第二章  偶発的恋模様縁

 よもや私の郵便受けがこれほど華やぐことがあろうとは誰が想像妄想できただろうか。黒髪の乙女、いや咲恵さんから届く返事の手紙が届くたびに、私は新聞しか入っていない並びの郵便受けを見下しては足取りを弾ませて自室へ向かうのであった。

 手紙とは贈り物であると聞いたことがあるが、もはや言わずもがな誠なのである。



 拝啓


  梅雨を前にして、蚊柱などは一層盛んと元気よろしく空中をゆらゆらと漂っておりますね。

 私は、近頃のように夏の飛び地と暑いのが苦手ですから、梅雨の蒸し暑さと夏の暑さを思いますと、気持ちがどことなく憂鬱となってしまいます。

 そんな頃来ですが、勝太郎さんはいかがお過ごしでしょうか。

 以前、喫茶の折、トーキーにお誘い頂きましたのに、都合が合わず誠に申し訳ありませんでした。

 私は下宿の身ですが、父から言付かった門限は17時でして、これはいくらお願いしても取り下げていただけないのです。

 言葉足らずとお断りの際にこれをご説明申し上げていればと、後悔もしております。どうか、お気を悪くされませんように。

 そうそう、御手紙で面白いとご紹介されました『海底二万里』を本屋さんで見つけましたので、今読み耽っております。まだ序章ですが、とても続きが気になる物語ですね。

 

 取り急ぎこの度は、この辺で筆を置くことといたします。


 かしこ

鴻池 咲恵



 さすがに、何度となく文をやりとりすれば、話題の枯渇はいたしかたあるまい。何せ彼女との思い出と言えば一度だけ喫茶しただけなのである。それでもなお、律儀に筆を走らせてくれる咲恵さんはやはり素晴らしい女性である。

 私は何度も頷きつつ、殺風景であった机の引き出しに並べられた封筒を見下ろして嬉しくなった。

 乙女には誠に申し訳なかったのだが、この度の文通は私で止まることとなるだろう。便箋が尽きて、封筒も尽きた。おまけにインクが切れて、もはや切手を買う金もない。

 文通すらもままならないとは、なんとも情けない話しである。

 そういう理由で、私は大學へ出向くと、芝生の上で読書に勤しむ乙女の元へ向かい、人目を憚ってしばらく手紙を書けない旨を伝えた。

 詰まらない見栄と端肘を張ってもよかった、私の男としての沽券にかけても気の利いた嘘の一つもつきたかった。

 だが、私は片意地などは捨てて、乙女に真実をのみを伝えたのである。

 すると彼女は泰然自若【たいぜんじじゃく】と「わかりました。それでは私から御手紙をお送り致します。お返事は結構ですわ。この場所でお話いたしましょう」そう言ってくれたのであった。

 そんな乙女の言葉に私はいたく感動した。一見すれば大人である男子が手紙を出せぬ甲斐性なしであろうとは、軽蔑され蔑まされてこそ本来であろう。

 私は彼女の邪魔となろうものなら、すぐさま退散する心積もりで、ずっと立ち据えたまま一時の会話を楽しんだ。

 その後は咲恵さんの門限も考慮して、トーキーなどには誘うことなく本屋街の古本屋巡りをしたり、内職の金が入った時のみフロリアンに珈琲でもとお誘いした。

 そして、門限に間に合うように家まで送って行ったのである。

 咲恵さんはどこからどう見ても、生粋のカネモチ令嬢であった。だが、不思議なことに、ただ歩いてお喋りをするだけでも良しとする趣向の持ち主でもあったのである。とかく彼女は感性の人であり、季節の移り変わりを敏感と萌える草木に笑顔を咲かせ、もう二度と見当たらないだろう、夕日に照らされた雲の造形美に恍惚としていた。

 だから、「そんなに珍しいですか?」と聞いたことがあった。すると、「全ては一期一会。そう思うと、尊くてしかたないのです」とどこか恥ずかしそうに言ったのだった。

 一期一会。すばらしい言葉である。 

彼女と一緒にいると、私までも心が洗練されるようである。高尚たる感性は伝染するのかもしれない。


      ◇


 手紙のやりとりが途絶えてより、ようやく私の懐に金が入った。これでまた、手紙が出せる。喜び勇んだ私は宵の口近くの本屋街から直接文具店へ便箋など必要物品の購入に駆けた。

 文具店では、質よりも枚数を選ぶか、枚数よりも質を選ぶか。迷いに迷ったが、インクや切手も買わなければならないのである、便箋や封筒に資財を投じては尻つぼみである。

 封筒と便箋の色彩を落とした分、釣り銭は増えた。さて、今晩帰ったなれば早速、御手紙をしたためることにしよう。

 私は、はたして何を書こうかと思いを巡らしていた。最近の出来事や乙女と並んで歩いた竜田川沿いの記憶を遡り、ちゃっかり珈琲にでもお誘いしようと、胸を高鳴らせた。

 バス停を横目に、咲恵さんの下宿する家のある筋を見やると、そこには花屋が露店を出していた。彼岸どきでもあるまいに、商い下手なのだろうかと思いつつ、通り過ぎようとした時。


「もし、そこのあなた、お花などいかがですか」


 そんなか細い声が聞こえたのである。


「もう店じまいですから、お安くしておきますよ。恋人への贈り物にどうですか」


 『恋人への贈り物』私は、わかりやすく歩みを露店の前へ向けた。桶には束ねられた花々が詰め込まれていたが、私の思ったとおり、この様子では一輪として売れていないだろう。


「どれくらい安くなる」


「半値でどうですか」


 竹笠で口もとしか見えなかったが、その声色からして男だろう。


「もうひとつ越えられないだろうか」


感性美しい乙女のことである、花を贈れば私の想像以上に喜んでくれることだろう。その顔も見たい。しかし、私はそれよりも彼女と珈琲が飲みたいのである。


「そりゃ、おまんま食いさげでさあ」


「それは残念だ」


 私は花屋の足元を見て、あっさりとそう言うと乙女の家の方向へ歩き始めた。


「待った待った。わかりました、この桔梗なら半値のさらに半値で結構です」


「ならば買おう」


 私は、半値の半値で桔梗の花を一輪購入した。

 慎ましくも鮮やかな紫色は咲恵さんにぴったりではないか。

 乙女の家まで、まったくの偶然を装って歩いた。特に何をしたと言うわけではなかったが、心持ちのみを装ったのである。

 彼女は突然現れた私にどんな顔をするだろうか、無論、家にあがろうなどと不埒なことは微塵も考えていない。ただ、花を贈って『綺麗なお花ですね。ありがとうございます』と微笑んでさえくれればそれで良いのである。

 眼福と私は明日の夜明けまで高揚と至福の中、万年床で安眠を貪ることだろう。

 乙女の家の前にやってくると、家に明かりが灯っていた。頃合いからしてまだ早いだろうと思ったが、たかだか明かりぐらい気が向けば誰でも灯すであろう。何せスイッチ一つで点灯するのである。

 私は、呼び鈴を鳴らしてみたが、一向にドアが開く気配がない。明かりをつけたまま外出しているのだろうかと思いつつ「勝太郎です」と声を掛けてみた。

 すると、窓際のカーテンが一瞬揺れてから、明かりが消えてしまったのである。いや、消されてしまったのである。咲恵さんから下宿している旨は聞いた、そして、単身で暮らしていることも拝聴しているのである。そのかぎり、明かりを落としたの咲恵さんに相異ないだろう。

 理由はどうあれ、まだ幾度として顔を合わせたわけでもない独女のもとへ、軽佻浮薄にも押しかけるなど破廉恥極まりないと、彼女は怒ってしまったのだろうか……そうだ、うら若き乙女の住居へ前触れもなく突然押しかけるなど、不逞な輩の所行なのである。

 私はせめて弁解をと今一度、呼び鈴を鳴らしてみたがやはりドアは開く気配がなかった。

 私は何を考えていたのだろう。何と馬鹿なことをしたのだろうか……言わずもがなただ、花を贈りたい一心で家に寄ったまでだ。あわよくば家に招き入れられ、楽しく可笑しくお茶を飲もうなどと下心が先立ったわけではない。

 私は竜田川の欄干に身を委ねながら嘘をついた。

 恋とは愛とは育んで行くものであると、とある詩集に書いてあった。生き急いだ私は嫌われて当然なのだろう。乙女からすれば、初対面ながら藪へ引き入れて押し倒すのと同等の仕打ちと捉えたかもしれない。

 私はどす黒い溜息をしこたま竜田川上に吐き出して、流々荘へ帰ることにした。

 しかし、竜田川の橋の上には私を嘲笑う道化の顔が私の行く手を遮ったのである。無論、ピエロなどというものではない。この季節に決まって現れる虫である。風物詩などとあざとい、ただの害虫の群れである。私は飛び上がると、蚊柱にぎこちないスパイクをくらわしてやった、てんてんと手の平に無数が当たった感触こそしたが、蚊柱はやはり私を笑っていた。

 いまいましい虫である。

 不貞不貞しくがに股で帰路を歩いた私は、郵便受けの前まで帰って来ると、いつまでも手の中に握られた桔梗の花を苦々と見つめ、腹いせとばかりに隣人の郵便受けに押し込んだ。


      ◇


 御手紙とは本当に良いものです。勝太郎さんからのお返事が今日明日、郵便受けに届くでしょうと思うと、心がウキウキとしてしまうのです。

 ですが、私はとても連れない婦女です。下宿を申し出た際、お父様と必ず17時には家に帰る旨を約束いたしました。俗に言う門限です。

 私は年頃の独女です。ですから、夜中ふらふらと歩くのは慎みに欠けますし、夜道は暗く暴漢に追いかけられでもしたら大変です。

 お父様は箍【たが】を外し過ぎないようにと、厳しくおっしゃったのでしょう。それとて、私の身を案ずるがゆえ。私は娘として婦女として乙女として、誰に見られているわけでも、咎められるわけでもありませんが、両親に気を揉ませるような親不孝はしたくありませんから実直に門限を守っております。

 だから、私は連れない婦女なのです。

 以前、勝太郎さんとお茶をしました。その後、自宅へ送って頂いたのですが、その別れ際、「ご都合のよろしい日でかまいません。今度トーキーなどいかがでしょうか」とお誘いを受けたのですが私は「都合がつきそうにありません。申し訳ありません」とお断りしたのでした。

 お父様のお気持ちはわかります。ですが、一人でふらふらとしないのですから、少しばかし例外を認めてもらっても良いと思うのです。

 私は門限の旨と勝太郎さんが推薦されていた、ジュール・ベルヌの長編小説『海底二万里』を古本市で偶然見つめましたので、それを読み耽っています、と便箋にしたためて短いながらも御手紙の出しました。

 文通とはとてもよろしいものですね。

 ですが、心持ち浮ついてばかりもいられません。林檎のデッサンも終盤ですし、御手紙を書くのはとても楽しく、時間を忘れてしまいます。それを言うとアロナックス一行の冒険譚とて同じです。

 私が懸案するのは、恐らく私でもなくとも恐々と、もしくは薄気味悪く感じるところではないでしょうか。

 ここ数日、私が大學から帰って来ると、玄関のドアが開いており、箪笥があいていたり下着やお洋服が床に落ちていたりと、誰かが家の中に入って物色した形跡があるのです。

 私は楽天家のように私自身の不手際でしょうと思ってみたり、悪戯好きな小人さんの仕業でしょうと気にも止めなかったのですが、連日となりますと、さすがに気味が悪くなってしまいました。

 可愛らしく真面目で、夜な夜な人間に見つからないように靴を仕上げる小人さんが、よもや私の下着やお洋服を散らかすなど思えません。心細くなった私は、実家へその旨をしるした手紙を出しました。

  すると、明後日には『イエニスグカエレ』と電報が届きました。

 それが良いでしょうと私はその日のうちに実家へ一時帰ることにしました。大學の教本や筆記具などをリュックに入れると私は駅に向かって歩き出しました。もちろん、戸締まりはしっかり、入念に指さしをして確認をしました。

 最近、竜田橋の上に立つと燕の華麗な滑空を見せてくれます。このように、町中を飛び回れたらさぞかし快哉でしょう、と私は恍惚となるのです。ですが、その燕が滑空する先には大きな蚊柱があります。

 弱肉強食とは言いますが、一寸にも満たない虫の群れが燕に襲われるその様を見て楽しんでいる私はいささかか道徳心の欠けた人間でしょう。

 ですが、今の時分では燕も巣に帰り、一日中風を打った翼を休めていることでしょう。

 私は寄り道と、一度として同じ形を表さない蚊柱を心おきなく眺めてやろうと、欄干に両手を置いて観察をしておりました。変幻自在な様はまさに一期一会の趣なのです。

 夕暮れ迫る頃合い、これを悲劇と言わずしてなんと言えばよいでしょうか。鳥獣から逃げおおせたと言うのに、逃げおおせたと言うのに!

 それはコウモリでした。

コウモリと言えば吸血すると言うではありませんか、そのようなトーキーをお姉様と一緒に見たことがあった私はなんだか恐くなって、その場から駆けだして駅へ向かったのでした。


      ◇


 全ては一期一会。繊細微妙な状況に、私は便箋を無駄にすまいと座禅を組んで黙想に耽った。あと一歩で睡眠に落ちるところまで悩み続けたのである。

 この一通に、私の薔薇色の行く末がかかっているのだと思うと、どうしても手に持った万年筆が震えた。

 枝葉は伸びようとも決して花実を咲かすことなく、まして蕾すらも実らせることのなかった私の人生。ここにきてようやく、蕾の片鱗が漂い始めたのである。私のことである、この機会を逃せば無碍にすれば、乙女ほどの女性に出会うことはおろか言葉を交わし共に喫茶の席に座ることなどありえないだろう。

 そう考えると万年筆はついに私の手からすり抜け、痛んだ畳みの上に刺さった。

 私は畳みに広がる黒い染みを見下げながら、「全ては一期一会なのです」と彼女の口調を真似した。

 一生に一度しかない出会い。まさにその通りだ。私はすでに乙女に嫌われてしまったかもしれない、大凡嫌われているだろう。しかし、だからと言ってこのまま黙っているのははたして誠ではあるまい。たとえ、封切り様に燃やされようとも、ここは謝罪の文を書くべきなのである。

 私は万年筆を今一度手に取ると、便箋に事の真相を口づつなれど諄々【じゅんじゅん】と、誠意と真心を精一杯込めて弁明するとともに何度も謝罪の文言を書き並べた。

 これ以上うまく仔細を説明しつつお許しを請う文章を書くことは私には不可能であると私の持てる知識を用いて手紙をしたためると、また丑三つ時の外へポスト目掛けてとぼとぼと歩いたのであった。


      ◇


 私は実家に戻り、自室へ戻ると天幕のついたベットに思い切り飛び込んでみたり、ペルシヤ絨毯の敷き詰められた床の上をころころと転がってみたりと、とにかく暇を持て余しておりました。

 ここは私の部屋です。ですが、家財道具から衣類までほとんどを下宿先に運んでしまいましたので、随分と寂しいのです、いえ、何も無いと言った方が正しいと思います。

 広い部屋の中にベットと私が背負って帰ったリュックサック。そして私だけなのです。あまりにも殺風景なので、リュックサックの中身を取り出して床に並べてみたり壁に立て掛けてみたりしてみましたが、枯れ木も山の賑わいにもなりません。

 それにまして、私は暇を持て余していました。てっきり、明日には下宿先に戻れると思っていたのです。ですから、必要最低限のいいえ、足りないくらいの軽装で帰って来たと言うのに、帰って来るなりお母様は「しばらくはこちらで寝泊まりしなさい」と言うのです。私が「それでは荷物を取りに行かなければなりません」と言うと「必要な物があれば、言いなさい。すぐに用意させますから」と取り合ってくれませんでした。

 この家からですと、大學に通うのは難しいですし、せめて自主学習をしましょうと、思ったのですが、いつまで居るのかわからないのですから、不用意に教本を買い求めても仕方がありません。同じ教本は二冊もいらないのです。

 ですから、私は頬を膨らませて部屋に閉じ籠もることにしました。せめてもの抗議のつもりなのです。

 当初はベットの上に寝転んで海底二万里を読んでおりましたから、とても有意義な時間でした。ですが、これからしばらくはこの殺風景な部屋で過ごさなければならない身の上、一気に読んでしまっては、明日の楽しみがなくなってしまいます。 そう考えた私は渋々、海底二万里を閉じたのでした。

 先にもお話しましたが、そんなこんなで私は絨毯の上を転がってみたり、ベットの上に飛び込んでみたりしていたわけですが、そんなことでどれだけの時間が過ぎることでしょう。

 ラヂオ体操セブンとて高らかに歌いながら会得した振り付けにて、部屋の中をぐるぐると踊りながら回ってみましたが、どうしてでしょう。とても切ない気持ちになっただけでした。狐さんたちと踊った時はあんなに楽しかったと言うのに!

 きっとあの時は狐さんたちとご一緒に踊ったゆえに楽しかったのでしょう、と私は再びベットの上に飛び込みました。


「入ってもいいかしら」 


「はい、どうぞ」


 お姉様でした。

 私はベットの端に腰掛けたまま、お姉様を迎えます。相変わらずお姉様は何やら嬉しそうに微笑みを携えておりました。そのお気持ちを私にも少しばかしでよいので分けて頂きたいものです。


「随分と楽しそうな歌声が聞こえたのだけれど……」


 お姉様はそう言うと含み笑いを浮かべて、私の隣へ座りました。


「あれは、ラヂオ体操セブンと言うのですよ」


 私は幾分嬉しくなってそう答えました。そして、立ち上がると振り付けを見せて差し上げたのです。


「そうなの」


 お姉様はそんな私を見て、肩を震わせていました。そんなに感動されたのでしょうか。


「大學からのお帰りですか?」


「いいえ、最近は大學へは行っていないもの」


 足をぶらぶらとさせながら、天井を見上げてお姉様はそうおっしゃいます。


「どうして行かれないのですか?」


「私はもう大學へ行っても仕方ないもの。結婚してまえば、蓄えた知識をなんて必要ないし、これ以上教養を身に着けても寂しいだけでしょうから。もう卒業できなくてもいいの」 お姉様はそう言うと俯いて絨毯に視線を落とされました。

そんな、と私は呟きます。


「そんなことは言わないで下さい。それに、知識の探求は人間にのみ許された欲求であるとお姉様は私に教えて下さってではありませんか」


「もう忘れてしまったわ」


「いいえ、忘れないで下さい。私はお姉様を尊敬しています。どうぞ大學へ行って多くを学んで、また私に教授してください。私は物覚えが良い方ではありませんから、講義よりもお姉様に教えて頂いた方がわかりやすいです」 


 お姉様は核心をついて話しをして下さいます。ですから、無用な雑音に惑わされることなく物事の真理を探究する道のみを教えて下さるのです。私はたいへん寄り道の好きな性分ですから、どうしても余計なところに興味を惹かれてしまいます。


「ありがと」


 お姉様は弁を熱くした私の肩を抱いて髪の毛を触れさせると慈しむようにそう呟いたのでした。

 ところで、とお姉様は言い、


「どうしてもっと早く知らせなかったの?」


 と溜息をつきながら私に言いました。


「下宿先のことですか?」


「そうよ、婦女の一人住まいなのだから、不審に思ったらすぐに家に帰って来なくてはいけないわ」


 今度はお姉様が熱弁をふるいながら、私の手を握りました。


「私の勘違いでお騒がせするのもどうかと思いましたし……」 


私はそれ以上お話することができませんでした。


「そんな物騒だとお父様が知ったら、下宿など許して下さらないものね、きっと、連れ戻すでしょう」


 私は、はっとなりお姉様の顔を見ました。どうして、そのようなことはわかってしまったのでしょう。本当のところ私は、お父様に下宿をやめさせられるのが嫌で、心細くも我慢していたのです……これはいずれお姉様に相談しようと思っておりましたのに、どうしてどうして、わかってしまったのでしょう……

 私は何度も首を傾げました。


「咲恵は家を出たがっていたもの。それくらいのことはわかるわよ」


「でも、もう下宿は無理だと思います」


 文を送ってしまいました。ですから、すでにお父様の知るところでしょうし、何より、電報が来たことがその証拠なのです。


「お父様にはお話していないわ」


「本当ですか!」


 私は思わず立ち上がってしまいました。お父様に知られていないのであれば、近日中に下宿先に戻れるやもと思ったからです。


「でも、本当は私もお母様もそんな物騒な所へあなたを一人で住まわすのは、反対なのよ」


「どうしてですか」


 てっきり、私の味方となって下さったと思っていたのに……


「咲恵が心配だからよ。お父様だってあなたに嫌がらせをするのではないもの。一重に娘の身が心配なだけ」


「それは……でも、娘の身を案じるのであれば、どうしてお父様は好きでもない殿方の元へその娘を嫁がすのですか!全て鴻池家のためではありませんか!矛盾しています」


 私はお姉様に怒られることを覚悟で、拳を硬くして憮然と声を荒げました。お姉様方には心に想う殿方がいらっしゃったのです。なのに、お父様はそんなお姉様の気持ちを足蹴にして、家柄のみを優先させて婚姻を無理強いしました。


「本当の幸せって……なんなのでしょうね」


 お姉様はそう静かに言うと、頭に血を登らせた私の頭をそっと撫でました。

 本当の幸せ……それはきっとただ幸せであると言うことではないのでしょう。私の短い人生の中でも『幸せです』と思ったことは多々記憶にありますが、どうやらそれとは異なるの幸福なのでしょうか。それでは私には分かりかねます、残念ですがわかりません。


「……わかりません」


 私は頭から冷や水をかぶったように、落ち着いて呟いたのでした。


「しばらくは、家に居なさいね」


「はい。大學もお休みします」


 せめて大學へは行きたかったのですが、ここで無理を話したところで、ただの駄々っ子ではないでしょうか。易々と激昂する私に同調せず、落ち着いて冷静でいるお姉様をこれ以上困らせたくはありません。そうなのです、お姉様はもはや私の最後のお姉様なのですから。


「あら、それでは喫茶をご一緒したあの殿方ともしばらくは会えないわね」


「そうです。大學も休みますし、下宿先の住所しか教えて差し上げてませんから……御手紙が来ていましたらどうしましょう」 


 無礼にもお返事を返せないくらいなら、実家の住所をお教えしてもよろしかったのですが、もしも、その御手紙がお父様の眼に触れてしまったらと考えると、とてもとても教えて差し上げることなどできませんでした。


「もしかして、家に忍び込んだのは……」


 いつしかお姉様は嬉しそうな笑みを浮かべて下りました。喜々とした声色が懐かしく思えます。


「勝太郎さんはそのような、不埒な殿方ではありません」


 私は身を乗り出して言いました。まだ数えるほどしか時間を共にしておりませんでしたが、必ず待ち合わせの時間には先に到着されていましたし、帰りなど必ず家の前まで送って下さいました。隠忍自重と物静かで、とても誠実な方なのです。断言するには浅はかのようにも思えますが、少なくとも今の私はそう思います。ですから、勝太郎さんに限って他人の家に忍び込むなどと不届きな所行を犯すはずがないのです。


「あの方は勝太郎さんとおっしゃるのね」


 そう言うとお姉様は意味深に頷いてから、私と勝太郎さんが竜田川沿いの道を並んで歩いている所を見たことを明かしたのでした。

「声を掛けて下さればよかったのに」と私がいいますと「そんな野暮なことはできません」とはっきり怒られてしまいました。


「でも、殿方なんて、肘を張りたがるだけで寂しさあまれば何をするかわからないのよ」


「そうなのですか?」


「それはもう、力は強いけれど、内面は生粋の寂しがり屋さんだもの」


 それは考えたことがありませんでした。寂しがり屋さんと言えば乙女の専売特許ではありませんか。もちろん、私も寂しがり屋さんですし、将来、体を許しても良いと想える殿方に出会いましたら、婚姻の後、思い切り甘えたいと思っています。ですけれど、これは誰にも秘密なのです。もちろんお母様にもお姉様にも。


「もし、暇なのだったら……」 


 お姉様は殺風景な私の部屋を見回してそうおっしゃいましたので「私は暇です」と即答いたしました。


「まだ、何も言っていないでしょ」


 この子ったら、とお姉様は私の頬を指でつつきました。


「私は暇なのです」


それでも私は再び繰り返しました。本当に暇なのですから仕方ありません。


「私の部屋で一緒にお裁縫でもしてみる?」


 お姉様はそんな私に困ったような嬉しいような、喜色微妙な表情でやっとそう言いました。


「是非っ」


 待っておりました。と私は流行る気持ちを抑えきれずに、いち早く立ち上がると「早く行きましょう」とお姉様の腕を引っ張ったのでした。


      ◇


 手紙を出してから一週間が経ち乙女からの返事は一向に帰って来る気配はなく、私はこの一週間……いやここ二日間、四畳半で大人しくしていることができず、何度となく郵便受けを覗きに行っては肩を落とし、昨日などはついに自転車でやってくる郵便配達を待ち受けていた。

 しかし、私宛の手紙はなかった。

以前、郷里の同級生に手紙を出し、その返事が帰って来ぬと郵便配達にやってくる時分が末恐ろしくなった時があったが、この度それどころではない。もはや絶望の心中である。

 今まで乙女からの返事は私の手紙を受け取った、その夜に書いたのであろうと推測できるくらい、それこそ出した明後日に着いたことすらあったのである。そのようなマメな彼女が一週間と返事をよこさないのは明確なる意思表示の他になかろう。

 私は彼女から初めて受け取った芳心にのみ構成され、真心と優しさが詰まった手紙を今一度読み返しすと、さらに居たたまれなくなった。

 そんな私はさながら金鉱山を発見したと喜び狂ったあげく、それが黄銅鉱山であると明言された愚か者のような面持ちとなり、あてもなくただ呆然と流々荘界隈を放浪した。そして、どこか遠くに行けばこの棘でむち打たれた心中が幾ばくかは癒されるだろうかと、ポケットの小銭を握りしめバス停に佇んでいた。ベンチがあるにもかかわらず一反木綿のように飄々と佇んでいた。 

 そんな折、私の目前道路を挟んだ向かい側に林檎が溢れんばかりに入った紙袋を抱えたた女性が佇んでいた。紅い服の似合う妙齢な令嬢である。年頃で言えば私とそう大差あるまい、どちらかと言えば年上だろうか……

 その女性の胸元には赤い果実入った紙袋の他にもう一つ、たわわと実った自前の果実がなっていた。

 決してその果実に視線をくべていたわけではない。ただ見ていて危なっかしいのである。薄っぺらい紙袋に、かように林檎を押し寿司のように詰め込むのは実に危険だろう。

 私は野宿の際、枕にでもなればと持って来た、伊曾保【イソップ】物語を開くと、読書をしている体で美艶で危なっかしい婦女を見ていた。いや、見つめていた。

 肩までで切りそろえられた黒髪は艶々しく、鼻筋の通った端麗な顔立ちに小さな口もと。麗人と称されるためにある彫像のようである。

 もちろん彼女は咲恵さんではない。しかし、目元や口もとはどこか黒髪の乙女と同じ雰囲気を醸していた。私は普段、軽薄な浮気者ではない、けれども今まさに傷つき荒んだ心中は脆くも弱く、誠をすっかり忘れ林檎の乙女に恍惚となっていたのである。

 ゆえに、私にもその乙女ですら、どこかで見かけたことがあるような気がしたのであった。美人であればだれでも黒髪の乙女と似通っていると思い込むのは我ながら情けない性分である。

 林檎の乙女は、何度か左右を見定めてから、なんと私の方へ駆けてくるではないか、もしや、私のいやらしい視線に気が付いたのかと妄想を膨らましてみたものの、ここはバス停であるかぎり、彼女とてその乗車客に相異なかろう。

 案の定、彼女は私の後ろに並んだのであった。微塵の期待を抱いていた私は男子として当然の阿呆である。


 だが、それは至極突然の出逢いだったのだ。


 バスが停車した頃合い、私の背中から途轍もなく耳障りな音と共に、婦女の驚嘆の声が聞こえた。振り返り途中、足元を転がって行く赤く丸い姿見のよい果実が転がって行くではないか、その果実はいかんせん小さくて丸く可愛らしいのだ、ゆえに私は急いで分厚いゴムに挽きつぶされ、ジュースとなってしまう運命にある林檎を回収した。それはもう無心となって拾い集めた。 

 池を泳ぐお玉じゃくしみたく縦横無尽と転がる林檎を全て我が腕の中に囲い終えた時には無情とすでにバスは出発進行した後であり、素っ気なくも冷やかされたと黒煙をしこたま全身に浴びせられてしまった。

 この私に焼き餅とは可愛らしいバスである。


「大事ありませんか」 林檎を抱えたまま、同じく林檎を腕に抱いた乙女に私は声を掛けた。

 すみません、と彼女は言い。

「私のせいでバスに乗り遅れてしまいました。本当にすみません」


 やうやうしくお辞儀をして、再び林檎を落とすのであった。


「いえいえ、急ぐわけでもありませんから、どうかお気になさらないで下さい」


 私は乙女の落とした林檎を拾い上げようとして、不覚にも腕に抱えていた林檎を落としてしまった。これでは本末転倒、ミイラ採りがミイラになってしまったではないか。

 「あらあら」と彼女はそんな私を見て微笑み、私と乙女は二人して地面に膝をついて再び林檎を拾い集めたのだった。 


      ◇


 和裁も洋裁も要領を得れば、面白いものです。お姉様の教え方がよろしかったのでしょう。日を追う事に腕前が上達してゆく私は嬉しくなって、時間を忘れて刺繍などをしておりました。

 とかく、私は林檎が大好きな性分でしたから、林檎の刺繍を色々なものに施しました。私のリュックサックはもちろん、ハンカチなどにも。ですが、私の持ち物で刺繍のできるものは限られておりましたので、内緒でお姉様の所持品にも刺繍をしました。ハンカチや手拭い、さすがにお洋服には恐れ多くてできませんでしたが、下着の上下一枚ずつに刺繍した私の悪戯は秘密なのです。

 それ以上にお姉様とお喋りするのが愉快でなりません。私は下宿しておりますし、実家にはお盆とお正月にしか帰りませんから、お姉様と顔を合わせる機会も随分と減ってしまいました。時折、お姉様は私の下宿先に顔を出して下さいますが、そんな時は決まって私が悩み事を抱えておりますから、喜色満面とお話しする席にはなかなかならないのです。

 大學の講義のように机上での勉学ももちろんですが、このように実益のある嗜みもとても良いものです。

 まだ私の腕前は一人前の域ではありませんが、行く行くは一人でお洋服を仕立てられるようになれると、お姉様はおっしゃりました。そうなのです、ただの反物から、浴衣なども縫えるようになるのです。私の頼りない手から着物が生まれてゆくなんて!

