌いなのです」

私は到頭知ってしまいました。瑞穂お姉様に対して何をひそひそと陰口をはなしているのかを……それは松永先輩との婚約破談の一件だったのです。それはもうお姉様の悪い噂が流布しているようでした。

 松永先輩の一件は、お姉様に非はありません。それどころかお姉様は辱めを受けた被害者なのです。それなのに、まるで面白い映画の感想を話すかのように、話し合うのですから、私は手近にあったエビフライを投げてしまいましょうか!と一人堪忍袋をむくむくと膨らませていたのです。

「私は気にしてないわ。私に見る目がなかったのは確かだもの……」

「お姉様の悪口を言われているのは私が気分が悪いです。それに……あの縁談はお父様がお姉様に押しつけたのですから、やはりお姉様に落ち度はありません」

「ありがとう。でもお父様を悪く言っては駄目。最後に決めたのは私なのだから」

「でも……」

 お姉様は、器量よしですし上のお姉様方も瑞穂お姉様どうように、お父様が持ち帰った縁談にて嫁いでおります。ですから、お姉様も半ば諦めておられたのではないでしょうか。私にはそう思えてなりません。ですから、瑞穂お姉様が「……最後に決めたのは私なのだから」とおっしゃっても私の名かでは、どこか筋が通り切りません。

「住伴さんは良い方だった」

突然お姉様が話題を変えました。

「良い方も何も……挨拶しかしておりませんもの……けれど、このドレスを似合っているとおっしゃいました。後は、フォークで頭を掻いてらしただけです」

「そう、勝太郎さんと比べるとどちらが咲恵の好みなの」

 いつものお姉様に戻ってらっしゃいました。とても興味津々と嬉しそうに聞くのです。

「そんな……比べるなんて……勝太郎さんとは何度も喫茶をしておりますし、夏祭りにも御一緒いたしましたもの……」

 勝太郎さん……私は俯いてしまいました。今日のパーティーを懸案として、なんとか勝太郎さんのことを心の片隅に置いていたと言うのに……お姉様は意地悪です……

「これ」

「これは……どうしてお姉様が台本をお持ちなのですか?」

 私は驚いてしまいました。なんとお姉様は映画の台本を二冊取り出すと私に見せたのです。

「勝太郎さんから、聞いたわよ。あなたは勝太郎さんを見損なったそうね」

「それは……」

「でも、それは大きな間違い。と言うか、咲恵の早とちりよ」

「けれど、映画にお誘い下さったのは勝太郎さんです」

「勝太郎さんは、その薄い方の台本しか持ってらっしゃないと、おっしゃったわ。それに、映画撮影が中止になったと聞かされたそうよ」

「え……」

 私の頭の中は妙にすっきりしたのでした。抜け落ちてしまった歯車が元通りになったかのようです。

「私が考えるには、勝太郎さんは咲恵を誘うために利用されたのではないかしら。だから、勝太郎さんには濡れ場のない台本を渡して、少し撮影をしてから、映画の中止を告げられて……のけ者にされた後に咲恵にだけ、本来の台本を渡した……これでどうかしら?」

 お姉様は、台本を両手で抱き締めるように持つと、真っ直ぐな瞳で私を見つめていました。「どうかしらと言われましても……」まるで、シャーロックホームズのようです。お姉様がホームズなら、私は差詰め狼狽するワトソンでしょう。

「だってそうでしょ。咲恵の嫌がるのを承知で勝太郎さんがお誘いしたなんて、考えられないわ。あの人は、今時珍しいくらい誠実で不器用だもの。ただ真っ直ぐに咲恵だけを見つめていたのよ。そんな方が、咲恵に嫌われてしまうようこと、咲恵を貶めるようなことをするとは思えないもの」

「……」

 私は答えることができませんでした。お姉様のおっしゃる通りです。勝太郎さんはいつも愛情細やかに私を気遣って下さいますし、手だってまだ握ったことがありません。ただ、お会いする度に、無為自然と私の隣で微笑みかけて下さっていたのです。

「こんなこと、私が言わなくても、咲恵が一番よくわかっていると思うのだけれど……」「はい」 

 私はやっと、お姉様の顔を真正面から見ることが出来ました。それは、勝太郎さんを疑ってしまう……嫌いになってしまう……と疑念に苛まれていた私が、それらを払拭できた瞬間でもあったのです。

 次の瞬間には私の頬に水ではない温かくて塩辛いモノが眼から溢れて伝っておりました。

「あらあら」

「お姉様」

 私はお姉様に抱きつくとお姉様の胸に顔を埋めました。そして、声を上げて泣きました。

悲しかったからではありません。嬉しかったのです、私は今日まで勝太郎さんのことを『保留』として、胸の片隅に置いておきました。考えれば考えるほど、勝太郎さんへの疑念が積もるようで……果ては勝太郎さんを拒絶してしまうようで……だから『保留』にしていたのです。考えさえしなければ、勝太郎さんを嫌いにならずに済みますから……

「苦しかったのね。よく踏みとどまれたと思うわ。人を好きでいることよりも嫌いになってしまう事の方がよほど楽だし簡単だもの。咲恵も立派な乙女になったのね」

 お姉様は私の頭を撫でながら優しく言葉をかけて下さいました。けれど、私はお姉様の胸の中で大きく首を振りました。

 私は無実の勝太郎さんに酷い仕打ちをしてしまいました。これを改めない限り、私は乙女である前に人として堕落してしまうのです。ですから、私は首を決して縦には振りませんでした。


      ◇


 朝、机の上で目を覚ますと、便箋に「三度の飯より咲恵さんがほしい」と書かれていた。それは紛れもなく私の文字であり、私が書いた覚えが無いにもかかわらず、しっかりとした明朝体で……そして原稿用紙の中央に一行だけそう記されていたのである……

 よもや私が机の上にて熟睡していたその間に、どこからともなくやって来た小人が私の気持ちを代弁して書き表したのだろうか……そんな童話の世界に思いをはせてみたが、やはりこれは私が書いたものに相違あるまい。

 だとしたなら、私がこうして毎夜机に突っ伏して寝ている意味がないではないか!

 日に日に募る乙女への想いと比例して、私の頭の中は黒髪の乙女との甘美たる思い出が浮かび上がっては泡のように消えていった。せめて夢の中でだけでも乙女と語らえたらと思い、万年床に潜り込んだ折りは、眠りに落ちるまでただひたすらに私はたまさかの乙女との逢瀬に悶々としていた。その一時のためにこそ生きていると言っても過言ではなかったのだ。

 だが、やがて逢瀬だけでは満たされなくなった私は、欲情の赴くまま乙女との卑猥な一時を妄想しようと暴走しはじめたのである。

 所詮は妄想であるからして、気にもすることもあるまいと欲情の赴くまま乙女を押し倒したとて、誰に何を言われる謂われもありはしない。だが、私の頭中の空想であろうとも、一度でもそれを良しとしてしまえば大切な一線を踏み越え、そして、私の心底は陳腐の掃き溜めと化してしまう。これでは肥溜めの方がよほど有益ではないか。と、誰彼に全力で笑われてしまうことだろう。

 誠を持って身を修めんと望む私が雑念であろうとも婦女を、愛おしい黒髪の乙女を押し倒すなどと無軌道千万を犯して良いはずがない。人として落ちぶれようとも、内面の背筋だけは伸ばして生きたい。

 だから、机に突っ伏して眠るようにしていたと言うのに……

 私は冷たい体を投げ出して、畳みの上に寝転がった。

「……やはり咲恵さんには赤色が似合いますよ」

 夢をみた。クリスマスと言う祭りを共にした私と乙女。乙女は緑色のドレスを来て現れた。居るだけ華やぐそれは愛らしい乙女なのだが、緑色はどことなく似合っていなかった。

そこで私は夢中なれど「緑はあまり似合いませんね。やはり咲恵さんには赤色が似合いますよ」と言ったのだった。

 ただそれだけの短い夢だった。

 褒められて嬉しくない婦女はいないと言う。「お世辞は嫌い」と強がる婦女は捻くれているだけで、内心では喜んでいるのだ。

 なのに、私は乙女に対して世辞の一つも言えないなど!夢中でありながらお世辞の一つもいないなんて!

 私は原稿用紙を握り締めて、力強く立ち上がった。そして、目の前が忽ち大地震のように揺れたかと思うような、立ち眩みに襲われた。忘れていたが、私はクリスマスなどと言う祭りを前にして祭りどころではなく、年の瀬が迫り隣人がいつ帰郷してしまうのか、隣人の身を案じていた。毎年のことなのだが、年の瀬ともなると流々荘から一斉に住人たちが姿を消してしまう。居残るのは帰る金のない私とこの流々荘に根を張った新婚夫婦くらいなものである。

 これが大きいのだ、古代と手を切った私は咲恵さんと会うための布石のため金はどこまでも飛んでゆく、ここ数ヶ月はまったくその布石を打つ必要がなかったわけだが……いや打てなかったわけだが……その内情たるや常に火の車なのである。

 台所の友がいなければ私の食費はもろもろに私にのみのし掛かる一途であり、新婚夫婦に至ってはつまみ食いなどしようものなら、犯人は安易に判明してしまう。

 まさに八方塞がりである。

 八方を塞がれては何をしても意味を成すまい。私は別段何をするでもなく、己とのみ戦っていた。そんな折り、私の郵便受けに一通の手紙が入っていた。もしや、乙女からの手紙ではないだろうか、と興奮してみたも封筒の裏の差出人を見ると、その興奮は常温へと急降下してしまった。

 そこには『瑞穂より』と書かれてあった。

 瑞穂さんからの手紙でも十二分に嬉しいのであるが、瑞穂さんであるがゆえに、私は興奮以外の緊張感を纏わなければならなかったのである。

 封筒の中には便箋一枚が収められてあり、その内容も端的に簡単に書かれてあった。私は、安堵の溜息をついて、その場にとろけてしまった。夏場の氷のようにとろけてしまった。

『まずは。勝太郎さんへの疑いは晴れました』と書かれてあり、咲恵さんが数日の後、下宿先に戻る旨。そしてこの手紙のことはくれぐれも咲恵さんには内密にと文は続き、「手袋ありがとうございました」とお礼で文章は結ばれてあった。

 私は安堵の息を吐き散らかし、窓の外に身を乗り出すと燦然と輝く太陽を見上げて「私

の夜明けだ!」と叫んだのである。私はこうでなければならない。月を見上げて、文学青年を気取って哀愁と溜息をついているだけの私が私であるはずがない。

 黒髪の乙女からの手紙に一喜し乙女の笑顔でさらに一喜し、喫茶のお誘いをする前に二憂してこそ私なのである!

