黒髪の乙女

畑々 端子

第1話 縁は異なもの味なもの

 まずこのような語りを冒頭にせねばならないのは私のご都合である。


 支給役に徹する私が苦々しく見つめる幸せそうな二人とてその深淵を知るにとてもいたたまれぬ気持ちになり、憤慨に腑を煮えたぎらせねば私はとても人間ではあるまい。この世に仏がいるというならば、いまこそ私が逃げ出した後に雷の雨を降らせるべきなのである。

 

      ◇


その日の夜が大層賑やかであったのは、田舎町の一角を貸し切って行われた二人の婚約お披露目会が仰々しくも絢爛豪華に催されていたからである。

 未来の新郎は私の通う大学の先輩であり、名を松永と言った。謎多き部活動の先輩であり、親玉でもあった彼は、自身は〝影の暗躍者〟であると思い込んで疑わなかったようであるが、その正体は吹聴して回るまでもなく瓶底の残渣ざんさまで露呈しきっていた。松永先輩は生粋の目立ちたがりだったからである。

 多くばかりこの松永先輩について語りたいと思う。語らねば私の腹の虫が溢れ出して燦々たるありさまとなるだろう。菓子など片手の読者諸賢におかれては食欲減退は必至であるから、早々に皿の上に置かれるがよろしかろう。

 松永先輩は郷里を遠く東に置いて、わざわざ地方に出て来た変人であるが、細身の体躯と清涼感のある顔立ちには、初見の私もどうして男に生まれてきたのだろうかと疑問に思ったくらいであった。家柄もよくとかく金に困らないこの先輩は後輩の面倒見もよく、私もことあるごとに酒の席に誘われてはただ飯をかきこんだものである。その際に拝聴した高尚たる『松永論』に何度も深く頷いた私は、結果として泥沼に積極的かつ派手に飛び込み大學生活の半分を溝に捨ててしまった。

 一方では器量の大きく博学の男であり、もう一方は婦女に優しい紳士であった彼は、私が知る限り、初々しい新入生に手を出しては常に顔の違う女性と肩を並べ繁華街を闊歩していた。容姿が端麗な先輩を女性の方が放っておかなかったのであろう。

 だが、この男の本性は一言では筆舌に困る悪徳にも唾棄すべき不埒者だったのである。

 松永と言う上級生のお付きになり、後塵を拝すようになってから数ヶ月が経ったある日、大學内の地下倉庫にてキネマ研究会主催の宴会が催され、出資者である先輩は言われるまでもなく、その中央に座していた。酒が入り目が据わった頃合い、先輩は突然高らかにかつ明瞭に宣言したのである。「俺は田舎の女が好きなのだ!」と。すれた都会の女性よりも田舎の清らかかつ純粋な乙女が良いらしく、その後の話しから、わざわざ女性を口説くために郷里から出て来たと言うことを知った。それが化けの皮が剥がれ落ちた瞬間でもあったのだ。

 それからと言うもの、金をばらまいて得た人脈を駆使して、あらゆる部の部長に居座り、好みの乙女と見るや、垂涎と近づいてその毒牙にかけるのである。清らかな顔に誠実な皮をかぶっている人相であるが、その本性たるや、純情な乙女のお乳と桃色本が三度の飯よりも好物な奸邪の変態だったのだ。そんな変態にかぎって女性には不自由しないのである。誠をもって身を修め、たとえ貧賤に喘ぐとて己を曲げまいと生きる私が一度として乙女と懇ろになっていないというのは些か不条理な話しであろう。

 世の女性はそんなに綺麗な顔が良いのだろうか。

 一時は私とて嗜み程度に変態臭を漂わせてみれば、たちまち乙女との恋路などに恵まれるだろうかと血迷ったこともあったが、残念ながら私に変態などという要素を加えようものなら、寄ってくるのは蠅と警察官だけである。それに人恋しさに唾棄すべき輩の真似事などに興じたくはない。

 正義漢たろうとした私は、松永先輩の内に秘めたる悪意を密かに吹聴して回った。ある時は掲示板に文章にて警告し、またある時は屋上から手書きのビラを捲いたのである。乙女の味方、獅子身中の虫、埋伏の毒となりまさに〝影の暗躍者〟として、大學に秩序と平穏を取り戻そうと奮闘したのだ。

 だが、孤高な正義漢であった私は、図書館の蔵書全てにビラを挟んで回っているところを松永一派に現行確認され、瞬く間に吊し上げられたあげく、破門のごとく大學内から放り出されたのである。私はそれから三日間、四畳間の自室で嘆いた。

 かくして、孤高たる正義はここに潰えたのであった。

 お口直しに、忌々しい男の隣に恭しく鎮座されている淑女をご紹介したいと思う。名前など仔細の一切は知りおかないが、とにかく美人であった。肩までで切りそろえられた黒髪は艶々しく、前髪で目元は見えなかったが、鼻筋の通った端麗な顔立ちに小さな口もと。麗人と称されるためにある彫像のようである。

 私は天に唾を吐きかけたくなった。なぜ、かのよう男にこのような美人と一緒になる権利があるのだ。そして、この後の幸せな行く末を思い描く無垢な乙女に深く同情した。


「あなたには無理ですって。美人と一緒になりたきゃ、これが必要ですから」 


 気持ち悪い顔を歪ませて、指で円を象ったのは古平(こだいら)である。私の悪友にして損友である。


「何を言う。本質も見抜けない女に興味はない」


「強がりはおよしなさいって、松永先輩のことが羨ましいくせに」


 手に葡萄酒の瓶を持った古平は首元の蝶ネクタイをなおしながら言う。男子であれば、容姿端麗な乙女と懇ろになりたいと願うのはいかんともいがたい欲望であろう。


「やかましい」私は言った。


 でしょうね。と古平は笑ってから、


「仕事はして下さいよ。せっかくの機会なんですから」


「もちろんだ、幸せのお裾分けをしゃぶりつくしてやる」


「僕は骨まで食べますよ」


 私が追放されてから一年ほどが経った頃。私の元へ手紙が届いた。それは、松永先輩が婚約したのを祝うためのお披露目会の招待状であった。何を今更と破り捨てようかと思ったのだが、かような男の奸策に落ちた哀れな乙女の姿を見てやろうと、指定された場所へ赴いた。しかし、私を待っていたのは丸机に純白のテーブルクロスを飾った席ではなく、

蝶ネクタイと銀色の盆だけであった。それは紛れもなく給仕役の出で立ちであり、忌々しくもどうして私が封豕長蛇(ほしちょうだ)のごとく、悪者の為に身を粉にせねばならないのか。これは辱め以外の何ものでもなかろう。憤怒を宿して、踵を返した私の前に立ちはだかったのは誰であろう古平であった。

 人気の無い場所へ連れ出された私は、招待状の仔細を聞き、そして古平を殴ろうとしてとどまり、口もとを綻ばせたのである。

 古平の悪知恵は私にとって腹の虫を宥める好機だったのである。


      ◇

 

 私は果実酒が好みでして、葡萄酒をとくに好いておりました。姉様は糖蜜酒を愛しており、朝から牛乳のかわりに腰に手を当てて、一瓶をあけてみせると豪語するほどです。

 お父様もお母様も三人の姉様方もお酒を愛し、取り分けお母様はお酒を愛し過ぎるほどお強い婦女です。ですから、私も随分とお酒には強く一度として酔いつぶれてしまったことはありません。『酩酊するなかれ』初めて私が、ご学友と酒場へ赴くことになったその出掛け頭、お母様から頂いたご教授です。お酒に飲まれると、眠れる私が目を覚まし、はしたなしと暴れ回るやもしれませんし、その場に寝息を立ててしまいますと、同じくお酒に飲まれた殿方に何をされても文句の一つも言えません。知らぬ間にお嫁に行けなくなるのは大変困ります。私は将来、是非ともお嫁にいきたいと思っておりますから。

 歳の離れた二人の姉様はすでにお嫁に行ってしまっています。年子である一つ上のお姉様とはとても仲がよろしく、よく二人でお買い物やお酒を嗜みに出掛けました。時には羽目を外して飲み比べなる精神戦を繰り広げたこともありましたが、私もお姉様もほろ酔いになる頃には御財布の方に翳(かげり)りがみえてきましたので、いつも痛み分けで終わってしまうのです。

 お姉様と二人きりの時は、私も無手勝流にお酒を嗜みました。葡萄酒に限らずブランデーやら焼酎やら、もちろん麦酒も……お店の方は鯨飲するそんな私を見て目を丸めていました。お恥ずかしいかぎりです。

 お姉様は糖蜜酒を愛しておりましたから、終始、糖蜜酒を一途に愛し続け、契りを交わします。色々な相手に手を出す私とは違って、落ち着いた大人の女性なのでした。

 そんなお姉様も縁談がまとまり、晴れてご婚約をなされました。ですから、今、私の隣にお姉様はおりません。寂しいですけれど、生涯の伴侶を得たお姉様を妹である私が祝福せずして誰がお喜びを申し上げますか。

 お披露目会の後、私は丁重に二次会をお断りして、夜の三条通に出ました。お姉様は、大人になると一人でお酒と向き合って語らいたい時がある、とおっしゃっておりました。きっと私も大人に近づいているのでしょう。今宵はその気分だったのです。

 大好きな人が傍からいなくなると言うのはなぜにどうして、このように虚しい気持ちになるのでしょう。おめでたい二次会の席で一人だけ悄然としてお酒のお供をするなど、私にはできません。ですから、私は一人でお酒と語らおうと思ったのです。


      ◇


 お披露目会が流れ解散となり、給仕役を賜った男女が清掃要員へと姿をかえつつある頃、私と古平はそれぞれにリヤカーを押しながら宵の口の三条通りを歩いていた。荷台には騒がしく身を擦り合う洋酒瓶と麦酒瓶がすし詰めであり、さながら卸酒屋の丁稚でっちの気分である。そんな私たちの横を妙齢な黒髪の乙女が通り過ぎて行く。令嬢と言うに相応しく、顔は見ていないが背まで伸びた黒髪から察するに相場は美人と決まっている。夜の繁華街には似つかわしくない清女であった。

 「洋酒は特に高く売れますよ」と私に囁いたのは私の隣で同じくリヤカーを押す古平である。私に招待状なる忌まわしき物を送りつけたのは古平であったのだ。軽薄に考えても、卑しい先輩が旧敵である私に海容と、塩を送るはずがないのである。

 さすがに他人の幸席の給仕役を無賃でかって出る人間は少なかったらしく、旧敵たろうとも、私が給仕役を拝命したいと進み出ると先輩一派も易々とこれを受け入れた。所詮はみな、述懐奉公なのである。松永一派どもがこれほどまで衰退していようとは思ってもみなかったが、これも正義漢たる私が投じた一石の賜であろうと鼻高々であった。古平が話した本来の真相は捨て置くとして、私の仕掛けた時限爆弾はようやく日の目を見たのである。

 感慨に水を差したのは古平の悪知恵であった。私の得意とする埋伏の毒となって、この祝の席から酒を盗みだそうとそそのかしたのである。給仕役である私も古平も、酒蔵のように酒がケースで山と積まれている舞台裏への出入りは当然自由であった。古平に懐柔されたようで気に食わなかったが、この際、憎っくき我が仇敵であり乙女の天敵である先輩に、一矢報えるのであれば、古平であろうが天の邪鬼であろうが、喜んで協力してやる。

 先輩はやはり阿呆である。祝いの宴と言えども、洋酒から焼酎まで山のように買い込んでどうするつもりなのだ。いっそのこと酒屋でもはじめればよい。  


「ここです」 


 古平が足を止めて指さした先には旅館があった。老舗を思わせる風情は京都か奈良町の格子の家のようである。『稲荷』と檜だろうか一枚板の看板に黒墨で堂々と書かれてあり、『神社』と加え書きしたくなるのは私だけではあるまい。


「僕は女将さんに話しをつけて来ますから、リヤカーを裏木戸にまわしといてください」


 油断許すまじ、笑顔を浮かべて、古平は「ごめんください」と旅館の敷居を跨いで行く。

 私は渋々、目算ではなんとか通れるだろう路地をリヤカーを押して通抜けると、裏木戸の手前でリヤカーを止めた。汗ばんだ額を拭い、荷台を見やって一本飲んでやろうかと喉の渇きを訴えたが、古平のリヤカーを運ばねばなるまいと思い出してやめた。

 世の中とはわからないものである。一見して俗世間の混沌とは孤立無縁に見える老舗旅館の佇まいとは別に、我々のような盗人猛々しい輩から出所も知れぬ酒瓶を仕入れるのである。一見さんお断りと札を掲げておきながら、常連客に安い酒をだすのであるからして末恐ろしい。

 古平のリヤカーを裏木戸へ運ぶと、『稲荷』と白抜かれた半被を着た男数人が荷台の酒瓶を旅館へ運び込んでいた。


「そこらへんに置いておけばいいですよ」


 後ろから古平が現れた。随分と涼しい顔をして私を見るではないか。言っておくが、私はお前のお使いになったわけではないぞ。


「儲けは山分けですから、心配しなさんな」


 私の視線から殺気を嗅ぎ取ったのか、ますます目尻を下げてそう言う古平。古平は人間らしい人間であり、人の幸せは腹の底から妬み、人の不幸を付け合わせにと丼三杯は食えるいやらしい男である。

 真っ新な封筒を受け取った私は迷わず中身を確認した。


「まさか、相棒を裏切ったりしませんよ」


「裏切る奴にかぎってそう言うものだ」 


「そんなに疑り深いと友達なくしますよ」


「私は慎重なだけだ。それに友人を失ったのはお前のせいだろ」


「またそんな突拍子もないことを」


「嘘ではない」


 図書館で私が松永先輩の卑猥さを知らしめるべく、図書の間にビラを挟んでいるまさにその所行を現行確認し、それを先輩本人に報告したのは誰であろう古平なのだ。


「そんなこと言って、僕も巻き込もうとしたのはどこのあなたでしょ」


「当たり前だ、私一人だけ吊し上げられてたまるか」 


 結果的には古平の媚びが勝り、私だけが一派による厄難を一身に背負う羽目になったのだが。


「もう過ぎたことでしょ。さあ、そろそろ行きましょう。これからの方が重要なんです」


「それに異論はない」 

 

小休止の言い争いの後、私と古平は連れだって裏木戸から旅館の中へ入った。


      ◇


 酒を舌の上で転がしてその味がわかる人間はそこそこいるらしい。下戸の私にはどうでもよいことであるが、できれば酒の味がわかった方が良いかもしれないと思ったのは大吟醸と焼酎の違いに戸惑ったからだった。

 「酔っぱらいに味なんてわかりません」と言い切る古平は手際よく、目の前に並んだ種々の酒瓶を交互に手に取っては、足の裏で挟んで固定している一升瓶の口に添えた漏斗に流し込んで行く。


「麦酒と洋酒はさすがにばれやしないか」 


 珍しく古平と意見の一致を見た私でも、麦酒と葡萄酒を平気で混同する古平の手元を見て一抹の不安を覚えた。麦酒と葡萄酒はもはや別次元の飲み物ではなかろうかと思うのである。香りとほのかな甘みを楽しむ葡萄酒、炭酸の爽快感と苦みを味わう麦酒。同じ酒でありつつ、この二つが混ざり合った時の芳味たるや、想像の範疇を易々と越える。


「大丈夫です。この前ハブ酒と泡盛を混ぜたら、とてつもない異臭を発する酒ができあがったんですが、漢方酒だと言ったら、素直に売れましたから」


 厨房の外に並べられた客の飲み残した酒を『大吟醸』と焼き印され組紐で釣られた札の掛かった一升瓶に、移し替える作業に多忙とする私は、古平の話しに耳を傾けつつ、精査と熟慮していた。麦酒と葡萄酒のいや、及ぶのであれば酒と名の付く全ての飲料に共通するものを見出せればその根拠になりうるのではなかろうか、と考えついたのである。

 その解答は、一本作り上げる前に呆気なくも容易に判明してしまった。手がかりが目の前にこれだけ揃っているのだ、わからぬまま迷宮入りさせる方が難しかろう。酒飲みと煙草飲みは舌がばかになっていると言う、ようするに酒の種類に関わらず酔っぱらいはエチルアルコールさえ入っていれば味など二の次なのである。 


「面白おかしくつくってやる」


「大吟醸は少し残しておいて下さいよ。僕が飲みますから」


「知るか」


 大吟醸だろうがビンテージだろうが知ったことではない。下戸である私からすれば腹も膨れぬ酒などに浪漫はないのだ。

 酒臭い衣服を纏ったまま、一升瓶を抱えて再び三条通りに戻った。繁華街らしく、夜をこよなく愛する善男善女がほろ酔いの頬を垂れて、上機嫌で次に金を落とす店を探している。

 

大吟醸と焼き印された札をカタカタといわせながら一升瓶を抱えるのは地味でありながらこれがまた重労働である。だが面白いことに、何軒かの立ち飲み処を回って行くと、店の中から時折中年の男性が顔を出して待ってましたとばかりに、二つ返事で雑多酒を買ってゆくのである。その爽快さといったらデタラメにかつ悪意を持ってこしらえた私が罪悪感に苛まれるほどである。

 常連客です。と古平は前置いてから、


「中嶋さんと言うんですが、あの人達は生粋の酒飲みですから、その辺は折り込みずみなんですよ」と言った。


 生粋の酒飲みと言うことはまさにエチルアルコールにのみ浪漫を求める雑食愛飲家なのだろう。


「後で追いかけられても知らんからな」


「言ったでしょ、あの人たちは承知で買ってるんです。酒の飲みの端くれなら大吟醸がこんなに安くないことぐらい知ってますからね」 


「どれくらいするんだ」


「少なくともあなたの家賃は凌駕します」


「やはり酒飲みは阿呆だ」


 いずれは排出されてしまう酒にそんな大枚をはたくなどと、たかだかエチルアルコールではないか。同じ一時の快楽に陶酔するなら、私は腹が膨れる肉の方が断然よい。

 雑多酒を売りさばき、懐と心持ちが温かくなりおまけに一升瓶から解放された双腕をぶらぶらとしながら、最後の一本を抱えた古平の傍らを私は歩いた。古平が抱える一升瓶は色酒が一切入っていない、純粋透明な酒だけで構成されていた。それこそ焼酎と大吟醸のみ、我々がこしらえた雑多酒の中では一番高価な代物だろう。


「まさか、それはお前のが飲むわけではあるまいな」


「いえいえ、これは上客に売る酒なんですよ。少しばかりその客は厄介でしてね」


 私は古平にそれ以上、言及はしなかった。俗世間の客であろうが上客であろうが、雑多酒が紙幣に化けるのであれば万事よいからである。

 しかし、私は後に、なぜ古平に言及しなかったのだと後悔した。大いに後悔することとなった。

   

  ◇


 私は二次席会に向かわれる方々と鉢合わせをしないようにと気を配りながら、夜の三条通を歩いておりました。今だ宵の口ですから人通り疎らです。繁華街が花開く前、それは蛹さなぎから蝶へ変態をとげるように、または子どもから大人に成長するようで、私はその境目である宵の口がとても好きなのでした。ですから、お姉様とお酒を嗜みに出掛ける時なども、わざわざ宵の口に出掛けて行ったものです。

 正直に申しますと、私は一人で三条通を歩いたことがありません。お姉様は知り合いも多く、繁華街のことをよくご存じでしたから、私は腰巾着のようにお姉様の傍らにひっついていただけなのです。ですが、これからはそのお姉様を頼りとするわけにはいきません。ですから、今宵は、私が一人で三条通を闊歩する記念すべき夜なのです。

 鼻息を荒くして、気合いを入れた私は、道行く人に気概だけは負けまいと両手を大きく振り、いつもより大股で歩きました。私の得意な〝ロボット歩き〟なのです。お姉様はそれが〝難波歩き〟であると教えてくださいましたが、私はロボット歩きと称してここぞと言うときにのみ使うことにしているのです。

 発条ぜんまい仕掛けのブリキロボットは難波歩きをしながら、胸から光線を出します。なんと堂々と凛々しい姿でしょう。もちろん本当に光線を出すわけではありません。胸元が赤く光るだけなのですが、子どもながら私は目を丸めてその様子を眺め、私もこのように堂々と凛々しい出で立ちを真似できたらと感化されたのです。

 ロボット歩きのまま三条通を進んで行きますと、荷台にお酒をすし詰めと積んだリヤカーを引く殿方の後ろ姿が見当たりました。卸酒屋の丁稚の方でしょう。私たちがお酒を嗜むことが出来るもの、この方々のようにお酒を運んでくださる方がいるからなのです。私はロボット歩きをやめて、追い抜き様に感謝と労りの心を込め、小さくお辞儀をしました。『小さき感謝と勘違いは清く正しい人生を彩る』お母様が教えてくださりました。乙女の心得として感謝の心はいつでも真心と一緒に胸の真ん中に置いておくものです。

 丁稚さんたちは旅館の前にリヤカーを止めていました。私はなんだかほっとして、どのお店にしようかと暖簾のかかった立ち飲み処などを覗いてみましたが、やはり尻込みをしてしまいます。何軒か回って通りを右往左往してみたのですが、結局、他のお店へは、次の機会に必ず挑戦してみようと誓って、通りの中程にある行き付けのお店へ行くことにしました。

 そのお店は路地を少し入ったところにひっそり佇むお店でして、煉瓦づくりの外装と喫茶店のような窓がお気に入りだとお姉様はおっしゃっておいででした。店内は洋風で、深紅の絨毯と深紅の椅子。カウンター席とテーブル席とがあり、お座敷はありません。変わった造形のブロンズや羅針盤などの調度品で目を楽しませ、店内奥に置かれた蓄音機からは巷【ちまた】で流行っている歌謡曲や落ち着いた洋楽まで、幅広い楽曲で耳までも楽しませてくれます。私も一度来ただけですっかり気に入ってしまいました。


「葡萄酒と糖蜜酒を下さい」


 私は奥からカウンター席に腰を落ち着かせると、グラスを研いていらっしゃる顔なじみのご主人に注文を済ませました。


「今夜はお一人ですか」


「はい、そうなのです」


 私としたことが、今日はお姉様がいらっしゃらないと言うのに、お姉様の愛する糖蜜酒まで注文していたのです。目の前に並んだグラスからは芳醇な香りと甘酸っぱい香りが私の鼻腔をくすぐります。どちらからいただこうかと首をメトロノームのようにして悩んでいましたが、やはり私は葡萄酒を愛しておりましたので、葡萄酒からいただくことにしました。


「やあ、お嬢さん。何か悩み事でもおありかな」


 私が葡萄酒に舌鼓を打っていますと、にかにかと愛想の良い笑顔を浮かべた男性の方が、私の隣にお座りになられました。


「どうしてそのようなことがわかるのですか」


 私は、お姉様のことで少し憂鬱としておりましたから、傍見からでは悩み、落ち込んでいるように見えたのかもしれません。


「横顔はね。口ほどにものを言うんだよ」


 得意げに指を一本立ててそうおっしゃいます。その方は中嶋さんとおっしゃって、古美術の商いをされているそうなのでした。


「手を見せてご覧なさい」


 糖蜜酒を一口いただいたところで私に中島さんが言いました。


「はい」


 私は、グラスを置くと右手を差し出しました。


「うむ、良い手だ」


「そんなこともわかるのですか」


「ああ、こんなに柔らかくて白くて細くて、上品な手が悪い手のはずがない!」


 中嶋さんは鼻の頭を赤くされておられ、すでにお酒をめされているご様子でしたが、半分瞼に隠れた瞳で真っ直ぐに私にそう言うのでした。私は、少し嬉しくなりました。なぜなら、幼少の頃、同じことをお父様に言われたことがあったからなのです。私は間食に出された林檎や梨の種を庭の端にいそいそと植えておりました。こんなほくろのようなものから、大樹の元が生えるなんて、と子どもながらに信じられなかったのです。

 初めて芽が出たのは林檎でした。私は嬉しくなって、種と見るや片っ端から庭に植えました。お姉様も面白がって私と一緒に植えましたが、お姉様が植えた種からは到頭、芽が出ることはありませんでした。摩訶不思議なことに私が植えた種だけから芽が出るのです。それをお父様にお話すると『優しくて良い手だからなのだよ』と褒めてくれたのです。

それは私の自慢でもありましたから、手を見るだけでそのような事がわかってしまうなんてと、私は中嶋さんがとても良い人であると思いました。何より愛そう良い恵比須顔がそう思わせるのです。


「若いんだから、悩みなんて、飲んで忘れてしまいなさい」 


 そう言うと中嶋さんは、注文したビールをぐぐっと喉に流し込みました。


「はい」


 私も糖蜜酒を一気に飲み干すと、景気よくカウンターの上に音を鳴らしてグラスを置くと、さらに葡萄酒をお願いしたのです。


「よろしいよろしい。それでこそ若さだ、若さゆに悩むのである!」


 私と中嶋さんは乾杯を何度もしながら次々とお酒を楽しみました。こんな風に愉快なお酒をお姉様以外の方といただくのは初めてです。笑い上戸でいらっしゃる中嶋さんは赤い顔で頬を緩ませながら、


「若かさ若さとはなんだ!」と何度も私に問います。


「若さとは若さとは!なんでしょう?」


 若い私にはその答えはわかりません。


「若さとは阿呆たることだよ。下手な浅知恵をつけて物事を決めてかかるより、好奇心のままに阿呆のごとく!まずは、飛び込んでみることだ。そうすれば物事の本質が見えてくる」


「阿呆ですか」私は目を丸めました。 


「そうだよ。私はね、こう見えて今までに何度も偽物を掴まされて大損をして、泣き面をかいてきたんだよ。でもね、何度も泣いたからこそ、今の私があるわけだ」


 中嶋さんは人生のなんたるかとご教授くださいました。私はまだまだお子様ですので、年配の方の人生経験は教本とすべく大切なお話なのです。私は何度も頷きながら中嶋さんの弁を一言一句聞き漏らすまいと真剣に拝聴しました。


「今日は良い気分だから、特別なお酒を振る舞おう」


 すっかり赤ら顔の中嶋さんは、私の飲みくさした葡萄酒のグラスを取ると、中身を飲み干してから、カウンターの上に足下から取り出した一升瓶を自慢げに置きました。瓶には大吟醸と焼き印された札が組紐にてかかっております。大吟醸と言うお酒を私はまだ賞味したことがありませんでしたので、素直に心が躍りました。


「特別なお酒をよろしいのですか」


「いいんだよ、今夜はあなたのような美人と出逢えたことだし、これはめでたいことだ」


 そう言って中嶋さんは瓶口に押し込まれてあったコルク栓を引っこ抜きました。相当酔っていらっしゃるのでしょう。私のことを美人などとおっしゃるのですから。

 中嶋さんは「さぁさぁ」と言いながら、私の手の中にある空のグラスに大吟醸を注いで下さいました。グラスに注がれたそのお酒は一見して葡萄酒のように見えましたが、グラスの底からは気泡がゆらゆらと立ち上り、加えて糖蜜酒のような甘い芳醇な香りがするのです。


「私が口をつけたグラスです」 


 中嶋さんがグラスに注ぐ前に私がそう言うと「そっちの方が美味しくなるから」と笑っておられました。これには少し私の方が恥ずかしく思ってしまいます。

 その後、私は中嶋さんと乾杯をしてから大吟醸をいただきました。

 その時の感動は一生忘れることはでしょう。舌の上に流れ込むや、糖蜜酒の甘い香味が鼻腔へ上がって来るのですが、舌の上では麦酒のごとく苦く、かといってすぐに葡萄酒のような甘酸っぱい味わいが広がるのです。なんと言っても、炭酸の喉越しの良さと言ったらまるで三鞭酒のようなのです。私はこのようなオモチロイお酒をいただいたことがありませんでしたので、驚いて空になったグラスを眺め間抜けに口を開けていました。


「どうだい、面白い酒だろう?」


「はい、このようなお酒は初めてです」


 そうだろうとも。と中嶋さんは私のグラスに大吟醸を気前よく、こぼれそうなほど注いで下さるのでした。


      ◇


 下直な雑多酒を売りさばいた私たちは三条通を南下して、やがて通りの終点まで歩いた。高直たる〝大吟醸〟を至宝と懐に抱える古平は、私の傍ら何度も嫌みな笑みを浮かべ、終点を示す赤煉瓦の駅舎が見えてきた頃には気持ちの悪い声までも漏らす始末であった。


「何を笑っているんだ、気色悪い」 


「そうですか?これでも緊張している体なんですけど」


 緊張している者が「キシシシ」などと毒液を煮る魔女のような声を出すものか。


「まあ、今にわかりますって」


 古平は妖怪のような顔を向けてそのように私に言った。

 何を考えたのか、古平は無人の駅舎の中に入ると、一目散に便所へ向かう。「……今にわかりますって」とは便所に行きたかったのか。私はもう少しで憤慨するところであった。だが、まるで宮大工が建てたような頑丈そうな便所。屋根には鬼瓦まで備わっている。「何してるんですか」鬼瓦と睨めっこなどに興じていた私を古平が訝しんだ声で呼んだ。

 線路に沿って作られた屋根とてトタン板だと言うのに、便所にこれだけの資材を投じてなんとする。

 まだ一度として利用したことのない駅舎に文句を垂れながら、便所の中へ入ってみると、なるほどそこは便所であった。かけ離れた外装の中は、私にもなじみ深い悪臭が充満し、裸電球には蛾や蠅が群がり天井にはそれを喰らう蜘蛛どもが軒を連ねている。足下には蚰蜒が数匹、迷惑そうに私の前を通り過ぎて行った。身体のわりに足が長く、見てくれが悪いこの虫が家屋内の害虫を喰らう益虫であると滾々【こんこん】とかつ懇切丁寧に教授賜ったとて私は信じないだろう。

 とにかく気色が悪いのである。

 私が額に縦皺をこしらえている前には慣れた様子の古平が掃除用具の収納場所のような安っぽい合板だろうドアの取ってに手をかけていた。便所にしては銀色の金属製ノブなのである。いちいちこの便所は仕様が曖昧だ。

 「留守かな」と古平が取っ手をガチャガチャとやっていると、「はいりなさい」嗄【しわが】れた声が聞こえたかと思うと、ドアがそよ風に撫でられたようにふんわりと開いたのである。


「お久しぶりです」


 古平は会心の笑みを浮かべながらドアの中へ消えて行く。むろん私もその後に続いたわけだが、やはりこの便所は仕様が曖昧であると、私は今度こそ大いに首を傾げた。ドアを通り抜けると、そはまるで別世界。暗く汚い便所がまるで桃源郷に早変わりした趣である。目前には旧家を思わせる広い部屋であり、畳みの良い香りが開け放たれた障子から流れ込む風によって運ばれてくる。簾が揺れ、その先の背景は真っ青である。庭と思しき場所には向日葵が燦然と花を咲かせていた。

 そんなバカなことがあるか。私は今の今まで夜の街を歩いていたのだ、それに菖蒲が咲き始めたばかりで、紫陽花の季節にすら早い。 


「わしはな、夏という季節が大好物なんじゃよ。立ち話もなんじゃまず座りなさい」


 揺れる簾の前にちょこんと座している老人が嗄しわがれた声でそう言った。煙管などを吹かしてなんとも粋な老人である。

 私の足下にはいつの間にか、尻を乗せた次の瞬間には転げてしまいそうな南京のように分厚い座布団が敷かれてあった。


「お元気そうで何よりです」


「古平か。久しいな、今日はその酒か」


「はい、ついに幻の大吟醸が手に入りまして、僕が飲んでもよかったのですが、若い時分から舌が肥えてしまっても仕方ありませんから」


 座するに苦戦する私を尻目に古平は手慣れた様子で南京座布団に座ると、早速、得意な口先八丁を唱えはじめた。

 老人は「幻の大吟醸か」と一言呟いて、器用にも煙管の先に幾重にも煙で円を描いて、何やら思慮していた。

 純和風の室内にあって、天井には満艦飾がはためいている。もしやこの仕様の曖昧さ……もしや便所もこの老人の所有物なのではあるまいな。


「ありがとうございます」 


 私が借りてきた猫よろしく、部屋の隅々にいたるまで鵜の目鷹の目と巡らしていると、ぬらりひょんが静かにそう言って、酒瓶を畳みの上にゆっくりと置いた。

 古平がそうい言うからには、暗黙の内に売買の決着がついたと言うことだろう。雑多酒が大枚に化けたのであれば万事良い。しかし、少しは私にもわかるように交渉をしてほしいものである。これでは私がただの間抜けではないか。


「あなたは間抜けではありませんよ。むしろあの場では賢明だと僕は賞賛しますね」 


 再び、汚く臭くて蚰蜒の巣窟である便所へ戻ったところで、私の心の中を見透かしたように古平が言った。


「なんのことだ」


「下手になにか喋られた方が僕は困りました」 


古平はそう言いながら、札束を扇のようにして見せたのである。いつ手に受け取ったのかなど色々と聞き及びたかったが、ともかく大枚に化けたのである、万事良しとせねばなるまい。この際、些細な疑問質問などは明後日の方向へ投擲【とうてき】するとしよう。

 便所から出た私は今一度、鬼瓦を見上げるべく顔をもたげた。すると、緑青まみれではあったが長方形の銅板に『蚰蜒商会』と書かれてあるのがなんとか読み取ることができた。


      ◇


 大吟醸を頂く傍らで、中嶋さんはますます饒舌となられ、人生の妙味、それに加えて古美術の魅力について語って下さいました。


「絵画の良さはわかるかね」 


「私は風景画が好きです」


 私の実家の応接間には西班牙【すぺいん】のラ・マンチャを描いた大きな絵画が飾ってあります。それは美しい絵画なのです。白壁の家や風車が点在する風景。先日読破いたしました、セルバンテスの小説『ドン=キホーテ』の舞台であると知り、並々ならぬ縁を感じたものです。


「うむ、風景も良い。しかしだね、絵画の真骨頂は裸婦画だよ」


 語尾につれて甘く囁くようにおっしゃる中嶋さんは、そっと私の肩へ手を回しました。


「裸婦画ですか」


 私は裸婦画を見たことがありませんで、今ひとつどのようなものなのか想像に欠けました。ですが。裸婦と言うのですから一糸まとわぬ女性の裸体を描いたものなのでしょう。

 私は、見ず知らずの者にご自身の身の上話や人生のなんたるかを語ってくだる中嶋さんを尊敬しておりましたから、当然、中嶋さんは、いやらしい意味でお話されているはずがないと、疑うこともしませんでした。


「そうとも、裸婦画こそ浪漫と芸術の塊だね」


 そう語りながら、中嶋さんはもう一方の手を私の太股の上に優しくのせます。


「今、私のことをいやらしい卑しい男だと思ったね!思ったろ!」


 突然のことです。中嶋さんはそれまで私の耳元で囁くように裸婦画の妙味について語っておられたのですが、私の身体を揺さぶりながら少々声を荒げて、まるで赤子が駄々を捏ねるようにおっしゃられたのです。


