差し入れる女

@gourikihayatomo

第1話

家に帰ったら、口から血を流して妻が死んでいた。

倒れている妻の傍に駆け寄って身体を揺すり、何度も呼びかけ、呼吸と心臓の鼓動が完全に停止しているという明白な事実を確認するまでの長い時間の経過と支離滅裂な心の動きとが確かにあったはずだが、感覚的には一瞬のことだった。

さらには、これが殺人であり、犯人が誰なのか悟るのにも大して時間を必要としなかった。とうとうやられてしまった、あの女に。

きっといつかはこうなるだろうと薄々感じていたのだ。

しかし、あいつは殺す相手を間違えるという最悪のミスを犯してしまった。


あの女がうちに出入りし始めたのは、僕たちがここに引っ越して来てすぐのことだった。

新しい土地にやってきて来て知り合いもなく、不案内な妻にうまく取り入ったのだろう、親友のように付き合い始めたのだ。年は女房と同じくらいでちょっと冷たい感じもあったがすごい美人、僕もそばに寄られるとちょっとドキドキするような、そんな存在だった。

だから最初は僕も、知り合いが出来てよかったと感謝していたのだが、付合いが深まるに連れて違和感、不満の方が大きくなってきた。

最大の問題はとにかく女房を独占したがることだった。明らかに夫の僕に対して張り合っており、夕食時でさえ平気でやってきて玄関先で喋りつづける。女房に文句を言っても、

「悪気じゃないのよね。旦那さんが毎日遅くて、子供もいないから暇なのよ」

「いくらそうだとしても、こうしょっちゅうでは」

「そんな風に言わないで。一番の仲良しで、随分助けてもらってもいるんだから」

妻にとって買い物にしろ、平日のお昼にしろ、ちょっと出かける時にちょうどいい相手らしく、僕の言うことを聞いて遠ざかるつもりは無いようだった。

もう一つ困るのは、彼女が毎日のようにお菓子や料理を持ってきてくれることである。時々なら、食事にアクセントがついていいのだが、毎日となると煩わしい。

妻に言わすとこれも暇だからだそうで、善意でやってくれているのに、

「いらないなんて言えないわ」というわけだ。

毎日、彼女からの差し入れを娘が嬉しそうに食べるのを眺めながら、僕は時々、彼女に自分の家族の生命を握られているのでは、という漠然とした恐怖に襲われた。それは、彼女が以前、薬剤師をしていたと知ってからの妄想かもしれなかったが。

家族の好みも全部心得ていて、我が家の誰を喜ばせるには何を差し入れればいいか、もお手の物。逆に腹痛にしようと思えば、ターゲットの大好物を作って持ってくれば一発だった。

そんな話も妻にはしたが、てんで取合わない。万が一そんなことをしても、彼女がうちの家に差し入れをしているのは近所の人みんなが知っていることなので、すぐ疑われてしまうわよ、だ。確かに妻の言うことにも一理あるので話はいつもそこで終わってしまう。

いずれにしても、あの女をほったらかしにしている亭主が悪い。もう少し女房の面倒を見るべきなのだ。僕は自慢じゃあないが家族サービスは欠かさず、休日となると疲れていても何処かに連れて行ったり、宿題を見たり世間並以上のことをやっている。あの亭主がもっと女房にかまっていれば、あの女も我家にベッタリとはならないだろうに。


その時、電話が鳴り響いた。

僕にはこれが誰からか、何となく分かっている気がして、それを確認するのが恐ろしくほっておいた。しかし、電話はいつまでも鳴りつづけ、仕方なく受話器を取りあげた。

「あなたね」

 彼女だった。

 そう言ったきり、向こうは僕の言葉を待つかのように黙っている。何故、僕が電話を取ると分っていたのだ?あいつが狙ったのは僕のはずなのに。

「とうとうやったな。しかし僕は生きているぞ。女房が死んだ。どうした、びっくりして声が出ないのか」

「いいえ、計画通りよ。私は彼女を狙ったの」彼女の声が明るく響いた。

「えっ?」

女の言う意味が分からなかった。当然、邪魔者の僕を狙ったはずなのに。

「私はあなたの家族全員の好みを知っているわ。何を差知れたら彼女が家族を待たずに一人でつまみ食いしてしまうか、も」

「やっぱりな。だから僕は女房に言っていたんだ。おまえを信用するなって。でも、何故彼女を殺したんだ。お前の邪魔者は僕じゃないか。僕さえいなくなれば、望み通り女房を独占できるのに」

 殺人犯なんかと長々喋っているときではない。電話を直ぐ切って、警察に通報すべきだ。頭はさっきからずっとそう警報を発していたが、何故か受話器を持つ手はそのままだった。

彼女は電話の向こうでも聞えるくらいのため息をついてみせた。それでつい、彼女の美しい髪が流れる姿を想像してしまった。

「もちろん、あなたは邪魔だったわよ。あなたがいなければもっとあの人と一緒にお茶を飲んだり、遊びに行ったりできるのにといつも思っていた。でも、最近になってやっとわかったの。私が彼女を独占できたとしても、それだけでは幸せにはなれないことが」

