Aqua Sky~誰も知らない物語~
――ずいぶん、遠いところへ来てしまった。
一番最初にこの地へ降り立った日、私は真っ先にそう思った。
◆◆◆
「あら、いい天気ね」
ある日の早朝、私はアパートのベランダから空を見上げていた。
肌寒いとはいえ、この地には殆ど雪が降らない。前に住んでいたあの場所では、いっそ迷惑といっていいほど毎日降っていたものだが……。
不思議なもので、少し距離が離れただけでもそれぞれを取り巻く環境はずいぶんと違う。このように遠い場所だったら尚更だ。同じ日本にいるはずなのに、まるで遠い異国に来たような気分になる。
一人暮らしにもだいぶ慣れたけれど、それでも時々故郷に帰りたいと思うこともある。周りは知り合って間もないような人たちばかりだから、私の本心を曝け出せる人なんてまだいないし、きっとこの先現れることもなさそうだ。そのことがとても寂しいと感じてしまう。
私はあくまでここに、勉強をしに来ているのだ。私は成長しなければならないのだから、誰かに凭れかかることは決して許されない。
そう割り切って――というより、自分に言い聞かせるようにして――普段は生活しているのだけれど。
ベランダから見える冬晴れの空は、何故だかいつもより美しく思えた。澄んだ色の空は、森の奥の湖を連想させる。空気は湖の水を両手で掬い上げた時のように冷たく、心地よい。
こんな日には何となく、想いを馳せたくなる。
とうの昔に決別したはずの過去――ちょっと変わった兄弟と過ごした、楽しかったあの日々に。
◆◆◆
そう、あれは三年前の春のこと。
私が通っていた学校は中高一貫校で、通常は中学から高校へ持ちあがりで入学する生徒が多いのだが、私は外部の中学校からその高校へと入学した。
新しいクラスはもちろん中学からの持ち上がり組がほとんどで、互いに顔見知りが多かったからか、あまり新鮮味や緊張感は感じられなかった。高校から入った私はいわば転校生のようなもので、疎外感があって当然のはずだったのに、このアットホームともいうべき雰囲気は何故か私をホッとさせた。
そんな適度に騒がしい教室に入ってきたのは、白衣をなびかせた男性教師だった。
「今日からお前らの担任を受け持つことになった、優月
彼は教壇に立つや否や、だるそうな態度でそう言った。さらさらした黒髪と整った容姿を備えていたため、周りの女子たちが嬌声を上げていた……ような気がする。
正直、最初の頃の記憶は曖昧だ。昔から教師なんて――大人なんて信用する気はさらさらなかったから。
ただほんの一瞬だけ、興味を持ったことだけは覚えている。教師にしてはやる気がなさそうな独特のオーラが、今まで出会ってきた正論を振りかざすような大人とはどこか一線を画しているような気がして。
――この人になら、何を話しても大丈夫なのかもしれない。
一瞬だけそんな考えが頭をよぎったけれど、馬鹿馬鹿しいとかぶりを振って、すぐになかったことにした。
それ以来、彼に対する期待にも似た感情は消え失せた。
考えないようにしていた、といった方が正しいのかもしれない。今までの人間たちとは違うといっても、所詮は教師で大人だ。簡単に信用できるものではない。
それでもやっぱり、興味はあったのだろう。
気付けば私は自然と、自分から彼に近づき、色々と話を持ちかけていた。けれど、本音を話すことは一度もなかった。
私が優月先生に初めて本音を話したのは、ある日の放課後、美術室で絵を描いていたとき。途中まで私はいつも通り、余裕な笑みを浮かべて対峙していた――つもりだった。
その余裕が崩れたのは、彼に描いていた絵を見られ、尋ねられたから。
彼は、まるで全てを見透かしているかのように鋭い瞳を私に向けていた。いつだってやる気がなくて、何も考えていない楽天家の教師だと思っていたのに……。
空を見ることと同じくらい、私は絵を描くのが好きだった。絵を描いている時が、一番幸せだと……そう言っても過言ではなかった。
その時も絵を描きながら、一人で幸せを感じていた――そうしたらいきなり彼が現れ、「絵が好きなのか」なんて核心めいたことを尋ねてきたものだから、私は油断してつい本音を話してしまったのだ。
優月先生は笑わないで私の話をちゃんと聞いてくれたし、私の絵が見たいとも言ってくれた。
やっぱりこの人なら、信用してもいいかもしれない……。
あの日打ち消した期待にも似た感情が、再び浮かび上がってきた瞬間だった。
