2.Black Sky~黒色~
いつもより不思議と澄んで見える、真っ黒な空。あちこちには、大小もその強さも様々な光が沢山散らばっており、道行く人を魅了させる。
そんな星空に見守られながら、俺は何気なく近所の公園へと足を運んだ。遊ぶ道具など何一つない、公園とは名ばかりの殺風景なそこには、ただなだらかな丘があるだけだ。
ふと、丘の上に人影を見つけた。
暗くてよく分からなかったが、何故か俺は、それが誰だか容易に判断できた。俗に言う直感、というやつだろうか。ゆっくり近づきながら、俺はその人の名を呼んだ。
「妃芽さん」
呼応するように、丘の上の少女の形をした人影が動いた。遠くからでもこちらのことを目ざとく理解したらしい少女は――妃芽さんは、俺を見て綺麗に微笑む。
「あら、蓮くん。ここで会うのは珍しいわね」
まるで歌っているかのように、滑らかで心地のよい声。引き寄せられるように丘を登っていくと、俺は彼女の隣へと腰掛けた。
「妃芽さん、どうされたんですか。いくらこの季節だからといっても、そんな薄着じゃさすがに風邪引きますよ」
夜の九時も回った頃にこの人は、大して着込みもせずに――というか未だに制服姿のままだ――いったい何をしているのだろう。俺は眉をひそめ、着ていた上着を彼女の肩に羽織らせながら言った。
「それに、女性が一人でこんな時間に外に出ていては危険です」
俺の心配など気にも留めず、妃芽さんは笑みを深め、ただ一言
「星空が綺麗だったから」
と答えた。
……それ、答えになってませんよ。
そう言いたかったが、この人に何を言っても無駄だったと諦める。代わりに一つ、溜息を漏らした。
妃芽さんは俺を見ると、そっと目を細めた。まるで母親がはしゃいでいる子供を見守っているかのようなその眼差しが、なんとなく腹立たしくもあり、むず痒くもある。
そうして彼女は、俺の核心を突く一言を何でもないようにさらりと言ってのけた。
「君こそ、こんな時間に何してるの? 真面目な君のことだから、今頃はお家で今日の復習や明日の予習でもしている時間帯でしょうに」
言い返そうとした俺は思わず黙り込んでしまった。全てお見通しですよ、とでも言うように、彼女は妖艶に笑う。
「……色々、あるんですよ。俺にだって」
妃芽さんの顔を直視できなくなった俺は、口を尖らせながら横を向いた。
彼女は吐息交じりの声で笑った……らしかった。
「まぁ……話したくないというのなら聞かないけれど。でもね、蓮くん」
その言葉から嘲笑の色は消えていた。振り向くと、妃芽さんが少しだけ真面目くさった表情で俺を見ている。
「あれを、見て」
妃芽さんは白く細い白魚のような指を真っ直ぐに空へと向けた。
だが指された方にはただ、満天の星空が変わらずにあるだけだった。意味が分からなかったので、思わず睨むような視線を隣に送る。俺は大柄なので結構迫力があったと思うのだが、妃芽さんは怖がるでもなく、困ったように笑った。
「そんなに怖い顔をしないで。とりあえず私の話を聞いて」
そう言って指を下ろすと、疲れたのか軽く腕を振る。それから俺を見ると、一言一言噛み締めるように話し始めた。
「今この空には、満天の星や月が瞬いているわね。電灯もたくさん点いているわ。でも、もしこれらが全てなくなってしまったとしたら……どうなると思う?」
「決まっているでしょう。真っ暗で何も見えなくなります」
俺が当然といった風に答えると、妃芽さんはそうね、と呟き微笑んだ。
「もし、夜空から星や月がなくなってしまったら。夜道から、電灯がなくなってしまったら……前も後ろも何も見えない、真っ暗闇の世界になってしまうわね。こんな世界で歩いていくことは……不可能ね」
さっきから当たり前のことしか言わない妃芽さんに、だんだん腹が立ってきた。彼女の言いたいことが全く分からない。言葉の裏にある彼女の意図が全く理解できない。俺がただ、鈍感なだけなのだろうか。
「何が、言いたいんですか」
