Flower Sky~風そよぐひととき~
「最近、いい天気が続いているわね」
入学式を翌日に控えた、ある日の昼下がりのこと。
本来ならば春休み中で、在学生はほとんど誰も残っていないはずの教室に、何故か当然のように居座っていた少女――朝倉妃芽は、本来自分の席でない窓際の席を我が物顔で陣取ったまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。
その傍らに立っていた俺は、彼女の視線の先を何気なく追う。窓の向こうにたたずむ桜の木は、陽の光に照らされながら、風に乗ってそよそよとその大きな身体を揺らしている。
その光景を目に映し、俺はほぅ、と息をついた。
「すっかり春だな。桜も綺麗に咲いている」
「えぇ」
鷹揚に妃芽がうなずく。
そして、不意にこちらを振り向いた。茶髪のポニーテールが、彼女の動きに合わせて勢いよくぶわりと揺れる。いつも落ち着いている彼女にしては珍しい俊敏な動きに、俺は思わず目を瞬かせた。
「ねぇ、優月先生」
「……ん?」
脈絡もなく俺を呼んだ妃芽は、まるで名案を思い付いたとでも言わんばかりに、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「今から、蓮くんと連絡を取ることはできるかしら?」
蓮くんというのは俺の弟で、妃芽の下級生にあたる優月蓮二のことだ。
春休みであり、在校生である上に生徒会にも所属していないアイツは、恐らく今頃なら自室でクソ真面目に勉強にでも励んでいることだろう。
無言で頷くと、妃芽は笑みを深めた。唐突に立ち上がり、窓のサッシを軽く掴む。
その状態のままこちらに顔を向けた妃芽は、明るい声で高らかに宣言した。
「これから、三人でお花見をしましょうか」
◆◆◆
『――じゃあ、三時集合ね。時間厳守よ』
妃芽はあの後そう言い置いて、さっさと荷物を纏めて帰ってしまった。
軽い足取りで歩いていく彼女の後姿を見ながら、ふと教室に掛かっていた時計を眺める。
……二時半。
「あと三十分しかねぇじゃねぇか……ったく」
今から帰れば、ギリギリ間に合うかどうかという瀬戸際だ。
仕方がない。この後は特に仕事もないことだし、まぁ別に構わないだろう。
俺はあっさり結論を出し、そのままの足で帰宅した。無言で玄関のドアを開け、ずかずかと入り込むと、自室で昼寝を始めようとしていたらしい蓮二を叩き起こす。案の定不機嫌MAXな蓮二を無理矢理引き連れて、俺はすぐに学校近くの公園へ向かった。
妃芽が集合場所として指定したその場所には小さな桜並木があり、花見の名所としてはあまり知られていないものの、隠れスポットとしては知る人ぞ知る存在となっている。
着いたのはちょうど三時ぴったりだった。間に合った……と、ほっと胸を撫で下ろしながら、眠そうに目を擦る蓮二を半ば引きずりながら公園の中へと足を進める。
八分咲きぐらいになっている桜並木の下で、妃芽は立ち尽くしたまま空を眺めていた。家に帰らずこの場所へ来たのか、先ほど見た制服姿のままだ。その手には通学用のくったりした鞄――中身はほとんど入っていないらしく、ぺしゃんこだ――と、近くのコンビニの特徴的な印がついたビニール袋を持っていた。
「妃芽」
声を掛けると、ゆったりとした動作でこちらに振り向いた。俺と蓮二の姿を認め、とたんに満面の笑みを浮かべる。
「いらっしゃい」
「妃芽さん……何でここに?」
未だに寝ぼけているのか、妃芽の姿を認めた蓮二は面食らっていた。まぁ、この反応は当然だろう。時間がなくて煩わしかったために、何も説明をしないままここまで無理に引きずってきたのだから。
俺が蓮二に事情を説明していないということをたやすく汲み取ったのか、妃芽は笑顔のままで蓮二に向き直った。
「私が、三人で花見をしようと言ったの」
ほら、ちょっとしたおつまみなんかも買ってきたのよ。
妃芽はおもむろに、持っていたビニール袋を持ち上げてみせた。いつも思いつきだけで後先考えずにモノを言っているのかと思っていたが、案外用意周到な一面があるらしい。