――優月蓮二に出会ったのは、ちょうどそんな時だった。
ある日の放課後、教室で夕日を見つめていると、いつの間にか廊下で私の方を見ながらぼうっとしている男の子がいた。
彼は優月先生より大柄な体格だったけれど、その繊細な容姿は優月先生によく似ていた。正直言って、最初に彼に興味を持ったのはそういうきっかけからかもしれない。私は自分の中に湧き起っている感情を少しも悟られないように笑顔を作り、彼を自分のもとへと呼び寄せた。
優月という苗字を聞いた時、やっぱりこの子がそうだったのか……と思った。
『今度さ、俺の弟が入ってくるんだ。中学までは一応違う校舎だったから会うことなんてほとんどなかったのに、これからは家だけでなく学校でもしょっちゅう顔を合わせることになるのかよ……ったく、何の因果だ』
入学式の少し前、優月先生が顔をしかめて愚痴っていたのを思い出す。
実はそれまでにも、優月先生から『弟がここの中学校舎にいる』という話は聞いていた。だけど容姿がよく似ていたから、言われていなくともすぐにわかったと思う。
優月蓮二――蓮くんは、どうもお兄さんと違って素直で可愛らしい、それでいて不器用な子のようだった。私が傍についてあげなくちゃ……と、まるで母親みたいなことを思ってしまう。
だから、私は唖然とする蓮くんに言ったのだ。
「私が、教育してあげる」
それが、私たち三人が繋がった瞬間だった。
そうやって出会った対照的な二人は、いつしか私にとってかけがえのない人たちになっていた。最初に出会った頃には、きっと思わなかったであろうこと。誰かと心を繋げることのできる日が来るなんて……あの頃は、微塵も考えていなかった。
私の高校三年間はきっと、優月兄弟なくしては語れない。それだけは確実に、断言できる。私はずっと優月先生に依存し、蓮くんに依存され続けた。
――だからこそ、離れるのは辛かった。
いっそこのままずっと、ずるずると三人で変わらない穏やかな日々を過ごしていたかった。生温くて心地のいいお湯の中に、三人でずっと浸かり続けていたかった。
だけど……いつまでもそうじゃいけないのだと、心のどこかで感じていた。
誰かに依存しながら生きていくのは、弱い人間のすること。私はそんな人間になんてなりたくなかったし、蓮くんにも……もちろん優月先生にも、そうなって欲しくなどなかった。
だから、離れなくてはいけないと思った。
私自身優月先生のもとから卒業し、蓮くんを解放してあげなくてはいけない、と思った。
――卒業式の日、枯れ木の下で優月先生に囁かれた言葉。
『元気で、頑張るんだぞ。
教師から生徒への、ひどくありふれた言葉。
だけどそれは、私を解放するという優月先生からのメッセージであり、私が優月先生から卒業するための合図だった。
『はい、ありがとうございます』
私はそう返した。
敬語は、もう貴方の支えは必要ありません、という意思表示だった。
そして私はあの日、同時に蓮くんを解放してあげた。
強く抱きしめられた時、『傍にいればいい』と耳元で囁かれた時……正直心が揺らいでしまった。
どうしてわざわざ、離れる必要があるの? いっそこのままもう、ずっと二人の傍にいればいいじゃないか……。
だけどそんな邪心を抑え込んで、私は彼の腕を解いた。そして別れの言葉とともに精一杯笑い、私は一人であの学校から――優月兄弟の前から、立ち去った。
家に帰るまでに少し泣いてしまったのは秘密だ。
◆◆◆
気が付くと、もう大学へ行かなければいけない時間になっていた。少し焦って用意を整えながら、時間の経過は無常なのだな、と思い知る。
外に出た私はもう一度、空を見上げた。
相変わらず清水のごとく澄んだ美しい空は、淋しさで満たされた私の心を全て見透かしているかのようだった。
――あぁ、空だけはいつだって、私のことを分かってくれる。
そう思うと何となく浮上した気持ちになって、鼻歌を歌いながら大学へと出かけていく。
彼らは私の、大切な人たち。どれだけ離れても、どれだけ時が経っても、それだけは私にとってたった一つの真実であり、ずっと変わらないこと。
……なんて、そんなこと誰も知らないし、知らなくていい。
まぁ、もともと初めから、誰にも教える気などないのだけれど。
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