 私はこの躍動を旨に、久方ぶりに便箋を引き出しの上に置いた。無意識の間に一度筆を取ったが、あれは私ではない。ゆえに、久しぶりに私が便箋を机の上においたのである。

 万年筆に溢れんばかりにインクを吸い込ませ、何を書こうかと思案した。

 咲恵さんの中では、まだ「見損ないました」と言って、私の前から駆け去った時点で止まっているはずであるからして、お茶へのお誘いなどを書いてしまっては、私がただの脳天気楽天漢であると思われかねない。

 かといって憂鬱とした手紙など送りつけてもしかたがない。それに今、私の心持ちはすこぶる明るい、ご来光のごとく神々しく輝いているのだ。憂鬱な言葉を並べたところで、文字が躍っていれば、咲恵さんには私の心中など筒抜けだろう。手紙とは侮るなかれ、文字にして認めるくせ、人間の心底部分がありありと出てしまうのである。手紙に演技など無意味、自分には見えなくとも相手にはすっかり読み取られてしまう。

 だから、私は手紙を認めたいと言う気持ちを抑えて、便箋を引き出しに再び片付けてしまったのであった。この高鳴りが収まってから記そうと思ったからである。

 心頭滅却の為に、数週間前の昔話でもしたいと思う。

 あれは、瑞穂さんに想いの全てを任せて、から十日以上が経ったことであった。煩悶として、苦し紛れに咲恵さんとの夢中逢瀬を行うようになった二日目の夜のことである。

「風邪なんてひかないで下さいよ」

 呼んでもいないと言うのにまたしても古平が顔を出した。

 古平は私の身を案じるつもりなど毛頭ないくせに、そう言うと手に持っていた紙袋を丁寧に万年床に降ろしてから、自身も万年床の上に胡座を掻いた。

「お前にしては周到すぎるな。クリスマスの山はそんなに危ないのか」 

「いいえ、今日は気前よく前金を持ってきたんですよ」

 古平はそう言うと、傍らに降ろした白い紙袋を私に差し出した。

「どういう風の吹き回しだ」

「年に一度くらい、矢が降る日があっても良いでしょうよ」

 古平はそう言うと、相変わらずの気色悪い顔で笑うのであった。

 そして、兼ねてから臭わしていた仕事の表面だけを語った。その山はクリスマスの祭りに乗じて行うらしい。今回も詳細は語らなかったものの三条通り近くのバス停に十七時に待ち合わせと言った。「うまくいけば、あなたでも年始におせち料理が食べられると思いますよ」苦々しい奴である。おせち料理も年越し蕎麦もここ数年口にしていないことを知っていてわざと言いやがる。性根は腐りきっていることは確かだ。

「十七時だな」 

 だが、私は古平の口車に乗ることにした。今年も実家へは帰郷できないばかりか、このままでは温々と朝を迎えることすらも叶わない。もしも、古平の思惑通りことが運び、私の懐に大金が転がり込めば、私は迷わず毛布を買うことだろう。おせち料理など毛布の次ぎである。その前に、古平から受け取った前金を金に換えねばなるまい。

 古平を追い出した後、紙袋の中を見ると白い長方形の紙箱にリボンで封がしてあった。

古平に似つかわしくない前金である。、悔しいが、高級そうな雰囲気すら漂っているではないか……

 そう言えば帰り間際「女性にあげるといいですよ」と言い残していたか…………いずれにせよ、高級であればあるだけ私にとってはお誂え向きであろう。

 夕暮れを前に、段々と冷えてくると私は今夜を懸案して、古平が残して行った紙袋を持って部屋を出た。無論、さっさと質屋で売りさばくためである。古平が朝令暮改と気が変わるやもしれない。『女性にあげるといいですよ』などと寝惚けたことを口走っていたが、どうして私が古平の選びそして、譲り受けた物品を婦女に贈らねばならんのか。黒髪の乙女には私から丹誠を込めて練り込んだプレゼントを贈るに決まっている。

 ふざけるのも顔だけにしろ。


      ◇


「あら、勝太郎さんではありませんか」

 偶然にも林檎の乙女と出会したのは竜田橋の上であった。

「瑞穂さん。奇遇ですね」

 瑞穂さんは、明るい茶色のコートに首もとには見るからに温かそうな鮮やかな黄色のマフラーをしていた。そのマフラーはいたく瑞穂さんに似合っていた。姿見だけではなく、瑞穂さんの性格にも似合っていると言いたい。

「まあ、プレゼントかしら」

 私の抱える紙袋を指を指して、にこやかに言う瑞穂さん。咲恵さんの面影のあるその乙女の温暖色な表情を伺うに、私は禁断症状のように顔が熱くなってしまった。そう言えばここ数ヶ月、妙齢たる女性とまったく言葉を交わしていなかった……

「あまり良いものではありませんが、瑞穂さんに差し上げますよ」 

 私はそう言うと、紙袋から箱を取り出して瑞穂さんに差し出した。

「でも、いいのかしら。誰かにプレゼントするつもりだったのではないの」

「いいえ。瑞穂さんにはいずれ御礼をしないといけませんから。それにこれは誰に贈ると決まった物ではないのですよ」

 私の言葉に少し困った表情を浮かべたかぎり、未だ事は成っていないのだろう。だが、情けなくも瑞穂さんに任せっきりにしている、私には事の沈静化を急かす筋合いもなければ、言われもないのである。

「開けてもいいかしら」

表情を微笑み作り直した瑞穂さんには心苦しいのだが……本当のところ、今まさに箱さえ開けられずに質屋行きの運命にあった品なのである。

「どうぞ」

 路傍の人から見ればどのように写るのだろうか。端の上で男が妙齢たる女性に贈り物をし、その女性は嬉しそうにその贈り物を受け取ると、慣れた手つきでリボンを解いてゆくのである。

 私ならさぞ羨ましがるだろう、羨んだことだろう。そして「このような所ではしたない」と唾棄していただろう。もし仮に、そのようなことを思った男子がいたとすれば、事実とは本当に屈折している勘違いにのみ成り得るのだと教授したいと思う。

 何せ瑞穂さんは私のお知り合いでしかなく、贈り物に見える物品とて質屋送りにされる運命にあった物なのである。真実は真を知るとまことに仕様もないのだ。

 リボンを解いて、蓋を開けると瑞穂さんは開花した桜花のごとく表情を明るくした。もちろん私も箱の中身を知るはずがない。瑞穂さんに手渡してから、よもや、古平があらぬモノを仕掛けでもしていたなればどうしようか。と不安になったのだが、瑞穂さんの表情をみるかぎり、本当に『女性にあげるといい……』物だったのだろうか。

「まあ、可愛らしい手袋ね。私の手にぴったり」  

 そう言って左手を見せてくれた瑞穂さん。確かに、手には林檎色の手袋が収まっていた。

質感からして、何かの革製だろうか。

「山羊かしら、勝太郎さん、本当にこんなに高価な物を頂いても良いのかしら」

 瑞穂さんは手袋で頬を撫でてからそう言いながら、少し困った顔をした。

 まずは聞きたかった。山羊とはどんな羊なのですかと……野生の羊がいると聞いたことはあったが、山羊がいるとは聞いたことがない。だが、日本狭しといえど、山の隅々なで知るわけでもなし、野生の山羊が生息していても不思議ではない。

「はい。どうせ私が持っていても、持ち腐れるだけですし、それに瑞穂さんに似合ってますから」 

 洋服も靴も身に着ける人間を選ぶ。きっと私があの手袋を身に着けたならば、手袋に私という人間が負けて、不格好にしか写るまい。それに引き替えさすがは瑞穂さんである。手袋を身に着けて、なおその気品を増すのだから……

「でも、なんだか悪いわ。そうだ、それでは私のこのマフラーを代わりに差し上げましょう」

 交換。と言いながら瑞穂さんは黄色いマフラーを取ると、私の首に巻き付けてくれたのであった。

「いえ、瑞穂さんの首周りが冷えてしまいますし、私が勝手に差し上げたのですから……」

 そこまで言えたのだが、瑞穂さんの温もりの残るマフラーに私は今すぐに溶けてしまいそうな面持ちとなってしまった。

「実は、車をそこに待たせてあるの。それはそうと、クリスマスは大切な人に贈り物をする日というのをご存じかしら」

 手袋を箱に戻して、瑞穂さんは私にそう聞いた。口を開くたびに白い息があがる。今日はとにかく冷えるのだ。

「いいえ。知りませんでした」

 くりすますとは祭りではないのか……

「そう。なら、ちゃんとプレゼントを用意しておいてね。咲恵はきっと勝太郎さんからプレゼントを頂けることを楽しみにしていると思うから」

 そう言って瑞穂さんは振り返り様に片目を閉じてみせた。その仕草は全てのモノを者を桃色に染め上げ、心を引き抜いてしまいそうな……そんな愛らしさが漂っていた……

 「大丈夫私に任せておいて。それじゃあね」と背中が遠のいて行く、悩殺された私は「お気をつけて」と声を掛けるだけ精一杯であった。そして、どうして一言念を押せなかったのだろうか……誰が私を責められよう。いいや、誰からも責めを受けるつもりはない。だが困った、今頃は少しばかしの臨時収入が私の懐を暖めてくれていたはずなのだが……結局、温められているのは首の辺りで、懐は秋風が吹きっぱなしである。