「どうされたんですか?」  


 私は母親になったことがありませんので、駄々を捏ねる赤子のあやし方など心得ておりません。ですから、中嶋さんに揺さぶられるまま、そう言うしか出来ませんでした。

 その夜、私は新調した洋服を着ておりました。スカートです。ですから揺さぶられますと、太股に当てられた中嶋さんの手がスカートを少しずつたくし上げ、ブラウスに伸ばされた手には、私のお乳が触れるのです。中嶋さんは美術を愛しお酒を愛し、明鏡止水の心をお持ちの方ですから。このような公衆の面前で破廉恥な行為に及ぶわけがありません。きっと、酔った折りに手元が狂われたのだろうと私は羞恥心よりも先んじ、くすぐったくて仕方ありませんでした。


「……あの手が……」


「手?」


「はい、手が私のお乳に当たっております」


「ああ、これはすまない。酔ってしまったかな」


 そう言って、素面に戻られたように手を引っ込める中嶋でしたが、しばらく裸婦画に春画にと深く熱意をもって語られていますと「軽蔑しないでおくれ」と再び母にすがる赤子のように私のお乳と太股に手を伸ばされるのです。「軽蔑などしておりませんよ」と私は髪の毛を揺らしながらお答えするのですが、「嘘だ嘘だ」と信じてもいただけません。私はどうしたものでしょうと熟慮するのと同じくして、たくし上げられるスカートの裾をさり気なく直しては、お乳を揺らす中嶋さんの手がくすぐったいと身をよじって我慢をしていました。

 すると、「またあなたですか、中嶋」と図太い女性の声が聞こえたのです。


「またとはなんだね。またとは」


 中嶋さんと私が同時に振り向きますと、そこにはお姉様が立っていました。


「お姉様」と私は呟きます。


「なに、お姉様……」


 誰よりも中嶋さんは驚嘆されますと、咄嗟に大吟醸を抱えました。


「そんなにお乳が好きなら、私のを揉ませて差し上げますわよ」 


 お姉様は同性である私が見ても息を飲むほど胸の辺りが形良くたわわとなっております。その胸を突き出すものですから、余計に大きく見え、ブラウスのボタンなどはち切れんばかりとなっております。その様子を拝見し、私は少し恥ずかしく思ってしまいます。同じお母様から生まれたと言うのに、どうして私のお乳はこんなに頼りないのでしょうか。


「そんなはしたない乳を私は好かん。慎ましいお乳が好みなのだ」


 肩を落とす私の隣では中嶋さんがお姉様に向かいそう大声で話しております。「酒が不味くなる!」お姉様と言い合った中嶋さんは大吟醸を抱えて、さっさと逃げるようにお店を出て行ってしまいました。


「可愛い私の妹に手を出すなんて、信じられない」


 中嶋さんが去った後、お姉様はドアに向かって舌を出し、そしてそう言いながら私の隣の席に腰をおろしたのです。


「お乳は減りませんよ」と私が言うと、


「一緒になる殿方以外の触らせても見せてもいけません」と怒られてしまいました。私が軽薄でした。

 それはさておき、本日の主役であるお姉様が二次会を抜け出してもよろしいのでしょうか……私が口に出せないながらも目配せをしておりますと、


「無性に糖蜜酒が飲みたくなったの……外に車を待たせてあるから、大丈夫」とお姉様はお酒臭い息を吐きかけるのでした。


 それから、お姉様をお相手に糖蜜酒をご一緒しました。乾杯をしてからお姉様がご馳走してくれるとおっしゃるので、私は嬉しくなって目に入ったお酒に手を伸ばして契りを結んで行きます。

 お姉様はやはり糖蜜酒ばかりを楽しんでおられました。

 しばらく飲んでいると、まだ数えるほどしかグラスをあけていないと言うのに、お姉様は虚ろな瞳でカウンターに横顔を触れさせ、私の方を見ました。おもむろにグラスの縁を指でなぞりながら、ほんのり桃色づいた頬をもたげて言うのです。


「ちゃんと恋をしなさいよ。恋をして本当に好きになった人と結婚するの。ずっと一緒に居たいと思える人とね」


 私は悪酔いでもしたのだろうと思いました。ですが、もとより恋はしてみたかったので、「はい」と答えました。


「私みたいになっては駄目だからね」


お姉様の頬に涙が伝います。どうしたことでしょう。お姉様は今、寄り添って歩いて行くべく殿方と婚約を誓約され、幸せの絶頂にいらっしゃるはずなのです。なぜ涙などを流されるのでしょう。「私、今日は泣き上戸みたい」お姉様はそう続けておっしゃいましたが、お店中の糖蜜酒を飲み干すと豪語して私と熱く飲み比べをしたお姉様が酔っているとは思えませんでした。


「糖蜜酒に飲まれたような酔ったような。夢を見ているような心地で、なすところなくぼんやりと一生を終わらせたいわ」


 糖蜜酒をこよなく愛されるお姉様らしい詩であると、私は感心いたしましたので、


「それは酔生夢死と言うのですよ」と私も負けじと生意気を言いました。


「さすがは大學生。私とは教養の質が違う」


「お姉様も大學生ですよ」 


「そうだったわね」


私は後悔しました。年下である私がお姉様の詠まれた詩を汚すような教養をひべらかしたのです。能とはひた隠しにするものであって、自からひけらかすものではないのです。まして、親しき仲にこそ礼節が必要ですから、いずれにしても私の所行は大きく礼儀にかけているのです。


「ごめんなさい」私は謹直と素直に謝りました。


 たとえ許して頂けなくとも、悔い改めんと思えばこそ、謝らなければいけません。真の愚者とは過ちて改めざる者を言うのですから。 


「なんで謝るの?」


 お姉様は不思議そうな眼差しで私の顔を見ておりましたが、私はこれはお姉様の優しさなのだとわかっております。


「お姉様は気分を害されていませんか。差し出がましいことを言いました」


「面白くて可愛い子ね、そんな妹が私は大好きよ。頭の良い妹をもって私は誇らしいわ」


 お姉様は優しくそう言うと、私の頭を撫でてくれました。お姉様は私が褒められるようなことをすると、このように優しく頭を撫でてくれるのです。

 私のお父様とお母様はとてもお忙しい身の上でして、私はあまりかまってもらえませんでした。ですが、幼少の頃からお姉様がいつも一緒に居て、私の相手をして下さいましたので、幸いなことに寂しいと思ったことはただの一度だってありません。


「でもね、私の方がお乳は大きいから」とお姉様はたわわと実ったメロンのようにぷっくりと膨らんだお乳を両手ですくい上げて私に言います。


「それは関係ありません」私はぷりぷりして言いました。  


「あら、頭脳明晰には殿方は寄って来ないけれど、このお乳に殿方は喜んで寄ってくるのよ」


 今日のお姉様は本当に悪酔いをされます。お姉様は普段、このような戯れは、はしたなしと、忌み嫌う淑女なのです。もしかしたら本当に酔われていたのかもしれません。

 私はぷりぷりと怒っていましたが、久しぶりにお姉様とお酒を酌み交わし、内心ではとても楽しく思っておりました。でも、楽しい時間とは悠久に続くものではございません。終宴の時「私は帰るわね」とお姉様は席を立たれます。

 もちろん親しき仲にこそ礼節は大切ですから、私は「ごちそうさまです」とお勘定に向かうお姉様にお辞儀をしました。そんな私にお姉様は、


「あれれ、御財布がない」と言いました。


「なんてことでしょう」 


 私は慌てました。お姉様にお勘定を甘えられると思ったからこそ、グラスを次から次へとやっつけたと言うのに、私のお腹の中に住まう鯨はどうしようもありません。

 結局お姉様の御財布は出てきませんでした。

 平常では決して大金の入っていない私の御財布にも、本日は祝いの席へ馳せ参じるとあって、予定外の出費があってはと大金が入っておりました。ですから、なんとか泣かずにお代をお支払いすることができたのです。

 ですが、その代わりに私の御財布は大泣きです。これではこれ以上お酒を嗜むことはできません。バスで帰る運賃だけしか残っていないのですから。

 でも帰れるのだからよいのです。そうです良いのです。私がお姉様にできる最後のお祝いなのですから。

 

      ◇


 私は上機嫌であった。今世紀最大の上機嫌であった。思わず三条通に並べ広げたいほどの大金を手に入れたのである。古平が見せた紙幣扇は儲けの一部でしかなく、危うく私も騙されるところであったが、貧乏神が仕掛けた石ころに躓いて派手に転んだ古平のポケットから便所紙と見間違えるほどの札束が流れ出て来たのだ。

 もちろん、私はその大半を拾い抱えるとそのまま脱兎と逃げようとした。だが「本来の山分け分はもっと多いです」と言う古平の言葉を信じて、踵を返した。

 それは狡兎の企みであり、私が抱きかかえて逃げようとした紙幣からすると多少取り分は減ってしまったものの、依然として私の空財布に押し込んでも押し込められないほどの紙幣が手元に残ったのだった。したがって今、私のポケットは未曾有の金庫であり、いつ洗濯したかすら忘却してしまった汚いズボンとてこの界隈では最も汚くそして高価な代物へと変貌を遂げたのである。

 読者諸賢。存分に私を羨んでほしい。

 はたして、これを一枚一枚並べると何畳分あろうか、私の住処である四畳半よりは広いだろうか。だとすれば何ということか!紙切れごときに我が男汁の染みこんだ愛すべき四畳半を凌駕されてしまうとは!

 私は浮かれていた。今世紀最大の浮かれようであった。

 ゆえに歌も歌ったのである。作者も曲名も不明の名曲『ラヂオ体操セブン』である。この歌は、どこからともなく聞こえてきてどこからともなく去って行く。とても不思議な楽曲であり、詩なのである。私が入學したて、湯気が立っている頃より私の耳について離れず、ついには覚えてしまった。  


「お前も歌え」


「それじゃ、僕は後から続きます。輪唱といきましょう」


「それは面白い」


 この歌は輪唱でも独唱でも合唱でもなんでもござれの偏屈な楽曲であり歌でもある。

 私と古平は肩こそ組まなかったが、輪唱でもって『ラヂオ体操セブン』を高らかと歌ったのであった。

 今頃、どこぞの酒飲みが糖蜜酒と麦酒、葡萄酒と三鞭酒を混ぜた世にも奇妙な雑多酒をグラスなどに注いだ挙げ句、口にした次の瞬間には顔色を変えて吐き出していることだろう。そんな様を思い浮かべるとどうしようもなく愉快な気持ちになった。古平ではないが、他人の不幸とは、まことに蜜の味なのである。

 酒飲みとはなんと阿呆なのだろうか!

 私たちは『ラヂオ体操セブン』を十四番まで熱唱し、喉が渇いたので歌うのをやめた。


「古平よ。次ぎはいつだ」 


 こんな甘美たる汁ならば、毎日賞味にあずかりたい。いや、古平一人に吸わせるのは腑に落ちない。


「立ち飲み処へは近いうちにまた行きますよ」


「違う。蚰蜒商会へだ」


 立ち飲み処での売買では割に合わなん。


「魯人にはもう売れませんよ。なにせ、幻の大吟醸と言って売りつけたんですよ。幻がそう何本もあるもんですか」


あの老人は魯人と言うらしい。


「次は伝説と言いかえれば良いだろう」 


「わかってませんね」


 何を言うのか、伝説と幻の違いくらい理解している。いずれも同義語であることも含めて。


「違います。あなたも僕と一緒に魯人の前に顔を出したからには、命綱なしで綱渡りをしているようなものなんです。万が一、あれが偽物だと気づかれたら、途端に僕たちの命は風前の灯火なんですから」


「待て、どういうことだ」 


 なんだその命綱なしの綱渡りと風前の灯火とは……そんな剣呑【けんのん】な橋を渡った覚えはない。こう見えて私の心臓は蚤よりも小さく、石橋など叩いて叩き過ぎた挙げ句、叩き壊す男なのだ。その私が生きるか死ぬか、一か八かの大勝負を挑むわけがあるまい。


「大丈夫ですよ。あの便所から無事に出られたんですから」 


「答えになってないぞ」


「世の中には知らない方が幸せなこともあるんですよ」


 意味深なことをほざきながら、せせら笑う古平を見ていると、冷や水を全身に浴びた心境となった私がバカであった。あの腰も立たぬ老人が全力で追いかけて来ようとも、一度走り出せば千里を駆ける赤兎馬のごとく、圧倒的な若さで勝る私が何を恐れようと言うのだ。私は天狗となって意気揚々と大手を降って歩いていた。懐が暖かいとはなんと素晴らしきことか。

 意気揚々と三条通をひたすらに北上し、猿沢池の手前で、急に不思議な香りが私たちを取り巻いた。エチルアルコールのような、煙草のような、はたまた灯油のような、嫌悪感を感じつつも病みつきとなるような、そんな中毒性を窺わせる香りである。


「私は左に逃げますから、あなたは右に逃げて下さい」


「なんだ藪から棒に」


「もし捕まったら、あり金の全部を渡しさえすれば、明日も太陽を拝めますよ」


気色の悪い笑みを浮かべた古平はそう言うと、脇目も振らずに興福寺へ続く階段をひょいひょいと駆け上がって行ってしまった。

 

      ◇ 


 私はお姉様と一緒にお店を出ました。三条通とは別方向に待たせてあった車までお姉様をお送りして、その別れ際「一緒に行く?」お姉様は私にそう聞いて下さいました。ですが私は「いいえ、今日はもう少し夜の街を楽しみたいと思います」とお断りしたのです。


「残念」


 お姉様はそう一言だけを残して車を出しました。

 私はお見送りをしてから踵を返し、再び三条通へ向かうことにします。すでに御財布は閑古鳥が鳴いておりますから、お酒を嗜むことはできません。ですが、せめて通りの雰囲気だけでも胸一杯にしたかったのです。

 何せ今宵は私が一人で三条通を闊歩する記念すべき夜なのですから。

 通りに出ますと、すっかり更けた夜の三条通には、善男善女が面白可笑しく通りを縦横無尽に歩いております。浴衣を着こなした旦那衆が格式高いお店の暖簾を潜って行きます。石畳の先にある優美は大凡私には想像もできない世界なのでしょう。片田舎と言えど、三条通は大人の大人による大人のための繁華街なのです。

 私は南へ向けて歩こうと強く心に決めました。北側から歩いて参りましたので、今度は南側へ行ってみようと思ったのです。きっと私の度肝を抜くようなオモチロイお店が軒を連ねていることでしょう。

 胸を高鳴らせて私が歩き出すと、不意にどこからともなく、愉快な歌が聞こえてきました。その歌は一様に「セブン!セブン!セブン!ラヂオ体操セブン!」と繰り返すだけなのですが、耳に残る軽快な曲調とさっぱりした音程。何よりも歌詞が覚えやすいのです。

 私は中嶋さんの言葉を思い出しました。『若さとは阿呆たることだよ』そうなのです。私は若者ですから、阿呆でなければなりません。ですから、一度は南側へ向かうと心に強く決めましたが、このオモチロイ歌は北側から聞こえて来るのです。それでは北側へ向かわなければなりません。私は好奇心に背中を押されるまま、急いで振り向くと得意のロボット歩きにて愉快な歌の後を追いました。

 私は痛快な歌を追って威風堂々と三条通を北上して行きます。はたしてどのような方が上機嫌で歌っておられるのでしょうか。気になります。耳を澄ませば、なんと輪唱をしているではありませんか。輪唱と言えばカエルの歌しか思い浮かびませんでしたから、とても新鮮に感じました。

 声色から男性が歌っていることがわかります。もしも、私同様に年端も行かぬお方たちであれば是非とも、この歌をご教授していただきたく思いました。ですが、そう思った矢先、残念なことに猿沢池の手前で突然歌声が途切れてしまったのです。

 私はロボット歩きをやめて走りました。もしかしたら、まだ近くにいらっしゃるかも知れないと思ったのです。私は走りました、ですが繁華街の始点であり終点でもある猿沢池には人っ子一人見当たりません。それはもう『三条通』と電飾の施されたアーチを境に別世界のようでした。


「お嬢さん。あなたもあやつらの仲間なのですかな」 


 後ろからそんな、嗄れた声が聞こえました。もちろん周りに誰一人いないのですから『お嬢さん』とは私のことなのです。


「いいえ。今夜は一人ですので、お仲間はいません」私は答えました。


「じゃろうな」 


 それは白い浴衣を着た御老人でした、背丈は私の腰辺りまでしかありません。それよりも私が気になったのは御老人の後ろに黒子が二人控えていたことです。歌舞伎などに登場するあの黒子です。

 私は歌舞伎を拝見したことがありませんでしたから、初めて黒子を見たのです。

 御老人は煙管を懐から出すと、合図を出すように指先を器用に動かして煙管を何度か回しました。すると、後ろに控えていた黒子が颯爽と駆けだし、私の前で華麗に二手に分かれたのです。二人の黒子が起こしたつむじ風に私はスカートと前髪をゆらゆらとさせながら、もしや黒子とは仮の姿で、その正体は伊賀者なのでは、と、すでに影も形も残っていない後ろ姿を探したのでした。


      ◇


 私が異変に気が付いたのは、古平が逐電【ちくでん】して夜闇に溶け込んでからであった。何を今更を私が誰一人として見当たらない猿沢池を見渡し、最後に『三条通』と電飾が煌々と明るいアーチを見上げていた時であった。

 アーチの脇の茂みから黒い塊が顔を覗かせたのである。黒い塊であるからして顔と言うのも些か意味が通らないが、人間であると仮定するならば、顔なのだ。その黒い塊は徐に立ち上がると、突然颯爽と私の眼前を通り過ぎたかと思うと、興福寺へ向かう階段を段飛ばしで駆け上がって行くのである。その正体は黒子であった。歌舞伎などで舞台上へ上がっておきながら姿は見えていない体で演者を支える、あの黒子である。

 そして私は戦慄したのである。先程の黒子は古平を追って行ったに違いない。間抜け面にて佇んでいた私を差し置いてどうして古平を捕縛せんとしたのか不明であったが、これは私に逃げろという天啓に違いないのだ。

 見れば三条通の方向から黒い髪の毛のような直垂のような、を靡かせながら大股で歩いて来る人影があるではないか、私は脱兎した。古平とは反対方向へ駆けだしたのである。黒髪であったような、黒子の黒色ではないスカートを纏っていた気もしたが、今はそのようなことは関係ない。疑わしきは疑うべきなのだ。

 猿沢池を半周して、奈良町に逃げ込むと、そこは廃屋が並んだ街のように水を打った静けさに包まれていた。石畳みの上を駆ける私の背中には確かに私以外の足音が聞こえるのだ。ここにきてなんだが、私は全力で前言を撤回をしなければならない。

 私は赤兎馬ではなかった。千里など夢のまた夢であり、半里を駆ける前に胸に穴が開いてしまいそうな有り様であった。

 ポケットが重い。風前の灯火となった私の命。黒髪の乙女と出会うことなく、また薔薇色の人生の欠片も見ることなくうやむやに消えてしまうのはどうしても合点がいかん。ならば、ズボンに重りなどを仕込んで肉体強化に興じている場合ではなかろう。

 私は膨れるポケットの中に手を突っ込んだ。鉛が出るか、鉄くずが出るかと握られた紙切れを見ると、私は大いに顔を歪めることになった。鉛であれ鉄くずであれ、いや、この場面なれば缶詰であろうがカステラであろうが撒菱【まきびし】代わりにと平気で投げ捨ててやろう。しかし、尊敬すべき偉人とアラビヤ数字の印刷されたこの紙だけはどうしても投げ捨てることができなかった。投げ捨てさえすれば撒菱以上に撒菱らしい効果をもたらすであろうが、自慢ではないが私は欲望に忠実な人間なのである。

 タクシーで我が愛する四畳半まで帰ってやろうと画策していた私である。明日辺りでも洋服を新調して乙女の集う喫茶店に行ってやろうと企んでいた私である。そして、フルーツ缶を押入に入りきらないほど、溢れるほど買い込んでやろうと目論んでいた私なのである!

 ここで諦めてなるものか。タクシーも黒髪の乙女もフルーツ缶も諦められなかった私は、鉛のように重くなりつつある両足に鞭を打って走り続けた。

 元興寺の門に背を預けて息を整えながら、追っ手の様子を窺った私は再び戦慄した。

 なんと一呼吸の距離に黒子が大勢いるのである。狭い奈良町の道を塞ぐように騒然と群れる黒子ども。私はもう少し駆けようかと思案して次の瞬間にそれを諦めて、元興寺の境内へと逃げ込んだ。

 豆砂利が敷き詰められた境内に逃げ込んだ私は、武器になる物はと初めから自分自身に備わった四肢に期待することなく、辺りを見回した。そして絶望するのである。箒一本でも見つける前に、黒子衆に取り囲まれてしまったのである。キネマであるなら、ここで主役たる私が、愛刀虎徹を振りかざし華麗にかつ爽快に、ばったばったと黒子どもを切り倒して、決め台詞のひとつでも吐くところなのだろう。

 だが、残念ながら、私の腰には虎徹もなければ立ち回る力も気力も残っていない。笑われてもいたしかないと思われるだろう。私はこの非常事態において『かごめかごめ』を連想してしまったのだ。

 囲まれているのは鳥ではなく私であり、囲んでいるのは籠ではなく黒子なのだが。台風の来襲の中、外に放り出された灯火となりつつあるくせ、悠長にもそのように阿呆な余裕を醸すとは、私自身が気が付かないながら、潜在的には大物の素質を備えているのかもしれない。

 この期に及んで自分を賛美してしまった私はやはり生粋の阿呆だ。

 黒子たちは身動き一つせず、ただ私を囲んでいたが、やがて、顔を隠す直垂を握り、一斉にそれを夜空に投げ捨てると、素顔が明らかになった。おぼろ月夜の淡い光に映し出された素顔は獣であった。白地に三角形の耳が二つ、牙を剥かず上品に飛び出た口元。私は豆腐屋が開いていれば今すぐに油揚げを買って差し出せば、よもや解放してもらえるのではないかと目を疑った。みな一様に狐の面をつけているのである。


「面妖な」 


 私が呟くと、狐面どもは一斉に懐に手を忍ばせ「大人しく金を返せ、さもなくば大切な物を失うことになるぞ」とこもった声で言ったのだった。


「古平が全て持っている、私はしらん」


 嘘も方便である。


「しかたないな」 


 明らかに不自然に膨れた私のズボンを見て狐面の一人が言うと「覚悟」とそれぞれが懐から得物を抜いたのである。


      ◇


「お嬢さんはお酒はいける口じゃろ」と聞かれましたので。「はい、特に葡萄酒を愛しております」とお答えしました。すると、「そうこなくてはのう」と魯人さんはおっしゃいました。

 魯人さんに促されるまま、三条通を歩いて行きます。すると、魯人さんは何喰わぬ顔で旅館の中へ入って行かれました。その旅館を私は知っております。知っていると言えば烏滸がましいのですが、ご苦労な丁稚さんたちがリヤカーを置いたのがこの旅館だったのです。『稲荷』という名称であることもついさっき知ったところなのです。ですから、やはり知っていると言うのは間違いでした。

 思わず『神社』と付け足したくなる名称だと私が一人で微笑んでおりますと、女将さん風の着物に金糸銀糸で可憐な花々を咲かせた女性が魯人さんと私を膝を折って迎えてくださいました。細い目元とぷっくりとした唇、結い上げた髪の後れ毛などはまさに大人の色気と言い表すに相応しいでしょう。長髪でありながら、私にはそう言った大人の色気がありません。親戚の方にお会いしても『可愛くなって』と言われるのです。嬉しいのですが、私とてお年頃を迎えましたので『麗しくなって』とお世辞にも言われたいのが乙女心なのです。

 女将さんが直々に私をご案内して下さいます。お座敷の外を通るたびに三味線や歌やら笑い声など、あでやかで楽しげな様が伝い漏れております。これが甘美たる大人の世界なのですねと私が口元を綻ばしていますと、いつの間にか、大きなお座敷の中にいたのです。縦に長いお座敷の両脇は金色の襖で仕切られ、天井にはデパートで見たことがある万国旗がところ狭しとはためいています。まるで狐にでもつままれたようでした。


「おいでなさいな」


 座敷の奥には魯人さんがすでにお酒を飲んでいらっしゃるではありませんか。お酌をするのはもちろん女将さんです。


「向日葵が咲いています」


 南京のようにぷっくりと膨れ美味しそうな座布団の上に膝を折った私は、簾の外に黄色く燦然と花開く向日葵を見つけました。それだけではありません。今の今まで夜の街を歩いていたと言うのに、向日葵の上には真夏の青空が広がっていたのです。


「わしはな、夏という季節が大好物なんじゃよ」


 目を丸くする私に魯人さんはそう言うと、くいっと絶妙に喉をならしておちょこを空にしました。


「お嬢さんは何を飲むかの」 


「私は葡萄酒をいただきます」


 私がそう言いますと。魯人さんは「大宴会じゃ」と大きな声を出して、膝をぺちぺちと打ち鳴らします。するとどうでしょう、両端の襖が一斉に開き、黒装束に狐の面を被った人たちが手に手に酒瓶やお料理を持ってお座敷の中へ入って来たのです。中には天井や畳みの下から姿を現すお茶目さんもいたりと、それだけでとても面白い見せ物でした。

 私と魯人さんの前にお料理と酒瓶が並べられた後、すぐに半分以上の狐さんが襖に天井裏に畳みの下にと姿を消しましたが、残った狐さんたちは歌い出したのです。


「もしや魯人さんもこの歌をご存じなのですか」


「うむ、よう知っとるよ」


 頬を赤くして気持ちよさそうに魯人さんはおっしゃいました。

 狐さんたちは円を描いて、左手を腰に右手は拳をつくり高々と掲げたり肩まで下げたりと上下させながら、爽快に歌うのです。


「私もあのお仲間に入って歌いたいのですが」


「うむ、それではわしと一つ飲み比べをしようではないか、わしに勝つことができたら」そこまで魯人さんが言われますと、畳みの下から狐さんが、狐のお面とズボンを女将さんの前にそっと置きました。


「これをお嬢さんに差し上げよう」 


「本当ですか!」


 うむ。と魯人さんは頷いてから「じゃが、勝負に使う酒はこれじゃ」と私の前に一升瓶瓶をどっしりと置きます。その瓶には焼き印のされた札が組紐で掛けられてありました。


「大吟醸です」


「よく知っとるの」


 知っているも何も、私は一刻ほど前に飲んでいたのです。糖蜜酒と麦酒、葡萄酒と三鞭酒を混ぜたような奇妙奇天烈な趣はまだ忘れるには早すぎると言うもの。私は是非もう一度、賞味してみたいと強く思って憧れておりましたから、まさに願ったりかなったりだったのです。


「わしはこう見えても、相当つよいぞ」と熊本生まれの熊本育ちであると自身の生まれを教えて下さいました。


 ですが私は負ける気がいたしませんでした。もちろん魯人さんがご老体であり、私が今をときめく若者であるからではありません。私は今まさに狐さんの輪に加わり高らかに歌い踊りたいと切望し、大吟醸を心ゆくまで賞味したいと熱望していたのです。私は凛として言いました。


「私は必ず負けないでしょう」 


      ◇ 


「それでは、勝負をはじめます」女将さんがそうおっしゃいますと、私と魯人さんは深く頷きました。大吟醸が湯飲みに注がれてゆきます。見た目は普通の湯飲みなのですが、その底には弓道の的のような模様が青色で描かれておりました。


「それではわしから」  


 そう言うと魯人さんは一気にお酒を飲み干し、湯飲みを逆さに向けて一滴も入っていないことをお見せになります。


「私ですね」


 私は無色透明の大吟醸に少し落胆しつつ、色々種類があるのでしょうと、湯飲みを口へ運びました。その時の感動をいったいどのようにご説明すればよいでしょうか。一口、口の中へ流し込むと、辛くもなければ甘くもない。苦みもなければ酸味もない、そんな不思議な味わいでしたが、その軽妙な味わいの奥では鼻に抜ける芳醇な香りはまるで桜の花のようにほんのりと桃色に色づき、かといってしつこくなく。喉に感じる余韻は心地よく、その後、ゆっくりとお腹の中が微かに温かくなるのです。ほんのりと眠気を催すような極上の幸せを感じさせてくれるそんなお酒でした。

 中嶋さんがくださった大吟醸のように面白く愉快ではありません。ですが、この大吟醸は高貴でありながら優しくまるで春の陽気のような素晴らしいお酒なのでした。このようなお酒を一息に飲んでしまうのは勿体ないと思いました。けれど、魯人さんをお待たせするのも悪いですので、私は一息に飲み干すと魯人さんに習って湯飲みを逆さ向けました。


「お嬢さんの知っている大吟醸とどちらが美味かの」


「甲乙つけがたいですが、こちらの大吟醸は幸せな味がいたします」と私が言うと、


「幸せのう」


 魯人さんは気持ちの良いお顔で笑いました。


「はい、私の知っていた大吟醸は、とても面白くて愉快なお酒なのです」


「面白くて愉快な大吟醸のう」


 魯人さんは湯飲みからお酒をこぼしながら、膝を打って大笑いされます。私はどうしてそのように大笑いをされるのかわかりませんでした。


「語る者は最も多く、口にする者は最も少ない。これがその大吟醸よ」と魯人さん

はさらに声を大きくして笑います。その恵比須顔ったら、私も次第に楽しくなり、快哉【かいさい】ですと笑い声を上げてしまいました。


「愉快じゃ愉快じゃ」


「はい、それはとても喜ばしいことです」


 そうです愉快なのです。口にするたびにお花が咲くように春の息吹が流れ込むように味わい深いお酒と、そのお肴には痛快な歌と踊りがあるのです。


「お嬢さんは酒の神に愛されとるのう」


「私もお酒を愛しておりますから、愛されているかもしれません」 


「わしは振られてしょうもたわい」 


 そう言って空になった湯飲みを逆さに傾けられた魯人さんはその拍子に湯飲みを落とされてしまわれます。「大丈夫ですか」と私がお聞きしますと、「お嬢さんの番じゃよ」と懐から煙管と取り出して言われます。「はい」と私が湯飲みに注がれたお酒を飲み干すと、「あっぱれあっぱれ。わしはもう飲めん」

 魯人さんは煙管を吹かしながら鷹揚と静かにそうおっしゃったのです。


「縁は意なもの味なもの」


 魯人さんはそう呟かれましたが、私はお面をつけるのに必至でお答えすることができませんでした。


「行ってまいります」


 私は晴れて、狐さんの輪の中に入って見よう見真似で踊りながら高らかに歌ったのです。


「セブン!セブン!セブン!ラヂオ体操セブン!」と。


      ◇


 多勢に無勢、私は断言する。かの諸葛孔明であろうともこの戦況を打破するのは不可能であると。無論、私は精根尽き果てるまで戦い、死して名を残す奮闘ぶりであった。

 狐どもは手に手に得物を持つとそれを一斉に私めがけて投げつけてきた。林檎くらいの達磨に水鉄砲、水風船に落花生、こんにゃく、中には一瞬油揚げかと思ったがそれは濡れ雑巾であった。とかく水分に完結する得物を私は一身に投げつけられ、たちまち私は濡れ鼠となった。しかし、私とて男子である。一方的にやられているわけにはいかない。足下にまたは頭に被さった悪臭を放つ雑巾や達磨や時には豆砂利とて投げ返してやった。腹が減ればこんにゃくと落花生を食いながら反撃に応じ、必要とあれば唾も吐いてやった。

 このような不毛の上に不毛な争いを永遠と続け、いつしか私はもしかすれば勝利をこの手に掴めるかもしれないと勘違いをした。見事勝利したあかつきには門のあたりに黒髪の乙女が待っているのである。まさに大団円!誰もが立ち上がって拍手の嵐を私と黒髪の乙女に送るのである。そして私は大観衆の中で乙女の唇を盗むだろう。大観衆が大赤面することうけあいだ!

 もはや錦の御旗はお札から黒髪の乙女との懇ろへと豹変し、のべつまくなしと応酬される不要品。私はとにかく息を荒くして力の限り投げた、私の投げた達磨が狐の面に辺り、「うにょ」とへんてこなうめき声が聞こえた。


「死にたい奴は前へ出ろ!」


 私は得意になって咆哮をあげた。


 しかしその直後であった、ふいに私の顔に白いものが覆い被さったのである。とにかく視界が真っ暗となる、そして運悪く振り払う前に私は息を思い切り鼻で吸ってしまったのだ。

 するとどうだろう、酸っぱいような汗臭いようなとにかくこの匂いを筆舌することは文豪でも難しかろう。その匂いは何年も洗濯せず毎日、男汁を吸わせることによって完成する無比の激臭にして猛毒である。つけ加えるならば、私のズボンと同じ匂いであった。

 そんな毒気を胸の最奥にまで吸い込んだ私は、河豚毒にあたった美食家よろしく、片方の手を喉にをあて、もう片方は手を門前で勝ち誇った私を待ち侘びている黒神の乙女に向けて伸ばし、そしてその場に倒れ込んでしまった。

 投げるにことかいて、鼬の最後っ屁を投げるとは、それも予め用意してくるなどと、不届き狐め!男なら今この場で脱ぎ捨ててなま暖かいままを投げるべきであろう、それならば私とて敵ながらあっぱれと賞賛の中で力尽きることができただろう。私は「煮るなり焼くなりどうにでもしろ」と四肢を大ぴらげ文字通り、大の字となった。

 豆砂利の上は妙に冷える。特に膝下が冷えた。


「このやろう、ばかやろう」


 私は駄々っ子のように四肢をばたつかせて声をあげてみた。それは恐怖からではなく、何もしないでいることへのジレンマであったのだ。

 そうなのである。すでに境内には狐どもの姿はない。そして私のズボンもなくなった。

 悪辣【あくらつ】色狐どもめ、気でも触れたのか私のズボンごと金を持って行ったのである。 豆砂利かと思ったが、偶然、手の平の上に触れた異物を夜空の月と重ねて見ると、それは落花生であった。 

「けしからん」私は激昂した。

 そもそも、食い物を粗末にする所行からして許せん。八百万の神に頭を下げ、農家にどけ座し、そして私の前にひれ伏すがいい。そうでなければ、私は八百万の神と農家に成り代わり天誅を下す役回りを拝命することだろう。落花生はまき散らしたまま去ったくせ、こんにゃくはしっかり持ち帰っている。

 なぜこんにゃくも捨てて行かん!落花生では腹が膨れんではないか!

