After Story
Flame Sky~別れのその後の物語~
珍しく、早い時間に目が覚めた。いつも起きるより何時間か早く、他の奴らは当然まだ寝ているであろう時間だ。
しかし再び寝付くということも出来なさそうだし、目が冴えているのに何もせず横になっているというのも退屈で仕方がないので、俺はとりあえず布団を出ることにした。
暖かくなってきたとはいえ、朝早くはまださすがに冷える。寝巻きの上にいつも仕事で着る白衣を羽織り、ひんやりとする木の階段をミシミシと音を立てながら降りていった。
今時のマンションでも一戸建てでもない、昔ながらのだだっ広い家。築何年経っているのか分からないが、俺が生まれる前から存在しているのは確かだ。そろそろガタがきているあたり、五十年以上は経っているのだろう。
狭い簡素な台所で熱い珈琲を手早く淹れ、今時の家にはないであろう縁側へと足を運ぶ。
そういえば幼い頃、ここでじいさんとよく緑茶をすすっては、飽きもせず駄菓子をあちこちこぼしながら食っていたっけ……。
そんな風に少しだけ、過去に思いを馳せた。
傍らに珈琲を置き、昔じいさんがいつもそうしていたように、縁側にゆっくりと腰を下ろした。
顔を上げると、そろそろ日が昇ってくる時間帯だったらしい。俺の目の前には、見事な朝焼けの空が広がっていた。
「おぉ……」
思わず感嘆の声を漏らす。同時に、ずいぶん前に卒業した、空好きの風変わりな少女を思い出した。
「あいつも、この空を見てるかな」
この空を見ていたとしたら、彼女はなんと感想を述べるのだろうか。覗きようのない理解不能な頭の中でどんな風に捉えて、生意気に吊り上げた形のよい唇でどんな言葉を紡いで……繊細な白い手に包まれた筆で、どんな風に絵にするのだろうか。
「俺は」
俺が、この空を例えるとするならば。
太陽がまだ昇ってきたばかりのようで、空は紺色にも紫色にも、赤色にも橙色にも、桃色にも見える――不思議な色合いの空。
例えるならば、そう――。
「炎、だと思うぜ」
空気はひんやりとしているはずなのに、圧倒されるほど熱い温度すら感じる。夕焼けとは違う、惹きつけられそうな迫力に、心地よい酔いさえ感じてしまう。灼熱の炎のような、名前の通りの『朝焼け』の空。
俺はこの空を見て、そんな風に思った。
「妃芽」
お前なら、どう例える?
「――なんてな」
馬鹿げている、と首を振り自嘲した。
彼女はもう……ここにはいないのに。振り返ることなく、一人で遠くに行ってしまったのに。どれだけ話し掛けても、もう答えてはくれないのに。
このまま、過去の美しい思い出にばかり浸っていてはいけないのに。
「俺も、前へ進まないといけない」
今まで担任として近くで見守ってきた、掴み所がなく不思議な雰囲気の、嫌味なほど妖艶な笑みが印象的だった女子生徒。その正体は誰よりも強がりで、誰よりも優しい、繊細なただの少女に過ぎなかった。
そんな彼女も最終的には自分の力でしっかりと立ち上がり、俺の前から巣立って行った。二度と会えない訳ではないけれど、共に過ごしたあの時間はもう戻ってこないのだと思うと切なくなる。
両親も、じいさんも。傍にいたはずの人たちは皆、俺の手の届かない遠い所に行ってしまった。
唯一ずっと一緒に暮らしてきた、生意気で素直じゃない弟も……いつかは俺を置いて、自分の決めた道を一人で歩んでゆくのだろう。
俺も、このまま同じ場所に佇んでいる訳にはいかない。過去にばかり縛られていてはいけない。そんなこと分かってる。
「分かっては、いるんだがな……」
けどさ。
今だけは、楽しかった美しい過去に、思いを馳せてもいいだろう?