 そう嘆くべからず、私は今幸せの真っ直中にいたのだから。瑞穂さんによって温められたマフラーは柔らかくそして、肌触りも格別であった。きっと美しいものだけでできている瑞穂さんの温もりがマフラーに宿っているのだと信じて疑わず。多少の飛躍をもって、まるで瑞穂さんに抱き締められているような……そんな気持ちになっていたのだ。

 だが、その幸せを凌駕する至福の一報を受けた私の心中は静謐を知らず、飲めや歌えといつまで経ってもドンチャン騒ぎを続けているのである。「いい加減に落ち着け!」と憤ってみても、これからまた咲恵さんと、楽しく語らいができる日が訪れるのだと一片でも脳裏を過ぎると、憤ってみたとてにやにやとチョコレートのようにとろけてしまうのであった。


      ◇


 私は悩んでおりました。下宿に戻る電車の中で窓の外を眺めながらずっと考えていたのです。

 外は日差したっぷりに温かそうですが、時折、木枯らしに巻き上げられて横切って行きます枯葉を見ますと、温かい列車の中から出たくありませんね。と鳥肌が立ってしまうのでした。

 私は思慮して熟慮して溜息を吐きました。パーティーは終わりましたし、その折り、瑞穂お姉様から勝太郎さんの無実をお聞きしました。それが嬉しくてその夜はお姉様のベットの中にて深夜まで語らいをしてしまったのですが……翌日には私は一転してどうしたものでしょうかと頭を垂れてしまったのです。

 私の面持ちの中ではすでに勝太郎さんへの疑いは晴れておりますから、今まで通り愛情細やかで誠実な殿方なのでした。けれど、問題は私の方なのです。『見損ないました』と啖呵をきってしまいましたし……それも勝太郎さんの言い分も聞かず、一方的に言いたいだけを言って逃げてしまったのです。勝太郎さんはさぞかし激昂して『あのような女の顔など二度と見たくない!』と思われていても一片もおかしくありません。瑞穂お姉様は「大丈夫よ。誠心誠意謝ってみまさい。まずはそれから」と助言を下さいました。お姉様のおっしゃるとおり、私は勝太郎さんにまずは、誠心誠意をお見せしたうえで謝罪をしなければなりません。

 いきなり勝太郎さんのお住まいに押しかけては、無礼の上に無礼を塗り重ねることになってしまいますから、まずはお許しのお手紙を認めてから、直にお会いして謝ろうと算段しました。ですが、そのお手紙に何と書けばよろしいでしょうか、とひたすらに悩んでいたのでした。

 私は言葉を多く知っております。文章とはそれを並べて意味を持たせるものですが、それゆえに難しいのです。何せ、私の気持ちにそう言葉のみを選んで文章をつくり、取り繕い不要になんとしても、勝太郎さんにお伝えしたいと思っていましたから……

 私は深刻に悩んでおりました。すると、いつの間にか久方ぶりの風景が車窓の外に広がり『三条通前』と車掌さんがおっしゃるのです。「降ります」私は急いで膝に乗せていたリュックを抱き締めると電車から飛び出したのでした。その際、スカートがふわっと傘のようにひらいてしまいましたから、慌ててお尻を押さえました。

 日差しは暖かかったのですが、風が少しでも吹きますと身震いをしないといけないほど冷えました。

「相も変わらず元気な娘さんじゃなあ」 

 すっかり乗り過ごしてしまいましたね。と思いながらリュックを背負っておりますと、横からそのように声を掛けられました。聞き覚えのある嗄れた声でしたけれど、早合点をしてしまっては失礼ですから、お声を掛ける前にそのお姿を拝見いたしました。

「魯人さんではありませんか。お久しぶりです」

 魯人さんは座椅子に正座されて、煙管を吹かしておられました。

「また酒を飲みにきたのかな」  

「いいえ。お恥ずかしいお話しなのですけれど、乗り過ごしてしまいまして」

 本当にお恥ずかしいお話しです。

「ほっほっほ。まあ、わしにとっては乗り過ごしたお嬢さんに感謝したい面持ちじゃ」

 魯人さんはそうおっしゃいますと、にかっと笑われました。その際、前歯の金歯が輝いております。

 魯人さんは十二月の二十五日の夜は暇かと私に聞きました。私は夜と聞いて少しばかし迷いましたけれど、「お時間はありますよ」とお答えしました。魯人さんはその日、三条通りではクリスマスのお祭りが開催されるのだとお話し下さってから、

「祭りと言えば占いじゃて、わしはその日占いをやるんじゃが、訳あって少々の間、抜けねばならん。その間の店番をお嬢さんに頼みたいのじゃよ」と話されました。

 私はお祭りと言えば林檎飴と思っておりましたけれど、初詣の折などに神社に並んでおります、占いの出店を拝見しておりましたから、占い師などオモチロそうですね。と淡い興味は抱いておりました。

「折角のお話しなのですけれど、私は占いはできません」

 興味こそはあったのですが、残念ながら私は占い師ではありませんで占いはわかりませんし、嘘でたらめしか言えません。

「なあに、占いはわしがなんとかする。だからお嬢さんは〝当たるも八卦当たらぬも八卦〟とさえ言っておればよいのじゃよ」

「それでしたら、私にもできると思いますけれど……」

 占いとはそのように適当でよろしいのでしょうか?と思いつつ首を傾げておりますと、電車が来てしまいました。

「私が差し上げた物を持って、夕暮れにどき、この駅においでなさい」

 電車に乗る私に向かって魯人さんはそうおっしゃいます。

「承知いたしました。魯人さん、お風邪などひかれませんように」

 このような寒いホームに座れておりますと、さぞお体も冷えることでしょう。私はお気遣いの言葉をお別れのご挨拶にして電車に乗り込んだのでした。


     ◇


 クリスマスを迎えて町はそれなりに色づいていた。それにしても日本人とは生粋の祭り好きである。わざわざ西洋の祭りを日本に持ち帰り、飲めや歌えやと騒ぐのだ。ようするに酒を飲む口実があればそれで良いのだろう。

 気がかりはあったが、私がどうこうできることでもない。私は古平との待ち合わせにやや遅れ気味であったが、今晩には大金に懐をほっかほかにできることを夢見て流々荘を後にした。

 そして、夕闇迫る頃合い。猿沢池の手前で合流した私たちは三条通の北側猿沢池と奈良町の一角の物陰に隠れながら、猿沢池を囲むように燈籠に火を灯す占い師を覗き見ていた。

「いいですか。できるだけ年寄りを見張るんですよ」 

 そう言った古平は今頃、南側で私と同じようにしていることだろう。

 その時は近い。すでに張り込んで半時が経とうとしていた。私は指先から冷える底冷えにじっと耐えながら松の大樹に身を隠していた。

 そして、その時はやってきたのである「この寒さです。誰だって便所が近くなるでしょ。だから、便所へ行った瞬間を狙うんですよ」その教えに抗うことなく、恰幅のよい初老の男が茂みに消えて行ったのを見届けると、主のいぬ間に、私は目的の物を手中に収めるべく薄暗い松の影から駆け出したのであった。

 墨を手の平に塗りたくりそれを乱暴におしつけたような、雑なつくりの燈籠の明かりを頼りに、私は黒い布が敷かれた簡素な机を覗き込んだ。狙うは虫眼鏡と水晶玉、その他装飾に置いてある物品だったのだが……

ここ三年ほど毎年のように古平が荒らし回っているだけあって占い師とて阿呆ではない。毎年同じ手口で商売道具を盗まれるものか。

 男は商売道具を懐に忍ばせて用を足しに行ったらしい。

 机の上には何一つ残っていなかった。

 奈良と言う場所はとかく不思議な場所である。雪とてそう降らないにも関わらず、雪国以上に冷える。盆地の嵯峨を丸出しにしたそんな土地なのである。こんな場所によくも都など築いたものだ。

 唇を赤色から紫色へと変色してゆく私は、数時間後の一攫千金のみを希望にして占い師を監視し続けていた。それはまるで、巣穴から出てくる兎を狙う狼のようである。そんな血に飢えた私の前をこれ見よがしに迷い出た男と女が仲睦まじく連れ添って通り過ぎて行く。なんと楽しそうなことか!

