4.Orange Sky~橙色~
この学校の三階には、美術関連の教室が並ぶ校舎がある。
美術の授業や部活以外では滅多に使われることがないため、必然的に人通りは少ない。また、部室を使う美術部の連中は基本気分屋な奴ばかりなので、まともに部活をしている姿などほとんど見ないのが現状である。
放課後の校舎の見回りも俺の仕事の一つだ。当然、人通りが少ない校舎まで全て見て回らなければならない。面倒臭いが、一応仕事中なのでそのようなことも言っていられない。困ったものだと心の中で文句を言いながら、着ている白衣をひらめかせ歩いていく。
窓から見える橙色に染まった空は、今日という一日の終わりを示していた。生徒たちは皆、部活を終えて家路についている頃だろうか。
夕陽が差し込む静かな校舎には、俺が歩くたびに鳴るぺたぺたというサンダルの音だけが響いていた。
美術室の前を通りかかった時、いつもは真っ暗な室内に電気が灯っていることに気付いた。美術部員が絵でも描いているのだろうか。
珍しいこともあるもんだな…と呟きながら、中にいるであろう生徒に帰宅を促すため、美術室のドアを開けた。
「おい、そろそろ下校時刻だぞ」
入口に立つ俺に背を向けたまま絵を描いていた生徒らしき影――見たところ女子のようだ――は、突然現れた俺の存在に驚くこともなく、ゆっくりと振り返った。
「あら、今日の当番は貴方だったのね。優月先生」
女子生徒は不敵に微笑んだ。普段から誰に対してもフランクな口調は変わらない。見覚えのある姿に、思わず表情が和んだ。
「何だ、
彼女は――朝倉妃芽は、俺が受け持っているクラスの生徒である。言動から何から本当に自由気ままだが、それ故に本心を暴き出すことが難しい……ある意味厄介な生徒だ。
「お前、美術部員だっけ」
妃芽はゆっくりと目を細めた。馬鹿にするように、フンッと鼻で笑う。
「貴方は私の担任でしょう? 私が部活に入っているかいないか、入っているとしたらどんな部活に入っているか……それぐらいのこと、言わなくても知ってて当然なんじゃなくて?」
「知ってるからこそ聞いてるんだ。お前は確か帰宅部だったはずじゃ」
「ちゃんと許可は頂いているわ。それに……美術部員じゃないからここで絵を描いちゃいけない、なんていう校則はあったかしら?」
にっこりと笑いながら首を傾げてこちらを見てくる。何だか上手いこと言いくるめられているような気がしなくもないが、ここで引き下がっては教師として……何かアレだ。
しばらく考えたが、やはり上手く言い返す言葉が見つからない。コイツに口で勝つことは到底叶わないのかもしれないと、悔しく思う。
「……まぁいい。ところで、」
仕方がないので、少し話題を変えることにした。彼女が向かっていたキャンバスを後ろから覗き込み、尋ねる。
「何を描いていたんだ?」
「空を、描いていたの」
滅多に見せないような楽しそうな表情で、妃芽はキャンバスを指差した。だがそこにはただ、全面にべったりと橙色の絵の具が塗られているだけだった。
「こりゃ随分シンプルな」
思わず声を上げて笑ってしまった。しかし妃芽は気を悪くした様子もなく、ニヤリと笑うだけだ。
「分かってないわねぇ。この単色が綺麗なんじゃない」
「単色ねぇ……」
「何の色も混ざっていない、一つの色が全面で主張する。その姿が私は一番綺麗だと思うわ」
心なしか興奮気味に妃芽は語る。俺はなんだか微笑ましい気持ちになって、頬が緩んだ。
「そうだな……そんな考えもありかもしれねぇ」
窓の外に広がる橙色の空を見ながら、俺は続けた。
「でも、俺個人としてはグラデーションも捨てがたいな。こう……色んな色が混ざり合って一つの色を作っていく感じ? 一つ一つ主張もしているんだけど、他の色の引き立てもしているっていう。その関係性が俺は好きだ」
ふ、と妃芽の方を見ると、少しばかり考えるような仕草をしていた。ちょっと語りすぎただろうか……心配になりながら、何も言わずただ黙って彼女を見つめる。
やがて妃芽は表情を和ませ、呟いた。
「そんな考え方も、ありかもね。今度やってみようかしら」
俺は自分の考えを認めてもらえた気がして、とたんに嬉しくなった。機嫌よく妃芽の肩を幾度か叩く。
「おう、やってみてくれよ」
「えぇ。……じゃあ、そろそろ出ましょうか」
妃芽は優しく微笑み、荷物を纏めてゆっくり立ち上がった。その様子を見届けると、俺たちは一緒に外へ出る。
持っていた鍵でしっかりと戸締まりをする妃芽の横顔を、俺はしばらく黙って見つめていた。
「な、妃芽」
「なぁに」
鍵をかけ終えた妃芽が、俺の方を不思議そうに見る。俺は絵について語る妃芽の表情を思い出しながら、何気なく口を開いた。
「お前……絵が、好きなのか」
「えぇ」
妃芽はこの上なく愛おしそうな目をして頷いた。
「絵を描いている時が、今の私にとっては一番楽しいこと。出来ることなら将来も、絵に携わる仕事をしてみたいと……そんな夢まで抱いているくらいよ」
こんな妃芽の表情を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。鮮やかに色づいた彼女の希望に満ちた感情が、こちらにまで伝わってくるようだった。
思わず手を伸ばし、ふわふわした感触を楽しむように彼女の髪を撫でてやる。
「じゃあさ……今度は、お前のもっとちゃんとした絵を俺に見せてくれよ」
妃芽は一瞬目を丸くしたあと、やがて心の底から楽しくて仕方がないというように、フフッと笑った。
「えぇ、もちろん。先生には一番の自信作をお見せするわ」
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