7.White Sky~白色~

 空は雲に囲まれ白く輝いて、周りには雪もちらついている。決してよき日とはいえないが、あの人ならきっと「こんな空も素敵だ」と言うのだろう。

 そんな今日、あの人は――妃芽さんは、卒業する。


    ◆◆◆


 雪がちらつく白い空の下、そびえ立つ枯れ木の傍らで、一人の女子生徒が花束と荷物を抱えて立っている。

「朝倉、卒業おめでとう」

 白衣をなびかせた男性教諭がやってきて、声を掛ける。振り向いた女子生徒――朝倉妃芽は穏やかな笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます、優月先生」

 教諭――優月は、彼女のいつもと違った堅苦しい態度に苦笑した。

「今日は敬語なんだな。珍しい」

 妃芽は穏やかな笑みを崩し、ニヤリと笑って尋ねた。

「一応、先生ですからね。最後くらいは……それとも、いつもの調子の方がいいですか?」

「そうだな。何か、お前が敬語だと調子狂うよ。……ぶっちゃけ、似合わねぇ」

「ふふっ……失礼ね。だったらいつもの感じでいかせて頂くわ」

 答えを聞くや否や、すぐに砕けた調子に戻る。

 よかった、いつもの彼女だ。優月は内心安堵しながら微笑んだ。


「……桜は、まだ咲かないんだな」

 優月が唐突に、ポツリと独り言のごとく呟いた。二人の目の前にそびえ立つ枯れ木は本来桜なのだが、現在は春にはまだ遠いため全く花がなく、代わりに白い雪が降り積もっている。

「雪が積もっているでしょう? 桜もいいけれど、雪の木というのもロマンチックだと私は思うわ」

「雪の木……か。相変わらず着眼点が人と違うよな。尊敬しちまうよ」

 俺のほうが年上なのにな、と笑う優月に対して、妃芽は少し拗ねたような表情をした。

「それ、褒めてるの?馬鹿にしてるの?」

「もちろん褒めてるよ」

「どうだか」

 他愛もない会話。それはまるで、最後とは感じられないほどに軽い。

「ねぇ、先生」

 変わらない口調で妃芽が言う。

「私、貴方に会えて本当によかったと思ってるわ」

「いきなり何だよ?」

 不思議そうに優月は妃芽を見た。彼女の口元は笑っているが、目は真剣そのものだ。

「入学当時は、教師なんて全くと言っていいほど信用していなかった」

「あの頃はお前、俺に一度も本音を言ってくれなかったもんなぁ。二年になってからだったか? だんだん心開いてくれるようになったのは」

「そうね……馬鹿だわ私。最初から信用しておけばよかったのに」

 目を細めながら、昔を懐かしむかのようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

「貴方はいつだって、私に道標をくれた。正直、この私を打ち負かしたのは貴方が初めてだったわね」

 ははっ、と声を上げて優月は笑った。

「お前はタフだもんな」

「タフじゃないわ。私には弱い所だってたくさんある。貴方がいなかったら、将来すら自分で決められやしなかったもの」

 あの日、優月との面談の後。妃芽は母親に全てを告白した。本当は医者になるのではなく、絵の勉強がしたいのだと。できることなら、将来は絵に携わる仕事がしたいのだと。

 母親自身も、妃芽の抱える苦悩に気付いていたらしい。嬉しそうに笑って、「貴女の好きな道を歩みなさい」と言ってくれたという。

 そうして妃芽は奨学金の申し込みをしたあと、望み通り名門の某美術大学へ進学することになった。

「ありがとう……貴方のおかげよ」

「俺は大したことしてねぇよ。担任として当然のことをしたまでさ。それに」

 そこまで言うと、優月は寂しそうな表情になった。

「お前には、俺なんかより蓮二の方が大きな支えになっていただろう?」

「いいえ」

 妃芽はすぐに首を横に振った。

「もちろん、蓮くんだって大切な存在だわ。だけどね…貴方だって、私にとってなくてはならない存在よ。同じくらいに、ね」

「そっか。そう言ってもらえると嬉しいね」

 優月はちょっとだけ微笑み、込み上げてくる感情を悟られないようにするためか、茶化すようなふざけた調子で続けた。

「……こういう雰囲気だとさ、告白されてるって誤解されるかもな」

「して欲しい? 告白」

 妃芽は上目遣いのまま、意地悪く笑った。

「してくれって言ったらしてくれるのか?」

「答えてくれるのなら」

「本心?」

「さぁ、どうかしら。貴方こそ本心で答えてくれるの?」

「さぁ、どうだろうな」

 お互い怪しい笑みを湛えている。少なくとも教師と生徒とはいえないようなよく分からない雰囲気になったところで、この会話はとある人間の介入によって唐突に中断されることになった。

