第369話歎異抄 辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。
(原文)
辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。
この条、なにの証文にみえ候ふぞや。
学生だつるひとのなかに、い ひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。経論・正教 をば、いかやうにみなされて候ふらん。
信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪 をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候 へ。
信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふ を、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつ けまゐらせられ候ふなれ。
(意訳)
浄土の中心を離れて返地に生まれ変わってしまう人は、最終的には地獄に堕ちると主張する人がいるとのことです。
しかしながら、この主張を証する文言は、どこの経典に存在するのでしょうか。
その学識を自慢している人たちが主張し始めたようですが、呆れるほどの主張です。
経典や各注釈書、先人たちの著作をどのように理解されたのでしょうか。
そもそも、信心に不安を持つ念仏の行者は、それが故に、浄土の中でも辺地に生まれ変わるのですが、そこでは疑いの罪を償った後に、浄土の中心に出向き悟りを開くということが、真実と承っております。
こういう誤った主張をする人がいるのは、阿弥陀如来の本願をしっかりと理解して信心を手にする人が少ないので、阿弥陀如来としては、たとえ本願への疑念を感じていたとしても、その名を唱える人を浄土に辺地であっても、そこにまず迎え取ろうと言うのが、教えの本意なのです。
その教えを理解せず、利口ぶって勝手な解釈を施し、ついには地獄堕ちなどと主張するのでは、阿弥陀如来を嘘つきと言うようなことになるではありませんか。
阿弥陀如来の名を唱える人は、「たとえ疑っていても」、阿弥陀如来により浄土にむかえられる。
ただ、浄土におけるその場所は、浄土の辺地になる。
だからと言って、心配することはなく、必ずいずれは浄土の中心に迎えられる。
そもそも、その後の地獄堕ちとは経典のどこにも書かれていない。
他人の信心を批判し、やがては地獄堕ちなどと不安を煽るような「自称偉い人」がいたのだと思う。
「その主張そのものが、阿弥陀如来の本願を正しく理解していない」
歎異抄は、まさに異説を嘆いている。
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