 私は怒った。しかし、パンツを露出した似非文明人の私の弁に誰が耳を貸すだろうか。不逞狐どもに天誅を下す以前に、私が社会的制裁を加えられる方がよほど現実的であり、実現性が高いのである。

 ズボンを奪われた私は、玉響も休むべしとしばらく境内にて、まな板の上の鯉を演じていたが、湿ったシャツと豆砂利に背を殴られ、仕方なく立ち上がった。

 恐る恐る門から外を覗いて見ると、そこに黒髪の乙女の姿はなかった。大いに落胆した私は、力無く双腕をたらして通りに出た。考えようによってはこんな破廉恥な姿を見られずに済んだのである。だが、愛し恋しい黒髪の乙女なのだ……一目この目に焼き付けたかった。

 私は帰ることにした。


      ◇


 盆踊りのように永遠と『ラヂオ体操セブン』に興じていた私ですが、さすがに少しお酒が恋しくなってしまいましたので、魯人さんの元へ戻り、さっそく葡萄酒をいただきます。あまりに気持ちが良いので、あっと言う間に一瓶を空にしてしまいました。


「お嬢さんはいったいどれくらい飲むんじゃ」魯人さんが煙管を吹かして私にそう聞きます。


 その台詞は初めてお姉様とお酒をご一緒した際、お店のご主人がお姉様に向けて言われた台詞でした。その時、お姉様はさらにグラスを一杯、空にしてから勇ましくお答えになられました。その様はまるで女傑、一丈青のごとく。その姿に私は憧れておりましたから、「そこにお酒があるかぎり」私はむんと胸を張って言いました。


「心意気のよい娘さんじゃ」 


 私は念願叶った悦楽も相俟ってますます、上機嫌となって葡萄酒をいただくのでした。

 魯人さんの傍らでは女将さんが大吟醸を嗜んでおられます。正座を崩して片手を畳みに触れながら、湯飲みの縁に紅を差した小さな唇を触れさせては少しずつ香味をお確かめになっておられるようです。

 なんと妖艶な姿でしょうか。慎ましくも上品に、かといって華麗に、まさに真善美のなんたるかを語らずとも見せつけられた面持ちでした。私はお水のようにお酒を飲んでおりましたから、恥ずかし思うのです。


「縁は異なもの味なもの」女将さんは見つめる私に気が付いて、そう言ってふんわりと微笑みました。


「嬉しいかぎりです」私はお答えします。


今宵は私にとって繁華街を一人で闊歩した記念日でした。ですから、こんなにオモチロくも優美な宴に魯人さんや女将さんとのご縁に恵まれたことは喜ばしくも悦楽至極です。これも中嶋さんの教授を素直に聞き入れ、阿呆たらんとしたがゆえの不思議な出会いなのでしょう。

 私は確信したのです。若さとは阿呆たることであると!

 夢のような宴は続いております。ですが乙女の慎みとして朝日が昇る前には寝床へ入っておかなければなりません。

今は何時でしょうか」私が尋ねますと、 


「三時十六分です」女将さんが袖から懐中時計を取り出して見せてくれました。


「申し訳ございませんが、私はそろそろ失礼させていただきます」


 私は長い後ろ髪を引っ張られる思いでしたが、葡萄酒をぐいっと飲み干してから立ち上がりました。


「そうかい、それは残念じゃな」


「はい、折角の楽しい宴ですのに、本当に残念です」私は言います。


 いかに楽しく愉快であろうとも、慎みを忘れては乙女の恥なのです。高貴たる必要はありませんが、乙女となったからには、慎みと恥じらいをもっておかなければいけません。


『小さき感謝と勘違いは清く正しい人生を彩る』のです。


「忘れ物じゃよ」 


 私が女将さんに続いて座敷を後にしようとした時、魯人さんが私を呼び止めました。私は頂いた狐のお面をしっかりと携えておりましたから吃驚して振り返ってみると、魯人さんは煙管で無造作に置かれたズボンを指しておられるのです。


「これも私が頂いてよろしいのですか」


「ちと臭うがな」


 ズボンを持ち上げて、鼻を近づけてみますと、酸っぱいような汗臭いような、とにかく摩訶不思議な匂いがします。摩訶不思議な匂いではありましたが、それはやはり臭かったのです。このズボンの持ち主はお洗濯などしていらっしゃらないのでしょうか。それとも、お洗濯をする暇がないほどお忙しい身の上なのでしょうか。

 私はズボンを折り畳むと、腕に掛けて「今宵は本当に楽しい宴をありがとうございました」と魯人さんと、いまだ踊り続けられている狐さんにお辞儀をいたしましてから、廊下へ出ました。

 あれほど賑やかであった数々のお座敷は水を打ったように静謐【せいひつ】としております。


「皆様はお帰りになられたのですか」と私がお聞きしますと、


「ここは旅館ですから」目尻を下げて女将さんはそうおっしゃいました。


「すっかり忘れておりました」 


 そうなのですここは旅館だったのです。


「このような刻限ですから、もしお帰りの足がございませなんだら、その面を被ってお待ちなさい」


 女将さんはわざわざ私を玄関口まで送って下さると、そう言いながら靴を履いた私にお面とズボンを渡してくださいました。


「お心遣いありがとうございます。ですが、バスで帰りますから大丈夫です」 


 私は女将さんにお辞儀をしてから、そっと通りに出ました。

 繁華街と言えど、黎明の近づく頃となればお店の火も落ち、人通りもまばらとなっております。私は大吟醸の余韻と大好物の葡萄酒の余韻とが相俟って、とても心地よくバス停へ向かいました。そして「セブン!セブン!セブン!」と高らかに歌うのでした。お面とズボンがなければ、しっかりと覚えた振り付けで完璧な『ラヂオ体操セブン』を道行く方々に披露することができたのです、それが少し残念でした。

 ですから、せめて高らかに歌いながらバスの停留所まで歩いたのです。

 三条通りの途中を東側に曲がり商店街を抜けると、停留所があります。夜明け前のこの時分ではすれ違う人もいなければ、商店街を歩いている時などはまるで無人の野を行くがごとく人影がありません。私は武芸の心得もありませんし、とりわけ、幼い頃よりお化けがたいへん恐い性分ですので、ぼんやりとした朧月を見上げながら、寂しくないようにとさらに大きな声で歌いました。

 商店街を抜けて、左側に曲がりますと、すぐ停留所のベンチがあります。私は、喉を休ませると同時にベンチに腰掛けて、バスを待つことといたしました。腰を据えるとお尻が安心したのか、ほろろと気持ちのよい眠気が上がってきます。このようなところで眠ってしまうのはよろしくありませんので、私はぐっと我慢しました。

 ですが、眠たいものは眠たいのでした。バスが来るまでの間だけと、ゆっくり瞼を閉じて、すぐに開き、急いでお面を被りました。

 もしも、通行人の方などに、涎などを垂らしている寝顔を見られるのは恥ずかしいことです。乙女の慎みに関わるのです。お面を被っていれば、そのようなことはありえませんから、安心して涎を垂らせるのです。

 そうして、私はバスが来るまでも束の間、瞼を閉じていたのでした。


      ◇


 奈良町へ踊り出た私は、この無軌道な姿を人に見られまいと看板に隠れ、電信柱に隠れ、と尾行する探偵よろしく誰もいない町の中をいそいそとバスの停留所へ向けて進んでいた。片田舎の嵯峨だろう、夜中ですら人影がなりを潜めるのである。こんな深夜に出歩く阿呆がいるはずがない。いや居た。それは私以外の何者でもない。その私は紛れもない変態の格好でかつ泥棒のようにこそこそとしているのである。

 私は考えた。こそこそとしているからこそ、疑いを招くのであって、堂々としていれば、さもそれが当然であると傍見【ぼうけん】者たちは信じるだろうと。たとえ罵られようとも蔑まれようとも、それは私が先駆者であるがゆえの苦悩なのだ!

 私は無理矢理にそう思い込み、隠れることをやめひっそりとひんやりとする奈良町の中を闊歩してやるとむんと胸を張った。

 さすがに三条通を横切るのは末恐ろしいと、私は奈良町を南下して駅舎前の道路からバス停へ目指すことにした。

 雨も降っていないと言うのに道には故轍【こてつ】の足跡が数多残っている。明かりの落ちた赤煉瓦の駅舎を苦々しく横目で見ながら、電飾が煌々と輝くアーチの手前で立ち止まった私は、いちよう通りに淑女がいないかどうかを確認すべく、顔を覗かせた。すると、私の顔のすぐ下に足があったのでとてつもなく驚いた。私は幼少の頃よりお化けがとても恐い性分なのである。

 なぜにこのようなところで寝転んでいるのか。

 見ればピエロのように鼻を赤くした酒飲みの成れの果てであった。酩酊したあげく、石畳の上で機嫌良く寝息を立てるなどと随分な身分である。太鼓腹まで覆われたズボンは容易にして疑いもなく私の下半身を覆うに事足りるだろう。私は何度も頷いてから、さっさと通りを渡った。

 いかに下半身が冷えようとも私の誠はズボンごときに揺らいだりはしないのである。蚤の心臓にて心配していた私を尻目に、誰一人として人はいない。古の孫子の兵法書にある『まるで無人の野を行くがごとく敵するものなし』という趣である。

 少し歩くとようやく、バス停を照らす裸電球の明かりが見えてきた。

「なんでだ」私は呻くように声を漏らした。

 頼りない明かりの下には人影があったのである。ベンチに背を持たせた人影の膝辺りには、ひらひらと揺れているものが見当たるではないか。私はひとまず郵便ポストに身を隠して様子を窺うことにした。

 乙女であるらしい人影は、微動だにすることなく人形のように端然とベンチに背を預け佇んでいる。

 どうしたものか。このまま走り抜けても良いが、悲鳴の一つでもあげられたなら、たとえ顔を見られずとも、私の一番大切な部分が八つ裂きにされたあげく、ふやけた天かすのようになってしまうのは必定だ。かといってこのまま郵便ポストに隠れたままと言うのも下半身が寒くてかなわん。

 私が眠気に蹂躙され、働きの鈍くなった脳みそを総動員して熟慮していると、脳天に水滴が落ちてきた。私が見上げると、それは雲一つない夜空から降ってくるのである。不思議なこともあるものだと軒下に避難すると、それと同時に、金タライをひっくり返したように、雨が地面を容赦なく打ち据えはじめたのである。私は眉を顰【ひそ】めながら、迷わずベンチの乙女を心配した。

 しかし、乙女は雨に打たれていなかった。それは裸電球とてベンチとて同じこと。雨はまるで私の行く手を遮るように、降り頻っているのだ。家屋の住人がご丁寧にも二階から嫌がらせをしているのかと訝しんでみたりしたが、そのうち、三条通の方から鈴の音が聞こえてくると私は背筋に冷たいものを感じて、濡れるのもお構いなしに郵便ポストの影に身を隠した。

 しゃんしゃん、と一定の調子で鳴る鈴の音。やがて、ほのかな明かりもあらわれた。それは提灯の明かりであった。奇妙であるのは、足下よりも遥か高いところに巨大な提灯が掲げられ、舌のような赤い布が垂れているのである。

 鈴の音が目前に迫ると、提灯の明かりに照らされた狐の面が見えた。あの忌まわしき狐どもである。ここで飛び出して一矢報いてやろうかと、私が腑を煮えたたせていると、朱色の駕籠が通ったのである。大名行列でも見ているのかと私は目を擦って大きく見開いた。

 駕籠について歩く振り袖を着た長い髪の女たちは結い上げた髪に鼈甲の簪をたいそう挿し、まるで花魁のように凄艶【せいえん】であったが、やはり顔には狐の面をつけている。私は気分が悪くなってきた。なんだこの現実ばなれした光景は。間抜けに口を開けている私はまもなく仰け反った。

 華やかな行列が通り過ぎると、突然雨は止んだ。いや、消えた。地面にはその痕跡を残しておらず、私の髪の毛も衣服も何もかもが濡れていないのである。私はその場に胡座をかいて頭を掻いた。今夜は確か酒を飲んでいないはずだぞ。と首を傾げていると、その内、雷のような音を響かせて大八車がやって来た。

 やけに明るいなと思って見ていると、どうも様子がおかしい。その明かりは明瞭に提灯ではないのである。しっかりと炎であり、ゆらゆらと前後左右を縦横無尽に飛び回っている。それが幾つも夜空を舞っているのである。暗闇の中を飛ぶ蛍のように……

 そんなばかなと私は、だんだんこれは夢ではなかろうか、いや夢であろう。そう結論づけようとした。そんな頃合い、調度、大八車が私の目前を通り過ぎるところであった。大八車には一本の一升瓶が四方から縄でもって固定されてあった。その一升瓶には焼き印で『大吟醸』と刻印された札が組紐にてぶら下がっているのである。


「なんと」


 声を漏らした私を誰が責めることができるだろう。あの大吟醸は古平と私が魯人氏に売った雑多酒ではないか。どうして狐どもの手に渡っているのだ。

 大八車を引く狐面が私を見据えて足を止めた。車軸が軋み大きな車輪が回転を止める。面のくせに瞼が動くのである、気色の悪いことこの上ない。私も負けずと狐面を睨み返す。対峙するのであれば、私の方が肝が座っている。こんな醜態を曝してなお、羞恥心が薄れてゆく昨今はすでに開き直りの境地である。

 しかし、狐面はいやらしく笑ったのだ。のぞいた並びの良い金色の牙、私も虫歯だらけの歯を剥き出してこれを牽制する。しからば、動いたのは謎の炎玉である。好き勝手に宙を舞っていたそれらは、意思の疎通をはかったがごとく、車輪の回りに一列に並ぶとたちまち車輪が燃えているかのようになった。それを待っていたかのように車輪全体が焼き餅のようににわかに膨らんだかと思うと、ある所は血走った目玉に、または筒を曲げたような口に、鼻に。みるみる間にひょっとこの顔ができあがったのだった。

 それだけではない、ひょっとこの血走った目玉はそれぞれが時計回りにぐるりぐるりと回り、筒状の口からは舌の代わりに火柱が立ち上る。

 私は仰け反った、そして持てる力を用いて後ずさった。俗に言う火車ではないか、私は亡者ではない。ゆえに地獄へ拉致されることはないだろうが、なんだこれは、これはなんだ。

 狐面は恐れおののく私の姿を見て、無言にて腹を抱えて笑っていたが、やがて今一度私に金色の牙を見せた後、何ごともなかったかのように、大八車を引いて行った。

 私はと言うと目元を痙攣させ、生唾を飲み込み、頬などを抓ってみたり頭をひっぱたいてみたりしていた。 

    

        ◇


 今晩は少し冷えます。ですから、私は手足の指先などが気になって時折、目を覚ましたりしておりました。ですが、お腹や顔などは近くにストーブがあるかのように火照っておりましたから、頬を撫でる冷たい微風と気持ちよく、また微睡んでしまうのです。私はせめてもと、両手をお腹のところへやります。

 私はお腹の弱い子どもでしたから、寝間着に着替える時は必ず毛糸の腹巻きをしておりました。お母様の手編みの腹巻きです。その習慣からか、今でも腹巻きをしなければ眠ることができないのです。

 お姉様は「お子ちゃまね」と笑いましたが、私は一向に恥ずかしくありません。なにせ、腹巻きをして寝ているおかげで幾星霜と寝冷えをしたことがないのですから。

 もちろん、手元に腹巻きはありませんから、せめてもと手を置いたのです。

 何度目でしょうか。目が覚めた時、目の前に狐のお面をつけた女性が立っておりました。

虹色の花々が咲き乱れる絢爛豪華な柄を宿した振り袖を身に纏っておられる女性は結い上げた髪に鼈甲の簪を何本挿しております。まるで花魁のように煌びやかでありました。


「もし、お乗りになられますか」


「はい。こんな夜分にご苦労さまです」


 こんな夜分に運行されるバスガールの方でしょうと、私はゆっくりと立ち上がります。


「お頭にお気をつけ下さい」


 それは私の知るバスではありませんでした。しいて言うなれば、キネマで見かけるお大名が乗る駕籠のようです。


「これは本当にバスですか」


 私は瞼を半分しか開けられないまま、はっきりとお聞きしました。もしや、タクシーではないかと不安になったのです。乗せて頂くのはたいへん有り難いことですが、私の御財布には十分なお支払いができるだけの金銭がないのです。


「はい、夜分ですので特別なのですよ」


「そうですか」 


 私は安心して、添えられる手に助けられてバスに乗り込みました。中は真っ暗で何も見えません、ですが、背中もお尻もふわふわとして、まるでお風呂につかっている趣なのです。


「発車オーライ」


 外からバスガールさんの声が聞こえますと、バスはゆっくりと動き出しました。狂騒と五月蠅いエンジン音もなければ縦に横にと激しく揺れることもなく、すばらしい乗り心地です。


「ご苦労様です」


 私は感謝の気持ちを口にしてから、終点までの玉響を微睡むことにしたのです。


      ◇


 悔しいが、これぞ狐につままれたと言う心境である。百鬼夜行が通り過ぎた後、後続は現れず、一駆けしてみたが大八車も大名行列も乙女の姿も神隠しのごとく姿をくらましてしまっていた。

 ただ、ベンチの上に端正に折り畳まれたズボンが一、置かれてあったのである。乙女の忘れ物かと思いつつ、手にとって見ると、仄かに芳醇な太陽のような落ち着く香りが私の鼻腔を席巻し、私は恍惚【こうこつ】となった。そして確信したのだ、妙齢たる乙女の崇高たる香りに違いないと。

 塗炭【とたん】な目にあったとて、八百万も神がいれば捨てる神があれば拾う神もいるのである。八百万万歳!

 しかし、現実とはかくも厳しいものである。乙女の香りに私が癒されるのと間をずらして、怒濤のごとくと酸っぱいような汗臭いような、とにかく悪臭が闖入してきたのだ。そして私は確信した、この男汁の匂いは紛れもなく私のズボンであると。ポケットをまさぐってみると、紙幣は泡と消えており、出てきた見覚えのある財布の中身も小銭を残して紙幣は影も形もなかった。

 とは言えズボンと財布を取り戻し現状回帰を果たした私は、我が愛すべき四畳半へ向けて歩き出したのである。どうせ一本道なのだ、この分で行けば歩いたとて夜明け頃には万年床へ倒れ込むことが叶うだろう。

 私は次のバス停の明かりを目印に轍【わだち】を平均台に見立て、両腕を広げバランスを取りながらとぼとぼと歩き出した。


      ◇


「お気をつけてお帰り下さい」


「お心遣いに感謝いたします」 


 バスガールさんに手を添えて頂いて私は終点のバス停のベンチに腰を降ろしました。とても眠くて仕方がなかったのですが、せめて御礼の言葉くらいは言えないでどうしますか。呂律【ろれつ】には自身がありましたので、しっかりとお伝えすることができたと思います。


「それではいずれまた」


 バスガールさんはそうおっしゃって、バスを発進させました。鈴の音が次第に遠のき、やがて聞こえなくなりました。私は少し寂しい面持ちとなりましたが、目の前が朦朧としておりましたから、余計に寂しく思えたのかもしれません。なにせ、親切なバスガールさんのお顔が狐に見えてしまったのです。なんと失礼な私なのでしょう。


「お嬢さん、こんなところで何をしているのですか」


「これは松永先輩ではありませんか。今お帰りですか」


 着替えられたのか、浴衣姿の先輩がおられたのです。


「ええ」


「それでは同じバスだったのですね」 


「そうだろう」 


 今夜お姉様と婚約された松永先輩が私の前に立っておられました。先輩はこんな夜分だと言うのに、お酒の匂いもさせずに佇んでいるではありませんか。


「随分と酔っているようだ、そこの屋台で休もうと思うが、いかがかな」


「ご一緒いたします」


 先輩が指さす先には『猫』と書かれた赤提灯が下がった屋台が商いをしておりました。夜分に殿方のお誘いを受けるなどと、乙女の慎みに欠けるのですが、お相手がお姉様の婚約相手の松永先輩でしたから、私は先輩とご一緒することにしました。

 白地に『油』と黒く染め抜かれた暖簾を潜ると、そこにはたいへん広いお座敷が広がっているではありませんか、両脇の襖は銀色に輝き、天井にはシャンデリアが煌々としております。雪見障子の向こうは愉快にもお魚が空を泳いでいるのです。


「空魚だよ」と私に先輩は言いました。


「初めて見ました」


 昔、縁日の金魚すくいで私と出会った金魚に『ぱっちょん』と名前をつけて飼っていたことがありましたが、ぱっちょんは決して空は飛びませんでした。ですから、私はお魚は空を飛ぶ生き物ではないと思っておりました。ですが、この広い世の中ですから、空を飛ぶお魚の一匹や二匹がいてもおかしくはありません。

 いえ、このお座敷から見ただけでも、数十匹はいました。

 お座敷の中央には杯と一升瓶がおかれてあります。先輩は杯の前に腰を降ろすと、「あなたもどうです」と私を手招きました。今夜はお酒をたくさん頂きましたので、お断りしようと思ったのですが、一升瓶には組紐にて焼き印の押された札がかかっていたのです。何ということでしょう!私は並々ならぬ縁を感じずにはいられません。

 大吟醸と焼き印された瓶の前に膝を折った私は、まず先輩の杯にお酒を注ぎました。


「このお酒はね。今し方〝稲荷〟から届けられた幻の酒らしい」


「お稲荷さまですか?」 


「魯人と言えばわかるかな」先輩は杯を口に運んで言います。


「はい、魯人さんには今夜とても美味しいお酒を頂きました」私は手を合わせて言いました。


「そうだ、私と飲み比べをしないか」


「飲み比べですか」


 私は困ってしまいました。今一度あの感動を嗜みたいとは思っておりましたが、仮にもゆくゆくはお姉様の花婿となられる先輩に妹である私がそそうをしてしまいますとお姉様を困らせることになるのです。


「もし、君が勝ったら、私はお姉さんとの婚約を破棄しようじゃないか」


 先輩は私の前に置かれた杯にお酒を注ぎながら言います。


「何をおっしゃるのですか。そのようなことを冗談でもおっしゃってはいけません」


 私は杯を畳みの上に置いて、凛として言いました。通わされた清く美しい想いを戯れの賭けにするなど不謹慎です!


「君も知ってるはずだ、お姉さんが私との婚約を望んでいないことをね。全ては君のお父さんの思いなのだよ」


 口もとを綻ばせて言う松永先輩を私は心から軽蔑いたしました。いいえ、私は泣きたくなりました。真実であろうとも『愛している』と一言言い続けてくださればお姉様も幸せなはずなのです。乙女は幸せなはずなのです。


「松永先輩はお姉様のことを愛しておられるのでしょ?」


「あいにく俺は、女にふじゅうしたことがないのでね」


 松永先輩はそう言い切ったのでした。

 なんと言う不埒な殿方なのでしょう。私は顔に出さずともお腹を煮えたぎらせました。

 会場での幸せそうな様子は嘘だったのです。微笑みかけていた先輩は偽物だったのです。ですから、お姉様は私の前で涙をお見せになられたのでしょう。

 私は最低な妹です。お姉様のことを一番理解していると思っていたにもかかわらず、それはただの思い込みだったのですから。


「私は必ず勝つでしょう」正義女と燃えた私は杯を持つとそれを一気に飲み干して見せたのです。


「趣があるな」


 と先輩は懐から猫のお面を取り出すと顔に被りました。そうでした、私はお面をつけていたのです。

 お面をつけたままお酒は頂くことはできません。ですが、今宵は頂くことができたのです。まるでお面と私の顔が一つになったように、私が口を開けばお面の口がひとりでに口を開けるのです。それは先輩も同じ様子でした、ただ、猫の額よりも狐の額の方が大きく顎も長いですから、慣れるまではお洋服を汚してはと、私は杯を持ち上げてから躊躇をしてしまいました。


「君の腹の中には鯨がいるのだね」


「どうしてご存じなのですか」


「ここに来る前にもたいそう飲んでいたようだから」 


私ははっとなりました。確かに私は先輩と飲み比べをする以前よりお酒を飲んでおりましたが、そのいずれの席にも先輩の姿はなかったはずでなのです。


「猫は額は狭いが、顔は広いのだよ」


「私は犬の方が好きです」私は言いました。


「狐の顔で犬とな。これは面白いことを言う」


 私は君の方が好きだな。と先輩は高笑いをしました。私は「むん」と声に出して不快を顔に出しました。ですが、お面をしていますので、私の不機嫌は先輩に届かないことでしょう。

 楽しくないお酒は愉快ではありません。

 せっかくの大吟醸も魯人さんと飲んだものと味が格段に劣るのです。まるで焼酎で薄めているような、混ぜ酒をしているような。それとも、私の舌がおばかになってしまっているのでしょうか。


「私の百年の望だと言ったら負けてくれるかい」 


 先輩は呂律をはっきりとおっしゃいました。


「先輩が百年の望と言われるのら、私の勝利こそ乙女の悲願です」


 乙女の純情は百年や千年では語れません。一生に一度、そう一生涯に一度しかないのです。ですから、私は負けるわけにはいきません。まして、負けて差し上げるなど言語道断なのです。


「私は必ず勝つのです」私は続けてはっきりと言いました。


「可愛い顔をして、油断した私が迂闊であったよ」 


 そう言うと、先輩は杯を手の上からぽとりと落とし「君に負けたんじゃない。君の飼ってる海獣に負けたのだ」と敗者の弁をも畳みの上に落としたのでした。

 私はそして勝利を手中に収め、敬愛するお姉様の純情を身を挺してお守りしたのでした。


「ラヂオ体操セブン!」私は右腕を威風堂々と掲げ、勝利の咆哮をあげたのでした。

 本来なら勝ち鬨をあげたいところなのですが、乙女である私に、いえ、私のお腹に住んでいる鯨に敗北してしまった先輩のお立場を考えると、素直に心情を発することは憚ります。ですから、私は覚えたてほやほやと湯気の立つ『ラヂオ体操セブン』を高らかに歌い、そして先輩の周りを踊り歩きました。

 先輩は項垂れたまま、一度として顔をあげることはしませんでしたが、「チッ」先輩は舌打ちをしてやっと顔をあげました。しかし、その目線の先には私は居ません。なぜなら、私は丁度先輩の後ろで踊っていたのですから。


「大団円じゃな」 


 そう言ったのは魯人さんでした。彼は煙管の代わりに『天晴れ』とかかれた扇を片手に微笑んでいらっしゃいます。その隣には旅館の女将さんと花魁のような出で立ちの妙齢な女性が佇んでおりました。


「しかたあるまい」


 先輩は娘さんを見つめておりましたが、苦々しくそう言うと立ち上がり、わざわざ魯人さんと女将さんの間を通り抜けて暖簾をくぐりました。


「何ということでしょう」


 私は一部始終を見ておりましたが、ついに顛末を理解することができませんでした。ですが、先輩が座敷から姿を消した途端、天井から桃色の小さくて可愛らしい花弁がまるで雪のようにゆらゆらと舞い落ちてくるではありませんか。私は踊りをやめて、手の平を翳します、すると、無数の花弁が手の平の上にのっては溶けてゆきました。

 このように心が洗われるほど感慨に浸ったのは幾星霜ぶりでしょう!


「これで、忌まわしき百年の盟約にて猫に娘を嫁がせずにすみました。なんと御礼を申し上げたらよろしいでしょう」


 女将さんはそう言うと温順恭謙とお辞儀をするのでした。


「本当になんと言って御礼を申し上げればよいか……本当にありがとうございます」


 女将さんと同じくお辞儀をする娘さんは私にそう言いながら、声を震わせて御礼を言うのです。


「最後に正義は必ず勝つのです!」私は拳を突き上げて言いました。


 私はお姉様の為に飲み比べたわけですが、私の行いで娘さんをも救われたというのであれば万事は万歳なのです!


「これで百年は大丈夫じゃな」


「いいえ。乙女の純情は千年万年守られるのです」私は言いました。


 かかかっ、と魯人さんが笑います。


「これからお嬢さんは猫に嫌われ、狐に好かれるじゃろうのう」魯人さんがそうお

っしゃられますと「その通りです」と女将さんは口もとを綻ばせました。


「明日にでも稲荷神社に行って願でもかけれなされ」


 そう言って魯人さんは、かかかっと再び笑いました。

「笑顔とはよいものです」私はお二人の笑顔を見ていると、嬉しくなり自然とそう口に出しておりました。

 そして、魯人さんは先輩の座っていた座布団に腰を降ろすと、残ったお酒を杯に注ぎました。

「もう一杯どうじゃな」とお誘い下さったのですが「私は帰らなければなりません」私が帰宅の旨をお伝えすると、暖簾の際まで女将さんと娘さんが見送って下さり、別れ際に、


「縁は異なもの味なもの」


 と声を揃えておっしゃいましたので、


「はい。縁は異なもの味なものです」と私はお答えしました。


 いまさら、桜の花弁舞い散るお座敷を名残おしいと思ったのですが、夜明けまでには帰らなければいけませんでしたから、私は「それでは失礼いたします」と会釈をしてから、暖簾をくぐったのです。

 外に出て見ると、静寂の中に頼りない裸電球とその下にベンチがあります。夢から覚めた面持ちをなった私は、もう少しだけ魯人さんのお相手をしてもよろしいでしょう。と振り返りました。

 しかし、そこには暖簾がなかったのです。

 暖簾だけではありません。屋台すら影も形もないのでした。

「なんてことをしてくれたんだ、これで私は百年も結婚できないじゃないか」

カエル泳ぎのように手で探っていますと、傍らに松永先輩が立っておりました。物言いからどうやら私を待っていたようです。先輩は怒髪天と髪の毛を逆立てており、お面から銀色の牙を剥いております。

 ですが、

「最後に正義女は必ず勝ちます」私は胸を張って申し上げました。私は勝ったのです。不埒者とは言え先輩も男子です。でしたら二言などあるはずがありません。


「このうえは、お前の唇を盗まずにおれまいか」


 先輩は牙を剥いたまま、私に迫って来たのです。言うに事欠いてなんと悪辣な所行でしょう。殿方の風上にも置けない乱暴狼藉っぷりです。

 私は、両手に猫手をつくると、それを振り上げて和太鼓を打ち鳴らすように目をつぶって先輩の顔に向けて振り下ろしました。先輩はお面を被っておいでですから、私のひ弱な手では堅いお面に大方打ち返されてしまいましたが、私はそれでも怯みませんでした。

 その時です。


「どうかされたんですか」と別の殿方の声がしました。


「どうか助けて下さいませ」


 もはや暴漢となり果てた先輩に必至と抗いながら、私は大きな声でその正義漢の方に助けを懇願しました。

 するとどうでしょう。先輩は「にゃん」と可愛らしい鳴き声を残して走り去ってしまったのです。

 私は痛む手の平を擦り合わせながら、今度こそ「えいえいおぉ!」と勝ち鬨を上げたのでした。


      ◇

 

 今夜は酷い目にあった。巡り巡って四畳半を出掛ける間際の格好に辿りつけたわけだが、本当に巡りも巡ったものである。空っ穴の懐で出掛け、一時は手にしたことのない紙幣で懐を熱く焦がし、今世紀最大のはしゃぎぶりで『ラヂオ体操セブン』を歌った。なんと懐かしきなか束の間の栄光。

 その後はひたすら逃げてひたすら孤軍奮闘と投げ返して、ズボンを剥ぎ取られ、この世に神も仏もありはせん!とふせくされて帰路を歩いていると、神か仏の思し召しにて私の一張羅にして晴れ着であるズボンが我が下半身に帰って来た。

 だが、それでは私は今夜何のために婚約披露宴で給仕をしリヤカーを押し、雑多酒を造り、高らかに歌い、逃げて、戦ったのだ。

 そうだ、一番大切な部分が抜け落ちているのである。古平は儲け話があると言ったのだ。一時儲けても、それを家に持ち帰らねば意味がない。私はおもちゃ銀行の紙幣を触って喜ぶお子様ではないのだ。

 本来ならタクシーで優雅にカネモチ気分を謳歌しているはずであったろうに、何が悲しくて、歩いてバス停巡りをせねばならんのか……私は時に憂い時に憤り、そしてあまりのあほらしさに笑った。そうして喜怒哀楽の全てを循環させながら、終点のバス停に迫ったのである。

 こんな夜更けだと言うのに、面白い乙女に出でくわした。その乙女は裸電球の光に黒髪を艶やかせながら、なぜか狐の面を被り、何を思ってか薬屋の看板兼置物である招き猫の額を可愛らしい猫手で叩いているのである。  


「どうかされたんですか」


 狐の面はやはり気に食わなかったが、相手が乙女であれば話しは真っ向から別である。


「どうか助けて下さいませ」なにを思ってか乙女は大声でそう言ったのである。

 私は思わず狼狽した。この現状でそのように叫ばれては、まるで私が暴漢のようではないか。いや、仮に乙女の声に呼応して家屋の外に飛び出した正義漢たちは、私が暴漢であると信じて疑うまい。そして、乙女の操と言う大義名分の名のもとに手に持った得物で私はしこたま打ち据えるだろう。私はこれ以上の厄難を一身に受けることはごめん被りたい。是非、古平のために残しておいてやるとしよう。

 私が慌てて周りを窺っていると、つっかえ棒がはずれ乙女が危害を加えていた招き猫が横倒しとなった。張りぼてのようにぐしゃりと音を立てて倒れた招き猫の後ろから、「にゃん」と三毛猫が可愛らしい鳴き声を残して別の塒【ねぐら】へだろう逃げ去って行った。

 乙女はその後、倒れた招き猫を弔うように両手を摺り合わせていたが、念仏ではなく「えいえいおぉ!」と勝ち鬨を上げたのである。

 私は頭を掻いた。これはどうしたものだろう。ただの悪戯好きのお茶目さんなのか、それとも奇怪な狐どもの悪ふざけの続きなのだろうか。乙女は、勝ち鬨を上げてからすぐ、ベンチへ腰を降ろして頭を垂れてしまった。仕方がない、と私は招き猫を起こし、つっかえ棒でなんとか体を誤魔化してから、恐る恐るベンチに腰掛ける乙女に声を掛けたのである。


「こんな夜分にどこかへ行かれるのですか」


「いいえ、私は家に帰る途中なのです」 


お面をつけた顔をもたげてそう言った乙女からは、芳醇な酒の香りが漂った。酔っていなければ、物言わぬ招き猫を打ち据えたりはしないだろう。


「よろしければ肩などお貸ししましょうか」


 下心などない。人恋しさに打ち拉がれ妙齢たる黒髪の乙女と懇ろとなりたいと日々欲情をむんむんとする私であっても、酩酊する乙女を前にして鼻の下を伸ばしてどうする。美徳などと称するつもりはないが、例え記憶に残らぬとて、見えぬところにおいて紳士であるのが男子たる心得なのである。

 よもや、連れだって歩いているうちに酔いが覚めることなど期待はして…………期待はして……いない。と思う。


「すみません、家までよろしくお願いします」


「道筋はわかりますか」


「はい、必要な場所ではご案内いたします。夜分恐れ入ります運転手さん」


 今、運転手と言わなかっただろうか。いや言った。彼女はどうやら、さらに何かを勘違いしている様子であった。私を見つめる狐の面がやけに恐い。

 かくして、私は運転手と呼称を改め人力車ならぬ人力者にて乙女を家まで送る運びとなったのである。

 全身から芳醇かつ繊細で清楚な石鹸の香りを漂わせる乙女を背におぶり夜道歩く。おぶりなおす度に背に触れる柔らかい二つの果実が私の欲情を激しくかきたてた。だが、日頃、肉体の鍛錬を怠っていた私の下半身は錆びた歯車のように金切り声を上げ少し歩いたところでそれどころではなくなってしまったのであった。 

 一見したとおり彼女は軽かった。私が日々肉体の鍛錬に余念が無ければ、早く酔いがさめぬものかと胸中をときめかせていたかもしれない。しかし、口もとから香る甘いエチルアルコールからして彼女はタクシーにでも乗っているつもりなのだろう。

