Another Story
1.Freedom Sky~自由な空~
――今日も、彼女は来ていない。
教室へ入るなり、わたしは毎日その事実に気づいては落胆する。
窓際の一番前の席は、埋まっているところをほとんど見たことがない。毎日、毎時間、いつもその席だけはぽつんと空いていた。座る人間のいない無機質な机と椅子のセットは、時に哀愁さえ漂わせているようにも見える。
周りの時間が忙しなく流れていく中、そこだけがまるで時間に置き去りにでもされているかのように、視覚的にも、聴覚的にも、ただただ静かだった。
その異様な光景を今更不思議に思う者など、もうこの場所にはいない。彼らにとっては、それがごく当たり前のことであり、日常なのだ。
けれど、わたしは――……わたしだけはどうしても、いつまで経ってもその『日常』を受け容れることが出来ずにいた。
「先生っ!!」
「どうしたんだ
放課後、職員室に怒鳴り込むようにして入ってきたわたしを、担任の
わたしは椅子にゆったりと腰かけた白衣姿の方へ一歩近づくと、思いっきり声を張り上げた。
「貴方は、この状況を一体いつまで放っておくおつもりなんですか!!」
「……状況?」
椅子に座ったまま背中をのけぞらせ、白衣姿の大人こと優月先生はオウム返しのごとくわたしの言葉を繰り返した。わたしが何を言いたいのか、まるで理解していないらしい。
業を煮やし、わたしは勢いそのままのトーンで叫んだ。
「
「ま、まぁ落ちつけ香坂」
ずいずいと距離を詰めていくわたしから逃れようとするかのように、優月先生はそっとその手をわたしの両肩に置く。そのままわたしの肩をポンポン、と軽く叩きながら、優月先生は困ったような笑みを浮かべた。
「お前らはまだ中学生だ。あれこれ躍起になることもないだろ。義務教育ってものは目立った問題さえ起こさなきゃ案外どうにかなるもんだし、何よりうちは中高一貫じゃないか」
何もしていなくたって、一応は進学できる。そうだろう?
教師のくせに世の中を甘く見たような物言いに、わたしは更にカチンときた。自分でもヒステリックだと思うほどの声で、引き続き叫ぶ。
「これを問題だと言わずして、何と呼ぶというのですかっ!!」
「そうカリカリすんじゃねぇよ、香坂……」
心底呆れた様子で、面倒臭そうに優月先生は溜息を吐いた。溜息を吐きたいのはこっちだ。この人ときたら、まるで何も分かっていない。こんな人が教師など――ましてやクラス担任など、務めていてもいいのだろうか。
更に、こんな教師が男女問わず人気を集めているという事実も、わたしを落胆させる要因の一つだ。まったく、前々から思っていたけれど、やっぱりこの学校はどうかしている。
「……もう、いいです」
一瞬でもこの教師に頼ろうと思った、わたしが馬鹿だった。
「――どこに行く?」
背を向けたわたしに、優月先生が不意に声のトーンを落として問いかけてくる。わたしは振り向かぬまま、淡々と答えた。
「わたしが自分の力で、朝倉李桜を連れ戻します。授業に出るように、真面目に取り組むように、このわたしがクラス委員長として、彼女を説得してみせます」
「……ふぅん?」
愉悦を含んだ声が届く。馬鹿にしたようにも受け取れるその態度がますます癇に障り、わたしは思わず勢いよく振り向いた。
しかし意外なことに、優月先生は見守るような優しい目線をわたしに向けていた。そこにわたしを見下した、ましてや馬鹿にした雰囲気など、微塵も感じられない。
手招きをされたのでもう一度彼に近づくと、手に何かひんやりとした鉄製のものを握らされる。手を開いて見てみると、それは少し錆びついた、鍵の形をした鉄の塊だった。
「李桜は、屋上にいるはずだから。それ持って、ちゃっちゃと行って来い」
そう言って、彼は励ますようにわたしの背中を軽く叩いた。
「せっかくの機会だ。……仲良くしてやってくれ」
最後に小さく、懇願するかのような響きで発されたその言葉の意味は分からなかったけれど、とにもかくにも朝倉李桜に近づくための手掛かりとチャンスをくれたことに、心の中で感謝した。
優月先生にお礼を言って、わたしは職員室を出た。その足で屋上へと繋がる階段を目指し、早足で進んでいく。
彼女に会うまで、あともう少し――……。
◆◆◆
キィッ、という耳障りな音を立て、わたしは重い鉄製のドアを開けた。