 そう思うと、どうして手を休めていられましょう。ですから、私は覚え立ての刺繍に一所懸命と励むのでした。

 本日、お姉様はお買い物へ出掛けておられます。「一緒に行きましょう」と誘って下さったのですがお姉様のことです、きっと婚約相手である松永先輩とお買い物をなされるのでしょう。他人の恋路を邪魔だてしては乙女の沽券にかかわりますから、私は「いえ、私はお留守番をしています」と言ってお断りしました。

 その代わり、


「何か買って来て欲しい物はない?」と聞いて下さったので。


「でしたら、林檎をお願いします」とお願いしたのでした。


 今頃、お姉様は喫茶店で微笑ましくもお茶などをしているでしょうか……


      ◇


 私はフロリアンにいた。窓側の席である。

 「次のバスの時刻まで、どうぞお茶をご馳走させて下さいませ」そう切り出した彼女に私は「いえいえ、当然のことをしたまでですから、礼には及びません」と至極当然であると言い切ったのだったが「それでは私の気が収まりません。ですから是非お願いたします」と食い下がられ。

 麗人からのひいては婦女からのお誘いを無碍に断るのも悪いと、下心において靡いてしまった私は、彼女の後塵は拝したのであった。

 舞い上がるでも浮かれるでもなく、なんとなく罪悪感や背徳感に近い心中にあった私は、席につくと、さらに浮かれるでもなく舞い上がりもせず、ただただ冷淡に冷静となった。

 この席はいつか咲恵さんとお茶をご一緒した時に腰を降ろした席だったのである。 

 林檎の乙女は机に肘を立てて細く長い指を交差させて目前に開かれたメニュウに視線を落としていた。艶々しく微かに波打った黒髪に小さな口もと、そして、 芙蓉【ふよう】の眥【まなじり】は咲恵さんとうり二つ。だが、紅くハデな装いとこれでもかと胸元を押し上げる大山は咲恵さんにあらず。

 咲恵さんはもっと慎ましいのである。私は小さくて丸く、加えれば手の平に収まる……いや乗る程度が趣向なのだ。決して、大きければ……大きければ……大きければ良いと言うものでは……あるのかもしれない……


「私は紅茶にいたしますが、何を飲まれますか?」


 私はその胸元にいかほど男子の浪漫が詰まっているのだろうと、浪漫に膨らむブラウスを凝視して考察していたがゆえ、林檎の乙女の視線が急に私を捉えた時は酷く狼狽し、その拍子にお冷やをこぼしてしまった。


「たいへんですわ」


 彼女はそう言うと、立ち上がった私にポケットから白いハンカチを取り出すと、わざわざ私も元へ駆け寄り、濡れた上着を撫でてくれた。そのハンカチの端には小さく林檎の刺繍が施されてあった。なんとメルヘンチックな乙女だろうか。


「お使い下さい」


「これは、お見苦しいところを……」


 私は差し出されたハンカチを受け取った。

 無論、彼女の見ている限り私は衣服を拭っているように見せかけた。だが、本当のところはその純白のハンカチを握り締め、実質的には手の甲を衣服に押しつけていたのである。

 曇なき純粋な白、加えて可愛らしい刺繍の施されたハンカチでどうして私の衣服を擦り付けることができよう。私の着ている洋服は上下共に咲恵さんとお茶をする以前に洗濯したきりであり、風雨の中も歩けば砂埃にまみれたこともあった。もっとも深刻なのは私の男汁が染みこんでいることである。染みこんだ男汁が溶け出してたちまちのうちに黄ばみでもした日には羞恥心あい極まって、この場にて奈落の入り口をまさぐることになるだろう。


「そう言えば、まだお名前を聞いていませんでしたね」


 彼女は紅茶を、私は珈琲をウェイトレスに注文を済ませた。


「名前など良いではありませんか」


「ではどうおよびすればよろしいですか」


「そうですね。咲恵とでもお呼び下さい」


 彼女は悪戯な笑顔を浮かべてそう言った。


「いえ、それは困ります。知り合い同じ名前の方がおりますので」


 本当に困った。その前に大いに驚いた。思いつきにせよ、よりにもよってどうして黒髪の乙女の名前などを言うのだ。


「では瑞穂でよろしいです」


「それでは瑞穂さん」


「あなた様も源氏名で」


 口を開いた私に、乙女はお茶目に目元を緩めながら、そう言うのである。

 だから、


「そうですね、でしたら、松永とでも」と私は言ったのだった。


 本当なら古平でもよかったのだが、それではどうにもいけ好かない。だが、よくよく考えてみると、松永こそ世の中で私が一番忌み嫌う名前であったのだ。


「それはやめていただけませんでしょうか」


 自分で口走っておいて、眉を顰めた私だったが、意外なことにそれ以上に怪訝な表情をしたのは乙女の方であった。私が名前を口に出した次の瞬間には、まるで「その名前は聞きたくない」と言わんばかりの声量でもって拒絶したのである。


「では、勝太郎と呼んで下さい」


 私はすぐさまそう言い直した。交友関係の薄っぺらさの嵯峨か、思わず本名を口にしてしまった。とは言え、初対面なのである。どんな名前を口に出したところで本名であるか源氏名であるかなど知れやすまい。


「そうですわ。勝太郎さんはどちらの柄がお好みでらっしゃいますか」


 機嫌をなおした瑞穂さんはそう言うと、とても嬉しそうに、破れた紙袋の中から柄の異なる反物を二反取り出すと机の上に並べた。

 一方は涼しげな水色の地に淡い朱色の金魚。もう一方は黒地に色彩鮮やかな花火が描かれており、まるで夜空に咲いた大輪そのものであった。質の善し悪しで言うなれば後者の方がよほど技巧が感じられたが、私は前者の柄がいたく気に入った。


「私は金魚の柄が涼しげで良いと思います」


「さようですか」


 瑞穂さんは一体どちらが好みなのだろう。少々気になったが、自分で言い出さないところをみるとやはり、質の良い花火柄が趣向だったのだろう。


「和裁をなさるのですか」


「はい。近々ございます生駒神社の夏祭りに着て行く浴衣をこしらえましょうと思いまして」


「さようですか。それはさぞかし華やぐことでしょうね」


 それから、私と瑞穂さんは色々と閑話に花を咲かせた。終始積極的かつ気さくな瑞穂さんさんの話に私が一言二言を飾る程度であったが、実に楽しい一時であり、その時間はバスを待つと言う当初の目的を明後日に投擲して小一時間に及んだ。

 私にとって、疑う余地のない癒しの一時であったことはもはや言うまでもあるまい。

 趣向の合う反物の柄は聞かれたが、ついに、祭りに誘われることはなかった。林檎の乙女と別れた後、私は恍惚と乙女の浴衣姿を想像していた。いずれの柄とて必ず花のかんばせと夏の宵口を彩ることだろう。

 そして、思ったのだ……彼女はどうして私の好みを聞いたのだろうか……つまりはそう言うことなのだろうか……いやそう言うことに違いあるまい。私は再び恍惚となり、八月の一日に行われる生駒神社の夏祭りが早くやって来ないものかと蕾の紫陽花を見やると、流行る気持ちが幾ばくか落ち着いた……


      ◇ 


 夕暮れの前にお姉様は帰っていらっしゃいました。それも私がお願いしました通り、林檎を抱えきれないほど買って来て下さったのです。ですが、どうやら紙袋が破れてしまった様子です。ですから道中ご苦労があったでしょうと、私は早々にお姉様から荷物を受け取りました。


「袋が破れてしまったのですか?」


「ああ、これ。少し破ろうと思ったら、林檎を買いすぎてしまったみたいなの」


 そう言ってお姉様は悪戯な笑みを浮かべるのでした。


「お姉様が破いたのですか?」 


 私は首を傾げました。どうして故意に袋を破る必要があったのでしょう。


「少し気になる殿方がおられたので、気を惹くためにね」


「殿方の気を惹くために、袋を破いたのですか!」


 私は驚きました。お姉様をお誘いする殿方はこれまでに何名も拝見してきましたが、お姉様の方から殿方の気を惹こうとするところなどは一切見たことがありませんでしたので、私は驚きを隠せないばかりか、その殿方とは一体どのような方でしょうか。はしたなくも興味が沸々と湧き出してしまうのでした。


「早く私の部屋へ行きましょう」 


 林檎を家政婦さんにお渡ししてから、お姉様は紙袋を片手に抱え、もう片方の手で私の腕を取って廊下を駆けました。

 どうしたのでしょうと思う傍ら、お姉様の横顔を見ますにまるで、駄菓子を買ってもらった子どものように無邪気な笑みを称えているのです。ですから、私もついつい楽しくなりました。きっと、お姉様は部屋に入った途端に素敵なことを満面の笑みでおっしゃるに決まっているのです。

 そうして、お部屋へ入るとお姉様は紙袋から、反物を取り出して腰を降ろした私の前に置いたのです。


「咲恵はどちらの柄が好みかしら」 


「どちらも素敵ですね」


私はどちらが良いでしょうと両手を頬に当てて、首を左右に動かしました。

 目前に並べられた反物はそれぞれ、金魚と花火の柄でした。涼しげな水色の地に淡く可愛らしい朱色の金魚。花火は黒地に色彩鮮やかな大輪が咲いておりました。生地の善し悪しや肌触りからすれば花火の方が優麗でありましたが……


「私は金魚の側が可愛らしくて涼しげで良いと思います」と言ったのでした。


「きっとそう言うと思っていたわ」


 そう言うと、お姉様は花火柄の反物を手に取るや、たすき掛けにして「どう?」とお聞きになられました。

 とてもよくに似合っております。ですから私は「よく似合っておりますよ」と言いました。似合っているのですから仕方ありません。


「うふふっ。きっと咲恵にも似合うと思うわ。さぁ、忙しくなるわ」


 そう言うとお姉様は腕まくりをしてみせるのです。


「この反物をどうするのですか?」


「もちろん浴衣をこしらえるのよ」


当たり前と言わんばかりに、お姉様はおっしゃられましたが、私は戸惑ってしまいます。なんと言っても反物から浴衣をこしらえるなんて。私には到底できそうになかったのです。


「私たちだけでこしらえるのですよね?」


「当たり前じゃないの。世の中で一着だけの浴衣をこしらえるの。そして、生駒神社のお祭りに出掛けましょう」


「本当ですか!」


 私は思わず反物を抱き締めてしまいました。自分でこしらえた浴衣を着て、夏祭りに出掛けるなんて、なんて素敵なことでしょう。私一人では、浴衣をこしらえることはできないでしょう。ですが、お姉様と言う心強い味方がいるのです。その上は必ず夏祭りに浴衣を着て行けることでしょう!

 もちろん不安もありましたが、なぜか心強くあったのでした。


      ◇


 黒髪の乙女との文通が冷めてしまってから、一週と数日を経て私の郵便受けには黒髪の乙女以外の乙女からの手紙によって過去の栄花が蘇ることとなった。それは言わずともしれた林檎の乙女こと瑞穂さんからの手紙であった。

 どこでどうやって私の住所を知り得たのかは定かではないが、乙女からの文である、この際訝しむだけ野暮と言うものであろう。

 私はいやに落ち着いた美しい文字がしるされた便箋を手を手に取ると、文面に視線を落として、沸々と心を躍らせた。

 物腰からして気さくであり快活に見えた林檎の乙女であったが、文面では生粋の淑女であり、育ちの良さがありありと現れていた。

 物言いは悪くなるが、達筆ゆきすぎて解読に困るほどの文字であった。喫茶の折、私の前に腰を降ろしていた乙女とはまるで別人のようであった。だが、それはあくまでも私の個人的な感想であり、黒髪の乙女しかり私の手紙に眼を通して、私と同じ感想を漏らしたやもしれない。

 私は早速、返事に取り掛かった。冷静にかつ丹念に一字一字を書き記した。不思議と手元も震えなければ、心持ちが高揚することもなく、ただ粛々と便箋に筆を走らせることができたのである。

 梅雨の季節が到来し空模様はどんよりと灰色の毎日であり、湿度の高い生ぬるさに私は押入の中に茸でもはえてやすまいかと、阿呆なことを考えほぼ毎日を下着姿で四畳間に大の字となっていた。

 去年の今頃は私は擬態したナナフシの趣であると、あまりの蒸し暑さと希望も乙女との甘美たる願望もありはしない、などと朦朧と自家中毒にてどうにかなってしまうだろうと煩悶としていたのだが、今年は少しばかし様相が違った。

 何せ三日に一度は林檎の乙女から手紙が届くのである。私は定期購読でもしている数日刊誌を取りに行くかのように、身だしなみを正して郵便受けに向かうと手紙を雨に濡れぬようにと懐に抱いて部屋まで帰るのだった。蒸し暑さと言ったら今年とて去年同様であり、

出来ることならば、今すぐにでも最低限の衣類を残して全てを脱ぎ捨てたかったが、優美かつ高尚な乙女からの手紙を前にして、心持ちは崇高たろうとも内面の誠とは味付け程度にでも外見とて端正にあらねばとならないのである。

 例え、手紙であっても文字に書面に封筒に乙女の顔を思い浮かべてこそ、真の手紙の醍醐味なのである。だからこそ、はしたない格好で開封するなどと磔にして獄門なのである。

 そろそろ深々と降り続く雨の日々に憂鬱と苛立ちと募らせ。そして飽き飽きしてきた頃合いで、林檎の乙女から梅雨の晴れ間を予感させる手紙が届いたのである。



 拝啓


 憂鬱と降り続く雨を見ておりますと、どこか日和見病にて体調を崩しやすい時季ですが、お元気そうで何よりです。

 私は夏の情緒を愛おしく思っておりますが、蒸し暑いのは苦手でして、どうしても梅雨の季節だけは好きになれないのです。ただ、目に映える鮮やかな紫陽花を見ていますと、唯一の心の拠り所を見つけたようで少し救われた心持ちとなります。

 日本の季節は四季と言われますが、私はどうしても春と夏の間に梅雨を一つの季節としてもよろしいように思えてしまうのです。

 そんな季節ですが、勝太郎さんからの御手紙を楽しみしておりますと、日々が過ぎゆくのが早く思えてしかたがありません。

 縁は異なもの味なものと申しますが、あの日、勝太郎さんと運命的な出会いを致しまして、勝太郎さんの都合も考えず長々と話し込んでしまいました。不躾な婦女と呆れられたと存じますが、何を隠しましょう、私は痛快無比と時間さえも忘れてしまったのでした。

 何度となく文を交わしまして、今一、度勝太郎さんとお話がしたいと思い、思い切って喫茶のお誘いを申し上げます。

今週末の日曜日の昼一時頃からではご都合はいかがでしょうか。場所は以前、ご一緒いたしました伊太利風喫茶店フロリアンにてと考えております。

 梅雨の晴れ間も近々ございましょう。その折、どうぞ、お忙しい身とは存じますが、少しばかし勝太郎さんのお時間を私にください。

 お願いしたします。


                            かしこ

                             瑞穂より


 

 なるほど、梅雨をもはや一つの季節にすると言う発想なかなか面白いと思った。そして、私の自身は本日をもって勝手気ままに梅雨明けしたと宣言するのであった。

 思ってもみない申し出である。よもや、この私が妙齢たる乙女から喫茶のお誘いを受けることになろうとは、梅雨時だけに露ほども思いもしなかった。 

 梅雨明けに一ヶ月程度を残して、私の梅雨はやはり早々と開けたのである。

 ゆえに、心中明るく即座に返事を書くことにした。



 拝復  


 紫陽花が綺麗な季節となり、空はますます鬱蒼としております。体とはまず気から病み病気となると言いますから、心身相関とこの季節は体調が崩しやすいのでしょうね。

 瑞穂さんもお元気そうでなによりです。

 喫茶のお誘い誠にありがとうございます。瑞穂さんからお誘いを受けるなど拝謁至極、思っても見ませんでした。小躍りなどをしながら今まさにこの手紙を書いております。

 仔細承知いたしました。

 ただ、待ち合わせ場所が書かれてありませんでしたのです、ご提案申し上げます。梅雨の晴れ間とあいなりましたら、竜田橋の上で。もしも、雨が降っていましたならフロリアンで待ち合わせると言うのはいかがでしょうか。

 後書きで恐縮ですが私も瑞穂さんと偶然の出会いを経て、お話をした際、とても楽しかったことを覚えております。心躍るとはまさにと思ったものです。

 英国詩人バイロンの言葉に、事実は小説よりも奇なりと言う名言がございますのをご存じでしょうか。私と瑞穂さんのような突発的かつ奇跡的な縁もあるのかと考えますに、巡り会いとはかくも面白いものなのだろうと思えてなりません。

 日曜日、再びお茶の席をご一緒できることを楽しみに、日曜日まで指折り数えることといたします

 

  敬具

  


 瑞穂さんのような美人と再び相見えることができるとは、これを至福と言わずしてなんと言うべきだろう。私は近い将来に楽しみと言うなの希望を見出し、切手を必要以上に舐めてから封筒に押しつけ、道中寄り道してくれるなよと手紙をポストへ投函した。

 今週末に予定が出来た。真っ新の日捲りに赤文字で予定を書き込みたかったが、私の四畳半に日捲りなどというお洒落なものは残念ながらなかった。本当に残念である。

 憂鬱な季節においてこれほどの高揚した面持ちでいられようとは思いもしなかった。だから、雨の降る外を猫背にて歩く路傍の皆様にこの幸せを少しでもお裾分けして上げたいと思いつき、勢いよく窓を開けてみたが、はたして通行人はおらず生ぬるい風と共に入って来た雨粒にて私の顔と机の一部が濡れてしまった。

 なんといけ好かないのだろうか。私は悪態をつくように、衣服を脱ぎ捨てると下着姿で畳みの上に大の字で寝そべった。かび臭さが漂ってきそうな天井を見上げていると、なぜか哀愁の念に似た気持ちが湧き上がってきた。

 そんなバカな話しがあるか。女性と、それも美人と楽しく愉快に一時を過ごせるのである。これ以上に華のある話しが私にあるはずがない。

 だが、確かにもどかしい。

 私の向かいに腰掛けて微笑むのが黒髪の乙女であったなら……あったのならば……私は胸の辺りが気持ち悪くなった。胃袋がからっけつである以上、嗚咽は伴わなかったが、気持ちが悪かったのである。

 なんだろうか、この素直に喜べない心中とは……

 私は徐に立ち上がると、大声で万歳三唱をした。この私が日和見感染でもしたというのか。黒髪の乙女でなかろうとも西瓜を宿した佳人たる林檎の乙女との甘い一時を過ごせるのである!それだけで万事良し、何を憂う意味があろうや!

 私はますます声を張り上げ、床一枚挟んだ上階に住まう新婚夫婦への当て付けもかねて万歳三唱を続けた。


      ◇


 私は本当に指折り数えて日曜日を待った。梅雨空にかまけて衣服の洗濯や一張羅であるマントを出すことはしなかったが、せめてもと瑞穂さんから借りたままとなっているハンカチは洗濯の上、湯を沸かした薬缶の底にてアイロンをかけた。

 もどかしくも、なぜか両手放しでは喜びきれないまま、それでも逸る気持ちを押さえるために万年床へ潜ってみたり、あらぬ妄想に精を出した。

 そして決まって、心地よい我が下心にのみ精錬された夢から醒めた時、虚空の絶頂と物寂しさに体を丸めるのであった。

 躁と鬱を繰り返しながら数日を過ごした私はまさに精神の崩壊をきたす寸前であった。

杳として知れない何かが私の中で鬩ぎ合うのである。起因がわからぬ以上いかように受け止め、いかように受け流せばよいのかすらわからない。ゆえに、ただ隕石同士が衝突しては、はじけ飛ぶ。を繰り返す私の精神は爆発の衝撃のためにさながらツングースカ事件を彷彿とさせていたのである。

 精神的に蝕まれようとも、外見にはそれの余波がにじみ出ることはなく。便所の鏡でどこれほど窶れただろうかと自身の顔を映してみるも、こんにゃくのような私の顔は肉がつくでもなく、こけるでもない。いつも通り冴えない顔であり、自虐的な意味でも私は安堵の息をついた。

 約束の日曜日を迎え、私は約束時刻の三十分前に竜田橋へ向かった。本日は朝から天気晴朗となり、この蒼天を見上げるかぎりでは、昨日までそして明日からも梅雨であることを健忘症にて忘れてしまいそうになる。そんな私であったが、石橋を叩いて叩きすぎて壊す男なのだ。ゆえにラケット捜索の折、竜田川で見つけたこうもり傘を携えて行った。

 竜田橋の袂へ到着すると、すでに瑞穂さんが橋の中央付近で、もう一人の乙女と共に何やら談話をしていた。

 瑞穂さんは白いブラウスに襟元には紅いブローチ。そして萌葱色のスカートと前回とはまるで雰囲気のことなる落ち着いた装いであった。

 もしかすると、談笑しているもう一方の女性に装いを合わせたのかもしれない。瑞穂さんの向かいに立つ乙女は長髪を紅いリボンでまとめ、そして後は何から何まで純白であった。一瞬可憐なる百合の花と見間違えた私を誰が笑うことができようか。


「お待たせしました」


 私はそう言いながら、お辞儀をした。


「いえいえ、私が早く来すぎてしまったのですわ」


 そう言いつつ、瑞穂さんは午前中、純白の乙女と買い物へ行っていた旨を話した。


「こちらは、石切坂 桜子さんとおっしゃって、私のご学友なのよ」


 瑞穂さんが私の視線に先んじて、片手を添えて紹介してくれた。「お初にお目に掛かります。石切坂 桜子と申します」百合の乙女は春の息吹を醸しながらそう自己紹介してくれたのである。なんとも、優しく耳に心地よい透き通った声だろうか。

 いまさらだが、百合の乙女は、雪の様に肌が白く、整った顔の輪郭には柳眉に大きな瞳、小さな鼻翼とおちょぼ口が丁度良く収められており、黒く切り揃えられた前髪と背中に及ぶ長髪は、アイロンをあてたように真っ直ぐと伸びていた。

スカートから伸びる小股が切れ上がった足と細く繊細な指は、まさに容姿端麗を絵に描いた大和撫子であった。


「筒串 勝太郎と申します。自己紹介が遅れまして恐縮です」


 そんな乙女に見とれてしまった私は、随分とぶっきらぼうな間を経て、ようやっと自己紹介をすることができた。

 世の中にはこのように美しい女性が後何人いるのだろうか。

 黒髪の乙女を筆頭に、林檎の乙女にそして百合の乙女。この三方で三大美女史を塗り替えてよいとだろうと私はうっとりとなってしまった。


「それでは、私はお約束の時間がありますから、本日はこのへんで」


 桜子さんは、スカートのポケットから懐中時計を取り出してそう言うと、私と瑞穂さんに急いでお辞儀をした。

 よもや、林檎の乙女は私にこの淑女を紹介するために、本日連れだって参上したのではと淡い期待を抱いたのだが、どうやら……というか当然、そのような訳もなく。桜子さんは別件の約束があるとのことだった。誠に残念である。

 美女二人を前に珈琲を飲めたなら、すぐさま桃源郷へ連れ去られても後悔などせぬだろうに……誠に残念である。


「あら、そうでしたわね。すっかり付き合わせてしまってごめんなさい。良介さんによろしくね」


 はい。と桜子さんは言うと、


「また大學でお会い致しましょう」


 と口もとを緩め、そして雪のように白い頬を仄かに桃色に染めて駆けて行ってしまった。

 聞くまでもあるまい。桜子さんは、その約束がとかく待ち遠しいのである。私が黒髪の乙女と喫茶の約束を一日千秋としたように。

 何を話すでもなく、フロリアンに入った私と瑞穂さんは前回同様窓側の一席に腰を降ろし、瑞穂さんは紅茶。私は珈琲を注文した。


「気になります?」


指先を絡ませながら瑞穂さんが言った。


「と言いますと」


私がそう言うと、

「石切坂さんのことですわ」と瑞穂さんは眉を顰めた。


「それはもう」


 世の中に美人を気に止めない男子を私はだたの一人として見たことがない。


「でも、彼女に望はありませんのよ。石切坂さんには良介さんとおっしゃる恋人がおりますから」


 まるで落胆する私の顔でも見たかったと言わんばかりの悪戯な笑みを浮かべる準備をしていた瑞穂さんだったが……


「そうですか」私がそう意に介さずと、お冷やを口に運ぶと、


「勝太郎さんは随分と器量望みですのね」と腕を組んで眉を寄せたのだった。


 私は特別美人好みと言うわけではない。何度でも言うが、容姿端麗な女性とお近づきとなり、願わくば伴侶としたいとの願望は男子に一貫した共通の精神なのである。

 もちろん、私も桜子さんのような女性に惹かれるのは必定であり、目前に座する瑞穂さんとてまた同じである。だが、私はどうしたことか寒中水泳でもしているかのように冷静沈着だったのである。

 くどいようだが今一度、伝えておきたい。瑞穂さんは瀟洒【しょうしゃ】な乙女であり、私の見立てではフロリアンの中でも……いや、この界隈でも指折りの美貌をもっているのだ。幸運にもこの時、私がその御前に座っているわけだが、周りに陣を張る男子どもからの熱い視線のかぎりは、私が便所に立った次の瞬間には天下分け目の椅子取り合戦がそれはもう仰々しく行われることだろう。

 それを静観している瑞穂さんはさぞかし気分がよろしいだろう。


「どうも」  


 外の景色を眺めながら、古平でも通らないかと思っていると、瑞穂さんが気を回して、砂糖とミルクを私の手元へと指を滑らせた。

 瑞穂さんは紅茶に手を伸ばさず、近況や面白い出来事などを微笑みを添えて話して聞かせてくれた。屈託のない語り口、莞爾としてよく笑う彼女を見ていると私はまたしても救われた気になった。

 一度ならずも二度までも、私は何一つ話題を提供できずに終わるのだろうか、いや、終わることだろう。私の毎日など瑞穂さんからすれば毛ほども愉快でもなければ面白みの一片もあるまい。日々生活をおくる私自身ですら、退屈であり時に情けなくなる時すらあるほどなのだから……

