第508話維摩VS阿那律

迦旃延尊者に維摩への見舞いを辞退された釈迦は、阿那律に見舞いに行くように指示をする。

尚、阿那律は、釈迦からの講義を受けている途中に居眠りしたことを、心から反省して「不眠の行」実施。

結果として失明してしまったけれど、それと引き換えに、世の中の全てのことが見通せる「心眼」を得た超能力者となっている。


しかし、阿那律も、維摩への見舞いを辞退すると言う。

その理由としては、


「かつて、私がなんとなく散歩していた時のことなんです」

「たくさんの梵天が光明を放って、私のところに来て、質問をしたのです」


「あなたのその心眼とやらは、どこまで見えるのですか」


「という質問だったのですが、私は自信を持って、すぐに答えました」

「この世界の全てを、この手のひらに乗せた果物のように、しっかりと見ることができます」


「そう答えた時なんです」

「あの維摩さんがやって来たんです」


「そして、維摩さんが、私に聞いて来るんです」


「あんたね、あんたが見えるってのは、形のあるものなの?それとも形がないもの?・・・とね」


「私はつい、黙ってしまったんですがね」


「維摩さんが言うのには、形があるものが見えるなんて言うなら、それは心眼ではないよ」

「仏の教えとは関係が無い、魔術師が人を騙す、まやかしの技術に過ぎない」

「形がないものが見える、そう言うならね、そもそも、そんなものは見えないのだから、それもまやかしの理屈だよ」



「結局、私は黙ってしまって、反論どころではないんです」

「すると、梵天たちが、維摩さんに聞くんです」

「それでは世の中で心眼」を持っている人などいないということなのですか?」


「維摩さんが答えるのには」

「世の中でたった一人、あの釈迦さんが、それを持っている」

「釈迦さんは、いつもありとあらゆるものを見ておられていてね、その見方は、形有るとか、形無いとか、そんな風に二つにわけて見ていないのでね」


「梵天さんたちは、維摩さんの答えに、すっかり満足」

「私は、実に赤っ恥でした」



超能力者であるから、奇跡を起こしたから、尊敬される、尊敬されなければならない、という理屈はありえない。

実際、その奇跡を目の前で見られない人は信じないし、信じるべき義務も無い。

ただ単に「あの人はすごい力を持っているから、お前も信じなければならない」と言われて、素直に信じる人がいるだろうか。

仮に目の前で奇跡を見たとしても、自分に有利なら喜び、不利なら落胆し奇跡を憎むこともある。


目に見える結果、見えない遠くからの結果に至る因縁、そこまで考えなければ、全てを見通したとは言えない、維摩のたとえは難しいけれど、その意味と捉えた。


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