6.Red Sky~赤色~
赤みがかった空が、窓の外に広がっている。
沈みかけた太陽の眩しい光が漏れ入る教室の中、白衣を着た男性教諭と制服姿の女子生徒が向かい合って座っていた。
「…………」
「…………」
しばらく二人とも口を開く訳でもなく、ただ黙って見つめ合っていた。教諭は困った様な微妙な笑みを浮かべて。生徒はどこか毒を含んだような、覚悟を決めた笑みを浮かべて。
「…………で?」
先に沈黙を破ったのは教諭だった。低く落ち着いた、よく通る教師らしい声が教室内に響く。
「お前は本当にそれでいいのか? 朝倉」
机の上に置かれた用紙――進路志望届を指差し、教諭は尋ねた。そこには流れるような、それでいて妙に無骨な字体で『医学部へ進学希望』とだけ書かれている。
朝倉と呼ばれた女子生徒――朝倉妃芽は笑顔のまま、ただ機械的に首を縦に振った。それ以上は何も言わない。頑なとも取れる様子に、教諭は本日何回目になるか分からない溜息をついた。
「お前なぁ……いい加減にしろよ?」
呆れたように呟きながら、髪を勢いよく掻く。先ほどから何度も同じ仕草をしているためか、せっかく綺麗にセットされていた彼の黒髪は、原型を留めているかどうかも分からないぐらいにぐしゃぐしゃになっていた。
「みんな自分の好きな事をやるために、各々進路を決めているんだ。誰に頼るでもない、自分でな。なのにお前は……」
言い聞かせるようにそう言うと、教諭は立ち上がり、机をバンッと叩いた。
「どうしてお前だけは、他人の敷いたレールを頑なに歩もうとする?」
妃芽はその様子を、身動き一つせずただ見つめていた。口元は微笑んでいるが、瞳だけが酷く冷たい。
「そんなことがお前の人生か? 人のために馬車馬になって働くことが、お前のやりたいことだって、生き甲斐だって、そう言うのか? そんなの……お前らしくない。お前は、縛られることを何よりも嫌っているはずだ。付き合いの短い俺にだって、それくらいは分かる。なのに」
「仕方ないもの」
今まで黙っていた妃芽が突然、教諭の語りを止めた。力強い調子だったが、その声は震えていた。真っすぐ教諭を見つめていた視線が、力なく床の方向へと落ちる。
「仕方ないもの。こればっかりは、どうなるものでもないのだから。いつまでも母さんだけに負担をかけさせる訳にはいかない。……母さんが、私が医者になることを願っているから。医者になってお金をたくさん貰って、一家を支えて欲しいと願っているから。だから……私は医者にならなくちゃいけない。たとえ知識なんてなくても。だって他でもない、母さんの願いだから」
『母親のため』と繰り返す妃芽。
妃芽の家は母子家庭で、母親が女手一つで妃芽やその兄弟を養っているという現状だ。当然、苦しい生活を強いられるのも無理はない。
しかし、教諭は知っていた。妃芽には他に夢があることを。家のために、母親のために、その夢を手放そうとしていることを。
「だけど……お前自身は医者になることを願ってはいないはずだ。絵を描くことはとても楽しいって、絵に携わる仕事をしてみたいって……あの時俺に、楽しそうに言っていたじゃないか」
「あれは夢の話。現実問題、絵だけでは暮らしていけないわ。優月先生、それは貴方も分かっているんじゃなくて?」
諦めたように微笑む。哀しい笑みだった。
「夢と現実は違う。どれだけ願ったって、夢はいつまでも夢のままなの。だから……私は変えるつもりはない。医学部に行くわ。成績的には問題ないはずよ。理数系はちょっと弱いけれど、これから勉強すればどうにかなるだろうし。……これ以上文句は受け付けないからね」
言い切ると妃芽はふぅ、と息をついた。そしてさっさと帰り支度を整え、教諭――優月に背を向け歩き出そうとした。
「まぁ待て」
優月は焦る様子もなく、どこかゆったりとした口調で妃芽を止めた。
「文句は受け付けない、と言ったはずよ」
呆れたような、それでいて相手を蔑むような調子の声が返ってくる。
「確かに、成績的には問題ねぇ。しかし、どうもな……俺には理解できねぇのよ。今まであれだけ自由に生きてきたお前が、そんな確約もされてない母親との約束ごときに、がんじがらめに縛られているっていう理論がさ」
「ちょっと、『ごとき』とは失礼じゃない?」
茶化すような、笑みを含んだ声が返ってきた。立ち止まりはしたが、妃芽は変わらず優月に背中を向けたままだ。そのため彼女が今どんな顔をしているのか、優月には分からなかった。
「ハハッ、そりゃ悪いな」
妃芽が振り向かないことも気にせず、優月はゆっくりと椅子に腰をおろし、腕を組んだ。そしてそのまま妃芽の背中に向かって、唐突に自らの弟の話を始めた。
「なぁ妃芽。こないだ蓮二がさ、夜に家を出てっちまったことがあったんだよ。知ってるだろ? お前も外にいたっていうんだから」
妃芽は反応しない。それでも優月は話を止めることをしなかった。
「あの時お前、蓮二に言ったそうじゃねぇか。諦めてはいけないと。希望を探すことを……生きることを、放棄してはいけないと」
妃芽は長い溜息をついた。何故今そのようなことを、という感情が込められているのだろう。
「蓮二はお前がくれた言葉に衝撃を受けたと言っていた。生きることを半分放棄していた自分にとって、それは紛れもなく救いだったと。なのに……妃芽、お前は何だ。生きることを諦めているのは、お前の方じゃねぇのか」
びくり、と妃芽の肩が跳ねた。
「私は……諦めてなどいない。母さんとの約束を守るために、一生懸命勉強しているわ」
聞こえるか聞こえないかぐらいの声で反論した。背中を向けてはいるが、明らかに動揺し震えているのが分かる。
そんな妃芽の背中を、優月は臆することなくじろりと睨んだ。
「それが諦めてるって言うんだよ。現に今、絵を描くことを諦めているだろう。たとえ約束だとしても、娘が身を切るような思いで夢を諦めようとしている姿見て、親御さんは喜ぶと思うか? まぁお前のことだから、『別にやりたいことなんてない』とか言ってるんだろうけど」
またびくり、と肩が跳ねた。その些細な変化を見逃さなかった優月は、図星か、と愉快そうにケラケラ笑う。
「まぁ……まだ時間はあることだし、親御さんともゆっくり話してみろよ。本当のこと、ちゃんと言うんだぞ。分かったな」
妃芽は震えたまま返事をしない。優月はもう一度、強い口調で言った。
「分かったな、朝倉」
「…………」
こくり、と妃芽は頷いたようだった。
「よし。……じゃあそろそろお開きにするか」
立ち上がった優月は妃芽に近づくと、頭を軽く叩いた。顔を覗くと、妃芽は珍しく思い詰めているような、深刻な表情をしていた。
「そんなにシケた顔すんなって。ほら、見ろよ妃芽。あんなに太陽が大きく見えるぜ」
くるりと窓の方向へ妃芽の身体を向けさせると、優月は窓の外を指差した。その先には、大きく丸い真っ赤な夕陽が窓いっぱいに映っている。
「本当。綺麗ね……」
妃芽は少しだけ微笑んだ。
「どうしてかしら。何もかもが全て上手くいくような、そんな気がしてきたわ」
優月は目を和ませ、視線を窓に向けたまま妃芽の頭を優しく撫でた。
「あぁ。上手くいくよ。何もかも、な」
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