以前見せてもらって反物で浴衣を作り始めた話が終わったところで、瑞穂さんはお手洗いに席を立った。

 次の瞬間に私を誅殺せんと、ナイフやフォークが投げられやすまいかと、辺りを見回してみたが、所詮、私を羨む阿呆な男はどこにも居なかったのである。

 私は分厚い雲に覆われつつある青空を見上げて、珈琲を一口含んだ。少し砂糖を入れすぎたと後悔する一方……お前はどうしてしまったのだ。と自分自身に問い掛けた。

 もっとはしゃいで然るべきであろう。はたして次があるわけでもなければ、突然、絶縁をつきつけられるやもしれない。どうしてお前はそんなに冷静で居られるのだ。どうしてだ……

 冷静であることは良い、しかし、それはあくまで異性との甘い一時に浮ついた心中を押さえ込むための抑止力であって、緊張もしなければ欲情に色めき立つこともないこの瞬間には大凡必要のない要素なのである。

 冷静なだけではない、どこか虚しくも寂しいのである。過去に思いを馳せる。などと言うことはしない性分なれど、無性に今は過去に遡りたいと思ってしまった。そう遠い過去でなくてよい。

 願わくば、桜の蕾を煎じていたあの頃に帰りたい。


「勝太郎さん」


「あっ、はい」


 いつの間にか瑞穂さんが帰って来ていた。


「私の話はお気に召しませんか」 


 困ったような寂しい顔をして林檎の乙女はそう言った。


「そんなことはありません」


 私は即答した。笑みを絶やさずに面白可笑しい話に私は陶酔していたのである。


「そうですか、ですが、今日の勝太郎さんを見ていますと、楽しそうではありませんもの」


「すみません。そのようなお心遣いをさせてしまいまして。日和見病にでもかかってしまったのでしょうか」


 私は頭を掻きながら精一杯の笑みを含めてそう言ったのだが、悲しげな表情を浮かべる瑞穂さんの顔を見ると、私は乳白色に近くなった珈琲に視線を落としてしまった。


「ご迷惑でしたら、言って下さいませね。どうやら私は少々強引な癖があるようですので」


「どうかそのようなことは言わないで下さい。私は瑞穂さんとお茶の席をご一緒出来る日を心待ちにしていたのですから」


 それは嘘ではない。嘘であるはずがない。

 ただ、何も話題を提供できない一抹の寂しさが私の気持ちを落ち込ませるのだろう。きっとそうだ、そうに決まっている。女性と無縁に生きてきた私がこうして婦女を前にしてお茶を飲むなど、願ったり願ったり願ったりやっと叶ったりなのだ。

 黒髪の乙女とお茶をした時は、不安や緊張に苛まれ今回同様に話題を用意して行くことを忘れていたのだが、不思議なことに乙女のが語った『三条通の夜話』には私にも思い当たる節があり、噛み合ったり噛み合わなかったりを繰り返して、それはそれで面白可笑しかった。

 だが、生粋の淑女たる瑞穂さんとでは私の人生において噛み合う話しなどどこにも転がっていまい。しからば、懐から取り出したる空想を絵空事にて着色し、支離滅裂譚を永遠と話さねばならないだろう。

 そんなものは見苦しいだけである。

 立ち込めた暗雲は空模様同様に、見る見る間に私と瑞穂さんを包み込んで行った。瑞穂さんはそれ以上、私に問い掛けることなければ、特別笑顔を咲かせることもしなかったが、平常通りと、優しく微笑みながら世間話などをしていた。

 そして、どちらが言い出すでもなく、席を立った私と瑞穂さんはフロリアンを出たのだった。

 降り出した雨は夕立のごとく。まさにバケツをひっくり返した様相であった。入り口に佇む私たちの目前では、行列を乱され慌てて右往左往する蟻のように手に持った物を傘となして行き交う人々の姿が見て取れた。瑞穂さんを見やるにどうやら傘を持って来ていない様子であった。


「もう少し、店内に居ればよかったですわね」 


 瑞穂さんは眉を下げ苦笑しながらそう言う。 


「本当に間が悪い雨です」


 しとしとと降るならば、遣らずの雨と趣と情緒もあるだろうが、こうも激しく地面を打ち付けるならば、趣どころか『少しは慎みを持て!』と一喝くべたくなる。

 結局、しばらくフロリアンの入り口付近で雨や止むのを待っていたわけだが、空を見るに雨脚は弱まっても、大凡雨が止む気配は窺い知れなかった。


「どうぞお先にお帰り下さい。私はもう少し雨宿りして帰ります。もしかしたら雨が止むかもしれませんし」 


 そう言う瑞穂さんを尻目に、私はどんよりと分厚く黒い空を見上げていた。


「この傘を使ってください。実は私の家は随分近くにあるんですよ」


 そう言いながら私は迷うことなく瑞穂さんのこうもり傘を差し出した。


「いえ、それには及びませんわ。私は……」


「本日は楽しい時間をありがとうございました」


 もう二言三言押し問答をしてもよかった。むしろ、それこそ男女の語らいに相応しいと思ったのだが、そんなねちっこいのは私の趣向ではないのだ。

 私は瑞穂さんの言葉を遮り、半ば強引に傘を押しつけて、一人降りしきる雨の中に身を躍らせたのだった。


      ◇


 淑女たるもの秘めやかに、焦らず、ゆっくりと、可憐かつしとやかに、何ごともこなすことを常としなければなりません。ですから、久しくお姉様と共に大學へ赴いた私は、ご親切な小春日さんからノートをお借りして、附属の図書館にて一所懸命と自分のノートに写し取っておりました。

 「図書館へ来るのも久しぶりだわ」と蔵書をみて回るお姉様は、気楽と猫の手借りたい私とは真正面からして逆方向を向いております。


「お姉様は勉強をしなくてもよろしいのですか」


 と私が問い掛けますと。


「あら、それは以前に答えたはずですよ?」


 眉を顰めて言うのでした。

 図書館はお喋りをするところではありません。本を読むところなのです。ですから、それ以上、余計な言葉は交わすことはありませんでした。

 お昼間前になると、お姉様は忙しく万年筆を動かす私の向かいの席に腰を降ろして、なにやら、洋書の本を読んでおられました。何を隠しましょう、お姉様は英語に長けておられるのです。今年のお正月、お父様がお知り合いの英国人御夫婦を家におつれした際、お姉様はまるで英国人のように流暢に英語を喋られておりました。私など、何を話しているのかまったくわからず、お姉様の傍らでとりあえずと、お話を理解している振りをして愛想笑いを浮かべているだけで精一杯でした。

 そんなお姉様ですから、私は「英国へ留学などにいかれてはいかがですか?」と冗談半分に言ってみたこともあります。するとお姉様は「こんなに可愛い妹を残して異国に旅立つなんてできないわ」と冗談半分に返事をされるのでした。

 「私ももうお姉様がいなくても一人で大丈夫ですよ」と決まって私が頬を膨らませると

「そんなことを言わないで、咲恵は私のたった一人の妹なのだもの。愛おしく思ってもしかたないでしょ?」と私の頬を包み込んでお姉様は言うのです。

 それに近いやりとりは思い出として数多残っております。愛情細やかなお姉様との心地の良い思いでなのです。

 私は思わずペンを止め、そんな物思いに耽っておりました。すると、正午を知らせる鐘が鳴りました。


「お昼に行きましょう」 


 お姉様は本を閉じてそうおっしゃいましたので、


「はい。頭を使うとお腹が空きますね」と私はお腹を押さえて、そう言ったのでした。

 混み合う食堂で短冊のように釣り下げられたお品書きを見上げて、本日は何を食べましょうかと考えておりました。私の好み『洋食三昧』という定食でした。海老フライやハンバーグ、に彩り鮮やかなお野菜の盛り合わせと、とうきびのスープ、ご飯がついた眼と舌を一度に満たしてくれる贅沢な定食なのです。

 ですが、私のような學生が真昼間から贅沢をするのは心苦しいので、誕生日の日やとても心の弾んだ日など大凡特別な日にだけ食べるようにしているのでした。


「今日は私に甘えていいわよ」


 とお姉様がおっしゃって下さいますものですから、私は「洋食三昧定食」にいたします。とお姉様の腕にすがりつきました。

すると、

「それでは洋食三昧定食二つね」とお姉様は微笑みました。

 お食事の最中、お姉様は一枚の紙に視線を落としては、何やら思慮している様子でした。食の進まないお姉様に私が「それは何ですか」とお聞きしても、「大したものではないわ」とはぐらかすのです。お姉様も乙女ですから、秘密も多いかと思いますが、妹である私は一抹の寂しさに胸が締め付けられました。姉妹なのですから、どのようなことでもお話して頂きたいと願うのは私のわがままなのでしょうか……

 私は小さく溜息をつきましたが、眼下に広がる美味しそうなお料理を見ますに、まずはこれをやっつけてやろうと、真剣にナイフとフォークを忙しなく動かしました。


「咲恵は本当に美味しそうに食べるわね」


 お姉様はそう言うと口いっぱいに詰め込んでもごもごとしている私の口もとへ指を伸ばし、ついていたご飯粒を取って下さいました。

 ついにお姉様は定食を残してしまいました。「勿体ないけれど、食欲がね……夏ばてかしら……」とおっしゃりつつ、私に「食べる?」とお聞き下さいましたが、私の小さなお腹は膨らんだ風船のようにはち切れんばかりでしたから「頂きたいのですが、それでは私のお腹が破裂してしまいます」と泣く泣くお断りしました。

 一目を避けては、お腹をさすりながら図書館へ戻りますと、ノートを広げたままにしてありました机の前に、殿方が立っておりました。

 その方は小春日さんのノートを脇に抱えると、私のノートに視線を落としております。


「古平さんではないですか」


 私は声を掛けました。そうなのです、その殿方は小春日さんが仲良く交際をしている古平さんだったのです。


「お知り合い?」


「私のご學友と交際をしていらっしゃいます。古平さんです」


「まあ、咲恵の姉の瑞穂と申します」


 そう言いながら、お姉様は古平さんにお辞儀をします。


「古平と言います」


 古平さんもお姉様に軽くお辞儀をしました。そして、脇に挟んでいた小春日さんのノートを静かに机の上に戻したのでした。


「人から借りたものを机に置きっぱなしするのは感心しないね。それに、筆記具なんて置きっぱなしにすると、盗まれても文句の一つも言えない」


 古平さんは私に強くそう言いましたが、お姉様が居る手前、言葉を選んだ様子です。


「それは至りませんでした」


 私は急いで机に駆け寄ると、無くなっている物はないかと確認しました。幸いにして消しゴムも鉛筆も万年筆も筆箱の中にありましたから、私はほっと胸を撫でおろすのでした。


「古平さんは、よく図書館へ来られるのですか?」


 胸をなで下ろす私に一瞥して、立ち去ろうとした古平さんにお姉様がそう問い掛けました。


「まあ、ちょくちょくとですけどね」


「それでは、これを本に挟んだ方を存じておりませんでしょうか」


 そう言って、先程食堂で一心不乱と視線を落とされていた紙を古平さんに差し出したのです。


「ああ、この紙に書かれてるのは本当のことですよ。この男は生粋の女ったらしです、金に苦労しないので、婚約したって言うのに、今でも夜ごと繁華街に女を両手に遊び惚けてます。婚約相手はそれを知ってか知らずか、本当に可哀想なもんですよ」


 古平さんは紙を一目見るや、大層愉快に笑顔をつくるとそう言いながらお姉様に紙を返しました。


「いえ、そのようなことではなくて、この紙をこの本に挟んだ御仁をごご存知ありませんか?」


 お姉様は紙を大切に四つ折るとポケットにしまい、そして、そう聞き直します。


「ええ、良く知ってますよ。筒串 勝太郎と言う間抜けで阿呆なダニのような男です」


「そうですか、ありがとうございました」


 「それじゃあ、僕は」と古平さんはへらへらと軽い足取りで本棚の角に姿を消してしまいました。

 私は胸のところで手を握ると、見えない話しながら、困惑しておりました。聞き及びますに、どうやらお姉様が本の間から見つけた紙には不埒漢の醜態が告発されてあったのでしょう。その不埒漢とお姉様がどのように関係しているのかは私の知るところではありませんでしたが、ただ、古平さんが『筒串 勝太郎』と勝太郎さんの名前を口にしたことが気になってしまったのです。

 もちろん、勝太郎さんは実直なお方ですから、婚約してなお夜な夜な繁華街に女性を侍らせて遊びほうけるなどと、ありえるはずがありません。それに、聞くかぎりその紙を挟んだのが勝太郎さんだと言うのです。どうして、勝太郎さんは紙を本に挟んだりしたのでしょうか……


「咲恵、私は急用を思い出したので、先に帰ります。機嫌を悪くしないでね」


 私以上に困惑していたのは誰であろうお姉様でした。今にも卒倒してしまいそうな蒼い顔をしてらっしゃったのです。


「気分でもすぐれないのですか?お顔が蒼いですが大丈夫ですか」


 私がそう言いながら、傍らに歩み寄ると「ええ、少し驚いたものだから、それに……私、女の子の日の最中だから貧血ぎみなのかもしれないわね」


 振り向いたお姉様は、そう言って向日葵のように笑うのです。


「おっお姉様っ、こんな公衆の面前で〝女の子の日〟だなんてはしたないです!」


 恥ずかしさあまって私はついに大きな声を出してしまいました。


「咲恵の方が随分と大胆じゃないの」 


 お姉様は羞恥心これ極まりと俯いた私の頭に手をやってから、駆けて行ってしまいます。

 床に睨み付けながら顔を紅くしてむくれていた私でしたが、妙に優しいお姉様の声に走り去って行くお姉様の背中を無言で見送るしかできませんでした。

 どうして、急に向日葵のように笑ったのでしょう。今のさっきまで驚嘆に顔を蒼くされていたというのに……今泣いた烏がもう笑うといった趣でした。


      ◇


 濡れたズボンを絞っていると、ポケットに可愛らしい林檎の刺繍が入ったハンカチが入っていることに気が付いた。どうやら、返しそびれてしまったらしい。

 瑞穂さんから貸してもらったハンカチであったが、姿見のよい林檎の刺繍を見ていると、なぜだか、咲恵さんの顔が浮かんできた……私は摩訶不思議と頭を掻いていたが、ハンカチから滴る滴にてせっかく書き掛けていた論文が紙くずへ帰すのを見て、慌ててその場を飛び退いたのであった。

 翌日、すっかりインクの滲んでしまった用紙を便所紙へ昇華させた後、郵便受けを見に行くと、珍しくも二通の封書が入っていた。

 一通は林檎の乙女からであった……なんとも不可解であろう。昨日会ったばかりであると言うのに、どうして本日手紙が届くのだろうか。昨日出したにせよ、早すぎるだろう。

その場にて、首を捻った私は二通目の封書を見て、大きく肩を落とした。

 思えば、昨日は失礼極まりなかった。瑞穂さんにかような気遣いをさせてしまうなどと、そして弁明とする私の言葉とて完全に言葉足らずであった。婦女に気を使わせるなどと、男子の名折れであろう。

 私はどうにかしていたのだ。そうだ、そうに決まっている。乙女との語らいに冷やけるなどと、あの時は私が私ではなかったのだ。

 そう言わざれば、後悔の念にこの身が腐敗してしまいそうだ……

 時を置いて病魔に蝕まれるがごとく、私は津波のように襲い来る後悔に身も心も疲れ果ててしまった。

 万年床に潜って水泳をした二十日鼠よろしく、心身の安定を図った私は、ようやく、林檎の乙女からの手紙を封切った。

 

 

 前略


 昨日、酸漿【ほおずき】を購入いたしました。衝動買いと言えるでしょうね。それと言うのも、以前、浅草界隈に住処がありました頃、浅草の酸漿市などへ出掛けては姿見の良い季節の植物に風情を感じていたのを思い出したのです。

 風鈴のかわりと愛でるも良し、提灯の趣と玄関に飾るも良し、とにかく雅致【がち】深い酸漿ですから、家中に飾っております。

 勝太郎さんは酸漿はお好きでしょうか?もしも、お好きなのでしたら、どうぞ遠慮なくおっしゃって下さい。次の機会にも差し上げようと思います。

 お付き合いをしているわけではございませんゆえは、幾度とお誘いするのは婦女の恥じらいと致しますれば、お誘いしたくとも心中もどかしく、どうしたものでしょうか。そのように考えを巡らせておりましても、私は勝太郎さんと今一度お会いしたく存じます。ですから、今度は、私の住居へおこしくださいませんでしょうか。

 外でお会いするのも大変よろしいのですが、このような季節ですから、小雨は風情のうち、いつ大雨になるやもしれません。ですから、紅茶でも飲みながらゆっくりと、お話がしとうございます。

 先日、とても美味な紅茶葉を手に入れましたので、是非とも勝太郎さんに振る舞って差し上げたいと思うのです。

 私は年頃の女性にて、勝太郎さんのお部屋へお邪魔するこは、乙女の慎みと憚らねばなりません。ゆえに、私の家へご招待致します。


 この手紙をしたためる乙女心をどうかお察しください。そして、是非ともお越し下さいませ。 

 心よりお待ち申し上げております。


草々

瑞穂




 やはり落ち着いた美しい文字である。文字からすれ心地よい香りがするほどである。

 それはともかくとして、家にお誘いするとの旨。そんなことが許されるわけがない。

 瑞穂さんが年頃の乙女とするなれば、私はさながら盛りのついたドラ猫であろう。聖域たる乙女の家などへ一歩足を踏み入れた途端、ドラ猫から色々な変化を遂げ、ついに狼へなり果てるやもしれない。

 そこのところは我が誠に置いて大袈裟な自信があった。だがしかし……大衆の眼を逃れ二人きりの異空間へ旅だったその時、未だ体験したことのない劇中において、全てのたがが外れてしまわない確証などと何処を浚えば手に入れられるだろうか。

 私は便箋を取り出す前に、畳みの上に寝転んだ。

 二人の乙女に心揺れる私はなんと贅沢な阿呆だろうか。一目惚れにて虜となった咲恵さんとの赤い縁はもはや首の皮一枚として残っておるまい。しからば、瑞穂さんとならば、うまく縁とて結ばれるやもしれない。

 黒髪の乙女との文通は月始めを最後に途絶えたままとなっている。それに比べてみれば、いや比べるることなどできないモノなのだが、瑞穂さんときたら、この私をお住まいへ招待しようと言うのである。

 『……少々強引な癖があるようですので』と語っておられたが、なかんずく、この文はその性分が先走った結果なのだろうか。

 まして、傘を譲ったがごとき安っぽい男気に惚れたなどと言うのも故事付けである。瑞穂さんたろう淑女なれば、私よりも紳士らしい紳士との交際とて経験してらっしゃるのだろう……

 私は徐に立ち上がると、まだ湿り気しか残っていないズボンに足をねじ込むと、部屋の外へ駆け出した。

 そしてそのまま、町中を駆けだしたのである。このもやもやとしたもどかしさを身体的疲労にてなんとかやり過ごそうと考えついたのだった。

 私は駆けて走った。梅雨の風情と小雨の中を無の境地に至るまで走り続けようと思った。

 夕日が見えるならば、夕日に手が届くまで走り続けようと思った。

 内燃力ににて動力が得られると言うなれば、燃料空っ欠の私がそうそう走り続けることなどまかり通らず。竜田橋の上に立つ頃には息が切れ、どうしようもなく腹が減ってしまった。

 全力でないながらも疾走した時間は数十分にも満たず、これで精神の錬磨がなされるはずもなく、まして無の境地へなど入り口へも辿り着くには遠すぎる。私は竜田橋を渡りきった竜田川沿いの道にあるベンチに腰を降ろすと、松の葉を伝って落ちる水滴に背中を濡らしながら葛藤に噎び喘いだ。

 芙蓉の眥を揃えた乙女二人の間で揺れ動く男心……これは実に喜ばしきことではないか。女っ気の塵すらも見えなかった私だったのである。ここに来て、いやこの数ヶ月にて、私は咲恵さんと瑞穂さんと言う容姿端麗な令嬢とお近づきとなってしまったのだ。きっと私の人生における運と言う名の目に見えぬ力を爪の先まで使い果たしての結果だろう。しかし、まだ結末は杳として知れず。

 これが一番厄介なのだ。私は松永先輩のような不埒漢ではない。ゆえに、ここで一人に絞らねばならない。一目で私の心を鷲掴みにした黒髪の乙女。対するは全ての者を虜とにしてしまう、笑顔と巨大な浪漫を持ち合わせる林檎の乙女。

 私は乙女の二人の間に立って、両方から腕を引っ張られる図を想像して思わずにやけてしまった。まさに大岡裁きである。だが、これとて男子なれば一度は夢枕にも憧れる妄想ではあるまいか。乙女に体を裂かれようともそれこそ本望である……本望であるが、本当に裂かれるわけにもいかない。ゆえに、私は常住坐臥とベンチに腰掛けたまま頭を抱え、とにもかくにも輾転反側とした。

 四畳半へ帰ったとて、これは逃れるに逃れられず。ただ、数時間と雨に打たれた体は蒸し暑い昨今でさえ、よく冷えた。頭は冷やせたが肩口より寒気がするかぎりは、やはり万年床へ潜り込まねばなるまい。

 私は病魔にて、ようやくこの葛藤から暫しの忘却を手に入れたのであった。

 

      ◇


 夢を見てそして夢を見た。深夜に一度眼が覚める前と、空が蒼白くなりゆく際にもう一度。

 彼方では私は瑞穂さんと共に肩を並べ、トーキーに入って行くのである。それは末恐ろしい妖怪ものである。最高潮を迎えると共に、眼を閉じた瑞穂さんは隣に座る私の手を強く握り、最後には腕にすがりついたのである。私がそっと視線をやると、暗幕において頬を淡い桃色に染めた瑞穂さんの表情があり、上目遣いの視線と少しあいた口がなんとも色っぽかった。桃色遊戯とそこまで現実味を帯びておきながら、なぜか私は、瑞穂さんに酸漿を贈り物として渡し走り去ってしまったのだった。私の夢でありながら、どうして私の望む展望とならざぬのか。

 此方、咲恵さんとの一時はとても不可思議であった。黒髪の乙女は酸漿を持って現れたかと思えば、徐に取り出した狐の面をつけたのである。私が何かを尋ねると。乙女は「私が狐でも愛をくれますか」と言うのだ。

 私はそんなはずはないと思いつつも、やはり酸漿を贈り物として差し出して言うのである「咲恵さんであれば私はかまいません」と……

 それこそ意味不明なままに私の夢は終幕を終えてしまった。

 夢でまで瑞穂さんと咲恵さんと会えたことは悦楽の境地であったが、どうせ夢であるならばもう少し我が念願と妄念を兼ね備えた甘美たる時間を過ごしてもよかったのではなかろうか。

 どうしようもない私である。夢の中までもたがをはずせず、実直に接しようとするなどと……やはり私は大阿呆者だ。

 天井を見上げて私は胸の辺りを掻いた。そして、最後に風呂に入ったのはいつだろうと遠い日の記憶に思いを馳せたのだった。

 確か、風呂に入ったのは一年前だったと思う。古平の儲け話にのって、牛糞を集めた後、髪の毛一本にまで染みついたあまりの匂いに根を上げ、やむなく銭湯へ直行したのだ。

 久しく銭湯の厄介にもなっていない。誰を気にするでもない、と眠れないほどの異臭を体が放つか余程汚れた日には冬も夏もなく深夜、炊事場で行水をしてやり過ごしてきた。

 端的に銭湯にかける金が勿体ないと思ったからである。だが、私とて夢と希望を抱いて大學へ入學した初々しい当初は、垢抜けた淑女たちの前に田舎臭さを、たとえ相手にされずともせめて身だしなみをと一週間に三度は銭湯の暖簾をくぐっていた。そして、番台に娘さんが座している時などは、人知れず恥ずかしく思ったものである。

 入學してから一月ほど経った桜の散る季節、そろそろ葉桜が出揃うだろうと、桜並木を歩いていた時に私はテニス場にて球拾いに勤しむ黒髪の乙女を初めて見た。

 彼女はラケットを片手に先輩が打ちこぼしたボールを一心不乱に拾っていたのだった。

 その時、私は乙女を見初め、講義の傍ら桜の大樹に隠れて乙女の姿を見守っていた。彼女は先輩の指導を素直に聞き入れ、みるみる腕を上達させ、その年の冬を前にコート上に立って見事なラケット捌きを披露していた。たまに空振り、恥ずかしさあまって小さく舌を出す仕草などは、まことに可愛らしかった。

 そのうちに私は、彼女に声を明日こそは声を掛けてみようと決意を毎日新たにしながら、いつでも臨戦態勢と銭湯に毎日通い、体の隅々まで清潔に保ち、乙女に話しかけるその時を虎視眈々と尾っぽを巻き込みながら、やはり桜の大樹に隠れて乙女を見ているだけだった。

 思えば、あの頃は楽しかったし、乙女の姿を見ることさえ出来ればその日一日は至福のうちに終わっていた。

 だが、皮肉なことに黒髪の乙女とお近づきになるために、通っていた銭湯で古平と出会ってしまい、それからと言うもの、思わず拍手をしたくなるほど見事なまでの転落の大學生活とあいなってしまった。

 初めて古平の儲け話にのったは、何も生活のためではなかったのだ。その時は実家から仕送りをしてもらっており、質素ながら人並みの生活をおくれていたのだから……それでも、儲け話にのったのは……悲しいかな乙女に何か贈り物をしたかったのだ。テニス倶楽部は特にカネモチ部員が多いと有名であり、そのような高嶺の花に対して私のような田舎者が釣り合うはずもなく、ゆえに見栄のひとつも張って高価な贈り物をして、乙女の気を気を惹こうとしたのだ……

 古平の儲け話は、憎き松永先輩の画策よって的をはずし二人して多額の借金を背負うはめとなってしまった。私が払えぬとわかると、実家へ矢の催促が飛び。結果、借金からは逃れられたが、そのかわりに仕送りは諦めざる得なくなってしまった。

 そして、自暴自棄とささくれだった精神と荒んだ生活にて、一年間を過ごし、再び四季の鼓動が一巡の息吹を吐き出した桜の頃、私は遠の昔に忘れていた黒髪の乙女との再会を、いや、彼女からすれば出会いを果たしたのである。

 思えば思うほど遠回りをしたものである。

 声を掛けようと香水や整髪料を買い込み、そして、銭湯に通った日々……席を共にして珈琲を飲むなどと夢の夢であったとと言うのに……

 私は、布団の中を這うようにして足側から顔を出すと、押入のを開け、何の変哲もない蜜柑箱を引っ張り出して来た。

 すっかり、忘れていた。これも私には乙女との出会いは皆無である!と自暴自棄と言い訳を込めて異性との交際を諦めたがゆえだろう。蜜柑箱の中には私が初々しかった頃の遺産とも言うべき品々が収められてあった。髭剃りに香水、整髪料にカフスボタン。腕時計までもあるではないか。

 私は久しく忘れていた、大切な気持ちを思いだした。

 そして、蜜柑箱を押入の中へしまうと、机へ向かったのである。

 



 謹復


 先日は、楽しい時間をありがとうございました。瑞穂さんに無用なお気遣いをさせてしまったのは、私の不徳とするところであります。

 東京に住まわれていたのですね。酸漿市など、とても情緒があって一度私も行ってみたいものです。実はまだ、一度も東京を訪ねたことがありませんので重ねて楽しみです。

 酸漿はぷっくりとまるで植物ではないような趣ですから、、頂けるのであれば眼に珍しく部屋に飾ってみたいと思います。

 乙女のみぎわ恥を忍んでのお誘いを頂戴し、光栄の極みであります。ですが、瑞穂さんの住まいへ行くことは私にはできません。

 またフロリアンへお茶をするのであれば、喜んで参上いたします。しかしながら、年頃たる瑞穂さんのお宅へお邪魔したとあれば、瑞穂さんの体裁もよろしくないばかりか、私自身も後悔をしてしまうやもしれません。

 私は日々、誠を以て身を修め、忠孝を重んじ、貧賤に己を曲げぬようにと戒めをもって生きております。けれど、私も明瞭たる男子なのです。

 不埒漢と罵られ蔑まされるやもしれませんが、瑞穂さんを前にして、私の中に眠る男子を果たして封じておけるかどうか、自信はありますが、実際にはどうなるやもわかりません。

 瑞穂さんが恥を忍んでいただいたかぎりは私も恥などかきすてて申し上げます。

 もう一つ、申し上げたきことがございます。私には心淵より恋いこがれる女性がいるのです。無論、瑞穂さんには一切関係のない話でありますが、私の性分はとても単純であり、それと同時に不器用なのです。

 ですから、瑞穂さんと友人として交際することも是としない自分がいるのです。私は阿呆です、思い込みの激しい男なのです。ですから、瑞穂さんのような美しい女性と友人としてでもお話の回を重ねますと必ずや瑞穂さんに対して良からぬ感情を抱くことは必定でしょう。

 ですから、次にお会いするのを最後と致したく思います。

 不躾な独りよがりを吐き並べ、瑞穂さんの気分を悪くされたかと思いますが、どうか私の阿呆さ加減に免じてご容赦ください。


                              敬白

勝太郎



 私は余計なことまで書いた。誠に余計なことまで書いたのである。瑞穂さんの家にお邪魔することを断る文言で結べばすればよいものを、妄想漢の血迷った弁まで書き殴ってしまった。

 私は生粋の阿呆だ。別段、友人の間柄でも良いではないか!それでは異性は全て恋の対象であるのか!

