第505話維摩VS須菩提

釈迦教団の中でも最も修行を積み、指導者でもあった大迦葉にも、維摩への見舞いを辞退されてしまった釈迦は、般若心経で説かれる「空」の理論を最も良く理解する須菩提に、見舞いに行くように指示をする。


しかし、須菩提も辞退すると言う。


「ああ・・・あの維摩さんですか・・・」

「彼だけは、ご勘弁願いたいのです」


と言いながら、その理由を述べ始める。


「昔のことですが、私は維摩さんの屋敷に托鉢に出向いたことがあるんです」

「そうしたら、気前のいい維摩さんは、私の鉄鉢に特盛りの飯をくれたのです」

「まあ、ありがたいのはそこまででしてね」


「維摩さんが、言うんです」

「乞食をするのは、誰に対しても平等にせよと」

「これは、大迦葉さんにも言ったと同じことです」

「ただ、維摩さんは、まだ話があったんです」


「食べ物を食べることも、空」

「諸法も空、それを、わかっているのかい」


「つまりね、あんたは煩悩がどうのこうの、迷いがどうのこうのと言って、空ではないと否定しているかもしれないけどね」

「諸法が空であるなら、煩悩も迷いも空なのではないかね?」

「そこに、不要な差別をしているのではないかね?」


「性欲、怒り、愚痴を絶つことができていなくても、迷いを滅ぼすことができなくても、そのままの状態で解脱することは可能なのさ」

「食欲とか性欲とか、当たり前のことを無理矢理に修行と称して、心の奥に押し込んで、清廉潔白なんて、本当の悟りではないよ」

「清廉潔白で、罪を犯した人間の苦しみを知らないで、どうして苦しむ人に偉そうに空などを説けるのかい?」


須菩提はため息交じりに、釈迦に頭を下げた。

「私はこれを聞いた時、もう呆然としてしまいまして、答えようもなくて・・・」

「そのまま、逃げ帰って来てしまいました」



経文としては「痴愛を滅せずして、明脱をおこす」に集約されると思う。

すなわち、人間本来が持つ、食欲や愛欲の中にあっても、清浄な心を持つことができるということ。

人間は無菌室で生きることなどはありえない。

そもそも、この世界において、完全に清廉な無菌室もない。

食欲、性欲、その他諸々の生理現象を誰が断じることができるのか。

それを考えずに、清廉潔白な「空理論」を説いたところで、まさに「空論」でしかない。

一時の気休めに過ぎないのではないか。


それより問題なのは、清廉潔白でなければならないという考え方。

御仏の前に、本来差別など無いのに、何をもって「これは清廉、あれは不浄」と決めつけるのか、それこそ人間が勝手に決めたに過ぎない差別ではないのか。


そもそも、差別から傲慢が生じ、傲慢を受けた人の悲哀が始まると思うのだけど、それがなくならないのが、人間社会の永遠の悲哀でもある。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る