視界いっぱいに、青空が広がった。澄んだ空気とともに、当たり前に存在するそれは、時折わたしたち人間を飲み込んでしまうのではないかと思うほどに大きく広く、それでいてとても身近な場所に感じられる。
だからだろうか。
わたしは昔から、青空に対して言い知れぬ恐怖のようなもの――それは畏怖、と言った方が本当は正しいのかもしれないが――を感じることがあった。何と言うか、直視することができないのだ。
じっと見ていると、吸い込まれてしまいそうで。
一生懸命保ち続けている自分の形を、一気に奪われるような気がして。
だから今日もわたしは、晴れ渡る空を数秒だけ申し訳程度に眺め……不自然とも取れる動作で、すっと目を逸らした。
その時、空からいきなり声が降ってきた。
「空を眺めるのが、そんなに怖いかな? 可愛い仔猫ちゃん」
ねっとりと鼓膜に絡みつく甘い声に、全身の皮膚が泡立った。外は暖かいはずなのに、何故か後ろめたいような気分になって、ぞくりと急激な寒気を感じる。
一瞬、空が語りかけてきたのかと思った。
数秒間わたしの目を見ただけで、全てを見透かした。空が、快晴の澄んだ青い空が、わたしを――……。
そう、反射的な恐怖に身を竦ませた時。
クスクス、と声が笑った。ハッと我に返り、声のする方へと顔を向ける。わたしの目は、まるで救いを求めるかのように、人の姿を忙しなく探し求めていた。
「こっちだよ」
もう一度発された声を手掛かりに、頭上へと視線を彷徨わせ続けていると、十秒ほど経ったところでようやく声の主を――彼女を見つけた。
屋上に設置された、使い道のよく分からない物置のような小さな建物。コンクリートでできた平坦な屋根に、彼女はくつろぐように足を投げ出して座っていた。
肩までかかる茶色い髪は、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。少し長めの前髪から覗く大きな丸い目が、原っぱで日向ぼっこをする気ままな野良猫を思わせた。
着崩された制服の短いスカートから、健康的な白い太ももがちらりと見える。片膝を立てているので、角度によっては中身が見えてしまうかもしれないというのに、彼女に気にした様子はない。
猫みたいな目がわたしを捉えると、親しげに細まった。リップクリームでも塗っているのか、やたらと艶やかなピンク色の唇が愉快そうに弧を描く。
「やぁ、よく来たね。ようこそ、仔猫ちゃん」
彼女――朝倉李桜はそう言って、こちらへヒラリと手を振ってみせた。
――まぁ、こっちにおいでよ。
悠々とコンクリート製の屋根の上に座ったまま彼女がこともなげに言うので、わたしは日頃あまり使わない体力を、物置の屋根までよじ上るという何とも稀有かつ奇妙なことに使用する羽目になった。
物置は二メートルから三メートルほどの高さで、梯子のような足をかける出っ張りがいくつかついていた。恐らく彼女はいつも、そこを使っているのだろう。身軽にひょいひょいと上っていく様子が、容易く目に浮かぶ。
仕方なくわたしも同じように、その出っ張りに足をかけて上った。
けれどもともと体力がそんなにないわたしには、イメージと同じように容易く上っていけるはずもなく……何度も足を踏み外しそうになったりしながらも、たどたどしく、時間をかけて上っていく。
そんなわたしを、李桜はやっぱり面白そうに目を細めながら、ただ黙って見守っていた。
そうして――……。
「よい、しょ……っと」
ようやく上りきると、どっと疲れが押し寄せてくる。座っている李桜の隣に座り込み、深く息をついたわたしをまるで讃えるかのごとく、彼女は両手を小気味よく軽やかに打ち鳴らした。
「お疲れ様。よく頑張ったじゃないか、仔猫ちゃん」
屈託なく笑う彼女に、わたしは抗議の目線を向けた。
何故授業をサボってこんなところにいるのかとか、成績は大丈夫なのかとか、こんなことではクラスの信用にかかわるのでやめてもらいたいとか、言いたいことは山ほどある。だけどまず、取り急ぎわたしが不満に思うのは……。
「その『仔猫ちゃん』って呼び方、何?」
白くほっそりとした手を上品に口に当てると、彼女はまるで可笑しくてたまらないというように、クスクスと笑った。
「だって……あなたって本当に、仔猫みたいなんだもの」