 男子たろうとも女子と面白可笑しく友人の間柄を謳歌している者は山ほどいる、それに、それこそが常日頃の風景なのだ。

 私は書き終えた便箋を前にして、何度となく破り捨て新しい便箋に書き直そうとした。しかし、手を伸ばそうとしても体はいかんともせず……正直に言うと私は大いに葛藤していた。不毛な葛藤であったが、なんとも歯がゆい葛藤でもあったのだ。誰に話すでもないと言うのに、私は自分を欺くために、どうしたら瑞穂さんと友人でいられるかと思案しつつ、これを良しとしない私に妥協案を提案するのだ。

 結論をみることのない不毛な議論は平行線をただなぞり続け、俄にその終焉を感じさせなかった。

 だが、そこでついに、私は憤懣したのだ。どちらの私であるかはもはや言うまでもあるまい。

 詭弁など糞食らえだ!私は女性と仲良くなりたい、そして、一緒に歩き語らいそして手などをつないで一時を過ごしたいのだ。だたそれだけだ、その行く末は恋人をも欲しいと思うだろう、いや今欲しい、願うなら今すぐこの瞬間に欲しい。

 寂しい男と笑うがいい!情けない男と貶すがよい!

 それでも私は、この誠だけは曲げまいと実直に生きてきたのだ!多くをねじ曲げ正義は遠のいた。だが、これだけは、これだけはたとえ希望が見えずとも頑なに曲げまいと一本気をまかり通してきたのだ。

 私は誇らしげに胸を張るだろう。不動たる己が心中に錦の御旗を掲げるならば、例え眉を顰められようとも笑い者にされようとも!凛として進むだろう!

 私は万感胸にせまり、涙してしまった。なんと清々しい涙だろうか。男泣きなれど誰に見られなければ万事良いのだ。

 軟弱な私への咆哮が終わったところで、私は封筒に便箋を入れると、昼を前に郵便を出したのであった。

 これがいかような結果に転ぼうとも佳麗なる勝利であると信じたい。

 私よ私に栄光あれ!


      ◇


 梅雨明け間近となりまりて、ようやっと私の浴衣は完成を見そうです。お姉様の浴衣は早々と完成し、衣紋掛けに掛けられ部屋の中に優美な花火を咲かせております。お姉様は嘘つきです、縫い始める時などは「浴衣なんて簡単にできるわ」とおっしゃっていたと言うのに。これがどうしてなかなか難しく、今でこそ縫い針で指を突くことは少なくなりましたが、縫い始めの頃など仮縫いだと言うのに、私の両指には無数の絆創膏が捲かれてありました。

 和裁は初めでしたから、致し方ありません。

 それでも、えっちらおっちらと縫い続け一ヶ月近く経った本日。ようやく私の金魚も水を得ることができたのです!

 外は梅雨空とぱっとしませんでしたが、最後の本縫いをめでたく迎え、針を進めるほどに私の胸は高鳴り、今までの苦労の日々が走馬燈のように頭中を駆けめぐります。創作と言うものは相当の時間と努力、そして労力を伴いますが、それが報われる時!すなわち完成の暁には感無量の悦楽が待っているのです。

 私は針山に縫い針を立てると、嬉しくなって完成したてほやほやと湯気が立ち上っている浴衣を洋服の上から羽織り、姿見の前に立ってみたり、回ってみたりと、まるで新しいお洋服を買ってもらった女の子のようにはしゃぎました。いいえ、それ以上に感慨無量なのです。なにせ私が……全て私が手作業にてこしらえたのですから!

 折角、仕立て上がったのですから、お姉様やお母様に披露したくなりました。ですから、私は階段を一段とばして駆け下りると、お姉様とお母様がお茶をしていますでしょう、サロンへ向かいました。

 ドアのノブに手を掛けますと、「……そう、咲恵が……」とお姉様とお母様の声が漏れ聞こえてきます。はっきりとは聞き取れませんでしたが、私の名前が聞こえましたかぎり、どうやら私を話題にお話をしているの様子です。

 これまで箪笥の引き出しを入れ替えみたり、林檎の絵をところかまわず描いたり、カーテンを無理矢理引っ張り降ろしてドレスと言い張ってみたり……ろくでない悪戯をのみしてきた私が、婦女の嗜みと和裁に勤しんでいることを褒めているのでしょうか、と私は、盗み聞きこそ心苦しかったのですが、もしも褒められているならばこれほど喜ばしいことはありませんから、そっと聞き耳をたてたのです。

 何を隠しましょう、私は褒められて伸びる女の子なのですから。


『 

 

「今時珍しい硬派な殿方ですね。このような文をくださるなんて」

「そうかしら、私は少しばかり仰々しいと思いますけれど……」

「不器用なところなど、お父様そっくりよ」

「まあ、お母様はお父様のそのようなところに好いてらしたのですか」

「私が出会った頃は、純粋に硬派で阿呆な殿方だったわ。でも、まっすぐに私だけを見て下さっていたもの、本当に脇目もふらずに……それは婦女にとっては幸せではなくて?」

「そのようなのは……もう時代遅れですわ」

「あら、私がそのような男性に惹かれ惚れたと言うことは、瑞穂や咲恵の好みでもあると言うことでもあるのよ」

「……いいえっ。私はお母様と違って、多くの殿方と交流がございますもの、それに、もっと素敵な殿方を知っております」

「それはそれは……それで、あなたの見立ては?」

「まだ、数えるほどしか会っておりませんが、軟派の多い今時では呆れるくらい誠実な人です。そして、お父様と同じで脇目も振らずただ一人だけを愛することでしょうね。その手紙が何よりに証拠です」

「振られたのが気に入らないのかしら。言葉に刺がありますよ」

「お母様っ!」

「ふふふっ」

「…………妹のためとは、酷いことをしてしまいました」

「それは二人して謝らねばなりませんね。たとえ、咲恵のためとはいえども……」

「覚悟はできておりますわ」

「むぅ」

 私は静かになった部屋の外でドア越しに頬を膨らませました。どうしてこのドアはこんなにも分厚いのでしょうかと駄々も捏ねました。

 風に揺れる窓ガラスの音と雨の音で結局、何をお話になっていたのか盗み聞くことは叶わなかったのです。どうして今頃、夕立のように雨脚が強くなるのでしょうか。

 私はしっかりと空を睨みました。けれど、私の睨みだけでは力不足ですので、雨脚は弱くなるどころか一層強くなっていくようでした。


「ふぅ」


 梅雨の前に私は非力なのです。ですから今度は小さく溜息をつきました。そして、私はドアを開けてサロンの中に入ったのでした。


「見て下さい。やっと浴衣が縫い上がったのです」


 私は縁日にはしゃぐ子どものように、お母様とお姉様の前でくるりくるりと回って見せたり、意味もなくお母様に抱きついてみたりしました。


「あらあら、そんなにはしゃぐと、せっかくの浴衣が破れてしまいますよ」


「はしたないわよ咲恵」


 本日はお母様はご機嫌がよろしい様子でしたが、お姉様はご機嫌斜めのようです。

 ニヒル婦女と紅茶の注がれた紅茶茶碗を口もとへ運びながら、あっさりとそうい言いますので、


「私は嬉しいのです」と今度はお姉様に抱きつきました。


「咲恵は和裁の才能があるのかもしれないわね」


 すると、いつもの微笑みで私にそう声をかけて下さったのです。


「破けてしまっては大変だから」  


「はい」


 私は浴衣を脱ぐと、洋服と同じ要領で折り畳み膝の上に置きました。やはり、和服と洋服とでは少々手前が違いますから、分厚くなってしまいました。


「咲恵。一度、下宿先へ行ってみましょうか」


 お母様は唐突にそうおっしゃいます。

 えっ、と私は思わず注いでいた紅茶をこぼしてしまいそうになりました。


「ですが……」


「もちろん心細いでしょうから、しばらくは、瑞穂と私が同居することにします。あなたも大學がありますから、いつまでもこちらに居るわけにもいかないでしょう?梅雨が開けるまでは、こちらにいて、梅雨が明けたなら三人で一度行ってみましょう」


「お母様が居て下されば、鬼に金棒です」


 私は安心しました。もしや、家に帰ったその時、家の中に不審者が居たなれば私はどうすることもできず、悲鳴さえも上げられずにその場に腰を抜かしてしまうことでしょう。ですが、お姉様も居て下さり、まして合気道有段者であるお母様が居て下されば心強いこと折り紙付きなのです。


「まあ、鬼だなんて。親に対して鬼なんて言う娘に育てた覚えはありませんよ」


 そう言うとお母様は着物の袖を額にあて、涙を拭う仕草をしました。


「私はそのようなつもりで言ったのではありません。私はお母様のことは大好きですし、鬼などと思ってことはだたの一度もございませんもの」 


 私は慌ててお母様の元へ駆けるとそう言いながら、お母様の手を取りました。

 知っていますとお母様は言いました。


「少し眼を離した隙にこんなに大きくなってしまって。お母さんは少し寂しいです」


 そう言うとお母様は私を抱き寄せて額を擦りつけるのでした。


      ◇


 我が錦の御旗をはためかせ、林檎の乙女に手紙を出してから、数えて一週間と少し。私はほぼ流々荘からでることなく、蒸し暑さといつまで経っても灰色の空にげんなりし、どこかのスピーカーでも壊れたのではなかろうかと、明けても暮れても耳に触る雨音にまるで気力を奪われほとんどを畳みの上にて過ごした。

 気分は常に色褪せた写真のようである。あの手紙以来、瑞穂さんからの手紙もなく、まして黒髪の乙女からの手紙も来なかった。再び寂しくなった私の郵便受けは今頃、雨宿りと集まった蜘蛛の巣窟となり果てていることだろう。

 かくして私はまた寂しい男の国へ帰化したのであった。

 ただ、希望がまったくないと言えば、あるのだった。首の皮一枚になんら変化こそ得ることは難しいだろうが、繋がってさえいればいずれ修復が叶う日も来るかもしれない。

 私は二週間目の朝、快晴となった青空に私は思わず外へ駆け出し、途端に軟弱な白い肌を小麦色に焼くであろう太陽光を全身に浴びた。

 病魔に襲われると、治癒する間に気弱になる。三日も寝込めば、永遠とこの病から抜け出せぬのではなかろうか、私はこのまま土へ還って行くのだろうかと、とかく気弱になるものである。

 私は一ヶ月以上も続きかつ、不躾にも勝手気ままに延長をし腐った梅雨前線によって、梅雨から季節は抜け出すのだろうか。四季がこのまま巡ることなくずっと蒸し暑く雨ばかりの日が続くのでは……しいては、このまま黒髪の乙女とも何一つ先に進めぬではないかと思わぬ思考の飛び火をする始末であった。

 ゆえに、快晴となった今日、『これは梅雨明けぞ!』と私はギラギラとほくそ笑む太陽を見上げて「久しぶりではないか」旧友に相見えたように呟いたのであった。

 そして、再び階段を駆け上がると、食い物はないかと炊事場へ向かい食いかけの鯛焼きを見つけると、迷わずカワセミのごとく掠め取り空腹に押し込みながら部屋へ戻ったのである。

 思い込みだが、天気晴朗が持ってきた本日こそ、黒髪の乙女にことの仔細を説明せねばならない。私は過去に瑞穂さんからの手紙と共に郵便受けに入っていた封書を手に取ると、「いざ行かん!」

 太陽に負けぬ気概で外へ躍り出たのであった。  

 私は切手貼り忘れられた封書を手に咲恵さんの下宿先へ向かった。

 貼り忘れたのは誰でもない私である。弁解へと血気逸って文面にのみ勘案と力を注いで、肝心な切手を貼り忘れてしまったのである。

 気力の弱りきった私は、すでに皮一枚とて千切れてしまっているかもしれぬと、杞憂と天井を見上げていたのだが、最後の足掻きとしてせめてこの手紙を読んでもらおうと思ったのである。

 このまま美談で終わらせるや良し。だが、私は天の下に正直でありたいと願う聖人志望であるからして、このままに終わらせるわけにもいかない。本当のところは瑞穂さんとの文通にて買い置いた切手を全て使い果たしてしまっただけであった。蓋を開ければまことに情けない話しであるが、内職も納品していない限りはオケラの無一文である私は、切手を買いに行くことは考えず、咲恵さんの郵便受けに直接届けることにしたのである。

 あわよくば咲恵さんと会って、仔細の弁解を心みたいところだが、物事はそうそううまく好転することはまかり通るまい。


「これはこれは、お花はどうですか」


 竜田橋上で聞き覚えのある声が聞こえた。見れば、いつぞやの花売りの男ではないか、前回同様に笠で口もとしか見せていない。


「この前の桔梗は喜ばれたでしょう。季節の花ですからな。どうです桔梗なら半値にしときますよ」


 花売りは、そう言うと口もとを緩ませて私に桔梗の花を一本差し出した。


「生憎だが、あの桔梗は最悪だった」


 私はそれだけ言うと呼び止める男を無視して歩みを進めた。

 善意の疫病神。あの桔梗を買わねば、私がつきまといなどと変質者と勘違いされず、ついては今日に至るまで疫病に感染したかのように煩悶と生きねばならないこともなかったのである。もしや、桔梗は口実にと買ったような気もするが……疑わしきは罰せず、やはりあの桔梗が、ひいてはあの花売りが根源なのである。

 私はバス停から入る道の真反対側から乙女の下宿先へと向かっていた。この世に神も仏もいると言うのならば、一目でも乙女の向日葵のような笑顔を見たい。

 数十分にして、汗ばむ陽気に飽きてきた私は、照り付ける日差しに発狂しそうであると、夜な夜な彷徨う霊魂のようにだらだらと歩いていた。

 夕方前だと言うのに逃げ水が私を嘲笑っていた。

 光の屈折風情が私を嘲笑うなど笑止!私は逃げ水を踏んづけてやろうと、乙女の下宿先への途中で奮闘していた。そして、ついに捉えたのである。ざまあ見ろ!と渾身の力で踏みつけたそれは、はたして逃げ水ではなく本物の水溜まりであった……瞬く間に私の革靴は色を濃くし、大袈裟に飛び跳ねた泥水が大層ズボンの裾を汚した。

 頭を冷やした……いや足が冷えたわけだが……とにかく、冷静になった私はこんな阿呆なことは咲恵さんにお許しを頂いてからにしようと、再び逃げ水を苦々しく見ながら歩き始めた。

 すると、丁度、咲恵さんの下宿先近くに、こちらに向けて歩いて来る三つの影を見たのである。三者共に女性であり和服の婦女を中央に、その左右を洋服の乙女が並んで歩いていた。

 そして、左右の乙女は私にとって嬉しくもあり、なんとも波乱の予感を漂わせる顔ぶれだったのだ。

 右に側には我が意中の君である咲恵さん。そして左側には瀟洒な美艶たる瑞穂さんだったのである。

 私は思わず逃げようかそれとも、隠れようかと密かに狼狽していたのだが、三者はとても仲が良く、気さく過ぎるほどに話しをしながら微笑んでいる。中央の和服の女性といい黒髪の乙女といい、林檎の乙女とて、 芙蓉の眥は同じく小さくともぷっくりとした唇とてうり二つなのである。

 私は眼を閉じて首を捻った。もう少しで首が折れてしまいそうなほど捻った。それでも私の首が折れなかったのは、

「もしっ、勝太郎さんではありませんか?」と黒髪の乙女が私を見つけ声を掛けてくれたからであった。


      ◇


 昨年よりも、二週間近く梅雨は長く、一向明ける気配がございませんでした。下宿先へ戻る都合が決まったと言うのに、この曇空ではどこか喜ぶに喜べません。

 風邪をひいてより数日の時をベットの上で過ごしますと、もうずっとこのままなのではないでしょうかと気力が随分と弱まってしまいます。私は元気でしたが、元気であるにもかかわらず、外を縦横無尽と闊歩できないのは病床にて臥すに同じ心境となるのです。

 下宿先より持って来た、海底二万里もすでに読み終えてしまいました。刺繍や浴衣に精を出したり、お姉様所蔵の教本を読んでみたりと、なんとか読破してしまわないようにと、大切に読んでおりましたから、今はどこか寂しいようなそれでも、物語の顛末を知り得た興奮も相俟ってしどろもどろなのです。

 いいえ、物語はとても面白く次のページを捲る度にわくわくしたものです。折角読み終えたと言うのに、この本を推薦して下さった勝太郎さんに感想の一つも御手紙にてお知らせできないのが残念なのでしょう。

 また、喫茶などの折、この興奮とアトランティスについてお話をしたいと思ってしまいます。すると、私の顔は焼けぼっくりのように熱く熱を帯びるのでした。

 この雨はもしかしてやむことはないのかもしれません……蛙やでんでん虫は大喜びかもしれませんけれど……

 そんな風に窓の外を見つめていた私でしたから、翌日の朝、差し込む陽の光で眼を覚ました時はカーテンを思い切り開いて青空を見上げると、「梅雨明けです!」と食卓に座するお姉様とお母様に大きな声で言ってしまいました。

 「あらあら」と言って微笑むお姉様と対照的に「寝間着ではしたない。早く着替えておいでなさい」とお母様は眉間に皺を三本つくってそう言いました。 

 私は「着替えてきます」と再び部屋へ戻ると、ぎらぎらと輝くお日様を見上げて「お久しぶりです」と呟いたのでした。

 朝食を足早に済ませた私は部屋に帰ると、散らかしていた荷物をリュックサックに詰め込んで軽く部屋のお掃除をしました。

 そして、お姉様の部屋へお邪魔をして私がこしらえた浴衣を風呂敷に包んで自室へ持ち帰りました。

 私の帰り支度は終わってしまいました。朝食の際、お母様は「お昼を済ませてからね」とおっしゃっておられましたから、食後のお茶を急かしたとしても、出立はお昼過ぎになってしまいます。

 ベットに寝転んで何度も寝返りを打って、水泳のごとく手足をばたばたとさせてみたり、午前中は何をするでもなくただ、逸る気持ちに従順に時間を潰しました。そんな私がやっと睡魔の子守歌にうつらうつらとし始めた時分に、お姉様が「昼餉の時間よ」とわざわざ呼びに来て下さいました。

 私が顔を洗ってから食卓へ向かいますとすでにお姉様とお母様が着席されておられましたので、私は「お待たせしました」とお母様の顔色を窺いながら言います。

 特にお母様には下宿先へ同行してもらわねばなりませんから、ご機嫌を損ねるようなことがあってはいけません。すでに、怒らせてしまっていたならばどうしましょうと、お姉様にご機嫌伺いをしますに、逸る私の気持ちをご理解くださるお姉様は苦笑を浮かべ、軽く頷くのでした。


「お母様。本日も午後のお茶をするのですか?」 


「当たり前です」


「そうですか……」


「どうしてそのようなことを聞くのです?」


「いえ、それは……」


 私は言葉に詰まってしまいます。何せ私のわがままをまかり通して「早く出立しましょう」とは口が裂けても言い出せませんでしたから……


「咲恵は早く出立したくて仕方ないのよね」


 俯いてしまった私の代わりにお姉様がお母様にそうおっしゃって下さいました。私は、はっと顔を上げてお姉様に感謝の意味を込めた笑みを注ぎました。さすがは私のお姉様です、言わずもがな以心伝心と私の心中を汲み取って下さったのですから!


「そんなに急がなくても、下宿先は逃げたりしませんよ。淑女たるもの余裕がなくてどうしますか」 


 お姉様の言葉を聞いて、お母様は笑顔を浮かべる私に向き直って、呆れるようにそう言うと、お水を一口飲みます。

 ばつの悪い顔をするお姉様。怒られてしまったではないですか!と私は頬をぷっくり膨らませてそれをお姉様に向けました。

 まるで余計なことをなんでするのですか!と言わんばかりですが、それは私のわがままです、ですから代弁してくださったお姉様には感謝こそすれ、八つ当たりなど筋違いもいいところです。ですから、頬を膨らませ私は差詰め駄々っ子が拗ねてしまった様子でしょう。

 私はしばらく頬を膨らませておりましたが、午後のお茶の段となる頃にはすっかり機嫌を直しました。

 そうなのです。何ごとも良い方向にかつ前向きに考えなければいけません。ここ二週間と家に籠もりきりで、大學へも行けずにうじうじとしていました。下宿先に帰りたくても帰れないそんな煩悶とジレンマの日々です。私は二週間も我慢しました。ですから後、数時を我慢することなど、もはや我慢の内にも入らないではありませんか!

 後、数時間さえ我慢すれば、明日からは大學へ行けます。そうすれば、小春日さんや倶楽部の方々ともお会いできますし、下宿先にはお母様とお姉様が居て下さるのです。まさに、待ちに待った日々ではありません!

 それに忘れてはいけません。イの一番に私は万年筆を手に便箋に向かうことでしょう。もちろん御手紙を差し上げるのは勝太郎さん以外の誰でもありません。そこまで考えた私は、団栗眼で両手を頬にあてて、いやいやと首を左右に振りました。

 もしも……もしも……郵便受けが勝太郎さんからの御手紙で膨れあがっていたらどうしましょうと、夢のような想像をしてしまったからです。


「どうしたの咲恵?歯でもいたいの?」 

 お姉様がそう心配して声を掛けて下さいましたが、


「いえ、歯は痛くありません。毎晩寝る前に磨いておりますから」と私は一生懸命

はぐらかしました。

 さてもさても、そのようなことはありませんでしょう、と冷静に落ち着いた私は、内心をやきもきさせながらその時を待ち侘びておりました。

 お客様が来たらどうしましょうと気を揉む私を涼しい顔でお母様が「そろそろ、出掛けましょうか」お母様はソファーに根をおろしたお尻を上げて、ようやく出立の準備に取り掛かりました。

 私はお母様の鶴の一声をお聞きしてから、一番槍にて自室へ戻るとすでに荷造りを終えたリュックサックを担いで玄関まで駆けたのです。

 次ぎにお姉様がボストンバッグを抱えていらっしゃいました。


「お母様のことだもの、昨日のうちに用意しておいたの」


 とおっしゃったお姉様。さすがは私のお姉様なのです。


「あらあら、いつになく用意が早いのね」


 最後に少し驚かれたお母様が風呂敷を携えて来られました。


「お車があればいいですのにね」  


「お父様に、もう一台お願いしましょうかしらね」


「バスがあります。早く行きましょう」


「まあまあ、咲恵ったら」


 実家には自動車が一台ありましたが、お仕事へまたはお付き合いパーティーへと毎日のように、お出掛けになるお父様がお使いになります。ですから、あってないのが自動車なのでした。

 ですけれど、私はバスや徒歩の方が多いですから、別段自動車がなくても一向に困らないのです。

 バスを乗り継ぎ、汽車を揺られてようやく最寄りの駅へ到着致しました。

 蚊柱は出ているでしょうかと、竜田橋を通るのを楽しみにしていたのですが駅を出たところで「タクシーに乗りましょう」とお母様が言いましたので、竜田橋を通ることはできなくなってしまいました。

 昨日まで連日の雨に道は所々泥濘、大きな水溜まりが出来ており、バスよりも大変よく揺れました。言うなれば、三条通を闊歩した夜に乗ったタクシーの趣でした。

 もよりのバス停で降りた私とお姉様は顔色の悪くなってしまったお母様を気遣い、お母様の左右に別れて歩くことにしました。


「お母様大丈夫ですか?」


「ありがとう、大丈夫よ。外の空気を吸えば楽になったもの」


「乗り物酔いをなさるなら、タクシーはやめておけばよろしかったですのに」


お姉様が背中をさすりながらそう言います。


「咲恵が少しでも早く帰りたいだろうと思ったのよ」


「お母様……」


 私は、感謝の気持ちを込めてお母様の腕に腕を絡めました。


「二人ともありがとう。もう大丈夫だから」


 お母様とこのように歩くのは一年ぶりでしょうか。私は幼少を懐かしんで、お母様の肩に髪を触れさせて寄り添いました。

 「咲恵、歩きにくいわ」そうお母様はおっしゃいましたが「今日の私は甘えん坊なのです」私がそっと微笑みかけると「あらあら」お母様は目尻を下げて笑っていました。

 下宿先近くになると、水溜まりに片足を突っ込んでいる人が見えました。その人は項垂れてから、私たちの方を向くと一度眼をひんむいて、今度は眼を閉じて首を傾げたのです。

 それこそ折れそうなほど傾げるものですから、私は思わず、このままでは首が折れてしまいます。と思い、

「もしっ、勝太郎さんではありませんか?」と呼びかけたのでした。


      ◇


 私は、思いも寄らぬ非常事態に実に借りて来た猫であった。面の皮が分厚いぬらりひょんあたりにでも弟子入りしておけばよかったと座り心地の良いソファーに腰掛けた私は、林檎の乙女を対面に目玉だけを動かして、桜花の園の中を窺っていたのである。

 誠に申し訳ないことである。私の汚らしい男汁の染みこんだズボンにてこのソファーは必ずもれなく汚れることだろう。


「お紅茶でよろしかったでしょうか」


「いえ、お構いなく。紅茶でも緑茶でも水でも私は結構です」


 私の目前には湯気を讃え、鮮やかで澄んだ紅褐色の紅茶が注がれたティーカップが置かれていた。

 もちろんこれは瑞穂さんが直々にその御手にて淹れて下さった紅茶であることは言うまでもあるまい。

 真理と言うものは往々にして飛躍を伴うものである。であるが、私は高級であろうソファーに腰掛けてなお、五重塔から一気に若草山山頂へ飛び移ったかのような飛躍を現実のものとして受け止められずにいた。

 黒髪の乙女一向と出会した私は思わず逃げ出してしまいそうな衝動をやっとこさ抑え、好青年に見えるかも知れないと深々頭を下げた。

 すると、瑞穂さんが「咲恵、この方をご存じなの?」と言い「私たちにも紹介なさい」と和服の女性が言った。

「こちらは、筒串 勝太郎さんとおっしゃって……その、大學のご学友……です」

 少し困った表情を浮かべてそう言う乙女であった。

 きっと、ラケットの件は言い出せない……もとい言ってなかったのだろう。

「あら、咲恵ったら、知らないうちに殿方と仲良くなっていたのね」

 白々しくも瑞穂さんがそう言うと「からかわないで下さい。勝太郎さんが迷惑です」

 頬を膨らませて瑞穂さんに詰め寄る乙女。そんな微笑ましい乙女の同士のじゃれ合いに愛想笑いの一つも浮かべたいところだったが、狙うかのような和服の女性の視線に私は瞬き一つままならない有り様であった。

 だが、その狩人眼と私を見据えていた和服の女性がこともあろうに、私を桜花の園へ招待したのである。

 私は思わず「へ」とまことに「へ」と呆れるほど間抜けな声を漏らしてしまった。

 この私が、神聖にして聖域たる黒髪の乙女の下宿の中に足を踏み入れることになろうとは……無論、私は断った。一度だけ断った、社交辞令であっとするならば糠喜びに小躍りした阿呆漢にして私は非常識者の他になく、咲恵さんがいる手前、うまく立ち回らねばさらに軽蔑された上に墓穴を掘って二度と這い上がれなくなってしまう。

 危惧しつつ、慎重にかつ冷静に、できるだけ平静を装いながら、言葉に詰まっていると「さあさぁ、早くおいでなさいましな」   

 と瑞穂さんが私の元へ歩み寄り、片目を閉じて見せたのだった。

 そして、半ば強引に家の中へ迎えられた私は既視感のある玄関を通り、これまた見たことのある絨毯を経て居間へと通された。

 歩けば沈む絨毯の敷かれた居間はドアを開けると、間に机を挟み対面に置かれた大きなソファー。その横には、イーゼルがあり林檎を手前に置いてカンバスには桃のようなデッサンがされてあった。

