第506話維摩VS富楼那

「空理論」の須菩提に、維摩への見舞いを辞退された釈迦は、これも弁が立つ富楼那に維摩の見舞いを指示する。


しかし、富楼那も同じく、辞退を申し出る。


「結論から申し上げると、ご勘弁願います」

「いや、とてもとても・・・無理です」


富楼那は、その理由を話し始めた。


「昔のことですけれど」

「私は、大きな樹の下で、新しく仏の教えを学ぼうとする人たちに、仏の教えの基本的なことを話していたのです」

「そうしたら、あの維摩さんがやって来ましてね」


「全くなってない」

「説法をするのに、お前さん自身が、何もわかっていない」

「いいかい?お前さんの話は、立派な食器にゴミのような食べ物を盛り付けるようなものだよ」

「ガラスと水晶を一緒にするようなもの」

「牛の足跡に海の水を全部入れようとするような、でたらめ」

「日光を蛍火のように見ろと言うようなもの」

「まだ何も知らない初心者を、歩きやすい大通りを外れて横道の歩きづらい変な方向に連れて行くようなものだ」

「せっかく御仏の教えを学ぼうとしている人が、それだと、また迷ってしまう」

「何でもかんでも、人は同じではないよ、それを見極めずして、何の初心者説法なんだい?」


富楼那は弁舌に優れていたが故に、それに酔い、誰に対しても同じ話をしてしまった。

しかし、聴く人にとっては、同じ話をされても、年齢も経験も能力に差があるのだから、同じに受け取ることなどはできない。

それぞれの特徴に会わせた話をする、それがわかっていないと、全く的外れなものにしかならないという意味なのだろうか。


例えば、同じ病院といっても、様々な科がある。

内科、外科、産婦人科・・・人により病状は様々であって、同じ薬が誰にでも有効であるなどあり得ない。


よく「このお経はありがたいお経だから、ただ何も考えずに唱えなさい」と強弁するだけの僧侶が今でも限りなく多いけれど、維摩の教えなどは、全く理解していないのではと思う。

人に理解できないお経をただ押しつけるだけ(漢字を読んでいるだけ)で、説明も何もなく、求めるのは破格のお布施のみ。


かくして、困るのはお布施を脅しのように強奪された人々になる。




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