空色物語
凛
Original Story
1.Blue Sky~青色~
いつもより広く大きく見える、雲一つない真っ青な空。私はぼんやりとその景色を眺めていた。
静かな屋上に今、私以外の人間はいない。
このままここから飛び降りたら――きっと、気持ちがいいのだろう。
「
不意に後ろから名を呼ばれ、振り向いた。声のした方を見ると、屋上の入口付近に人が立っているのが見える。
その見覚えのある姿に向かって、私は微笑みかけた。
「あら、
彼は――蓮くんは少し顔をしかめ、屋上の手摺りに掴まっている私にゆっくりと近づいてきた。
少し強張った声で、私に問う。
「妃芽さん……まさか、ここから飛び降りようなんて考えていましたか?」
先ほど一瞬だけ過ぎった思いを、いとも容易く読み取られてしまった。今の私はそこまで分かり易い人間だったのだろうかと、何となく悔しい気持ちになる。
挑発的な微笑を湛え、私は言った。
「だったら?」
私の答えを聞くや否や、彼は素早く私の身体を手摺りから剥がした。私はされるがまま、彼の方へと引き寄せられる。
耳元で聞こえる胸の鼓動は、通常のそれよりも幾分速い。そんなことを悠長に考えている暇もなく、すぐに背中に腕を回され、私は彼の腕に痛いくらい強く抱き締められた。
「いなく、ならないで」
頭上から嗚咽に混ざって、彼の悲痛な叫びが耳元へと降ってくる。その声も身体も、いっそ滑稽と言うべき程に震えていた。
「俺を……一人にしないで……っ」
どうやら私の先程の言葉は、彼に誤解を与えてしまったらしい。それを解いてあげようと、私はおっとりとした口振りで答えた。
「いなくならないよ」
だって君は、私がいないと駄目だもの。
ね? と言って、彼の背中をあやすように叩いてやる。
彼の大きな背中はしばらくの間小刻みに震えていたが、やがて私の言葉を理解し安堵したのか、私を抱きしめていた大きな腕はゆっくりと緩められた。その隙に私は、するりと彼から離れた。
改めて正面から見つめた彼の顔は涙に濡れてぐちゃぐちゃで、その目も真っ赤に腫れていた。私よりずっと大きな身体のくせに、今はとても小さく見える。そんな彼はまるで寂しくて死んでしまいそうなウサギみたいで、本当に可笑しくて、可愛くて……噴き出しそうになるのを何とか堪えながら私は腕を組み、目の前のアンバランスな姿に向かって言った。
「私はね、別に死にたいから飛び降りようって思ったわけじゃないのよ?」
途端に彼は、訝しげに顔を歪めた。
「ここから飛び降りたら、その先に待っているのは『死』のみ。なのに、それ以外に理由など、どこにあると言うんです?」
「ふ……あはははは!」
あまりに幼稚な発言に、ついに我慢出来なくなった私は思わず噴き出してしまった。
あぁ、まったく。何にも分かっていない。分かっていないよ、この無垢で世間知らずの坊っちゃんは。
坊っちゃんの顔に困惑の色が混ざる。それでも私は、笑いが止まらない。どうしよう、本格的にそろそろ苦しくなってきた。
「……ちょ、妃芽さん? 何が可笑しいんですか?」
私はひぃひぃ言いながらも、どうにか落ち着きを取り戻そうと深呼吸をした。弁解しようとするのだが、咳混じりの何とも情けない声が出てしまう。
「……っ……全く、ゲホッ、本当に……君は何にも分かっていないのね」
「え?」
それでも、私の言ったことが分かったらしい彼は、何だか混乱している様子だった。ようやく落ち着いた私は、口角を引き上げ余裕の笑みを作ってみせる。
「……まぁいいわ。教えてあげる」
――人間は誰だって常に、憧れを抱いているものだ。『自由になりたい』という、永遠の憧れを。
「ここから身を投げ出したら、重くて鬱陶しいモノなんて全部降ろしてしまえるんじゃないかしら、って思ったのよ」
鬱屈から全部解き放たれて、身軽のままこの景色に溶け込むことが出来るんじゃないかしら、って。
清々しく美しく、自由な青空なら――……こんなに穢れた私でも、きっと受け容れてくれる。
そう思ったから。
「そんなの――……」
「物理的に有り得ない、って?そんな文句受け付けないわよ。私は理系じゃないから、そんなこと言われたってちんぷんかんぷんだもの」
有り得ようと有り得まいと、ただ私は私の思うことを――意見を、ありのままに言っただけ。
それに関して君には、今更一体何の文句があるって言うの?
そう言ってやると、気まずそうに視線を泳がせた。どうやら私の言ったことは図星だったらしい。
「妃芽さんは……ロマンチスト、なんですね」
とうとうそんなことまで言い出してきた。まったく、これだから……。
「ロマンチストなんて、そんな陳腐なものと一緒にしないでもらえるかしら。そう考えること自体が、君の頭の固さを示す立派な証拠だわ。これだから君は、目が離せなくて困るのよ」
私は馬鹿にするように、フンッと鼻で笑ってみせた。
「そんなんじゃ、いつまで経ってもここから巣立てないわよ。もし私がいなくなったら、それこそ君はどうやって世を渡っていくつもりなの?」
すると彼はにっこりと笑って
「大丈夫です。ついさっき、貴女は俺の前から居なくならないと言ったばかりじゃないですか。有り得ないことです。万が一有り得たとしても、俺が許さない」
と言い切った。その顔は先ほど私を抱きしめた時の弱々しいものと打って変わって、呆れるほど自信に満ち溢れたものだった。
……どうやら、まだまだ離してはもらえないらしい。
私はまるで諦めたように、わざとらしく深い溜め息をついた。けれども、その口元はきっと緩んでいたことだろう。
案外私は今、自由より彼の側にいることを望んでいるのかもしれない。
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