「わたしは仔猫なんかじゃないっ」
ムッとして言い返す。仔猫みたいだ、なんてこれまで生きてきた中で一度も言われたことなどなかったし、言われたいと思ったことすらなかった。
私が目指しているのは、奔放でわがままな猫なんかじゃない。わたしは、発展途上の仔猫なんかじゃない。
もっと崇高で、万能で、凛とした……。
私の考えを嘲笑うかのごとく、彼女は再び笑った。
「どれだけ否定したって変わらないよ。あなたは所詮、無力な仔猫でしかない。進むべき道を見失い、行く当てをなくして路頭に迷ったままで……自分じゃ何もできない。そんな、弱くて小さな」
「わたしは、道を見失ってなんかいない!!」
彼女の言葉の続きを遮り、気づけばわたしはほとんど狂ったように叫んでいた。
「わたしは、あなたとは違うのっ!!」
そう。わたしは、自由気ままに生きるあなたなんかとは違う。
私はずっと、周りに期待されながら生きてきた。周りが望んでいるように、周りから望まれたままの、必要とされた『わたし』として生きてきた。
成績はトップを維持し続け、委員会など人の前に立つことは率先して何でも引き受けた。
進路だって……ここは中高一貫校だから高校をわざわざ選び直す必要もないけれど、受けたい大学は既に決まっているし、なりたい職業だってもういくらか見当をつけている。
わたしは、テンプレート通りの優等生。
その道に誤りもなければ、迷いもない。
わたしはただ、周りに望まれるままに生きる。周りに尽くしながら、生きる。
だってそれこそが、わたしの唯一の生き甲斐なのだから……。
「わたしは既に進路も決まっているし、将来も見えてる。その日暮らしで自由気ままに生きてる猫なんかとは……あなたなんかとは、違うのよ」
「その道は、あなたが自分で定めたものかい?」
淡々とした声。これまでの人を小馬鹿にしたようなものとは違う。その酷くひんやりとした問いかけに、わたしは言葉を詰まらせた。
自分で、道を定める?
彼女の言葉の意味が、よく分からなかった。
わたしにとって進む道とは、『自分で定めた』ものじゃない。『最初から定められている』、『進むべき』道に決まっているのだ。
「……愚問だわ」
息が詰まるのを無理矢理に吐き出すように、苦し紛れにそう答えた。
「わたしの道は、もう決まっているの。今更、自分で決めるなんて」
「だからいつまでも弱いままなんだよ、仔猫ちゃん」
甘くねっとりとした、それでいてきっぱりとした、氷みたいに冷たくて固い声が、私の言葉を止めた。
「あなたが本当に心から望んでいるというのならば、止めない。だけどとても、私にはそうは見えないんだ。たまには理屈とかに縛られないで、自分で考えて行動してみるのも、大切なことなんじゃないかと思うよ」
よく、考えてごらん?
私は返事をしなかった。永遠とも感じられる濃密な沈黙が、わたしたちを満たす。
それを破ったのは、やっぱり彼女だった。
「たまには、空をじっくり見てみるのも悪くないよ。空は、思考を広げてくれる。今まで霞んで見えなかったものも、徐々にはっきりと見えてくるかもしれない」
彼女の視線は、空へと固定されていた。茶色い双眼に、青い空と白い雲のシルエットがくっきりと、鮮やかに映っている。
わたしの方を見ないまま、彼女は続けた。
「気紛れにでも空を見たくなったら、この場所においで。私は、いつでも歓迎するよ。ねぇ――香坂
それまでずっと『仔猫ちゃん』か『あなた』としか呼ばなかった彼女が急にそう呼んできたことに、わたしは少なからずドキッとした。
「……名前、知ってるんじゃない」
知らないから、てっきり誤魔化しているのかと思った。
動揺を悟られないように、感情を込めずそうポツリと零すと、彼女は声を上げて笑った。
「物覚えは、悪い方じゃないからね」
一応、クラスメイト全員の名前も言えるんだよ。
彼女は空から目を離し、悪戯っぽい眼差しをわたしに向ける。そして、屈託なく笑った。
わたしもつられて頬を緩める。
彼女の言うとおり、たまには空を見るのも悪くないかな……と。それまでのわたしならきっとありえなかっただろうことを、ほんの少しだけ思い始めていた。
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