Holy Sky~独立の前の物語~
「……お、雪だ」
濃い灰色の雲に包まれた夜空を見上げながら、俺の隣にいた兄が言った。
「初雪ってヤツか」
俺が呟くと、わざとらしく兄が大きな溜息を吐く。
「記念すべき初雪を一緒に見る相手が、よりによってお前とはな」
「そりゃこっちのセリフだよ」
イラッとした俺は、思いっきり悪態をついた。
「よりによってこんな日に、お前なんかと並んで初雪を見なきゃいけないなんて」
暦は十二月二十五日、つまりイエス・キリストの生まれた日――クリスマスを指している。
クリスマスの初雪といえば、ロマンチックなものだ。それこそカップルが仲良く寄り添いながら、綺麗だのなんだのと雰囲気に似合う話をするのが本来の過ごし方だろう。
それなのに……何故血の繋がった兄弟同士、しかも男同士で、並んで歩きながら眺めなければならないというのか。
せめて、あの人がいてくれれば――……。
一瞬、そんな考えが脳裏を過ぎったが、すぐに馬鹿馬鹿しいとかぶりを振る。
あの人はもう、戻ってこない。今年の春――ちょうどこんな風に雪が降る中を、あの人は一人で歩いて行ってしまった。
俺と兄を置いて、たった一人で遠くへ行ってしまった。
それ以来あの人には、一度も会っていない。
二度と会えないわけではないが、何となくもう会ってはいけないような気がして、会いに行く決心がつかないのだ。
兄は、あの人に会ったのだろうか……?
そんな俺の考えを見透かしたように、兄は独り言のように口を開いた。
「この間、妃芽に会ったよ」
今まさに考えていた、あの人の――妃芽さんの名前が出たことに、少しばかりどきりとした。
うつむきながらも平常心を装い、少々ぶっきらぼうに返事をする。
「それで?」
ふっ、と兄が笑った気配がした。俺にはない大人の余裕を見せつけられているようで、全てを見透かされているようで、何となく悔しい気持ちになってしまう。
雪が強くなってくるのにも構わず、俺たちは人気のない道を、傘も差さずに歩き続けていた。その間にも、兄は淡々と話し続ける。
「久し振りに、色々話した。互いの近況とか、昔話とか……そう、蓮二。お前の話もしたよ」
「俺の?」
思わず顔を上げて、兄を見る。
吹き荒ぶ雪の中、兄はこちらを見上げながら、優しく笑っていた。いつもの意地悪めいた笑みじゃない、純粋に優しい笑み。まるで、俺のことを思いやっているかのようにも見えた。
「蓮二も来年には、この街を離れる……そう話したら、『あの子も、一人で歩いていくのね』って呟いて、少し寂しそうに笑っていた」
――蓮くん。君も、一人で歩いていく決心をしたのね……。
耳元で、妃芽さんの艶やかな声が聞こえた様な気がした。色っぽい笑みを浮かべながら、色素の薄いポニーテールをさらりと揺らし、こちらへと駆け寄ってくる姿が目に浮かぶ。
俺も、この街を離れる決心をした。医学を学ぶために、都心の名門大学へ進むことにしたのだ。
たった一人の家族である兄を残していくことになるのは心苦しいけれど、何となくそうしなければならないような気がした。いつまでも兄の傍にいては、兄に甘えていては、自分が成長できないような気がして。
一人っきりで歩いて行った妃芽さんに、一生かかっても追いつけないような気がして。
兄は反対しなかった。むしろ『これからは、気楽な一人暮らしが始まるなぁ』なんて言いながら、朗らかに笑っていたぐらいだ。
もちろん本音でないことぐらい、俺はとっくに見通していたけれど。
歩みを進めていた足を、俺は何の前触れもなく止めた。兄もつられたように、足を止める。
「どうした?」
兄が不審そうに尋ねてくるのにも構わず、俺は足を止めたままうつむいていた。
「……若人は、前を向いて進んでいくべきだ。いつまでも依存していてはいけない。妃芽だってそう思ったから、俺たちの前から消えたんだろう?」
黙ったままの俺の気持ちを察したのか、兄が諭すように言った。
「お前も社会の荒波に呑まれて来い。そして、一回り大きくなった姿を、俺と妃芽に見せてくれよ。そうしたら……また三人で、新しい時を刻める日が来るはずだ」
俺よりも華奢な、男にしては細い手が、ふわりと俺の髪に触れた。自分よりも高い位置にある頭を、数回掠めるように撫でていく。その拍子に、俺の頭についていたらしい雪の欠片が、はらりはらりと落ちていった。
「……ったく、図体だけはこんなにでかくなりやがって」
昔を懐かしむかのように、兄が呟く。
「兄貴が縮んだんだろ」
「うっせ」
俺が言い返すのに、ははっ、と兄が笑う。俺もつられて笑った。
――と、そこで油断していたのが悪かった。
笑っているうちに兄の手つきはだんだん乱暴になっていき、いつの間にか無遠慮にわしゃわしゃと俺の頭を撫でる……というより、俺の頭をぐしゃぐしゃに掻き回す状態になっていた。
「ちょ、もうやめろよ」
「仕方ねぇだろ、どんだけ雪を払ってやってもすぐに積もってくるんだから」
拗ねたように答える兄の黒髪だって、次々と降り積もる雪でもうすっかり白くなっている。仕返しとばかりに、自分よりも少し下に位置する白い頭をぐしゃぐしゃに掻き回してやった。
「ちょっ、何すんだよ!」
「仕返しだ、ばーか」
さ、雪もひどくなってきたし帰るぞ。
無造作に乱れた髪を整えながら、早足で家路へと急ぐ。兄も同じようにぼさぼさになった黒髪を整えながら、小走りになってついてきた。
男同士――兄弟で見る、初雪。
これが、最初で最後の経験になるかもしれない……そう思うと、らしくもないけれど、どこか感慨深い気持ちになる。
こういうのも、たまには悪くないのかな。
そんな考えを抱きながら、俺は兄が追い付きやすいように僅かに歩みを緩め、未だ雪が降り続ける真っ黒な空を仰いだ。
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