 続きの台所だろう部屋は蛇腹で半分程が遮られてある。

「お掃除もしておりませんのに恥ずかしいです」と廊下から咲恵さんの声が聞こえたが、「あら、あなたの部屋より、綺麗だと思うわ」これは瑞穂さんの声である。

 辺りを見回していた私は台所から帰って来た和服の女性に訝しまれないと視線を正面に固定した。

 女性は物腰柔らかく、美しくソファーに腰を降ろすと、外では決して見せなかった優しい表情をつくり。


「八重と申します」 と短く言うと軽くお辞儀をした。


「筒串 勝太郎と申します」


 私もオウム返しにお辞儀をする。

 そんな様を見て八重さんは笑いを堪えている様子であった。何が面白可笑しいのだろうか……もしや、先程水溜まりに足を突っ込んだ際に顔に泥でも跳ねたのだろうか。


「お二人と目元がそっくりなのですね」


 私は意を決してもの申した。これはいち早く確認しておきたいのだ。


「あら、お気づきになられましたか。私はそのように似ているとは思っておりませんのよ」


 あの子たちは私の娘ですわ。と八重さんは口許に手を添えて上品に笑った。 


「それでは……」 


「ええ、あの子は咲恵の姉です」


 私は大凡予感していた言葉に思わず目元を引きつらせておまけに痙攣させていた。予感していたからと言って傷つく精神が緩和されるわけではない。


「私も久々に若い殿方と文を交わして、学生の時分を思い出しましたわ」


 その笑顔は瑞穂さんの笑顔であり、ひいては黒髪の乙女の笑顔そっくりであった。目元にできた笑い皺とて、どうして佳麗ではないか。不思議である。


「瑞穂が喫茶店の前で殿方と一緒に歩く咲恵を見かけたと言うので。少しばかり……ねっ」


 硬直する私をよそに、八重さんはますます楽しそうにそう話した。

 私の心八重さん知らずであろう……

 そして、語尾には忘れずの意味深な笑いである。それ以上は語らないが、何が言いたかったのだろう。もしや私は手の平の上で踊らされながら、かつ、不埒な振る舞いをみせるや、即座に手の平を返される運命にあったのでなかろうか……

 あな恐ろしや……女性はやることが陰険でありどこまでも手が込んでいる。それに聞けば、瑞穂さんは先週婚約したばかりだと言う、恐れ多くも天下の人妻となろう娘を囮につかうなど、危うく私は不埒者の烙印を押されたあげく、背徳と言う奈落の底に落とされようとしていたのか……あな恐ろしや……あな恐ろしや……


「咲恵ったら、恥ずかしがって廊下で縮こまって動きませんわ」 


 身の毛も弥立つ百物語を早口で聞かされた面持ちで鳩が豆鉄砲をくらわされた口許でいると。

 そう言いながら、瑞穂さんが入って来た。


「仕様のない子ね。内弁慶なのだから……瑞穂、私は咲恵と御夕飯の買い物に行ってきます」 


「わかりました」 


 そうして、瑞穂さんと八重さんは替わりばんことソファーから立ちあるいは腰を降ろしたのだった。


      ◇


 私は茶褐色の水面を水面に視線を落としてこの間をどうしたものかと、やきもきしていた。はたして瑞穂さんは咲恵さんの姉であり姉妹であったのだ。そして、八重さんの物言いからするに、口が悪いが瑞穂さんは私にとってしてみれば、とんだくわせ者であったわけだが……この場合、私は目前に佇む瑞穂さんに怒髪天ばりに激昂するべきなのだろうか。

 結果からすれ、私は弄ばれていたわけである。詐欺と言い切ってよいほどに乙女の親族によって弄ばれたわけなのだ……

 だが、ここまで華麗にかつ華麗に弄ばれてしまっては種明かしの後、もはやぐうの音も出ない。それに私の中にあったのは憤怒や憎しみと言った負の感情ではなく、ただ、安堵感一辺倒だったのである。

 もしも、八重さんの手紙に対して下心のみ煎じて筆を走らせていたのであれば、今頃…………そう考えると、深層深海から沸々と無限の安堵が湧き上がって来るのであった。


「咲恵も居ませんし、存分に憤慨してください」


 瑞穂さんは真剣な眼差しを私に向けてそう言い切った。


「どうして私が瑞穂さんに憤慨しなければいけないのですか?」


「私と母は人として勝太郎さんに酷い仕打ちをしましたもの、頬を平手で打たれたとて、私は誰にも申しませんわ」


 婦女の頬を平手で打つなど、そもそも、女性に手をあげるなどと男子の風上にも置けない唾棄すべきであろう。たとえ、それが他人の目に触れる恐れがないこの密室において、私の体裁が保証されるしても、私は腕を動かすことすらない。

 確かに、瑞穂さんには喫茶にて、八重さんに手紙にて翻弄され煩悶と無用な葛藤をしいられたわけだが、今となってしてみれば丁度よかったのやもしれないと想えるのである。咲恵さんと文通を重ねられないことに絶望の片鱗を日々と垣間見た私のささくれだった心中を癒さないながらも絶望の暇を奪いさり、美しい二人の乙女に大岡裂きされると言う、男子垂涎の夢も一時ながらみることもできた。

 実際には手紙の返事を一度間違えば、私の渡る石橋は脆くも奈落のそこへ崩壊していたわけだが、苦あれば幸あり。雨降って地固まると瑞穂さんや八重さんとも相見えることもできたわけである。終わりよければ全てよろしいではないか。

 男子たるが婦女のお茶目な悪戯を海容と受け止め許すことができずしてどうしますか!

 普段は前向きに思考することの稀な私であったが、今回は最大の前傾姿勢にてこれを飲み込むことに決めた。 

 私は瑞穂さんや八重さんに対して怒りの矛先を向けたくなかった。良い方向へ考えさえすれば、万事、怒ることも憤懣することも皆目見当する必要すらないのだろう。

 何より、私の心中に怒りが霞ほども見当たらぬのだから、やはり、激昂する必要はない。


「なんと言えば良いか……言葉が見当たらないのが身こそばゆいのですが。とにかく私の心中が水を打ったように静かでありまして……その……つまり、何一つ怒っていないのです」


 ただ、端的に『怒っていません』と言ったら、はたして瑞穂さんは信じてくれただろうか……私は本当に憤ってはいない。だが、それを伝える明瞭たる文言も台詞も持ち合わせていなかったのである。

 もしも、私が瑞穂さんの立場であったなれば『怒っていません』と言われれば、疑うことなく『腑を煮え繰り返しております』と受け取るだろう。案の定、その後も瑞穂さんと私の間で大凡、最果てまで平行線を辿る言葉の掛け合いが続いた…………

 その言い合いに終止符が打たれたのは「ご用件がその旨でしたら、私の意思は何度もおつたえしましたので、失礼させていただきます」と私が飲み頃の紅茶を一気飲みをしてからであった。


「本当に申し訳ありませんでした。その寛大なお気持ち、私は何よりも嬉しいです」とすでに何度も拝見した綺麗なお辞儀をした瑞穂さんはそう言うと、おかわりを持って参りますと、台所へ立ったのであった。


「お茶菓子もお出ししないで、私ったら」 


 瑞穂さんは、そう言いながらお湯を注いだポットを机の上に置くと、再び台所へ戻って行く。少しの間、水屋や冷蔵庫の中を探していたが、


「すみません。妹の下宿先ですから、私には勝手がわかりません」と諦めた表情で申し訳なさそうに言い直してソファーの上に腰を降ろした。

 そして、机の上に一枚の便箋を置いたのであった。


「これは……」


 その便箋もその便箋に書かれてある文言の私にとっては懐かしくも、鮮明に記憶にある物であった。

 眉を寄せる私の表情を見つめながら、瑞穂さんはなぜか微笑んだ。そして、


「私のご学友のお話なのですけれど、この告発文のお陰で不埒で粗忽者と一緒にならずにすんだのですよ」と唐突に話し始めたのである。


「はい……えっと」


 私は言葉に詰まった。窒息しそうなほどに詰まった。混乱していたと言って正しいだろう。


「図書館のとある図書の間に挟んでありましたのよ。私がお父様にお願いして、色々と叩いて頂きましたら、埃やら塵やらが出るわ出るわ。それはもう肺を病んでしまうほどでした」


「それは、ご学友が救われたと言うことですね?」


 私は半信半疑ながら、そう問い掛けた。当たり前であろう……これは私が忌まわしき松永先輩の醜態を暴露すべくもてる財力を放出し、さらに借金をしてまで印刷屋に頼んで作った告発ビラだったのである。

 猫は死んでから四十年後に舌を出してちゃっかり主人をかみ殺すと言うが、これいかに……てっきり、松永一派によって私の仕掛けた芽は綺麗サッパリ刈り取られていたと思ったが、幾星霜と図書の中に潜みて今頃になって花を咲かせようとは……


「はい。近日中に三行半を送りつける算段ですのよ」


 瑞穂さんは天使のような笑みを浮かべてそう言うと、ほんのりと頬に朱をのせた。


「ですから、この告発文をおつくりになられた方に是非とも御礼を申し上げたいのですけれど、勝太郎さんはどなたかご存じありませんか?」


「さて、心当たりはありませんね。今時、稀にみる正義漢です」


 私は自画自賛した。誰がどう言おうと私は自画自賛したのである。私が仕込んだ物であると、口に出してもよかった。現実に私が資財を投げ打ってつくったものなのだから、だがしかし、声に出してしまうと品がない。

 ゆえに、私は知らぬ存ぜぬを決め込むことにしたのであった。

 あら、と開いた口もとを手で隠し、

「古平さんとおっしゃる方にお聞きしましたら、その正義漢の方を勝太郎さんがよくご存じだとおっしゃっておられましたけれど?」と瑞穂さんは確信の笑みを浮かべて、そう続け、そして、恥じらうように口もとをすぼめたのである。

 その仕草はまるで、咲恵さんを見ているようであった。髪型が同じであれば、胸元がもっと小山であったならば……私は再び忽ち虜となっていたことだろう。


「古平は生粋の嘘つきです。私はそんな義賊を知りませんよ」


 私はこれまた嘘をついた。仮面を被った義賊は決してその素顔を見せたりしないのだ。己が善行をひけらかしたようでは、ただの高慢ちきでしかないのである!

瑞穂さんは一貫した私の言葉に、少し驚いた表情をして見せたが、諦めたように目尻を下げると、

「私は、是非とも御礼申し上げたいのです。何せ、ここ数ヶ月の憂鬱を春一番のように綺麗に拭い去って下さったのですから……これで人生にも光明が差したと言っても過言ではありません、ですから……」


 そう言うと瑞穂さんは下げた目尻を再び上げ、私に何かを願うように胸元で指を絡ませのであった。

 その意図はなんとなく、以心伝心の界隈であったものの……私はそれ以上に狼狽していた。

 瑞穂さんの言葉の真意を探るに、私はかの晩冬の婚約の席で、すでに瑞穂さんを見ていたことになるではないか。麗人と称するに値する彫刻は私の前に立ち据えている瑞穂さんだったのである。縁は異なもの、合縁奇縁と言うがこれまさに……そう言った意味で私は戦慄していたわけである。


「瑞穂さん……」


「はい」


 瑞穂さんはついに、私に向けて一歩踏み出した、現実には机があるため、横に一歩移動しただけなのだが……

 もしもっ、私は舌を噛みそうになった。


「もしも、私がその義賊であるならば、この折を好機と瑞穂さんの純情を盗んでいるかもしれません。残念ながら私はそのような自分に素直な男なのです。ですが……再三再四申しますが、私はそのような義賊ではありません」


 そうですか、そう瑞穂さんは力無く言うと、 


「それは残念です。二人きりでしたら、口づけなど、私の純情を差し上げても良いと思っておりましたのに……」そう続けて、ソファーに腰を降ろしたのであった。 


 瑞穂さんには私がいかように写っただろうか……鼻の下を伸ばした類人猿に見えていないだろうか……もちろん私には自信などは皆無であった。

 顔じゅうが火照りまるで、焼けた豆炭を押し当てているようである。そして、うら若き華麗な瑞穂さんの胸元に思いを馳せて私の貧弱な胸は鼓動を激しくもはや高揚を抑えられるところではない。

 「私はこれにて失礼いたします。咲恵さんと母上様にはよろしくお伝え下さい」ろれつに自信を失いながら私は早口にやっとそう言うと、急いでお辞儀をして間髪入れず、玄関へと脱兎した。まことに情けないことに、私は逃げ出したのである。

 悲しいことに私は今までの生涯を残渣を舐めるようにして振り返ってみたところで、瑞穂さんのような美しい乙女と密室にて完全なる二人きりとなったことが無かった。誠に悲しくも恥ずかしい話しでもあろう。

 ゆえに、私は瑞穂さんに対しても、高揚し続ける私の胸中に対してもどうのように対処して良いのやら、皆目検討がつかなかったのだ。

 紅茶を飲みながらの世間話などであれば、咲恵さんと八重さんの帰りを待つまで間を持たせることなど造作もあるまい。しかし、『口づけを差し上げても良い』と言われて、冷静の体を保っていられるはずがない……

 だから、私は逃げ出したのである。


「お待ちになって」


 つかさず瑞穂さんは廊下まで私を追って飛び出し、靴を両手にドアに手を掛けた私を呼び止めたが「美味しい紅茶をごちそうさまでした」と私は外へ躍り出たのであった。

 もどかしいことこの上ない。あの笑顔は必殺必中の武器である、かのロンギヌスの槍よりもよほど恐ろしい。

 喜々に傾かずかと言って哀愁に傾くこともない。優しさと真善美に裏打ちされた真心以外の心持ちを私は感じてしまった。それは、人が恋心や好意の眼差しと称する誠にやっかいな部類であろう。

 私が男子であるかぎりは、必ずやこれは勘違いであって都合の良い解釈でしかないことは明白である。しかし、しかし、私自身が意図せずとも勘違いの深淵にはまってしまったかぎり、はたして、冷静と真理に立ち戻ることなど不可能であり、後ろから咲恵さんにバケツ一杯に詰まった氷を投げつけでもしてもらわなければ、祭り騒ぎの心中に静寂を取り戻すことはできないだろう。

 真理とは冷や水と静寂の中にこそ生まれるのである。

 

      ◇


 お姉様もお母様も、何をお考えになられているのでしょうか。婦女たるもの慎みを以て身を修めねばなりません。ですから、お知り合いとなって間もない勝太郎さんを家にあげるなど……取り分け、お母様は堅実な女性です。ですのに、そのお母様がどうして、ああも易々と勝太郎さんをあげてしまったのでしょうか……私は腑に落ちません。

 それよりも何よりも、お姉様もお母様も酷いのです。私はここ数週間と実家で生活をしておりました。ですから、こちらの家には居なかったのです。居なかったのですから、お掃除もしていなければ、お茶菓子とて買い置いてありません。

 それなにの……それなのに、勝太郎さんを導き入れてしまうなんて!あちこちに積もった埃などを見て、勝太郎さんが私のことを掃除すらもしないできない、そんなふしだらな女子と思われてしまったらどうしましょう。そもそも、どう責任をとって下さると言うのですか!

 私は頬を膨らましながら廊下でぷりぷりしておりました。すると「もう咲恵は本当に恥ずかしがりやさんね」とお姉様が楽しそうにおっしゃりましたので「私は今日初めて、お姉様とお母様を嫌いになるかもしれません」と呟きました。

 その後、お姉様は「咲恵ったら、恥ずかしがって廊下で縮こまって動きませんわ」と言いなが居間へ入って行ってしまいました。

 恥ずかしいわけではありません……恥ずかしいわけでは……私は独り言のように呟きながら壁に背を預け天井を見上げました。

 鹿の顔のように見えなくもない模様が、私を見下ろしているようで不気味でした。はて、あのような模様はあったのでしょうか。と首を傾げていると、「咲恵、お客様の前に出ないのなら、夕餉の買い物についておいでなさい」お母様が部屋から姿らをあらわし、仏頂面の私にそう言ったのでした。

 夕食のお買い物に出かけた私とお母様はバス停の方へ向かって歩いておりました。


「咲恵、あの方とはどういうお知り合いなの」


眼を細めて、そう聞いたお母様は少々怒っている様子です。どうして私が怒られるのかはわかりませんでした。むしろ、言い迫りたいのは私の方です。ですが、そのようなことは出来ませんから、


「私の大切な物を探し出していただいたのです」とお答えしました。


「あなたの大切なもの?」 


 お母様は思わず足を止めます。私は今頃になって、どうして「ただのご學友です」と言わなかったのだろうと後悔しました……厄介なことに後悔とは先だってできないものなのです。


「お母様がお考えになられているような事ではありません……」


 私は慌てて、そう言いました。


「どういうことか説明しなさい」


「それは……」


 俯いてしまった私に、お母様は鼻先が触れてしまいそうなほど、顔を近づけます。もちろん、私と勝太郎さんの間にお母様が勘違いなされているようなことは一切ございませんし、きっと勝太郎さんはそのような不埒な人ではありません。

 しかし……だからと言って、お母様の大切な大切なラケットを盗まれてしまいました。などと、言うに言えなかったのです。


「言えないのならば、仕方ありません。お父様に相談するしかなさそうです」


 そう言うとお母様はつんけんと前を向いて歩き出してしまいました。


「違います!」


「何が違うのです?何もなければお話なさい」


 うぅ、と私は軽くため息をつきました。

 お叱りは受けることでしょう。でも……でも、ラケットは私の手元に戻ってきたのですから、きっとお母様も許して下さいますでしょう。

 私は深呼吸をしてから、ラケットの子細を言葉を選んで説明しました。そして、何度も勝太郎さんのおかげで私の手元に戻って来たことを強調したのでした。


「そう、そのようなことがあったの」


「はい、あったのです」 


 私は上目遣いで、お叱りの一言を待っていましたが、お母様はそう言うに止まり、それ以上は何もおっしゃりませんでした。

 そのかわり、

「だから、二人きりで喫茶に出かけたと言うのですか」と的はずれなことを言うのでした。


「私も大學生ですから、ご學友とお茶ぐらいはします」


 私はお代のかわりに喫茶にお付き合いした旨はお母様にはお話ししませんでした。なんと言っても私は説明下手なのです。ですから、きっとお母様は交換条件にて勝太郎さんのお誘いを私が受けたと勘違いなされるのは火を見るよりも明らかです。

 私は私などとの一時の喫茶にてお代を受け取ることをしなかった勝太郎さんの心意気を大切にしたいと思っておりますし、私が大事としたい気持をお母様であろうとも悪く言われるのは気持がよろしくありません。

 だから、あえてお母様にその詳細をお話しなかったのです。


「そうですけれど、あなたは嫁入りに前の娘なのですよ」


 お母様はわざわざ振り向いて強くそうおっしゃいました。


「でも、お姉様は私よりも多くの殿方と交友していらっしゃりますよ」


 そうです。お姉様も私と同じ嫁入り前の乙女なのです。ですが、お姉様は殿方と交友を楽しんでおられます。もちろん、お茶をご一緒するだけですけれども……なら私だって。


「瑞穂さんは、その日の子細をちゃんと話してくれます。あなたのように内密に殿方と相まみえたりしません」


 私は揚げ足を取るかのように食い下がるお母様に対して、どうしたものでしょうと考える傍らで、やはり頬を膨らましていたのです。

 その後、商店街に到着しましたが、そこにはお母様の後ろを頬を膨らませたまま、口もと二枚貝のようにした私の姿がありました。私は年甲斐もなく、お母様に対して無言の抗議を実施していたのでした。

 後はお母様が私に話しかけさえすれば、私は頬を風船のように膨らませることでしょう。そして、お母様は私の物言わぬ反抗に気が付くのです。

 気が付くはずだったのです……


「どうして、私に話しかけないのですか」


 八百屋、精肉店、豆腐屋、そして魚屋を回って一頻りお買い物を済ませた、お母様は終始、私に話しかけなかったのでした。お豆腐を買ったところから不安になって来た私は、頬を膨らまし続けるのに疲れて、鉛を口まわりに貼っているようになってしまった口許を両手で揉みながら、ひょっとしてお母様の逆鱗に触れてしまったのではないでしょうか、とついに、帰路に向かうお母様の背中に声を投げ掛けたのでした。


「どういうこと?」


 眉間に皺をよせて、お母様は首を捻りました。


「いえ、先程のお話で怒っているのかと思いまして……」


「あら、咲恵はお料理しないでしょ。作るのはお母さんと瑞穂なのだから」 


 今度はきょとんとした表情をして言いました。


「私だって少しくらいはお料理ができます」


 下宿をはじめてから私は自分の食べる分は自分でお料理していたのですから!


「はいはい」


 ですが、お母様はまるで相手にしていないと言わんばかりにあしらうのでした。


「やはり、先程のことを怒ってらっしゃるのですか?」


怒ってません。とお母様はまずおっしゃい、


「怒ってはいません。ただ、可愛い娘がどこの誰ともわからない殿方と、会っているなんて心配でしょう。それに話してくれないなんて、寂しいじゃない」そう続けたのでした。「お母様。心配をさせてしまってごめんなさい。でも、勝太郎さんは誠実な方ですよ。とても筆まめな方ですし、お母様が気を揉むような方ではありません」 

 私は嬉しくなってお母様の腕に自分の腕を絡めました。そして、お母様の顔を見上げてそう話したのです。


「それでも心配するの。私は咲恵の母親だもの、子どもの心配をするのは親の特権なのよ」


 今度こそお母様は私に微笑んでくださいました。

 ですから「それでは心配させるのは娘である私の特権ですね」と微笑み返したのでした。

 私はお母様に、お願いをして帰り道は遠回りながら、竜田橋を通る方を歩いてかえることになりました。もちろん、私は久しくご無沙汰していた蚊柱を一目見たいと思ったのです。

 お母様は虫が嫌いですから、きっと良い顔をなさらないでしょうけれど、私は見たかったのです。


「咲恵、何をしているの、早く帰らなければ勝太郎さんが帰ってしまうわよ」


 私が、橋の上で立ち止まって蚊柱を見上げていますと、お母様がせかすようにそう言いました。


「勝太郎さんもお夕飯をご一緒するのですか!?」 


 私は純粋に驚いてしまいました。


「少しばかしの罪滅ぼしです」


「えっと……?」


 罪滅ぼしと言うのは罪をつぐなうと言う意味です。勝太郎さんと初対面であるお母様がどうして、罪滅ぼしなのでしょうか?今度は私がきょとんとしていると、


「婦女には色々と秘密があるのですよ」


 とお母様は困った笑みを浮かべたのでした。

 要領を得ないままでしたが、婦女の秘密と言われてしまえば、無理強いして聞き及ぶことはできません。私にも幾つか人に言うには忍びない秘密がございますから、お母様の秘密とて聞くことはできないのです。


「お母様、私はもう少しここにいますから、先に帰っていて下さい」


「勝太郎さんはどうするの」 


「私よりもお姉様の方がお話がお上手ですし、勝太郎さんもお姉様が相手の方が楽しいと思います。すぐに追いつきますから」


「困った子ね。早く帰ってくるのですよ」


 私は言い出したらきかない子供でした。三つ子の魂百までと申しますから、その性分はかわりないのです。

 お母様の背中を一瞥して私は再び、蚊柱を見上げました。数週間ぶりに見上げるのですが、一期一会と同じ形はなく、微風に揺れる洗濯物のようにゆらゆらと棚引いています。もしやイッタンモメンと言う妖怪の正体はこの蚊柱なのいかもしれませんと思ったりして、少し楽しくなりましたが、すぐに哀愁の瞳にてため息を空に向かって吐きかけてしまいました。

 そうなのです。このようなちんぷんかんぷんなことばかりを考えている私などとお話をするよりは、弁長けたお姉様とお話をした方が楽しいに決まっているのです。

 以前、勝太郎さんとこの竜田川沿いの道を歩いたことがありました。その時も、私に話題を合わせてくれる勝太郎さんにかまけて、夕日に照らされた雲の造形美に見とれていたのです。

 それは一期一会だからです。その時その瞬間に見上げた造形美はきっと、私の生涯において同じものを見ることはありえないでしょう。ですから、尊くも美しいと、勝太郎さんにお話ししました……お話ししましたが、きっと勝太郎さんは私のことをつまらない婦女だと思ったに違いないのです。

 もっと、流行の歌謡曲やキネマを話題とした方が年頃相応なのでしょうから……

 だから、お姉様とお話しする方が楽しいに決まっているのです。


      ◇


 門柱を出たところで、私はしずしずと靴に足をねじ込んでいた。背中にこれ以上、瑞穂の声が追って来ないことを願いつつ、心の片隅ではそれを望みながら……


「あら、お帰りになられるの?」


 急用でも?と八重さんが私の傍らに立ち据えて居たのである。着物の袖から覗く白く細い腕には、夕餉の買い物だろう紙袋が抱えられてあった。


「えっと、その、とにかく、そう言うことです」


 日本語にして文法を無視して、私は浅瀬で溺れる犬のように手をじたばたとさせた。

 そして、深々とお辞儀をして、走り去ろうとしただ……

 だが、「ちょっとお待ちになって」と後ろ襟を捕まれるように声をかけられた私は、半身のみを捻って、恐る恐る振り返った。


「はい、何でしょうか……」


「一言だけよろしいです?」


「はい」


 私はきびすを返して、微笑みを浮かべる八重さんに向き直った。

 八重さんはそんな私に「知り合いとは言え、嫁入り前の娘の家にいきなり尋ねてくるような不躾は二度となさらないでね」と目元に力を入れて言ったのであった。

 口許だけは精一杯の微笑みを携えていたが、やはり眼が笑っていなければ、それは笑顔ではないのである。


「すっ、すみません。二度とそのような所行は繰り返しません」


 私は大袈裟に頭を下げた。お辞儀ではなく、謝意を込めて頭を下げた。


「そうそう、咲恵は今頃、竜田橋を歩いている頃かしらね」


「……?」


 私は顔を上げた。それは何を意図するお言葉なのだろうか……


「あら、私の独り言ですから、お気にされませんこと」


 八重さんはそう言いながら、すっきりとした横顔を残し、門柱を開けると玄関へ続く石田畳みを歩いて行ってしまった。

 私は思いきり口を開けて疾走した。そして竜田川に掛かる橋の上に黒髪の乙女の姿がなかった暁には、渦炊く蚊柱に突っ込み、まるでオキアミを喰らうヒゲクジラのごとく鯨飲することだろう。

 どこぞの原住民は虫を喰らうと聞き及ぶが、はたして美味いのかもしれん。けして食用には向かないだろうと思いしつつも、これも実学のうちであろう。そして、美食趣向の私の口の中に、よくも入ってきたものだとゆらゆらと幽霊のごとく揺らめく蚊柱を見上げ憤慨することだろう。

 とは言え、咲恵さんを見初め。四百四病以外の恋煩いの病に陥ってからは、竜田川の橋を通る時など、川の上へ舞台を移した蚊柱を見上げながら、たとえ雌が飛び込んでこようともこれだけの内、一匹しか本懐をとげられぬ境遇は、まさに私とうり二つではないか。と思いなおしてみると、先に苦々しく思っていた私だったがもし蚊柱との意思疎通がまかり通るものならば、同じ境遇の者同士堅く手などを握りあい。友として明日から友に歩きたいものであると友愛すら浮き上がって来る始末であった。

 半信半疑ながら疾走した私は橋の袂にてようやく欄干に手を置き茜空を一人見上げる乙女の姿を見つけた。


「これはこれは、昼間ぶりで」


「夕暮れ時だが、安くなるか」 


「また桔梗ですかい」


 橋の袂へ花桶を移動して商いを続けていた、花売りの男はそう言いながら前歯の口でいやらしく笑った。

 むろん、桔梗でもよかった。花であるならば何でも良かったのである。だから桔梗でもよかったのだが……


「そこの酸漿を一輪くれ」


 私はあえて酸漿を所望した。怪我の功名と言うわけではない、むしろ巧妙であったわけだが、私は不意に八重さんの文を思い出したのである。『季節にはその時節にこそもっとも美しくも情緒のあるものがある』一期一会を尊ぶ咲恵さんなら、きっとこの奥ゆかしきをわかってくれるだろう。


「こいつぁ、安くできませんぜ」


口許を堅くして言う花売り。


「誰が安くしろと言った。私を見くびらないでもらいたいな」


「そんな台詞は靴を新調してから言いなさいな」


 底のすり減り、すっかりくたびれた靴を煙管で示して言いながら、花売りは再び欠けた前歯を露わとした。


「それよりも今は酸漿なんだ」


 私も口許を緩めると、ポケットから小銭を取り出して、男に渡し、酸漿を一輪受け取った。なるほど、ぷっくりと大きすぎず小さすぎず膨らんだその様は姿見良く、風情があるではないか。