 軟派な奴らめ。憤る私だったが……もしも、古平の誘いなどに耳を貸さず、目もくれず、必死に咲恵さんに謝罪の文と今夜のお誘いの手紙をのべつ幕無しと差し出していれば今頃、あの二人のように祭りに色づく華やかな三条通を乙女を傍らに歩いていたかもしれない……

 私はやはり出掛け際に、郵便受けを覗いてくれば良かったと後悔した。瑞穂さんから知らせを受けてから私は一週間の間毎日郵便配達がくるのを待ちかまえていた。だが、手紙は一向に来る気配はなく、結局二週間前から、郵便受けを覗くことすらしなくなってしまったのだ。気がかりは後顧の憂いなくしておくべきであった……


     ◇


 『くりすます』当日。到頭、勝太郎さんからお手紙はきませんでした。文面に困った挙げ句一日に一日を誤魔化して過ごしていたのが悪かったのですね。お姉様にお話しを頂戴した翌日に投函していれば……もしかしたら……それでもお手紙を認めて数日前にお出ししました。くりすまえに間に合えば……と思いましたけれど、どうやら間に合わなかった様子です……誠に身から出た錆びですね。

 ですが、ふさぎ込んでばかりもいられないのです。今日はなんと、私の占い師として檜舞台にあがる日なのです。私は占い師とは?と考えあぐねた結果。お正月にしか袖を通さないお着物で行くことにしました。お洋服では足下が冷えますし、なにより、着物の方が占い師らしいと思ったからです。

 占いの腕は素人丸出しでも装いで誤魔化せば後は魯人さんがなんとかして下さるでしょう。お着物に着替え魯人さんから頂いたお面も持って、私は宵の口の駅に向かって歩きます。

「当たるも八卦当たらぬも八卦」と何度も練習しながら歩きました。当たっても当たらなくても、怒られないのです、なんと素敵なことでしょう。これなら、私にもなんとかできそうです。初めてですのになんと心持ちが明るいことでしょうか。

 私は不安よりもわくわく、そわそわとしていたのでした。


     ◇


 やはり、私から手紙を送るべきだったのだろうか……胸に手を当てたとて珍しく私の胸の中には落ち度も無ければ、謝らねばならない理由は見当たらなかった。

 だが、私から謝れば良いのだ。そうすれば、咲恵さんも手紙を書きやすいだろうし、何より、再び会話をする切っ掛けが生まれるではないか……

 私は乙女と会えなかった侘びしくも悲しい日々を払拭するべく、狩猟に集中することにした、占い師の便意を待ちくたびれる間に私の方がその衝動にかられてしまった。しかし、狩りの成功は刹那にかかっている。その上は下手に便所に行くわけにもいかないのである。

 私は我慢をした。両足をもじもじとしながら精神鍛錬のごとく我慢をしていた。

 そんな私が膀胱の破裂を予感して茂みの中へと歩いたのは、それから小一時間してからであった。

「今夜は冷えますな」 

 私は至福の瞬間を迎えていると、その横に恰幅の良い初老の男が並んで用を足し始めたのである。

「そうですね……」

 私は冷や汗と興奮を押さえてそう答えると下腹に力を入れ、なんとかして男よりも早く出すべきを終え、風のごとく獲物に強襲をかけたかった。しかし、それを終える前に「それじゃお先に」と占い師は猿沢池へと帰って行ってしまったのだった……

 なんたる不覚か!私は我が下半身に宿るミスタージョーを恨めしく睨み付けてみたが殴るわけにも罵倒するわけにもいかず、涙を一人で飲み込むしかなかった。

 そもそも、一人に絞り込むことからして私は愚かであったのだ。頻繁にもよおすものでもあるまいに数打つべきなのだ。

 私は獲物を探した。今にも机を離れそうな兎を探した。しかし、その兎は手練れ揃いであり、見れば茂みより離れている者どもはみな一様に、空瓶を足元に並べているのである。

 古平め。どれだけ荒稼ぎをしたというのだ。とにもかくにも各々鉄壁の防御態勢であった。

 私は項垂れ冷え切った体を引きずって、三条通へ歩いた。甘酒でも飲んで体を温めようと思ったのである。そうして、東向き商店街からの合流地点にて「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と呟きを耳にしたのであった。

 こんな所にも……と顔をあげると、人混みの中に着物姿の乙女の姿が見えた気がした。横顔を瞬きの間、見ただけであったがあれは間違いない……間違いないと思いたい……その女性は手に狐の面を携えていた。

 私は甘酒を忘れて「咲恵さん」と叫び、そしてその後ろ姿を追いかけようとした。しかし、その頃で急に後ろ襟を捕まれたのである。

 そして、目立たぬようにぐいぐいと引っ張られた私は転げまいと必死に路地まで後ろ向きに歩くしか出来なかった。

「今年は鉄壁ですね」

 私は大袈裟に溜息をついてみせる古平に瞬時にして殺気を覚えた。くりすますの夜に簀巻きにされたあげく猿沢池で一人寂しく溺れ、帰らぬ旅にでるがいい!

「去年荒らしすぎましたね」

 私の殺気を含んだ視線を意に介さない様子で古平は続けた。

「どうするんだ」

私は堪えた。ここで古平をぶち殺すのも悪くはないが、古平を亡き者にしてしまえば、儲け話も泡と消えてしまう。古平のことである、一度転んだとてただでは起きあがるまい。

「大丈夫。大穴がるんですよ。その占い師の持っている物は全て一流を越える一品でしてね、売れば屋敷が建つなんて噂もあるくらいですから」

やはり、古平は池にはまれば意地でも何かを握って這い上がって来る男であった。

「懐へ入れられたらどうする」

「ところがどっこい、それは持ち運びに向いてないものでしてね」

 ついて来て下さい。古平は腕時計を見てそう言いながら三条通を南下し、キネマを目と鼻の先にした露店の影に隠れた。

「あれです」 

「おい、あれは」

 あの顔を忘れろと言われても忘れることなど叶うはずがない。そこには暑そうな毛皮を羽織った、お年寄りがちょこんと鎮座していた。その前には竜や虎など絢爛豪華な置物、そして中央には老人の顔よりも大きい水晶玉が置いてあるのだ。しかも、それらを置いているのは虎の毛皮ときている。

「あれは蚰蜒の……」

 思い出したくもない忌々しい記憶である。

「もう少しであのオヤジは地下百貨店へ行きますから。少し時間ができるんですよ」

「なんだそれは」

「私も行ってみたいんですがね。何せ知る人ぞ知る場所なもんで。噂では日本中の質屋が集まって、競りをするらしいです」 

「古美術のような珍しいものが山とあるわけか」

「そうです。あのオヤジはああ見えて、古美術に目がないんですよ。だから絶対に行くんです。と言うか、ここらの占い師は全部それ目当てですよ」

「本当か」

「ええ、初めは祭りを見て時間を潰してたらしいんですがね。毎年のことですから、飽きてくる。だったら、道具さえあれば誰にでもできる占いで小銭を稼ごうってね」

 なんと面の皮の厚いやつらだろうか。そんな似非占い師に微かな期待を込めて占いをしてもらう人間が気の毒である。やはりここは何らかの天誅を加える必要があるだろう。

「でしょ?だから、少しくらい嫌なめに合わせてやるんですよ。趣味にうつつを抜かすくせに、ついでに金儲けをしようっていう輩なんですから。これは人誅なんですよ」

 珍しく古平の意見に賛成すること大であった私は鼻息を荒くして正義に燃えた。小悪党である私だが、大悪党を懲らしめれば外見はくらい、正義の味方に見えなくもないだろう。

「しかし、詳しいな」 

「私はあのオヤジの弟子でしたからね。さんざん貢がされたあげく、当たるも八卦当たるも八卦と言われて理由もなく破門されたんですよ」

 だから古代はあのオヤジに固執して悪事をはたらいてきたのか。

 古代は下唇を噛み締めて不快感を露わとしつつ、満面の笑みで占いをする老人を睨み付けていた。このような古平を初めて見た……古平と言う男は首を突っ込むことと懐に入り込む虎の巻を持ち、そしてどんなに羨ましい頂きまで登りつめようとも、君主危うきやとみるやそれを平気で捨てることのできる男なのである。とにかくこだわらず、必要に応じて軟体動物のごとく柔軟に立ち回る。この古平がここまで固執する姿など珍しいことこの上ない。

 そして、内心、古平を賛美してしまった私は急に吐き気を催してしまったのであった。


      ◇

 

 『くりすます』と言うお祭りはとにかく善男善女が多いのです。私は一人でしたが、勝太郎さんが隣におられれば、端見には恋人同士に見えるでしょうか……私は少しそんなことを考えて顔を赤くしておりました。

 そんな恥ずかしい姿を見られてはと頬を手で覆ってみますと、お姉様から貸して頂いた手袋が肌触り良くとても暖かいのでした。『かしみや』とは魔法の生地です。

 『三条通り前』駅で下車しますと、魯人さんが座ってらっしゃった座椅子が寂しくぽつんとホームの上に置かれてありまして、その上には「お面のお嬢さんへ」と書かれた手紙が置いてありました。私は辺りを見回してみましたけれど、お面を携えているのは私しかおりませんでしたからその手紙を読み。何度も頷いてから、東向き商店街を歩きました。

 お手紙に書かれてあった通り、東向き商店街は人通りもまばらでした。着物で参上した私にとっては大助かりです。

 その内、竜田川のように大きな人の流れと合流します。こんなに人がどこから集まってくるのでしょうと、尻込みをしてしまった私ですが、こんな所で足踏みをしていて占い師が務まりますか!と気合いを入れて、伺っておりますとなんとか人の流れに入ることができました。私は念入りに「当たるも八卦当たらぬも八卦」と念仏を唱えるように、さらに練習をしていたのです。すると、「咲恵さん」と後ろから声を掛けられた気がしたのです。

 私は振り返って見ましたけれど、どこにも彼処にも見知らぬ人の顔しか見当たりません。

空耳でしょうかと、私は少し悲しくなってしまいました、それと言うのも……その声が勝太郎さんの声に聞こえたからなのです。

「こっちじゃこっちじゃ」

 三条通を南下してキネマの前を通り過ぎようとした時に、魯人さんが手をこまねいて私を呼び止めました。

「すみません。人混みに流されて通り過ぎるところでした」

「そんなことはいいんじゃよ。ほれ、早うここに座わんなさい」

 魯人さんは何やらそわそわとしてらっしゃるご様子で、私にさっそく椅子に座るように促したのです。ふかふかの座布団の敷かれた回転椅子の上に腰掛けると、目前には私の顔くらいありそうな大きな水晶玉が置いてありました。面白いことに私の顔が瓢箪のような形になって写ってしてしまうのです。ですから、私は色々な角度から覗いて遊んでおりました。