「こら。妃芽さんをたぶらかしてんじゃねぇぞ、このたらし野郎」

 二人の元に、優月とよく似た顔立ちの、背の高いがっしりした男子生徒がやって来た。げ、という声とともに優月は顔をしかめたが、妃芽は動じることもなく飄々と笑っている。

「蓮二……ってか誰がたらしだこのクソ弟」

「あら蓮くん。ここで会うのは珍しいわね」

 男子生徒――優月蓮二は腕を組みながら、少し不機嫌な表情で二人に近づいた。

「誰がクソ弟だ、この馬鹿兄貴が。……妃芽さん大丈夫ですか? コイツに何かされてませんか?」

 実の兄である優月を一蹴すると、蓮二はすぐに妃芽へと話し掛ける。優月はムッとした顔をしていたが、やがて諦めたように溜息を吐いた。

「じゃあ、邪魔者は失礼しますかね」

 ひとまず優月はその場を立ち去ることにした。すれ違いざまに妃芽の耳元で何か囁く。妃芽は微笑しながらそれに答えた。

 やがて優月は白衣のポケットに手を入れると、悠々と去っていった。


 物憂げな目で優月の後姿を眺めていた妃芽に、蓮二は心配そうな顔で話し掛けた。

「本当に何もされてませんか。あの馬鹿、ちょっと女の扱いが上手いからって調子に乗ってるんです。あんなのに騙されちゃ駄目ですよ」

 クスッと妃芽は笑った。

「何にもされていないわ。それに、いい人よ? 君のお兄さんは。確かに……教師としてはどうかと思うけれどね」

「いい人、ですか……うーん。でもやっぱり生徒には慕われてるみたいなんですよ。どうしてかなぁ……よく分からないです」

 蓮二は理解できないとでも言いたげに、深く溜息を吐いた。

「俺はアイツに苦労させられてばっかりですよ」

「それは君が彼の弟だからよ。教師は誰にも甘えられない仕事だし、特に君たちの場合は家庭環境もあるでしょうから……甘えているのよ、君に」

「そうですかねぇ」

「そうよ」

 にっこりと妃芽は笑う。相変わらずこの人には敵わないものだな、と蓮二は人知れず思った。


「……桜は、まだ咲かないんですね」

 蓮二は雪が降り積もる枯れ木を眺めながら、ポツリと独り言のごとく呟いた。

「雪が積もっているでしょう? 桜もいいけれど、雪の木というのもロマンチックだと私は思うわ」

「雪の木……ですか。相変わらず着眼点が人と違いますね。尊敬します」

 まぁ俺の方が年下なんだし当たり前か、と笑う蓮二に対して、妃芽は少し拗ねたような表情をした。

「それ、褒めてるの?馬鹿にしてるの?」

「もちろん褒めてます」

「どうだか」

 妃芽はそう言って苦笑したあと、しばらく無言で空を見上げていた。が、再び何かを思いついたかのように、唐突に話し出した。

「ね、蓮くん」

「はい?」

「私、君に会えて本当によかったと思ってるわ」

「何ですか、いきなり」

 不思議そうに蓮二は妃芽を見た。彼女の口元は笑っているが、目は真剣そのものだ。

「私は、本当なら誰とも関わらないで過ごすつもりだった」

「でも、俺に最初に関わってきたのは貴女の方じゃないですか」

「そうね……どうしてだったかしら。今ではもう思い出せないけれど」

 目を細めながら、昔を懐かしむかのようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

「君はいつだって私を大事に思ってくれた。君の側にいるのは心地がよかった。君はいつだって、私の支えでいてくれた。出来ることなら、これからも側にいたいと……そう、何度思ったことかしら」

 ふわり、と妃芽の身体が包まれた。急速に近くなった妃芽の耳元で、蓮二の弱々しい涙声が響く。

「だったら、ずっと側にいればいいです。いつだってここに……俺や兄貴がいるこの場所に、戻って来ればいいじゃないですか」

「駄目よ」

 妃芽は一言だけ囁くと、緩く回されていた蓮二の腕を優しく解く。そうして、蓮二としっかり向かい合い、堪えながら目を合わせた。

「いつまでも互いに依存し合っていたら、私たちは成長できない。別れも人生における最大のエッセンスなのよ」

 私は私、君は君。お互い別々の人生を歩んでいかなければならないの。

 きっぱり言い切ると、首をかしげてにっこり笑う。その瞳は少しだけ潤んでいたが、前を向こうという揺るがない決心がこもっていた。

「さよなら、蓮くん。また会う日まで」

 力強い別れの言葉を口にすると、妃芽はくるりと蓮二に背を向ける。そして、いつもと変わらない――いや、いつも以上に自由な足取りで去っていった。


 いつの間にか自らの目に浮かんでいた涙を拭うと、蓮二は追いかけたい衝動を抑えながら、彼女の後姿を見えなくなるまでいつまでも眺めていた。

「去り際も、やっぱりあの人らしいな」

 そんな感想を抱きながら。

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