Flash Sky~体調不良な空模様~

 夏も終わりに近づいているとはいえ、気温も日の長さもまだまだ夏のそれである……そんな、ある日の放課後。

 昼間は鬱陶しいほどによく晴れていたはずの空。今は打って変わって、嫌な色をした雲で埋め尽くされている。バケツを引っ繰り返したような豪雨と、耳障りな音を立てながらピカピカ光る雷も、漏れなくオマケでついてきた。

 そんなオマケは要らねぇよ、と思わず怒鳴り散らしたくなるのを抑えながら、俺は不機嫌丸出しの表情で、教室から外を見ていた。


「――まだ残っている子がいたのね」

 雷の音に混じって、不意に後ろからそんな声がした。

 一瞬、誰だろう、と思った。

 けれど……こんな時間に残っているのはあの人くらいだろう。恐らく、そうに違いない。

 何故かそんな確信を持った俺は、振り返って正体を確かめることもなく――半ば賭けの気持ちで――後ろにいるであろう人に話しかけた。

「……妃芽さん?」

 ふふふ、という独特の無邪気な笑い声がした。

 やっぱり彼女だったか……。答え合わせなど今更必要なかったが、それでも俺は彼女の姿を見るためゆっくりと振り返った。

「あぁら……蓮くん。ここで会うのは珍しいわね」

 彼女は――妃芽さんはいつもの通り妖艶に微笑むと、俺に対していつも通りの台詞を吐いた――はずだった。

 が、初めてちゃんと彼女の声を聞いた俺は、ほんの少し違和感を抱いた。

「……声、ちょっと変じゃないですか」

 そう、今日の彼女の声はいつもと違っていた。さっきだって雷の音に紛れていたとはいえ、声を聞いてもすぐには誰だか分らなかった。いつもなら、声だけで彼女だとわかるのに……。

 それは多分、彼女の声が普段より掠れていたせいだったのだろう。

 それに様子も、どこかおかしい。頬はほんの少し上気していて、何だか怠そうだ。

「……分かって、しまったかしら?」

 妃芽さんは喉に手を当て、少し苦しげな表情をした。

「どうやら、風邪を引いたみたいなのよね……実は少し、熱もあるの」

 コホコホ、と控えめな咳をしながらそう話す妃芽さんを見て、俺はますます不機嫌になった。思わず小声で呟いてしまう。

「だったら何故、早退させなかったんだ……アホ兄貴め」

「蓮くん、優月先生は別に悪くないのよ」

 俺の呟きが聞こえたのか、それとも俺の様子に何らかの不穏な空気を察したのか……妃芽さんは苦笑しながら否定の言葉を述べた。

「だって優月先生は……」

「オ~イ、妃芽……」

 妃芽さんの言葉に被さってくるように、入口からそんな低い唸り声が聞こえてくる。間髪入れずにガラリと戸が開いたかと思うと、そこには俺と同じ表情を浮かべた白衣姿の教師が立っていた。

「うぉ、兄貴」

「優月先生……」

 優月と呼ばれた教師――もとい、俺の兄は俺に憎まれ口を叩こうともせず、まるで俺のことなど眼中に入っていないかのように、すたすたと真っすぐ妃芽さんの方へ歩いてくる。そして妃芽さんと向かい合って立ち止まると、前触れもなく妃芽さんの額にデコピンを喰らわせた。

「たっ!?」

 容赦のないそれは相当痛かったらしく、妃芽さんが掠れた叫び声を上げ、涙目になる。

「ちょ……何してんだお前!」

 いきなりの兄の奇行に慌てふためく弟(俺)をよそに、兄は膨れっ面で妃芽さんを見ている。すぅ、と息を吸う音がしたかと思うと、兄は外の雷雨にも負けない大声で一喝した。

「お前なぁ、熱があるなら何故言わない!!」

「へ……?」

 唖然とする妃芽さんの口から、吐息に近い声が漏れる。俺も二人の顔を見比べながら、ぽかんとしていた。

 兄は綺麗に整えられた黒髪――どうやら毎朝セットに一時間はかけているようだ――をぐしゃりと掻いて、呆れたとでも言わんばかりに盛大な溜息をついた。

「あのなぁ、妃芽」

「な……に」

「俺はお前の何だ? 言ってみろ」

「何を今更……貴方は私の、担任でしょう」

 妃芽さんは多少よろめきながらも、いつもの強気な態度で答えた。

「そうだろう」

 兄が妃芽さんをぴしりと指差す。妃芽さんはびっくりした様子で、少しだけ後ずさった。

「だったら、だ。なぜ頼らない? 一体何のために担任っていうのがいると思っているんだ」

 『教師』らしい、真剣な瞳。弟である俺でさえも、思わず怯んでしまうほどの迫力がこもったその瞳を、妃芽さんは潤んだ目でしばらく見つめていたが、やがて弱々しい声でポツリと謝った。

「……ごめんなさい。これからは、ちゃんと言うわ」

「分かればいいんだよ」

 フッ、と兄が笑った。その瞬間に、瞳にも柔らかな光が戻る。兄はそのまま妃芽さんの頭に大きな手を乗せると、先ほど自分の髪を掻いた時と同じ乱暴な手つきで、無遠慮にぐしゃぐしゃ撫でた。

「ったく……今日、どうも様子が変だと思ったんだよ。だけど、いつまで経ってもお前は、自分から何も言おうとしないし」

「俺だって。妃芽さんの声を聞いたときは、本当に心配したんですよ」

「そうだよ。俺だって今日一日、どれだけ不安だったか……」

「二人とも、心配かけてごめんなさいね」

 掛け合うように文句を言う俺たち兄弟に向かって、妃芽さんは微笑んだ。普段彼女があまり見せることのない、ふんわりとした優しい笑みだった。

 俺と兄はそんな妃芽さんを見て――非常に珍しいことに、お互い顔を見合わせて笑いあったのだった。


「――さ、帰るぞ。まだ雷雨は凄いが、早く帰った方がいいだろう」

 未だ雨脚の強い空を窓から見上げながら、兄が言った。

「今日は特別に、二人とも俺が送ってやるよ」

「おう」

「ありがとう、優月先生」

 俺と妃芽さんが、順番に言う。

 三人揃って職員用の駐車場へと向かう途中、空を見ながら俺は漠然と思ったことを呟いていた。

「何か……今日は空も、風邪を引いているみたいだ」

「妃芽が風邪引いてるから、空も調子が悪いってか?」

 せせら笑うように兄が言う。

「やけにファンタジーじみたことを言うな、弟よ」

「……うっせ」

 からかわれたことに多少の気恥ずかしさを覚えながら、俺は熱くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。

 後ろから、妃芽さんの少し掠れた笑い声が聞こえたような気がした。

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