第517話維摩VS善徳長者

持世菩薩にも維摩への見舞いを辞退された釈迦は、次に善徳長者に指示を出した。

善徳長者は在家の長者で、大金持ちの子息だった。

しかし、善徳長者も、維摩への見舞いを辞退すると言う。


「昔のことになりますが」

「父の家で、沙門、婆羅門、外道、貧民、乞食など、あらゆる人に対して、七日間の大きな供養の会を開いたのです」

「そうしたら、維摩さんがやって来て言うんです」


『あんたね、こんなことをしても、全く意味はないよ』

『財だけ、ばらまいたところで、役には立たない』


「私は驚きました」

「貧民に財を施すことは、金持ちとして当然の責務と思ていましたから」

「それだから、私は維摩さんに聞いたんです」

「どうしたらいいのですかと」


すると維摩さんは答えました。

『財を与えることは、一時には出来ないのさ』

『早く貰いに来た人は前になって、遅れて来た人は後になる』

『それに対して、法施というものがあって』

『それは、一時に一切の人々に対して、施すことが出来る』

『財なんてものは、いつかは尽きるし、心まで救えるほどの力はない』

『心のあり方を教える法施は、尽きることもなく、心を救う』

『慈悲喜捨、布施、自戒、任辱、精進、禅定、知恵』

『そういう心のあり方を教えるのが、法施ということ』



かの古代ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウスの言葉に、

「貧乏であることは罪ではない、貧乏から脱却しようとしない気持が罪なのである」というものがある。

貧民に対して、お金をただばらまいたとしても、一時の救済にしかならない。

それよりも、その貧しい状況から脱却する方法、心にあり方を示唆しなければ、国家の財産とて、いつかは尽きる。


「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」

これはイエスの言葉。

つまり、人の心はパン(金)では買えない。

神の口から出る一つ一つの言葉(善処しようとする心の持ち方)によって、生きる。

そんな意味にも通じるような、維摩の教えと捉えている。





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