思わず苛立ちを込めて尋ねるが、妃芽さんが動じる事はなかった。
何も分かっていないのか、と諦めたように肩を落としたとき。妃芽さんは突然すっと笑みを消し、じっと俺の目を見つめながらきっぱりと言い切った。
「だから、空から星や月は決して消えないし、夜道から電灯は消えない。私たちの道標として、ちゃんと残っている。人生だって同じことが言えると思うの」
人生。
夜空の話から、どうしてそんなに壮大な話に飛躍するというのだろうか。ますます訳が分からなくなってきた。
「どうして、そんなことが言えるんですか」
「言えるわ」
迷わずに即答する妃芽さん。根拠もないというのに、何故かその気迫にだんだんと圧倒されかけている俺がいる。両肩を強く掴まれたかと思うと、射るような瞳で見つめられた。
「人間は苦しみや悲しみと共存しながら生きている。人間はみんなそれぞれ、抱えきれないほどの悩みを抱えて生きているのよ。君もそうでしょう?」
ただ頷くことしか出来ない。それほど彼女の瞳には、有無を言わせぬ力があった。
「苦しみだらけの世界で生きていくためには……光が必要だわ。一筋でも希望の光があれば、頑張ろうって思える。時にはその光が見つけられなくて、絶望の底に突き落とされてしまうようなこともあるでしょう」
そこまで話すと、それまで静かに語っていた妃芽さんはいきなり強い調子で「だけど」と言った。
「光は――道標は、決して無くなったりしない。必ずどこかに、一筋だけでも残っているはずだわ」
妃芽さんが、何か俺に大切なことを伝えてくれようとしている。
シンとした空気の中、妃芽さんの微かな吐息と、俺が唾を飲み込む音だけが、やたらと響いて俺の耳に届いた。
すぅ、と息を吸い、妃芽さんは一気に言った。
「だから、諦めてはいけないの! 希望を探すことを……生きることを、放棄してはいけないのよ!」
「……っ」
その言葉を聞いた俺は、何故か涙が止まらなくなった。拳を握り、ただ唇をかみしめて嗚咽を堪える。
希望を探すこと――……それが、ただ一つの生きる目的。苦しみだらけの人生の中で、人はそれだけを頼りに、幸せを掴んでいこうと歩いていくことができるのだろう。
やっと分かりました、ようやく伝わりました。俺は、希望を絶対に諦めません。
そう言いたかったけど、俺はただボロボロと涙を零しながら妃芽さんを見つめることしか出来なかった。彼女はゆっくりと俺の両肩から手を離すと、天使のように甘く微笑んだ。
「分かって、くれたかしら?」
堪えていた嗚咽が漏れて何も言えない。俺は黙って頷いた。妃芽さんは制服のポケットからハンカチを取り出すと、ただ黙って俺の涙を優しく拭いてくれた。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
ようやく泣き止んだ頃、妃芽さんはゆっくり立ち上がって伸びをした。俺はまだ座ったまま、妃芽さんを見上げながら言った。
「妃芽さん。一つだけ聞いても構いませんか」
「なぁに?」
甘えるように返事をしながらこちらを見た妃芽さんに、俺はずっと聞きたかったことを聞いた。
「妃芽さんにも……苦しみは、ありますか」
妃芽さんはその時、一瞬だけ真顔になった。
しかしすぐに、いつもの感情の読めない妖艶な笑みを浮かべると、
「さぁ、どうかしら。
と、惚けたように言った。
優月――妃芽さんの担任教諭なら、俺よりもずっと彼女のことを理解しているだろう。彼女の事を知りたいなら、アイツに聞くのが手っ取り早い。
でも、アイツのことだ。どうせ聞いたって……。
「どうせ、聞いたって答えちゃくれないでしょう」
「そうかもね。あの人は、意地悪だから」
妃芽さんはフフッと愉快そうに笑った。
先程と変わらない満天の星空だけが、丘の上に座り込む俺たちを黙って見下ろしていた。
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