 酩酊していなければ、このような妙齢たる乙女が見ず知らずの男の、私のような男の背に身を委ねるはずがあるまい。

 彼女は真っ直ぐであれば「直進です」。曲がり道であればはるか遠くから「左です」「右です」。と背中で指示を出した。これほど明確に指示を出してもらえれば迷うことはないだろう。だが、ここまで明確に指示をされると逆説で疑いたくなる。彼女は本当に酔っているのだろうか。


「運転手さんは、物持ちがよいのですね」彼女が言った。


「ええ、まあ」


 なにを思って彼女がそう言ったのかは杳として知れないが、何を隠そう私の物持ちのよさたるや。決して誇れないながらも人よりも抜き身出ていることは確かだろう。郷里を離れて幾年月。衣類をはじめ家財道具の一切に金を出したことはない。洗濯板に擦りつけるがゆえにシャツが破れるのだと悟るや、早々に洗濯の一切を放棄した。石鹸など消耗するものは大學からこっそりとくすねる……いや、拝借してくる。念の入れようである。

 前言通り私は肉体の鍛錬の一切をしてこなかった、ゆえに細身の乙女一人おぶり続けることが困難となりつつあった。私はそれでもここで男をみせねばどこで見せるのだ!と生命維持にかかわる領域をも総動員して、歩みを止めまいと奮闘したのである。


「ここです」


 ボロではあるが、自分自身は撥条【ぜんまい】仕掛けのオートマトンであると必至に思い込み、難波歩きにてなんとか歩みの体を保っていた。ゆえに、彼女がとある一軒家を指さしてそう言った時はあやうく膝から崩れ落ちそうになった。

 この若さにして、一城の主であらせられるとは、私の燦々たる四畳半とはまるで次元が異なる。白壁にアーチ状の窓が幾つか並び、そして煉瓦造りの煙突が屋根から伸びている。この辺りでは珍しい二階建て洋風造りの家屋である。屋根瓦だけが唯一、和の香りを残していた。

 彼女は私の背から降りると「ありがとうございました」風に揺らめく洗濯物のようにゆらゆらと身体を左右させながら、お辞儀をするのである。


「いえいえ」


 泥酔していようとも礼儀を忘れず。どこぞの三条通で眠り転けていた阿呆とは、やはり育ちが違う。

 人助けとは良いものである。その結果満身創痍となってしまったが、相手が乙女であればそれとて光栄の極みである。下心において善行の心地よさを噛み締める私の眼前では千鳥足で自宅の門柱を開け。石畳をはずれて芝生に流れて行く乙女の姿があり、そして、無惨にも芝生に足をとられ彼女は転倒したのである。

 私は心中の憚りを忘れ、彼女の元へ駆け寄った。するとすでに彼女は桃色寝息を立てて眠っていたのである。見返りを求めるつもりはなかったが、偶発的事故においてもっとも無防備であり優麗たる寝顔を一目でも拝見したかった。きっと綿菓子のようにほわほわと柔らかい小さな唇に私は欲情をかきたてられたことだろう。

 だが、ここまで来て己を見失うわけにはいくまい。

 私は息を飲んで彼女を家の中へと運んだ。生涯最初のお姫様抱っこであり最後のお姫様抱っこにて。


「せめてお名前を」


 彼女が譫言のように呟いた。私は大いに驚いたが、驚愕のあまり彼女を落とすまいと腰に力をいれてこれに耐え。正義のヒーローよろしく「名乗るほどの者ではございません」と台詞じみた台詞にて返事をした。

 奇妙なことに家のドアの施錠は開いていた。不用心なと思いつつ私は彼女を絨毯の上に寝かせ、未練がましく暫しその場に佇み。そして、ひと思いに家を後にしたのである。そして後ろ髪を力一杯引っ張られて、振り返ってみると、二階の一室に明かりが灯った。やはり、独り身だろう彼女が一人で住んでいるわけがあるまい。両親か兄弟かはたまた、夫か……夫なのか……夫だろうか……夫……私は無性に虚しくそして落胆して、将棋倒しのように広がりを見せる黎明の中を希望も夢もない流々【ながるる】荘へ帰ったのである。


      ◇


 随分とお日様が高くなった頃、私はベットの上にて気持ちの良い目覚めをしました。陽の光を浴び、今日も一日愉快で摩訶不思議な出来事に出会えるでしょうかと、背伸びをしたのです。

 今朝方、私はオモチロイ夢を見ました。明け方前だと言うのに、バス停に佇む私にタクシーの運転手さんがお声を掛けて下さったのです。お仕事でお疲れでしょうに、なんともお優しい運転手さんです。私は「すみません、家までよろしくお願いたします」と言って、タクシーに乗り込むと「道筋はわかりますか」運転手さんがそうおっしゃいましたので「はい」とお答えしました。そして、私は真っ直ぐであれば「直進です」。曲がり道であれば、通り過ぎてしまってはお手間をかけてしまいますから、随分と余裕をもって「左です」「右です」とご案内したのです。

 タイヤが悪いのでしょうか。ふわふわとした乗り心地ながら車はよく揺れ、時々大きく縦に揺れるのです。この界隈は信号機もありませんのに、止まってしまうこともありました。ですから、私はこの車は相当な骨董車なのだと思いました。そのような自動車を大切に使い続ける運転手さんは素晴らしいお方なのです。私も物持ちが良いと言われます。幼少の頃にお誕生日プレゼントとして頂いた懐中時計は今でも動きますし、中等部の頃に買って頂いたエナメルのポーチもまだ十分使えるのです。ただ、赤く大きなリボンがついておりまして、このお年頃では些か幼いと恥ずかしくて箪笥の肥やしになってしまっていますけれど。 


「運転手さんは、物持ちがよいのですね」私は言いました。


「ええ、まあ」運転手さんは謙遜されます。


 古い自動車でしたから、運転手さんは私を気遣ってストーブもいれて下さいましたから、寒空の下、私は顔までほっこりと温かく終始寒くありませんでした。

 そして、ご丁寧にも私の手を引いて玄関まで送って下さったのです。なぜか私の足は言うことを聞かず千鳥足とゆらゆらとしておりましたので、たいへん助かりました。

「私はこれで」とドアを開けたところで運転手さんが言いましたので、お茶などで労えないながも、御礼の御手紙でもと思い「せめてお名前を」と朦朧とする意識の中で私は聞きます。少しの間があって「名乗るほどの者ではございません」と残して颯爽と駆けて行ってしまわれたのです。なんとさり気なくお優しい紳士なのでしょう!きっと、きりりとした燕尾服に蝶ネクタイなどをお召しだったに違いありません。私はベットの上に立ち上がったまま恍惚となりました。

 ですが残念なことに、丁度、そこで目が覚めてしまいました。この後どのような展開を見せるのでしょうかと、キネマの続編を期待するように、二度寝を敢行しようと思いましたが、せっかくの休日を一日中ベットの中で過ごすのも、もったいないとお散歩にでも出掛けましょうと思い、私はベットの上から元気に飛び降りました。夢のご縁も一期一会なのです。

 私は浴衣の裾を踏んづけて床に転んでしまいました。幸いになことに絨毯を敷いたばかりでしたから、おでこを打ちましたがそんなに痛くありませんでした。

 なぜ私は浴衣を着ているのでしょう?私は毎晩お気に入りの洋物の寝間着で寝ておりましたから、こちらに転居して以来、浴衣には一度として袖を通しておりませんでした。

 私は床に座り込んで頬をぽりぽりと掻きました。床で打ったおでこが今更ながら痛みましたが、それ以上に奇想天外なのです。どうしましょうか、まだ寝起きだと言うのに、まだお散歩にも行っていないのに、私は摩訶不思議と出会ってしまったのです。


「何を暴れているの」 


 階段を駆け上がる音がしてからドアが静かに開いて、お母様が慌てて入って来ました。


「お母様、どうしてこちらに?」


 お母様は実家の方で暮らしてらっしゃいます。ですから、この家にはおられないはずなのです。


「昨日、お酒を頂戴し過ぎましたので、ここで休ませてもらうことにしたの、あなたにも伝えたはずですよ」


 はて、昨夜、正しくは深夜なのですが、お母様のお姿を拝見したでしょうか。そもそも、そのようなお話を耳にしたでしょうか……思いを巡らして見ると、思い出しました。私が会場を後にする際、お母様からそのようなお話を耳にしていました。私としたことがすっかり忘れていたのです。


「何も覚えていないのね。あなた今朝方帰って来たかと思ったら、廊下で寝ていたのよ」


 呆れた顔でお母様は言いました。そう言えば、昨夜は胸寂しくなり、二次会をお断りして、三条通をぶらぶらしていたのです。中嶋さんとお姉様と行きつけのお店でお酒を嗜んでから、愉快な歌を歌われるお二人のお供をして、魯人さんに大吟醸をご馳走になり、そして、バスに乗って帰って来たはずですから、今朝方になるはずがないのですが……


「いいえ、驚きました」


「そうですか……」


 お母様は公明正大なお方ですから、そんなつまらない嘘は口にしません。それでも乙女の慎みとして、夜明け前に寝床に戻ることができたのです。それだけでも良しとしなければなりません。


「そうです。タクシーで送っていただいたのです」私は思い出しました。


 服装こそ覚えておりませんでしたが、骨董車をこよなく愛し、物持ち良く優しくも紳士であられる運転手さんでした。


「タクシーですって?自動車は一台も通っていませんよ」お母様は珍しいものでも見るように目を丸めて私を見ました。

 

 でしたら、やはりあの一部始終は夢だったのでしょうか。もしや、私は停留所から夢をみながら歩いて帰ってきたのでしょうか。だとすれば、それはすごいことではありませんか!眠りながら歩き、はたして目的地である下宿へ到着できたのですから!

あなたって子は。と内心を輝かせる私にお母様はさらに呆れておっしゃいます。


「淑女たるもの、御財布に少しばかしは余裕をもっておいてしかるべきですよ」


 お母様はそう言いながら、袖から私の御財布を取り出しました。はじっこに小さく林檎の刺繍が入った私のお気に入りの御財布です。


「昨夜、お姉様にお酒をご馳走したのです」  


「そう。いないと思ったら、あなたとお酒を飲んでいたの。あの子もあなたもどうしようもない子ね」お母様はそう言って溜息をつきました。

 

 立ち眩みでしょうか、お母様は額に手をやって、首を何度か左右させて「少し入れておきましたからね」とおっしゃって、御財布を私の膝の上に置くと、部屋を出て行かれました。

 御財布を開けてみると、閑古鳥を飼っていたはずの御財布の中には閑古鳥の代わりにお札が数枚入っております。「わあ」私は思わず、御財布を落として手を叩きました。思わぬお小遣いに私は年甲斐もなく嬉しくなってしまったのです。もちろん、急いで御財布を拾い上げると、そのまま抱き締めてこの喜びを御財布と一緒に分かち合いました。

 御財布を机の引き出しにかたづけてから気が付きました。そうなのです。昨夜お姉様にお酒をご馳走した私の御財布は帰りのバス賃しか残っていなかったはずです。

 夢うつつであれ、もしも、タクシーに乗ったのであれば、代金をお支払いしていないことになります。なんと言うことでしょう。きっと、あの運転手さんは心のお優しい紳士でらっしゃいますから、深夜に私などの困っている人を家まで送って回っていらったしゃるに違いありません。そして、代金ももらわずに走りさられるのでしょう。ですから、お車もかように骨董品をお使いなのかもしれません。

 私は、はしたなしと罪悪の念にさいなまれました。代金もお支払いしないで、御礼さえも言えず!なんと言うことでしょう。私は心に決めました。お気に入りの御財布を温々としてくださったお母様のお心遣いの全てをあの運転手さんに差し上げようと。

 

      ◇


 何が悲しくてむさ苦しい古平などと、昼日中から大學の用具倉庫などに身を潜めていなければならんのか。


「僕も昨日は散々な目にあったんだ。手元に一銭も残っちゃいない」


 朝と言うには遅い時分に私の部屋へ押しかけて来た古平の第一声である。どうやら、古平も狐どもにズボンごと有り金を持って行かれたらしい。


「あんな臭い物を投げるなんて!」と顔を顰めた古平は、まさに妖怪であった。


「帰れ」


 万年床にて上体を起こしているに止まっていた私は、押しかけて来て勝手に憤慨している古平に言った。


「そりゃないですよ、あんた」


「眠いんだ、そして心底疲れてるんだ」 


 昨日でここ二年分の運動した私の身体は四肢はもとより至る所が軋むように痛みを訴えていたのである。 


「手堅い儲け話があるんですがね。どうですか?」


 積もるところ古平はこれが言いたかったのであろう。古平と知り合ってからと言うもの、こいつは、儲け話があると私の元へ押しかけて来た。私とて儲け話に乗せられたくはないが、夜なべして内職をしても小遣い銭程度にしかならいのだ。金は幾らあっても困るものではあるまい、そして腐るものでもない。

 せめて、毎食米が食いたいと願った私を誰が足蹴にできようか。

 古平の持ってくる儲け話は奇想天外なものが多かった。竜田川に生える葦を全て刈り取るだの、蝉の抜け殻を一斗缶いっぱいに集めるだの、土砂に埋もれた鉄くずを掘り出すなど。考えて見れば大凡肉体労働なのである。

 訝しげながらも、私が古平について行ったのは他でもない。端的に内職よりも稼ぎになったからである。


 昨夜を除いては……


「今度は猫とでも対峙するのか」


「もうあのジジイに関わるのはやめましょう。命が幾つあっても足りやしない。で

すから、今回は安全ですよ」


「私はお前を信用してないぞ」 


「百も承知ですよ、親友」


 益者三友に恵まれず。古平と言う損者三友を一人で代わる代わる演じ分ける器用さを兼ね備えた古平のみを友人をした私は正真正銘の不幸者であろう。なぜ私には悪徳者か狡兎しか寄りつかないのだ。黒髪の乙女とて同様である。類は友を呼ぶ、と言うならば私は阿呆であるが決して誠を曲げる不埒者ではない。

 だが、生きるために金がいるのである。そして、私は古平と共に大學の用具倉庫に潜み、日が暮れるまで潜伏することとなったのである。

 

      ◇     


 私はここ2年間の人生を全くもって無意味にただはんでいた。憧れた大學へ入学を果たし、そして、末は博士か大臣かと郷里の麒麟児として、汽車に乗ったのはすでに懐かしい幻想となりつつある。袴に黒いマントを羽織って闊歩したあの日々は誠に輝いていた。大學生である、それだけで一目おかれたからである。そもそも、薔薇色の大學生活を根底から逸脱させたのは、悪しき放蕩【ほうとう】者である松永氏に心を許したことであった。それ以来、私は知らぬうちに永遠無限と底辺に向かって転がり落ちることとなってしまったのだ。

 思い描いていた大學での華々しい黒髪の乙女との出会い。しかし、微塵も香らない切なさと人恋しさから、荷物に紛れ込んでいた住所録をひっぱり出し、郷里の同窓生に手紙を出してみたりした。むろん相手は乙女である、さぞかし美しい乙女になっているだろう。

 私は郵便屋が自転車に乗ってやってくる時間を嬉し恥ずかしと待ち望んでいた。この手紙を皮切りに文通などをし、しかるのちに恋文でもと下心がなかったと言えば下心だけしかなかった。しかし返事は待てど暮らせども返って来る気配はなく、よもや、ポストの中に回収されず残されたままなのではとか、家族によって阻止されたのでは。などと、現実を逃避すべくご託を並べてみたものの、やはり、私の手紙はすでに捨てられたか燃やされたかしているのだろう。

 私は憤慨した。恋文なれば梨の礫とて明瞭かつ崇高な意思表示であろう。しかし季節の御手紙に対して返事を返さぬとはなんと礼儀知らずであろうか。私は幼少の思い出に生きる少女を思い浮かべ、そのような無礼な唾棄すべき乙女に育ってしまったのか!もとよりそのような無礼な乙女の手紙などいらぬ!と万年床へ潜りこんだ。

 そして、翌日から郵便屋が来る時刻となると動悸、息切れ腹痛、四百四病以外の病に精神を蝕まれるようになったのである。

 墓穴を掘ってまんまと自分が生き埋めになってしまったのだ。

 そんな切なる思いとて青春の一ページである。と、いつか笑いたいものであるが、その内情たるや、四畳半の九龍城を思わせる下宿先『流々荘』において、勉学をすえ置いて内職の日々。それは惨憺たる有様であった。時には金に余裕のある隣人が好意で置いていた便所紙を根刮ぎ懐に隠し、それを売る傍ら帳面かわりとし、毎晩は共同炊事場へ張り込み、隣人の食材を強奪するか料理の最中、隙をみてはこれをつまみ食った。

 これだけの醜態を曝しながらも、大學生である私はたまに一張羅の袴とマントを羽織り、下駄をならして本分を再確認するために街中を闊歩するのである。そしてすっかり荒んでしまった胸の内で誓うのである、通りに蜜柑箱を並べカネモチの靴磨きなどには決して堕落すまいと、それに興じる同僚に侮蔑の念を沸々と煮やすのだった。

 私はとかくカネモチが大嫌いなのである。

 かと言えば、その夕暮れには野良猫がせしめた鰺の開きを巡り宵の口まで激戦を繰り広げ、最後は半身ずつを分け合って互いの奮闘ぶりを賞賛しあった。

 裕福な我が隣人は決まって、白米を炊く。鰺の半身をひらひらとさせながら炊事場へ赴くと、炊きたての白飯が無防備にも釜の中にあるではないか、立った銀しゃりは、はじめちょろちょろ中ぱっぱ、赤子が泣いても蓋を取らなかった結果である。

 新婚ふぜいが白米などと、麦飯で顎を鍛えることを知れ!

 私は風紀を正す為に、せっせと握り飯を作ると、部屋へ脱兎した。今晩は鰺の開きを肴に握り飯で乾杯である。

 いかに食に困ろうとも、学食の食べ残しにだけは決して手を出さなかった。誇りうんぬんと言うよりは、むさ苦しい男の食べ差しに口をつけようものなら、我が高尚なる口腔がカネモチ歯周雑菌に汚染され、毎日歯科へ通わねばならなくなる。それでは余計に金がかかるではないか。これが妙齢たる黒髪の乙女であるならば、苦心の末、黙って飲み込まない自身はない。勉学に励むどころか最低限の生存活動に邁進せざる得なかったこの2年間。これでどうして、郷里に錦を飾れようか。

 大學とはとかく金がかかるのである。

 小生みたく、極貧学生がいるかと思えば、車や馬車で送り迎えの日々を送る紳士淑女の姿が大層多く見られる。そして、勉学もそこそこにテニスや乗馬などを気持ちの悪い微笑を浮かべながら嗜むのである。

 淑女たるは眼福と日がな一日テニス場の脇にてその純白のスカートに視線をくべるは良し。紳士に至っては格差に格好つけて何を令嬢とお近づきになっているのだと、思わず石ころを握り締めた。

 大學への思いは人それぞれ、異性との健全な交際、学問への精進、精神と肉体の研磨。

 それらを嗜みつつ、都会の垢抜けた令嬢などと懇ろとなり、珈琲などを楽しみながら甘美たる時間を過ごしてみせようと、薔薇色の学生生活を夢見ていたわけだが、現実とはかくありき。

 淑女と言えばもっぱら、紳士とのみ言葉を交わし、アンブレラなどを頭上に翳しながら芝の上にて、読書を嗜むのである。どうして田舎者の私が近づけようか。淑女は身なりからして高嶺の華であり、カネモチの男子のみが声をかけることの許された存在だったのである。

 夜通し万年床にて内職に勤しむ私には声を掛ける権利さえも与えられていない。羨望や妬みと言うものはかくも人を堕落させ、人としての道をも一脱させる。聖人たることに正義漢たることに魔が差した私は人であることを放棄し、夜闇に紛れ今まさに古平とこそ泥へと変貌をとげたのだった。

 

      ◇ 


 明るいうちに用具倉庫に忍び込み、品定めを先に済ませ夜を待って盗み出す手筈であった。その通りことを運んでいれば、私の恥ずかしき醜態を回想する必要ななかったのである。用具倉庫は講堂を二回りほど狭めた広さを誇っていた。私はさぞかし至宝の限りが眠っていることだろうと、博物館などを連想していたわけだが、ところがどっこい蓋を開けてみれば、ガラクタの山であった。使えないがいつか、もしかしたら使うかもしれない、ゆえにとりあえず倉庫に放り込んでおこう。そんな物品がごっちゃごっちゃと詰め込まれてあった。

 どれもこれも壊れているか、今にも壊れてしまいそうな品ばかりであり、中にはこれはなんぞやと埃を分厚い毛皮のように着込んだ、見当すら不明な物まである始末である。

 されど、これだけ物あるのだから、幾つかは金になる物があるだろうと、古平と手分けして探してみたものの、結局二人して白髪頭となっただけでだった。

 そして、幾ばくか広くなっている場所に置かれた卓球台を見つけ、二人で卓球に興じ、そして腹を減らせ疲れはてて、その場に座り込んでしまった。一体何をしに来たのだろうか。 


「あなたは一体何をしにきたんですか」


「お前が言うな」 


 立案者が今更何を吐き捨てるか。落日が差し込むかぎりは、そうそうに流々荘へ帰り、隣人の料理を見守ると言う崇高にして絶対の使命を全うせねばなるまい。しかし、夜にならねば大學から出ることができないのである。休日である本日は大學の門は閉まっており、こそ泥のような不届き物が侵入せぬように、夕方から警備が寝ずの番をするのだ。

 すでに警備の人間が巡回をしているだろうから、夜闇に紛れて逃げるしか手はない。隣人の夕食を盗み食えないのはまことに残念であるが、こそ泥として私の人生に最大の汚点をつけることからすれば、空腹すら我慢せねばなるまい。

 だが私は思わぬ物を発見したのである。腰を降ろしていた教卓の引き出しのを開けて見ると、そこには、革のベルトが入っていた。漆のように深みのある黒はまさに漆黒。しかし、つやはエナメルのように安っぽかったが、碇を思わせる留め金具は一風変わっており見栄えもよかった。

 随分とベルトなどとご無沙汰の私のズボンからすれば両手放しで喜べるだろう。私は、ベルトの代わりにズボンに通していた鉛筆ほどの太さの紐を解き捨てると、代わりにベルトを通した。うむ、さすがあるべき場所にあるべき物はやはり違う。私も両手放しで喜んだ。姿見があれば、是非とも自分の姿を見てみたいものである。印象とは往々にして小物一つで飛躍するのである。 


「孫にも衣装にもなりゃしないですよ」


「うるさい」


 人の気分を害することにかけては、特に私の機嫌を損ねることに関しては古平の右に出る者はいない。


「知ってるんですよ。テニス部の乙女を好いてることを」


「何を突然言い出す。いつ私がそのようなことを言ったのか」


「見てればわかりますよ。彼女がいる時だけ、テニス場を外からずっと眺めてるじゃないですか」


「むう」古平恐るべし、まさかそこまで観察されていようとは。


「彼女のスカートが捲れるの見てるんでしょう?なんて助平なんだあんたって男は」


「それ以上口走ってみろ、この場でぶち殺す」 


 いちいち忌諱【きき】に触れる奴である。


「ぶって殺すなんてあんた、そりゃ酷すぎる」古平は両手はを頬にあてて戯けて見せた。

 古平の言うように私には気になる乙女がいた。その人はテニス部に所属しており、大体は桜並木から道を挟んだ先にある芝生の上で読書をしている。たまにテニス場で華麗なボール裁きを披露する時、私は決まってテニス場の外、それも桜の巨木の幹に隠れてその姿を拝見していた。

 純情な男心に誓ってもの申す、ただ美しいそのお姿を拝見していただけである。たまにスカートが捲れブルマーが露わとなろうとも、決してそれを目的とするような不埒な輩に成り下がるわけがあるまい。そのような輩と勘違いされるだけでも業腹である。


「あなたのような極貧ウジ虫學生とじゃ血統が見合うはずがない。言葉を交わすだけでもピストルの弾同士をぶつけ合うより確率は低い」


 にたにたと妖怪笑顔を浮かべながら、古平はつれつれと嫌みを吐き散らかしたてなお、私を見てせせら笑った。


「随分な言いぐさだな」


 私は大人である。身分は學生なれど、精神は成人のつもりだ。それに一時の感情に流され、我を忘れるほどの激情家でもない。


「どうしてもって言うのなら媚薬でも作ってみてはどうです?」


「媚薬とな」


 まさか、井守の丸焼きや、チヨコレート、果てはいかがわしい漢方薬など、売りつける気ではあるまいな。


「いえいえ、もっと身近にありますよ」


 古平の言う媚薬の材料は大學施設内にある全ての桜の蕾なのだという。それも一番高い所にある蕾でなければならないらしい。


 そして、採取した蕾を煮て精髄を煮出し、それを全身に塗り込むと言うのである。


「嘘つけ」


「嘘なんかじゃありませんよ。去年、その媚薬でもって駆け落ちを成功させた先輩を僕は知ってるんですから」


相変わらずへらへらしながら、そう言った古平は「早くしないと、蕾は一個しかありませんよ」と楽しそうに付け加えた。


「もし嘘なら朝顔の種を湯飲み一杯食わせてやる」


「うひぉ、くわばらくわばら」


 随意、古平の言葉遊びに付き合ってやった私はベルトに味をしめその後、宵の口まで鵜の目鷹の目で他に掘り出し物がないかと引き出しやらを必至にまさぐった。

 しかし、至宝とは偶発的発見にのみその姿を現すのである。悲しいかなベルト以外に戦利品はなかった。

 倉庫から抜け出した私たちは、學舎内を移動する明かりを横目にのんびりと、校内を歩いていた。夜の桜並木はいまだ寂しい。満開であれば夜桜と風情があろうものだが、蕾とてかたそうな昨今では枯れ木に相違ない。

 古平は悪あがきにも路傍に宝が落ちていないかと、挙動不審にて草むらにまで顔を突っ込んでいた。あるべく場所に無かったと言うのに、あるはずのない場所に金目の物が転がっていてたまるか。

 そんなわけで私が終始先行して歩いていたわけだったが、こんな時にかぎってよろしくない方向へ物事は盲進するものである。今し方学舎に見えた明かりが、テニス場ごしにこちらへ向かっているのが見えたのだ。懐中電灯の心細い明かりでは私たちの姿は確認できなかっただろう、しかし、このままでは鉢合わせた上に現行確認の後、詰め所へ連行され、至極ややこしいことになるのは目に見えている。


「骨折り損のくたびれ儲けかよ」古平が大きな声を出した。


「逃げるぞ」


 こんな時にかぎって間抜けた奴である。いわんこっちゃない。とぼとぼと面倒くさそうに前進していた懐中電灯が今や激しく揺れ桜並木と重なって見えなくなった。このままでは鉢合わせ、万事休すである。

 私は咄嗟に倉庫へ蜻蛉【とんぼ】返りしようと、踵を返したが、何せ倉庫までの道程は直線なのだ、倉庫へ逃げ込んだところでその背中を捉えられてしまえば逃げ込む意味はあるまい。ゆえに、私は近くにあったテニス部室へ逃げることにした。古平はと言うと、警備の懐中電灯が見えるや慌てて倉庫へとって返したのだった。

 当初、私は部室の物陰に隠れるつもりでいた。古平が格好の餌食と囮役を買って出たのだ、わざわざ私に気を回すこともないだろう。だが、運の良いことに部室のドアが開いたのである。てっきり鍵がかかっており、侵入は容易であるまいと諦めていたのだが……

 部室の中はさすが花が香る倶楽部だけあって、小綺麗であり、微かに甘い匂いが鼻腔をくすぐった。並んだ収納棚には不用心にも帽子などの小物がいくつか置かれており、その全てに氏名が刺繍してあった。特注品なのだろうか。

 洗面台の横に並べられた長椅子に腰掛けた私は、この場所に座っているだけでも幸せを感じられると確信した。きっとこの部室の中で黒髪の乙女は練習の後、汗などを拭って休んでいることだろう。もしかしたら、私が腰掛けているこの場所に腰を休めて居たかもしれない。私はそんな想像と妄想を巡らしながら薄暗い部室の中を隅々まで見回していた。

 長椅子の並び、テニス場への出入り口付近にラケットが立てて置かれてある。このラケットのどれか一本を手に入れさえすれば、私も堂々と入部できるものをと、私はふて腐れて、乱暴に四肢を投げ出した。居るべき人間は許され、相容れぬ人間は杳として許されず。

 諸行無常とはまさに私の境遇を指さすのであろう。


      ◇


「酷いじゃないですか、僕を囮にするなんて」


 靴を泥まみれにして古平が息急き切って部室の中へ入って転がり込んで来た。


「まいたのか」


「観察用池にはまりましたけどね」


 いい気味である。


 ふぅ。と安堵の息を漏らし私の隣に腰掛けた古平は、犬のように舌を出して体温調節に勤しみながらも、ちゃっかり部室内を物色していたようであった。


「今日の釣果はあのラケットだけですね」


「あれをどうするんだ」


 大凡、テニスか布団叩きにしか用いれないだろうラケットをどうするつもりだと言うのだ。


「もちろん売るんですよ。庭球部はカネモチ揃いですから、きっと良い物でしょう」


「異論はない、善は急げ」私は古平に先んじて立ち上がった。


 私はラケットを一本手に取ると、早速、部室から逃亡する為に外の様子を窺った。すると「何やってるんです?」と古平に軽蔑の眼差しでもってそう言われてしまった。同じ穴の狢にそんな目でを向けられる筋合いはない。そもそも、お前が言い出したのだろう。


「違いますよ、これ全部いただくんですよ」


 と言うと古平は私に「ベルトを貸して下さい」と続けた。


「愛着もないでしょ、早く」 


 せっかく、私の腰に落ち着いたベルトを手放し難しと思うのは私とズボンの共通の呻吟である。だが、捨てるわけではない。いずれ紙幣と共に手元に戻って来るのであれば、ここは貸し出さねばなるまい。

 私は涙をのんでベルトを古平の手に渡した。

 狡兎は常に三つ巣穴を掘っておくと言うが、その狡兎たる古平もまた悪知恵だけは怜悧として働くのである。古平はラケットを重ねるとそれをベルトで固定し、私が手に携えるている一本を除いて、部室にあったラケットは全て古平の悪知恵に縛り上げられてしまった。


      ◇

 

 私は大學生なのです。ですから、商店のご主人が商いをされるように私は勉学に励まなければなりません。ですが、昨日は我ながら、だらだらと自堕落に一日を過ごしてしまいました。お散歩に行こうと思っていましたのに、結局、お母様とお茶をしたり、描きかけの林檎のデッサンなどをして過ごしてしまったのでした。

 そんな私をお母様は咎めたりいたしません。お母様は海容と心の広い婦女ですから、零細なことにこだわったり言葉尻を捉えて、揚げ足を取ったりはいたしません。ですが、これにかぎってははっきりとした理由があるのです。

 私には三人のお姉様がいますが、いずれも、大學在学中に婚約をされていました。ですから、きっと勉学に励まなくともお父様の持ち帰る縁談のお相手と『婚約』さえすれば、万事良しとお考えなのです。

お姉様方は、お相手の殿方と三度もお会いしない間に婚約をされました。ご結婚されているお姉様方は一様に「住めば都よ」と笑っておられましたが、私はその瞳の奥に笑顔を見ることができなかったのです。哀愁の念すら感じ取れたのはお姉様方が大學生の折り、心を寄せていた殿方がおられ、それを密かに私に教えて下さっていたからでしょう。

 私もきっとお姉様たち同様に、お会いしたこともない殿方と三度も会わぬうちに婚約をし、大學を卒業した暁には結婚しなければならない定めなのかもしれません。けれど、私は心づからの縁を信じております。この大學生の間、良縁に巡り逢えさえすれば、私はそのお方の手を取って、どこまでも逃げるつもりなのです。お姉様やお母様と会えなくなるのは寂しいことですが、それは仕方のないこと。心が安まらない平穏で安定した生活ならば、お慕いする殿方と飢え苦しんだ方が本望。と、私は若輩ながら、そう心に決めておりました。

 大學と言うところはとても楽しい所です、ですから私は色々な倶楽部に入りました。乗馬部に文芸部、そしてテニス部。中でもテニスはとてもオモチロイもので、入部した当時は足繁くをテニス場に通っておりました。殿方の先輩も女子の先輩も、とてもお優しく、新参者の私を指導してくれますものですから、私の腕前もめきめき上達していきました。幼少の頃より走っても飛んでもビリばかりでしたので、私の中にまだこんなにも運動神経が眠っていたのだと大変驚きました。

 ですが、残念なことに、テニス部の皆様はみな一様に私と同じ匂いがいたします。聞けば、どなたも紳士淑女。大學を学舎と思わず社交の場とお考えのようでありました。

 難しい哲学書などを明日こそは紐解こうと、目論む私にとっては相容れぬご友人なのです。殿方の先輩からは幾度もお茶などにお誘いを受けましたが、その素敵な笑顔の奥に潜む下心はなんとも気持ちが悪いのです。

 男子であるならば、正直に鼻の下をのばしていただいた方が、婦女冥利に尽きると言うもの。そもそも、私は自分と同じ匂いのする殿方と交流を深める気はございません。私とは違った世界に生きる方々と交流を求めていたのです。

 ですから、そのように意識するようになった最近は、時折、テニス場に立つ程度で、後は學生の本分と桜並木を見下ろす芝生の上で読書をしておりました。

 本日も、芝生の上に腰を降ろし、マルクスさんと言う方が執筆なされた哲学書に眉に皺を寄せて読んでおりました。内容は今ひとつ理解できませんでしたけれど、少しは賢くなったような面持ちとなります。

 私は、本を膝の上に置くと座ったまま背伸びをしました。お昼の天気は麗らかとしており、お昼寝にはもってこいです。私は本を脇に抱えると、校舎へ向けて桜並木を歩きました。本日は午後の授業がお休みですので、早い目に帰宅して、絵の具を買いに行こうと決めていました。


「どうかされたのですか」 


 私がテニス倶楽部の部室の前を通りかかりますと、部員の皆様が集まって何やらお話をしてらっしゃるのです。もしや、何かオモチロイことでも始められるのでは、と私も部員の端くれですから、仲間に入れてもらおうと思ったのですが、


「ラケットが盗まれた」


 と先輩が言われたので、私は思わず本を落としてしまいそうになりました。肩を落とす皆様を掻き分けて、部室の中へ入り、ラケットを置いていた場所に目をやりますと、あるはずのラケットが全て消えてしまっていたのです。もちろん私のラケットも……あのラケットは、興奮気味にテニス部入部の旨をテニスの楽しさの妙味を、お姉様に話して聞かせる私を見たお母様が「これをお使いなさい」と自身が昔使っていたラケットを私に下さった物なのです。ですから、私は居た堪れない面持ちなりました。お母様の大切な想い出の品を頂いておきながら、他力ながらも失ってしまうなんて………

 そうなのです。お母様とお父様の出会いは、あのラケットをお父様がお母様に貸したことだそうなのです。ですから、余計に私はどうしたら私の手元に戻ってくるだろうと考えました。

 お母様は心の広いお方ですから「気にしなくていいわ」とおっしゃられるでしょう。ですが、私はお母様に顔向けすることなどできません。どうしてできましょうか……


「ごめんなさい。私が鍵をかけ忘れてしまったせいなのです」


 私が今にも泣き出しそうになっていますと、小春日さんが私にそうおっしゃいました。


「本当にごめんなさい。必ず弁償いたしますから。どうかお許し下さい」  


 小春日さんは頭を深々と何度も下げられます。


「いえいえ、小春日さんの責任ではありません」私は小春日さんの肩に手をやって彼女の顔を窺いながらそう言いました。

 小春日さんは器量もよろしく素直で優しい乙女です。きっと、責任感から胸をこれ以上ないほど締め付けていらっしゃることでしょう。その証に彼女は涙を流して私の謝罪をなさるのです。

 そんな小春日さんを見て、私は泣きたい気持ちを、今にも溢れ出ん涙をぐっと堪えました。もし、私がここで涙を見せてしまえば、悄垂れる小春日さんをさらに責め立て追い込んでしまうことになります。ラケットを盗んだのは小春日さんではありません。ですから、小春日さんに責任を押しつけるのは八つ当たりに他ならないのです。

 残念なことに、部員の皆様の中には小春日さんを責め立てる方もおりました。私は「小春日さんが盗んだわけではありません」と凛として言いました。背負い込まなくてもよい罪悪を背負い、素直な彼女ですから、誰に言われたでもなく素直に自分から頭を下げて回っているのです。そのように実直な小春日さんを責めるなど何ごとですか!私は悲憤しました。今までご一緒に倶楽部活動を楽しんでいたと言うのに!御門違いにも倶楽部仲間に鬱憤を当たり散らすなど最低な所行です。このような時にこそ、助け合いこの先、いかようにしてラケット探すのかとお話を進めるのが本来。三人寄れば文殊の知恵と言うようにこれだけ大學生が居るのですから妙案が浮かばないはずがありません。


 惨事にこそ人の真価が問われるのです!