手短な――悪く言えば、ひどく雑な――説明で、蓮二も納得したらしい。まぁ、コイツの場合妃芽の言うことなら大体信じるし、すぐに納得してしまうわけだが。
「確かに今日はお花見日和ですね。桜も綺麗に咲いていますし、ちょうどいい」
すっかり機嫌を直したらしい蓮二は、呑気なことを言いながら、頭上に広がる桜の木を見上げている。
満足げに微笑み、妃芽は言った。
「じゃあ、座りましょうか」
「ビニールシートは?」
「地べたで十分よ」
俺の純粋な疑問にケロッとして答える妃芽の頭を、容赦なく小突いてやる。
「痛っ!」
「アホかお前は。自分の服くらい大事にしやがれ」
「そうですよ妃芽さん。大事な制服が汚れたらどうするんですか」
俺の説教に重ねて、蓮二も文句を言う。それから着ていた上着を脱いで、妃芽の座るであろう場所に広げた。
「ここに座ってください」
妃芽は驚いたように目をぱちくりさせた。うわ言のように、口を開く。
「だけど、君の服が汚れてしまうわ」
「俺はいいんです。どうせ後で洗いますし」
兄貴が、なんてさりげなく付け加えられたことに関しては、しれっと無視を決め込んでおく。自分でやったことなんだから、自分で処理しやがれ。
なおも妃芽はためらうように視線をさまよわせていたが、俺たちが頷くのを順番に見ると、結局「……ありがとう」と微笑んで、大人しくその上におずおずと腰かけた。
「お前も案外、紳士なとこあんじゃねぇか」
「……うっせ」
こっそりからかってやると、蓮二はかすかに頬を赤らめてそっぽを向いた。
俺と蓮二が(もちろん地べたに)腰を下ろしたのを確認すると、妃芽がコンビニで買ってきたというつまみの類を、ハンカチを広げた上に並べる。
「ほら、蓮くんの好きなたこ焼きもあるのよ」
屈託なく笑う妃芽に、蓮二もほだされたように笑った。
「ありがとうございます」
「酒はねぇの?」
軽く問うと、妃芽は申し訳なさそうに手を合わせた。
「未成年だから、一人では買えないの。ごめんなさいね」
「未成年二人の前で白昼堂々飲もうとするなんて、どんな神経してんだよこの馬鹿」
「うるせぇなぁ。聞いただけじゃねぇか」
蓮二の悪態に、文句を返す。それから妃芽に「構わねぇから、別に謝らなくていいよ」と断りを入れ、ちょうど傍にあった枝豆をつまんだ。ビールが欲しくなるが、今は我慢だ。
代わりに手渡されたペットボトルのお茶を飲みながら、俺は何気なく、真上に広がる桜並木を見上げた。
八分咲きの花が、青く澄み渡る空に映える。そよ風に揺られ、サワサワと音を立てた。
「桜、綺麗ですね」
当たり障りもないことを、蓮二が呟く。
「えぇ、そうね」
穏やかな声で、妃芽は答えた。それから同意を得るようにこちらを見てくるので、俺も黙ったまま頷いてみせる。
桜の木に視線を戻すと、薄紅色の花弁がひらり、と一枚散った。それを合図とするように、複数枚の花弁が次々と木から離れ、宙を舞う。
ひらり、ひらり、
風になびいて飛んでいく薄紅色は、まるで踊り子のようだ。済んだ青色の舞台を、するりと滑り、くるくると回り、無邪気に遊ぶ様に舞い踊る。
見事な舞を眺めていると、不意に妃芽が口を開いた。
「薄紅色の花弁は、青空のステージにとても映えるのね。本当に、綺麗だわ」
視線を戻すと、妃芽はうっとりと花弁の舞を見つめている。先ほどまで、俺がそうしていたように。
「月明かりの下に舞台を変えても、花弁の舞は変わらないのかしら」
今度は、夜に来てみたいものだわ。
夢見るように呟くと、妃芽は無邪気に笑う。
隣では不機嫌そうに顔をしかめた蓮二が、ジト目で妃芽を見ていた。
「女性が夜に出歩くのは危ないです。お花見は、明るい時だけにしてください」
「あら残念。夜桜も、きっと綺麗でしょうに」
妃芽が肩をすくめる。俺は声をあげて笑った。
「お前は妃芽の親かよ」
「うっせ。心配して何が悪い」
「絶対将来、過保護な父親になるよな」
「大きなお世話だ」
俺たち兄弟の言い合いに、妃芽の笑い声が重なる。
花弁たちが舞い踊る青空の下で、俺たち三人はしばしの穏やかな時間を過ごした。
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