5.Leaden Sky~鉛色~
分厚い雲がぎっちりと空を覆っているからか、今日の空は鉛色で酷くどんよりとしている。どうやら今日の空はご機嫌斜めらしい。
鉛色の空は憂鬱になる、と敬遠する人も多いけれど、私はそんな姿の空も好き。鉛色一色の空ももちろん綺麗だし、まだらな雲があちこちに現れているのもまた、味わいがあっていいと思う。
鉛色の空は、今にも大粒の雫を大量に零しそうになっている。
雨が降ったら大抵の人は傘を差すけれど、私は手ぶらで雨に打たれても気にすることなくばしゃばしゃ歩く。雨が私の中にある全てを洗い流してくれるような……雨に打たれることで心が綺麗になっていくような、そんな気がするから。
そう……それはまるで、空に浮かぶゴミや塵といったものが全て流れ落ちて、すっかり綺麗になった雨上がりの空のような。
だから私は、雨の中をあえて濡れながら歩く。もしそれが原因で風邪を引いても、酸性雨で将来ハゲると脅されても、お構いなしだ。
予想通り、とうとう降り出した雨の中を歩いていた私はふと立ち止まり、上を向いて空を眺めた。空からの雫が一つずつ、ぽたりぽたりと顔に落ちてくる。身体から、徐々に体温が奪われていくのが分かるけど、それでも身じろぎ一つしない。顔にかかった雫を拭うこともせず、見えづらくなっていく視界の中、私はただぼんやりと考えていた。
今度描く空は、どんなものにしようか。
どんな空でも、絶対に自信作にしてみせる。そうしたら、笑いながら自慢気に掲げてやるのだ。優月先生に――初めて私の本気の絵を見たいと言ってくれた、白衣姿の担任に。
そういった考えを巡らせながら再び歩き出そうとする。心なしか重くなった足をようやく動かすと、びちゃり、と何とも言えない音がした。
ふと、いきなり目の前が薄暗くなった。あまりに予期せぬことに驚き、何だろう、と見上げてみる。
頭上では、紺色の傘が私の姿をすっぽりと覆っていた。それを持った大柄な姿を見つけて一瞬目を見開いたけれど、私はすぐに表情を作り変えて、こちらを見下ろす彼に動揺一つ見せず話しかけた。
「あら、蓮くん。ここで会うのは珍しいわね」
彼――蓮くんはちょうど今の空みたいに、不機嫌そうな顔で私を見下ろしていた。何か嫌なことでもあったのかな? と軽く思いながら首を傾げると、蓮くんはぶっきら棒な低い声で呟く。
「妃芽さん、傘も差さないで何やってるんです? 全く……びしょびしょじゃないですか」
言われて初めて、自分の姿を眺めた。紺色だった制服はたっぷりと水を吸い込んで濃い色になっている。なるほど、どうりでさっき足が重かったわけだ。
一つに纏めた髪の毛からも、ぽたぽたと水が滴り落ちているのが分かる。首筋に滴が垂れるけれど、もうほとんど冷たくさえない。
「雨に当たって風邪でも引いたらどうするんですか。それに、あんまり雨に当たってるとハゲますよ。雨は酸性なんですから」
相変わらずムスッとした顔で、私が予想していた文句を見事に言ってくれた素直な彼……どうやら彼の心を曇らせた原因は、少なからず私にあるということらしい。
そんな考えにたどり着いて、私は思わず吹き出してしまった。ジト目でこちらを睨みつけてくる彼に気付き、どうにか笑いを堪える。
「っ……一応、心配してくれているのね。私のこと」
「当たり前です。さぁ、帰りますよ」
彼は機嫌を直してくれているのかいないのか分からなかったけど、口調は先ほどより穏やかになっているような気がした。
私は彼に向かって、慎重に微笑んだ。
「ね、もう少しだけここにいちゃ駄目かしら。雨が上がるまで」
「駄目です」
彼は棘のある笑顔できっぱりと答えた。
「ねぇ、お願い。どうしても、雨上がりの空が見たいの。ダメ?」