「失礼します」 


 私は思いの丈をきょとんとしてらっしゃる皆さんに打ち明けると、膨れっ面のまま部室を後にしてしまいました。


      ◇


 私はその日一日を後悔に明け暮れました。恣意的に一時の感情に我を見失ってしまうなんて、淑女として人としてまだまだ修行がたりません。もちろん私は私の誠を語ったわけですから、胸を張ってしかるべきなのですが、やはり、誠を通すにも違ったやりようが必ずしもあったと思うのです。

 ですから、帰宅の途中もそれを悔やみ、伸びた自分の影を抓ったり踏みつけたりしようとしたのです。自分の影を踏みつけることは、なかなか容易なことではありませんで、恥の上塗りと竜田川に掛かる橋の上で一人地団駄を踏んでいたのでした。心身相関と疲れてしまった私は、ついにその日、絵の具を買いに行くことができませんでした。

 翌日、倶楽部の皆様のご気分を害してしまったことを、謝罪しなければと思いながら重い足取りで部室へ行って見ますと。昨日と同様に皆さんが集まっておりました。また何かを盗まれてしまったのでしょうかと思ったのですが、皆さんは一様に笑顔なのです。今度こそ、何かオモチロイことがあったに違いないと私は歩みを早めました。


「昨日はありがとうございました」


「いえいえ」


 小春日さんが向日葵のような笑顔で私を迎えてくれます。周りを見回しますと、皆様、その手にラケットをお持ちなのです。


「これは小春日さんが弁償されたのですか」


「いえ、盗まれたラケットが見つかったのです」小春日さんは喜色満面と言いました。


「それは良いことです。私のラケットはどこでしょう」


 お母様のから頂いた大切なラケットでしたので、私は思わず小春日さんの手を取って喜びました。


「えっ、全てお返ししましたよ」


 私が言うと小春日さんは目を点として、首を傾げます。私は慌てて、ラケット置き場に行きました。ですが、そこに私のラケットは見当たりません。


「どうしましょう」


 俯く私の後ろで、小春日さんがそう呟くのが聞こえました。きっと顔色を青くしてらっしゃることでしょう。


「皆様全員のラケットが見つかったと思っておりましたのに……」


「その手に持ってらっしゃる物はなんですか」私は言います。


「これは、ラケットを縛ってあったベルトです」


 小春日さんは右手に携えた、ベルトを差し出した見せてくれました。そのベルトは一見高価そうな漆黒なのですがどこか見れば見るほど安っぽく見える摩訶不思議なベルトです。碇のような留め金具だけは唯一輝いておりました。


「これを私にくださいませんか」


「ええ、別にかまいませんけれど、ラケットは……」


「皆さんのラケットが戻って来たように、私のラケットも戻ってきますよ」


 私をそう言って微笑みました。


      ◇


 『三条通の怪』を再びと、私は流々荘へ帰ると半分も仕上がっていない内職に粉骨した。

ベルトで捲いたラケットは古平が質屋で売りさばき、儲けは山分け。そんな盟約を交わしてなお、私は古平と言う男が信じなかったのである。手堅きは内職。そして私の命を支えているのも内職なのである!

 意気込んだ私は、一週間を要し、また三日三晩寝ずに時には睡魔との決戦に備えるべく立ったまま、時には万年床にもぐり込んで内職に没頭し、八日目の朝日を拝む頃にはこれを平らげ、一人で咆哮をあげたのであった。

 折しも、その日は納品日であったのだ。

 昼までに持ち込めばよい。私は万年床へ潜り込みそのまま睡眠を貪ろうと思った。しかし、机に立て掛けてあるテニスラケットが目についたのである。ゆいつ私は持ち帰った戦利品にして、黒髪の乙女への橋頭堡【きょうとうほ】だろう。

 はたして、このラケットの持ち主はどのような人物であったのだろうか。カネモチにはろくな者はいない。男であれば眼中になし。しかし、乙女であったならば、その御手の垢がこびり付いたこのラケットを抱いて寝る所存である。罪悪の念に囚われることなく、私はラケットを手にとって眺めた。それこそ穴が開くほど凝視した。なるほど、このラケットの持ち主は几帳面でありながら大雑把のようである。いや不器用と言うべきか。一見して手入れの行き届いているように見えて、所々に傷も見当たれば木枠には埃が付着している。

 何よりも、持ち手の底に墨だろうすでに掠れて何と書いてあるのか解読不明ながら、氏名のような文字の痕跡が見て取れた。このような物に墨で氏名を記入するとは余程の横着者に相違なかろう。ゆえに私はこれは男の所持品であると結論づけた。

 根拠が乏しいと言えば反論はすまい、私とてその昔、靴に墨にて名前を記入していたじきがあった。雨に降られてしまえばたちどころに消えてしまうとわかっていて、なお肩肘を張って頑なに墨を使い続けた経緯があるのだ。ゆえに、このラケットの持ち主は男なのである。

 私は悠然と立ち上がると、見取り稽古にて研いたテニスの腕を確認するため、ラケットを振ってみた。すると、なかなか様になるではないか。睡眠足らず最果ての境地と朧気な脳髄にて、ラケットを振り回し続けた。机の上の鉛筆が飛散しようが卑猥無卑猥図書が散乱しようがお構いなしに、空中テニスを堪能していたのである。

 そして、気が付いた時には私は愛しき万年床に腹上死のごとく横たわっていた。半分も開かない瞼をから目凝らすと、襖にラケットが刺さっているように見えた。

 そんなはずが無い。私は奇声を上げて暫し笑った後、意識を失ってしまった。


      ◇


 私はさっそくそのベルトに墨で名前を書きました。ハンカチや下着などには墨では文字は書けませんから、名前の代わりに林檎の刺繍をするのです。私は、何を隠そう小さくて丸いものが大好きなのでした。食べても美味しく姿見も良い。まるで私のためにある果実ではありませんか!ですから林檎なのです。

 お姉様にもお母様にも、雨が降れば消えてしまうでしょう、と小馬鹿にされるのですが、私は墨で名前を書くのです。消えればまた書けばよいではないですか。消えたと言うことは雨と出会ったという証ですし、書いても書いても消えてしまう、それがまた一期一会の趣であり一興なのです。 


「刺繍がお上手なのですね」

「林檎だけしかできませんけれど、ですから林檎には自身があります」


 本日の昼下がり、私は小春日さんと芝生の上で閑話などをしておりました。小春日さんは淡い黄色のスカートにイヤリング。、さらに唇には紅をのせております。女性の嗜みとお粧しをされているのでしょうか。

 私はと言うと、いつも通りお化粧もせず、傍らには先日頂いたばかりのベルトと図書が置いてあります。ベルトは男性ものでしたから、私が腰に通すわけにもいきません。けれど、留め金が気に入っておりましたので、本を束ねるのに使いましょうと、丁度よい所に穴を開けて、本を束ねられるようにいたしました。ですが、針では歯が立ちませんで、無理矢理裁ち切りばさみをねじ込みましたから、穴が少々粗末に大きく開いてしまったのが残念です。私は根は不器用なのです。

 ですが、これで私の密かな憧れが叶うのです。柔道着を丸め、それを帯でしばり肩に掛けるようにして持つ様の勇ましくも格好の良いことと言ったら!柔道着は持っておりませんでしたので、私は本で真似をしようと思ったのです。けれど大手を振っては、お行儀が悪いですから、校内に入ってから芝生までの桜並木を私は小粋にベルトで束ねた本を背に、ベルトを肩に端を手に持って、意気揚々と歩いたのでした。とても強くなれた気がいたしました。今なら熊でも猪でもなんでもござれと言った面持ちなのです。嘘です。熊や猪はやはり恐ろしいですから、猫や小犬などでしたらなんとかなるかもしれません。


「これから、お茶でもいかがですか」


 せっかく仲良くなったのですから、珈琲などを飲みながら色々と語らいたいと思いました。同じ女性であってもお姉様やお母様には相談出来ない、乙女同士でなければ不用意にお話できない事もあるのです。


「せっかくですが、またの機会にお願いできませんか」


「ご予定があるのでは仕方ありません、また後日に日を改めましょう」


「すみません。今日はその……お誘いされまして……」小春日さんはは目線を逸らして、口許をきゅっと引き締めました。そして、


「これから、男の方とお茶を頂くお約束がありまして」と話されたのです。


「まあ」 


 驚いて見せる私の隣で、小春日さんは口を小さくして頬を鮮やかな桃色に染めています。


「倶楽部のご學友ですか」


「いいえ」洗い立ての犬のように首を振った小春日さんは恥ずかしさあまって顔を両手で覆ってしまいました。

「まあ」私はそう言うと、頬を桃色にそめます。倶楽部以外の殿方とお茶だなんて、殿方とお茶だなんて! 私は羨ましくも嫉妬してしまったのでしょうか。傍らにあったベルトを小春日さんの足下へ投げ出すと、


「大変です。足元に蛇がいます」と言ってしまったのです。


「ええっ」


 小春日さんは紅潮した顔のまま立ち上がると、足下のベルトを見て「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたかと思うと図書館の方へ逃げて行ってしまいました。

 私は性根がひん曲がった酷い人間です。ご學友にこのような悪戯をするのですから。

 私はなんと大人げないのでしょうと顔を紅潮させ、それを隠すために本を開くと急いで顔をおしつけました。


 小春日さんごめんなさい。


      ◇


 次ぎに意識が戻ったのは、窓から伸びた陽の光が私の身体を程よく温めてくれていたころであった。気持ちの良い目覚めのわけがない。三日ぶりに脳髄を休めていると言うのに、突発的な偏頭痛が私頭の中で和太鼓叩いているのである。どうして寝ていられようか。私は万年床の上に胡座をかいて頭を掻いた。眼球の奥がずしりと重いような奇妙な感覚である。よもや顔が崩れているのではと、あらぬ想像を巡らせ首をぐるりと回してから、私は立ち上がった。なぜか、ラケットが襖に刺さっていた。

 頃合いとしては、納入期限に確実に遅刻しているだろう。本当は今一度、愛してやまぬ万年床の上にて意識を桃源郷の彼方へ飛ばしたかったのだが、遅刻を理由に賃金を減らされてはかなわん。

 内職の入った麻袋を担いで竜田川に掛かる竜田橋を渡り、地道を少し進んで長屋を通り抜け、右を見て左を見てさらに右を見て線路を横断し、畦道を歩いて肥溜めの脇を更に進めば、そこは急に開けた商店街となっている。私は『本屋街』と呼んでいた。商店街の片側の全てが古本屋が軒を連ねているからである。 

 私はさっさと、納入を済ませ、あの手この手で技巧を凝らした嘘を並べて遅刻を取り繕った。我が舌先三寸も大したものである。おかげで賃金を減らされずにすんだ。

 懐が少しでも暖かくなれば気持ちも大きくなるというもの、近道をせずに道路沿いにのんびりと帰っていると、珈琲の芳しい香りが漂って来るのである。最近新しくできた伊太利【イタリア】風喫茶店、その名を『フロリアン』と言った。いつでも珈琲の良い香りを漂わせているこの喫茶店には仲の良い善男善女がカップを片手に、楽しげに語らいの一時を過ごしているのである。羨ましいことこの上ない。

 かようなお洒落な店に男一人で入ってたまるか、乙女とご一緒してこそ真価があるというものであろう。糧を得てなお薄っぺらい財布に勇気づけられ私は胸を張った。とかく頭は痛かったが、三日も寝なければ頭とて抗議の一つもしたかろう。

 本日は隣人の夕餉の献立なんだろうと思いながらフロリアンを通り過ぎた所で、意外な物を見た、珍しい生物である。

 それは古平であった。古平ごときどうでも良い、奴はいつも悪巧みをほざいてはあっちこっちに火種を蒔いて歩いている男なのだ。しかし、古平は乙女を隣に連れていたのである。よもや……と思ったが私は冷静になった。これ以上にないほど冷静になり、そして願った。歩幅の大小で偶然並んだだけであると…………


「ふひゃ」


 驚愕のあまり舌を噛んでしまった。なんと、偶然並んだはずの二人がフロリアンへ入って行ったのである。私は頭を抱えてその場に座り込んだ。そして念仏を唱えるようにして、コレは悪夢であるコレは終末であると繰り返した。

 そして、私は天に向かって懇願したのである。神と仏よ私とお面の乙女を残して世界を滅ぼしたまえ!と。

 流々荘に戻った私は藁人形を作るか不幸の手紙をしたためるかと悩んだあげく、藁もなければ便箋を使うのは勿体ないと万年床へ潜り込んで三日分の睡眠をしゃぶりつくすことにした。  


      ◇


 私の本分は学生です。ですから、講義の合間などには図書を小脇に抱え、桜並木を臨望む芝の上で読書に耽るのです。どなたかが演奏なさるのかは知りませんが、カノンの旋律は耳に心地よく読書に勤しむにはこれ以上ない環境なのです。最近読み始めたフロイトさんの著書は一風変わっていて、ページを捲るたびに眉を顰めます。

 ほとんどが難解で理解にいたりません。何かの暗号なのではと目を凝らして何度も読み返しますが、エニグマでも持っていない限り私には解読することができそうにありません。 私は、はしたなくも両足を怠惰に投げ出し、大きく背伸びをしました。このまま寝転びでもしたら気持ちが良いかもしれません。

 ですが、私はそれができませんでした。目前に面白い方を見つけてしまったからです。

その方は桜の樹に登っては天辺の蕾を摘んでいるのです。ベルトをなさっておられないのでしょう。ずり落ちそうなズボンを片手で押さえながら器用にも桜の樹を登って行くのです。これには私もどきどきとしました。見えそうで見えないと言うのは大ぴらげるよりも欲情を掻き立てるものなのですね。

 私は首を傾げました。けれど、すぐに浪漫をお持ちの方なのだと口もとを緩めます。

 きっと、太陽の光を一番高いところで独り占めした蕾を、煮立ててお茶などにするのでしょう。そして、それを意中の女性と談笑をしながらテラスで飲み交わすのです。なんて素敵なことでしょう!桜の天辺の蕾などお金では決して買えませんから、世界で唯一の味を賞味できるのです。お相手の女性は世界一の味に舌鼓を打てるのですから、文字通り世界一の幸せものです。

 フロイトさんの著書を忘れて、私は蜜蜂のように蕾に最終に勤しむその方をずっと眺めておりました。その必死な様は愛情の表れでしょう。私は膝に肘を立て、顎を手にのせて恍惚となりました。

 そして、ふっと思ったのです。あの方はどのような方なのでしょうと。


      ◇


 久しく大學へ赴いた私は、校内を走り回り、古平を捕まえた。もちろん、昨日の仔細は喉から手が出るほど……聞いてやってもよい。だが、その前に私の取り分をもらわねばなるまいと思い出したからである。


「ああ、あれなら川に捨てました」


 食堂で捕まえた古平は天麩羅うどんをすすりながら、あっさりとそう答えた。


「なんでだ」


 なんでお前は昼飯に天麩羅うどんなどと贅沢品を喰らっているのだ。嘘つけ、どうしてラケットを川に捨てる必要がある。前後が逆になってしまったが、それは気にしないでほしい。


「よく見ると、あのラケットの一本一本に名前が彫り込んであったんですよ。書いてあるだけでも値が下がるってのに、彫り込んであるんじゃ質屋は買ってくれませんからね」


 盗品と勘違いされますから。と蓮根を私に見せつけて古平は続けた。


「昨日の乙女は一体なんだ」


 本末転倒であるが、古平を捕まえた本当の目的であるがゆえにいたしかたない。この際ラケットの詳細は捨て置いてやる。


「うじ虫から出歯亀に転落ですか。人畜有害で性根まで腐ったとあっちゃ、もうどうしようもないですね」


 取り繕うように毒舌してみせた古平であったが、箸に掴んでかき揚げの残骸を落としたかぎりは微かにでも動揺したらしい。


「死にそうな顔して困ってたんで、助けてあげたんですよ。そしたら、彼女の方から御礼がしたいからって」


 彼女は小春日さんと言うらしい。

 どうしてか理由までは話さなかったが、小春日さんの窮地を古平が救って差し上げたと言うのだ。見え透いた嘘をと罵ってやりたかったが、二人して喫茶店に入ったことは悲しいかな、誰であろう私が生き証人なのである。


「それで喫茶店か」


「貧乏人には縁のない話しですけど、あの喫茶店の珈琲一杯の値段であなたなら三日

は生きられますよ」古平はそう言うと刻み葱をつけた前歯を覗かせて私を笑った。


「僕にはあなたと違って高貴な雰囲気が漂ってるんでしょうね」どこまで調子に乗り続ける古平、さすがに私の堪忍袋も腹八分目である。


「好奇の間違いだ」


 私は古平が汁を飲み始め頃を見計らって頭をひっぱたいてやった。

 無様に古平は、咳き込み襟元を汁でひたひたとさせる姿を見ることなく、私は咽せ込む声のみに優越を感じて食堂を後にした。

 さて、私が四畳半に引き籠もっている間に、桜の蕾はぷっくりと美味しそう飴玉の趣である。私は腕まくりをすると、桜の樹に登り始め、一番高い場所にある蕾をむしり取った。

 同様の行為を何度も繰り返しながら、桜並木を猛進していると、遠目に我が意中の黒髪の乙女が芝生の上で読書に勤しんでいるのが目に入った。

 清涼感のある黒髪と真善美うち揃ったその姿、読書に興じる乙女の横顔はどうしてこうも美しいのだろうか。だから私は余計に桜の蕾を必死になって収拾した。よもや古平に先を越されることはあるまいと高を括っていた私はあっさりと先を越され、さらに私にはその気配すらないのである。こうなれば一切の手段を選んでいる場合ではない。媚薬だろうが漢方薬だろうが、たとえ呪いであっても、全てにすがってやるまでだ。

 好奇の目が私の尻に注がれたが私はお構いなしと作業を続けた。郷里を離れやせ細った私の身体には大きくなってしまったズボンが頼んでいないというのに勝手気ままにずれ落ちてくれるのである。私はついに羞恥心をも捨て去ろうとした、だが、黒髪の乙女の前でだけは、ずれ落ちるズボンを片手で押さえて、恥じらいを捨てきれず、好奇の視線たろうともせめて格好の悪いとこだけは見せまいと慎重にかつ命懸けで桜に登った。


      ◇

 

 さすがに恥ずかしいと気が付いた私は、昼間の作業を控え、夕暮れから桜に登ることにした。無論、昼間に私以外の物が桜の樹に登ろうものなら、それを阻止しなければならないので、私は白昼、桜の巨木に身を隠し顔だけを覗かせてテニス場を眺めていた。最近、我が意中の乙女の姿が見当たらないのが残念でならなかったが、それでなくとも乙女たちが飛んだり跳ねたりと躍動する様を眺めるのは眼の保養になると言える。

 私はのんきに構えていたわけである。

 そんなこんなで数日間をかけて、大体の蕾を収拾した。しかし、雨が降るたびに季節が移り変わって行く、私がのんびりとしている間に蕾がどんどんと大きく膨らみ、中には開花しているものまで出てくる始末。焦った私は、白昼だろうと気にする余裕するらなくして桜の樹に登るはめになってしまったのである。

 白昼はいつ何時、黒髪の乙女が私のはしたない姿を眼にするかもしれぬ、と思うとズボンを気にせざる得ない。樹上を寝床とする猿ではない私が片腕を戦力外にして木登りがうまく出来るわけもなく、蕾集めは困難を極め。詰まるところ早朝から作業を開始せざる事態へと発展を遂げた。

 何度としてその意味と問うた。媚薬など人類が英知を授かってよりの、不毛な夢であり全男子の悲願なのである。そのような人類の宝とも言える薬がこのような蕾で完成を見るとは腑に落ちないことこの上ない。ただ古平の欺瞞心に惑わされ奴の汚い手の上を転げ回っているだけではなかろうか。

 だがしかし、私には打つべき布石が見当たらないのである。貧乏、顔面微妙、不潔。これでどうして高嶺の花に手が届くだろうか。何度と私は自身を阿呆だと思い桜の樹の上から、學生の本分に勤しむ同胞たちを見て改心しようと思ったことだろう。その中に可憐な乙女を傍らに歩く古平の姿さえ見つけなければ私はすぐに頭の毛を剃り落として、四六時中講堂の椅子を温め続けたことだろう。

全ては明日出会う乙女のため、未来に出逢う黒髪の乙女のため!

 この不毛な日々とて栄光へとのみ続く道なのである。

 挫折と発起を繰り返し、私は最後の一本の前に立った。当初から最後と決めていた桜の大樹である。その紡いで来た年輪と年月に敬意を表して私は昼休み前の時分、幹の手を掛けたのである。

 すでに何百本近く登って来た私である。思い起こせば私の身体を預けるには心許ない枝振りの樹もあれば、乙女の肌のようにつるつるすべすべな皮の樹もあった。それらを片手で、時には下着を露わとしながら登りこなして来た私に、これほどの大樹で、足も掛けやすければ、私の体重ごときで折れてしまう枝とて見当たらない。

 私は栄光の明日を、希望に満ち足りた日々をついに我が手に……

 そして、私は最後の蕾に手を添え、綿毛を掴むように優しく慈しみをもって蕾を手に入れたのである。

 これでようやく私にも夜明けが訪れる。天辺からの景色は見慣れた風景に砂糖と蜂蜜を混ぜたように、新鮮であり、この場所からならグランドを挟んだ校舎二階の窓から部屋の中が窺える。まるで巨人になった気分である。なんと清々しいことだろう。

 だが次の瞬間に私は、地団駄を踏みたくなった。いや樹の上で地団駄を踏んだ。また忌々しい古平と乙女が眼に入ってしまったのである。おのれ、ここまできて私の心をささくれ立たせるとは良い度胸である。私は更に高い所に登り、睥睨【へいげい】のついでに古平に唾でも吐きかけてやろうと一念発起し、力強く枝に足を掛けた。

 とっさの出来事である。ふいに枝に掛けたはずの足が空を掻き、私の身体が綿菓子のように軽くなったかと思うと、顔やら手やらを大いに猫の群集がひっかき回し、空が遠くなって行く。私は落ちていたのである。挙げ句の果てには背中を何かで強打した上にもんどり打って、身体の裏側全てを地面に打ち付けた。その際「きゃっ」と小さな悲鳴と何かが地面に落ちた気がしたが、意識がも朦朧とする私には気にしている余裕などどこにあるといえようか。


「大丈夫ですか?」 


 焦点が定まると、私を覗き込む乙女の姿あった。垂れた黒髪を片手で耳にかき揚げ、芙蓉の眥【なまじり】にて私を見下ろしている。日の光に照らし出された乙女の頬は白くまさに雪のようである。それは最近テニス場に姿を見せず、芝生の上にて読書に耽る文学乙女であり、我が想い人である黒髪の乙女であったのだ。


「大丈夫です。それよりも、あなた様に腕などあたりませんでしたか」


 確か、私が背を打つ間際、小さな悲鳴と共に何かが地面に落ちる音が聞こえたはずである。よもや彼女の所持品に打撃を与えてしまったのであれば、なんと言って謝ればよいのやら。 

 いえいえ。と乙女は言って、


「驚いてしまったものですから、つい本を落としてしまったのです」と本を胸に抱いたのである。


「それはすみませんでした」 


 私は背やら腰やらが相当痛んだが、とりあえず腰を撫でながら立ち上がり、頭を下げた。


「そんな、私ものんびりとしておりましたし、お怪我がなくてなによりです」


「今日も読書ですか」


 私は彼女の抱える本を見てそう聞いた。腕に包まれたその本がどのような本であるかは定かではなかったが、きっと私には理解不可能な専門書なのであろう。

 はい。彼女は小さく頷いた。


「先日も拝見したのですが、桜の蕾を集めてらっしゃるようですけれど……」


 私は彼女の意外な質問と好奇心に輝く瞳に鼓動を早くした。やはりズボンを押さえながら登っていて正解であった。と深く感慨した。


「この桜の蕾を煎じると万病薬になると言うので集めているのです」


嘘である。だが、意中の乙女に口軽々と『あなたを虜にするための媚薬です』などと言えてたまるか。  


「まあ、もしかして、ご両親かご友人かがご病気なのですか?」


「いえ、商売ですよ」


 私がそう言うと、乙女は細長い指を顎に触れさせ、何かを考えていた。商売などと軽蔑されたか……と内心どう取り繕うか考えていたが……


「万屋さんなのですか」彼女そう言ったのである。


「そんなところです」 


 まさか、そのような発想をするとは思ってもみなかったが、これは棚からぼた餅である。聞くに落ちず語るに落ちる。単純な私のことである、想像力を追求される展開となれば苦し紛れに最高秘密をうっかり喋ってしまうかもしれん。


「それでしたら、是非、私のご依頼も受けて下さいませんでしょうか」


「なんでもござりませ」 


 私は二つ返事でこれを快諾するつもりであった。


「私はテニス部に所属しているのですが、最近、私のラケットを盗まれてしまいまして、困っております。大切な物ですので、なんとか探し出してほしいのです」


 彼女は初対面の私に懇願したのだ。私は探偵でもなければ万屋でもない、ただの男である。だが、男子たるは乙女の懇願を無碍【むげ】に断れるはずがない!


「わかりました、お引き受けいたします」


 私は堅く決然と頷くとずれ落ちそうになったズボンを密かに押さえて、痛む背を曲げずに「それでは」と乙女の前から立ち去ろうとした。


「もし、万屋さん」


 そんな私を彼女が呼び止め、私が振り向いて見ると、それよりも早く乙女は私に向かって小走りにやって来たかと思うと、


「これをお使い下さい」黒いベルトを差し出したのであった。


「ですが」


「いいのです。私が持っていても、使いませんから、どうぞお気遣い無くお受け取り下さい」


「それでは……遠慮なく。その……ありがとうございます」


 私は惚けて、ベルトを受け取るとその場に立つ尽くしてしまい、やっとそれだけが言えたのだった。


「それでは、ラケットお願いいたしますね」


 彼女はそう言って、芝生の方へしずしずと歩いて行ってしまった。

 

      ◇


 私は流々荘へ息せき切って帰ると、自室へ戻り、乙女から賜ったベルト四畳半の上に並べてまず、全体を眺め、そして細部を眺め、それからベルトに通そうと、まるでひつまぶしの風情にて思わぬ贈り物に感涙していた。

 ベルトは黒い革製であるらしかった。光沢の気品にしては見れば見るほどに安っぽい仕様であり。漆であると喜び勇んで買ったはいいが後に、エナメルであったと落胆すると言った趣である。


「むう」


 私は首をひねった。そのベルトは漆黒の色合いであり、碇を思わせる留め金具だけがその気品を思い出させている。そうなのである。このベルトは私が用具倉庫で見つけ、ラケットを束ねるのに古平に貸したそれに瓜二つなのである。

 しかし、そのベルトは今はラケットを束ねたまま竜田川の川底に沈んでいるはずである。地上に、まして黒髪の乙女の手元にあるはずがない。

 きっと別物に違いない。私はベルトの中央部分に、まるで裁ち切りばさみで剔【えぐ】り開けたような不細工で大きな穴が開いているのを見つけそう確信した。私の小指なら容易に通るくらいである。この広い世界には私に似た可哀想な男前が三人もいると言う、ならばベルトとて同じ物が三つあって然るべきであろう。それに、これは黒髪の乙女が私にくれた品であって、彼女の御手に触れた物であれば、たとえ石ころであろうとも、たちまち翡翠に様変わりするのだ。万人がそれを石ころと断言しようとも、私は最後まで翡翠と言い張るだろう。

 とにかく、私にとってこのベルトはこの四畳半にあって、唯一の宝なのである。

私はベルトをズボンに通すと、ずれ落ちなくなったズボンに万感胸に迫ると、急に姿見が欲しくなった。手鏡一面だけでは全身を映すことはままならない。なんとか、映せないものかと四苦八苦してみたがついに、本懐を遂げるに及ばなかった。

 となれば、相場はふて寝と決まっている。古平はラケットを竜田川に捨てたと言っていた。ならば、明日辺り竜田川を探せば容易に見つかるだろう。『まあ、なんて早いのでしょう。惚れ惚れいたします』などと、乙女から賞賛を受けることまちがいなし。そうなれば万事良し。喫茶店を手始めに、キネマや動物園などにお誘いすれば、やがて黒髪の乙女が私の『恋人』へと昇華すること請け合いである。

  黒髪の乙女の所望するラケットは竜田川にあり!蓬莱の玉の枝、龍の首の珠、燕の子安貝などを所望された平安貴族がなおのこと不憫【ふびん】でしかたない。

私は沸々と湧いては消えて行く妄想の中、素晴らしい面持ちで眠りについたのであった。

 だから、翌昼、私は清々しい目覚めを迎えることができたのである。起きあがって背伸びをしてみれば腰にはベルトがあり、襖には刺さったままのラケットがある。万事幻にあらず!

 あまりにも、夢が現実と似通っていたため、少し混同してしまったが、やはり現実と言うものは良いものである。私は、朝飯兼昼食を食べに共同炊事場へ行くと、丁度、調理台の上には握り飯が大皿の上に山盛り置いてあるではないか。これぞ、天の啓示と私は握り飯を抱えられるだけ抱えると一時、四畳半へ退避し、シャツにひっついたご飯粒を食べながら、机の上に握り飯を置いた。これで夕飯の心配もなくなった。憂い無きこととはなんと天晴れなことかな。

 風呂敷に握り飯を包み込んだ私はそれを首に巻き付け、次ぎに便所の下駄をこっそり失敬して、誰にも見られぬ間に流々荘を飛び出した。

 川の中に入るのである、さすがに一足しかない革靴を犠牲にするのは勿体ない。そこで便所下駄である。今頃便所に赴いた隣人どもはどうして便所に入ろうか思案していることだろう。しからば、余剰金にて新しい下駄を公の為に購入するか、私がラケットを手に流々荘に帰るまで便所をがまんしておればよい。なあに夕方までの辛抱である。人間それくらい辛抱できなくてどうしますか!