 私は酸漿を後ろ手に隠すとゆっくりと乙女に気取られぬように近づいてから、「こんばんわ、奇遇ですね」と乙女の背中に声を掛けたのであった。


「これは勝太郎さん、こんばんわ」


 乙女は驚いた表情をしていたが、私が隣へ歩み並ぶ頃には、つつましやかな微笑みを浮かべていた。


「今日も威勢良くうごめいてますね」


 本日も燕やらコウモリやらの来襲を受けてなお変わりなく、まるで妖怪イッタンモメンのように空中を漂っているではないか。

 そうだ、と私はあくまでも偶然の体を装って乙女の方を向いた。

 そして、のけぞった……何を言ったでもしたでもないと言うのに、乙女は瞳を輝かせて私を見上げていたのである。  


「あ、その……すみません……」


 乙女も私が急に顔を向けたことに驚くと急いで視線を足元に落としてしまった。

「いえ……」と私も、まことに清々しい意味で出鼻をくじかれたわけだが「この季節は酸漿の季節だそうですよ」と乙女に酸漿を差し出したのである。


「これを私に?」


 乙女はそう言って再び私の顔を見やり、私が無言でうなずくと、ようやく、やうやうしく白く細い指で酸漿を掴んで愛でるのであった。


「一輪で賑やかさに欠けますけれど」


「いいえ、そんなことありません。酸漿は一輪だからこそ姿見がよろしいのですよ。私のお母様が昔、梅雨の季節になると、酸漿を沢山買って家中に飾っておりました」


 懐かしい思い出です。とぷっくりと膨らんだ酸漿の果実を指でつつきながら彼女は完爾として笑うのである。やはり、咲恵さんの笑顔は素敵である。よほど『あなたの笑顔の方が素敵ですよ』と口に出したかったが、口に出さぬからこそ品があると言うものなのだ。

 そして、私は阿呆にも本気で思ってしまったのである。全ての何よりも美しくも風情漂う優しいこの笑顔を、彼女を何もかもから守れるものであるなれば、この身がどうなろうとてかまうまいと。

 私の細くか弱き腕なれども、守ってあげたいと思ったのである。


「夏風邪でもひかれたのですか?顔が赤いですよ」


 乙女の笑顔の虜となっていた私に、彼女が首を傾げながら言った。


「いえ、その、夕日が水面に反射したのですよ。だから、咲恵さんの顔も赤いです」


 私は嘘をついた。これこそ正真正銘本物の真っ赤な嘘である。もちろん私の顔が赤かったのは乙女の笑顔に惚れ惚れとしていたからに相違ない。


「本当ですか」 


 乙女は自分の手を両頬にあてて「本当です。ほっぺが温かいです」と純粋に驚いて見せた。


「これからお時間が許せば、お茶でもいかがですか」


喫茶店は皆無であるからして、私は橋を渡りきり、少し川沿いに入った所にあるベンチを指さしてそうお誘いの言葉を吐いた。缶ジュースなど買って飲んだとてお茶にはかわりあるまい

 夕暮れ時分からして、婦女をまして乙女を誘うなどと失礼にあたるやもしれないが、私は咲恵さんと話しがしたかった。これも嘘である。ただ、少しだけでも側にいたかったのだ。


「梅雨明けそうそう、夕暮れの川沿いなど小粋ですね。喜んでご一緒します」


 不躾なお誘いであったが、彼女は二つ返事でこれを了承してくれた。やはり、咲恵さんは心持ちが海のように広い女性である。


      ◇


 久方ぶりにお母様の優しさに触れて、私の心持ちはこの茜空のようにきっと紅く色づいているに違いありません。一期一会の出会いであればこそ、私には素敵に思えるのです。 しかし、この気持を分かり合える人に出会って居ないのは、どこかジレンマです。

 欄干に手を置いて、私は一人、時折吹き抜ける微風に髪の毛を靡かせながら蚊柱を見上げておりました。  

 一寸の虫にも五分の魂と申します。ですからきっと一寸よりも小さい虫にも幾ばくかの魂があるのでしょうから、消してバカにしてはいけないのです。 

 その日、私は走っておりました。とても嬉しいことがあったからです。竜田川に架かる橋の上を駆けておりますと、突然目前に黒いもやがかかり、俊敏ではない私は顔から突っ込んでしまいました。よもや別の世界への入り口であったならどうしましょうと思いましたが。黒いもやの正体は蚊柱でした。

 目と口を咄嗟に閉じましたが、残念ながら鼻は閉じることができません。私は生まれてこのかた鼻の閉じ方を教わったことがなかったからです。物知りの姉様やお母様に問いかけてみましたが二人とも『大人になればわかる』と口を揃えます。未だわからないかぎり、私は大人になれていないのでしょう。

 ですから、鼻の中に虫が入りました。鼻の奥がむずむずとくすぐったいことと言ったら。一寸にみたない虫にも魂がありますからこれを無碍にするわけにはいきません。ですが、くすぐったいのは我慢できないのです。

 私はくしゃみをしました。続け二度も……誰かが私の噂をしているのではと思いつつ、きっと良い噂だろうと捨て置き、まだくすぐり続ける虫についに、私は鼻から息を逆噴射しました。

 幸運にも私は風邪を引いておりませんでしたので、鼻水はでませんでした。それは虫にとっても好都合だったことでしょう。胸の中が空っぽになった頃、私の小さな鼻はくすぐられることはなくなっておりました。

 そんなことがあってから、私は蚊柱を見上げるようになり、今もこうして橋の上から蚊柱を見上げているのです。

 ですが、私のような無粋な人が多いせいでしょうか、蚊柱は今では橋の上でなく川の上に移動してしまったのです。そして橋よりも私よりもずっと高いところにあるのです。

 四六時中群れていて、楽しそうと思っていた私ですが、本当は蚊柱の面々は常に過激な日常を過ごしているようで、つい最近そのことを知り、ますます蚊柱が気になってしまいました。

 お昼間は鋭敏かつ俊敏と縦横無尽に飛び回る燕に翻弄され、日が落ちて燕がやっと寝床へ帰ったかと思えば、次はコウモリが蚊柱に迫るのです。コウモリは夜行性ですけれど、どうして川の上に集まってくるのでしょうか。蚊柱が気に食わないのでしょうか?

 ですから、このように平穏と群れていられる時間はとても貴重なのです。

 誰一人蚊柱などに、興味を持って見上げる人は居ませんでしたが、私は見ていますよと一言申し上げたい心持ちになりました。子どもを見守る親の気持ちとはこのような面持ちなのでしょうね。私は思わず口許を綻ばせました。

 そんな矢先、

「こんばんわ、奇遇ですね」と不意に声を掛けられました。私が声の主を見やると、そこには勝太郎さんが立っているではありませんか。


「これは勝太郎さん、こんばんわ」


 わたしも挨拶します。すると「今日も威勢良くうごめいてますね」と勝太郎さんそうおっしゃるではありませんか。私はついつい嬉しくなってしまいました。てっきり私だけが蚊柱の生き様を拝見しているものだとばかり思い込んでいたのですから……

 ですから、私はつい嬉しくなって勝太郎さんの横顔を笑顔を携えて見上げてしまいます。

道行く人々は清々しくも夕焼けを眺める青年と言った趣で勝太郎さんを見ることでしょう。ですが、実は蚊柱を見上げているのです。

 私はさらに嬉しくなってしまいました。


「あ、その……すみません……」


私はびっくりしました。急に勝太郎さんが私の方に顔を向けたからです。そして、私は視線を足元に落としました。横顔であれ、人にまじまじと見つめられるのは気色が悪いものです。私も、講義の時など隣に腰掛けた殿方にずっと見られて居たことがありましたので勝太郎さんのお気持ちは察してあまりあります。

「いえ……」勝太郎さんはそう小さく言ってから、「この季節は酸漿の季節だそうですよ」

と一輪の酸漿を差し出したのです。


「これを私に?」


私は寝起きのように、はっとなって顔を上げました。


「一輪で賑やかさに欠けますけれど」


 照れ隠しでしょうか、そう言いながら勝太郎さんは頭を掻いています。


 私は、

「いいえ、そんなことありません。酸漿は一輪だからこそ姿見がよろしいのですよ。私のお母様が昔、梅雨の季節になると、酸漿を沢山買って家中に飾っておりました」と言ってから酸漿を受け取りました。

 なんて懐かしいのでしょう。私のお母様は東京の出身でして、幼少の頃より酸漿市で酸漿を買っていたそうです。 

 ですから、私が幼少の時分はお母様が酸漿をたくさん買い込んで全ての部屋に廊下にと一輪挿しにて飾っておりました。

 久しく、その風景には出くわしておりませんが、酸漿を見ますにすぐさま懐かしい思い出が鮮明に蘇ってくるのでした。

 私は懐かしさあまって、つい酸漿の実をつついてしまいました。ぷっくりと膨らんだ果実は姿見良く。愛でるもよし、撫でるもよしと一挙両得、一度で二度美味しいと言った趣なのです。

 無邪気に酸漿の実をつついている私を見て勝太郎さんは顔をほんのり赤らめ、何かを言いたげな表情をしておられましたが、ついに何を言うこともありませんでした。ひょっとしたら、子どものように笑顔を浮かべる私に呆れてしまったのかもしれません。

 もしそうであったならば、お恥ずかしいかぎりです。


「夏風邪でもひかれたのですか?顔が赤いですよ」


 顔が色づいておりましたから、もしやと思い私は勝太郎さんにお聞きしました。


「いえ、その……夕日が水面に反射したのですよ。だから、咲恵さんの顔も赤いです」


「本当ですか」 


 私は驚いて自分の手で両頬を包み込むようにしました。どうでしょう。私のほっぺは暑さにあてられたように温かかったのです。ですから、

「本当です。ほっぺが温かいです」と勝太郎さんに顔を見て言いました。

すると、勝太郎さんはまた頭を掻きながら「これからお時間があれば、お茶でもいかがですか」そう言って竜田川沿いにの道にあるベンチを指さしました。

 ベンチは喫茶店ではありませんから、注文はできません。ですが、梅雨明けをした今日は、からりと清々しく、川沿いですから一度、風がそよげばそれはもう爽快とばかりに心地が良いことでしょう。

 それに、なんと言っても、あのベンチからは蚊柱が見えるのです!私同様に勝太郎さんも蚊柱を拝見していたのです。きっと、お姉様に負けない楽しいお話しが出来るはずなの

です。

 蚊柱を見上げながらお茶など、なんて風流なのでしょう。小粋な勝太郎さんさんお誘いに私は、

「梅雨明けそうそう、夕暮れの川沿いなど小粋ですね。喜んでご一緒します」そう言って二つ返事でお答えしました。

 今頃、お母様とお姉様は夕飯の支度をしながら、私の帰りを待っていることでしょう。お母様とお姉様にはまことに申し訳なのですが、私はもう少しだけ蚊柱を見上げていたいと思います。

 これもまた一期一会なのですから。


「コウモリが飛んでいます」


 私はコウモリが苦手でしたから、勝太郎さんよりも歩幅を狭めて歩きます。


「そうですね。川の上ですから、コウモリも飛ぶでしょう」


 対象的に勝太郎さんはコウモリが恐くない様子です。悠々とコウモリを見上げているではありませんか。「蚊柱の敵なのですよ」と私が呟くと、勝太郎さんは聞こえていたのでしょう。「私にも羽があれば、今すぐ追い払うことができるのですけれど」と真面目な顔をして私に言ったのでした。

 羽だなんて、私はおかしくなってついつい声を出して笑ってしまいました。何せ私も、幼い頃はいつか、背中から翼が生えて行きたいところへ自由に行けてしまうと思っていたのです。

 ベンチに腰を降ろすと、勝太郎さんは私を一人置いて、どこかへ駆けて行ってしまいました。どうしたのでしょうか、と思っていますとやがてサイダーの瓶を両手に持って帰って来たのです。


「お茶にお誘いしたからには、何か飲まなければなりません」


「ありがとうございます。サイダーを飲むのは久方ぶりです」


 私はサイダーを受け取ると、気泡を湛える瓶口を見やって生唾を飲み込みました。そして次の瞬間にはしゅわしゅわと清涼の魔法水を喉へ流し込んだのでした。


「そうだ、コウモリというのは昔は『河守』と言われていたのですよ」


 勝太郎さんもサイダーを一口飲んでから、思い出したようにそうおっしゃいました。


「そうなのですか?ですから、よく川の上で見かけるのですね」


 私は納得して薄暗い空を縦横無尽に飛び回るコウモリを見上げてうなずきました。

 ヤモリは家を守るから『家守』。イモリは井戸を守るから『井守』と言うのを、おばあさまから教えて頂いたことがあったからです。


「勝太郎さんは物知りですね。おかげで、一つ賢くなることができました」


 そう言って、私が勝太郎さんの方に顔を向けますと、今度は勝太郎さんが手足をじたばたとさせて、何やら驚いたのです。


「いえ、咲恵さんには及びませんよ」


 手を頭にやりながらそう言った勝太郎さんは、ますます顔を赤くして苦笑いを浮かべるのでした。


      ◇


 梅雨明けそうそうに、黒髪の乙女と過ごした一時はまさに甘美に溢れていたことは言うまでもない。話題が蚊柱であったことをさっ引いても十二分におつりが帰ってくることだろう。季節に限って空を漂う虫とて、これもまた一期一会の趣なのである。

 配達途中の酒屋に出くわしたのは、私の普段の善行ゆえの奇跡であろう。エンジンのかかったままのオート三輪の荷台には箱に納められたサイダー瓶が擦れ合ってかんかんと清涼感のある風鈴のような甲高い音を立てていた。運転手はどうやら配達のために三輪のそばを離れている様子であった。

 私は悪魔のささやきを明瞭に聞いた。今なら瓶二本をくすねたところで大凡安全牌である。

 だが、私はそんな貧相な悪魔を優しく宥めると、帰って来た酒屋の主人に頼んで、荷台のサイダーを売ってもらったのであった。

 私だけならまだしも、咲恵さんに盗品のサイダーなどを飲ませられようわけがない。そんなことをすれば、盗品である汚れた魔法水によってたちまち美しいものだけでできている乙女の口はただれてしまうことだろう。

 私は至極当然のことをしただけである。だが、万年床にて心地よく回想出来るかぎりはやはり、乙女の口がただれなくて良かったと思うのであった。

 次の日からは、夏真っ盛りと蝉の叫び声と共に、容赦ない灼熱の日光が降り注ぎ、私は

万年筆を握りしめたまま、ふやけた天麩羅の衣のようになって四畳間でのびていた。蒸し暑いのも耐え難いが、かといって誰が純粋なれどこのように暑くしろと願ったと言うのか。もう少し段階を経て暑くなってほしいものである。

 乙女から手紙が届いてから早一週間。私はもどかしくも返事を出す頃合いを見計らっていた。大學は夏期休暇に入る前の試験まっただ中なのである。

 もちろん私は大學へ赴いて鉛筆を走らせるような試験は全て投げ捨て、参考図書を丸写しした小論文あるいは研究報告書を提出しただけであった。後は、ひたすらに内職に励むだけである。

 黒髪の乙女との有意義な時間を過ごすためには多少なりとも、金がいるのだ。もちろん、彼女に渡すのではない、当たり前だ。喫茶店に行ったり、あわよくばキネマなどにもお誘いしたい。動物園に遊園地と、とにかく行楽地へ赴くとなると何かと物入りなのである。

 だが、私の中では、はっきりしていることがある。私と乙女は交際をしているのではないのだ。私が告白をできなければ、乙女から告白などを望むわけもなく。ただ、友人かそれ以下の間柄なのだ。男子の嵯峨かこのように乙女から『お茶のお誘い』の旨がしたためられた手紙が来れば、いやでも勘違いかもしくはそれに準ずる思い込みにて胸を焦がしたいものであろう。

 しかし、だからこそ自重しなければならないのである。


 

 拝啓


 川沿いでの語らいの折はサイダーをごちそうしていただき、本当にありがとうございました。久々にサイダーを飲みましたものですから、つい夢中となってしまいました。

 ここ数日は夏真っ盛りと、蝉も鳴き勇んでおりまして、大學へ向かう途中など帽子が無くては頭がふらふらとしてまいります。

 勝太郎さんはお元気のことと存じますが、これからが夏ですから夏ばてや夏風邪などにお気をつけ下さいませ。

 本日お手紙を差し上げたのは、お礼と、お茶のお誘いをしたいと思い、お手紙をしたためました。婦女である私から勝太郎さんをお誘いするの恥じらいにも躊躇いを伴いましたが、サイダーのお礼もしなければなりませんし、蚊柱について談笑したあの日は、お姉様もお母様もそれぞれに勝太郎さんにお夕飯をごちそうする予定であったそうです。お母様は罪滅ぼしとおっしゃっておられましたが、残念ながら私には何のことだか知るところではありませんで、しつこく聞いてみても婦女の秘密とお母様に釘を刺されてしまいました。

 勝太郎さんはお心当たりなどありませんでしょうか?ありましたら、こっそり教えていただけたなら私は嬉しく思います。 

 前後してしまいましたが、今一度、私とお茶をご一緒してくださいませんでしょうか。

 もしお受け下さるのでしたら、勝太郎さんのご予定をお聞かせ下さいませ。場所はフロリアンにてと考えております。

 私も勝太郎さんも學生の身空。夏期試験を控えておりますから、學業を第一とせなばなりません。ですから、試験が終わってからとなりますね。

 病気になってしまいそうなくらい暑い日々が続きますが、私も勝太郎さんにとっても大切な時期となってまいりますので重ねて申し上げます。どうぞ御自愛下さいませ。


 お返事をお待ちしております。


敬具

鴻池 咲恵


 

 先にも記したが、私は筆記試験を尽く避けて通り、そして逃げた。いかんせん講義に出ないのであるからして、単位を獲得できる点数を得る自信など皆目ありはしないからである。

 その分、考察論文や小論文と言ったやつは、大學の附属図書館へ行けば大凡論題に則した書物が何冊かあり、これらをブレンドして丸写しすれば、めでたく似非論文ができあがる。

 至極簡単に単位を得ることができると言うのに、どうしてか図書館はいつも閑散としており、利用している学生がちらほら見当たる程度である。私はどうして、このような不正に近くも楽な正攻法を皆使わぬのかと首を捻ったが、誰もが真似しないのであれば私にとっては好都合。だから、私はこの方法を大きな声で言うこともなければ内密に教えてやることもしなかった。

 とは言え、先人の論を丸写ししているだけではないか!と横やりを入れられれば、これを否定する術はない。

 乙女は真面目で可憐な筋金入りの學生であるからして、日々予習復習を怠ることなく、試験期間ともなれば、睡眠に落ちることなく気が付いた時には朝日が顔を出していた。などと言うことも珍しいことでもないのだろう。

 私は天井を見上げながら、胸の辺りを掻いた。そろそろ、私の体臭もごみ溜めから肥溜めに昇華しはじめている頃合いだ。

 乙女と会う前に銭湯へ赴いて垢と言う垢を汗臭さと共に洗い流さねばなるまい。

 盆地の嵯峨か夏の暑さは異常である。炊事場の蛇口を捻ると温い水が飛び出し、便所からの悪臭はもはや匂いにあらず。涙が出るほど眼しみるのである。ゆえに眠気覚ましには事欠かないのだが、用を足すたびに涙を流さねばならないのは涙の無駄と言うものだろう。涙などと言うものは素晴らしきに感動して、または憎たらしくに憤怒して哀愁にやりきれぬ時にこそ流すものなのである。

 だから今朝方、真上の新妻が涙を拭いながら便所から出て来たところに出会した時には、暴漢にでもなったような嫌な気分となった。

 私は灼熱地獄を瀕死の蛙のように大の字となってなんとか生き延び、日が傾き、そよ風がようやく温くなった辺りで朦朧とする意識を携えて起きあがると、フラフラと千鳥足で

机の前まで歩き、ようやく便箋を取り出したのだった。


      ◇


 梅雨が明けてからと言うもの、白と黒の曇天はどこへやら、ここ数日などは灼熱の様相をていしております。この暑さなら、せめて試験期間が終わるまで梅雨でも良かったかもしれません。そうふっと思ってしまう私を誰が責められるでしょうか。

 試験勉強の合間、私は勝太郎さんへ御手紙を書きました。よもや勉強の邪魔になってはとも思ったのですが、やはり書いてしまいました。

 それも、私からお茶のお誘いの旨を……はしたない婦女と勝太郎さんが呆れられるかもしれませんと思ったのですが、蚊柱について語らったあの一時を思い出すと、どうしても今一度お話をしたいと思ったのです。

 ですが、私も勝太郎さんも本分は學生ですから、勉学を疎かにしては本末転倒です。ですから、末尾近くに執念深く學生の身空の心得を書き加えておきました。本当は、勝太郎さん向かって投げ掛けた言葉ではありません。実は私自身に向かって戒めの意味を込めて投げ掛けた言葉なのです。

 私は横好きでして、勉強も好いておりますが、一つのことに集中すると言うことが苦手です。昨日とて、試験勉強をしていたはずですのに、いつの間にか部屋の掃除をしてみたり、デッサンの続きをしてみたり、意味もなくラヂオ体操セブンを踊ってみたり……机に向かっている時間より無駄に動いている時間の方が長かったのですから……

 どうしようもない性分ですが、だからと言ってそれが言い訳になるわけもなく、また、試験日が延期されるわけでもありませんから、ぎりぎりになって必死になって机にかじりつかなければならなくなるのが常なのでした。

 その折、勝太郎さんから御手紙が来ないでしょうか、と何度となく郵便受けを見に行きましたが、結局、御手紙は入っておりませんでした。

 私は溜息をついて、もう五杯目の休憩の紅茶を飲みながら勝太郎さんは試験勉強に余念無きようにと、便箋には目もくれずに夜更けまで机に向かっていることでしょう……

「そうです」 

 私は一念発起して紅茶の残ったティーカップをそのままに、自室へ駆け上がると机にかじりつくことにしたのでした。


      ◇


 お手紙が来ないもどかしさを、払拭すべく勉強に邁進した私は文字通り余念無く勉学に集中することができました。このように魂までつぎ込んで勉強に集中するのは大學に入学してより初めてではないでしょうか。

 おかげで、試験の出来は上々でした。試験期間を終えてなお、このように不安なく清々しい面持ちでいるのは大學に入学して以来、初めてのことです。ですから、今期に限っては初めてづくしなのでした。

 現実に努力をしたのは私ですが、その切っ掛けを、起爆剤を下さったのは勝太郎さんですから、ここは勝太郎さんに感謝をしなければなりません。

 ですが、どうして勝太郎さんはお返事を下さらないのでしょう。やはり婦女である私が差し出がましくも勝太郎さんをお誘いしたのが癇に障ったのでしょうか……私はもう一度、お手紙を書きましょうかと思いましたが、お返事を催促する手紙を出すなどあまりにも情けなくも悲しいではありませんか。それに、もしも逆鱗に触れてしまっていたなれば、そのような手紙は火に油を注ぐようなものですし、不躾にも程がありますから、乙女の恥である前に人として恥じるべきなのです。

本日までは試験期間が終わるまでお手紙は来ないものと、諦めておりました。それは『試験期間中油断すまじ』と明瞭な理由があったからこそ諦めることができたのです。ですが、試験が終焉した今となってはそんな理由はまかりとおるはずもなく、また私の人間らしいところがずきずきと疼きだしてしょうがなかったのです。

 試験が終われば夏期休暇ですから、私は実家へ帰る支度をしなければなりません。しなければならないのですが……なるほどどうして、荷造りなどをする気にもなれなかったのです。

 私は扇風機の前に腰を降ろすと、前髪を逆立てながら、『あ』の発声をしました。息が長く続けばつづくほどに、濁点がついたように音が変化して面白可笑しいのです。決して、他人様にお見せることは恥ずかしく憚るのですが、どうせ来客などありませんし、いらっしゃると言えばお姉様くらいですから、別段見られたところで何ともありません。そもそも、この面白可笑しい発見をしたのは誰であろうお姉様なのです。

 そんな風に暇を持て余していますと、扇風機ごしに自転車に乗って通り過ぎて行く郵便屋さんの姿が見えました。もうそんな時間なのですかと一度立ち上がろうとして、私は再び膝を折って発声をしておりましたが……

 やはり気になりましたので、郵便受けにそろそろと向かうことにしました。

 外には誰もおりませんでしたが、私は私にお庭の様子を見に来たのですよ。とあくまでも郵便受けだけを見に来たのではないのです。と言い訳をしていました。もしも、郵便受けが空っぽであった時でも、言い訳をしてさえいればその落胆もいくらかは緩和されるかもしれないと思ったからなのでした……

 ですが、言い訳をしなくてもよかったのです。なぜなら、郵便受けの中には封筒が入っていたのですから!