「お客が来たら、水晶に向かって〝アブラカタブラ〟と唱えなさい。お代をおもらってから後に〝当たるも八卦当たらぬも八卦〟と言うだけでよい」

 本当に魯人さんは急いでいらっしゃるご様子でした。私が質問をする間もなくただそれだけを言うと、金色の巾着を持ってあしばやに人混みの中へと姿を消してしまったのでした。


      ◇


 私は目を疑った。紛れもなく、水晶の前に座ったのは咲恵さんだったのである。蚰蜒オヤジと何か言葉を交わした後、咲恵さんは狐の面をつけて水晶の前に坐したのであった。

ちぇっ、隣では古平が忌々しいと言わんばかりに舌打ちをしていた。

「どうにかしてあの人を拐かせないかな」

さらに古平が毒舌を掃き散らしていた。

咲恵さんを拐かすなど言語道断である。簀巻きにして猿沢池に放り込むだけでは物足りぬ所行である。亀と一緒に一生冬眠するがよい。

 晩冬の頃、狐の面を被り勇敢にも動かぬカエルの置物に猫パンチを奮っていた雄志を私は忘れていない。あの日の仮面の乙女はもしかして咲恵さんだったのか……私は阿呆だ……阿呆過ぎる……仮面の乙女を送って行った先はこの界隈では珍しい洋風の佇まいだったはず。考えてみれば咲恵さんの下宿先ではないか!いまさら気が付いたとは我ながら情けない。

 唖然とする私の視線の先にいる咲恵さんは足下を見たり、赤い手袋で両肩をさすったりしていた。今夜は特別冷えるのである。

「あの手袋あげたんですね」

「なんの事だ」

「前金で渡したでしょ」

「さあな」

 よく見ると、確かにその手袋は私が古平から前金として渡され、そして私が質屋に持って行く道すがら瑞穂さんに差し上げた手袋であった。瑞穂さんは咲恵さんに譲ったのだろう。私は瑞穂さんに差し上げた場面を思い出してはっとなった。今夜こそはまたとない好機ではないか。と悟ったからである。

「ちょっと!どこへ行くんですか!」

「便所だ」

 私は明らかに異なる方向へ走り出した。白い息をの色をさらに濃くしながら駆けたのである。


      ◇


 今夜は底冷えです。年の瀬ですからしかたありません。面白いことに奈良は雪があまりふらないと言うのに、雪国よりも冷えるのだそうです。東北育ちのお母様がおっしゃっていたのですからその寒さは筋金入りなのです。

 ですから、私は防寒に余念がありません。足袋の中には毛糸の靴下を、下着の上には毛糸のパンツを、手にはお姉様からお借りした手袋、実は長地盤を二重に着込んでいるのです。耳も顔もお面のおかげで寒くありません。ですが、不覚にもマフラーを忘れてしまいました。襟元から首が冷えるのは辛いことです。寒さのあまり声がでなければ占い師などできません。喉を温めに甘酒など頂にいきたいのですが、ここを離れるわけにはいきませんから困ってしまいます。この水晶玉を取られでもしたら、取り返しがつきませんから。

 ですが、私は内心どきどきしておりました。魯人さんは猿でもできる。と言わんばかりの口調でしたけれど……はたして私に務まるでしょうか。道行く人たちはおろおろとする私を好奇の眼差しで見て行きますが、椅子に腰かけてくれません。

 やはり呼び込みなどをした方がよいのでしょうか…………

 私は試しに『アブラカタブラ』と小声で言ってみましたすると、不思議なことに水晶の中にゆらゆらと海藻のように揺れながら文字が浮かび『甘酒』と出るではありませんか。

『当たるも八卦当たらぬも八卦』と言うと、その文字はまたもゆっくりと消えてゆくのです。これならば私でも立派に占いができます。実際は私ではなく、水晶玉が占っているわけですけれど。

 面白くてしかたがなかった私は、もう何度も『アブラカタブラ』と言い『当たるも八卦当たらぬも八卦』と言って遊んでいました。

 そしてこれが最後と呪文を唱えると、文字が出てきませんでした。もしや、私が遊びすぎたので、水晶玉の力がなくなってしまったのではないでしょうかと思い。どうしましょうと心中で大慌てでした。ですが、次の瞬間。水晶玉に黄色いマフラーを持った勝太郎さんが写っていたのです。


      ◇


 私は普段から絶対に使うまいと心に決めていたバスに飛び乗り必至の形相で流々荘に帰り着くと、丁度、夫婦が出掛ける所であり、二人して笑みを一休みさせて好奇の眼差しを私へくべていた。

 私はそんな二人を完全に眼中から遠ざけ、部屋へ入ると机の上にやうやうしく折り畳んで置いたマフラーを手に取り、目を閉じ深く息を吐いてから、再び韋駄天走りにてバス停まで駆けた。

 バスを待つ間のもどかしいことと言ったら走った方が早いのではないか。と思ったほどである。だが、現実にはバスの方が早いのだ。ただ、片時でも咲恵さんの元へ進みたい一心の私は一歩として進むことが、動くことができない状況こそが許し難く私の心中を煮えたぎらせたのである。

 私はバスの中で悶々と不安を募らせていた。黒髪の乙女は……冬に咲く牡丹のように可憐たる黒髪の乙女は今頃、祭りに色気づいた不埒漢に声を掛けられてなどいないだろうか。

はたまた、私が到着するまであの場所に止まって居てくれるだろうか。そして……本当に私を許してくれているのだろうか……

 勢い逸った私は、ポケットに入っていた小銭をありったけ運転手に渡すと、堰を切った水のようにバスを飛び出した。

 背中に運転手の低い声が聞こえたが、罵声でないかぎり運賃が足りないわけではあるまい。ならば文句を言われる筋合いなどあるものか!

 私は東向き商店街を疾走し、表通りと合流するや人混みを掻き分け、キネマの前まで押し進んだ。

 すると、我が意中の乙女は今だ狐の面を被ったまま水晶玉を前に佇んでいたのである。

人の流れの真ん中に居て私は人目を憚らず深呼吸を何度も何度もした。呼吸を整えた私は、ゆっくりと水晶玉に視線を落とす乙女に気取られないよう、気を配りながらも堂々と水晶玉の前に立ったのである。

 水晶玉に視線を釘付けにしていた乙女は、やがて慌てて首をもたげた。

「私はこのマフラーをとある女性に贈りたいと思います」

 私は力強く言った。

「はい……」

 乙女はきょとんとしていた。お面でその表情こそ読み取ることができなかったが、確実にきょとんとしていたことだろう。

「ですが、その女性がどこにも見当たらないのです。私のせいで怒らせてしまいました。そして……それきりなのです……」

 私は狐の面に向かって眼真っ直ぐにそう言った。目の辺りに開けられた小さなな穴から黒い乙女の瞳が覗ける。私はその瞳に向かってもはや後悔すまいと、想いのたけを話したのである。

「お名前を聞かせて頂けませんか」

 表情は窺い知ることはできなかった。だが、その声色は咲恵さんに間違いなかった。私がここ数ヶ月、耳にしていなかった愛おしい声である。

「はい。その方は鴻池 咲恵さんとおっしゃるのです。どうか探してもらえませんでしょうか」

「すみません。私は本当の占い師ではありませんから、探すことはできません。ですが、これだけは自信をもって言えます。その方はあなたの近くにおりますよ」

「本当ですか」

 私は微笑んだ、不思議なことにお面が微笑んだように見えたのである。

「一つだけ、当てて差し上げます」

「はい」

「あなたのお名前は筒串 勝太郎さんです」

そう言うと乙女はお面を取って、桃色に染めた頬を露わとしたのであった。

「これは咲恵さんではありませんか」

 今にも抱き締めたい衝動を抑え、私はわざとらしい台詞を喋った。感極まると……感慨無量となると……人はいたって冷静になれてしまうものなのである。

「お面をしていましたのに、良くおわかりになられましたね」

「以前にも同じ面おつけた方とお会いしてましたから、それに、その手袋とこのマフラーが惹かれあったのですよ」

 そんなキザな台詞を吐きながら、私は乙女の首に黄色いマフラーを捲いた、気の利いた巻き方など心得ていなかったが「まあ」と乙女はさらに頬を桃色にして私を見上げたのであった。もの言わぬその表情は、今まさに悦喜の骨頂えあるとそんな雰囲気を醸していた。「本当によろしいのですか?」

「ええ、もちろん。今日は贈り物をする日なんだそうです」

「ですが、赤い手袋と黄色いマフラーは……色合いが不釣り合いですね」

 私は喜色満面と赤い手袋にてマフラーに手をやる乙女に見て続けて言った。すると、

「いいえ、色はともかく。手袋もマフラーも同じくらいとても温かいですよ」と口許をマフラーに隠してほっこりとした目元で咲恵さんは言うのだった。

彼女はふんわりと笑った。真善美うち揃った紛うことなき笑みだった。

 かくして、お面の乙女は咲恵さんだった。これに運命の縁を感じずに何を感じろ言うのだろうか……


      ◇


「私はこのマフラーをとある女性に贈りたいと思います」

 私の前に立たれた勝太郎さんは、突然私に向かってそう言ったのでした。その眼光は強く、まるで何かの覚悟を秘めているようでした。

「はい……」

 ですが、今の私はお面を被っておりますし、勝太郎さんにお見せしたことのない着物姿でおりますから、きっと、勝太郎さんは私に気が付かず〝占い師〟に話しかけられているのでしょう。ですから私は『はい』とだけお答えしました。