 私はラケット見つけるのだ。そして、黒髪の乙女の賞賛を賜り、尊敬の眼差しを賜って、花実の咲いた薔薇色の大學生活が幕を開けるのだ。私の妄想の中ではすでに乙女との口づけまで秒読みとなっている。これはあくまでも妄想であって、現実的には何も始まっておらず、これから始まろうとしているのであったが。

 もはや、妄想にこそ活力を求めんとする私を大いに蔑むがよい、よい子ぶって格好をつけていたら物事など飄飄踉踉と流れ流れて流れ着くことなく永久に流れ続けるのだ。それならば、時に妄想にある時は現実にと、ただ盲進したほうが何処かに辿り着けると言うものなのだ。

 そして私は靴を川縁に揃えて置くと、便所下駄に履き替えて、川の中へ入っていったのである。

 

      ◇


 あの方は万屋さんでした。てっきり、恋人の乙女のために蕾を採取してらっしゃると思っていましたのに。私は少し残念な気持ちになりました。ただ、桜の蕾が万病薬になると言うのは初耳でしたので、これはこれで一つ賢くなりました。

 今頃、万屋さんは私のラケットを探して下さっているでしょうか。物思いに耽りながらふと窓の外を見やると、塀の上を悠々自適にお散歩をしている三毛猫と目が合いました。私が微笑むと、猫は無愛想にそっぽを向いて歩いて行ってしまいます。三毛猫は雌しか生まれないと言いますから、同族嫌悪でしょう。


「ふぅ」 


 私は軽く溜息をつき肩を落としてしまいました。林檎の皮が途中で切れてしまったのです。イーゲルの前に腰を降ろして数時間になりますが、お昼ご飯を食べたにもかかわらず、お腹が空いてしまった私です。モチーフとして置いていた林檎がどうしても食べたくなり、台所から果物ナイフを持ち出して、皮を剥いていたのです。

 丸くて小さなものは姿見が良いですから、林檎は大好物なのですが困った性分でもあります。何せ絵が完成する前にモチーフを食べてしまうのですから……

 また新しい林檎を買いに行かなければなりません。私は新記録樹立を目指して皮を剥いていたのですが、半分剥き終わったところで切れてしまいました。私ったら!いくら三毛猫が可愛いからといって、よそ見をするなんて!しかし、後悔先に立たず、新記録樹立は成りませんでしたが、この上は美味しく頂くしかありません。

 私は林檎を台所へ持って行くと、芯と種を取り除き食べやすいように切り分けると、爪楊枝を刺してまずは一口、甘味の中の酸味が口の中に広がると、私は目を堅く閉じて唇を尖らせます。酸っぱいものは苦手な私ですから、梅干しや檸檬などを目前にすると、口の中は唾液の洪水のようになり、口の中へ運ぶまでかなり足踏みをしてしまうのです。ですが、林檎は甘味が優しいですから、その後の酸味ははずれクジだと思って我慢できるのです。だって、林檎は甘い果実でしょ?たまには、はずれクジも引かなければ当たりをを引いた時の感慨が薄れてしまいますもの。

 私は五度、唇を尖らせた後、お買い物かごと御財布を持ってお買い物に出掛けることにします。またイーゲルの上カンバスの林檎の完成が遅れてしまいますが、モチーフがないのでは描き続けることはできませんし、丁度、お砂糖やお味噌が切れそうでしたので、林檎を買いに行くついでに、本屋街と異名を持つ商店街をぶらぶらしようと思ったのです。


      ◇


 川はごみ捨て場ではない!私は全身濡れ雑巾となって激昂していた。

 橋のたもとを探し始めた私は、徐々に川を遡って行った。水量は私の脛のあたりであり、遡上を開始してからズボンを捲り上げておけばよかったと後悔した。しかし、橋の上から見るに清流に見えなくもない竜田川であるが、いざ川の中へ入ってみると、ところがどっこい、川底はまるでごみ溜のようであった。目に付くのは空き瓶や割れた食器であり、首を捻ったのは、自転車や鍋であった。

 世の中には大尽が以外と多いのではなかろうかと思っていた矢先、私の前に突如黒く波打つ物が現れたのだ。私は勿論、逃げようとした。それが蛇蝎【だかつ】以外の何ものでもなかったからである。そして私は川底の一升瓶にけつまずいて顔から川に倒れ込んでしまったのである。

 水を打ったように冷めた私は、こうなれば対峙してみせようと、濡れた髪から水滴を飛ばしながら勇ましく振り返った。忌まわしき蛇め、今晩の食糧にしてくれる、なんでも蛇は鰻の味がするらしいとの噂なのだ。

 振り返った私の目前にはやはり黒い物がゆらゆらとまるで泳いでいるようにあ身体をくねらせている。私は落胆して、再び竜田橋の方へ視線をやった。水面にはどんぶらこと私の小汚い足から、汚い便所から解放された便所下駄が大海原を目指すべく流れて行くのが見えた。

 なぜに、なぜ川にベルトなどを捨てるのだ…………

 私は革靴を履きに戻ろうかと考えたが、ラケットを見つけ出した暁には、黒髪の乙女との甘い一時が待っているのである。それを考えると革靴を履いて川に入ることは良しとできまい。ゆえに私は裸足にて、我が足裏を信じてさらに川を遡上したのである。


      ◇


 竜田橋から竜田川を見ておりますと、まるで清流のようであります。川幅は狭いようで広いような。中くらいと言えば正しいでしょうか。このように綺麗な川にごみを捨てる人はいないでしょう。一度汚れてしまえば、汚すことは躊躇いませんが、綺麗なものを汚すのには躊躇うものなのですから。

 そのように眺めていたのです。ですから、下駄が流れて来た時には私は眉を顰めて口を尖らせました。なんて心得のない人でしょうか。私は頬を膨らましたまま橋を歩きます。ふと土手みますと、履き疲れた革靴がきちんと並べられているではありませんか。私はもしや!と思い川を見ました。けれど、そのような人はおりませんし、この川は浅いですからそれは無理だろうと思いなおしました。きっと、寒中水泳などで精神と肉体の鍛錬に励んでおられるのでしょう。

 私は寒中水泳の様を想像して身を震わし、両肩を抱きました。私には到底できそうにありません。

 そして、無性に味噌煮込み鍋が食べたくなったのです。


      ◇


 辛酸を嘗めるとはまさに私の境遇であろう。遡上する過程でさらに二度転けた。

一度目は陶器の破片が足に刺さったからで、二度目は苔の生えた石に足を滑らせたのである。私はどこもかしこも冷たい身体を引きずるようにして川をのぼっていた。首に巻き付けておいた風呂敷はずしりと重く、首を絞められている感覚である。いっそ捨ててやろうかと思ったが、中には私の間食か晩飯になりうる貴重な食料が入ってるので、容易く捨てられるはずもない。

 足裏の感覚がなくなったきた頃、私はようやく、革靴を履いてくるべきあったと猛反省した。季節柄素足で川遊びに興じる子どもとて人っ子一人おらず、そんな中、私はといえばただ頑なに川を遡上しているのである。

 膝下のみを水に浸しているといえど、小一時間もその状況が続けば頭の先まできんきんに冷えてきた。仕舞いには鼻水が出て来る始末である。私は両肩を抱くと背筋をひっきりなしに駆け抜ける悪寒と全身の震えに耐えられぬと、這うようにして川岸へと退避した。

 このような時は我が内燃力機関に燃料をくべて体温と気合いの回復に努めるほかない。私はくしゃみを連射をしながら、伝家の宝刀である風呂敷を広げた。風呂敷の中には垂涎の握り飯が収まっているはずだった。

 これは私への戒めだろうか、はたして私がいつ天に向かって唾を吐きかけたというのだ。酷すぎるではないか。私は風呂敷でおじやのようになっている白飯を見下げて、思わず天を仰いだ。私の握り飯はどこへ行ったと言うのだ。おじやを風呂敷に包んだ覚えはない。 私は無気力に風呂敷を足元に残すと、再び川の中へ入って行った、伝家の宝刀は竹刀であったのだ。このまま土に帰ることを切願し、汗と涙にて白米を育てあげたお百姓に謝罪をしたいと思う。

 もはや、私に残っているのは黒髪の乙女との甘い一時のみ、希望を持てねば人など生きて行けるものか。往々にして飛躍した弁を胸に私は川の中を闊歩した。瓶の破片を踏めば大袈裟に川へ飛び込み、意味もなく倒れ込んだりもした。こうなれば自棄である。心頭を滅却せずとも水もまた温しを証明してやろうではないか!

 私は鼻水を垂らしくしゃみをし、そして身体を震わせながら、ただ前進したのである。

 

      ◇   


 今晩の夕食は味噌煮込み鍋をしようと決めた私は、お砂糖を諦めてお味噌を多めと、後は白菜や長葱など、お鍋の定番食材を買いました。お肉も欲しいところでしたが、學生の身分で一食に贅沢をすることは許されません。ですから、油揚げを買ってお肉である!と言い張ることに決めました。八百屋さんで色々とお買い物をしてから、隣の青果店へ行き、林檎を所望いたしますと、お店のおじさんが「お嬢さん可愛いからおまけしてやんよ」と二つのところを四つも下さいました。私は「ありがとうございます」と高揚する胸中を隠して淑女を装いましたが、商店街を一歩出るととたんにスキップをしてしまいました。

 大好きな林檎が四つもあるのです、両手に持てるのは二つまでですから、私の腕も四本なければ持てないのです。とは言え、せっかくお買い物籠を持って来ているのですから、私は林檎を大切に買い物籠の中に入れて、意気揚々と帰路をスキップしていたのでした。 

 本日の夕日は燃えるよう赤く、とても情熱的です。私はスキップをやめて竜田橋の上から暫時そんな夕日を眺めておりました。こんなことなら遮光板を持ってくればよかったと思いました。太陽もそうですが夕日も実は丸くて小さいのです。ですから遮光板を通して拝見するになんと可愛らしいことでしょう。ですが、平時は眩しすぎて見つめられないばかりか、目の前に残光がちらちらとつきまといますから、なんとも気分がよろしくありません。

 私はいつも通り、残光がちらちらとなった目を休ませようと夕日に背を向け、橋の欄干に手を掛けました。すると、夕日に象られた私の影が橋の影と相俟ってとても愉快な予兆を与えてくれます。もちろん私は恥ずかしがり屋さんなので、大手を振って何をすると言うわけでもありませんでしたが、人通りが途切れた好きに籠を肘に掛けて、両手を器用に組み合わせて影絵などをしてみました。狐や蝶なども試して見ましたが、一番わかりやすく面白い具合に水面に投影されたのは馬でした。

 折角の折りなのですが、私は普段から影絵を嗜んでいるわけではありませんで、あっという間に芸を出し切ってしまいました。ですからその後は、首を傾げてみたり腕を伸ばして見たりと、もう一人の私を応援してみたりしていたのですが、そろそろ帰りましょうと思い、ふと土手に視線が及びますと、行きに見当たった靴がまだ置いてあったのです。

 私は感心しました。この外気は春近しと言えど、さぞ水は冷たいことでしょう。その中にあって、まだ寒中水泳にて精神と肉体の錬磨に励んでおられるのですから。私など、起き掛けなど、顔を洗いますと「ひゃ」とあまりの水の冷たさに変な声を出してしまうのです。情けなしとそれを思い出すと、やはり私は感心するのでした。

 感心をした私は、姿こそ見ぬその豪者に敬意と慰労の念を込めて、靴の中に林檎を置くことにします。靴は二足ありますから、林檎も二つ。片方に一個では姿見がよろしくありませんから、やはり二つなのです。

 青果店のおじさんが下さった林檎ですが、私は二つあればそれで良いのです、私の腕は二本しかありませんから。それに、この幸せを私だけが一身に賜っていると言うのも、心こそばゆいですから、ここは幸せのお裾分けと言う趣なのです。

 きっと、鍛錬から帰って来た方は、林檎を見て目を輝かせることでしょう。そして次の瞬間には夢中でかぶりつくのです。豪快に両方の手に林檎を持って交互に囓るのです。

 私はそんな様を思いめぐらして、爽快となりました。そして、再びスキップしながら家に帰ったのです。


      ◇


 夕陽が背中に暖かい。私は竜田橋から遡上すること半里を経て、上流の橋の下へ到着したばかりであった。燃えるような夕日は情熱をのみ私へ届け、ここまでの旅路の困難を思い出しては私は思わず涙したくなってしまう。何度として陶器の破片を瓶の破片を足裏に突き立てたことだろう。何度、石に躓いて転びそうになって川砂で踏ん張れずやはり転んだことだろう。

 川と平行する土手を見上げるに、どうして私は、わざわざ川の中を進んだのだろうとか思った。土手を行けば半時もかからずにこの場所へ到達できただろうに、どうして私は困難を承知で川の中を進んだのだ。心底から湧き起こる精神と肉体への自己欲求を満たすために敢えて果敢にも挑戦したのだろうか。

 私は夕映えに照りかがやく風景を遠く竜田橋に乗っかるように見える夕日を見ながら、そんな風に一人呆然としてた。

 あの女性は何をしているのだろうか。丁度、夕日の中央に佇んでいる御仁はスカートの裾を泳がせながら、腕を伸ばしてみたり首を捻ってみたりしているではないか。ひょっとして私を呼んでいるのだろうか。もしや、寒中において鍛錬に勤しむ私に感化され、抱擁の一つも差し上げると私を呼んでいるのではないだろうか。

 私は頭を掻いた。ご都合主義かくありき、何の希望もない昨今において、まだ妄想において無理矢理希望を見出そうとできる自分に呆れたのである。そんなはずがなかろう、傍目からみれば、季節はずれの冷たい川の中に入ってただの阿呆漢なのである。もしかしたら、入水して果てんと深みを探して歩く幸薄き男にも見えたかも知れない。

 橋の乙女が黒髪の乙女であったならどれだけ励みなるだろうと思った。もっと言えば、お面の乙女も黒髪の乙女であったなればどれほど良かっただろうか。後者に至っては家まで送り届けたのである。気が動転していた私は洋風の家という認識と、朧気な外観しか覚えていなかったが。あの躍動をもう一度味わいたい。

「黒髪の乙女」私は呟いた。


 そして思い出したのである。私は乙女のラケットを探すために川に入ったのだ、幾星霜と学業も含め精神も肉体も一切の鍛錬をしてこなかった私が、今更、どうして急にこのような意味不明な荒行に勤しまねばならんのだ。朝食兼昼食兼夕食として風呂敷に包んだはずの握り飯が、おじやへと早変わりをし、それに絶望して自棄となった私はラケットを探すことを忘れ、いつしか、川を遡上することが目的と思い込んでしまっていたのだ。

 

半里も川の中を歩き、やっと本来の目的を逸脱したことに気が付いたのである。笑うならば含まず素直に大声を出して笑うとよい。私自身、狂乱して笑い死にたい心境なのだから。

 私は、疲労と空腹の色を濃くして、川から上がると、土手の草の上を歩いて帰った。たとえ白粉を施したように白くふやけた足にとて萌える草の葉は優しく、加えて温度のある地面は心地よいことこの上ない。

 目前には夕日を背景に橋の上をスキップなどに興じているお茶目な乙女の姿が見えた。長い髪を波打たせていかにも愉快そうである。乙女の幸せぶりに感化されて私が一時でも幸せな面持ちとなることはなかった。ただ絶望の淵にいて福眼と唯一の光明となったことは事実である。

 落ち武者であった私はようやく竜田橋の元へ帰って来た。後は靴に足を押し込んで、流々荘へ落ちのびるだけである。しかし、私の靴には赤い実りがちょこんと鎮座していた。それは林檎であった。思わず天を仰ぎ見た私は、頭上には松の枝しかないことを確認すると、静かに丸くて小さな姿見の良い果実を両手に持ち、次の瞬間には宗家の犬のように林檎にかぶりついたのである。それはもう夢中で両手の林檎を交互にかぶりついた。腹が満たされるとは至福に他ならない。私は種もかみ砕き芯とてむしゃぶり獣のように喰らった。

 そして、口の周りから仄かに香る甘酸っぱい余韻をお供に、不毛な苦労が報われたと無理に勘違いしたのである。

 感謝感激雨あられとはまさにこのことであると心の奥底から、誰ともしれない恩人に感謝したのであった。

 

       ◇


 次の日の雨を挟んで、二日連日を日和見病にて万年床で過ごした私は、四日目にしてようやく起き出し、本分を思い出した回遊魚のように義務とばかりに大學へ向かった。

 微熱に悪寒にと苛まれた三日間。明確に私は風邪をひいて寝込んでいたと自覚しているのだが、やはり川に入ったのがいけなかったのだろう。不本意とはいえ、川の水に全身を浸しての水遊びである。むしろ風邪だけで沈静してよかったと幸いを喜ぶべきだろう。

 私をほったらかしにして桜の花はますます旺盛に咲き揃いつつある。講堂に入ろうかと思ったが、私は桜並木を歩くことにしたのだ。芝生の上で春の息吹を感じながら日向ぼっこというのもおつなものであろう。

 唇を震わせながら、何気なく思ったのだが、ラケットがどうして川の上流にあると思ったのだろうか。鮭や鮎ではあるまいし、ベルトに縛られたラケットがどうして遡上すると言うのだ。ただ川底を転がり下るだけではないか……他にも幾つか侮蔑の弁を吐きかけてやりたかったが、いかんせん、心身共に弱っている真っ直中に真綿で首を絞めるような行為を自身でせんでもよいだろうと、反省会はそこそこに我が愛しき隣人の夕食を馳走になるために炊事場へと向かった。

 それも今となっては懐かしい最悪な思い出であろう。

 私は性悪な日和見菌に犯され再起を図った空っぽの心身を癒すべく、桜の大樹に身を隠して、せめてもの祝福をと黒髪の乙女の姿を探した。テニスコートでは、善男善女が微笑みを宿しながら球技に勤しんでいる。その中に黒髪の乙女の姿はなかった。 考えてみれば、ラケットを盗まれた彼女がコートの上に立つはずがないのである。それにしても、ラケットを盗まれたと言うのに、すでに大半がラケットを新調しているとは。私は憤った。お前たちの辞書には愛着という言葉はないのか!。それに引き替え、乙女の純情なことと言ったら、生まれ持った分別の良さに真善美うちそろった品性、カネモチどもめ、彼女を敬いそして身の振りを正すがよい!。と私はラケットを盗んだ一味でありながら仰々しく物言わぬ憤慨を焚き付けていた。

 すると、


「万屋さん、奇遇ですね」 と乙女が声をかけて来たのである。

 

無我夢中で狼狽した私は、阿波踊りのような格好のまま硬直して「どうも奇遇ですね」と返事をした。

 再三言うが、彼女はラケットを失っているのだ。ゆえにコートの上に立つことはできないのである。ならば、學生の本分と文学乙女に徹するのは無為自然であろう。


「ラケットは見つかりましたでしょうか?」


 私にはそう聞いた彼女の眼が希望に輝いているように見えた。それがとても辛かった。次ぎに私が口を開けば彼女は希望を失い眼から輝きを流星のごとく消してしまうだろうと思ったからだ。


「いえ、まだ見つかっていません」


 嘘でも乙女の笑顔が見たかったが、それは叶わず。私は誤魔化しと鼻を袖で擦ってから真実を真摯に述べるに止まった。言い訳など見苦しく、お膳立てと花を飾ってみても所詮は花でしかなないのである。彼女は花を所望しているのではなく料理を所望しているのだ。

 まして嘘などと片腹痛い。嘘と言うものはその場しのぎには有効であるが、所詮は急ごしらえの泥船なのである。事ある事に水漏れさせまいと泥を塗り重ね塗り重ねし続け、めでたくも泥の塊になって沈没するのだ。

 嘘を隠すためにまた嘘をついて、堂堂巡りとその繰り返し。いずれは沈む定めであるならば、潔く真実を述べた方が後腐れがない。


「そうですか……」


 やはり予見したとおり、乙女は一様に落胆したように、一歩後ぞさってから視線を私の腰元まで落とした。


「見つかりませんか……あのラケットはお母様から頂いた代用品の見当たらないとても大切な物なのです……」


 彼女はそう続けた。


「必ず見つけて見せます!男に二言はありません」


 私は、落胆する彼女に力強くそう言った。

 依頼を受けてから約一週間を経て私は実質一日しかラケットの捜索をしていない。竜田川を遡上したあの日一日だけなのである。

 したがって諦めるには早すぎる。まだ、少ないながら、探すあてもあれば今度は竜田川を降河魚よろしくと流れて行けば自ずとラケットに行き当たるだろう。


「ありがとうございます。とても心強く思います」 


 乙女はそう言って精一杯口もとを綻ばせた。

 そして三日後の正午、この桜の大樹にて待ち合わせの旨を彼女に伝え、私は勇んで竜田川へ出陣したのであった。


      ◇


 雨の日がありましたので、その日は一日中家に籠もってデッサンをしておりました。途中でお昼寝や童話などに脇目を振ってしまいましたが、それでもまるまる一日あったのです。捗【はかど】るも捗らないも、カンバスの林檎は林檎と言うよりは……ふっくらとまるでお姉様のお尻のように可愛らしく書き上がりました。私のお尻も可愛らしいと自分では思うのですが、お姉様よりも小さく「尻つぼみね」と小馬鹿にされたこともあります。……まあ、恥ずかしい。お尻だなんて。お尻だなんて!

 私も淑女の端くれですから、ここは黄桃と表さなければならないところなのです。

 後はでんでん虫の角のようなヘタを描けばめでたく林檎は完成するのです。ですが、私はここで木炭をイーゼルの上に置いてしまったのでした。

 雨の日はとにかく体調が優れません。どこが痛いわけでも気分が悪いわけでもありませんが、どことなく体調がよろしくありません。病は気からと申しますから、憂鬱と降りしきる雨を見ていると生気が衰えるのでしょう。お姉様やお母様は「気のせいよ」と笑っておられましたが、やはり私は心身相関と溜息が出てしまうのです。

 お昼の残りに火を通して簡単に夕餉を済ませた私は、銭湯に行きましょうかそれとも、ラヂオでも聞いてゆっくりと読書をしましょうかと迷いましたが、気持ちが落ち込んでおりましたし、外の雨の止みそうにありませんでしたので、ラヂオのダイヤルを回してから読みかけの『ぐりむ童話』を携えままベットの上に寝転がったのでした。

 ラヂオからは手風琴【アコーディオン】の軽快な旋律が途切れ途切れでしたが耳に心地よく。銭湯に行かなくてよかったと思ってしまいました。

 翌日は昨日の雨が嘘のように青天となりました。

 淑女たるもの毎日とは言わずとも二日に一度はお風呂に入り清潔でなければなりません。ですが、私は雨のせいにして、ついに三日間お風呂に入りませんでした。もちろん下着やお洋服は毎日着替えておりましたけれど、やはり髪の毛などのお手入れは粗忽になってしまっています。

 雨が悪いのです。ですが、お母様は私をお叱りになるでしょう。今日は大學へ行く日であると言うのに!

 私は、背中まで伸びた髪の毛を顔までもってきて、匂いを嗅いでみました。もしも、悪臭を放っていれば、私の後ろの席に腰掛ける人に迷惑をかけてしまいますから、大學へ行く前に銭湯へ行かねばなりません。

 私は念入りに何度も匂いを嗅ぎました。石鹸の匂いこそしませんでしたが、悪臭もしませんでした。

 ふぅ。と胸をなで下ろした私は、大學へ出掛けました。朝からお昼頃まで講堂で知恵熱を出してから、お昼からはいつも通り芝生の上で読書でもしましょうと桜並木を歩いておりますと、桜の大樹に万屋さんがいるではありませんか、それも、誰かを捜すかのようにテニスコートを見つめているのです。

 私はもしや、と足を速めます。もしや、私のラケットが見つかったので、私を捜しているのではと思ったのです。


「万屋さん、奇遇ですね」


 私から声を掛けました。

 すると、万屋さんはまるで阿波踊りでも披露するように手足をくねくねとしてから、私の方を向いて、「どうも奇遇ですね」と言いました。

 なんと面白い方なのでしょう。


「ラケットは見つかりましたでしょうか?」


 万屋さんはラケットを持っておりませんでした。ですから、まだ見つかっていないのでしょうと思いましたが、微かな希望を込めて私がそうお聞きすると、万屋さんは私の眼を見つめ、そして力無く視線をさげて「いえ、まだ見つかっていません」とおっしゃったのです。

 その折、なぜか万屋さんは鼻を袖で擦られます。鼻炎でもおもちなのでしょうか、とふいに思いましたが、次の瞬間には恥ずかしくなってしまいました。もしかしたら、私の身体から衣服をもすり抜けた不摂生な匂いが鼻腔を痛めつけたのかもしれません。


「そうですか……」 


 私は恥ずかしいやら悲しいやらで、少し落胆をしつつも半分以上を恥じらいのために一歩後ずさってしまいました。

 不潔な際どうして殿方のお顔など見られましょうか。私は恥ずかしさもあまって顔も赤くしていましたから、視線を万屋さんのベルトに固定します。するとどうでしょう、ベルトには碇を思わせる留め金具が窺えたのです。

 高慢な私が思いつきにて中途半端な場所に不格好な穴を拵【こしら】えたと言うのに、万屋さんは私の差し上げたベルトを身につけて下さっていたのです。嬉しいと思う傍ら、このような急ごしらえの粗悪品を差し上げた自分は粗忽者であると反省いたしました。


「見つかりませんか……あのラケットはお母様から頂いた代用品の見当たらないとても大切な物なのです……」


 それでも私はラケットの事をお話しました。まずはラケットを探して頂かなければ、お母様にも申し訳がたちませんし、もしも、見つけて下さった折には謝礼は元より、新調したベルトを差し上げようと思いなおしたのです。


「必ず見つけて見せます!男に二言はありません」


私の心を知ってか知らずか、万屋さんは強い眼光で私にそう誓って下さいます。なんと心強いことでしょう。それはまるで、「二言すらば腹を切る!」と言わんばかりの気迫でした。

 ですから「ありがとうございます。とても心強く思います」と私は胸の内のままを口に出しました。昨日、銭湯に行っていれば、もう二歩は歩み寄れていたでしょうに、誠意にかけてしまいます。私は微笑みを浮かべながら、雨は大嫌いです!と後悔しました。

 それから万屋さんは、三日後の正午にこの大樹の下で待ち合わせの胸を残して、駆けて行かれてしまいました。

 今更で恐縮ですが、万屋さんは、落ち込むであろう私を見越して、阿波踊りのように戯けて私を元気づけようとしてくれたのです。なんてお優しい心遣いの方なのでしょうか。

 人の優しさに触れてその温もりに感じるのはいつだって過ぎ去った後なのです。

 私は万屋さんの背中を見つめながら、その優しさや温もりを過ぎ去る前に気がつけることのできる、そんな女性になりたいと強く思ったのでした。


      ◇


 私は竜田橋の中央に立ち欄干から川を見下ろすと、猛々しく咆哮をあげたくなった。全身を巡る熱き血潮が今すぐにでも「いざ!飛び込まん!」と嗾【けしか】けたのである。だが、死ぬことはないだろうが、骨を折って花実が咲くものかと、私は冷静に自身を窘【たしな】めた。

 私は乙女に堅く誓ったのである。

 もしも、川の冷たさに、空腹に、貧賤に二言と言い訳しようものなら腹を切って果ててみせる!私はついに雄叫びをあげた。

 煮えたぎる血潮はマグマのごとく熱く、全身を強張らせた私は立ち眩みに似た、意識の朦朧をおぼえたが、それは消して昨日の昼から何も口にしていないからではない。

 男子ならば乙女との誓いを全うして然るべき!と私の至情が叫んだからである。

 そして、気が付いた時には私は欄干に足をかけ情熱の翼を背に夕日に向かって羽ばたいていたのであった。

 幸い死んでもいなければ、骨も折れていなかった。全身がずぶ濡れとなってことと、顔面を川底に打ち付けた際、しこたま川砂を食べてしまったことを覗けば、なんら問題はない。口の中がじゃりじゃり言って気持ち悪いが、川の水で濯ぐ気にもなれなかった。

 興奮の最高潮で川へ飛び込んだ私であったが、焼け石を海に投げ込んだがごとく、煮えたぎっていた血潮は冷えかたまり、熱血激情を広げた翼もすっかりもぎ取られてしまった。

 見上げれば野次馬が数匹、さも珍しいモノでも見物するかのよう私を見下げている。当然見せ物ではなかったが、ここはあえて一声も鳴かないことにした。

 そっと橋の下へ移動した私は、日が暮れる前になんとかラケットを探し出そうと、本丸である橋から下流の捜索を始めたのであった。

 先日降った雨のせいで流されたのではあるまいかと、考慮しつつも堅実に橋の袂から川底に視線をくべていた私であったが、やがては頭痛を催すほど足元が冷たくなり、大股で下流を目指すことにした。

 この度は硬い靴底の革靴を装備している。ゆえに、茶碗やガラスその他もろもろの破片に怯えることもなく、威風堂々と行進できたのであった。便所下駄などに頼らずとも、根本的に、私が壮大な信頼をおいている革靴にを足に宿して川を捜索すればよかったのだ。小を惜しんで絶大を逃しては本末転倒である。

 好奇の眼差しを受けながら私は川の中で奔走した。実際はずっしりと重くなったズボンが足を引っ張り、奔歩としかなりえなかったわけだが、気概だけは千里のごとくと鵜の目でラケットを探し続けたのであった。

 日が落ちるまで探しあぐねた結果。ラケットは見つからなかった。


      ◇


 翌日、日が高くなる前にから川に入った私は、橋の下から川底を掘り返しながら進んだ。雨による増水で、よもや土砂に埋もれたのではあるまいかと考えたのである。

 千里には遠く及ばないながらも、堤まで下った私の出した妙案であり可能性であり、最後の賭けでもあった。

 もし、川底を掘り返してもなお、ラケットが出て来ない場合は……そこまで考え及ばないながらも、今は、今だけ私は乙女のために獅子となり奮迅と川底を掘り返さねばならぬのである。シャベルなど持ってくれば容易であったと後悔するなら、あかぎれた木蓮のような私の両手は嘆くであろう。いまさら何を言うのか!と。

 そもそも、シャベルなどと人知の文明を傍らに備えない私がいかようにしてそれを、この場に持ち参上できるだろうか。工事現場から拝借してくるより他にあるまい。

 私は幾分深さの増した場所にはなんと顔をつけ四つん這いとなり、山椒魚古式泳法にて川底を舐めるようにして浚った。

 古式泳法にて体力と体温の極限を凌駕して得たものはめでたいことに小銭数枚と使えそうな、こうもり傘だけであった。

 私だけに天が豪雨をもたらしたごとく全身から水滴を滴らせ、鉛の衣服を纏いなお倦怠感を抱き合わせた重量感はいかんともしがたく、私の絶望をより一層色濃く鮮やかに染めた。


「水も滴るなんとやら」


 脱力感と虚無感に再三見上げた落日を前に私は呟いて大笑いした。まさに私に相異あるまい。ありとあらゆる場所が濡れているのである。もはや、気まぐれな台風や暴風雨がたちまち現れたとて、私は狼狽えることもなく、むしろ好都合であると高笑いでこれをむかえうつだろう。

 私は橋桁に体をあずけ、注がれる怪奇の眼差しを背に受けて、安請け合いなどするものではなかった、棚からぼた餅、便所から金剛石。我が愛おしき意中の乙女とのゆくりもない、奇跡と偶然を混ぜ合わせた豈【あに】図らんや譚は、山も谷も最高潮すらないまま、『めでたし、めでたし』と漸降法において、必然であるとそもそも物語の体をなすまえに終わってしまうのだ。

 せめて、一度でも良い乙女の笑顔を面と向かって見たかった……


      ◇


「貴様にだけは負けてやるものか!」


 私は苦々しく路傍の人々を睨み据えながら、何度も呟いた。黒ペンキが靴裏から絶え間なく滲み出ているように、私の後ろには足跡が私の軌跡をわかりやすく残している。

 濡れ鼠になった私である。あるいは欲情にかられた阿呆漢でもある。体温も体力も底を尽きつつあり、満身創痍であるの身は誰から見ても明かであった。

 だが、何をやすやす諦めているのか。限界などというものは、他人に決められるものでも自分自身で決めるものでもない。もしも、限界であると自身で思ったのであれば、それは思い込みでしかないのだ。思い込みの限界などと片腹痛い!

 私は、決して希望を持たずに、乙女の笑顔を見たい一心で本屋街の裏路地へ向かった。

 この路地には質屋が軒を連ね、まっとうな商いから盗品の売買まで、五階百貨店の趣であった。

 古平はこの質屋によく盗品を売りさばきに行く。私の部屋にあった桃色図書を始はじめとする家財道具のいくつかもこの質屋街に消えていった。

 『質』と書かれた簡素な看板に腐った溝板、風通しが悪いせいだろう殺傷効能すら疑いたくなる異臭。とにかく、常人が踏み入れる世界ではない。

 そして、そこにやって来た全身ずぶ濡れの私とてとても常人でなかったのである。

 もちろん私は、片っ端から質屋へ闖入してラケットの仔細を主人から聞き出す算段であった。だが、そんな私の都合などお構いなしと質屋の多くは暖簾が降ろされており、ヘたな鉄砲も何とやら、一軒だけしか商いをしていなかった。

 迷っている暇もなく私は『馬陸質』と白抜かれた暖簾をくぐり、店の中へ入った。店内にはなるほど、武田の赤備えを彷彿とさせる当世具足が来店者を眼球無き眼で射抜き、その隣に並べられた刀剣類の数々など、どれも業物であろうと素人目にも計り知れた。

 私が家財道具をいれた質店とは様相が随分と異なる。店内には唐津物の壺やら皿やら、色彩豊かな硝子工芸品、そして薄気味悪い鹿の剥製と用途不明な緑青まみれの塊など、質屋と称するより、骨董屋と称した方がしっくりくるだろう。


「いらっしゃいませ」


私が鹿の剥製と睨めっこをしていると、店の奥から和装の麗人が姿を現した。身に纏うは、金糸銀糸で豪華絢爛を絵に描いたような着物。そしてその容姿は細い目元とぷっくりとした唇、結い上げた艶やか黒髪の後れ毛などはこれでもかと大人の色気を醸し出していた。大和撫子とはこのような佳人をさすのだろう。


「ここに男がラケットを売りにきませんでしたか」


 店内を何度となく見回してみたが、遠くラケットなどというモダンな遊戯道具などは見当たらず、遊戯で言うなれば貝覆いくらいなものであるが、この世は平安ではない。

「ラケットとおっしゃりますと、庭球をする時に使う〝アレ〟ですか」

 旅館の女将さん風の顔佳人【かおよびと】はそう言いながら、蓄音機の針を落とした。

 なんと陰湿と哀愁のただよう楽曲だろうか、四六時中このような旋律を耳にしていたならば、すっかり猫背となり果てた背中辺りに茸でも生えてきそうである。


「そうです。その〝アレ〟です」


 含んだ言い方だが、この店に置いてあるのだろうか。

 私の期待とは裏腹に女性は叩きを手にすると私を煙たがるように、ぱたぱたと品物の埃落としを始めた。


「あの……」


 女性はまるで私が見ていないと言わんばかりに掃除をすすめて行く、いかに美人と言えどもこれは些か失礼ではあるまいか……私が訝しんでいると、


「あら、まだ居たのですか」確かにそう言ったのであった。


 なんと無礼なな大和撫子だろうか。頑陋【がんろう】と私を見る眼差しには確実に嘲笑いが込められている。

 私は生粋のフェミニストであり、できることなら、女性を罵倒することなどしたくない。一生そのようなことをするまいと、片隅では確信していた。しかし、この場はどうしたものだろうか。


「男がラケットを売りにきませんでしたか」


 仏の顔も三度までと言う。ならば仏には悠久と及ばない私でも二度までは微笑もう。


「これは、菊一文字則宗ともうしまして、かの沖田総司の愛刀とされている名刀なんですよ」


 女性は上品な口もとを緩めてそんなことを言い、徐に一本の刀を手に取った。


「ラケットは……」私は食い下がった。

 その刹那、居合いとばかりに私の首筋に冷たい何かが触れたのである。

 顔を仰け反らせながら、精一杯見やると女性は腰を据えた姿勢で刀を鞘から抜き放っているではないか。


「なんの冗談だ」 


 生唾を飲み込んで私は、震える声で言った。なぜ、私が刀を突き付けられねばならんのだ。このか弱き私が何をしたと言うのか!


