第507話維摩VS迦旃延

弁舌に優れた富楼那に、維摩への見舞いを辞退された釈迦は、無常・苦・空・無我・寂滅こそが、仏教の根本真理と説く大秀才の迦旃延に、維摩の見舞いを指示した。

しかし、その大秀才迦旃延も、維摩への見舞いを辞退すると言う、


迦旃延

「私も、維摩さんに叱られたのです」

「昔に受けた師匠の講義を参考にいたしまして、それぞれの言葉の解説をしていたんですが・・・」

「なるべく、初心者でもわかりやすいようにと思いましてね」

「無常とは何か、とか」

「苦とは何か、とか」

「もちろん、同じように、「空」「無我」「寂滅」についても解説しました」


「そうしたら、あの維摩さんが来ましてね、こっぴどく叱られたんです」


「あんたの解説は、なっていない」

「底の浅い、生滅にとらわれすぎている」

「無常というのはね、単に生滅してゆく姿だけではない」

「生まれもしないし滅びもしないということ」


「寂滅と言うけれど、ただ全てのものが滅び行くのが寂滅ではない」

「不滅の滅、本来燃えることもなく、消えることもない。それが寂滅なのさ」

「おい!わかる?」



普通に維摩の言葉を聞くと、さっぱりわからない。

その中で、生滅について考えてみると、思い当たることがある。


例えば「時」の概念。

人間一人ずつの「時」は有限であって、生まれて、生活して、やがては誰も死ぬ。

その中で、いろんな体験がある。

しかし、「時」そのものは、有限ではない。

「有限」ではないからと言って、その反対語としての「無限」と言う表現も妥当だろうか。

「時」は無常に流れていくだけであって、そもそも有限も無限の対立そのものが、無い。

人間が生まれようが死のうが、地球が誕生しようが破滅しようが、「時」には、何ら関係ない。

全宇宙の発生も消滅も、何ら関係が無い。



その無常の時の流れの中で、さて、何を考え、何をするのか。

それを教えず、単なる用語解説をしているだけでは、用語にとらわれて本質を見失いかねない。

維摩の指摘は、実に鋭いものがある。




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