「そんな可愛らしい顔で頼んだってダメです。お家に帰って窓から存分に見ればいいじゃないですか」
上目遣いでちょっとぶりっ子ぶってみたけど、彼には通じないらしい。全く、この子は相変わらず頑固なんだから……。
「仕方ないわね。分かったわ、帰ります」
私は諦めて大人しく彼に従うことにした。蓮くんはホッとしたような表情を浮かべたあと、自然と私をエスコートするような格好になる。
「じゃあ、こちらにどうぞ。車が停めてありますから乗ってください」
「あら。君、免許なんて持ってたかしら」
茶化すように尋ねると、彼は再び不機嫌な表情になった。
「そんな訳ないじゃないですか。……兄貴のです」
「あぁ、何だ」
優月先生か、と呟き笑う。
彼は私の担任の先生であると同時に、蓮くんにとっては血を分けたお兄さんに当たる人なのだ。それにしても……いくら兄弟とはいえ、いつもことあるごとにいがみ合っている二人なのに、一緒にいるなんて珍しい。
そんな私の意思を汲み取ったのか、蓮くんはぶっきらぼうに言った。
「別に、一緒にいたっておかしくないでしょう? 俺たちは一応、腐っても兄弟なんだから」
「そうね。それに……喧嘩するほど仲がいい、って言うし」
「放っておいてくださいよ」
そう呟くと頬を少し染め、照れ隠しをする様にそっぽを向いてしまう。そんな蓮くんが可愛くて、私は軽く笑った。
「何笑ってるんですか」
「まぁまぁ」
再び蓮くんに睨まれてしまったけれど、今度は気に留めないことにして、とりあえず笑ってごまかしておいた。
「そんなことより、早く行きましょう? 先生が待っているわ」
私はまだちょっと不満げな蓮くんの手を引き、さっき彼が示した方へ歩き出した。その手は男の子らしくごつごつとしていて、ほのかに心地いい体温を伴っている。
抗わない代わりに、蓮くんはささやかな文句を言ってきた。
「妃芽さん、手冷たいですよ」
「あら。雨に当たっていたんだから当然でしょ」
「開き直らないで下さい」
その言葉にも、また笑ってごまかしておく。
そうこうしているうちに、停まっていた優月先生の車にたどり着いた。同時に滴の垂れた窓が徐々に下へと滑り落ちていき、中から蓮くんによく似た顔立ちの、けれど蓮くんよりは華奢な白衣姿の男性――優月先生が現れた。
「よぉ、妃芽。見事にずぶ濡れじゃねぇか」
おもむろに手を伸ばしてきた優月先生は、お風呂上がりみたいに濡れた私の髪を無遠慮にわしゃわしゃと撫でてきた。隣で蓮くんが悪態をついているのにも、気にした様子はない。
私も特に抵抗はしなかった。親以外で私を子供扱いするのは優月先生くらいだけれど、別に嫌なわけじゃない。私に向けてくれるその態度は、むしろ心地いいと思うくらいだ。
車に乗り込む直前、私は不意に空を見上げた。いつの間にやら雨はやんで、分厚い鉛色の雲の切れ間から、眩しい夏の太陽が覗いている。
「綺麗だわ……。本当に、綺麗」
見惚れながら、思わず呟く。それが聞こえたのか聞こえていなかったのかは分からないけれど、先に車内にいた兄弟が呼応するようにそれぞれ口を開いた。
「雨、やみましたね。夕立だったみたいでよかったです」
「おぉ、太陽の眩しいことで。そろそろ夏も本番か?」
嫌になるねぇ、と大きくため息をつく優月先生に、すかさず蓮くんが突っ込みを入れる。
「お前はおっさんか」
「うるせぇ。俺はまだまだ若いんだぞ」
「ほぉ、それは初耳だな。一体どの辺が若いのか教えてもらおうか」
「どの辺がって、全部だよ」
「答えになってねぇぞ、それ」
相変わらず仲良しな兄弟の微笑ましい言い合いに耳を傾けながら、私は雨上がりの澄んだ景色を見つめて頬を綻ばせた。
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