 謹啓


 ここ最近は夏真っ盛りとむせび鳴く蝉たちに同情したくなる日々が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか。大學の試験も終わり、何かと気の抜ける時期でありますから夏風邪などにはどうぞご用心下さい。

 先日のお手紙ありがたく頂戴いたしました。すぐさま返事を書こうかと思案しましたが、咲恵さんの勉強の邪魔になってはと、筆を遅らせた次第です。

 てっきり、怒ってらっしゃると思っておりましたもので、お手紙を頂いた際は安堵しました。

 お姉さんとお母様はどうして「罪滅ぼし」などともうされたのでしょうね。生憎、私にもその理由はわかりかねます。非常に残念です。

 先日、咲恵さんの下宿先の近くにおりましたのは、偶然ではありません。咲恵さんたちに出会ったのは誠に偶然であり奇跡的であると私自身も思います。それと言いますもの、梅雨の最中、不躾にも咲恵さんの下宿先へ向かいました際、咲恵さんを怒らせてしまいましたことをお詫びするためだったのです。

 どんな理由があろうとも、年頃の女性である咲恵さんの元へなんの断りもなしに、訪問した私が浅はかであり、無礼の極みであったわけですが、どうか言い訳をさせて下さい。便箋を買いに行った帰り道、綺麗な桔梗を売っていたものですから咲恵さんに差し上げたいと思い、桔梗を購入してその足で下宿先へ向かったのです。今更ながら、このような文言は忌まわしく思われるかと思いますが、どうぞお心をお鎮め下さい。

 喫茶の件は喜んでご一緒させて頂きます。今度の日曜日、昼の一時からでいかがでしょうか、私は自由な時間が多くありますから、咲恵さんのご都合が悪いようでしたら気楽にお知らせください。

 本当は竜田橋などで待ち合わせたいと思いますが、雨が降るといけませんから、フロリアンにて待ち合わせといたしましょう。

 それでは、喫茶の日を指折り楽しみにしております。

 


   敬白



 私は、居間へ駆け戻ると、横殴りの扇風機の風に髪の毛を泳がせながら、便箋に眼を走らせました。

 そして、はてな?と首を傾げたのでした。お返事が長らく届かなかったのは、思った通り試験の邪魔になってはとの勝太郎さんのお心遣いにてでしたから、ふむふむと頷けましたが、その後の文面には私は心当たりがなかったのでした。

 私は勝太郎さんがこの家に訪ねて来たことを知りませんでした。ですから、憤ることもするはずがありませんし、そもそも、私は実家に帰っておりましたから下宿にはいるはずがないのです。

 私はしばらく指を口元へやりながら、考えに耽っておりましたが、それも今度の日曜日のお昼間一時より、じっくりとお聞きすればよろしいでしょうと、すっかりどのようなお洋服を来て行きましょうか。とクローゼットの中を思い出しては、頭の中で着せ替えをしながら恍惚としていたのでした。


      ◇


 やがてその日はやって来る。それは今まで同様に私がいかに念力を込めようと念仏を唱えようと無情に回転を続ける長針と短針、加えて秒針が逆に動き出すかその動きを止めないかぎりは、日は昇りそして暮れてゆくのである。

 またしても、散髪へ行かず行けず、一張羅の洗濯をするに止まった私はその日の正午には姿見の無い室内内で身だしなみをただして、いざ行かん乙女のもとへ!とフロリアンへ出かけて行ったのだった。

 時計がないと言うのは至極不便である。とりあえずは一時間と釣り銭が来るほどの余裕を持たせて四畳間を出てきたのだが……早く到着しすぎると言うのも、なんとももどかしい。きっと手持ち無沙汰に託けて、面白可笑しく昼下がりを喫茶にて楽しむ乙女たちに浮気眼を泳がせることだろう。断言して間違いはあるまい。誠実のどうらんを塗りたくったとしても、私はしがない男子なのである。

 竜田橋の上から清流の体を保ちつつ、たまに上流から得体の知れないゴミがどんぶらこと流れ行く水面を見下ろしながらそんなことを考えていると、咲恵さんに対して誠に申しわけない気持になってしまった。

 もう一つ気が付いたことがある。私は黒髪の乙女と後何度、喫茶の席を共にするのだろうか……いやできるのだろうか…………してもらえるのだろうか……少なくとも少なくとも今日は間違いない。だとするならば、次があったならば、私はまたこの一張羅を着てフロリアンへ向かうのだろうか。私は婦女ではない身の上は衣服に気を使う事も多少は許されるだろう。

 だが、さすがに何度も続けて同じ服で出かけて行くと言うのも芸がないし、よもやこの一着しか所有していないのではと乙女に悟られてしまうかもしれないという危惧もまとわりついて離れない。かと言って、無い物は無いのだ。懸案しても懸念してみても結局どうすることもできないのである。もどかしいことこの上ない。

「勝太郎さん」 

 そんな折、私は背中に声を掛けられた。耳に優しい温かい声である。

「これは咲恵さん、奇遇ですね」

 私は振り返るまでもなくその主を知り置いたが、わざわざ振り向くと驚いた振りをして、そう言って小さくお辞儀をした。

「少しばかり早く出てしまったと思いましたけれど、勝太郎さんと出会えましたからよかったです」

 お辞儀を返してかたそう言った乙女は薄い萌葱色のワンピースに純白のブラウスと、少し軽装であった。胸元には控えめな林檎のブローチがなんとも可愛らしい。咲恵さんらしい可憐さを引き立てているブローチはまるで、咲恵さんをそのように輝かせるために、想いを込められて精魂を込めて作られた一品のような雰囲気があった。

 相変わらず化粧気はなかった。それでも、透き通るように肌は白く、血色のよい口唇などは口紅をのせたように鮮やかである。やはり黒髪の乙女は品良く美しくもどこか無邪気な温かみを醸していた。

「私の顔に何かついていますか?」

 芙蓉の顔を傾けて私にそう言うのであった。

「いえ、本日も随分と暑いですから、早くフロリアンへ行きましょう」

「はい」

 あなたの顔に見とれていました。本心であるが、どうしてそのようなことが言えようか。

これもまたもどかしい。道ばたに咲く名も知らぬ花とて、朱に染まる夕日とて美しい、これらにはたして綺麗と賛美の声を押し隠すだろうか。であるならば、美しい人に向かって美しいと言えないのはどこか不条理である。

 褒められて嬉しくない人間はいない。ならば、乙女も私の賛美を受け入れて頬の一つも赤くしてくれるかもしれない。このもどかしさの根源はやはり、意気地のない私による私のせいなのだ。こればかりはどうしようもない……

 私がそんなことを考え込んでいる隣で黒髪の乙女も何か考え事をしている様子であった。年頃の乙女である、何かと悩み事も多いことだろう。

 だが面白いことにフロリアンへ到着すると乙女の面持ちは晴れ晴れとした笑顔に変わっていた。気持ちの良い笑顔で見上げられた私も、思わず笑顔を浮かべてしまった。

 笑顔とは往々にして伝染するものなのであろう。

 ウェイトレスに案内されるまま今回は壁側の席へ腰を降ろし、ついでに珈琲を注文した。

 一様、観葉植物や外国の風景画などが飾られてあったが、やはり一番の花は私の向かいに腰を降ろす乙女その人だけである。これはこれで困った、私の乏しい知識と経験からすれ、乙女と面と向かって長々と話すには全てが頼りなくそして、不足し過ぎている。だから、先の喫茶の席では折を見て、外に視線をそらして事なきを得たのだったが、この度はすでに八方塞がりであった。

 だが、

 先日の御手紙なのですが。と黒髪の乙女は徐にそう言い、

「その、勝太郎さんがお花を携えて訪問なさってくださった折、私は丁度実家に帰っておりまして、留守にしていたのです」と首を傾げながら言ったのだった。

「しかし、確かに明かりがついてました……それでは……誰が……?」

 私も乙女と同じように首を傾げた、二人揃って同じ方向へ首を傾げている風景など、端から見れば、なんとも面白い絵だろう。

 もしかして……。と乙女は視線をテーブルに落とした。

 そしてそれから玉響の間があり、彼女は大學から家に帰って来ると開けた覚えのない箪笥が開いていたり、果物が無くなっていたり、下着が廊下に落ちていたりと、明かに『不自然』な事象が続き、恐くなり実家へ難を逃れた旨を話してくれた。

 私は明瞭に腑で劫火を燃やしたことは言うまでもあるまい。咲恵さんのような妙齢たる乙女にお近づきになれぬからと言い、男子のいや人としての尊厳をうち捨て、そして独女たる乙女の家に土足で踏み入れ、消して触れてはならぬ白の園をいじくり回すとは言語道断。私の頼りない鉄拳にて制裁してくれる!そうだ、頼りなくとも流星の早さで私の拳は唸りをあげることだろう。私は「咲恵さんが無事で本当に良かったです」と優しく語りかける一方でその不埒者に今世紀最大の激昂をくべていた。

 お心遣いありがとうございます。乙女は、小さく頷いてそう言った。

「お話はかわってしまいますが、御手紙にも記しました、あの日、お姉様もお母様も御礼を込めて、夕餉をご馳走する算段だったそうですよ」 

「御礼と言われましても私には覚えがありませんできっと何かの勘違いですよ……ですから、御礼にはおよびません。ですが、その勘違いのおかげで咲恵さんとお話ができましたから……瑞穂さんたちの勘違いに感謝しなければなりません」

 私は顔から火が出る勢いだった。なんと木っ端恥ずかしいことだろうか、本心ゆえに嘘偽りは皆無ながら、真実ゆえに恥ずかしい。私は俯いてしまったが、

「まあ」

 私の言葉に乙女も小さくそう言うと俯いてしまった様子であった。

 その後、どちらが話し出すでもなく俯いたまま、少しの時間が流れ、「おまちどおさまでございました」と言いながらウェイターが珈琲を運んでやってきた。

 時の氏神と顔を上げた私。その向かいでは乙女も私の顔を上目遣いで見ながらゆっくりと顔を上げていた。

 私はその視線に心臓が破裂してしまいそうになったため、急いで珈琲に大量の砂糖とミルクを流し込んでスプーンで竜巻のごとく掻き回した。その際カチカチと音を立ててしまったのはもはやご愛敬であろう。

「あの」「あの」

 私が意を決して切り出すと、こともあろうに乙女も時を同じくして切り出したのだった。

 何という偶然だろうか。私はそんな偶然に戸惑いつつも、どうしたものかと口をつぐんでしまったのだった。

「勝太郎さんからどうぞ」

「いえいえ、咲恵さんからどうぞ」 

 どうして、乙女の言葉に甘えなかったのだろうか……

「それでは私から、お姉様が改めて御礼を申したいとおっしゃっておりましたから、後日、日を改めて、お時間をよろしいでしょうか」

「そんな、御礼だなんて……恐縮です」

 私の豆腐のような頭の中には、天使のような笑みを浮かべながら頬に淡くチークをのせた瑞穂さんの顔が浮かび上がっていた。

 今でも思い出すと、胸辺りが熱を宿す。髪の毛がもう少し長ければ、そして胸元が小山であれば、私はたちまち虜となっていたのである。忘れろという方が無理難題であろう。

 失礼にも黒髪の乙女を前に姉妹たろうとも別の女性のことを思い浮かべてしまった私は、ついついぼーっとしてしまい、

「勝太郎さんの番です」と乙女に言われてしまった。

「八月の一日に祭りがあるのはご存じでしょうか」

「はい。存じておりますよ。生駒神社のお祭りですね」

「そう……そうです。それで……」

「それで……何でしょうか?」

再び首を傾げる乙女。私は生唾を大量に飲み込む、緊張あまって体は温度を失いまるで石像のようになってしまった。

 しかし、これだけは言わなければならないのだ。毎年八月の一日を苦々しく思っていた、だが、今年はそうなるまいと思いたいのである。だから私は意を決して言った。

「その、その祭りに……私と一緒に行きませんか」と。

「一緒にですか?」 

「はい、是非とも咲恵さんとご一緒したく」

 乙女は私の誘いに目を大きくしてきょとんとしていた。その間、私は恥ずかしいやらもどかしいやらで、そわそわとし、慌てて「美味しい林檎飴屋を教えて差し上げます」と付け加えた。

 乙女はいつしか大きく見開いていた目を下げて視線を泳がせていた。そして、過去のいつの日か私を虜としてようにほんのりと頬に紅をのせ、口をすぼめた表情で「ご一緒します」と小さく言ったのだった。

 その一言を聞いて私は、強張っていた全身からまるで筋肉と言う筋肉が流れ出るように脱力し、ぼんやりと天井を見上げていた。それはもう穴が開いてしまうほど、やはりぼおっと天井だけを見上げていたのである。

 乙女はそんな私に、少し熱っぽいのです。と言って自分の額に手をやった。

「夏風邪をひいてしまったのかもしれません」と続けて言うと莞爾として笑ったのであった。 

      ◇


 本日は、乙女は薄い萌葱色のワンピースに純白のブラウスで出掛けることといたしました。少しばかし気軽すぎやしまいかと、思いもしましたけれど、私はお姉様から頂いた林檎のブローチを勝太郎さんに見て欲しかったのです。

このブローチは陶芸倶楽部にも所属してらっしゃいますお姉様が林檎の好きな私を想って私にプレゼントするため、私のためにのみ拵えて下さった一品なのです。ですから。私は、早くこのブローチをつけてお出掛けなどをしてみたいと思い、夜も眠れないほどだったのですが、大學夏期休暇の始まったばかりですから、大學へは行けませんし、本屋街へお買い物へ行くのに身に着けて行くと言うのも、お姉様に申し訳ない気がしてならず、結局、枕元にずっと置いたままでした。

 だって、お姉様の想いがこもったブローチですよ、特別な日に目見えさせたいと思う気持ちは誰にでもわかっていただけると思います。

 ですから、勝太郎さんと喫茶をする本日を選んで初お目見えを決めたのです。

 朝早くから身だしなみに余念無くいたしましたし、朝食もお腹がぽっこりしてはいけませんから、少なめにしました。もう姿見の前に何度立ってみたことでしょう。

 朝早くから起き出してしまいましたので、お約束の時間まで随分と余裕がありました。ですから、私はソファに座ったり寝転んだりしながら読みかけのグリム童話を読んでおりましたけれど、一向に集中できず、ページを捲る度に柱時計を見上げてはそわそわとするのです。

 とにかくじっとしていられなかった私は、玄関に出て思い切り背伸びをしました。今日も良いお天気です。蝉も活き活きと蝉時雨とて聞き慣れた季節の合唱でしょう。

 ふっと地面を見やりますと、雑草がちらほらと生えております。これは、外からみたなればとても不細工でしょう、と私は膝を折って雑草を引き抜きました。するとどうでしょう。うまく引き抜けなかった雑草が地面に散らばって余計に汚してしまったではありませんか。

 私は眉を顰めて頬を膨らませてみましたが、私がしでかしたことですし、この家には私しか住んでおりませんから、私が片付けなければ誰も片付けをしてくれません。

 外回りの掃除をしている場合ではないのですが……と思いつつ、ご飯の上に振りかけをまぶしたように細かい緑色が散乱した地面を見やりますと、どうしても掃除をしなければと頭が痛いのでした。

 私は竹箒を取りに家の裏の物置に向かいました。私がこの家に下宿が決まった時にお父様がわざわざ拵えて下さったものなのでしたが、実のところを申しますとそんなに開けたことはないのです。何せ、小屋の中は昼間でも薄暗いですし、天井には蜘蛛の巣が所狭しと張ってあります。以前に開けた時など、鼠が私目掛けて駆けてきたのですよ。そんなこともあって、小屋に収められた道具とてほとんど新品のままですし、竹箒など使用頻度の高いものは小屋の手前に置いてあるのでした。

 私は恐る恐る小屋の引き戸を少し開けると、後は腕だけを入れて手探りで竹箒を探して、手に当たると無理矢理引っ張り出して、急いで引き戸を閉めました。そして、野球帰りの子どもがバットを肩にのせるように竹箒を肩に勇ましく玄関まで帰って来たのでした。

 これで恐いものはありません。早速地面をはき始めた私でしたが、どうにも力が入りません。雑草が生えてしまうまでほったらかしにして、掃き掃除を疎かにしていたせいで、箒の扱い方も忘れてしまったのでしょうか……それは恥ずかしいことです。私は、うんと力を入れて箒を走らせました。

 するとどうでしょう。

「あ……」

 バターがとろけてしまうように、箒の先がぽてんと倒れてしまったのです。慌てて、寝転んでいる先っぽを手にとってみると、しっかり折れてしまっていました。

 無理矢理引っ張りだしたり、剣道の真似事をしてみたり、時には野球の素振りなども真似をしたことがありました。ですが、致命的だったのは、やはり家の前の溝掃除をした後に乾燥させずに片づけてしまったのがいけなかったのでしょうか。

 私は無惨な竹箒を見つめながら「ごめんさい」と呟きながら、優しく、折れた断面を合わせて差し込んでみました。すると、見た目には立派な竹箒に戻ったではありませんか!

 もちろん私は治ったと内心では喜々として笑いたい気持ちとなりました、けれど、指でつついてみますと、すぐに先っぽが取れてしまうのです。

 何度となくそれを繰り返した私でしたが、「ごめんさい、ご苦労様でした」と再び謝り、労を労った後に、先っぽを差し込んだままドアの横に置いてある傘立てに差しておきました。

 すっかり汗をかいてしまいました。

 私は柱時計を見上げて安堵の息をついてから、濡れた手拭いで体を拭いてから自室のベットの上に出しておいた洋服に着替えました。色々な方向からおかしいところはないでしょうかと一頻り眺めた後、最後にお姉様から頂いた林檎のブリーチを胸元につけました。

 まだ、お約束の時間には早かったのですが、これ以上家の中に居ては、また何かを壊してしまうかもしれませんし、余計なことに気を回して結局お約束の時間に遅れるようなことがあってはいけません。それに、遅れるよりは早く到着しているほうが良いに決まっているのです。

 私は戸締まりをしてから、家を出てフロリアンへ向けて歩き出しました。お約束の刻限までには十分時間がありますから、時間をつぶす意味も込めて、遠回りと竜田橋の方向からフロリアンへ向かうことにしたのでした。

 お昼前の一番暑い時分、地面には逃げ水がふよふよとしております。

 私は遠回りなどせずに、フロリアンの中で待っていればよかったとしみじみ思っておりましたが、竜田橋の上に見たことのあるマントを羽織った男性を見つけると、遠回りをしてよかったと思い直し、そっと近づいて声を掛けたのです。

「勝太郎さん」 

白昼堂々、婦女から殿方に声を掛けるなどと一目を憚りますから、できるだけ小声で勝太郎さんにだけ聞こえる声でした。

「これは咲恵さん、奇遇ですね」

 勝太郎は別段驚く様子もなく、振り向いて、小さくお辞儀をして下さいました。

 私もお辞儀を返してから、

「少しばかり早く出てしまったと、思いましたけれど、勝太郎さんと出会えましたからよかったです」私のお洋服を見て下さいます勝太郎にそう言ったのでした。

 本当に奇遇です。まさかこんなところで会うことができるなんて!勝太郎さんは私の胸元を見やった後、目元をとろんとしてずっと私の顔を見つめてらっしゃいました。

 相手が同性であっても、面と向かって見つめられると恥ずかしいものです。ですから、異性である勝太郎さんに見つめられると、恥ずかしいなどと言う程度のお話しではありませんで、私は恥ずかしさあまって「私の顔に何かついていますか?」と首を傾げたのでした。

すると勝太郎さんは、「いえ、本日も随分と暑いですから、早くフロリアンへ行きましょう」と早口で言うのです。

「はい」

 とお答えした私でしたけれど、今日のお洋服は……取り立ててブローチには自身がありましたから、ほんの少しでもよいのです。乙女心にも褒めて頂けたなら、どんなに嬉しいことでしょう。

 けれど、勝太郎さんが褒めて下さらないかぎりは、褒めるに至らないのかそれとも、私の一人の独りよがりだったのでしょうか…………

 口唇を尖らせていた私ですが、横目で勝太郎さんを見ますと、何か物思いに耽って居る様子です。何か悩み事でもあるのでしょうか。もしかしたら、私のお洋服にブローチに気を止める余裕さえない程に悩み藻掻いているのでは……そう思うと、私は尖らせていた口唇を緩めて微笑みをつくったのでした。笑顔は伝染するのです。ですから、私は笑顔をつくったのでした。

 フロリアンのドアを開けて下さった勝太郎さんに私は感謝の気持ちを込めて、笑顔で見上げました。すると、勝太郎さんも微笑み返しをして下さるのです。やはり笑顔は伝染するものなのでしょう。

 本日は、窓側の席ではなく店の奥、壁側の席に案内されました。腰を降ろす間際に勝太郎さんが「今日は何を飲まれますか?」と聞いて下さいましたので「珈琲で結構です」とお答えしました。

 その席からは観葉植物や外国の風景でしょう、風景画が見ることができましたし、窓側の席で慎ましくも談笑を楽しむ男女の姿も見ることができました。私もあのように饒舌になって勝太郎さんと面白可笑しく談笑ができたら、どれだけ素敵なことでしょうと思いながら、風景の中心にいる勝太郎さんの顔を見るのでした。

 そして、先日の御手紙のなのですが、と私は話しを切り出しました。

「その、勝太郎さんがお花を携えて訪問なさってくださった折、私は丁度実家に帰っておりまして、留守にしていたのです」そう首を傾げながら続けて言いますと、勝太郎さんも「しかし、確かに明かりがついてました……それでは……誰が……?」と私と同じ方向へ首を傾げたのです。

 二人して同じ方向へ首を傾げているのですから、それはオモチロイ格好でしょうと思いました。けれど、もしかして、と気が付くと、私はどうしようもなく不安になって、俯いてしまいました。

 今更、勝太郎さんに打ち明けても仕方のないことでしたが、どうしようもなく不安になってしまった私は、実家に帰る前におこった不自然な出来事をお話しました。

 すると、勝太郎さんは、まるで自分のことのように憤怒してくださったのでした。顔色こそかえられませんでしたが、硬く握り締められた拳はわなわなと震えていたのです。

「咲恵さんが無事で本当に良かったです」

 激昂の心中においても、愛情細やかに私の事を案じて下さいます。勝太郎さんは心優しい殿方なのですねと私は言葉にできないながらも、そう思いました。

 これ以上お話をしても、どうすることもできませんし、勝太郎さんの心中を無駄に騒がすのも気が引けますから、「お心遣いありがとうございます」と慎ましく御礼を述べた後に、「お話はかわってしまいますが、御手紙にも記しました、あの日、お姉様もお母様も御礼を込めて、夕餉をご馳走する算段だったそうですよ」と私の方から話題を変えたのでした。

「御礼と言われましても私には覚えがありませんできっと何かの勘違いですよ……ですから、御礼にはおよびません。ですが、その勘違いのおかげで咲恵さんとお話ができましたから……瑞穂さんたちの勘違いに感謝しなければなりません」

 勝太郎さんはそう言った後、俯いてしまいました。

 私も「まあ」と俯いてしまいます。私とお話ができただけですのに、そんな……

 それから、私と勝太郎さんは時折聞こえてくる談笑の声を耳にしながら、少しの間俯き合ったままでしたが、「おまちどうさまでした」とウェイターの方が珈琲を運んで来て下さいますと、何となく話し出す切っ掛けができたように思えました。

 勝太郎さんは、カチカチと音を立てながらスプーンで珈琲をかき混ぜてらっしゃいましたが、私は話し出す機会を窺っておりましたので、それどころではありません。

 そして、勝太郎さんがスプーンを置いた時を見計らって、

「あの」「あの」  

 と言ったのですが、ものの見事に勝太郎さんと声が重なってしまいました。 

「勝太郎さんからどうぞ」

「いえいえ、咲恵さんからどうぞ」

 また口をつぐんでしまいそうでしたが、折角のお話の席をですのに、黙り合っているのは面白くありませんし、私はもっと勝太郎さんとお話がしたかったのです。

 ですから、「それでは私から、お姉様が改めて御礼を申したいとおっしゃっておりましたから、後日、日を改めて、お時間をよろしいでしょうか」と差し出がましくも私の方からお話をしたのでした。

「そんな、御礼だなんて……恐縮です」 

 勝太郎さんはそう言うと珈琲を覗き込んでしまいました。それから、少しの間にやにやと何やら思いを巡らせている様子なのです。

 そんなにオモチロイことなら私にも教えてほしいと思うのが一般的ですけれど、それを聞いてしまっては乙女の慎みに欠けますので、私はあえてお聞きせず「勝太郎さんの番です」と言うにとどまるのでした。

「八月の一日に祭りがあるのはご存じでしょうか」

「はい。存じておりますよ。生駒神社のお祭りですね」

 ようやく、お話らしいお話になりそうです。お祭りでしたら、毎年お姉様と御一緒に出掛けておりましたし、林檎飴とお面と綿菓子は必ず買っておりました。

「そう……そうです。それで……」

「それで……何でしょうか?」

 私はいつ、お面のお話や林檎飴や綿菓子のお話などをしましょうかと、勝太郎さんの言葉を待っておりました。

 すると「その、その祭りに……私と一緒に行きませんか」とおっしゃるではありませんか……「一緒にですか?」ついそう聞き返してしまいました。 

「はい、是非とも咲恵さんとご一緒したく」

 私は目を大きくして口を鯉のようにぱくぱくさせていました。

「美味しい林檎飴屋を教えて差し上げます」

 勝太郎さんは取り繕うように慌てて、そう付け加えました。

 ですが、私はまだ冷静になれないでいたのですした。何せ、私は林檎飴やお面に綿菓子の話しをしたくてうずうずしておりました。ですから、その用意しかしていなかったわけでして……よもやお祭りのお誘いを受けるなんて、誰が予想などできたでしょうか…… 

 私は混乱をしておりました、誠に混乱をしていたのです。こんな時にお姉様になんと言ってお断りをしたらよろしいでしょうと考えてみたり、今更ながら自分でこしらえた浴衣に自信がなくなってきてしまったり、大凡明後日の方向へ向けて私は思慮を巡らせていたのです。

 そして、一回りして『是非とも咲恵さんとご一緒したく』と言う勝太郎さんの言葉が蘇ったのです。

 そうなのです。お姉様へのお断りや浴衣の善し悪しなど、ただの言い訳でしかありません。

 お祭りと言えば、毎年お姉様と一緒に行くのが通例でしたから、殿方と夏祭りに行くだなんて、行くだなんて!

 少しでも夏の星空の下を林檎飴や綿菓子を手に勝太郎さんと歩く絵を想像してしまうと、顔が真っ赤になってしまうようでした。ですが、もう遅かったのです、顔はすでに火照ってしまっていましたし、知らずのうちに口元をすぼめてしまっていたものですから、

「ご一緒します」そのおかげで、声が小さくなってしまいました。

 勝太郎さんは私の返事を聞くと、どうされたのでしょう、ぼぉーっとして天井をずっと見つめていました。口をあんぐりと開けているものですから、もしや急な睡魔に襲われたのではとも思いましたが、私がすっかり温くなってしまった珈琲を二口ほど飲んでいますと、ようやく視線を私の顔に戻しました。

 そして私の顔をずっと見つめるものですから、私はつい恥ずかしくなって、「少し熱っぽいのです」と熱を測るように額に手をやりました。

 すると、勝太郎さんは何か言いたげに口を開いて、困った表情をされましたので、私は続けて「夏風邪をひいてしまったのかもしれません」と言いながら向日葵にも負けない笑顔になったのでした。

 

      ◇


 前途は多難にして、その後のお話しは誠に弾んだ。ゴムボールのごとく弾んだのである。

話題はと言うとお祭りであり、瑞穂さんの話しやもちろん乙女の自身の話もあった。毎年のように金魚すくいや射的に挑戦していることや、正月でもないのに神社にておみくじを引くことなど、私は終始聞き手にまわっていたのだったが、向日葵のように燦然と話す乙女を見ているだけで私の心は清められていった。

 そして深く後悔したのである。どうして私は祭に出かけなかったのだろうかと……八月一日と言えば、浴衣姿の乙女に同じく浴衣姿の男が仲良く我が居城である流々荘の前を通り過ぎるのを四畳間の窓から羨ましくも妬ましく……苦々しく見下ろしていたにすぎなかった。

 ささくれだった私の心中が時に一目も憚らず腕を組む浴衣の男女に唾棄せよと、唾を吐きかけたこともあった。

 幾星霜と間違えた祭の過ごし方をしていた私である。乙女のように楽しくも悦楽な思い出があるわけもなし、少しも共感できないことが虚しくも寂しかった。

「ごめんなさい。今日は私ばかりが喋ってばかりでした」

 私が後悔の念に苛まれていると、隣を歩く乙女が不意にそう言った。それは私の願望と男子の義務と乙女を家まで送る旨を伝え、これを乙女が了承してからほんのわずかが経った頃であった。

「いえ、私はとても楽しい時間を過ごせて満足ですよ。あまりに咲恵さんが楽しそうにお話しをされるものですから、私まで楽しくなってしまいました」

 事実である。

 それに、そもそも、私が乙女を家まで送りたいと思ったのは、義務というのはあくまでも建前であり、往々にして私の願望が本音なのだ。もう少し乙女の話を聞いていたいと思ったに相違ない。

「そう言っていただけると心苦しさも幾ばくかは穏やかになります。けれど、勝太郎さんも何かお話し下さい。私は勝太郎さんのお話しもお聞きしたいのです」

 そう言って私を見上げる乙女の瞳には明確な罪悪の後悔が見て取れた。

 私の話など乙女にの口には断じて合うまい……それに味合わせたくもない。大學に入学してより、私はとにかく乙女とは路線を格別した場所に身を置き、良くて荒み悪くて絶望の日々のみを過ごしてきたのである。

 黒髪の乙女と文通を交わすようになって、私にもようやっと明光が差したのだから。

 だからそこ、私は乙女の純粋にかつ悦喜として語られる、まるで林檎飴のように甘酸っぱい話しの方が耳に優しく心身ともに癒される。

 やはり私が出しゃばって口を開けばたちまち、咲恵さんの忌諱に触れるだけなのである。

 だが、「私の話など面白くもなんともありませんから、どうぞ、お話しを続けてください」と私が言っても、乙女は頑として口を開かず、飽くまで私の顔を見上げているに止まっていたのであった。

 それこそ、乙女は意外と頑固であり沈黙を厳守し続けたのは、家の前に至までであった。

 仕方なし。私は乙女と竜田橋で会った時より思っていたことを喋ることにした。

「今日の洋服は咲恵さんに良く似合ってますね。特にその林檎のブローチは可愛らしくて愛らしくて……咲恵さんそのものだと思います」 

 このようなことは、出会い頭に言っておくべきだと我ながら思った。少なからず別れ際に伝えることではなかろう。

「そんな、私が……可愛らしく愛らしいだなんて……」

 乙女は目に見えて照れていた。両膝を擦り合わせてもじもじとしながら、新雪の頬に南天の実を添える。まるで雪ウサギのように可愛らしいその姿を見ていると自分で口走っておきながら、私も照れて言葉を探すよりも先に手を頭をやっていたのであった。

 きっと私の顔も赤く色づいていたことだろう。だが、幸いにして私の顔は無条件に赤いはずなのだ。

 何せ、正面の遥か空には朱光を讃える落日が輝いていたのだから。

「勝太郎さん!」

 私が感傷に浸っていると、乙女が急に青ざめた声と共に、私の後ろに隠れた。

「どうかされましたか?」

 虫でもいたのだろうかと思ったのだが……

「家の灯りが……灯りがついています」

 と指を差すのである。

 見やると確かに明かりが灯っていた。そんなはずはない、家の主である咲恵さんがここにいて、真っ昼間からフロリアンにてお茶を楽しんでいた私たちなのだ、気でも違わないかぎりは昼間から部屋の明かりなど灯そうはずがない。

「……」 

 私は息を飲んだ。これぞ、まさに喫茶の折りに聞いた狼藉者の所行ではあるまいか。乙女は胸のところで両手を握り小さくなって、心なしか震えていた。

 私はそんな乙女を今一度一瞥してから、むんと胸を張り、門柱に手を掛けたのである。「勝太郎さん」  

「咲恵さんは外で待っていてください」

 私は言った。迷いもなくそう言った。清々しくもなんと男らしく格好の良いことだろう。まるでキネマの主人公にでもなったような面持ちである。

 だが、本当のところは恐怖で精一杯だった。私は武術の心得もなければ日々精神肉体ともにまったく磨きをかけていないのだ。

 その私がどうして勇ましくも、得体の知れぬ不道者と対峙と退治ができると言うのだろう。それでも、玄関の傘立てに差してあった竹箒を片手に施錠の解かれたドアに手を掛けたのは、一重に背中に注がれる乙女の視線と、自分で切った大見得の後始末に困ってしまったからであった……

 靴を脱ぎ玄関から入った私は、足音を立てまいと抜き足差し足忍び足で廊下を歩き、居間へと繋がるドアの側面の壁に背を張り付かせ、深く息を吐きそして吸い込み、苦しくなってまた深く吐き出した。

 部屋の中からは物色している物音が聞こえてくる。それが生々しくも私の鼓動と脂汗を促進させた。汗ばむ昨今において、背中には悪寒と冷や汗でびっしょりである。

 勝負は泣いても笑っても一回こっきり。不意打ちでのみ相手を倒せなければ大凡私の勝ち目は無に帰すだろう。幸いにしてドアは半分開いており、私は部屋の中を覗くことができた。

 明るい室内には手ぬぐいをベルトに通した後ろ姿が見てとれる。手ぬぐいとズボンの一部しか見あたらなかったが、それだけでも相手が恰幅と言えず貧相であることがうかがい知れた。困窮迫っての悪行だろう。

 よりにもよって我が心のオアシスである咲恵さんの家に押し入るとは、迷惑千万にしてやはり許し難き悪辣漢である。

 私は幾ばくかの安心と頼りない自信を得ると、額に浮いた油汗を拭い、いざ勝負っ!とドアを勢いよく開けて竹箒を先頭に池田屋へ切り込んだ新撰組がごとく、狼藉者へ斬りかかったのであった。

 が……竹箒を振り下ろす前に、どういうわけか、箒の先が離脱して飛んで行ったのである。箒の先はこれまさに私さえも予期せぬ不意打ちとなって、不埒漢へと飛んで行ったのだが、「ふひゃ」と男が妖怪の断末魔の声を上げ尻餅をつきながらもこれを既の所でかわし、目標を失った箒の先は見事な回転を見せながら、ものの見事に酸漿が飾られた花瓶に命中した。その後、刹那に花瓶は緩やかに落下すると、軽調なれど耳に痛い叫び声を上げて破片を床の上に四散させたのである。

「あぶないなあ」

「おっ!お前何をしているんだ」

 古平は「いちち」と尻をさすりながら立ち上がると、「おやおや、これは珍しい所で会いましたね」と気色の悪い笑みを浮かべ、「でも先客は私ですよ」と続けた。

「靴を脱げ!そして今すぐに出て行け!」

「靴を脱ぐ律儀な泥棒がどこにいますか……って、本当に脱いでやがる。あなたは類い希なる本物の阿呆だ」 

 けけけと古平は腹に手をやって私を笑った 

「やかましい。今すぐ出て行かないと、この箒で打ち据えてなますにしてやるぞ」

 私は本気であった、柄である竹のみとなってしまった箒は見れば、所々に虫食いの穴が開いてあったりカビが生えていたりと一撃くれてやれば裂けてしまいそうなほど、脆い姿であった。しかし!今の私は自他ともに認める正義の味方なのである。いや乙女の味方、しいては咲恵さんの味方なのである!古平ごとき妖怪と同じにされてたまるか!