「ほう、冗談とおっしゃいますか。なまくら模造刀ではそう言われても仕方ありません」


 女性は溜息をつきながら、刀を鞘へ収めると漆塗りの木台に刀を置き、かわりに中段にある鹿の角に安置されてあった刀を手に取った。

 よほど刀を好むと見える。なんだこの狂乱女郎は……


「私はやはり、村正が好みです」


 妖刀として名高い一振りを手に持った女性は目尻を下げ、口もとを一層緩ませた。なんと危険な雰囲気だろう。辻斬りに快楽を見出した高級武士でもここまでの面妖は醸せまい。

 そして得物はゆっくりと鋼を露わとし、曇った刀身が鈍く光った。


「この曇は……血を浴びるとできるのだとか……」


 眼が恐いぞ。


「なんのつもりだ」


「あなたこそなんのつもりです。ここには由緒正しい一品しか置いておりません。それを無知にも〝ラケット〟などと、そのようなお子様の遊戯道具を探すなど、冷やかしは問答無用で返り討ちです」


 そう言って、女性は刀を大きく振り上げた。

 何を勝手な!由緒正しい一品とな、先程の模造刀も由緒があるのか!私が何も吐き捨てることなどできずに、店を飛び出しのは言うまでもあるまい。私の目は節穴であった。なにが大和撫子か!和装の麗人は人にあらず、人の皮を被った鬼であったのだ。


      ◇


 万屋さんとのお約束の期日にはあと一日余裕がありました。ですが、この段になって私はとんでもない人間であると猛烈に反省したのです。

 他の損害にてラケットは私の手元から消失してしまったのは事実です。ですから、心の片隅では不可抗力である以上、私に責任はないと胸を張っていたのかもしれません。だからこそ、私は何一つ努力もせずに万屋さんにお願いしてしまったのです。

 何度となく熟慮してみれば、私の大切な物なのです。でしたら、その持ち主である私がラケットを求めて奔走しなければならないのが本来です。金銭任せに事情をご存じでない殿方に依頼などをするなど愚か者としか言いようがありません。

 私は後悔しました。後悔先に立たずと言います。ですから、後悔した今からでも遅くありません、私は、小春日さんをお誘いして伊太利風喫茶店フロリアンで待ち合わせをいたしました。

 本日も授業がありましたから、私は小春日さんをお待たせして、フロリアンへ向かいました。

 途中、本屋街へ続く道にまるで黒いペンキを靴裏に滲ませながら歩いたような足跡を見かけました。その足跡は本屋街の途中で路地へ消えておりましたが、それは遠い視線の先。小春日さんをお待たせしている身の上、足跡の追跡をしている場合ではありません。

 私はフロリアンの屋根の風見鶏を見上げながら、ドアを開けました。

 中に入ると、可愛らしい給仕着を纏ったウェイトレスが私に声を掛けて下さいましたので、「ご友人と待ち合わせをしています」と私は答えて、店内を見回しました。


「こちらです」


 窓際の席に小春日さんはおられました。


「大変お待たせしてしまいまして、申し訳ありません」


「いいえ、私たちもついさっき来たばかりですから」


 小春日さんの向かいには殿方が腰を降ろしております。以前、この方が小春日さんをお誘いした殿方なのでしょう。


「こちらは、古平さんとおっしゃって、ラケットを見つけて下さった方です」


 小春日さんはどこか嬉しそうに、そう古平さんとおっしゃる男性を紹介して下さいました。


「えっとこちらは、私のご学友の……」


「紹介しなくても知ってるよ」古平さんは小春日さんの言葉を遮るようにそう言いました。

 お腹の虫の居所が悪いのでしょうか。古平さんはむくれている様子でした。


「早速で恐縮なのですが、私のラケットだけがまだ行方不明なのです。何か些細なことでもよろしいのですが、ご存じありませんでしょうか」


 私は、席に着くなり早速、古平さんにラケットのことを聞いてみました。


「しらないね」


 ぶっきらぼうにそうおっしゃいました。

 やはり、気に入らないご様子です。


「えっと……その……」


 そんな生返事の古平を見て慌てているのが小春日さんでした。両者共に波風が立たぬようにと気遣い下さっているのでしょう。そんな小春日さんは私から見ても愛らしい婦女なのでした。


      ◇


 私が残した足跡がまだ乾ききらぬうちに、また足跡を重ねることになろうとは……それにしてもあの女郎【じょろう】は何を血迷ったのか。安達ヶ原の鬼婆であろう。いや、それであればあの美貌は勿体ない。

 そんな阿呆なことに考えを巡らしながら、流々荘へ帰る道すがら、相変わらず珈琲の芳醇な香りをこれ見よがしと漂わせるフロリアンの店内を窓越しに眺めた。楽しそうに談話を弾ませる善男善女もしくは善女同士。あの中に私がいる現実は桃源郷の遥か彼方かもしれない。

 それだけでも双肩を項垂れる私を奈落へ突き落としたのは、またしても古平であった。古平は窓際の席で以前見かけた乙女と向かい合っていた。それだけでも思わず発狂して今すぐに切り札である媚薬を使いたい衝動にかられると言うのに……と言うのに……その乙女の隣には我が意中の人である黒髪の乙女の姿があったのである。

 私は今この瞬間に闖入して古平の魔の手から黒髪の乙女を救い出さねばならぬ!と義務と正義漢が熱烈に訴えかけたのだったが、フロリアンは伊太利風喫茶店であり、とかくお洒落な社交場であった。

 店の中の乙女も男子も、清楚な香りのする出で立ちであり、古平ですら、アイロンをあてたシャツを着ていた。

 そのような庶民離れした空間に溝鼠のように成れ果てた私が入れるはずがなかろう。

 強盗か狂人かと勘違いされたあげく、勘違いの正義漢によって押さえつけられ床にはいつくばるのが関の山である。

 私の心傷を理解し癒すのは何人にも不可能だ。自信がある、たとえ菩薩であろうと女神であろうとも私を万年床より立ち上がらせ、そして、人としての営みに復帰させることは断固として私が拒否するのだから。

 この心淵の重傷を癒すことができるのは黒髪の乙女だけなのである……黒髪の乙女だけなのだ……

 しかし、その乙女は今し方、古平の正面にて珈琲を嗜んでいた。古平と愉快に可笑しく微笑みを浮かべながら、喫茶を楽しんでいることだろう。

 私は、全身に鞭を打って全力で駆けた。これが悪夢であると現実ではないと逃避したのである。そして、四畳半へ逃げ込むと、私にとって最悪最低な想像を巡らして、万年床へ逃げ込んだ。


      ◇


「僕は君に興味がないんだ。そして忙しい、小春日さんとの時間を邪魔しないでもらいたいもんだ」

 

古平さんは、小春日さんとの時間を邪魔されたことにご立腹だったのです。

 私も邪魔などと、そのようなことをするつもりはございませんでした。ですが、実際にはお邪魔虫となっていたことは言い訳できません。


「それは申し訳ないことをしてしまいました」 


 私は。古平さんと小春日さんに向かってそう言い残して、席を立ちました。


「どうかお気を悪くなさらないで下さい。口は悪いですが、根は良い人なのです」


 大股で外へ出た私を追って来た小春日さんがわざわざそう言って下さいましたので、「いいえ、私が不躾だったのですから、小春日さんこそお心遣いなさいませんよう」と淑女を装って軽くお辞儀をしました。

 内心ではぷりぷりしておりましたから、私の口は自然とアヒルのように平べったく尖っていたことでしょう。

 私には仲の良い男性のご友人はおりません。ですから、これを機会に少し殿方との交友をと思っていたのです。私とて乙女なのです、乙女となったからには恋の一つもしてみたいと思うのは致し方ありません。来るべくに備えて私は異性との語らいを嗜んでおこうと思って何が悪いのでしょうか。

 古平さんは小春日さんのことを好いていらっしゃるのです。ですから、私が邪魔と思われるのも二人きりになりたいと想う気持ちもわかります……わかりますけれど…………

 あそこまで邪険にしなくてもよいではありませんか!

 私は乾ききらぬうちに重ねられた足跡の歩幅に合わせて歩きながら、頬をぷっくりと膨らませていました。

 乙女の心の際では、殿方との蜜月を望んでいるのでしょうか……それを不埒とはしたなしと思っておりましたから、倶楽部の先輩などからのお誘いも尽くお断りしてきました。

 交際とは一体なんなのでしょう……私は竜田橋の欄干に肘を立てて黄昏れに眼を閉じてみました。

 お姉様は、よく殿方と喫茶にお出掛けになられます。お姉様は人を見る目を持っておられますから、不純な方は一度お会いしただけで判別がついてしまいます。お姉様はその曇なき眼を養うためにも多くの老若男女とお付き合いした方が良いとおっしゃられますが、私はと言うと物心ついた頃より、お姉様の後ろについて回っているだけでした。小判鮫の趣です。ですから、自分からお声をかけることが少々苦手なのです。

 積極的にとは思っているのですが、性分を矯正するのはとかく難しく、三つ子の魂百までもといいますから、その困難さは想像以上なのでしょう。

 私はいつしか頬を膨らますことを忘れ、ふさぎ込んでゆっくりと歩き出しました。私を導くかのように点々と続いていた足跡も次第に消えてゆきつつあります。そんな儚い足跡に哀愁の念をくべながら帰路を行きます。

 明日もまた同じ日がくるでしょう……幸福はきっとこない。でも、明日は来のです、明日は来ることでしょう!

 明日はきっと至福の時がやってくるはずなのです、今日ふさぎ込むのは明日笑うためなのですから……


      ◇


 乙女は胸を高鳴らせ私がやって来るのを心待ちにしているだろうか……まだ生乾きの衣服を纏い、ナメクジに包まれているかのように気色の悪い万年床に寝そべる私は両腕を枕に天井を眺めていた。 

 ラケットを探さねばならぬ。私の使命感と善意と誠実がそう訴えたが、もはや脈無し!と激情の下心がそれらを一喝にて押し黙らせた。そうして、何をするでもなく無気力に寝転がっているのである。

 この上は、お面の乙女に一筋の希望を抱いてみようか……そんなことも考えてもみた。浮気者と罵られようとも、黒髪の乙女とは交際もしていなければ友人でもないのである、『浮気者』と罵られたならばむしろ、喜ばねばなるまい。そうである、両手を高々と掲げて喜ばねばならぬ。

 そんな風に巡らす想いとてただただ虚しい。これがはたして、四百四病外の病、『恋煩い』と言うものであろうか……

 もしや、ただ古平に先を越されたことに焦り腹を立て、なんとしても私とて!と邪な対抗心を無駄に燃やしただけなのかもしれない。だとすれば、乙女には申し訳ない。

 ラケットの一件と私の恋煩いか対抗心か摩訶不思議な心中とは水と油なのだ。たとえ、乙女が私に興味を抱いてくれなくとも、ラケットは探し出したい、そして乙女の手元に返してやりたい……

 精神虚弱下では、まったくあらぬことを考えてしまうものである。罪ほろぼしなどと、そんなか細い精神でどうして生きて行けようか……私は強がった。

 涙を堪えて強がった。

 だが、天井に微笑む乙女の顔が浮かぶと、どうしようもなくもどかしくなった。今すぐにでも起きあがって駆け出したかった。そして、竜田橋から飛翔して川へ潜るのである。

 そうしていれば、少なくとも自分自身には嘘をつかなくとも済む。報われずとも努力は決して嘘ではない、私が恐れるのはこのまま万年床より這い出せず、残された最後の一日を欺瞞と失意の内に終えてしまうことだった。

 ことさら、回想することではないが、私はこの二年間同じような毎日を過ごして来た。

 学生の本分を忘れ、ただ日々を生きることだけに奔走し、そのためであれば己が誠でさえも平気で欺いてきた。明日とてひねもすと部屋に閉じ籠もり、桜の巨木の下で待っているであろう乙女を等閑【なおざり】にしたところで何が変わろうものか。 

 明日もまた同じ日がくるのだろう……幸福はきっとこない。だが、明日は来る、明日は来るのだ。

 どんなに惹かれても見ているしかできなかった黒髪の乙女。やっと堂々と正面に立てると思っていたものを……

 私は深く溜息をついて、寝返りを打った。

 どれくらい、惰眠を貪っただろうか、そんな私の元へ妖怪が訪れた。


「どうしたんです。部屋中カビ臭いですよ。茸栽培でもはじめたんですか」


 古平はいやらしい笑みを浮かべて、私の傍らへ腰を降ろした。


「何のようだ」


 今、私が世界中で一番顔を見たくない男がどうして、時を見計らったように現れるのか。


「用事がなきゃ来ちゃいけないですか。どうせ僕しか来る人間もいないくせに、ほら、土産も持ってきましたよ。こんなに愛想の良いお客はまさに僕だけでしょ」


 古平は恩着せがましくそう言って、あたりめを差し出した。

 意図がなくとも忌々しい奴である。あたりめと言えば祝儀に用いる定番ではないか、憔悴した私の姿を祝いに来たのではあるまいな。古平であれば、あながちあり得ない話しでもない。


「昨日は何をしていた」


「そんなこと、あなたに関係ないでしょ」


 いつも通りの愛想のなさである。


「白昼堂々、女性二人と喫茶とはたいした身分だな」


 私は、古平の持って来たあたりめの足にかぶりつきながら、そう言った。


「のぞき見ですか。顔も悪けりゃ性格も溝のように汚いんですね」


 お前に言われる筋合いはない。


「それに、あなたの好いている方は勝手に来たんです、面見は良いかもしれませんが呼ばれもしないのに、不躾な女ですよ」


 私は明確に、青筋を立ててあたりめを振り上げた。確かに、噛めば噛むほどに旨味がにじみ出るあたりめはじつに美味かったが、それを盾に乙女を悪く言うなどと、今すぐに悪態つけぬよう、口を縫い合わせてくれる。


「あなたの交際相手でもないくせに、寝言は寝て言ってください。それに針も糸も持ってないでしょ」


 確信の笑みを浮かべた古平は我が四畳半に裁縫道具すらもないと、自信を持っている様子であった。「それみたことか!」と針と糸を両手に古平に襲いかかってやりたかった。しかし、悲しいかな、古平の見立て通り私は針も糸も持ち合わせていなかったのである。

 私は、無言であたりめを食いちぎった。

古平はよほど、乙女の参上が気に食わなかったのだろう。しばらく、あたりめをはむ私の前で爪を噛んでいたが「あの女はやめといた方が良いですよ」と捨て台詞を残して帰って行った。

 誰がお前の忠告など聞く耳を持つものか。私の目は節穴ではない!黒髪の乙女を悪く言うお前こそ、もっとどうにかなればよいのだ!

 あたりめを腹に入れたからだろうか、それとも生乾きの気色悪さから解放されたからだろうか。私は少し生気を取り戻した。

 窓の外を見やるに、すっかり黄昏時を過ぎている。

 しかし、私は力強く立ち上がるとこの二年間の陋習【ろうしゅう】を払拭すべく、部屋を飛び出したのである。

 全ては愛しの乙女のために!


      ◇


 空元気でベッドに横たわった私のお腹はきゅるきゅるとつむじ風のような音をたてて、空腹を促します。私は明日に向かうため、今日は早く寝ることにしました。もちろん、夕飯の容易や片付けなどをしていますと、それ相応の夜分となってしまうのです。ですから、私は夕飯を抜いて明日に向けて眠ることにしたのでした。

 明日はきっと万屋さんが私の大切なラケットを持って参上してくれることでしょう。そして、私は御礼を申し上げてから、お茶などにお誘いするのです。乙女である私から殿方をお誘いするなどとはしたなしと侮蔑されるかもしれません。その上で断られるかもしれません。

 ですが、今まで通りただ待っているだけでは、私に声を掛けて頂ける殿方を待ち侘びているだけでは、今まで通り睦まじくも慎ましく並んで悦喜の時を過ごす善男善女に羨望の眼差しをくべるだけの日々なのです。

 私はお姉様のように器用でもありませんし、積極的でもありません。お姉様から教授頂いた『男女の駆け引き』なるものとて私には到底、巡らせることはできませんし、そのような指南書があったとしても私は読み耽ることはないでしょう。

 御縁とは異なもの味なものなのです。もしも、万屋さんとのご縁がありませんでしたら、明日でお別れしますことでしょう。ですから、私がお誘いしようともなんら問題はないはずなのです。

 私は掛け布団を顔まで被って誰もいないと言うのに、火照った顔を隠しました。私が殿方をお茶にお誘いするなんて……お誘いするなんて!この世の常と婦女は口を閉じ、殿方からお誘いの声を掛けられるまで佇んでおくべきと思っておりましたから、相対する発想に困惑と羞恥心が遅れてやってきたのです。

 お母様やお姉様方も殿方をお誘いしたことがあるのでしょうか……

 いくら考えてもわかりませんでしたので、今度実家の方へ帰った時にでも聞いてみたいと思います。

 いつのまにか私のお腹に吹き荒れていたつむじ風は止んでいました。これで、眠ることができるでしょうと、顔を出してみると火照った顔に冷たい室温が心地よく、まるで氷枕をしているかのような趣でした。

 明日はきっと幸福の時がやってくるはずなのです。

 命短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬ間に……と歌もあるくらいです。生涯に一度の明日なのですから、笑っても後悔してもよいではありませんか、もしお断りされれば林檎をたらふく食べた後ベットに飛び込んで涙を流せばそれで精神の安定は保たれます。

 もしも……受けて下されば……

 私はそこまで考えて燃えるように熱い両耳を指で掴んでひらひらとさせました。

 私は阿呆なのです。お茶のお誘いを受けて下さっただけで、交際相手であるわけでもなく、ただ、面白可笑しく一時を共に過ごすだけではありませんか。熱い耳を左右に引っ張ってみました。

 飛躍を経て舞い上がった私はようやく冷静になることができました。交際への妙味はわかりかねますが、一度の喫茶くらいで成就するものではないでしょう。

 それに、私には少しばかし無理だと思います……


      ◇


 またしても満身創痍となって帰って来た私は、ご来光にむせび鳴くセミのごとく喉の奥から、嗄れた溜息をついて四畳半に倒れ込んだ。

 質屋街へ駆け、運悪くあの女郎に出くわしてた、たまたま持ち合わせていたらしい、日本刀を抜刀され一言も発する前に追い返され、途方に暮れる間もなく、竜田川へ飛翔した。

 辺りはすっかり夜闇の真っ直中であり、私は誰にはばかることなく服を脱ぎ捨てると、下着姿に革靴を履いて川の中へ盲進した。さらに凍てつき度合いをました外気にまして川の水は冷たかったが、すでに期日を目前と迫って「冷たいからやめた」などと女々しいことをどうして言えようか。

 そうして、時間の概念を超越して空が蒼白くなる頃合いまでひたすらに川底を漁り続けたのである。

 口許の震えが止まらないながらも衣服が乾いていると言うことはなんと幸せなことだろうか、這って万年床へ退避した私は悠久とも思える時間を睡眠に費やすことに決定した。

きっと蒼白い顔だろう。私の顔をカンバスに押しつけたなら必ずや『不健康』と文字が浮かび上がると自信がある。

 それでも太陽は昇り、置き時計の針は進んで行く。雲の合間から差し込んだ高き陽の光を痛々しく浴びた私は、まるで亡者のようにもぞもぞと万年床から再び這い出すと、本懐を遂げんがため、気力のみを糧に腕を伸ばした。

 本日は乙女との約束の日である。

 ついにラケットを探し出すことは叶わなかった。思えば昨夜、古平が来た時になぜ、ラケットについて問いたださなかったのだろうか。後手に回ったものである。

 私は鉛みたく重い体を立ち上がらせるためにも、伸ばした腕の先にあった物に手をかけた。微塵の力を加えるとそれは襖の断末魔と共に私の手に握られたままそれは畳みの上に落ちた。首をもたげてみるとそれはラケットであった。

 そう言えば、このラケットにてテニス部へ入部を果たし、めでたく黒髪の乙女にお近づきになろうと目論んでいたのであった。畳水練と熱心に素振りをしていたところまでは朧気ながら覚えがある……だが、その先は記憶がまったくない。どうして襖に刺さっていたのだろうか。

 この際それは捨て置こう、川を浚っても質屋を巡ってもラケット一本手がかりの欠片も出てこなかった。

 灯台下暗しとはこれまさに。とは言え、このラケットが乙女の物である保証もなければ確証などは月ほどかけ離れている。乙女は代用品無比の大切な一品であると話していた。テニス部室から持ち帰った物であるがゆえに可能性はなきにしもあらず、しかし、大半を持ち帰ったのは古平であって、そちらの方がよほど確率は高いのは明白。これを差し出したところで泣きをみるのは火を見るよりも明らかであろう。

 考察を加えて、どうしたものかと一様考える体をとってみたが、この期に及んでしまうと選択肢は極みの二択しかなく、簡単に言えば頓死かやはり憤死なのである。後者の方が微かな望はあるものの、このラケットが彼女の探し求める物品である可能性は皆既日食がまるまる拝めるほど低いのだ。

 私は立ち上がると、時計を見やった。すでに約束の刻限近くを短針と長針が示している。障していてくれと私は一抹の願いを込めて何度か叩いてみたが、どうなるわけでもなく、次の瞬間にはまだしっかり濡れている靴に足をねじ込んで部屋を飛び出すはめになってしまった。

 息急き切って右に左にとふらつく視線を何度となく修正して私は桜の大樹まで駆けた。

 桜花爛漫と生命溢れる並木道を駆けると、巨木を見上げる乙女の姿があった。

 微風に舞い散る桜の花弁の中、長く艶やかな黒髪を揺らしながらその髪を耳にかきあげた乙女はまごうことなく美しかった。


「すみません、お待たせしてしまいました」


 私はせめてものと荒い呼吸を押し殺すように、平素を装って声を掛けた。


「いえいえ、私も今し方来たところですから」


 彼女は大袈裟に手を振りながらそう言ってくれた。

 しかし、乙女は教本を抱えている限りは講義があるのだろう。「講義に間に合いますか」私が言うと、「いえ、講義よりもラケットの方が大切ですから」と私が持って来たラケットを見てから驚きにも似た笑顔を咲かせたのであった。

 私が恐る恐るラケットを差し出すと、


「本当に探し出して下さったのですね。ありがとうございます」と彼女は綺麗なお辞儀をするとラケット抱き締めた。まるで、赤子を抱く母のように感嘆の声をあげたのである。


「お引き受けしたからには、何とかするのが男子の務めです」 


 そんな口から出任せとて許されるだろう。ここ三日間はまさに死闘の様相を呈していたのである。蓋を開ければ、私が持ち帰ったラケットが黒髪の乙女の所持品であったわけだが……灯台下暗しと言ってしまえば、誠に身も蓋もない。


「ここの所に墨で名前を書いておきましたのに。掠れてしまってもうわかりませんけれど」


乙女は持ち手の底を私に見せてそう言った。


「墨ですか」


実は私も墨で名前を書くのです。そう続けたかったのだが、


「お恥ずかしながら」


 と小さな口をすぼめ頬を淡く桃色に染める乙女の愛らしさに見とれてしまい、言葉が続かなかった……言わずもがな、私はすっかり乙女の虜となってしまったのであった。


「それでお幾らになりますでしょうか?」


「はい?と申されますと?」


「何をおとぼけに、探して頂いたのですから、御礼はしなければいけません」


 面白い方。と彼女は首を傾げて微笑んだ。

 えっと。私は頭を掻いた。


「それでは、お茶にお付き合い願えませんか」


「お茶ですか?」 


「はい、それだけでかまいません」


 私は一生に一度の勇気を振り絞って言った。心中が掻き乱れ狼狽や混沌ともう何がなんだか不明であり、取り分け心臓の鼓動は大きく速く、まるで頭に心臓が移動したかのように脈を激しくうっていた。


「そのようなことでよろしいのでしたら、喜んでご一緒いたします」


 彼女はそう言って軽くお辞儀をしたのである。

 桃源郷の彼方へと薄れ行く私の意識を余所に、乙女は手帳に万年筆にて何かを流れるように書き終えると、ペーシを破って私に差し出した。


「ご都合のよろしい日などお知らせ下さいませ。学校でお会いできましたらよろしいのですが、お会いできませんでしたら、お手数ですが文などでお知らせ下さい」


「はい」


 もちろん私は小躍りを今すぐに始めたいほど感激したが、顔に出すと品がない。ゆえに、愛想笑い風を装った。


「本当にありがとうございました。それでは」 


 と乙女はまたしても非の打ち所のない華麗なお辞儀をして桜並木を歩いて行ってしまった。

 その紙には、住所が記載されてあった……

 私は、はたしてこれが現実なのだろうかと、自分の拳で脳天を思い切り殴ってみた……すると、眼から火の粉が出るくらい痛かった。それはもう痛かったが、痛み以上に深淵から込み上げる悦楽の嗚咽にただ立ち据えているしかできなかった。


       ◇


 これが信じられるだろうか?出たとこ勝負で携えて行ったラケットがはたして乙女の探していた物であり、どさくさに紛れてお誘いした喫茶には快く応じ、そして今、私の眼下には愛し恋しい乙女の住所まであるではないか。

 私は机を前にして、再度拳を脳天に打ち下ろした。

 またしても誠に痛かった。

 いやまて、一見してさも美談のように聞こえるが、私が一方的に盗んでそれを返しただけなのである。なんとも身も蓋もない……

 それでもこの幸福に罪悪感など無用。私は頭を掻きむしりながら、便箋を机から取り出して万年筆を片手に早速、文をしたためにかかった。

 しかし、私には文才がなかったのである。大學生らしく知的印象を与え、それでいて乙女の心をくすぐるそんな文面を目指し、常套句や故事などをふんだんに織り交ぜしたもの、これは文ではない!とやぶり捨てる。

 時に気楽過ぎたり、恋文の仕様となったり、畳みの上に丸まった便箋が山となり、やがては便箋も尽きた。

 初めて出す手紙であると言うのが厄介である。露骨であっても軽薄であっても、まして深すぎても返事は期待できないだろう。

 もはや私の印象などどうでもよい。ただ、お返事が頂ける手紙を書きたかったのだ。

 座布団に腰を据えたまま畳みの上に寝転がった私の背に、丸めた便箋の幾つかが下敷きとなった。

 便箋尽きて、さらには下書きするノートすらきれている現状ではぐうの音も出まい。

 明日辺り便箋を買いに行かねばならぬ。どうせ購入するのなら可愛らしい便箋と封筒にしよう。

 昨日までの絶望が嘘のように私の頭の中には希望やら夢やら、とにかく愉快痛快と思わず微笑んでしまう心配や予定ではち切れんばかりであった。


      ◇


 翌日、小鳥たちの小合唱で心地良い目覚めを迎えた私はあまりの清々しさに、窓を開け、屋根へと続く梯子越しに電線でたむろする小鳥たちへ朝の挨拶をした。

 このような晴れ晴れした気持ちは久方ぶりである。何もかもが新鮮に見えるのは錯覚だとしても、襖に酷く開いた穴などはこれから奉りたい面持ちであった。

 そして私は商店の開店時分まで珍しくも部屋の掃除をした。それでもまだ少しばかし、余裕があったので、共同炊事場の掃除をもしたのである。

 その様をどんぐり眼で見据えていたのは、真上の住人である新妻であった。気でも触れたかと言わんばかりであったが、そんな奥様にも私は微笑みでもって爽快に朝の挨拶をするのである。

 今朝だけは誰がなんと言おうと私は好青年であった。

 好青年である私の腹はたいそう金切り声を叫んでいたが、今朝に限っては隣人の朝食を失敬することもせず、公明正大の旗印を威風堂々をはためかせ我が居城である流々荘を後に町へ繰り出した。

 竜田橋を渡り、本屋街を通り過ぎ、路線バスの通る大通りに出る。そのまま道形に歩いて行くと文房具店がある。私御用達と言うよりは、この辺りの庶民御用達の界隈では唯一の文房具店なのであった。

 私は混み合わない店内に入ると、鉛筆やら糊やら、もちろん便箋と封筒も手にとった。必要であろう物を一通り手にした私は、その中から吟味を繰り返して、さらに最低限必要であろう品物だけを残して後は棚へ返した。

 手に残ったのは便箋と封筒だけであった。

 もちろん、便箋の吟味には必要以上に時間を費やした。できるだけ姿見のよい物を選りすぐったからである。地味であり素朴な便箋では私の気持ちにそぐわない。ゆえに、私が選んだのは丁寧にスミレの押し花が添えてある上品でありながら見ているだけで良い匂いが漂ってきそうな便箋であった。

 だが、その便箋を譲らなかった代償として糊も鉛筆も買えず、まして封筒は茶封筒しか手に入らなかった。

 重要なのはあくまでも手紙なのである。それを覆う封筒などに重きをおいてもしかたあるまい。そう、重要なのは宝箱ではない。その中に収められたる金銀財宝なのである。見るに侘びしい封筒を見てから私は誰に言う出もなく、誇らしげに胸を張って深く頷いた。

 昨日、便箋が底を尽き何をするでもなく、ただ乙女から賜った直筆のメモ帳を見つめ、愛しの君の住所を暗唱して、頭にたたき込み、そして頬刷りをして懐に入れて添い寝をした。 

 帰り道、不意に見上げた停留所名はもどかしいことに、乙女の住所の地名であった。忍び寄るつもりはなかったが、気が付いた時にはもう私の足は着実に乙女の住居へと向いていたのである。

 今一度、断言しておく、私はつきまとうつもりも、住居が判明したところで待ち伏せをするつもりもない。むろん、偶然を装って家の前を往来することもしない。

 バス停から程なく脇道へ入り、そのまま電信柱に打ち付けられた地番を便りに歩いて行く。どことなく、なんとなくだが、一度歩いたことがあるような既視感を感じたが、そんなはずもなく。同じような長屋ないしは木造家屋が建ち並ぶ界隈であるからして気のせいだろうと、口笛を吹きながら呑気に歩いていた。

 交錯する相対する心中は、地番が住所に近づいてゆくにつれて、大いに高鳴っていった。

引き返すべきか、このまま愚進するか否か……そのような正義と凡愚の狭間で煩悶とするなら良し、あろうことか、私は根底から意味不明にしてお子様のようなことを考えていたのである。

 もしも、彼女の住居とは私の住まう四畳半よりはさぞ居心地がよいことだろう。むしろ、それでいてくれなければ私が困る。程度で言うなれば十畳間。それくらいの格差であるならば、裏打ちされた安堵とて得られるだろう。

だが、私が暗唱した乙女の住居であるはずの番地には、この辺りでは珍しい二階建て洋風造りの家屋が堂々と根を下ろしていた。屋根瓦だけが唯一、和の香りを残している。

 あの若さにして、一城の主であらせられるとは、私の燦々たる四畳間とはまるで次元が異なるではないか……

 私は首を捻り、以前似た台詞を吐いたような……と再び奇妙な既視感に苛まれ、絶望をする間もなく、見て見ぬふりを決め込むと彼女の家の前を後にしたのであった。

 ただ後にしただけではない、逃げるように後にした。なにせ、私が乙女の家をまじまじと見つめていると、急に庭から続く窓を覆うカーテンが激しく揺れたのである。乙女であればまだ軽傷で済むだろうが、その他であった場合、私は漏れなく不審者の烙印を尻に押されることになる。それでは、これ以降、誰にも貧相で可愛らしい私のお尻を見せることができなくなってしまう。

 冗談はさておき。

 後付となるが、煩悶とする以前は期待と不安胸を膨らませていたのだ。よもや、ばったり乙女と遭遇するやもしれないと、心の片隅で願いつつ。はたしてそれは叶わなかった。

 鈍重な足取りで我が居城へ帰った私は、いつも通り、精神の安定を図るべく万年床へ身を隠そうか思案してみたものの、便箋と封筒を机の植えに置くと、そのまま座布団の上に座して万年筆を手に取ったのでる。

 冷静であり、心中はいたって凪いでいた。

 正直なところ、化粧気はなかったが身だしなみなど仔細整った黒髪の乙女なのである。幾星霜とその姿を追いかけてきたかぎりは、乙女の住居が豪華であろうと、それはすでに暗黙と折り込み済みだったのだ。私からして乙女の想像はいずれかの令嬢であり、当然カネモチであろう。そういう像であった。

 その妄想寄りの想像が、はたして具現化されていた結果を受けて、今更いかほどの衝撃を受けるだろうか。 

 川に石を投げ込んだ後、波紋が流れに消えて行くように私にはいつか投げ込まれるであろう大岩を見越して深淵の片隅にその大岩専用の穴を深く深く堀おいていたのである。

 私は落ち着いた面持ちで窓の外を眺めながら、鼻の下に万年筆をはさんで、上唇で反芻する牛よろしく、もごもごと口許を動かしていた。

 何を隠そうたいへん古典的であるが、私は手紙を書くのが大好きで、文通というものに昔から憧れていた。相手が意中の黒髪の乙女であればなおさらである。

 憧れは憧れのまま、手紙は出せども梨の礫が常であり、文通などという高みへの道は清々しいほどに遠い。

 とは言え、今回は事情がことなり、至極、私に有利なのである。なにせ乙女はすでに私の申し出に頷き、そして、今頃は私からの手紙を心待ち……いやただ待っているはずなのである。

 内容は当たりさわりのないものが良かろうと考えるぐらいの良識をあった。ゆえに、恋文やそれに準ずる文面が目前に迫れば、即座に便箋を丸めて捨てた。

 四月の終わりの丑三つ時。私は深く重い溜息を吐いてから新しい便箋を手に取ると、余計な文言を削ぎ落として、必要事項のみを主とした文章を書き上げた。

 我ながら、侘びしくも情の籠もっていない手紙であると、再び溜息をついてみたものの、最後の一枚の便箋であるからしてどうすることもできまい。

 そして、私は『糊』を調達するために、炊事場へ赴いた。すると、私の思惑通り洗わずに放置されたガス釜の中には隣人の食べ残した冷や飯が残ってあった。それを根刮ぎ頂戴して、手で丸めながら部屋へ帰った私は、その全てを腹の中へ流し込み。指に残ったご飯粒を丁寧に押しつぶして封筒の口に塗りつけると、インクの乾いた便箋を寸分たがわぬ三つ折りにしてから、封筒に収めた。

 後は実家へ手紙でも書こうかと、気まぐれに買いおいた切っ手を貼り、私は封筒を携えて草木も眠る時分に郵便ポストへ向かったのであった。


      ◇


 私もついに殿方からお誘いをされてしまいました。ただ一時、お茶にお付き合いするだけなのですが、私の動揺はカレー粉が溶けて行くようにじわじわと、胸の奥をざわめかせて、その日の夜はなかなか寝付くことができませんでした。

 私は年頃を迎えた乙女です。ですから、殿方と二人きりで一時を過ごすことは、嗜んでおくべきなのでしょう。けれど、初めてである私は嬉しさ余ってやがては不安になってしまいました。

 万屋さんはきっと悪い方ではないと思います。死力を尽くして私のラケットを探し出して下さったにもかかわらず、その御礼が私とお茶をするだけでよいと申されるのですから、意図されたのでしょうかと思い返してもみました。ですが、私が「……お幾らになりますでしょう……」と言うと、思わぬ申し出と言わんばかりに間抜けた顔をされたのです。

 もしかしたら、本当に御礼のことをお考えになられていなかったのかもしれません。

 そんなことを考えていると、やはり、万屋さんは悪い方ではない。と、なぜか自信がもてたのです。そして、万屋さんから御手紙が届けば、すぐにお返事が書けるようにと便箋も封筒も切手も一式机の上に用意してあるのでした。

 郵便配達さんがやってくる時分が待ち遠しくも、本日では早過ぎるでしょうと頷いてみましたが、やはり、内心そわそわとしてしまうのはどうしたものでしょうか。

 そんなお昼近く、私がお昼ご飯の準備を始めましょうとエプロンを纏っていますと聞き覚えのある旋律が家の前から聞こえてきたのです。

 それは口笛でした。

 私は声に出さず口の形だけで「セブン、セブン、セブン!」歌いながら急いで、窓へ駆けて行き、カーテンを開けて見たのです。

 ですが、その頃には口笛もその奏者の姿も杳として知れず。もしや、三条通で「ラヂオ体操セブン」を歌っておられた方ではと思ったのでしたが……

 肩を落として台所へ戻りますと、急に哀愁の念が私を包み込みました。湯気をあげる薬缶と切りかけのお野菜、そして私が居ると言うのに水を打ったように静かな室内。下宿に憧れた頃から、このような寂しさは覚悟しておりましたし、今までだって一人で乗り越えてきたのです。

 私はお気に入りのカノンを口ずさみながら包丁を手に持つと、憂鬱と溜息をつきました。

 嘘です。私一人で乗り越えて来たわけではありません。いつだって、困ったことがあった時はお姉様が傍にいてくださったのです。だからこそ台風の夜も雷鳴にお布団を被って縮こまっていても、なんとか耐えることができたのです。

 お姉様はとても不思議なお姉様なのです、私が困っているとなんの前触れもなくひょっこりと顔をだして、真心を私の下さります。もちろん、私はお知らせもしませんしお便りもした覚えもありません。ですが、お姉様はお土産を持ってやって来てくれるのでした。

 私は包丁をしまうと、居間のソファーに腰を降ろし、膝を抱えてざわめく心中をどうすることもできず、膝に顔を埋めてお姉様が来て下さるのをただ待っておりました。


      ◇


「もう、いつになっても甘えん坊さんね」 

 

 お姉様は夕方近くになって、すき焼きの材料を携えて訪ねて下さいました。やはり私のお姉様は不思議なお姉様なのです。


「甘えん坊は妹の特権ですよ」


 私はお姉様の荷物をお持ちしながら、お姉様の腕に私の腕を絡めました。そうなのです、お姉様は来て下さったのです。

 お姉様は私の頭を撫でながら「今日は関西風にする関東風にする?」とおっしゃいましたので私は「関西風にしましょう」と言いました。

 すき焼き鍋を用意してからガス釜用のコンロをテーブルの上に置いて私のすることは終わりです。後は手際よくお野菜を切り分けてゆくお姉様の手が止まれば、準備万端、めでたくすき焼きが食べられるのです!