「ですが、その女性がどこにも見当たらないのです。私のせいで怒らせてしまいました。そして……それきりなんです……」

 勝太郎さんは真っ直ぐに私の瞳に向かったそう語りかけるのです。それはまるでお面の下に私の顔があることを知っているかのように……私は思わず『それは違います!』と口に出してしまいそうになってしまいます。そうなのです。勝太郎さんは何も悪くなどありませんもの……私が……私が悪いのです……

「お名前を聞かせて頂けませんか」

 私は恐る恐るそう言えました。もしも、勝太郎さんの探している女性が私でなかったのであれば……すでに私は嫌われ、勝太郎さんの心が他の婦女に向いてしまっているのであれば……潔く身を引かなければいけません……

 ですが……

「はい。その方は鴻池 咲恵さんとおっしゃるのです。どうか探してもらえませんでしょうか」勝太郎さんは間違いなく私の名前を口にして下さったのです。あのような無礼な弁を浴びせた私の名前を呼んで下さったのです。私は嬉しさ余って、涙をこぼしてしまいそうになりました。

「すみません。私は本当の占い師ではありませんから、探すことはできません。ですが、これだけは自信をもって言えます。その方はあなたの近くにおりますよ」

 本当は誠心誠意を込めて謝罪するべきところですが、私は敢えて占い師の体を貫いたのです。

「本当ですか」

 その時の勝太郎さんの嬉しそうなお顔と言ったら……私は生涯忘れないでしょう。そう心に決めさせる柔らかい微笑みでした。

「一つだけ、当てて差し上げます」

「はい」

「あなたのお名前は筒串 勝太郎さんです」

 私はそう言うと、徐にお面をはずしました。もう、占い師はやめです。一人の乙女に戻った私はこんな無礼な婦女を捜して下さった殿方の前にただの乙女に戻ったのです。

「これは咲恵さんではありませんか」

 勝太郎さんのわざとらしいことと言ったら。照れ隠しのように棒読みでそう言われるのです。私は可笑しくなって少し笑ってしまいました。

「お面をしていましたのに、良くおわかりになられましたね」

「以前にも同じ面おつけた方とお会いしてましたから、それに、その手袋とこのマフラーが惹かれあったのですよ」

 はてな?と思った次の瞬間、私の首には肌触りのとても良いマフラーが捲かれておりました。それは淡いひよ子色のマフラーだったのです。なんと言うことでしょう。このマフラーは私が欲しいと思いながら、結局手に入れることができなかったあのマフラーに相異ありません。

「本当によろしいのですか」

 私はこのマフラーの価値を存じております。ですから、このような物を頂いてしまうことがどこか心苦しかったのです。

「ええ、もちろん。今日は贈り物をする日なんだそうです」

 勝太郎さんはさも当然とそうおっしゃって下さいました。そうなのです。『くりすます』贈り物をする日なのです。お姉様がそうおっしゃっておりましたし、くりすます前日だと言うのに、お姉様の元には贈り物が沢山届いておりました。それはもう素敵なブローチからお着物、指輪にペンダント、、中には異国の茶器までも……それは豪華絢爛と言うに相応しい有り様でした。

 けれど、お姉様は「この手袋が贈り物の中で一番嬉しかったわ」と簡素な白い箱に収められた赤い手袋を頬に当ててそうおっしゃっておりました。ですから、私にお貸し下さるとおっしゃった時は、何度もお断りをしたのです。ですが、お姉様は「咲恵の手にあかぎれができたらどうするの」と私の手を心配して下さったのでした。ご心配頂いて、この気持ちと心意気を無碍にすることは出来ませんから、私は手袋をお借りしました。

 私は嬉しくてマフラーを口許まで覆ってその温もりを感じました。私はとにかく嬉しかったのです。もうどうにかなってしまいそうなくらい嬉しかったのです……マフラーを頂けたこと、このような住まいから離れた場所で偶然にも出会えたこと…………そして、何よりも勝太郎さんが私を許し微笑んでくださっていることが嬉しかったのです。


      ◇  


 織り姫と彦星が運命的な再開をはたした。そんな幻想的で美的な瞬間にあって、それを許すまじと現れたのは蚰蜒のオヤジであった。忌々しい。

 蚰蜒のオヤジは何をしてきたのか全身びしょ濡れであり、モーゼのごとく人混みが割れてゆく。それが人徳やそれに準ずるものでないところが笑えるのだが、あのオヤジには大きな借りがある。また狐どもに追われてはくりすますの夜を十分に楽しめない。

 私は「それでは後ほど」と咲恵さんに口早に言うと、さっさと古平と隠れていた路地へと取って返したのであった。

 「勝太郎さんっ、待って下さい」咲恵さんの声に私はひっくり返りそうなほど後ろ髪を引かれたが、なんとかそれを振り払って事なきを得た。名残惜しや!

 路地に戻ると、さて、どこから逃げたものかと緊急時の避難路を模索した。そして猿沢池側の入り口を見やると、そこには見覚えのある女性が佇んでいたのである。それはいつか古平と共にフロリアンにてお茶をしていた娘さんであった。

「酷いですよ、裏切るなんて」

「まだいたのか」

 路地の裏側から現れた古平は、私が振り返るなりどこか疲れたようなしかし溌剌とした表情を浮かべていた。

「まあ、でも僕は今世紀最大の儲けができそうです」

 そう言いながら古平は『李』と赤く判が押された札のついた小物を幾つか手の平に並べて見せた。

 古平曰く、この李と判の押された札はオヤジの出品する物品の証であり、この札がぶら下がっているだけで高ねがつくと言う。ゆえに札だけでも欲しい者からすれば垂涎の価値があるそうだ。

「オヤジを追っかけたんですよ。そしたら、すんなり、百貨店を見つけられましてね」

いししし、と古平は思い出し笑いをした。よほど痛快なのだろう…………

「そんなにすごかったのか」

「すごいなんてもんじゃないですよ。金銀財宝お宝に囲まれて競りをするんですから、参加者なんてね、手癖が悪くならないように手錠までされるんですから」

「手錠までか……」

「だから、僕は善男善女老若男女問わず、あらぬ触れ込みで会場に人を雪崩れ込ませてやったんです」

 けけけっとますます得意になってけったいな笑みを浮かべる古平である。

「どさ草に紛れればこれくらいはちょろいもんですよ」

 後、水もかけてやりました。と、ついには腹を抱える古平。

「今から行ってもまだ少しは落ちてるんじゃないですか」 

「お前はいかんのか」 

「僕はこれから野暮用がありまして」

 と妖怪のような顔を見せてから、古平は猿沢の池の入り口へ駆けてゆくかと思うと、小春日さんの前で止まった。

 懲りない奴である。あのジジイのことだ、いつぞやの狐を使って地の果てまで追いかけてくるだろう。私はその点、これ以上阿呆になるつもりなかった。今日はくりすますなのである。露店も出ていれば、わが意中の咲恵さんも居る。この上は、咲恵さんと露店巡りをせずして帰られようか……

 しかし…………あんなに性根から腐っている古平に恋人が、しかも清楚で素直そうな女性などと。きっと、小春日さんは古平に騙されているのだ。そうなのだ。それいがいに考えられん。私は嫉妬と憎悪にまみれ是非を正すべく。足を踏み出そうとしたのだが、

「勝太郎さん」と突然、咲恵さんが私の前に現れたのである。しからば私はなんのためらいもなく嫉妬も憎悪も明後日の方向へ全力で投擲しなければならない。そしてそう思った次の瞬間にはすでに投擲を終えていた。

「今夜は随分と長く感じます」

 彼女は三条通を歩き始めるとそっと、そう話した。

「冬至から二日しか違いませんから。一年で三番長い夜です」

 私は隣に咲恵さんがいる喜びと至福を噛み締めながらそう答えたのであった。


      ◇

 

 勝太郎さんは「それでは後ほど」とそれだけを言い残して走り去ってしまいました。せっかく再会することができたと言うのに……それに私はまだきちんと謝ってもおりませんし、マフラーのお礼も言えておりません。

「勝太郎さんっ、待って下さい」

 私は咄嗟にそう言いましたけれど、着物でしたから追いかけることは叶わず、そして、その反対方向からはまるで池にでも落ちたかのように全身をびしょ濡れになった魯人さんが歩いてこられたのです。