「それをぶち殺すっていうんですよ」

 呆れたようにまるで臭いモノでも見るかのように眉をひそめ、鼻をつまんでみせた古平は、箒の柄を構える私を気にもしない様子で、再び物色を始めようとしていた。

「古平」

「なんですか、僕は忙しいんだ、あなたのチャンバラに付き合ってる暇はないんですよ」

「梅雨の中頃、やはりこの家に忍び込んでいたのか」

「忍び込んでたかもしれませんね。梅雨入り頃から出入りしてましたし、そう言えば、梅雨の中頃に、忍び込んでる時分、家の主が帰って来たのかと思って冷や冷やしたことがありましたかね。家の前に花を持った男がのぞき込んでたものですから」

 それは私だ。

「まあ、よくよく考えてみれば、この家は女の一人住まいですから、差詰め、花を口実にその女に会いに来た、阿呆男だったんでしょうけどね」

 それも私だ。

「やはりぶち殺す」

 私は本気で箒の柄を振り下ろした。憎っくきむらりひょんを成敗する気で振り下ろした。

「笑えないですよ。僕は急ぎで亀甲印のタワシを探してる途中なんだ」

無論、私は古平を笑わせるつもりはなかったが、

「人の家い闖入してまでも、手に入れねばならんモノなのか」古平が自ら危険を冒すのであるからして、金儲けの他にありえまい。

 もちろん。と胸を叩いて、古平は高々と説明をした。

 何でも亀甲印のタワシと言う珍物は樹齢百年以上のシュロの毛を用い極秘の生産技術をもって作られたと言う、決して金物屋では手軽に売っていない代物であるらしかった。そして、このタワシはどんな頑固な汚れであろうとも洗剤を使用せずして摩訶不思議な洗浄力において洗い流すのだとも言った。

「ゲジのじじいの仕事か」

「それをあなたに言う筋合いはない」

 古平の目つきがかわった。真剣みを帯びたと言うよりは憤りに色が変わったと言うべきだろう。

「そうだな。今の私には興味のない話しだ。さあ家違いだ出て行け、今すぐうせろ」

「そうですね。この家はあらかた探し終わりましたし、箪笥を開けても女モノの下着しかでてきませんし、この家は諦めますよ」 

 私は激怒した。怒髪天のごとく髪の毛を逆立てて激昂した。

 清楚でありかつ純粋無比たる咲恵さんの下着に手を掛けるなど言語道断!まして、咲恵さんの話では下着が廊下に落ちていたと言うではないか。古平許すまじ、今この瞬間にその首私がもらい受ける!!

「俺がこの場で切り捨ててやる」

 私は再び古平に向けて箒の柄を振り下ろした。

 古平はそれをひょいと軽い足取りでかわして「箒で?」といやらしい笑みを浮かべた。

 私は古平の足元に落ちている三角形に近い白い布を見つけて目元を痙攣させ、我が手に宿る獲物は紛うことなき妖刀村正であると思い込むと、一心不乱に振り回した。

 それはもう振り回した、柱に当たって幾ばくかの竹片が宙を舞ったが、逃げ回る古平を仕留めるまで私の箒の柄捌きは止まる気配を見せなかった。

「勝太郎さん、ひどい音がしましたけれど大丈夫ですか?」

 阿修羅とかした私の手を止めたのは玄関から聞こえて来たそんな乙女の不安そうなか細い声であった。

「しまっ」 

 私が油断した隙に古平は台所にある勝手口から脱兎してしまったのである。夏夜にこぞって動き出す黒い虫よりも厄介な奴である。

 私は箒の柄を床に置くと「大丈夫です」と乙女に返事をしながら、床の上に散らばった花瓶の破片とユーラシア大陸のように広がった、水溜まりを袖などを使って片付けていた。

「本当ですか」

 乙女は恐る恐る。本当に恐る恐る、ドアから顔だけを出すと、部屋の中に私の姿のみがあることを確認してから、ようやく私の元へ歩み寄って来たのである。

「泥棒は私が成敗しておきました。逃してしまいましたが、男の姿があるとわかればもう二度と来ることはないでしょう」

 そして「格闘の最中、咲恵さんの大切な花瓶を割ってしまいました」と嘘をついたのであった。

 そんなこと、と咲恵さんは言うと、私の足元に落ちている白い布を急いで拾い上げるとポケットに隠して、

「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらよいのでしょう。そのようなものは私が後で片しておきますから」そう言いながら私と肩を並べて、花瓶の破片を広い始めたのだった。

 その時、偶然にも私と乙女の手が触れてしまった。張りのある白い指先はまるでマシュマロのように見えた。きっとそれに相違なかろう。しかし、私が触れたのは運悪くも中指での先であり、丁度、ペンだこの部分であった。

 だが、私と乙女はとっさに触れた手を引き、それはもうまるで磁石のように……その後、私は幾ばくか淡くも今にも逃げ出したい面持ちとなってしまった。私は不可抗力にも乙女の家の中におり、そして、初めて乙女の肌に触れたのである。

 私の中の一片の理性やら倫理やらそれに準ずる精神的抑制のたがが外れてしまえば、今すぐにでも乙女を押し倒してしまいそうである。そこまでの意気地はないとしても、口唇の貞操を奪ってしまいかねない……

「それでは、私はこれにて」

 私はそれだけ言うと静かに立ち上がった。

 夕暮れにして桃色の妄想を抱きかけた私だったが、指先に触れられただけで、その手を胸の前で抱くようにしてフランス人形のように沈黙してしてしまった乙女の姿を見ると、どうしてか、不潔な妄想すら抱くことに萎えてしまった。

 私は男子として、男子らしい生粋の阿呆である。だが、だが……愛してやまない意中の乙女の前でだけは最後まで正義漢でいたいと切に思ったのかもしれない……

「お茶などいかがですか?美味しいお紅茶があるのです」

 乙女は私を引き留めるようにそう言って立ち上がると、私の返事を待たずして、はぐらかすように台所へ駆けて行ってしまった。

 私はそんな乙女の小さな背中を見つめてさぞかし恐かったことだろうと思った。誰とも知れぬ暴者が住居の中へ押し入っていたのである。もしも乙女のみが鉢合わせしていたならば、その時、暴者が古平でなかったとしたなれば……乙女はきっと多くのモノを失っていたに違いない。

 年頃の娘は純情にしてそれだけ尊くも多くの大切なモノをその身に宿しているのだ。

 私は咲恵さんに同情するとともに、やはり古平は後日成敗せなばなるまいと心に誓った。

そして、床に散った花瓶の破片をひとまとめにしてから、

「それには及びません。こんな時分にこの家に男が出入りしておりますと、咲恵さんの沽券にかかわります」と潔くも堂々と退散することにしたのであった。

 慌てて玄関まで駆けて来た咲恵さんは「本当にありがとうございました」と端麗なお辞儀をしてくれた。

「いえいえ、咲恵さんのためになれて男冥利に尽きます」と私は照れ隠しと頭を掻いた。

「また、私と喫茶をご一緒してくださいませね。その折りはどうか私にごちそうさせて下さい」 

 神妙な面持ちであった。どうしてこの黒髪の乙女はこれほどまでに愛くるしいのだろう。

これほどの真善美を宿した女性がどうして、今だに独り身であり恋人の一人もいないのだろう。私を除いて世の男子どもは皆、余程の節穴しか持ち合わせていないらしい。

 申し訳なさそうな表情を浮かべる乙女を前に私はそんなことを考えていた。

 帰り道、枯れ木も山の賑わいと粗末な街灯に照らされながら、私はペンだこながら繊細で汚れ無き乙女の指と触れた自身の汚れた手をまじまじと見つめて流々荘へ向かって歩いていた。夜のとばりが降りはじめた帰路の途中、何度も電柱に頭をぶつけたが、痛みと言う感覚は皆無であり、私は色を濃くした月に向かって更なる誓いを立てた。

 この手は一生洗うまいと! 

 

      ◇


 勝太郎さんは本当に頼りになる殿方です。私は勝太郎さんと触れてしまった指先を見つめて恍惚となっておりましたが、やがて一人の時間が長くなると次第に、寂しくも不安になってしまったのです。

 勝太郎さんは二度と来ることはないとおっしゃいましたが、不埒漢のことですから、気まぐれに思い直して、再びやって来るかもしれないのです。私は厳重に厳重に戸締まりをしてから、水差しを手に自室へ逃げ込んでベットの上で縮こまっていたのでした。

 眠れぬ夜を過ごした私は、窓から差し込むささやかな陽のベールに今日を生きる希望を見たような気がして、ひと夜とはこんなに長いものだったのですねと。夜中を安眠できる幸せを噛み締めました。

 一睡もしていないのですからきっと青い顔をしているでしょうと洗面所へ行って顔を洗って鏡を見てみましたが、血色良くいつもと同じ顔色でした。

 私は少しがっかりしてから、目を擦りながら台所へ行くと、林檎の皮を剥いている時に、はっとなって果物ナイフを持ったまま身構えたのです。

 もしも泥棒がいたなら、この家に勝太郎さんはおりませんから私が戦わなければならないのです。なのになのに……私ったら、一番危険な居間を素通りして台所で呑気に朝餉の準備をしているなんて!

 このような後悔をしている暇があるのですから、居間にも台所にも誰もおりませんでした。

 それでも一抹の不安を払拭すべく、客間や離れ座敷にも行きましたし、念のためにお手洗いも覗いて見ました。

「ふぅ」 

 私は誰もいないことを確認すると、汗を拭うように果物ナイフを携えた手で額を拭いました。

 すると、不意に玄関のドアが開いたのです。私は驚きのあまり、その場に座り込んでしまいます。

「どうかしたの?お手洗いの前で座り込んだりして……?それに何ですか、果物ナイフなんて持って危なっかしい」

 朝日を背に、玄関に立っていたのは旅行鞄を携えたお姉様だったのでした。

「安心しました」 

 私は緊張やら安堵やらを混濁して一緒に吐き出しました。

 それから、私はお姉様と一緒に朝食を食べて、お姉様が黄金比率にて淹れて下さった。紅茶を飲みながら、お姉様の顔をまじまじと見つめました。お姉様のことですから、きっと私の意図を理解してくださることでしょう。

「実家には居づらくてね。お父様は私に新しい相手をと四方に手を尽くしておられるようなの。だけど、三行半を突き付けたことが響いて、すっかり私は〝泥つき〟なのですって…………別に私が望んでいるわけでもないのにね」

 お姉様は苦笑しながら、そう答えてくださいました。

「お姉様が悪いわけではありません!」

 そうなのです。今回の破談は松永先輩の粗悪な所行が終始なのですから、お姉様はむしろ被害を被った婦女なのです。私は憤りました。殿方は婦女遊びは男子の嗜みと鼻に掛けると言うのに、どうして婦女は『泥つき』などと不名誉にも蔑まれねばならないのですか!

憤る私を見て「 咲恵が怒ってどうするの」とお姉様は微笑みを浮かべました。

「その気持ちは嬉しいけれどね。別に私は何と呼ばれようともかまわないわ。そのお陰で望もしないお見合いや婚姻をしなくてすむのだもの。それに、それをも抱き締めて下さる殿方でないと私は体を許すつもりはないわ」 

 さすがは私のお姉様です。淑女たるもの余裕がなくてどうしますか。とお母様に口酸っぱく言われておりますけれど、お姉様のこの余裕はまさにその淑女たる美徳と言うに相応しいのでしょう。

「そんなことよりも、咲恵。そう言う意味ではあなたの方が危険なのよ」

「私ですか?」

 首を傾げる私にお姉様は呆れた表情で、

「お姉様方も丁度、咲恵と同じ年頃に婚約したの。だから、私の縁談がうまくいかないとなれば、先に咲恵の縁談が持ち上がる方が自然だもの」

「そんな……私……」

 今度こそ私は顔を蒼くしました。お年頃の乙女であることは自覚しておりましたが、そんな婚約だなんて……私は今のままが楽しいのです。特に昨今などは……取り立てて楽しい日々が続いていると言うのに……

「そう言えば、勝太郎さんとはどうなの?」

「どうなのと聞かれましても」

 そう聞かれましても正直に困ります。ただ、時折お会いして、ぎこちなくお話をするだけなのですから。

「手など握ってもらった?」

「いいえ、そんなことはありません」

「そう!咲恵が婚約したら、勝太郎さんは私がお相手して差し上げることにしましょう」

 いやらしく嬉しそうなお姉様。このような表情の時は決まって、私をからかって遊んでいるのです。ですから、私も本気にこそしませんでしたが、

「指くらいは触れたことがあります」とついつい強がってしまったのです。

「指?」

 お姉様はそう言うと首を捻ってから、部屋の中を見回します。その最中、私は昨日のことを思い出し、すっかり恥ずかしさあまって俯いてしまっていたのでした。

「そう言えば私が贈った花瓶が無くなっているけれど……もしかして、二人きりで勝太郎さんを家に……」

「違います!」 

 きっと私は顔を真っ赤にしていたことでしょう。必死に身を乗り出してお姉様の言葉を遮ったのです。その拍子に膝をテーブルにぶつけてしまい、私とお姉様の紅茶が少しこぼれてしまいました。

「紅茶のことは後で良いですから、その話を聞かせなさい」 

 台所へ台ふきんを取りに行こうとした私にお姉様が表情を強張らせてそう言います。刹那と脳裏には、はぐらかすことが浮かびましたが、すぐに沈んで行きます。

 私はソファに座りなおすとお姉様に昨日の事件の仔細を話ししました。

「ふう、勝太郎さんが居て下さって本当に良かったわね。でも、物騒なお話だこと」

 お姉様は私の話を聞き終わると強張らせた肩と頬を柔軟にして息を吐きました。

「しばらくは私もこの家に住まうから良いとして、それでも施錠は新しい物と交換しなければならないわね」

 お姉様は下唇に指をあてながら、そんな独り言を言いながら台所へ行くと、台ふきんを持って帰り、テーブルの上にこぼれた紅茶を拭き取ります。

「お姉様、どうかお母様には……」

「言うつもりはないわ。この家がなくなると私も困るもの」

 と言って下さいましたが……

「でもね咲恵。年頃の婦女には失うモノがあまりにも多いのよ。だから、私には必ず相談して。失ったモノはもう二度と戻って来ないのだから。約束して頂戴」

「はい、お約束します」

「もしも、更なる危険が伴う場合は二人して実家に帰りますからね。これは、私のためでもあり咲恵のためでもあるのだから」

「わかりました……」

 私は、すっかり温くなってしまった、カップを両手で包み込むようにして口もとへ運びます、気持ちはこんなに落ち込んでいると言うのに、舌の上に滑り込んだ紅茶は爽やかにして甘く、とても美味しいのです。それはもう嫌みなほどに……


      ◇


 昨日より私は一睡もできていません。ですから朝餉を食べて、お姉様とお話をしていると、お腹と心が満たされて、ついつい眠気に襲われてしまい。その挙げ句はソファの腕置きを枕に意識を失ってしまったのでした。

 珍しくも夢を見ませんでした。次ぎに目を開けたのは鼻腔をくすぐる甘酸っぱい香りのせいでした。

 時計を見ますに、もうお昼過ぎではありませんか、私は目を擦りながらやっと起きあがると、

「よく寝ていたわね。昨夜眠れなかったのでしょう?」と相変わらず対面に腰を降ろしているお姉様が言います。

「はい。恐くて朝までベットの上で丸くなっていました」 

 私はそう言うと台所へ向かいます。するとどうでしょう、テーブルの上にはなんとオムライスが置いてあるではありませんか。

「お姉様がこしらえて下さったのですか?!」

「丁度トマトと卵があったから、気に入らなかったら食べなくてもいいのよ」

 なんて意地悪なことをおっしゃるのでしょう。

「是非頂きます!」

 そうして私は寝起きにとても美味しいオムライスを頂いたのです。ぐっすりと眠って起きたばかりだと言うのに、温かいお料理が食べられるなどこれほどの幸せなことはありません。

 私が夢中で頬張っていますと、「そんなに急いで食べなくても逃げたりしないわよ」とお姉様は刺繍をテーブルの上において、私の隣の席に腰を降ろしました。

「美味しい?」

「はい、とても美味しいです。ほっぺが落ちてしまいました」

 私は少々大袈裟に言いました。けれど、美味しいのですから仕方ありません。

「もう、咲恵はいつまでたっても子どものようね」

 とお姉様は言いながら、私のほっぺについたご飯粒を人差し指で掠め取ると、ご自分の口へと運びます。

 そして、「咲恵が私の妹で良かったわ」と小さく呟きながら私を抱き締めるのでした。

お姉様の髪の毛からは桃のような微にですが、さり気なく心地の良い匂いがしました。

「私も瑞穂お姉様がお姉様で良かったよ思っておりますよ」

 本当のことでしたが、お姉様に向かって言うとなるとやはり照れくさいのです。

「ありがとう。お祭りでは何でも買ってあげるからね」

 私の首に回した腕を解いて、笑顔でそうおっしゃるお姉様……私ははっとしました。そうなのです、お祭りです。

「お姉様。私はお姉様に謝らなければなりません」

 私はお姉様の手を取ってとにかく謝りました。

「藪から棒に何?どうして咲恵が私に謝らなければならないの?」

「生駒神社のお祭りにご一緒するとお約束していたからです……その……お姉様と一緒に行けなくなってしまいました。」

「あら、用事でもできたのかしら?」

 お姉様は訝しむどころか、不思議とでも言いたげな表情をされています。

「いえ、そうではないのです。えっと、その……」

 思わずなんとご説明しましょうかと、私は指を絡ませてみたりテーブルの上に『の』の字を書いたりとしてするしかありません。

 私がそんなことをしていると、

「わかった。誰か他の人とご一緒するのね」と、お姉様が快哉とおっしゃったのです。

「はい……」

「そのお相手と言うのは…………勝太郎さんではなくて?」

「どうして、どうしてわかってしまったのですか?」

「そんなの簡単だわ、嬉し恥ずかしの様子が見て取れるもの。咲恵は陰ひなたがないからわかりやすいわ」

「そうなのです。この前、喫茶をご一緒した際に、お誘いされてしまいました。美味しい林檎雨屋を教えて頂けるのです……だから……」

 恥ずかしさあまって嘘をついてしまいました。林檎飴などは小さくて赤くて丸く姿見よろしければどのようなものでも良いのです。ですから、特別美味しい出店で買わなくともかまいません…………かまわないのです……

「そう、それでは致し方ないわね。そうだ、咲恵知っている?」

「何をでしょうか?」

「夏に年頃の婦女が浴衣を着ると、魔法が使えるようになるのよ」

「それはどのような魔法なのですか?」

 私は魔法と聞いて恍惚となりました。魔法とはかぼちゃを馬車にしたり、お菓子の家を建てたりすることができる魔女だけが扱える奇跡ではありませんか。

「殿方を虜にしてしまう夏だけの魔法よ」

「虜にしてしまうのですか」

「ええ、もう勝太郎さんはきっと咲恵の浴衣姿にたちまち虜になってしまうはずだわ」

 私は悪戯な笑みを浮かべるお姉様とは対照的に口許をすぼめて「そんな……」と呟くにとどまってしまいました。勝太郎さんを虜にしてしまったら、お祭りの夜はどうなるのでしょう……もしや手など繋いで……もしや、もしや……!

 私は両手を頬にあてて、目眩く桃色の世界に一人興奮していました。虜にしてしまった私が悪いのでしょうか。それとも虜になってしまった勝太郎さんが悪いのでしょうか。

 そんなくだらないことを本気で考えていたのですから、とんだお笑いぐさですね。

 待ち合わせは竜田橋の上です。私は勝太郎さんにお話しすることをすでにもう決めておりました。

 そうなのです、先日の喫茶の折りお話しできなかった林檎飴やお面に綿菓子のお話しをしようと…………


      ◇


 私は祭を楽しむために甚兵衛を買いに質屋街へ赴いて見たが、どの店にも見あたらなかった。内心ではほっとしてしまうのは、甚兵衛を買ってしまうと乙女と共に出店を巡り歩くには財布の中身が心許なくなってしまうからだろう。

 祭の夜くらい、黒髪の乙女が傍らにいる時くらいは金の算段など頭の片隅へ追いやりたいものである。だが、それができない身の上はなんとも情けない。

 それでも私は黄金に輝く朝日を連日拝むまで、一日を一食にしてどこにも出かけず内職にのみ勤しんで来たる八月一日に備えて精一杯の努力をしたのであった。

 そして、祭を明日に控えた七月の末日。私は一日中四畳間にて時を忘れて意識を悠久の園へ飛ばした。全ては明日、万全にて乙女と楽しい一時を過ごすためである。

 翌昼まで死んだように眠り続けた私は、這うようにして炊事場へ向かうと水道の蛇口にかじりついて馬謖鯨飲と腹一杯水を飲んだ。ついでに、まな板の上に取り残されてあった人参をもかみ砕いて飲み込んだ。

 腹が膨らむと私はまた四畳間へ戻り、惰眠に落ちたのである。

 背が痛い。胸が痛い。肋骨に響くように痛い。やはり煎餅布団では長時間の惰眠すらも叶わぬか。

 私は夕方まで数刻を残して、ようやく起きあがった。起きあがらざる得なかった。眠り過ぎた後遺症か、頭がもやもやふわふとする。それでも背や胸が痛いかぎりこれ以上は眠るは禁じ手であろう。

 私は内職を少ししてから、思い出したように押入を開けて物色を開始した。そして、見つけた卑猥図書を紐解いて、すっかり目を覚まし悶々とめくるめく官能の世界に思いを馳せた、そして馳せた。馳せて馳せて馳せ過ぎて疲労を覚えた。

 眉間のところを指でもみほぐしながら、卑猥図書を押入の奥へ放り投げると、さらに奥からこぢんまりとした蜜柑箱を引っ張り出した。私が大學へ入学したてほやほやと初々しかった頃、購入した過去の遺産である。

 整髪料の瓶とやらの奥に腕時計があった。

 手にとって見たが、長針と短針は微動だにしない。期待通りと言おうか予定通りと言うか……壊れているらしかった。

 それでも私はその腕時計を腕につけると、そのまま押入の戸を背に窓から注ぐ陽の光を見上げていた。

 

      ◇


 微睡みを何度か繰り返して、私は窓から差し込む光が茜色であることに気が付いた。

 かくして出陣の時である。

 私は壊れた腕時計を左腕に宿し、凛と胸を張って待ち合わせ場所である竜田橋へ歩いた。

まだ宵の口には早いと言うのに、浴衣姿の華やぐ乙女たちやら、はしゃいで父や母の手を引く子どもの姿など、眼福と微笑ましい情景が隣り合わせとしている。毎年このように華やぎ心静かにと、晴れやかになれるのであったなら、胸の内をささくれだたせて、窓からのぞく睦まじい男女に、唾を吐きかけるなどと愚行に身をやつさず、一人なれども出店を見て歩いていればよかった。祭とは縁日とは、情緒を楽しむのが本来なのかもしれない。

 竜田橋には乙女の姿はなかった。

 はたして、今は何時なのだろう。腕時計をみやっても長針と短針は見事に3の文字盤を示して重なりあって止まっている。

 橋の上には、巾着を携えた浴衣の妙齢な婦女や同じく若い男が、待ち人が来るのを心待ちにしている様子であった。

 男子が待つ身は当然なれど、婦女を待たせるとはけしからん男である。

 私はそんな憤りを覚えながらもそれすらもどこか嬉しかった。『待たせても待つ身になるな』と言う格言があるが、待つ身でありながら私は喜々とした心持ちだったのである。

 待ち人がいると言うことは、こんなにも心中がうきうきとするとは……これは、いずれ黒髪の乙女がやって来ると確信があるからであろう。古平などであったれば、私は問答無用ですでに出店の群れに足を踏み入れているところだ。

「 お待たせしてしまってすみません」

 橋の上に見あたった想い人を待つ身の上の男女らを差し置いて私の元に意中の乙女はやって来た。

 私は乙女の姿を見た刹那、どうしていいのかわからなくなった。すらっと細身であり、足とて羚羊のごとくの乙女は洋服も良く似合っている。似合っているが金魚の柄の浴衣を身に纏った乙女は、輝いていた。それはもう朝日よりも一層輝いていた。黄金ですら色褪せてしまうくらいに……

 「いえ、待つのは男の嵯峨ですから」と言った私は、続けて「金魚柄は涼しくてよろしいです。咲恵さんに良く似合ってますよ」と言った。言えたのである。

 私がそう言うと、乙女は「実は、この浴衣は私が初めて縫ったものでして、そう言って頂けるととても嬉しいです」と俯き加減に頬をすぼめて莞爾として微笑むのであった。その笑顔とてまるで黄金のように輝きを放っていた。それはもうまるで魔法を全身から漂わせているような、そんな不思議な感覚である。私はすでに咲恵さんの虜である、今すぐ川に飛び込めと言われれば迷わず飛び込むだろう。

 浴衣は乙女を彩るのだ。

 手作りではないですけれど、と乙女は前置き、

「この巾着もお揃いの生地なのですよ」と嬉しそうに、彼女は姿見可愛らしい巾着を顔の横に持ち上げて見せてくれた。

「本当に可愛らしいですね」

 私はそう言って、口許を緩めた。本当はすでに緩みっぱなしだったのだが、それ以上に緩めたのである。

 夏は夏らしく。花火も祭りもそうだが、やはり目には屋台、乙女浴衣に巾着袋。洋服も良い、しかし、やはりどうして、浴衣の方がずっと眼に映えた。

 夏祭りの夜。乙女は浴衣にかぎるのである。

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