 私はお昼ご飯を食べておりませんでしたから、今にもお腹と背中がくっついてしまいそうです。


「お姉様は手際がよろしいですね」 


 何を隠しましょう私はお姉様に林檎の皮むきで勝ったことが一度もありませんでしたし、私はいつも途中で皮が切れてしまうのでした。


「私だって花嫁修業をしているもの、誰だってお料理を習えばこれくらいになれるわ」


 お姉様はまず牛肉を焼いてから、鍋の中に具材と割り下を注ぎました。香ばしい音と牛肉が焼ける垂涎の匂いは思わず涎をたれてしまいそうです。お昼を抜いた私ですから余計に目の前で跳ね踊る油や割り下を見ているだけでもお腹が悲鳴をあげるのです。


「花嫁修業はやはりお忙しいですか?」卵を割りながら私がそうお聞きしますと、


「ええ、それはそれは大変よ。でもそこに愛があれば苦にならないと思うわ……」


 そう言いながらお姉様は困ったような表情を浮かべました。


「えっと、このお肉は、たいへん美味しいですね」 


 私としたことが、うっかり失言をしてしまいました。お姉様のように婚礼を間近に控えた婦女は一時的に気分が落ち込むことがあるとお母様からお聞きしました。ですから、「あなたも気遣ってあげなさいね」とお母様から言付かっていたのです。


「ええ、お肉屋さんで一番のお肉を奮発したのだもの」


「それでは美味しいはずです」


 私は微笑んだお姉様を見て胸をなで下ろしました。折角来て下さったと言うのに、私がお姉様の機嫌を損ねてどうしますか。『この不届き者と』誰かに叱っていただかなくてはなりません。

 それから暫時、私とお姉様はすき焼きに舌鼓をうちながら久方ぶりにたわい無いお話しに花を咲かせました。乙女同士のお話ですから男子禁制、桜花の園のお話なのです。

 お腹が大きくなった私とお姉様は片付けは後回しにして、ソファーに腰掛け、すき焼きの余韻に浸りながら食後のウィンナーコーヒーを頂きながら束の間和んでおりました。

 すると、お姉様は私の顔をじっと見つめて、


「それで、今度は何を悩んでいるのかしら」と言うのでした。


「それは……」 


 私はどうしてわかったのでしょうと、コーヒーカップを両手で覆って顔の前まで持って来ると目元を残して、口と鼻を隠しました。なぜ、目を隠さなかったのでしょう……


「気になる殿方ができたの?」


目は口ほどにものを言うのを忘れていたのです。


「いえ、気になると言うのではありません」


 私は慌てて、言いました。

 当たらずも遠からず……表面上では狼狽していながらも内心ではほっとした面持ちでした。


「その、お姉様は殿方にお茶の席をご一緒する時、何をお気をつけになられますか」


「そう。お茶のお誘いをされたのね」 


 とうとうバレてしまいました。


「はい、つい最近なのです」


「私は嬉しいわ。こんなに可愛い妹だと言うのに、誰も声を掛けないのだもの。周りの男子は節穴揃いかと思ってたくらいだもの」


 お姉様は楽しそうにそう言うと、カップを持ったまま、私の隣に移動してきて


「格好の良い方?」とおっしゃいました。


「いいえ」


 私はすぐに答えました。万屋さんは疲れているご様子でしたし……このようなことは思いたくもありませんが……倶楽部の殿方と比べてみますと、随分と見窄らしい雰囲気を纏っておりましたから……  

 そう、とお姉様はおっしゃって、


「でもね。決して外見だけでは判断しては駄目よ。身だしなみは見なければならないけれど、やはり、その人の内面を見る努力をしなければならないわ。外見で恋に落ちるなど乙女の恥ですもの」そう続けて言ったのです。


「はい、それは心得ているつもりです。ですが、どうして内面を見れば良いのでしょ

う」


 私はお姉様と違って内面を見る眼を研ききれておりません。ですから、どうしても外見だけで全てを見た気になってしまうと思うのです。


「そんなことは私にもわからないわ。もしも、それがわかると言う人が居るならば、それはただの高慢なだけだと思う。相手の方も自分も、お話をしてみて楽しければ、まずはそれで良いのではないかしら」


 お姉様は顎に指をやって、少し考えてから意外なことをお話下さいました。てっきり、お姉様は百戦錬磨と一度お会いさえすれば、相手の善し悪しを見破ってしまうと思っておりましたから、余計に驚いてしまったのです。


「ですが、『男女の駆け引き』をご教授してくださいましたでしょ?」


「あれは、お母様からの受け売り」


 お姉様はそう言うと無邪気に笑ってみせます。

 私は黙って頬を膨らませました。崇高な教えとノートに書き取り、暗唱できるまでしっかりと覚え込んだと言うのに!お姉様が実学にて学び得た知識であると思っていたのに!


「そんなに怒らないで、婦女の慎みとしては覚えておいても悪いものではないもの」


「それはそうですけど」


 私はやはりぷりぷりしたまま言いました。


「でも、頬を膨らませた私の妹はなんと愛らしいことでしょう」


 お姉様はそう言うといきなり私を抱き締めると頬擦りをするではありませんか。


「お姉様。私は怒っているのですよ」


 そう言いました。


「そうね。でも、泣いても叫んでも助けはこないのよ」


 と婦女の敵のような台詞を吐いたかと思うと、お姉様はやがて私の上に覆い被さるようにしてソファーの上に私を押し倒し、なおも頬擦りを続けるのです。

 この愛情表現は幼少の頃からでしたので慣れたものでしたが、私の胸に押しつけるお姉様の大きな果実に気が付くと、やはり、不公平です!と私は一層にぷりぷりと頬を膨らまそうと頑張るのでした。

 その日、私はお姉様を独り占めにして、床に枕を並べると夜遅くまで色々とお話をしまして、翌昼。お姉様は帰られましたが、行き違いに郵便受けには私宛ての封書が届いておりました。

 お姉様を呼び止めようかと思いましたが、折角昨日から足かけ一日と激励を頂いたのです。この期に及んでお姉様に頼ることはできません。私は婦女ですが、それでも女々しいではありませんか。

 私は茶封筒を抱き締めると、靴を脱ぎ散らかしたまま二階の自室へと駆け込むと急いでドアを閉めました。あまりに階段を駆け上がり過ぎましたので胸が苦しくなりましたが、それもご愛敬なのです。

 机の椅子に腰掛け、封を開けて見ますとスミレの押し花が可愛らしい、素朴ですが品のある便箋が一枚だけ入ってありました。スミレの良い香り漂ってきそうな趣です。

 便箋には、簡素と待ち合わせの場所と日時が記載されてありました。少々物寂しさを覚えましたが、季節の御手紙でもなければご機嫌伺いでもございませんもの、文面に感情を込める必要はありません。まして、私は万屋さんの大切な婦女でもありませんから……

 けれど、私は一抹の寂しさを胸に「ふぅ」と息をつくと、便箋を三つ折りにして封筒に戻し、その手で机の引き出しの中へしまいました。どのような御手紙であれ、手書きにて頂いた御手紙を捨てるなど私にはどうしてもできません。

 御手紙は贈り物のようなものだと私は思っております。封筒を開ける時のわくわくとした高鳴る気持ちは、プレゼントの包装を開ける瞬間に似ているではありませんか。ですから、私も御手紙を書く時は、これを読む相手の気持ちも考えて筆を走らせるようにと、いつも気遣います。

 どうせ贈るのであれば贈り物を開けて喜んで欲しいですから!

私は季節のご挨拶の後、まず、ラケットの御礼を書きました。これは何をも差し置かねばなりません。それから、お誘いの詳細を承知の旨を書き。私は鼻の下に万年筆をはさんで、上唇で反芻する羊のように、もごもごと口もとを動かして悩みましたが最後に、この度のように殿方と二人きりにてお茶をご一緒することが初めてであり、粗相の際はご容赦の旨を結びの句としました。

 私も人間ですから、見栄の一つも張りたいものです。この年頃となってなお殿方とお茶さえもご一緒したことがないなど、笑われてしまうかもしれません。ですが、ないのですからどうしようもありません。

 張りぼての見栄など、軽薄な嘘と同じなのです。嘘とは誠に厄介なもので、一度嘘をついてしまいますと、それを取り繕うために新しい嘘をつかなければならなくなります。後はその繰り返し……同道巡りと嘘を嘘で塗り重ねて、行く行くは雪崩のように何もかも崩れさり、全てを失ってしまうのです。

 でしたら、余計な見栄などは張らずに無為自然と正直にあった方がなんと清々しいでしょう。もしも、そんな私を笑う人がいましたら老若男女問わず、私は胸を張って凛と訣別を申し上げることでしょう。

 

      ◇


 後悔先に立たず。私は便箋の残量に託けて簡素にして無情な文を送ってしまった。せめて結びの句に、お誘いを受けてくれたことへの感謝言葉一つでも書くべきだったのである。

 投函して後、激しく後悔の念のかられた私は、なんとかポストから奪還できないかと、腕を突っ込んでみたり、錠を蹴ってみたりしたのだが、やはり無駄であった。それよか、投函口へ無理矢理ねじ込んだ腕が抜けなくなって、一時はどうしたものかと焦りに焦った。

 後は野となれ山となれと、ぶっきらぼうに路傍の石に八つ当たりをして、その日はふて寝を決め込んだ。

 発作はその次の日にやって来た。空腹を紛らわすために昼間まで万年床に寝転んでいた私は、起きあがると、そろそろ手紙が届いてしまうのではないかと、いまさらどうしようも手段がないと言うのに酷く狼狽した。

 空腹も忘れ、四畳半の中を歩き回った挙げ句、机の前に正座し眼を閉じて黙想に耽り、きっと乙女は私からの手紙を読んで眉を顰め、ただの一度頷いてから返事などは毛ほども考えることもなく。右から左のゴミ箱へ捨ててしまうことだろう……

 彼女はそんな白状な乙女ではない。私の片隅がそう激情したが……全ての起因は私にあるのだ。

 私は混沌とするもどかしさを紛らわすために、内職に勤しむことにした。

 翌日、私は眠たい眼を擦りながら、内職に勤しんでいた。珍しく規則正しい生活をしていると自負しながら、日暮れと共に床についた私は、夜も明けきらぬ時分に目が覚め、以後眠れなくなってしまったのであった。全ては夢見騒がしにて。なんと、乙女からの返事が届いた夢を見てしまったのである。

 諦めようと思う一方、もしかしたらと微塵の期待を捨てきれないでいる自分の未練がそんな夢を見せたのだろう。

 未練がましい男など男子の風上にも置けぬ、私はもっと図太くなるべきなのである。

 納期をほど遠くに内職を終えてしまった私は、便所に向かうため部屋の外へ出ると茜色が廊下へ伸びていた。もうそのような時分かと、用を足した私は、込み上げる衝動を抑えきれずに項垂れながらも郵便受けへ階段を降りた。

 年中空の郵便受けには蜘蛛の巣でも張っているのではと、仕様もないことを考えつつ郵便受けを開けて見ると、なんと一通の封筒が入っているではないか。

 宛名さえも綺麗な文字である。私はつり上がろうとする口もとを冷静になれとわざわざ力を込めて無表情を取り繕うと、一度炊事場へ駆け向かい、石鹸にて手を三度洗い、自然乾燥にて手の湿気がなくなるまで待ち、満を持して封筒を郵便受けから取り出したのであった。

 部屋へ持ち帰ると、私は翻筋斗【もんどり】を打って、全身でこの奇跡を表現し、あるいは歓喜に狂った。

 その間、便箋で膨らんだ封書は机の上に安置し、どこかの原住民が喜びの宴で披露する舞の模造を私は額に汗して舞続けた。

 おかげで、机を前に正座して封筒の封を切ったのはすっかり宵の口を過ぎてからとなってしまった。

 宛名同様に便箋には麗しくも流れるような読みやすい文字が並んでおり、季節の挨拶にはじまり、ラケットの礼、そして待ち合わせの了承と続き、最後に、異性と茶の席を共にすることが初めてあり、粗相の際は容赦のほどをとうやうやしい結びの句にて手紙は終わっていたのである。

 私は今一度、文面を読み返すと、心のそこから申し訳ないと頭が自然と下がった、そして、『ありがとう』と感謝した。

 人は心から感謝をした時、本当に謝罪したいと思った時は自然と頭が下がるものなのである。

 私は再々度一度文面を読み返した。一つ一つに真心が込められた言の葉は私の荒んだ心を癒すようであった。この世には名声をなした文豪が数多くいる。だが、これほどまで私を感動させ心中に温もりをくれた文豪はまだいない。

 静寂に包まれた部屋の中で私は一人、言の葉を噛み締め、眼を閉じて涙を流した。手紙程度で涙など男子の名折れであろうと、罵られようとも私は一向にかまうまい。

 感慨に触れてこれほどのうれし涙を流したのは四半世紀近く生きてきて初めてなのだ。罵る者どもに私は言いたい、声を大に叫びたい。

 お前たちは手紙に心を震わしたことがあるか!と。

 影で流す涙は許されるのである。

 男子に涙は禁物と言うなれど、男とて人間なのである。涙も流せる、流せる以上は流す時が必ず来るのである。幼少の頃、母は言った。人を見送るとき、最後の別れのとき、嬉しいとき、感謝のとき、そのときは涙を流す姿とて恥ずかしむものではないと。時として涙を見せねばならぬ時もあるのだと……

 涙が感情表現なればこそ、悔し涙を除いては泣かねばならぬと。

 私は泣いた、母の教えに従って泣いた。声こそ出さなかったが、止め処なく流れ出る涙はとても心地よかった。この様な気持ちは幼少の頃以来ではなかろうか……

 手紙から万年筆を走らせる彼女の姿が連想出来た。やはり、乙女は紛うことなき真善美うち揃った美しく可憐な女性である。私の目に狂いはなかった、節穴でもなかった。

 古平は「あの女はやめといた方が良い……」と言った。まるで、汚らわしい女郎のごとくと蔑んだ物言いをした。そのかぎり古平、お前の眼は節穴なのだ。断言してくれる。

 文字と文章にはとにかく、その人間の知性や性格など内面がありありと現れる。ゆえに、手紙とは諸刃と厄介であるが、人柄を伝えるにはやはりこれが一番の方法なのではなかろうか。 

 そして私は、畳みの上にそのまま倒れ込むと、ゆっくりと眼を開けた。天井には埃を被った電球と、木目の粗い天井が見える。

 そのうち、私は大笑いを始めた、全てが愉快で仕方なくなったのである。どうして、こうも涙が止まらぬのか。どうして電球は明るいのか、天井の木目すら鹿の顔に見えて笑えるではないか。

 こういうのを至福と言うのかもしれない。


      ◇ 


 私の心は弾んでおりました。嬉し恥ずかしとはこういう心中のことを言うのかもしれません。

 思えば、万屋さんのお名前も聞いておりませんでした。なのにどうしてでしょうか。以前にお会いしたことがあるような、摩訶不思議な既視感があるのです。そう、あの三条通の一夜にすら出会っていたのではないかと思ってしまうくらいに……

 それはそうと、折角、殿方とお茶をするのですから、慎ましくも着飾るのが乙女の嗜みなのです。私はお洋服や小物を新調しましょうと、隣町にあるデパートへお買い物へ行きました。

 私のお洋服もそうですが、万屋さんへ贈るベルトも新調しないといけません。

 どちらが、本来ですかと問われますと、「どちらもです」と私は即答することでしょう。

私は明るい茶色の革ベルトを購入いたしました。万屋さんの趣向にあえばと思うのですが、端的にこの色合いが私の好みであっただけなのでした。次いで自身のお洋服を買いに行きました。何度も試着を繰り返したみたのですが、その度に善し悪しいかなるものでしょうと、私は私自身の味わいや思慮に自信が持てず結局、すでに家にあるようなスカートとブラウスを購入するに止まってしまいました。

 お姉様がいらっしゃれば、きっと、良い助言をしてくださったことでしょう。

 

      ◇


 満を持せないまま家に帰った私は部屋の箪笥からお洋服を全て引っ張り出すと、居間へ姿見を持ち出して、一人で着合わせをしました。私は赤色を好みをしておりますから、お洋服の趣向も大体が暖色でした。


「どうしましょう」 


 私は、はしたなくも下着姿のまま溜息をつきました。ソファーを見ても床を見ても、一目惚れをして購入したお洋服で埋め尽くされていると言うのに……どれを着てみても納得がいかないのです。

 どうしたものでしょうと悩んでおりますと、

「ドアの鍵はかけておかないと物騒よ」とお姉様がいらっしゃったのです。

 まあ。お姉様は下着姿の私を見て、そう呟いて悪戯な笑みを浮かべました。


「お恥ずかしいかぎりです」


 私は手近なお洋服でなんとか上半身を隠すと床の上に座り込みました。同じ婦女と言えどもやはり恥ずかしいものは恥ずかしいのです。

 私はとりあえず、寝間着を着込むと、お姉様にどのようなお洋服を着て行けばよろしいでしょうと、尋ねました。

 すると、

「乙女が輝く時にはね、全てが色褪せてしまいものなのよ。だから、あなたがどんなお洋服を着てみても、得心がいかないのは仕方がないと思うわ」


 手に携えた紙袋を床に置きながらお姉様は私の頭に手を置いてそう言いました。


「私は輝いているでしょうか」


「それはもう素敵に輝いているわ」 


 面と向かってそうおっしゃってくださるものですから、私は嬉しいやら照れくさいやらで、俯いてしまいました。


「素直で可愛らしい妹ですこと」


お姉様はそう続けると、紙袋からスカートを出して「私ならこれを着て行くわ」と私に差し出してくださいました。

 その新品のスカートは、腰回りは細く、それでいて膝下でも細くしぼられているスカートです。裾にはアコーディオンのようなひらひらが可愛らしくついており、私は一目見て

すっかり気に入ってしまいました。


「なんて素敵なスカートでしょう!是非これを私に貸して下さいまし」


 私はお姉様に迫ってお願いしたしました。


「あらあら、そう言うと思っていたわ」とお姉様は快くも笑みを含みながらそうおっしゃってくださいます。


 お許しを頂いたからには、さっそく試着をしなければなりません。私は姿見の前でスカートに足を通しました。すると、腰回りは大丈夫でしたが、お尻の辺りが少々きつく、生地がありありとお肌に触れてしまっていたのです。


「お姉様、少しきついみたいです」


「あら、そのスカートはそのようなものよ」


 残念そうに声を漏らした私にお姉様は、さも当然とそうおっしゃいました。


「そういうものなのですか」


 てっきり、私の粗忽で怠惰な日常が祟って無用なお肉が体についてしまったと思ったのですが、そういうものであるならいたしかたありません。  


「ええ、もうお尻の格好から下着の形までくっきり。さぞ、殿方はあなたのお尻にどきどきすることでしょう」


 私の後ろ姿を見ながらお姉様は嬉しそうでした。 


「そんな」


私は何とかして、後ろ姿を見てやろうと悪戦苦闘しましたが、どうしてもお尻を見ることができません。ですから、両手でお尻を触ってみました、すると、お姉様のおっしゃるとおり、小山を覆う下着の際がくっきりと触れるではありませんか、まるで三角州のようです。


「お姉様はこのような恥ずかしいスカートをお履きになるのですか」


「ここぞと言う殿方の前に出向くときわね」


片目を閉じてそうおっしゃるお姉様でした。私はその様を想像しただけで、羞恥心が先立って顔がみるみる火照ってゆくのがわかりました。

「恥ずかしいです」私にはお姉様のような大胆に女性にはなれそうにありません。


「それは違うわ。婦女たるもの自分を美しくかつ魅力的に見せる義務があるのよ。きっと殿方だって口には出さないけれど、それを望んでいるはずだもの」


 いつになく真剣な表情で助言を下さったお姉様ですが、どうしてでしょう。私には目元が笑っているように見えてなりませんでした。もちろん、真剣なお姉様には失礼ですから、そのようなことは口が裂けても言うことはできません。


「ズロースにします」


 そう言い残して、私は自室からズロースを取ってくると、それを履いて再度スカートを履いて見ました。すると、三角州は見事になくなりましたが、今度はごわごわとまるで下半身に綿を詰め込んでいるようでなんとも不格好なのです。こればかりは姿見を見ずともわかりました。

 どうやら、このスカートを履きこなすことはできないようです。私は未練のみを残して、デパートで購入しました深紅色のスカートと桃色のブラウスを着ることにしました。


「お姉様、私にはこのスカートを着こなすことはできません」


 どうしても、羞恥心と不格好が引き立ってしまうのです。でしたら、涙を呑んで諦めるしかありません。


「残念」お姉様は苦笑するに止まりました。


 ですが、私がお茶の準備をするために、台所へ向かっておりますと、居間ではお姉様がスカートを履くために苦戦をしておられるではありませんか。

 お姉様は私よりも安産形ですから、まことに申し訳ないのですが、お尻がスカートに収まるでしょうか、と少し興味を惹かれてしまいました。


「やっぱり小さすぎたみたい」


 ふぅ。と息をついたお姉様は小さく舌を出して見せます。


「それはお姉様のではないのですか?」


「いえね、可愛い妹が殿方とお茶に行くのだから、その恋路が成就しますようにと、私なりに考えて小さいスカートを買ってきたのだけれど」


「恋路だなんて」


「でも、顔にかいてあるもの」と莞爾として笑うお姉様はやはり嬉しそうでした。


「これは私のお気に入りよ」


 真心の籠もった柔らかい表情をこしらえたお姉様はそう言うと、紙袋から深紅のカチュウシャを取り出して、私の頭に飾ってくださいました。


「きっと、赤いスカートにすると思って持ってきたの。好みの色が一緒ですものね」


「はい、姉妹ですもの」


 私は赤い色が好きですからお姉様からのカチュウシャをお借りすることにしました。

 

      ◇


 黒髪の乙女との約束の前日、私は一張羅にして、一着だけのズボンを洗濯することにした。さすがに我が男汁にて酸味の行き届いた悪臭を放つ着物を着て乙女に相見えるなど、世間知らずも甚だしい。ゆえの洗濯であった。

 炊事場へ行った私は、流し台の上にパンツ一丁になって石鹸をこれでもかとなすりつけたズボンを時折、水をかけながら一心不乱に踏みつけた。

 昼餉の準備に現れた新妻がそんな私の色気ただよう姿を見て、鍋を落として走り去って行った。

 何を今更。毎日、夫の下着の洗濯に勤しむ婦女が、私の下着を見たところで珍しくも恥じらい一つ浮かべまい。

 もはや私に羞恥心などありはしないのである。洗濯を終え、窓の外に梯子にズボンを干して、その日は下着姿のまま一日を過ごした。

 次の日、ついに乙女との再会の日を迎えた私は、床屋へ行くこともせず、起床するなり、本棚の奥に隠しておいた油紙の包みを取り出した。大切に保管しておいたのはなんであろう桜の蕾である。

 あれほどぷっくりと、思わずつついてしまいそうになるほど膨らんでいたというのに、今ではすっかり皺枯れてしまい、なかには茶色く変色してしまっているものまであった。

 だが、これは来るべく日に備えて取り置いた媚薬であり、私の必勝の切り札なのである。これを使用して、誰彼かまわず私の虜にしてもそれはそれで良かったのだが、やはり、私の恋すべきは黒髪の乙女であり、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、崇高なる情欲の元に使うことをしなかった。 

 しかしながら、この水気の無い蕾をどう絞れば、精髄を取り出せるだろうか。私の全体重を持ってしても、汁一滴とて出てきそうにない。

 しばらく考えあぐねた結果、私は蕾を薬缶の中に入れ、それに水を張って火に掛けることにした。

 しからばやがて沸騰し、そのままぐらぐらと煮詰めたが、何のことはない。色も出なければ香りとて微塵もなかった。

 古平に喰わせる朝顔の種をどこから手に入れるか算段を始めつつ、薬缶を冷水に浸し、時間をかけて人肌まで温度をさげた。

 そして、朝の冷え込みなんのその、私は遊女とて舌を巻く脱ぎっぷりで流し台の上に仁王立つと、桜の蕾汁を頭からかけたのである。余すところなく行き渡らせるため、わざわざ時間をかけてゆっくりとかけた。

 途中、新妻がか細い悲鳴を上げて鍋を落として駆け去って行ったが、私には関係ない。あったとしても無関係なのである。

 夫よりも幾分華奢な体躯と言うだけである。夜ごと夫と情を交わす新妻たるが、いまさら私の可愛らしい尻を見たくらいで何を小動物的悲鳴をあげているのだ。

 真下で毎夜、睦言の終始を聞かされる私の身にもなってみろ!

 そうして私は、手拭いで全身を拭きながら四畳半へ戻ったのである。その途中不意に思った。

 乙女は今頃、支度途中だろうか……と……。

 

      ◇


 とうとう今日が来てしまいました。着て行くお洋服も用意しましたし、万屋さんに贈るベルトの包装も念入りに何度も確認いたしました。

 早朝から起き出した私は、とにかく何をするでもなくそわそわとしておりました。ついに今日がきてしまったのです。何度も申しますが私は殿方とお茶をご一緒するのは初めてなのです。それだけではありません、昨日、お姉様が「デートね」とおっしゃったものですから、私は拍車をかけて顔を紅くしてしまいました。デートだなんて、デートだなんて!

 ですから、昨日の夜は眼が冴えてしまってなかなか寝付くことができませんでした、お手洗いに行ってはお茶を飲む、を何度となく繰り返してようやく眠ることができたのです。ですのに、今朝は日の出と共に眼が覚めてしまいました。

 二度寝は本来ではありません。ですが、万屋さんの前で居眠りをしてしまうのは誠に無礼ですし、そもそも、本日は大學の講義もございますから、まして寝不足はよろしくありません。

 そう思って、お布団の中に顔を埋めてみましたが、私の眼はぱっちり開いて、到頭、眠るどころではありませんでした。

 朝食もそこそこに、珈琲豆から挽いて珈琲を淹れてみましたし、ソファーの上に正座して朝露に光る芝を見つめてみたりしました。

 私の心の中はふわふわしてしまって、どうしようもありません。気球ならば、砂袋を重しとできますが、私には重りがありません。ですから、正座して不意な風に飛ばされないようにと口もとを硬く結んでいたのです。

 はたしてこれはデートなのでしょうか?私はいつの間にか叩きを持って家のお掃除をしておりました。

 とにかく何かをしていないと落ち着かないのでした。部屋のお掃除を済ませ、手持ち無沙汰と次は何をしましょうと部屋の中を見回して見ました。すると、お庭に生えた雑草が目に止まったのです。

 お庭の手入れに勤しめば暇を持て余すことはなくなしますが、さすがに朝っぱらから土にまみれては、大學へ行く前に銭湯へ行かねばなりませんから、それは遠慮しておきました。

 そんなこんなで、時間を潰しておりますと、そろそろ出掛けなければならない時刻が近づいてまいりましたので、待ってましたと自室へ向かい、桃色のブラウスと深紅のスカートにもちろんお姉様からお借りしましたカチュウシャも頭に添えて、昨日抱えて上がった姿見の前で入念に身だしなみを整え、深呼吸をしてから居間へ下りました。

 今頃になって気が付いたのですが、お恥ずかしながら、私はわくわくして仕方がなかったのです。

 居間のテーブルの上に用意しておいた、余所行きの鞄にベルトの入った箱を携えると私は、いざ行きましょう!と廊下をスキップをしながら玄関へ向かいました。すると、ドアが開いたのです。


「よかった。間にあったのね」


 お姉様でした。


「こんな早くにどうかされたのですか?」


「何を言ってるの、殿方とお茶に出かけるのに口紅の一つもささない乙女がどこにいますか」


 お姉様はそう言うと私の背中を押して、強引に居間へ引き返すではありませんか。


「お姉様、大學に遅れてしまいます」


「外に車を待たせてあるから大丈夫よ」


 私は、台所の椅子に腰を降ろすと、縮緬の巾着袋から化粧品を取り出すお姉様を見ておりました。

 お姉様は、腕を組んでじっと私の顔を見つめますので「そんなに見つめられると照れてしまいます」と私が言いますと「こんなにお化粧のしにくい顔は初めてだわ」と息を吐かれたのです。


「そうなのですか」


 お化粧をしたことがあると言えば、女学校の時分に近くの神社にて三が日に巫女のお手伝いをした時だけです。


「肌は白いし、目元もぱっちり、小さいくせに桜の蕾のようにぷっくりとした唇は本当に羨ましいわ。これだけうち揃ってしまうと、お化粧する隙がありません!」


 お姉様は意地悪そうに、眼を半分閉じてそうおっしゃいましたが、心ばかり褒め言葉に聞こえたのは私の勘違いでしょうか。


「でも、口紅くらいはささないとね」


「はい」 


 私はお姉様に、控えめな赤の口紅を小さな唇にのせて、お姉様と一緒に車で大學へ向かったのでした。


      ◇


 見慣れた今日だが、なんだか漂白されたように白っぽい陽射しがやけに清々しく感じた。

 しかし、私の足取りは重かった。鉛をたらふく飲んだように胃の辺りがやけに重い。彼女が来なかったら場合のことを考えれば気が重くなり杞憂と今日にかぎって空が落ちてきやすまいかと一抹の不安を思った。

 彼女が来た場合のことを考えるとなおさら気が重くなり、少しは気が紛れるだろうかと不要な回り道もした。

 この期に及んで腑抜けたことを言うようだが、私にはどう対処すればよいのか分からなかった。世の男女が二人きりで会う時、彼らは何を喋っているのであろう。

 まさかずっと睨み合っているわけにはいくまい。かといって、人生や愛について白熱の議論を繰り広げるわけでもあるまい。彼女は博学才女であろう。相対性理論について議論を求められたならどうしたものだろうか。ひょっとすると、私には手に負えない繊細微妙な駆け引きがあるのではないか。小粋なジョークで笑わせる一方。たんなるお喋り男に堕さず、毅然たる態度で彼女を悩殺する……そんな不可解事ではなかろうか。

 私は明朗愉快で機転の利く男ではないのだ。このままではたわいもないことを話し、延々と珈琲を飲むだけになりかねない。そんなことをして楽しいか。私は彼女を眺めているだけで楽しいにしても、彼女はそれで楽しいのか。彼女の貴重な人生の時間を悪鬼のように食いつぶしては申し訳ない、じつに申し訳ない。そもそも、私は彼女の姿を前にして銅像以外でいられるのだろうか……

 女々しくも大人しく桜の大樹の陰から眺めていた方が、気楽で楽しかったかもしれない。ああ、困ったことになった。桜の幹から顔を覗かせて彼女を見ていた頃が懐かしい。あの栄光の日々に戻りたい。

 私は深く溜息をついて頭を垂れた。


 彼女は……彼女は今頃、講義の真っ最中だろうか。



      ◇


 私の本分は學生ですから、講義は真剣にかつ真面目に受けなければなりません。でしたが、今日ばかりは、ご講義くださる教授先生の言葉はまるで上の空。わくわくとしていた心持ちも、いつしかどきどきと鼓動は高鳴ってまいります。

 果たして何をお話しましょう……そればかり考えてしまうのです……

 講義の終わりが近づいた頃、そうです!と三条通での摩訶不思議な一夜についてお話ししましょうと思いつきました。

 そんな頃合いで、ご学友の小春日さんが「今日は随分と粧し込んでらっしゃいますのね」と、耳元に声をかけてくださったので私は「はい、本日は殿方とお茶をご一緒するものですから」と小春日さんの耳元で返事をしました。

 すると小春日さんは「まあ、素敵なことですわね」と名にたがわぬ温かい微笑みを下さいました。小春日さんはとても淑女です。私など、嫉妬か悔し涙とベルトを投げ出して「足元に蛇がいます」と脅かしてしまったというのに。

 お恥ずかしいかぎりですと、視線を足元にやっていると、やがて講義の終わりを告げる鐘が鳴りました。


      ◇


 手打ちの鐘が鳴り、學生が電灯に吸い寄せられる蛾の大群のように食堂へ押し寄せていった。私はテニス場越しに、講堂の出入り口を固唾を飲んで凝視していた。そうなのだ、私はいつもこうして彼女の姿を眺めていたである。

 彼女は桃色のブラウスに深紅のスカート、頭にはスカートと同色の髪留めをしていた。 控えめな紅は彼女の黒髪によく映えている。彼女は波間に翻弄される花弁のように人並みに困っていた。彼女の周りには何名かの乙女が歩いていたが、彼女が全てに勝って輝いていたのである。

 彼女はまっすぐこちらへ向かって歩いて来る。

 来るべくして時は来た。時は熟せり。たとえ私の気持ちの準備ができていなくとも。熟してしまったのだ。

 後数分の間合いで、私は彼女と挨拶を交わすことだろう。未だ自信などは微塵も湧いてこない。早朝より切り札である桜蕾の媚薬汁を全身に浴び、洗濯したズボンを履いて、誠の一張羅である黒マントを羽織り、これ以上ないくらい誠実と身だしなみに気を使った。足らずと言うなれば、散髪に行けなかったことだろうか……いや、銭湯に行かなかったことだろうか…… 

 私は桜の幹に手をあて、今一度深く溜息をついた。頭垂れた視線の先には腐った枝の残骸があった。私はその残骸を徐に拾い上げると、「よく腐っていてくれた、感謝する」と呟いて、再び根本へ落とすように放り投げた。

 そして、私は桜の樹を見上げ、呟いたのである「縁は異なもの味なもの」と……やがて彼女の姿が近くなると、私はやはり銅像のようになってしまった。

 至極ぎこちなくも私は精一杯の笑顔でお辞儀をした。

 すると彼女も慎ましい笑顔でお辞儀をしたのである。


「筒串 勝太郎です」


「鴻池 咲恵と申します」


 私と彼女はそう言って再びお辞儀をしあったのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る