「どういうことだ」

「結局のところ、私は彼女に嫉妬していたの。優しい夫と、そう、あなたは模範的な夫だわ。可愛い子供、どちらも私にはないもの。彼女が憎くて堪らなくなったの。

 多分、私は彼女と一緒にいることで自分の空虚さを満たす何かを求めると共に、幸せな家庭を邪魔しているんだと自分に言って慰めていたのね。

 そして、あなたの家庭を一層確実に支配するために、食べ物を差入れていたの。彼女が時々、子供の不調を心配したり、自分の不眠を訴えるのを同情するふりをして聞きながら満足感を味わっていたの。事実上、食事を通じてあなたの家庭は私の手の中にあったわ」

「やはりそうか。でもなぜそれを素直に認めるのだ。お前は殺人犯として裁かれるのだぞ」

「誰なの?私があなたの奥さんを殺したと疑うのは。私と奥さんは親友よ」

「近所の人間なら誰でもお前が我家に差入れをしていたことは知っている。それに第一、僕が警察に言うからな」

「問題はそこね。もちろん、あなたはそうしようとするでしょう。でも、それってどんな意味があるの?それで奥さんは生き返る?」

「そんな問題じゃないだろ。勿論、僕はお前を警察に訴える」

「それで由美子ちゃんはお父さんとお母さんを同時に無くす。となると由美子ちゃんは天涯孤独な身の上ね。辛い事がこれから沢山あるでしょうね」

「何を言っているんだ。まさか、お前……」

「そうよ。昨夜も差入れをしたの、あなたの大好物の八宝菜をね。間違いなく食べたはず」

確かに昨夜は八宝菜だった。でも、まさか。女房が作ったものとばかり思っていたのに。

「何か入れたな。毒か」

「まあ、ちょっとしたスパイスとだけ言っておきましょう。そしてもう一度、私の料理を食べない限り、あなたも彼女と同じ運命をたどるのよ。そして由紀子ちゃんは」

「うるさい。それ以上言うな」

考えろ。奴の言うことにどれだけの真実が含まれているんだ。全くのハッタリということも充分考えられる。でも、それなら何故電話をよこしたんだ。こんなこと、普通の女にやれるのか?しかし、少なくとも女房は殺された。

「このままでは僕が何も言わなくても、お前が一番の容疑者なんだぞ。どうするつもりだ」

余計なことを聞くな、と理性が告げる。

「私が何も考えずに最終段階に入ったと思うの。ちゃんと準備は出来ているわ。要は犯人が別にいればいいのよね。そしてここに、うってつけの邪魔者がいるの」

まさか。

「旦那か?」

「そう、正確には旦那だった男」

まさか。

「今は私の目の前に倒れているわ。奥さんと同じ物を食べたんですもの」

なんて奴だ。

「その男は遺書を書いているの。あなたの奥さんへのどうしようもない思慕の情とそのせいで自分の妻とうまくいっていなかったということ、それで妻の差し入れの料理の中に毒を入れ、自分と奥さんの無理心中を図ったと告白しているのよ」

僕は余りの冷酷さに言葉も出なかった。彼女の旦那が本当に哀れだ。家庭を顧みないひどい男と思っていたが、まさか妻から殺され、殺人犯に仕立てられるなんて。

「その事も含めて警察に喋れば、僕の命はないと言う訳か」

「ここまで知ってしまえば実質的にあなたも共犯ね。警察の尋問には、夫がいやらしそうな目で自分の妻を見ていた、くらいは証言してね」

「何が望みなんだ」

僕は吐き捨てるように言った。しかし、女は僕の言葉が聞えなかったかのように陽気で、鼻歌を歌っているようだった。

「彼女のような幸せな生活を送れれば、とずっと思っていたの。優しい夫と可愛い娘に恵まれた穏やかな毎日を夢見ていたわ。週末には揃って公園にお弁当を持って出かけたり、夏休みや冬休みは旅行に出かける」

「何を考えているんだ、まさか……」

「夫に裏切られた女と妻を突然の無残な殺人で失い小さな子供を抱える男、慰め合ううちにいつしか」

「正気なのか」

「決して急ぐ必要はないわ。でもそれが子供にとっても一番いいこと。母親を失った傷は、母親を取り戻すのが早いほど和らぐわ」

「死んでもそんなことはできない!」

「もちろん、ほかにも選択肢はあるわ。子供を道連れに無理心中するというものもね。しかし由美子ちゃんを自分の手に掛けられる? もしくはあの子一人を残して死んでいける? そう考えると、選択肢も案外少ないのよね。

さあ、電話を切って。私はこれからあなたの家まで走るわ。泣きながら。夫が自殺したのを発見したばかりなの。まさかと思いながら親友の家に走るの」

電話は突然切れた。

彼女がやってくる。

妻を殺した女がやってくる。

警察にすぐ知らせるべきだ……しかし……。

何よりも大切なのは娘を守ること。

どうしよう……。

 確かに僕にはあまり選択肢はなさそうだ。


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