「どうされたのですか、それでは風邪をひいてしまいます」 

 私は後ろ髪をひかれながらも、魯人さんの元へ駆け寄りました。

「店番ご苦労じゃったな。これは礼じゃよ、受け取りなさい」

 魯人さんは唇を紫色にしながらも、懐から親指の先程の小瓶を取り出して私の手に握らせたのです。

「そんな、御礼などいりません。お客さんも誰一人来ませんでしたし、私は座っていただけなのですから」

「いやいや、そうやって身を案じ手を握ってくれただけで、年寄りは嬉しいのじゃよ」

 魯人さんはそうおっしゃると、「さあ片付けじゃ」と言います。

 すると、どこからともなく狐の面を被った方々が現れ一点の乱れもない手際の良さで、水晶玉をひょいと担ぎ、机を折り畳んで片付けてしまったのでした。

「お嬢さんも風邪をひくのではないよ」 

 くしゃみをしながら魯人さんはそうおっしゃると、狐の面衆の一人の背負子に乗り人混みの中へ紛れてしまったのでした。

 万事風のごとくでした……早きこと風のごとくと古の孫子はおっしゃいましたけれど。まさにその通りでした。

「勝太郎さん」

 私はキネマから少し行ったところにある路地に勝太郎さんの姿を見つけ、ほっと胸をなで下ろしてから声をお掛けしました。

 勝太郎さんは少し驚いている様子でしたけれど、やがて頭を掻きながら私の元へ歩いてこられます。どちらがとも言い出すでもなく三条通を歩き始めた私たちでした……

「今夜は随分と長く感じます」

 私は歩き始めてから、そっと呟くようにそう言います。

 すると、  

「冬至から二日しか違いませんから。一年で三番長い夜です」

 そう言いながら勝太郎さんは住んだ夜空を見上げたのでした。


      ◇


 私と勝太郎さんは出店の並ぶ三条通を歩いておりました。私は着物ですから歩みはとても遅いのですが、勝太郎さんはそんな私に歩調を合わせて歩いてくださいます。

 私はそんな勝太郎さんの優しさに胸を温かくする傍らで当然ですと。映画の件の謝罪を誠心誠意を込めて繰り返しお伝えしてマフラーのお礼もしっかりとお伝えしました。ですが……幾ら繰り返し申し上げても私は勝太郎さんに謝り足りませんでした。

「もう、十分ですよ。それに私は何度も言います通り一切気にしておりません。それに今宵はくりすますです。私は咲恵さんとこうして一緒に居られるだけで十分ですから」

 勝太郎さんは見上げる私にそうおっしゃって下さったのでした。

 私は恥ずかしくなって、俯いてしまいました。勝太郎さんはどうして、いつもこのように恥ずかしい台詞を言ってくださるのでしょう。

「勝太郎さんはいつも私に優しくしてくださいますね」

 私は思ったことをそのまま口に出しました。すると、今度は勝太郎さんが俯いてしまったのです。

「そうです。勝太郎さんはお祭りと言えば何を思い浮かべますか?」

 私は勝太郎さんにそう話し掛けます。

 魯人さんはお祭りと言えば、占いとおっしゃっておられましたけれど、私はやはりお祭りと言えば林檎飴なのです。

「私は林檎飴ですね。丸くて小さいものは姿、大変よろしいですから」

 勝太郎さんは少し考えてからそうおっしゃいました。

 そうなのです。林檎のように丸くて小さいものは大変姿見がよろしいのです、その林檎に甘い飴をかけるのです。なんと素敵な食べ物でしょう。これを考えた方は天才と尊敬い

たします。そして、林檎飴をなめると、べろが紅をさしたように赤くなるのです。私は昔、お姉様とそんなべろを見せ合って笑いあったものです。 

「そうです、林檎飴は姿見が良い上にたいへん美味しいのです」

 私が楽しそうに言うと。「それでは」と勝太郎さんは言うと、ひと駆けして両手に林檎飴を持って帰って来たのでした。私に林檎飴を買って下さったのです!

 それはそれは嬉しく思いました。そして、私と勝太郎さんは並んで、林檎飴を舐めながらお祭りを楽しんだのです。

「見て下さい」

 弾んだ声でそう言われましたので、私は見ました。すると、紅を差したベロがありました。

「どうですか」と言われるので、「赤いです」とお答えしました。

「私のも見て下さい」とお願いしました。久しくベロを出しましたが、殿方の手前、少し遠慮いたしました。

「赤いです。お揃いですね」と勝太郎さんは莞爾と笑ったのです。

 よもや私の顔がおかしかったのではと、恥ずかしくもなりましたが、勝太郎さんがあまりにも楽しそうに笑ったので私も楽しくなって、ついには声を出して笑ってしまいました。

 こんなに楽しい時間は久しぶりです。そうです、夏祭り以来なのです。勝太郎さんと一緒だったから楽しかったのかもしれません。

 お祭りですけれど、冬ですから花火がありません。私は真冬に花火と言うのも小粋で良いと思うのですが、打ち上げられないかぎりは、そう思っているのはどうやら私だけだと思っていました。

 ですが、家まで送っていただく道すがら、思い切ってそのようなことを勝太郎さんにお話したのです。てっきり笑われると思っていましたけれど……

「花火はいつ上げても綺麗ですから、夏でも冬でも春でも秋でも、ひっきりなしに打ち上げれば良いのです」勝太郎さんはそうおっしゃるのです。

「それはとても良いですね」

 私も同感でした。風味こそ薄れてしまうかもしれませんが花火はいつみても綺麗ですから、気が向いた時に打ち上げれば良いのです。このように思っているのは私だけだと思っておりましたから、少なくとも勝太郎さんは私の味方になってくれることでしょう。私は重ねて嬉しくなってしまいました。


      ◇


 黒髪の乙女との一時は誠に悦楽の境地であった。女々しくもまだまだ、咲恵さんの傍らにいたく存じます。と、うっかり口を滑らすまいかと自信を喪失してしまう前に、乙女とまた今度と別れたのは本当に良かった。

 冬将軍が北風に唸りを一層激しくむち打っていたが、私の内心はほこほことまるで焼き玉エンジンのごとく温かかった。やはり乙女は可愛い。傍にいるだけで私は救われる気がした。私のささくれだった魂が浄化されたのも、ひとえに乙女のおかげであると私は声を大にして叫びたい。折りに触れて挨拶の替わりに吹聴して回っても良い。

 部屋に帰る前に、喉を潤そうと炊事場へ行くと、新妻が何やら困った表情でいた。見れば瓶の蓋に悪戦苦闘している様子であった。内容物からしてイカの塩からだろう。夫婦中睦まじく晩酌などと羨ましいかぎりである。

「開けて差し上げますよ」

 私はそう言うと「そんな、大丈夫ですから」と言う新妻から瓶を受け取り、瞬く間に開けて見せた。

 きょとんとしていた新妻であったが、私が「晩酌ですか」と聞くと「はい。実は今日。主人の誕生日なんです」とはにかんだのであった。

「それはめでたいですね。おめでとうございますと御主人にお伝え下さい。それでは」

 私は紳士のままその場を立ち去った。背中に「ありがとうございます」と新妻の声が聞こえたが、敢えて振り返ることなく自室へと入ったのである。

自分でも信じられないくらいに、魂は浄化されていた。今までの私であるならばうらやましさあまって妬み侮蔑の念を伴って、困っている新妻を前にしてもそれを足蹴にこそしても、今日のように仲睦まじき一時のお手伝いをして差し上げることはありえなかっただろう。

 そして、気が向いたにせよ、はたして瓶の口を開けられただろうか……今の私は何でもできそうなほど、気持ちが上向いていた。私に不可能はない!とナポレオンの前で明言できそうな勢いである。飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだと自分自身で思ってしまうくらいなのだ。

 そんな余裕に満ちあふれていた私は、古平に騙されて買ってしまったグリム童話集を手に取った。思えば、古平にも感謝をせねばなるまい。

 このグリム童話集とて黒髪の乙女との話題の種になったことは言うまでもなく、そしてあの赤い手袋とて、わらしべ長者のようにマフラーに替わり、それは私の手から乙女の首もとへと渡った。私は翠玉のように煌めき金殿玉楼のごとく美しく可憐たる黒髪の乙女の笑顔を見られたのである。これは大凡手元に何も残らぬであろう。だがしかし、それ以上に価値のある尊いものであった。それは私の胸の中にしっかりと刻みこまれている。

 その童話集を感慨深くぱらぱらとページを流していると、不意に何かがひらひらと枯葉のように足元に落ちた。拾い上げてみると、それは元々グリム童話集に挟んであった栞であり、その栞には『李』と赤い判が押してあった。

 私は誠にわらしべ長者になってしまった。棚からぼた餅とはこのことを言うのだろう。栞を裸電球に翳して私は、勝ち誇ったように微笑んだ。

 古平は今頃、温々と自室にてほくそ笑んでいるだろうか。それともこの寒空の下、狐どもに追いかけ回され悶絶びゃく地となり果てているだろうか…………いずれにしても、古平よ。ご苦労だった、私は何もせずとも、値千金を手に入れた。一字千金と言うが私の場合は一冊千金である!

「開けて下さい私です」  

 私が高笑いを始めようとした時分、部屋のドアを激しく叩く音と共に、寝る前には決して耳にしたくない古平の声を聞いてしまった。

「迷惑を考えろ」

 私は拳ほどの隙間を開けると邪険にそう言った。

「あなたも知ってる〝奴ら〟に追いかけられてましてね、少しばかし困ってるんですよ」 『少しばかし』と言いながらも肩で呼吸している限りは……もとい私の元へ駆け込んで来ている時点で切羽詰まっていることは明白である。 

「うつつを抜かしているからだ」

「それはお互い様ですよ」

 ここまで来ても余裕を醸そうとするのは、誠に古平らしい。

「とりあえず、お前がかっぱらって来た物を奴らに返せ」

「そんなもん、とっくの昔に放り投げましたよ。竜田川にね」 

 本末転倒である。

「おい、どうして私に手袋など渡した」

 そんなことどうでも良いでしょ、と悪態をついた古平だったが、

「クリスマスってのはプレゼントを贈る日なんですよ」立場上、ぶっきらぼうにそう答えた。

 認めたくはなかったが、今回、乙女と仲直りの上、三条通にてデートを楽しめたのも古平の功と成すところが大きい。ゆえに、今晩だけはかくまってやっても良いと、私の心底が菩薩になりかけていた。