縁側の開け放した窓に身体を預け、俺はそのままゆっくり目を閉じた。
◆◆◆
ぽたり、
「んっ……」
冷たい水のようなものが頬に当たる感触で、目が覚めた。まだ重い瞼を無理矢理こじ開けるようにして開く。
あれから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
さっきまで広がっていた(と思った)灼熱の炎はすっかり消え去り、目の前には黒々とした雨雲を携えた曇り空が広がっていた。どうやら雨が降り始めてきたらしい。朝焼けが見える日は天気が悪いというが、その話は本当だったようだ。
「寝ちまったかぁ」
大きく欠伸をしながら、うーんと伸びをする。その時ぱさり、と俺の肩から何かが滑り落ちた。何かと思って視線をやると、今まで俺の肩に掛けられていたのであろう毛布が床に無造作に落ちている。
俺にはこんなものを持ってきた覚えがないので、きっと俺が寝ているのを見た誰かが掛けてくれたのだろう。まぁ『誰か』といっても、この家には俺以外にもう一人しかいない――はずなのだが。
「起きたかよ、馬鹿兄貴」
後ろからの不機嫌そうな声に振り返ると、そこには当の『誰か』こと弟の蓮二が腕を組み、仁王立ちで立っていた。
「『おはよう』ぐらいねぇのかよ、クソ弟」
フン、と鼻を鳴らして答える。一見兄弟仲が悪いように見えるだろうが、これが俺たちの日常だ。
「うるせぇ」
蓮二は怒っているかのようにじろりと俺を睨んだ。
「大体お前なぁ、珈琲淹れるんなら全部飲めよ。一口も飲まねぇまま寝ただろ。もったいねぇ」
「あっ……」
そういえば忘れていた。慌てて傍らを見るが、置いたはずの場所には何もない。あれ? と不思議に思い首を傾げた。起きたての頭はまだちゃんと機能していないらしい。
「冷めてたからとっくに下げたよ、馬鹿」
そんな俺を見て、蓮二は呆れたように大きく溜息をつく。それから、仕方ないとでも言いたげにちょっとだけ唇を綻ばせた。
「さっさと入らないと風邪引くぞ。さっきもう一回珈琲淹れたから、飲むか」
「あぁ」
珍しく素直な言葉に、俺も素直に頷いた。
ゆるりと立ち上がり、春も半ばだというのに未だ仕舞われていない炬燵へ足を運ぶ。その間に蓮二は台所へ行き、カップを二つ持って戻ってきた。
いつもの位置に腰を下ろすと同時に、真っ白な湯気を携えた黒い液体の入ったカップが目の前に無造作に置かれる。俺の向かいに自分の分の珈琲を置き、蓮二はどすん、と腰をおろした。
しばらくの間、二人で無言のまま珈琲を啜っていたが、不意に珍しく蓮二の方から口を開いた。
「なぁ」
「んー?」
カップに口をつけたまま声を上げ、目だけを蓮二のほうにやった。蓮二はこちらをチラリとも見ず、膝の上に置いているのであろう参考書か何かに目を落としている。
少しだけ眉をしかめると、蓮二はその状態のまま言った。
「あんな場所で、何してたんだ」
「あんな場所って」
「縁側だよ。朝早くから、一体どういう風の吹き回しだ?」
あぁ、と俺は声を上げた。蓮二が疑問に思うのももっともだろう。普段朝起きるのは俺より蓮二のほうが先で、蓮二が俺の部屋に来て(少々乱暴に)俺を揺り起こすのが我が家でのいつものパターンだからだ。
カップから口を離し、返事の代わりに軽い笑い声を返す。蓮二は苛立ったように参考書から目を離し、俺の方を見た。
「いつも通りの時間に部屋に行ったらいないし、どこにいるのかと思って下に降りてみたら、開けっ放しの縁側で白衣着て寝てやがるし」
お前らしくねぇぞ、と、蓮二は眉間に皺を寄せて続けた。
俺は蓮二から目を逸らし、縁側に目をやった。相変わらず外は雨がしとしと降り続いている。
「…………」
「……兄貴?」
黙ったままの俺に、不審そうに蓮二が尋ねてくる。俺は目を細め、珈琲のカップを机に置き、淡々と答えた。
「……朝焼けを、見ていた」
「朝焼け?」
「そう。それで……ちょっと、考えていたのさ」
「何を?」
訳が分からないという様に蓮二は声を上げた。俺は縁側から目を離し、再び蓮二を見た。そして、生徒たちの間では『悪徳業者のような笑み』と形容されている(らしい)笑みを作ってやる。
「大人の、崇高な考えさ。お前が知るにはまだ早い」
「はぁ? 何だよそれ」
盛大に顔をしかめた蓮二が可笑しくて、俺は声を上げて笑った。蓮二は不機嫌そうな表情に戻り、再び参考書に目を落とした。
ありふれた日常は、いつ失うとも知れない。かつて両親も、じいさんも、妃芽すらも、俺の前から消えたように。
それでも今だけはそんなこと全部忘れて、このゆったりした時間を存分に感じさせて欲しい。
そんなささやかな願いを胸に、俺はカップに残った珈琲を口にした。
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