「そうであっても、お前がそんな気を遣うはずがない」

 それでも私は加えて言った。

 しつこいですね。と古平は言ってから、

「あなたがあの人をうまく行ってもらえれば、私にも得があるでしょ?鴻池さんはお金持ちだから」とほくそ笑んだのである。

 何が、『クリスマスってのはプレゼントを贈る日なんですよ』だ。お前の魂胆は今判明した。それこそが顕然たる古平の目論見なのである。

 私は目元を痙攣させながら、ドアを勢いよく閉めた。

 しかし、「私とあなたの仲じゃありませんか」と古平は足を挟み込んでこれを阻止したのでる。不貞不貞しい輩である。

 私は。部屋の中へ戻ると、グリム童話集を手に古平の元へ戻った。

 古平は鎖をなんとか外そうと、空腹に力ずくで檻を破ろうとするオラウータンのようにがちゃがちゃとやっていたが、

「これを見ろ、最近、格安で辞書を買ったんだ」

「あなたが買ったんですか。間抜けたもんですねえ。あなたは生粋の阿呆だ!そうに違いない!」

 古平はグリム童話集と私の顔を交代に見ていたが……やがて、自身の見舞われている状況の困窮にも関わらず、抱腹絶倒と腹を抱えて笑い出したのである。

「醜態晒してくされ」

 私は今度こそドアを完全に閉めると、笑い転げる古平がドアノブにまとわりつく前に錆び付いた施錠をした。

「バカヤロー!」「あんたは鬼だ!」「薄情者!」しばらくの間、古平は一人で品のない言葉を連発しながら一人で騒いでいたが……やがて、古平の怒号と大勢の足音と共にその声は遠のいて行った。まるで、大津波が何もかもを攫われたようなそんな情景である。生ける有害者である古平がどこへ攫われようと誰が心配などするものか、ひょっとしたら小春日さんあたりが心を痛めるかも知れないが、小春日さんならばすぐに恋人の一人や二人できてしまうだろう。

 古平よ生きていればまた会うこともあるだろう、私はごめん被りたいものであるが。


      ◇


 今夜はとにかく冷えた。部屋の中にいると言うのに、息が白くなるのはなんたることか。全く持って部屋の有り難みがないではないか。 

 私は机の上に置いてある余分に買った林檎飴を手に取ると、これをポケットへ押し込んで、これだけ寒ければ人肌にて溶けることもあるまい。と最小値で前向きに考えると、静かに深夜の外に足を踏み出したのであった。

 ほこほことし過ぎていた反動か、今私の心中は水を打ったように静まりかえっていた。虚しさや寂しさこそはないものの、胸の辺りがすうすうしていたのだ。くりすますの興奮冷めやらぬ内にこの林檎飴を賞味しょうと思い立った私は、一人で張り付く寒さの中、竜田橋へと向かったのだった。

 すると、そこには、純白のロングコートにこれまた吸い込まれそうな黒髪をした婦女が、橋の上に佇んでいた。欄干に置いた手にも白い手袋、足元にも白いリボンのあしらわれた白い靴の徹底振りに私は異様な感覚さえ覚えた……

「あら奇遇ね」

 私が帰るべきか進むべきかと思案していると、その女性はおもむろにこちらに眼だけを向けてそう言ったのである。

「桜目……先輩……」

 私は眼を疑った。わかりやすく眼を擦って疑ったのである。

「桜目先輩と言っておきながら、私には挨拶もしてくれないの」

 そう言いながら桜目先輩は私の目の前まで歩いて来た。

「すみません。こんばんわ」

 桜目 清花その人であった。今や自他共に認める銀幕のスターである桜目 清花が私の眼の前にいるのである。

 凛とした眼に、小さな鼻、白い肌と顔の形は良く、血色の良い唇は燃えるように赤い。雪女が実在していたならば、この容姿に相異あるまいと私は思わず生唾を飲み込んだ。

「桜目先輩、どうしてまた……」

「勝太郎君はあの子といる時、とても楽しそうだったから……」

「え……」

 艶容に微笑む桜目先輩の意図は不明である。ただでさえ、意思の疎通が難しいこの婦女から意思を読み取ることはエニグマを持ってしても難解だろう。

「私。これでも焼き餅焼きなのよ。倶楽部内外からマドンナと呼ばれるのは悪く無いし、羨望と共に贈られる恋文やお手紙だって気分が良かったものね。挙げ句は松永君に見初められて……あの人は影の多い人だったけれど、知っている?美人は危険な香りの漂う殿方に惹かれるそうよ」

「でも、先輩が交際を断ったのは有名な話しですよ」

 そうなのである。松永先輩は桜目先輩を我がものとせんがため、私を映画倶楽部へ送り込み、桜目先輩に関する全てを報告させたのだった。そこまでしたにも関わらず、爽快なほど桜目先輩は松永と言う男を一言で振ったのである。

「ええ、では、勝太郎君は私がどうして断ったと思う?」

「わかりませんよ」

「私には頬を染めてくれないのね。あの子には夕日のように顔を染め上げると言うのに」

 そう言うと、桜目先輩は私の頬に手をやり、「こうすれば、少しは照れてくれるかしら」

と言いながら眼を閉じると、顔をやや傾けて私の顔をめがけて唇を近づけてきたのである。

 私はと言うと、その有り得ない状況に戸惑い戸惑い果てて、何も出来ないでいた……それこそ目玉さえも動かせないまま……

「よかった。ようやく、頬を染めてくれたわね。勝太郎君たら私に女性としての魅力を感じていないのかも知れないと疑ってしまったわ」

 あと小指の爪ほどの距離を残して桜目先輩の唇は遠のいた。

「桜目先輩。一体何が言いたいのですか?」

「あら、勝太郎君は私の質問に一つとして答えてくれていないのに、自分の質問にだけ答えを求めるなんて、それは高慢と言うものではないかしら。それに、勝太郎君は類い希なる鈍感肌ね。いいえ、ひょっとしたら脳みそが入っていないのかもしれないわ」

「鈍感なのは認めましょう。ですが、私は言葉遊びはあまり好きではないのです」

「そんなの勝太郎君が全て悪いのよ。桜の樹から覗き続けるその眼差しを、私に向けてくれなかったから……スポットライトは当ててくれたと言うのに、到頭その眼差しだけは私に向けてくれないのだもの。少しくらい、意中の殿方と言葉を交わす乙女心は許されるはずだと思うのだけれど……」

 そう言うと、桜目先輩はますます口許を緩めるのである。

「笑えません」

 それではまるで、桜目先輩が私に恋心を抱いているようではないか。そんなことがあり得るはずがない。

「今更、余計なコトは言わないでおくわ。勝太郎君は私に感謝をしてね。それこそ頭を地面につけて感謝をしてね。けれど、私は勝太郎君に対しては寛大だから、あなたの質問に答えてあげるわ。つまりあなたと彼女の後をつけていただけ、それこそつきまといみたいにね」

「それでは、桜目先輩も三条通にいらっしゃったのですか」 

「ええ、私は女優だもの。素人のあなたや彼女を騙す事ぐらい、何のことはないわ」

 私は黙り込んでしまった。この人は一体何をしに来たのだろう。正月には早い。銀幕のスターに休日があるとも思えない。これは夢なのか?それとも幻なのか…………私はこの瞬間の現実が信じられなくなってしまった。

「もしも、彼女を泣かすようなことがあれば、たとえそれを天が許しても私が許さないでしょうね。あなたを殺して私も死ぬわ」

 私が訝しめ始めた頃、彼女は不意に星空を見上げて、そんな台詞を吐いた。

「それは夜叉の所行にて、大凡あなたには似つかわしくないお姿でしょう」

 私はこれが現実であると、受け取らざる得なかった。

「あら、覚えていてくれたのね。勝太郎君が私に言ってくれた最初で最後の台詞を……」

 そうなのである。これが私が急遽代役となって桜目先輩と一度だけ共演した場面でも台詞であったのだ。

「桜目先輩」 

「何かしら」

 視線を私の顔に戻した桜目先輩に私はポケットに忍ばせておいた林檎飴を差し出した。

「これを差し上げます」

「あら嬉しい。けれど、もらう理由がないわ」

今日は……私は躊躇してしまった。だが、

「今日は、くりすますです。贈り物をする日なんだそうです。ですから、」

 私は微笑みを添えて、林檎飴をさらに差し出した。桜目先輩は暫し私の顔を見つめていたが、やがてゆっくりと林檎飴を受け取ると。そのまま胸の所へ持っていくと優しく抱き締め。 そして、それはそれは優しい笑顔で「ありがとう」と言うのだった。

 その微笑みは決して銀幕の上でも見せたことのない、混じりっ気のない無垢な笑みであった。

 そう、私が唯一、核心的でありながら松永先輩にへ報告しなかった事柄なのである。撮影の折、近くの屋台で偶然売っていた林檎飴を桜目先輩に差し入れたところ、彼女は私の眼の中にて、まるで少女のように瞳を輝かせて丸く小さい姿見のよい林檎飴を見入って極上の微笑みを浮かべていたのである。

 私は……いや、私の良心がこの笑みをかの画策高い男には渡してはなるまいと、感じたそのままを素直に貫いた。ゆえに往々にしての結果であったのだろう。

彼女は「もう会うこともないと思うけれど、別れが寂しいことは良いことよね。偶然にもまた会えた時……感動できるもの」と言い残して夜の闇の中へ溶け込もうとした。しかし、彼女の纏う白はそれを素直に許さず、しばらくは揺れる裾と足下がその存在をはっきりと見せていた。それはまるで、暗幕の中スポットライトを浴びているような錯覚を思わせたのであった。

生きてさえ居ればこのような誠に白昼夢のような夜もあるものなのか……私は川のせせらぎに耳を貸しながら夜空を見上げた。

 いや、もしかしたら……今日がくりすますだったからかもしれない。

 なんでも……くりすますの夜には奇跡が起こると言うらしいのだから…………



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